春はやがて冬を去っていく

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春はやがて冬を去っていく

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「お母さん、決めたよ……明国に行って、お母さんのところに行く。そして結婚するの」 唐澤静香(とうさわ しずか)は深く息を吸い、嬉しい声...

Chương (1)

第1章

「お母さん、決めたよ……明国に行って、お母さんのところに行く。そして結婚するの」 唐澤静香(とうさわ しずか)は深く息を吸い、嬉しい声で言った。 「春子ちゃん、やっとわかったのね!お母さんが紹介したあの人、本当にいい人よ。きっと幸せになれるわ!」 「……うん」 電話を切ると、唐澤春子(とうさわ はるこ)は無気力に床に腰を下ろした。 机の上に置かれた彼氏・柳原冬樹(やなぎはら ふゆき)のスマホは、まだ画面がついていて、メモアプリが開かれていた。 最新のメモは今日書かれたもので、写真にはハート型のピンクダイヤモンドの指輪が写っている。 それは春子の右手の薬指にある指輪と、まったく同じだった。 写真の下には小さな文字でこう書かれていた―― 【この指輪をつける人が明菜だったら、どれほどいいだろう】と。 明菜は、冬樹の元カノだった。 第1話 「お母さん、決めたよ……明国に行って、お母さんのところに行く。そして結婚するの」 唐澤静香(とうさわ しずか)は深く息を吸い、嬉しい声で言った。 「春子ちゃん、やっとわかったのね!お母さんが紹介したあの人、本当にいい人よ。きっと幸せになれるわ!」 「……うん」 電話を切ると、唐澤春子(とうさわ はるこ)は無気力に床に腰を下ろした。 机の上に置かれた彼氏・柳原冬樹(やなぎはら ふゆき)のスマホは、まだ画面がついていて、メモアプリが開かれていた。 最新のメモは今日書かれたもので、写真にはハート型のピンクダイヤモンドの指輪が写っている。 それは春子の右手の薬指にある指輪と、まったく同じだった。 写真の下には小さな文字でこう書かれていた―― 【この指輪をつける人が明菜だったら、どれほどいいだろう】と。 鈴木明菜(すずき あきな)は、冬樹の元カノだった。 涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。春子の頭の中に、冬樹がプロポーズしてきた日の光景がよみがえった。 花束もなければ、片膝をつくこともなく、場所は彼女が最も苦手なフレンチレストランだった。 それでも、ピンクダイヤモンドの指輪を見た瞬間、彼女の目には涙が浮かび、すすり泣きながら「うん」と答えていた。 五年間付き合っているから、春子は冬樹がもともと細かいことに無頓着な人だと思い込んでいた。 だからあまり気にしないようにしていた。 しかし、今偶然見てしまったメモですべてを悟った。 そこには明菜の好みがぎっしりと書かれていた。 【明菜は洋食が好き…… 明菜は木製の家具が好き…… 明菜はピンクダイヤモンドが好き……】 春子は薬指にはまったピンクの指輪をじっと見つめた。 冬樹は細かいところに気を配らないわけではなかった。 気にしていなかったのは、彼女だったのだ。 息が詰まりそうになった。 聞き慣れた足音が近づいてくるのを聞くと、とっさに立ち上がろうとして、机の角に頭をぶつけてしまった。 しゃがみこんだ彼女を見て、冬樹は眉をひそめた。 彼女はよく、意味のわからないやり方で自分の注意を引こうとするなと、思ったのだ。 二歩近づいてやっと気づいた。春子の体が震えていて、額を押さえた手の隙間からうっすら赤い血が見えた。 冬樹の表情がさらに険しくなった。 「今度は何だよ?」 「急に立ち上がったら……角にぶつけちゃって……」 春子は咄嗟に真実の一部を隠した。 「頭がわるいのか?いい歳して、まだそんなミスするのかよ」 非難の口調に、堪えていた涙がまたぼろぼろと溢れた。 春子の額のこぶを見て、冬樹はため息をついた。 「ちょっと我慢しろ。