すれ違う風の向こうに

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深沢祈人(ふかざわ きひと)の愛人になって八年。ようやく彼はトップ俳優にまで登りつめた。 だが、萩野朝香(おぎの あさか)という恋人とし...

Chương (1)

第1章

深沢祈人(ふかざわ きひと)の愛人になって八年。ようやく彼はトップ俳優にまで登りつめた。 だが、萩野朝香(おぎの あさか)という恋人としての存在を公表すると約束していたはずの記者会見で、祈人が発表したのは、別の女優・秋野夜音(あきの よね)との交際だった。 「朝香、俺の立場が安定したら、必ずお前と結婚する」 朝香は静かに微笑み、首を横に振った。「もういいよ」と、その声は優しくも、どこか遠かった。 後日、祈人が長文コメントで公開プロポーズをし、涙ながらに「俺と結婚してくれ」と頼んだときも、朝香は同じように微笑みながら首を振った。 十八歳の朝香は、十八歳の祈人と結婚したいと思っていた。 だが、二十八歳になった医師の朝香は、もはや二十八歳のトップ俳優・祈人と結婚する気にはなれなかった。 第1話 深沢祈人(ふかざわ きひと)の愛人になって八年。ようやく彼はトップ俳優にまで登りつめた。 だが、萩野朝香(おぎの あさか)という恋人としての存在を公表すると約束していたはずの記者会見で、祈人が発表したのは、別の女優・秋野夜音(あきの よね)との交際だった。 「朝香、俺の立場が安定したら、必ずお前と結婚する」 朝香は静かに微笑み、首を横に振った。「もういいよ」と、その声は優しくも、どこか遠かった。 後日、祈人が長文コメントで公開プロポーズをし、涙ながらに「俺と結婚してくれ」と頼んだときも、朝香は同じように微笑みながら首を振った。 十八歳の朝香は、十八歳の祈人と結婚したいと思っていた。 だが、二十八歳になった医師の朝香は、もはや二十八歳のトップ俳優・祈人と結婚する気にはなれなかった。 ……………… 朝香が最後に祈人に希望を抱いたのは、「自分を恋人として公表する」と言ってくれた記者会見の日だった。 彼女は胸を高鳴らせ、花のように輝く笑顔でその時を待っていた。 しかし、その場で耳にしたのは、祈人と夜音の交際発表だった。 「夜音、八年間ずっとそばにいてくれてありがとう。これからの人生も、よろしく頼む」 その言葉が放たれた瞬間、朝香の胸に鋭い痛みが走る。 一言一言が心の奥深くに刻み込まれ、あまりにも深く重く、まるで心から血が滲み出るかのようだった。 二人が知り合ったのは、まだ無名だった頃。 制服姿の学生から芸能界へと進み、トラブルで一度はキャリアを絶たれかけた祈人も、やがて努力の末にトップ俳優となった。 朝香はあらゆる手を尽くし、祈人の未来のために、自分を押し殺して八年間「秘密の恋人」を続けてきた。 それなのに祈人は、たった二言三言で、朝香のすべての努力を他人のものにしてしまった。 この瞬間、朝香はふいに疲れを覚えた。 彼女は携帯電話を手に取り、長い間返事を待たせていた相手に電話をかける。 「桑原(くわばら)院長、貴院で働くことをお受けします。一週間後、必ず出勤いたします」 実は前年、指導教授の推薦で浜城市の有名な病院に誘われていた。 しかし祈人のことが気がかりで、ずっと決断できずにいた。 仮住まいの別荘へ戻ると、朝香は落ち着いた気持ちで荷造りを始めた。 気がつけば夜も更け、荷物をまとめ終えたころには、時刻はほとんど零時に近づいていた。 けれど祈人は、結局その夜も帰ってこなかった。 それは、これまで何度も繰り返された「帰りを待つ夜」と同じだった。 彼女は一人きりで、まるで宛先のない封筒のように、静かに座っていた。 零時の鐘が響いたとき、朝香はようやく自分があまりにも長く祈人を待ち続けていたことに気づく。 あまりにも長い時間、心の中は祈人でいっぱいで、自分という存在をすっかり失っていた。 夢が壊れたのなら、そろそろ目を覚ます時だ。 翌朝、歯を磨いていると、祈人が眠そうな声でぼやく。 「昨夜はどうして電気をつけてくれなかったんだ?夜食も用意してなかったし」 朝香は朝食の準備をしながら、顔も上げずに淡々と返す。 「忙しくて忘れたの」 祈人は少し訝しげな目で朝香を見つめる。 八年間、夜食を忘れる朝香を見たのは初めてだったが、特に気にする様子もない。 