今宵、あなたと永遠の別れを

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今宵、あなたと永遠の別れを

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「決めましたわ。火をつけるのは、除夜の鐘が鳴るその瞬間ですよ」 紀野晴海(きの はるみ)は携帯を握りしめ、落ち着いた声でそう告げた。 電...

Chương (1)

第1章

「決めましたわ。火をつけるのは、除夜の鐘が鳴るその瞬間ですよ」 紀野晴海(きの はるみ)は携帯を握りしめ、落ち着いた声でそう告げた。 電話の向こうで、相手は信じられないといった口調で念を押した。 「失礼ですが、本当にこのような重要な祝日に、そこまで過激な手段で『偽装死依頼』を実行なさるおつもりですか? 当社には、もっと穏やかで安全なプランも多数ご用意しておりますが……」 「結構です。これでいいの」晴海は言った。 第1話 「決めましたわ。火をつけるのは、除夜の鐘が鳴るその瞬間ですよ」 紀野晴海(きの はるみ)は携帯を握りしめ、落ち着いた声でそう告げた。 電話の向こうで、相手は信じられないといった口調で念を押した。 「失礼ですが、本当にこのような重要な祝日に、そこまで過激な手段で『偽装死依頼』を実行なさるおつもりですか? 当社には、もっと穏やかで安全なプランも多数ご用意しておりますが……」 「結構です。これでいいの」晴海は言った。 その言葉が終わった瞬間、夜空にぱっと大輪の花火が咲き、続いて無数のドローンが宙に浮かび上がって絵を描き始めた。まずは写実的な人物画、続いて鮮やかな文字が空に浮かび上がる。 【晴海へ、お誕生日おめでとう!】 隣のテレビでは、このドローンショーと花火大会の共演が中継されていた。画面には視聴者のコメントが次々と流れてくる。 【うわあ、良辰見(りょう たつみ)って本当に奥さんのこと大好きなんだね。たかが誕生日でこのスケー!?】 【すごっ……この規模の花火、一体いくらかかるの?】 【お金の問題じゃないよ。この前のオークションで良社長、何億も出してネックレス落札したんだって。それを奥さんの誕生日プレゼントにしたらしいよ!】 晴海は画面を眺めながら、皮肉な笑みを浮かべた。 ――そう、辰見の「妻への愛」は世間でも有名だ。 だが、それほどの愛妻家が、裏では堂々と浮気しているなんて、一体誰が想像できるだろう。 しかも、一度に二人も。 ぼんやりしていた晴海の背後から、そっと両腕が伸びてきて、彼女の身体を優しく抱きしめた。 辰見は彼女を抱きしめたまま、淡いピンクのダイヤモンドのネックレスをそっと彼女の首にかけ、頬にキスを落としながら優しく言った。 「誕生日おめでとう、晴海。今日の花火大会、僕が自分でデザインしたんだ。気に入ってくれた?」 その言葉に返す前に、けたたましい着信音が鳴った。辰見は発信者を確認すると、すぐに彼女から離れた。 「ごめん、ハニー。会社からだ。すぐ戻るから待ってて」 そう言って、テラスから室内へと姿を消した。 彼の背中を見つめながら、晴海はなんとなく考えた――今かかってきた電話は、彼が密かに囲っている女のうち、どちらだろう。 あの妖艶な秘書・椎橋淑絵(しいばし よしえ)?それとも清楚で可愛らしい女子大生? 「五、四、三……」心の中でカウントを始める。 「一」と同時に、辰見は電話を切り、予想通りのセリフを口にした。 「ごめん、会社で急用が入っててさ。片付けたらすぐ戻ってくるから、一緒に誕生日過ごそう」 晴海は表面上、理解したように笑ってみせたが、胸の奥は妙に苦しかった。 本当は、今までのように素直に「いいよ、行ってらっしゃい。私、家で待ってるね」と言えばいいだけのことだった。 けれど、今日――「偽装死依頼」の契約を済ませた今だけは、どうしても素直になれなかった。 少し皮肉っぽく、軽い調子で問いかけた。 「どんな急用?社長自ら行かないといけないような?」 辰見は明言を避け、彼女の手を取り、唇にキスを落としながら優しくなだめた。 「大丈夫だよ、ハニー。すぐ戻るから、ね?」 だが、晴海は乗らなかった。 「私も一緒に行くわ。第一線は退いたけど、会社のことはまだ把握してるから」 戸惑う辰見をよそに、晴海はさっさと着替え、運転手に車を回すよう指示した。 彼と自分は、裕福な家に生まれた二世たちとは違う。どちらも普通の家庭出身で、ここまで築いた莫大な資産は、二人で一から積み上げたものだ。 その過程で、晴海は何度も流産し、しまいには医者から「もう妊娠はできない」と宣告された。 