ソファまで連れて行って、ちゃんと見てやるから」 冬樹が手を伸ばして支えようとしたが、春子はその手を振り払った。 「触らないで!」 その言葉が出た瞬間、二人ともそこで凍りついた。 付き合って五年、春子が冬樹にこんな態度を取るのは初めてだった。 冬樹の顔にははっきりと驚きが浮かんでいた。 彼の目に「真剣」と「探求するような視線」が同時に現れたのを、春子は初めて見た。 それが明菜の「おかげ」だと思うと、なんとも皮肉だった。 春子は絶望的な気持ちで目を閉じた。 今になってようやく気づいた。 明菜が何の努力もせずに手に入れたものを、自分は五年かけても得られなかったのだと。 冬樹は不審そうに机の上のスマホを見た。 「お前は……」 春子は自分の反応があまりに不自然だったことに気づき、慌てて口を開いた。 「この机の角、本当に鋭すぎるのよ……」 冬樹の目の疑いの色が消え、再び苛立ち混じりの声になった。 「だからもっと気をつけろって言ってるんだ」 春子はこれまで何度も、この机が重すぎて角が危ないと文句を言った。 そのたびに冬樹は「お前の不注意だ」と返してきた。 ふと、メモ帳で見た内容が脳裏をよぎった。 【明菜は木製の家具が好き。クラシックなインテリアが好き】。 もし今日、頭をぶつけたのが明菜だったら―― 彼はすぐにでもこの机を買い替えていたに違いない。 第2話 春子が何も言わずにいると、冬樹は彼女をソファに座らせ、軽く額の腫れを確認した。 「ただの擦り傷だ。大げさにするなよ」 そう言いながら、冬樹は綿棒とアイスパックを持ってきた。 冷たい指先が触れた瞬間、春子の体がピクッと反応した。 綿棒が傷に強く押し当てられ、鋭い痛みが走った。 「もういい歳なんだから、いつまで俺の手を煩わせるつもりだ?」 春子は目を伏せ、あふれ出しそうな涙を、なんとか堪えようとしていた。 目が冬樹の部屋着やスリッパにふと触れた。 どちらも自分が買ってあげたものだった。 春子は聞きたかった。 愛していないなら、なぜ自分の好意を当然のように受け取るのか。 なぜ、自分の五年間の青春を簡単に奪ったのかと。 でも、その言葉が喉まで出かかったとき、冬樹のスマホが鳴り響いた。 冬樹はためらうことなくスマホを取り、寝室へと向かった。 アイスパックは、無造作に春子の手に投げられた。 画面を見ると、着信相手は明菜だった。 春子は思わず拳を握りしめ、アイスパックの冷たさに小さく震えた。 冬樹の低く抑えた声が途切れ途切れに聞こえてくる。 「……すごく痛かっただろう……安心して、怖がるな……すぐ行く」 どうやら明菜も怪我をしたらしい。 だが冬樹は、苛立ちも責めもせず、優しい声で彼女を慰めていた。 まるで心配できることを喜んでいるかのように。 愛する人と愛されない人の差は、こんなにも残酷だった。 ぼんやりしているうちに、冬樹は上着を掴み、玄関へ駆け出した。 「……冬樹」 思わず彼を呼び止めた。 だが冬樹は眉間にしわを寄せたまま、一度も振り返らなかった。 「いい加減にしてくれ。急いでるんだ」 その冷たい声に、春子は言いたいことを飲み込んだ。 ドアを閉める直前、冬樹の視線がソファで縮こまる春子を捉えた。 その一瞬だけ、彼の心がほんの少し揺れた。 「家で休んでろ。今度、ディズニーに連れてってやるよ」 春子は返事をしなかった。 確かに、先月はディズニーに行きたがっていた。 でも、もうそこに欲しかったぬいぐるみは残っていなかった。 彼女の沈黙に、冬樹は少し不思議そうな顔をした。 だが明菜のことが頭にいっぱいの彼は、強くドアを閉めて階段を駆け下りていった。 春子は玄関のドアをぼんやり見つめていた。 やがてゆっくり立ち上がり、自分の指にはめたピンクの指輪をじっと見つめた。 そして静かに外し、箱に戻し、引き出しにしまった。 目に入ったのは、机に置かれた結婚式の計画書。 ここ半月、毎晩夜更かしして作り続けたもの。 書いては直し、直してはまた書き直したもの。 その計画書をざっと折りたたみ、指輪と一緒に引き出しに突っ込んだ。 部屋を見渡す。飾りつけ、食器、日用品――すべて自分が心を込めて整えたものだった。 でも、それでいい。全部自分の跡形もなく消してしまえばいい。 