そして、豆乳を一口飲むと、その甘さに思わず顔をしかめ、やや大げさに文句を言い始めた。 「朝香、なんで砂糖入れたんだよ。俺は体重管理しなきゃいけないから、甘いものはダメだって」 朝香は淡々と「うん」とだけ答え、無意識のうちに、反射的にもう一杯の豆乳を用意していた。 俳優として、祈人は体型維持を徹底している。朝食はいつも豆乳一杯だけ。 これまで朝香も、祈人に合わせて空腹でも豆乳だけ飲んでいた。 食事中は、朝香が絶え間なく話し続けたり、夢中で祈人を見つめたりして、視線を逸らせないほどだった。 けれど、今日の食卓は異様なほど静かだった。 朝香はもう好きでもない豆乳をやめ、自分のためにステーキを焼き、黙々と食事を進める。 それでもふとした瞬間、無意識に祈人を見てしまうが、その瞳にはこれまでのような熱はもうなかった。 祈人は、朝香の瞳の光が一晩で消えてしまったことに気づいていない。 ただ、この静けさに落ち着かず、何気なく話題を振ってみる。 だが、朝香は珍しく眉をひそめ、指先で「しっ」と静かにする仕草を見せた。 ロケバスに乗っても、いつもなら祈人のそばにいた朝香が、今日は珍しく距離を取り、横を向いて半分眠ったふりをしている。 ついに祈人は我慢できず、朝香の肩をそっとつかんで、自分の方へ向かせた。 「朝香、やっぱり怒ってるんだろ? 俺、林田(はやしだ)さんにはお前の存在を公表すると言ったんだけど、どうしても認めてくれなかった。だから夜音との交際を発表するしかなくて……俺だって仕方なかったんだよ……」 祈人はよく分かっていた。 ほんの少し優しく声をかけて機嫌を取れば、朝香はすぐに笑顔を見せて、まるで子犬のように自分の後ろをついてくる―― だが今回は、祈人の思い通りにはならなかった。 第2話 朝香はゆっくりと目を開け、祈人をまっすぐに見つめていた。 淡い茶色の瞳は、どこまでも澄んでいて、そこに映る祈人の顔はなぜか少し歪んで見える。 祈人は慌てて視線を外し、頭の中で考えていた言葉も色あせてしまう。 どこか落ち着かない様子で、そっとポケットから小さな箱を取り出した。中には、淡いパールのペンダントが静かに収められている。 「朝香、これ、昨日の約束を破ったお詫びだ。お前のためにちゃんと用意してきたんだ。 大人なんだから、細かいことは気にせず、許してくれよ」 祈人は、甘えるように朝香の腕を軽く揺すった。 いつもなら、こんなふうに祈人がじゃれてくれば、朝香は思わず笑顔を浮かべてしまっただろう。 だが今回は、どれだけ甘えても、朝香の目にもう以前のような輝きは戻らなかった。 しばらく耳を澄ませていた朝香は、目を細めて淡々と「うん」とだけ返し、体を背けてそのまま眠ろうとした。 祈人は一瞬、本当に夢の中で聞いた言葉だったのかとさえ疑った。 夜音との交際発表が会社の指示で、ドラマの宣伝のためのスクリーンカップルだということも、朝香には分かっている。 でも、ただ今回は本当に心が疲れ果てていた。それだけだった。 あと六日でこの場所を離れ、浜城市に向かう。その前にやるべきことを片付けなくてはならない。 朝香のそっけない態度に祈人は不安を覚えたが、食事や身の回りの世話を変わらずしてくれる姿を思い出すと、その不安もすぐに消えていった。 祈人は朝香の白い手を取って、自分の胸に当てる。 「朝香、夜音が前にお前をいじめたことがある。もし俺が本気であいつを好きだったとしたら、もう俺は人間じゃないだろ。 信じてほしい。夜音とはただの演技だけで、本気になったことなんて一度もないんだ」 かつての朝香なら、きっと素直に微笑んでくれたはずだ。 だが今回は、どこか虚ろな笑みを浮かべ、淡々とペンダントを受け取ってバッグにしまった。 「ありがとう」と丁寧に礼を言いながらも、どこか距離を感じさせる態度だった。 そして祈人の真剣な眼差しを見上げた瞬間、朝香の胸には鋭い痛みが走る。 その痛みは胸の奥にじわじわと広がり、心を静かに蝕んでいった。 あの頃、まっすぐに自分だけを見てくれていた少年が、名声に染まって少しずつ変わっていく――その現実を受け入れきれずにいる自分がいた。 祈人は夜音との関係を何度も否定していたが、朝香には分かっていた。 彼の思いは、もう夜音の方に傾き始めていることを。 彼が朝香に渡したパールのペンダントも、夜音に贈った高価なブレスレットを買ったときについてきたものだった。 祈人は「朝香を守るため」と言い、他の芸能人と連絡を取らせないようにしてきたが、朝香の人脈は広い。