その日、病室で目を覚ました時、辰見は彼女の手を握り、強がりな男が目を真っ赤にして泣きながら誓った。 「いつか絶対、君をお姫様みたいに幸せにするって」 その「いつか」は、確かに訪れた。だが、そのときには彼の心はもう別の誰かに傾いていた。 なかなか車に乗ってこない辰見に、晴海は車内から声をかける。 「行こうよ、辰見。急用なんでしょ?」 辰見は奥歯を噛み、仕方なくスマホを取り出して、明日予定していた案件を前倒しするようアシスタントに指示すると、車に乗り込んだ。 エンジンがかかると同時に、彼は彼女の肩を抱き寄せて言った。 「晴海、君がわざわざ来る必要なんてないよ。今までずっと僕を支えてくれて、苦労もいっぱいしたんだから、これからはゆっくり幸せを感じててほしいんだよ。誕生日まで動き回ることない」 晴海は笑ってみせたが、何も答えなかった。 三十分後、二人は会社に到着。 だが迎えに現れたのは、辰見のアシスタントではなく、出産休暇中の、あの椎橋秘書だった。 第2話 オフィスビルの明かりは夜遅くまで灯り、辰見は会議室で社員たちに指示を出していた。 彼が話している最中、不意に言葉を切り、喉を鳴らしながら無意識に隣に座る秘書の方へと目を向けていた。 その足元では、淑絵が靴を脱ぎ、裸足の足で辰見の脚を絡め取っていた。やがて、その足は徐々に上へと這い上がっていった。 ある一点に触れた瞬間、辰見は呼吸を詰まらせ、鋭い視線で彼女を睨みつけたが、返ってきたのは無邪気を装った微笑みだった。 晴海は視線を下げたまま、近くにいた社員たちのひそひそ話を耳にした。 「椎橋秘書ってほんとに仕事熱心だよね。まだ産休中なのに、わざわざ出社してるなんて」 「でも彼女の旦那さんって相当なお金持ちらしいよ?家で優雅に専業主婦すればいいのに」 「仕事人間ってやつでしょ。でもさ、あの旦那さんって誰なんだろうね?子どもまでいるのに、一度も見たことないよ」 社員たちの噂話の最中、淑絵が立ち上がった。 「お手洗いに行ってきます」 それから数分後、辰見も席を立った。 「悪い、ちょっと電話をかけてくる」 そう晴海に言い残し、会議室を出て行った。 その直後、晴海のスマホに一通のメッセージが届く。 送り主は淑絵。 【12階、社長専用の控室】 こうした挑発的なメッセージは、ここ数か月の間に何度も届いていた。 気にするだけ無駄と分かっていながら、晴海は、まるで自らを傷つけるかのように、足を向けてしまった。 休憩室の扉は半開きだった。わざとそうしてあるのは明らかだった。 部屋の明かりは点いていないが、窓の外から差し込む星明かりに照らされ、辰見が女性を壁際に押しつけ、情熱的にキスしている様子が見えた。 長いキスのあと、辰見は淑絵の腰を撫でながら言った。 「まったく、君ってやつは……誰が勝手に会社まで来ていいって言った?」 「子どもはベビーシッターに見てもらってるの」淑絵が甘えるように答える。 「だって、あなたが電話で来るって言ったのに、来てくれないから……会いたくて我慢できなかった」 辰見は小さく笑うと、淑絵にキスを重ねた。 「今度、たっぷり可愛がってやる。もう戻らないと、晴海が怪しむ」 「やだ、良社長」彼女は彼の前に立ちはだかる。「わたし、あなたを待ってる間におっぱい張っちゃって……もう痛くてたまらないの。お願い、少しだけ揉んでって」 彼女は彼の手を自分の胸へと導いた。辰見の呼吸が荒くなり、「女狐め」と罵りながらも、すぐに彼女をソファへと押し倒した。 その時—— 「ガシャンッ」 何かが床に落ちて砕ける音が響いた。 「きゃっ、良社長……なんか壊しちゃったかも」 淑絵の軽い声が響く。 だが辰見は何が壊れたのか気にも留めず、荒い息を吐きながら言った。 「どうでもいいよ。ガラクタなんて、壊れて当然だ。後で誰かに片付けさせればいい」 室内に散らばったガラスの破片を、晴海はただ黙って見つめていた。 それは、彼女と辰見が創業初期に獲得した最初の特許のトロフィーだった。 ふたりの苦労の証、その象徴。 それが今の辰見にとっては、壊れても惜しくない「ガラクタ」なのだ。 晴海はその場を静かに離れた。 すれ違った社員に、笑顔で挨拶さえ返すほど、感情を押し殺した。 車に乗り込むと、彼女は運転手に言った。 「帰りましょう」 「社長をお待ちにならなくてよろしいんですか?」 「あの人は忙しいの」 その声は淡々としており、心の内を一切感じさせなかった。 運転手はミラー越しに彼女の様子をうかがい、何かを言いたげな表情を浮かべた。 そしてしばらくの沈黙ののち、ついにたまらず口を開いた。 「奥様……本当に、大丈夫ですか?」 