本当に愛される明菜のために、場所を空けてあげるんだ。 春子はその夜、一睡もしなかった。 翌朝、ようやく冬樹が帰ってきた。 ちょうど彼女はギョーザを茹でていた。 足音が近づくと、背後から誰かの腕がそっと自分を抱きしめてきた。 春子の体はこわばり、勢いよくその腕から抜け出した。 冬樹の手が空中でぎこちなく止まった。 「急患が多くて、病院で寝たんだ」 春子は小さくうなずき、それ以上は何も言わなかった。 「お湯が沸いたから、ギョーザ取り出すね」 彼女は慣れた手つきで透き通るようなギョーザをすくい、美味しいチキンスープを注いだ。 ただし、自分の分は三、四個だけだった。 朝日が差し込み、春子の横顔を柔らかく照らした。 額の目立つ痣が、冬樹の胸にわずかな罪悪感を生んだ。 「今日、写真スタジオに行って、服を選ぼう。お前が言ってたあの店で。来月、籍入れるときに使えるから」 春子はそっと頷いた。 確かに来月、入籍する予定だった。 そのために何度も服やメイクを選び直してきた。 たとえこれから籍を入れなくても―― 美しく輝く自分の姿は、ちゃんと残しておきたかった。 第3話 朝食を挟んで向かい合っていても、二人は一言も口を開かなかった。 食事が終わる頃、冬樹がふと春子の手元に目をやり、何気なく尋ねた。 「なんであの指輪、外したんだ?」 春子は視線を逸らし、適当にごまかした。 「ワンタンを包むとき邪魔だったから、外しただけよ」 だが冬樹はすでにスマホに気を取られていて、ただ軽く頷くだけだった。 「好きにすれば」 明菜からのメッセージに応じるとき、彼の顔には満面の笑顔が浮かんでいた。 スタジオに着いてから一時間も経たないうちに、二人のヘアメイクが整った。 春子は事前に選んでおいた白いシフォン素材のドレスに袖を通した。 散りばめられたクリスタルが光を反射し、幻想的に輝いていた。 繊細に仕上げられたメイクと相まって、鏡の中の自分に思わず見惚れてしまった。 冬樹もそんな彼女を見て思わず見惚れ、満面の笑みを浮かべた。 「春子、本当に綺麗だな」 春子は口元をわずかに上げた。 綺麗でもそうでなくても、もう彼には関係のないことだから。 カメラマンが声をかけてきた。 「お客さん、お二人とも目を閉じないように、私がカウントしますね」 二人は頷いた。 「三、二、一……」 その瞬間、冬樹のスマホが突然鳴り響いた。 「カシャ」 シャッター音がスタジオに響く。 春子の視界の隅に、スマホの画面の名前が映った。 また、明菜だった。 次の瞬間、冬樹は立ち上がった。 「ちょっと出る。先に撮ってて」 春子が何か言う前に、彼はスマホを握りしめてスタジオを出て行った。 「唐澤さん……この写真、どうします?」 カメラマンが言いにくそうに声をかけてきた。 春子はモニターに顔を近づけて写真を見た。 そこには、ぎこちなく笑う自分と、スマホを見つめている冬樹の姿が写っていた。 カメラマンは心苦しそうに言った。 「彼氏さんが戻ってから撮り直したほうが……」 春子は唇を引き結び、小さく首を振った。 「いい、このままで」 冬樹はもう戻ってこないのだ。 午後ずっと、彼の電話が繋がらなかった。 夜になり、春子は一人で写真を袋に入れて帰宅した。 その中から一枚、二人で写った写真を引き出しにしまい込んだ。 彼女はベッドに横たわり、久しぶりに開いたSNSを眺め始めた。 ふと、一枚の写真が目に留まった。 そこには冬樹と明菜が寄り添って座っていた。 投稿者は山口美咲(やまぐち みさき)。 仕事で何度か関わったことがあり、彼女もまた冬樹と明菜の大学の同級生だった。 たぶん、美咲は春子と冬樹の関係を知らないのだろう。 冬樹は春子とSNSで一切交流せず、恋人らしい投稿も一切禁止されていたから。 最初は、冬樹が私生活を晒したくないタイプだと思っていた。 でも今ならわかった。 彼が隠したかったのは「彼女」ではなく、「春子」だったのだ。 少し間を置いて、春子は大学の同窓グループから明菜のSNSページを開いた。 トップの投稿は、見慣れた大きな手がワイングラスを掲げている写真だった。 キャプションにはこう書かれていた。 毎分毎秒、そばにいてくれてありがとうと。 