晴海は茫然と顔を上げた。 バックミラーの中に映るのは、やつれ切った自分の姿。 その頬を、いつの間にか涙が伝っていた。 第3話 晴海が家に着いて車を降りた時、ぼんやりしていたせいか、うっかり転んでしまい、腕に大きな青あざができた。 運転手がすぐに駆け寄って彼女を助け起こし、ためらいながら言った。 「奥様、社長にご連絡しますか?」 「必要ないわ。今日のことは一言も言わないで」 晴海が帰宅して間もなく、辰見も慌ただしく戻ってきた。 靴も脱がずに寝室へと駆け込んできた。 「どうして僕を待たずに帰ったんだ?」 「急に疲れを感じて、先に帰って休もうと思ったの」晴海はそっけなく答えた。「あなたが電話してるのを知ってたから、わざわざ言わなかったのよ」 辰見はそれを聞いて安心した様子で、彼女の肩やこめかみを優しく揉みはじめた。 「今日は大変だったね。僕がしっかり労ってあげるよ」 彼の体には香水の匂いと、ほんのりとした乳のような匂いが染みついており、それが晴海には吐き気を催させた。 彼女は顔を背けたが、辰見の手がちょうどさっき打った青あざに触れて、思わず悲鳴を上げてしまった。 「どうした?僕の力が強すぎたか?」辰見は慌てて言った。 晴海は傷を押さえ、痛みのあまりしばらく声が出なかった。 辰見がのぞき込もうとしたその時、不意に電話が鳴った。 彼が出ると、電話の向こうで女の子がすすり泣きながら話した。 「辰見さん、やけどしちゃったの……手伝ってくれないかな……」 辰見は困った顔をした。 「ごめんよ、柔ちゃん。今日は晴海の誕生日なんだ。僕は行けないけど、タクシーで病院に行ってくれるかい?費用は僕が持つから」 電話を切った後も、彼の表情には明らかに心ここにあらずの様子が浮かんでいた。 その姿を見ていた晴海は、うつむいて無言で笑った。 その笑顔は、泣くよりも痛ましかった。 彼女は顔を上げ、静かに言った。 「行ってあげて。あなたが彼女のことを心配してるのは分かってる」 辰見は少し躊躇したが、結局上着を手に取った。 「じゃあ行ってくるよ。様子だけ見てすぐ戻るから。柔ちゃんは京市には身寄りがいないし、支援すると決めた以上、ちゃんと責任を持たないと。心配しないで、すぐ帰るよ」 辰見が出て行って間もなく、晴海はSNSを開き、あるユーザーのページを見に行った。 二時間後、そのぬいぐるみのウサギをアイコンにしたユーザーがこう投稿した。 【お湯をこぼして火傷しただけなのに、彼はすぐに駆けつけてくれた】 動画には、背の高い男性が小柄な女性を抱き寄せて、うっすら赤くなった箇所を優しく見つめ、最後にはその手を取り、唇でそっとキスする様子が映っていた。 顔は映っていなかったが、それでもコメント欄は羨望に満ちていた。 【甘すぎる……私の推しカップルがまた更新してくれた!体格差にキュン死】 【俺様系社長×清楚系、最高!もっと更新して〜!】 晴海は数ページ読み進めたところで、気分が悪くなり、ページを閉じた。 猿田柔(さるだ やわら)は、晴海と辰見が成功した後に最初に支援を決めた子だった。 初めて彼女を見た時、清らかなその瞳に晴海は心を打たれ、自ら決めて、高校中退の彼女を大学卒業まで支援してきた。 まさか、その支援が夫の愛人を育てる結果になるとは。 淑絵のようにあからさまではなく、柔は晴海に気づかれないよう、辰見との関係をひた隠しにしていた。 もしもネット好きな友人が偶然彼女のアカウントを見つけて教えてくれなければ、こんな汚らしい関係を彼女が知ることはなかっただろう。 ふと我に返ると、二つのメッセージが同時に届いた。 辰見:【ハニー、道がひどく混んでて、帰るの遅くなるかも。疲れてたら先に休んで】 友人:【晴海、さっきあなたの旦那が女連れてバーに入ってくの見たよ。場所送るから、急いで行ってみて!】 第4話 晴海がバーに到着したとき、個室の中では辰見と柔をネタにした下品な冗談が飛び交っていた。 柔は顔を真っ赤にして耳を押さえ、辰見の胸に身を埋めるようにして逃げ込んでいた。 彼は彼女をしっかりと抱き寄せ、笑いながら叱った。 「おいおい、やめろよ。柔ちゃんは本当に純粋なんだから、くだらない冗談で汚すなって」 「うわー、大事にされてんなあ」 冷やかしの声に、柔は顔を覆い、そのまま恥ずかしそうに部屋を飛び出していった。 晴海は物陰に身をひそめ、彼女が遠ざかるのを見届けてから再び中に耳を澄ませた。 「辰さん、今回連れてきた子、ちょっとノリ悪くねえ?お前のあのエロ秘書のほうがよっぽどいいだろ」 「バカ言うなよ。おまえ、あいつ見て晴海の若い頃思い出さないか?学生時代の晴海さ、本当に純粋でおとなしくて、まるで白紙みたいだった」 辰見はグラスの酒をひと口飲み、懐かしげに目を細めた。 「でも今じゃ、すっかり強気でさ。煙草一本吸っただけで説教される始末だ。 会社やってた頃なんて、何でも晴海の許可が必要だったんだぞ」 個室の外でその言葉を聞いた晴海は、唇を噛みしめ、苦い思いが喉の奥を焼いた。 彼が「強気」と嫌うようになったのは、自分が彼のために変わったからだ。 あの苦しかった日々、どれだけ取引先との交渉を共にしてきたか、少しでも気を緩めれば損をするような場面で、無理に自分を奮い立たせて戦ってきた。 その結果が、今―― 彼は、自分の努力で手に入れた安定と地位を楽しみながら、かつての「弱くて可愛らしかった自分」だけを恋しがっている。 滑稽を通り越して、情けなくすらあった。 そのとき誰かがまた言った。 「でさ、あの秘書の椎橋さんは?彼女も奥さんに似てるって言ってたけど、あれは結構エロい系だよな」 「顔の作りがちょっと晴海に似てるだけだな。ま、あいつは何でもアリだし、晴海にはとても言えないようなことも、全部受け入れてくれるんだ」 男たちは一斉に下卑た笑い声を上げた。 その中の一人がグラスを掲げながら、へつらうように言った。 「ほんと、あんなババアが良社長にふさわしいわけないっすよね。良社長みたいな若くて優秀な男、若くて可愛い子なんて選び放題っすもん」 辰見はグラスを合わせようとした手を止め、次の瞬間、無言で拳を振り抜いた。 男の顔に直撃し、周囲は一気に静まり返る。 「……ふざけんな。僕の妻の悪口、もう一度口にしたら殺すぞ」 誰もが目を丸くしたまま口をつぐみ、やがて誰かがぽつりとつぶやく。 「……マジで、奥さんのこと好きなんすね」 辰見は荒々しく息を吐いた。 「当たり前だろ。晴海はこの人生で唯一、僕が妻として選んだ女だ。愛してるに決まってんだろ。ただちょっと愚痴っただけだよ。 どんな夫婦だって不満の一つや二つあるだろ。いいか、僕の浮気のことが晴海にバレたら、お前らどうなるかわかってんだろな」 大胆な一人が恐る恐る訊ねた。 「じゃあ良社長、これからもずっとこのまま続けるんすか?万が一バレたら……離婚とか?」 「バレねぇよ。晴海は僕を信じてる。離婚なんて……」 辰見は吹き出すように笑った。 「冗談じゃない。僕は死んでも晴海と離婚なんてしないし、あいつにも僕から離れるなんて絶対させねえ」 酒を回す手が止まったかと思うと、急に声のトーンが明るくなる。 「そうだ、お前らにいいニュースがある。柔ちゃん、妊娠したんだってよ。女の子らしい。これで息子も娘もいるし、もう人生に悔いなしって感じだな!」 祝福の声が飛び交う中―― 部屋の外で聞いていた晴海は、目を見開いたまま、その場に崩れ落ちそうになった。 柔が妊娠……? 室内の騒がしさが遠ざかっていく。 晴海はまるで何も聞こえなくなり、ふらつく足取りで酒場を出た。 そのとき、横の路地から飛び出してきた一台のバイクが、呆然としていた彼女に向かって一直線に――! 第5話 事故を起こしたバイクは、逃げるようにあっという間に視界から消えた。 晴海は冷たい地面に倒れ込み、小腿にはぱっくりと裂けた傷口ができていた。激しい痛みに、意識さえも遠のきそうになる。 彼女のスマホは壊れてしまい、仕方なく通りすがりの人に電話を借りた。 救急車を呼ぶのではなく、反射的に辰見の番号を押していた。 何年も共に過ごしてきた恋人、染みついた習慣は骨の髄まで刻み込まれている。 我に返って切ろうとした時には、すでに通話は繋がっていた。 しかし、電話口から聞こえてきたのは辰見ではなかった。 おずおずとした女性の声がした。「……もしもし、どなたですか?」 晴海はそれが柔の声だとすぐにわかった。だが、今は細かいことを気にしていられなかった。単刀直入に言う。 「ケガしたの。辰見を出して」 声を聞いた途端、柔は一瞬言葉を詰まらせた。だが、次の瞬間にはまるで何も聞こえなかったふりをして、何度も「もしもし?」と繰り返した。 その向こうから、辰見の気だるげな声が聞こえる。「柔ちゃん、誰から?」 「知らない番号だけど、電波が悪いのか、何言ってるのかわからないの」 「知らないならさっさと切れよ、無駄だろ」 「でも……」 「でもじゃない」そう言って彼は電話を奪った。 晴海は、彼が柔に「いい子だ、来て。一緒にお酒を飲もう」と言っているのを聞いた。 そして、ツーッという切断音。 賑やかな笑い声は途絶え、受話器からは無機質な通話終了の音だけが鳴っていた。 晴海は茫然と画面を見つめ、力が抜けたように、しばらく動けなかった。 