さらにスクロールすると、最近の投稿はすべて冬樹が写っていた。 バレンタインデーの日、映画を見にに行けないと言いながら、明菜と一緒にディズニーへ。 先週末、手術で時間がないと言いながら、明菜と映画を観に。 そしてプロポーズの日。 喜びいっぱいの春子を一人でタクシーに乗せて、明菜には夜食を届けていた。 春子は冬樹の姿で埋め尽くされたSNSを閉じた。 明菜が最近別れたことを知らなかったら、冬樹と明菜こそが本物のカップルで、自分はただの囲い者だと思ってしまうところだった。 第4話 春子が寝ようとしていると、冬樹が花束を抱えて帰ってきた。 「春子、何を持って帰ったと思う?」 満足そうな顔で褒め言葉を待っている。 まるで昼間、撮影中に急にいなくなったことなんてなかったかのようだった。 傷つけたあとで優しくしてくる――彼のいつものやり方だ。 春子は無表情で花を受け取った。 その表情を見て、冬樹は少し違和感を覚えた。 昼間、彼女を写真スタジオにひとり残したことを思い出し、少し後ろめたくなったが、大声で言った。 「その花、何軒もの花屋を回ってやっと見つけたんだぞ?それなのに何その態度?」 「うん、ありがとう」 春子は少し考え込むように頷き、包装をほどいて一本一本丁寧に花瓶に生けていった。 どの百合も新鮮で、この時期に手に入れるのは確かに大変だっただろう。 花には罪はないし。 彼女が茎を整える様子を見て、冬樹はほっと息をついた。 スマホの画面がまた光ると、彼は笑顔でメッセージを返し始めた。 春子はふと思い立ち、再び同窓グループから明菜のアイコンを探し、彼女の投稿を開いた。 一番上の投稿は、ついさっきのものだった。 写真には、美しく咲いたチューリップが写っていた。 豪華で繊細なボックスに入っていた。 キャプションには【深夜でも、あなたを想う人は一番綺麗な花を届けてくれる】と書かれていた。 春子の手が止まった。 自分のこの百合は、明菜のチューリップのおこぼれにすぎなかったのだ。 百合の香りが急に鼻につくように感じられた。 残りの花をベランダに放り出し、花瓶は洗面所に捨てた。 …… 翌朝。 冬樹が目を覚ますと、春子はすでに朝食を用意していた。 牛乳とパンという、非常にシンプルなメニューだった。 二人は黙って食事をし、冬樹はふと気づいた。 最近、春子は口数が減ったなと。 「どうした?最近ずいぶん静かだな」 春子は少し間を置いて、何気なく答えた。 「仕事がちょっと忙しいだけ」 嘘ではなかった。 実際、彼女は退職前の引き継ぎで忙しくしていた。 「そうか、無理はするなよ、あんまり……」 途中まで話していたが、冬樹はスマホに気を取られ、そのまま夢中でメッセージに応じ初めた。 数分後、我に返り、さっきの続きを言った。 「……あんまり頑張りすぎないように」 「うん」 春子の声は穏やかだった。 けれど冬樹は、なぜかその静けさに不安を感じた。 自分がさっき気が散っていたことを思い出し、少し後ろめたくなった。 食卓を離れようとする春子を呼び止めた。 「春子、ワンタン作ってくれよ」 まるで当然のような口調だった。 ここ数年、冬樹の朝と夜の食事はいつも春子の手料理だった。 男の愛を手に入れるには、まず美味しい料理で胃を満たすことだ――彼女はそう信じていた。 だから彼の食のリクエストには、いつも応えてきた。 彼はワンタンが好きで、毎朝早起きしてスープを仕込み、丁寧に包んだ。 しかし今回は、ただ一言だけ言った。 「冷蔵庫に前回包んだのがあるよ。自分で煮て」 それでも冬樹は何も言わず、また笑顔でスマホの返信に没頭した。 その様子を見て、春子は思わず尋ねた。 「今晩、家でご飯食べる?」 冬樹は顔を上げ、慣れた調子で答えた。 「接待があるから帰らない」 春子は頷いた。 その態度に、冬樹はなぜか身構えた。 「仕事の付き合いだ。変な勘違いすんなよ」 春子は口元を引きつらせた。 以前なら彼の集まりに参加したがっていたかもしれない。 でも今は、もう彼の言い訳を聞き飽きていて、ただ冷静に言った。 「そう、行ってらっしゃい。私もちょうど夜は結衣(ゆい)とご飯の約束があるから」 冬樹の表情は少し和らぎ、春子の「いい子ぶり」に満足しているようだった。 