結局、電話を貸してくれた通りすがりの人が代わりに119へ通報してくれた。 病院に運ばれ、傷の洗浄と縫合が行われている最中、辰見が嵐のように診察室に駆け込んできた。 「どうしたんだ、晴海?ケガは重いのか?僕、今家に帰ったばかりで君がケガしたって聞いたけど、どうして真っ先に僕に電話しなかったんだ?」 傷口を見て、辰見は思わず息を呑み、目が赤くなった。 彼は半ば膝をつき、晴海の傷ついた脚を抱きしめながら、震える声で言った。 「いったい何があったんだ?」 彼の焦る姿を見て、晴海は冷めきった口調で答えた。 「眠れなくて、外に出たの。うっかり転んだだけ」 辰見は傷口を見つめたまま沈黙し、次の瞬間、自分の頬を思い切り平手打ちした。 「全部僕が悪いんだ!」 そう言って彼は床にひざまずき、晴海の手を取り、その手で自分の頬を打たせようとした。 「晴海、僕を殴ってくれ。僕が君をちゃんと守れなかったんだ」 だが晴海は手を引き抜き、疲れ切ったように目を閉じて言った。 「疲れた。もう帰りましょう」 辰見は慎重に彼女を抱きかかえ、車に乗せてから、運転手に何度も安全運転を念押しした。 車が半ばまで進んだ頃、彼の携帯にメッセージが届いた。 それを見た辰見は、急に「停まってくれ」と運転手に告げる。 「ごめん、忘れ物をしたのを思い出した。君は体調が悪いから先に帰ってて。 僕はすぐ取りに戻って、それから戻る」 晴海は返事をせず、ただ黙って彼を見つめていた。 その視線に辰見はなぜか不安を覚える。 「どうした、晴海?」 しばらくして、晴海は虚ろな笑みを浮かべ、手を軽く振った。 「何でもないわ。行って」 辰見はその言葉にほっとして、タクシーを拾って立ち去った。 車内で、晴海は運転手にこう指示した。 「引き返して。あのタクシーを追って」 20分後、タクシーはある一軒の別荘の前で停まった。 それは辰見名義の不動産のひとつだった。 彼は車を降り、スマートフォンで電話をかける。 数分後、別荘の門が開き、慌ただしい様子の淑絵が、赤ん坊を抱いて走り出てきた。 第6話 淑絵が泣き声混じりに叫ぶのが、晴海の耳に届いた。 「どうしよう、あなた……赤ちゃんが急に高熱出して、痙攣まで……!」 あなた。 その呼び方に、晴海の心がひどくざわめいた。 視線を辰見に向けると、彼はそれを否定することもなく、淑絵を抱き寄せて優しく慰めていた。 「大丈夫だ、すぐに医者を呼ぶ。僕たちの息子は、きっと大丈夫だから」 子どもを抱いた二人の姿は、まるで本当の家族のようだった。 そして、自分――法律上の妻である自分こそが、まるで無関係な第三者のように思えた。 晴海は車の中から、その三人が屋敷へと消えていくのを、ただじっと見送っていた。 三十分後には、急ぎ足の医者が到着するのも目にした。 その夜、屋敷に灯る明かりを、彼女はずっと見つめ続けていた。 目の奥は虚ろで、まるで魂が抜けたかのようだった。 運転席の土方は、一言も発することなくハンドルを握っていた。 夜明けが近づいた頃、ようやく晴海の声が聞こえた。 「土方、戻りましょう。今日見たことは……忘れてちょうだい」 土方は黙ってうなずき、不器用に励ますように言った。 「あの……奥様、あまり無理なさらないでください。どうしても無理なら、社長と……離婚、という選択も」 晴海は口元にかすかな笑みを浮かべ、首を横に振った。 「離婚はできないわ。彼は私を手放してくれない。だから私は、自分のやり方で去るしかないの」 土方にはその意味が分からなかったが、晴海はそれ以上語らず、静かに目を閉じた。 その後、晴海は二週間かけて怪我を治療し、自宅で静養していた。 包帯を外した日、彼女は指折り数えて気づく。 新年まで、もう一週間もない。 もうすぐ、解放される。 そう思うと、ふと口元に笑みが浮かんだ。 「何を考えてるの?そんなに楽しそうに」 ちょうどその時、辰見が寝室に入ってきて、その久々の笑顔を目にした。 「もうすぐ新年でしょ。なんだか、それだけで嬉しくて」 晴海は心からそう言った。 あの日の事故以来、彼女はずっとふさぎこんでいて、辰見がどんなに気を配っても一向に笑顔を見せなかった。 そんな彼女がようやく微笑んだことで、辰見もつられて嬉しくなる。 「そうだな、新年だ。それに僕たちの結婚記念日も近い。 あの時、僕がプロポーズしたことを、まだおぼえているよね」 「もちろん……忘れるはずないわ」晴美は呟いた。 二人は花火の卸しから始めた。貧しかった頃は住む場所すらなく、花火の倉庫で寝泊まりしていた。 その大晦日、倉庫で火災が起き、二人は火を消すのに必死で、全身が灰だらけになった。 ようやく火が消え、無事を確認して笑い合う二人。 そのとき、いくつかの残った花火が夜空に打ち上がり、星のように輝いた。 灰まみれの中、辰見は片膝をついて、ぎこちなく指輪を差し出した。 「僕と……結婚してくれないか?」 「あの時のあなた、本当にバカだった。あんな状況でプロポーズするなんて」 晴海は、懐かしそうに首を振った。 「でも君は、そんなバカな僕と結婚してくれた。だから僕は、バカでも幸せ者だ」 辰見は笑いながら言った。 晴海も一緒に笑った。 けれど、その笑顔のまま、喉が詰まり、ふと涙が零れた。 辰見は慌てて彼女の涙を拭いながら言った。 「どうした?急に……」 「なんでもない。ただ、あの頃の私たちって、貧しかったけど、本当に幸せだったと思って」 「これからもっと幸せになるよ。僕は一生、君を愛して大切にする。信じてくれ」 彼は真剣な眼差しでそう言った。 けれど、晴海は答えず、話題をそらすように言った。 「今日、空港にご両親を迎えに行くんでしょう?遅れないように、早く行って」 辰見が家を出てしばらくして、晴海の携帯にメッセージが届いた。 差出人、椎橋淑絵。 【HYホテルの宴会場。来られる?あなたこそが部外者だって、ちゃんと教えてあげる】 第7話 晴海がホテルに入ると、すでに見慣れた顔ぶれが何人も目に入った。 どれも辰見の親戚で、皆の顔には祝いの色が溢れていた。 彼女はサングラスとマスクで顔を隠していたため、誰にも気づかれなかった。 宴会場の外には大きな看板が掲げられており、そこにはこう書かれていた。 【良悠ちゃんの出産祝い、おめでとうございます!】 その瞬間、晴海はすべてを悟った。 この宴は、あの私生児ための祝いだったのだ。 ほどなくして、人混みの中にざわめきが起きた。 晴海が振り向いた瞬間、瞳が驚きに見開かれる。 辰見が空港から到着したばかりの両親を連れて、宴会場へと歩いてくるところだった。 老夫婦は孫の悠を見るなり満面の笑みを浮かべ、「可愛い孫だ」「宝物だ」と声を弾ませていた。 辰見の母親・良里子(りょう さとこ)は淑絵の手を取り、その手首に翡翠の腕輪をはめて言った。 「このお嫁さん、私が認めるわ」 その瞬間、晴海は自分の感情をどう表せばよいかわからなかった。 彼女は良家の両親とあまりうまくいっておらず、とくに不妊のことを理由に里子から陰でよく文句を言われていた。 「家の嫁にだけ渡す」と言われていたあの翡翠の腕輪も、彼女には一度も見せたことすらなかった。 それが今、何の迷いもなく、淑絵という愛人の腕に収まったのだ。 カメラマンが笑顔で声をかけた。 「おじいちゃんおばあちゃん、そして夫婦二人と一緒にお子さん抱いて、家族写真を撮りましょう」 五人は喜んで応じ、並んで写真を撮った。 晴海は、どうやって会場を出たのか、自分でも覚えていない。 脳裏には辰見が淑絵を抱き寄せて満ち足りた笑みを浮かべている光景が、繰り返し映し出されていた。 まるで自虐するかのように、彼女はその画を何度も何度も思い返した。 結局、自分なんてただの笑い者だ。 携帯が「ブッブッ」と震える。 届いたのは、その五人の家族写真だった。 続けて、淑絵の得意げな音声メッセージが送られてくる。 「もう見たでしょ?あんたが良奥様って肩書きにしがみついたところで何になるの? お義母さんが認めたのは、息子を産めるこの私よ!」 晴海は何も返信せず、タクシーに乗って郊外の墓地へと向かった。 墓前に立ち、彼女は「お母さん」と一言声をかけると、堰を切ったように涙が溢れ出した。 彼女は母子家庭で育ち、母親と二人三脚でここまで来た。 やっと安定した生活が手に入った矢先、母はその幸せを味わうことなく亡くなった。 どんなに辛くても、全部一人で耐えられると思っていた。 でも実際にここまでくると、誰にも吐き出せない気持ちがこんなにも苦しいものだと初めて知った。 胸を押さえ、晴海は墓碑にすがるようにして言った。 「お母さん、ここが、すごく痛いの」 そのまま彼女は前のめりに倒れ込んだ。 次に目を開けた時、彼女は病室のベッドの上にいた。 目を覚ますなり、辰見が駆け寄ってきて、強く彼女を抱きしめた。 「晴海、やっと目が覚めた……本当に、びっくりしたんだぞ。 急にお義母さんのお墓参りなんて、なんで僕を誘ってくれなかったんだ?」 「もうすぐお正月だから……顔見に行きたくて。 あなた忙しいから、私一人で行ったの。まさか低血糖で倒れるなんて……」 彼女の説明に疑いを持つ様子もなく、辰見はすぐに専門医を呼んで精密検査をさせた。 結果、晴海には軽度のうつ症状が見られるとの診断が下った。 