まるで施しのように、一言だけ忠告した。 「遅くならないようにね」 「うん」 春子はまったく気にしていなかった。 どうせ、彼のその言葉に意味なんてない。 ――たとえ自分が消えても、きっと彼は気づかないだろう。 第5話 春子は岸谷結衣(きしたに ゆい)と三つの通りを歩き回り、何杯かコーヒーを飲んで少し気持ちが楽になった。 ちょうど食事に行こうとしたその時、突然、春子の腹に激しい痛みが走った。 結衣は慌てて春子を最寄りの市立医院に連れて行き、彼女をベンチに座らせると、自分は受付へ走った。 腹を押さえながら座る春子は、痛みで視界もぼやけていた。 「春子?」 白衣姿の冬樹が突然目の前に現れた。 冬樹は整形外科の医師で、内科と同じフロアにいた。 彼は険しい表情で言った。 「今夜は用事があるって言っただろ?何やってるんだ?俺がどれだけ忙しいか分かってるのか? こんなくだらないことに付き合う暇なんてないんだよ!」 矢継ぎ早に飛んでくる非難の声と腹の痛みが重なり、春子は吐き気すら覚えた。 その時、番号札を取って戻ってきた結衣が冬樹を見かけて明るく言った。 「来てくれたのね!春子が急にお腹を痛がって歩けなくなって…… でも私も家のことで急いでて。だから、春子のことはお願い、ちゃんと面倒見てあげて!」 そう言いながら番号札を冬樹の手に押し付け、春子の肩を軽く叩いて慌ただしく去っていった。 内科の番号札を見て、ようやく冬樹は春子が腹を押さえ、顔が真っ青なことに気づいた。 春子は顔を背け、彼を見ようとしなかった。 その冷たい態度に、冬樹は珍しく動揺した。 「……俺の誤解だった。すぐに内科に連れて行く」 そう言いながら、彼女の肩を抱こうと近づいたが、手は振り払われた。 弁解しようとしたその時、後ろから甘ったるい声が聞こえた。 「冬樹くん、また足が痛くなってきたの……」 石膏で固定された足を引きずり、松葉杖をついた明菜が近づいてきた。 大きな瞳には涙がいっぱいに浮かんでいた。 冬樹はぎこちなく振り返った。 明菜に駆け寄ろうとしたが、隣の春子が気になり躊躇する。 鼻で笑いながら春子が口を開いた。 「鈴木さん、泣くほど痛がってるじゃない。早く診てあげれば?」 そう言いながら腹を押さえつつ立ち上がり、場所を移ろうとした。 その冷たい顔を見て、冬樹の胸は突然締めつけられたような感じがした。 もう一度彼女の肩に手を伸ばし、言った。 「内科まで送るよ……」 「いいよ。自分で行けるから」 そのやり取りを見ていた明菜の表情が一瞬強ばった。 わざとらしく猫なで声で言った。 「冬樹くん、彼女ひとりじゃかわいそうだから先に送ってあげて。私は後からでいいわ」 明菜の皮肉が混じった言葉に、春子は薄く笑った。 「大丈夫、自分の足で歩けるから」 それでも冬樹は彼女を連れて行こうとしたが―― その時、背後から大きな音が響いた。 明菜が松葉杖と共に倒れたのだ。 躊躇なく冬樹は春子の手を離し、明菜に駆け寄り抱き起こした。 「どうした?骨折した所がまた痛いのか?明菜、今は歩いちゃダメだって言っただろ」 まるで自分が代わりに骨折できればよかったと思っているかのような勢いで、冬樹は焦っていた。 明菜の真っ赤な目を見て、迷いなく彼女の腰に手を回し、抱きかかえて春子とは逆方向へ歩き出した。 「明菜、大丈夫だ。すぐ診てもらおう……」 その言葉が風に乗り、春子の耳に届いた。 彼女はしばらく二人の背中を見つめていた。 腹か心かどっちが痛いのか、もう分からなくなっていた。 第6話 冬樹が手配した新入りの看護師が春子を内科に連れて行き、点滴に付き添い、薬も受け取ってくれた。 薬を手にした春子は看護師に礼を言い、帰ろうとしたが、看護師に引き止められた。 「春子さん、柳原さんももうすぐ仕事が終わるのですが、もう少し待ちませんか?」 春子は微笑んで答えた。 「用事があるので、先に失礼するね」 看護師は少しためらいながらも、手を引っ込めた。 春子は振り返らず、そのまま病院を後にした。 冬樹は今、「夢見る恋人」の治療で忙しくて、自分のことなど気にかける暇はないのだ。 腹の痛みはすでに和らぎ、春子はリビングに座って無表情でチケットアプリを開いた。 数分後、日曜発カリフォルニア行きの航空券を予約し終えた。 そして、すぐに航空会社のカスタマーセンターから確認の電話がかかってきた。 「はい、そうです。その時間帯の便で合ってます」 そう答えた直後、冬樹が帰宅した。 その瞬間、彼の胸に嫌な予感が走り、息が荒くなった。 「今なんて?どこに行くつもりなんだ?」 彼の声が聞こえた途端、春子の身体がピクッと震えた。 さっきまで集中していたため、玄関の音にすら気づかなかったのだ。 緊張を隠しつつ、できるだけ冷静を装って答えた。 「旅行の下調べ。チケットの値段をちょっと確認しただけ」 冬樹の眉間の皺が少し和らいだ。 「どこでもいいよ。好きなところでいい」 春子は彼の目を避けた。 彼にほんの少しでも彼女の異変に気づく感受性があったら、何かおかしいと感じたはずだった。 彼女はいつも、何か決める時は必ず冬樹と話し合ってきた。 ましてや二人に関わることならなおさらだ。 けれど、彼はいま昼間のことで心を奪われていて、考える余裕はなかった。 「診断結果は普通の胃腸炎だ。注射一本で治るよ……」 少し間を置いて、冬樹は言い訳がましく声を強めた。 「明菜のほうが急を要してたから、検査に付き添っただけだ。そんなに気にするな」 どこか言い訳がましい彼の態度に、春子の中にはもう何の感情も湧かなかった。 目を閉じ、落ち着いた声で言った。 「その判断は正しいよ。長年の友人を放っておけないのは当然だもの。 それに、病状が重い患者を優先するのも医者として当然のこと」 ただし――彼は医者ばかりではなく、春子の婚約者でもあった。 その言葉は口にしなかった。 何もかも飲み込んで静かに受け止める彼女の姿に、冬樹の心には淡い罪悪感が差し込んだ。 「じゃあ、土曜に映画を観に行こう。お前、ずっと『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』観たがってたよね?」 「うん」 春子は熱心なマーベルファンだった。 誰とでもいい、その映画だけはどうしても観たかった。 冬樹は彼女の頭を撫でようとしたが、春子は軽く頭を下げてかわした。 「またお腹がちょっと……休むね」 そう言って立ち上がり、寝室へ向かった。 冬樹は眉をひそめたが、その時スマホの通知音で気をそらした。 そっと外に出て、明菜の番号を押した。 翌日、春子は引継ぎを終え、仕事を辞めた。 それから、水曜から金曜にかけて、静かに荷造りを進めた。 まずはあまり着ない服から、その次は日用品、最後は部屋に残った彼女自身を象徴する飾り。 部屋がどんどん空っぽになるのと同時に、春子の心も軽くなっていった。 まるでどこへでもふわりと飛んでいけそうなほどに。 一方、冬樹は「当直」と称して毎日遅く帰り、電気もつけずそのまま寝ていた。 だから、部屋の変化にもまったく気づかなかった。 そもそも彼は、そんな「春子にまつわる細かいこと」に、興味を持っていなかったのだから。 第7話 その夜、春子は電話をしながら、二人の写真で飾られた壁をきれいにしていた。 この装飾は、彼女が強く望んで作ったものだった。 毎年の思い出の写真を印刷して壁に貼り続け、今では一面を覆い尽くすほどになっていた。 「春子ちゃん、なんで海外に行くってもっと早く教えてくれなかったの?寂しすぎるよ!全部あのクズ男のせいだよ……」 春子が渡航を決めてから、結衣は毎日のように電話で三十分以上話していた。 だが引き止めることは一度もなかった。もうとっくに気づいていたのだから。 あの男が春子のことを本気で大切にしていないことに。 何度も忠告してきたけど、春子はまるで催眠にかかったように冬樹を理想の男だと信じていた。 そんな彼女がついに決断した。 それがどれほど勇気のいることか、結衣はよくわかっていたから、心の底から嬉しかった。 結衣の泣きそうな声を聞きながら、春子は微笑んだ。 「落ち着いたらすぐチケット送るね。こっちに遊びにおいで。私もたまには帰国して会いに行くから」 電話を切ると、春子は最後の数枚のフレームを片付け始めた。 