検査室を出る直前、晴海はこっそりとその診断書だけをポケットにしまい、他の健康診断の報告書だけを辰見に手渡した。 辰見は一枚一枚を丁寧に確認し、安堵したように笑って言った。 「問題ないならよかった。さあ、帰ろう。今日は僕がごちそう作ってやる!」 そう言って、彼は自ら出院の手続きをしに行った。 晴海がその場でぼんやり立っていると、見慣れた人物がこちらに歩いてくるのが見えた。 「晴海さん、偶然ですね」 柔が自分から声をかけてきた。 晴海はやや意外そうに眉を上げた。 辰見と関係を持ってからというもの、柔は後ろめたさからか、彼女に会うたび目を逸らしていた。 自ら話しかけてきたのは、これが初めてだった。 「病院に何しに来たの?」 そう尋ねると、柔は唇を噛み、何かを決意したように、まっすぐ彼女を見つめて答えた。 「妊婦健診です」 第8話 晴海はその言葉に「そっか」とだけ応え、それ以上は相手にしなかった。 柔は落ち着かない様子でしばらく待ち、とうとう尋ねた。 「晴海さん、気にならないの?この子が誰の子かって」 晴海はその下心を見抜き、冷笑を浮かべて答えた。 「私に関係ある?どうせ私の子じゃない」 その冷淡な態度に柔は激昂し、歯を食いしばって声を荒げた。 「じゃあ、もしこの子が……」 言い終える前に、柔は突然、誰かに思い切り平手打ちされた。 手続きを終えたばかりの辰見が戻ってきたのだった。彼は怒りに満ちた表情で彼女を睨みつけた。 「未婚で妊娠とは、なんてだらしない!学費を援助してやったのに、こんな恩知らずな真似をするなんて」 柔の目にはたちまち涙が浮かび、それ以上何も言えずにいた。 彼女の軽率な思いは、その一撃で完全に打ち砕かれたのだった。 恨めしげに辰見を一瞥した彼女は、泣きながらその場を立ち去った。 晴海は視線を戻し、冷たく言った。 「行きましょう、帰るわ」 二人が廊下でエレベーターを待っていると、ドアが開いた瞬間に辰見が言った。 「晴海、携帯を病室に忘れたみたいだ。先に駐車場で待ってて、すぐ戻るから」 晴海は微笑みながら何も言わず、無人のエレベーターに乗り込んだ。 辰見は彼女が黙っているのを了承の合図だと思い込み、柔が消えた方向へと駆け出した。 エレベーターが二階分ほど降りたとき、「ガタン!」という大きな音とともに停止した。 続いて照明がすべて消え、非常灯だけがぼんやりとした緑の光を放っていた。 その瞬間、晴海の呼吸が乱れ始めた。 彼女には閉所恐怖症があったのだ。 開ボタンを押しても反応がなく、震える指で緊急呼び出しボタンを押したが、誰も応答しなかった。 恐怖がじわじわと広がり、体が小刻みに震え始めた。 10分後、彼女はついにパニック状態に陥り、扉を叩きながら助けを呼んだ。 20分後、スマホにわずかに電波が戻り、彼女は震える手で辰見に電話をかけた。 通話が繋がった瞬間、彼女は涙声で言った。 「辰見、私、閉じ込められて……」 だが言葉を最後まで言えぬうちに、「バン!」という大きな音が聞こえ、それに続いては雑音と電流のような音が流れた。 その後、微かに口論の声が聞こえてきた。 「大胆になったもんだな、僕のスマホまで壊すなんて?」辰見の声だ。 返事はなく、ただすすり泣く声が続いた。晴海にはそれが柔だとすぐにわかった。 数秒後、辰見が優しく慰めるような声で言った。 「もういいよ、ハニー。謝るよ。どうしてあんなことを晴海の前で言っちゃったの?僕たち、秘密にするって約束だったろ?」 「だって……だって……好きすぎて、我慢できなかったの……!」柔は声を上げて泣いた。 「もう泣くな、プレゼントあげるよ。いいだろ?」 何かを取り出したらしく、柔の泣き声がピタリと止んだ。 「どう?嬉しい?」辰見が笑いながら言った。「今日は随分積極的だな。……もう、キスはいいって。晴海を迎えに行かなきゃ」 「行かないで辰見さん……欲しいの、あなたが……」 その直後、辰見の息が荒くなり、通話の向こうからはキスの音、衣服が擦れる音、そして次第に甘い喘ぎが聞こえ始めた。 スマホが手から滑り落ち、「ガタン」と床にぶつかった。 晴海はよろめきながら数歩下がり、壁に背を預けるとそのまま床に崩れ落ちた。 腕に顔を埋め、膝を抱えて丸くなったまま、微動だにしなかった。 1時間後、ようやく異常に気づいた人が現れ、作業員によって扉がこじ開けられた。 救出されたとき、晴海の全身は冷たい汗でびっしょり濡れていた。 顔面は蒼白で、目には焦点がなく、看護師に水を飲まされてようやく正気を取り戻した。 スマホの電波が完全に回復した瞬間、通知が一斉に表示され、その中には柔のSNS更新があった。 