そして、最後の釘を抜いた瞬間―― 突然、強い腕が彼女を背後から抱きしめた。 冬樹だった。 彼は唇や耳の後ろ、首筋に狂ったようにキスを落としてきた。 春子の最初の反応は驚きだった。 おかしい、彼はきっとさっきの電話の内容を聞いたに違いない。 心臓が激しく打ち鳴った。春子は動揺を必死に抑え、冬樹を押しのけた。 だが次の瞬間、冬樹は眉をひそめながら彼女を再び強く抱きしめた。 「最近、なんで俺の仕事のこと聞いてこないんだ?それに、これらの写真まで外しちゃって……」 以前の春子は冬樹に夢中だったから、彼の仕事の細かい話でも楽しそうに聞いていた。 だが今の彼女は、もう彼のことを知りたいという気持ちを完全に失っていた。 「最近すごく疲れてるみたいだったから、休ませてあげようと思ったの。 それに、この壁、あなたはいつもごちゃごちゃしてて嫌だって言ってたでしょ」 その声は不自然なほどに穏やかだった。 まるで本心を隠すような、静かな優しさだった。 「もう休んで」 冬樹の胸にじんわりとした感情が広がった。 きっと、もうすぐ結婚するからだろう。 だから、春子はどんどん思いやりのある女性になっているのだと。 彼はそう思った。 そして、春子の頭を二度撫でた。 「明日、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』観に行こう。それから高級レストランでご飯も食べよう。忘れないでね」 「うん」 春子がうなずくと、冬樹は満足げに伸びをして寝室へ向かった。 まるで奇跡が起きたかのようだ。 あの彼が映画の約束をちゃんと覚えているなんて。 春子は写真の片付けを終えると、ふとSNSを開いてみた。 大学時代の同級生美咲がまた集合写真を投稿していた。 明菜は相変わらず真ん中に写っていた。 ただし、今回は彼女に寄り添っているのは別のハンサムな男性だった。 春子は肩をすくめた。 やっぱり、思った通りだ。 冬樹はただ戻ってきて彼女に癒しを求めているだけだ。 翌朝、冬樹はいつも通り早く家を出た。 春子は今日も帰ってこないだろうと思っていた。 けれど昼を少し過ぎたころ、彼は百合の花束を手に帰ってきた。 「もうすぐ映画始まるよ。行こう」 「うん」 花を適当にベランダに置き、化粧もせずに春子は上着を羽織って出かけた。 助手席に座りながら、春子は冬樹の変化に気づいた。 しっかり観察していたわけではなく、ただあまりに明らかだったのだ。 中でも一番わかりやすかったのは、彼が香水をつけていたこと。 春子は恋愛記念日に香水をプレゼントしたことがある。 その時、冬樹は眉をしかめて箱を引き出しに放り込んだ。 「もうちょっと考えてからプレゼントしてくれないか?俺は医者だ。香水なんかつけたら判断力が鈍るぞ」 なのに今日は、近づかなくても鼻をつくほど強い海の香りが漂っていた。 春子はふと思い出した。 冬樹のメモ帳に書かれていた言葉を―― 【明菜は海の香りのフレグランスが好き】 春子もかつてはその香りが好きだった。 けれど今は、窓を開けてこの匂いを一刻も早く追い出したかった。 第8話 道中、春子はずっと黙っていた。 冬樹は少し戸惑った。これまでは二人で出かけると、いつも春子が話題を振ってくれていたからだ。 「胃腸炎がまだ治ってないからかな……」と、そう思いながら、冬樹はその疑問を口に出しかけた。 そのとき、彼のスマホがまた鳴った。 春子が窓の外をじっと見ているのを確認すると、冬樹はさっと通話を切った。 「出ないの?」 春子の問いに、冬樹は肩をすくめて答えた。 「もうすぐ映画始まるから」 春子は微笑んだ。でも、その目は笑っていなかった。 冬樹は気づいていなかった。 スマホを見つめたまま、何かを考えているようだった。 カップルシートに着くと、春子はポップコーンを抱え、スクリーンをじっと見つめた。 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:Vol3』のオープニングを眺めながら、少しだけ心が軽くなった気がした。 その隣で、冬樹はスクリーンも見ずに、何度もスマホをチェックしていた。 周りのカップルたちは小声で映画の感想を話し合い、時折じゃれ合っては女の子が男の子の手を軽く叩いた。 男の子は笑いながら手を握り返し、指を絡めた。 春子はスマホに夢中な冬樹をちらっと見た。 彼のタイピングはどんどん速くなり、額には薄っすら汗がにじんでいた。 スクリーンではスター・ロードが追い詰められ、仲間を必死に呼んでいた。 これから盛り上がるシーンのはずだった。 でも、仲間が現れる前に、冬樹は急に立ち上がった。 後ろのカップルが視界を遮られ、不満そうに小声で囁いている。 冬樹はその場で立ち尽くし、言い訳を探しているようだった。 その沈黙を破ったのは春子だった。 「また病院で何かあったんでしょ。行ってあげなよ」 その言葉を聞いた途端、冬樹はすっと赦されたように映画館を飛び出した。 残されたのは、巨大なポップコーンと特大サイズのコーラ二つ。 背後のささやきは次第に大きくなり、「クズ」や「最低」などの言葉が聞こえてきた。 春子は気にせず、ポップコーンをつまみながらスター・ロードの逆転劇を見守った。 本当は、冬樹はそこまで悪い男ではなかった。 好きでもないのに、五年間も無理に付き合ってきたのだから、彼なりに苦労していたのだろう。 映画が終わり、エンドロールが流れる頃、春子はスマホで天気予報をチェックした。 気象局は大雨特別警報を出していた。 唇を引き結び、彼女は映画館のカウンターで傘を二本買った。 今夜、彼女は明国へ発つのだ。 冬樹が本当に病院に戻っているなら、傘の一本を届けてあげてもよかった。 せめて最後は、ちゃんと区切りをつけたかった。 たとえ冬樹がいなくても、出発前に一度だけ、彼の働く場所を見ておきたかった。 病院に着くと、ロビーの明かりは消えていて、いくつかの診療室だけが灯っていた。 濡れた服を軽く払い、春子は冬樹のオフィスへ向かった。 ドアに手をかけた瞬間、聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきた。 「足がまだ治ってないのに走り回るなんて、自分を大事にしないとこっちが辛くなるよ」 冬樹の声には、これまで聞いたことのない優しさが滲んでいた。 明菜が彼にしがみつき、涙をぽろぽろこぼしている。 誰が見ても守ってあげたくなる姿だった。 「そうでもしないと、あなたは来てくれないでしょ。私のこと、見てくれないんだもの」 そう言いながらも、明菜の目線はしっかりドアの外を意識していた。 「明菜を放っておくわけないだろ。でも、いつもお前のそばには他の人がいた」 冬樹の声には抑えきれない痛みが混じっていた。 明菜は冬樹の膝に腰を下ろし、その頬にキスをした。 「冬樹くん、私はもう別れたよ。 だから、冬樹くんがSNSに『五年間付き合ってきた彼女』って書いてくれたら、私、結婚してあげる。 いいでしょ?」 泣きそうな声とは裏腹に、彼女の唇には笑みが浮かんでいた。 冬樹の手は明菜を抱きしめたまま、硬直した。 数秒間の沈黙の後、彼はようやく細い声で答えた。 「……うん」 その瞬間、春子の心は粉々に砕けた。 胸が裂けるように痛かった。 冬樹が愛しているのは自分ではないと知った時、彼女はただ黙って受け入れた。 そして、去ることを決めた後は静かに荷物をまとめ、自分の形跡を消すつもりだった。 できるだけ綺麗に終わらせたかっただけ。 なのに冬樹は最後の最後まで――彼女を踏みにじるように明菜に媚びを売った。 答えをもらった明菜は満足そうに口元を上げた。 春子はその様子を数秒見つめてから、無表情でその場を去った。 新しく買った傘はゴミ箱に放り投げた。 そんな男を欲しがるなら、明菜に譲るわ。 家に戻った春子は、前もってまとめた荷物を取り出し、忘れ物がないか確認した。 冷蔵庫には手作りのギョーザが残っていたが、もう食べる気も起きず、捨てるのも面倒だった。 机の引き出しを開けると、指輪と写真、そして分厚い結婚式の計画書が入っていた。 春子はその中の一枚の紙を破って、引き出しを乱暴に閉じた。 その紙の裏に別れの言葉を残し、冬樹の連絡先をすべてブロックした。 鍵を置き、電気を消し、ドアを閉めた。 春子はこの空っぽな家を、静かに去っていった。