【あなたが約束してくれたから、私は名前を隠してでも甘んじて愛されたい】 添えられていた写真には、ぎゅっと手を握り合う男女の手が写っていた。 女の左手の薬指には、ダイヤの指輪がはめられていた。 晴海は一目でそれが自分の婚約指輪と同じシリーズ——『唯一の愛』であると気づいた。 彼女は突然口を押さえて咳き込み、飛び散った鮮血が手のひらに点々と染みた。 その色は、まるで絶望の証だった。 第9話 辰見が家に帰ってきたとき、晴海は庭に一人でぼんやりと座っていた。 彼はコートを脱いで彼女の肩に掛け、優しく声をかけた。 「寒いのに、どうして外にいるんだ?風邪ひくぞ」 しばらくしても、晴海は何の反応も示さなかった。 気まずくなった辰見は、話題を変えるように言った。 「今日、病院のエレベーターが故障して誰かが閉じ込められたって聞いたよ。君じゃなくて本当によかった。もし君だったら、僕はきっと気が気じゃなかった」 だが晴海は、相変わらず遠くを見つめたまま、何も言わない。 辰見が不安を感じ始めた頃、彼女がようやく口を開いた。 「辰見、今年の大晦日、どう過ごすつもり?」 彼は少し驚いたが、すぐに答えた。 「例年通りだよ。まず両親のところで昼ごはんを食べて、それから家に戻って一緒に年越しする」 姑の里子は晴海を好いておらず、晴海も里子との年越しを嫌がっていた。だから毎年こうして過ごしていた。 だが今日は、晴海が首を横に振った。 「今年は、違うふうに過ごしたい。あなたはご両親と年越しして、私は唐沢甘奈(からさわ かんな)を家に呼んで一緒に過ごす。 彼女、今年は一人で国内に残ってるから……友達として、一人ぼっちの年越しにはさせたくないの」 辰見は違和感を覚えたが、うなずいた。 「うん、君の好きなようにしよう。うちの奥様の言うことには逆らわないよ」 「それから、倉庫から花火を取り寄せて、年越しの時に彼女と一緒に打ち上げたいの」 辰見は一瞬ためらった。 「危ないんじゃないか?花火みたいなのが見たいなら、僕がちゃんと手配するよ」 「大げさにしなくていいの。ただ自分の手でちょっと花火を打ちたいだけ。お正月らしさを感じたいの」 彼は渋々頷いた。 「わかったよ」 晴海の表情がずっと沈んでいるのを見て、彼は気を利かせて夕飯を作ると申し出た。 辰見が家の中に入って間もなく、テーブルに置かれた彼のスマホが光った。 晴海がふと画面を見ると、辰見の生活アシスタントからのメッセージだった。 【良社長、すべて手配済みです。大晦日の晩ご飯の時間、まずは猿田様が、次は椎橋秘書がお坊ちゃんを連れてご両親にご挨拶へ伺います】 【ご安心ください、お二人の訪問時間は完全にずらしてありますので鉢合わせはしません。それぞれがゆっくり年始の挨拶ができます】 【奥様がご希望の花火もすでに準備済みで、すぐに家へ配送されます】 晴海はそのメッセージを見て、急に全てが馬鹿馬鹿しく思えた。 辰見は時代を間違えて生まれてきたのかもしれない。もし古代なら、側室を何人も囲っていただろう。 彼女は長いため息をつき、かつて一生を共にしようと誓い合った相手が、いつからこんなにも堕ちてしまったのか、理解できなかった。 大晦日がやってきた。 出かける前、辰見は名残惜しそうに彼女の手を握った。 「本当に、一緒に年越ししなくていいのか?」 晴海は首を横に振った。 「じゃあ、年越しの鐘が鳴ったら、ビデオ通話で一緒に過ごそうか?」 「いいわ。今夜は、きっとあなた忙しいでしょう」 彼女の言外の意味を、辰見は理解していなかった。 「もう出て、両親を待たせちゃダメよ」 彼はうなずいて車に乗り込んだ。 エンジンをかけようとしたとき、晴海が突然呼び止めた。 「辰見」 「どうしたの、晴海?」 彼女は微笑んだ。 「さようなら」 辰見は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑って返した。 「そんな大げさな別れ方するなよ。明日の朝には帰ってくるからさ」 その夜、辰見は実に満ち足りた時間を過ごしていた。 年越しの鐘が鳴り響くその瞬間―― 彼は実家の寝室で、年始の挨拶に来た淑絵とまさに情を交わしていた。 一度果てて、彼は満足そうに淑絵を抱きしめて肩で息をしていた。 遠くの夜空では、花火が次々に打ち上がっては消え、窓の外では消防車のサイレンが微かに響いていた。 辰見は軽く笑ってつぶやいた。 「またどこかの悪ガキが花火で火事でも起こしたのかもな」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに―― 彼のスマホが、まるで爆弾でも落ちたかのような勢いで、けたたましく鳴り響いた。