夜音がSNSでブレスレットを自慢げに投稿した写真は、すぐさま朝香のもとに届いた。 朝香はその話題をさりげなく口にする。二日前、ロケ車の冷蔵庫でブランド物のリップを見つけた。夜音が最近SNSにアップしていたのと同じ色、同じシリーズだった。 祈人はその瞬間、動揺を隠せなかったが、すぐに平静を装い、不自然な理由で責任をアシスタントの由紀に押し付けた。 「今度、由紀にはちゃんと言っておくよ。暑いからって、勝手に俺の冷蔵庫に口紅を入れるなって」 取り繕うように、祈人は朝香を抱き寄せる。大きな体で朝香を包み込み、首筋に顔を埋めると、さりげないフローラル系の香水の香りが微かに漂った。 低く甘い声で、優しくささやきながら朝香をなだめる。 「朝香は俺にとって一番大事な人なんだ。誰にもお前を傷つけさせたりなんてしない」 車を降りる前、祈人は名残惜しそうに朝香の頬に頬を寄せ、何度も振り返りながらその場を去っていった。 その後ろ姿には、まるで情熱を演じる俳優のような気配が漂っていた。 朝香は何も言わなかったが、口紅以外にも、ロケ車の助手席の隠しスペースで破かれたスポーツブラを見つけていた。 まるで誰かに見つけてほしいと言わんばかりに、肩ひもには「AY」の刺繍が残されていた。 第3話 スタジオではアクションシーンの撮影準備が進んでいた。朝香は適当に隅のほうに座り、無意識のうちに祈人の姿を探していた。 だが、視線の先で祈人の向かいにいた夜音と目が合ってしまう。 夜音は美しい顔に、挑戦的な笑みを浮かべている。 わざとらしく下着のストラップを直し、こちらを挑発するような目を向けてきた。 そして芝居の流れを利用し、体をくにゃりと祈人の胸元に預けていく。 朝香が夜音と初めて会ったのは、一年前の病院だった。 真夜中の二時か三時頃、祈人が酔いつぶれた夜音を連れてやってきた。 夜音はまともに立てないほど酔っていて、額には血が滲む傷ができていた。 ちょうどそのとき、別の患者が急変し、院内は慌ただしくなっていた。 けれど祈人は、必死の形相で「どうしても夜音を先に診てほしい」と朝香に頼み込んだ。 その後、夜音は朝香の規則違反を病院に実名で通報する。 それが原因で朝香は職を失い、他の病院にも雇われなくなってしまった。 このとき、祈人はまだ朝香が現場にいることに気づいていない。 夜音が倒れ込んでくるのを、ごく自然な手つきで受け止めると、彼女の鼻先を愛しそうに指でなぞる。 周囲の視線も気にせず、夜音を腕に抱いてくるりと回り、祈人の瞳は星空のようにきらめいていた。 「ただの仕事相手」――そう言っていたはずなのに、祈人が夜音に向けるそのまなざしは、かつて自分に向けていたものと何も変わらないように思えた。 こんな場面は、以前も何度となくあった。 そのたびに朝香は悔しくて泣いて訴えたものだったが、今は静かに座ったまま、何も言わない。 祈人が驚いた顔でこちらを見ても、朝香は礼儀正しく手を振ってみせた。 その瞬間、祈人の顔はさっと青ざめ、反射的に夜音を突き放す。 「朝香、ここじゃ話せない。家に帰ったらちゃんと説明するから」 祈人は耳元でそうささやいた。声は誰にも聞こえないほど低い。 朝香は胸の奥がきゅっと痛み、無理やり笑みを作った。 自分はそこまで人目に触れさせたくない存在なのか―― 外では恋人の存在を隠し、言い訳ばかり重ねられるこの関係が、なんとも情けなく思えた。 背を向けて涙をこらえ、振り返るときにはまた微笑みを装う。 「大丈夫、分かってる」 そう、小さな声でだけ答える。 自分で始末をつけて、静かにこの場所を去るつもりだった。 祈人に自由を返せば、もう苦しい言い訳を重ねなくて済む。 それが一番いいのだと、自分に言い聞かせる。 その後、祈人は撮影本番に呼ばれるが、朝香の顔色があまりにも悪くて、何度も近寄ってきては、小さな声で言った。 「朝香、俺の立場が安定したら、必ずお前と結婚する」 朝香は微笑みながら首を振る。 祈人が背を向けた瞬間、彼にというより自分自身に言い聞かせるように小さくつぶやいた。 「もういいの」 これ以上、祈人にしがみついていたくない。 日の当たらない恋も、もう呼びかけても目を覚まさない相手も、朝香をひどく疲れさせていた。 朝香は用意しておいた資料一式を由紀の前に差し出す。 そこには、これまで管理してきたファンコミュニティやSNSアカウント、祈人の日常の細かな習慣までが記されていた。 特に、祈人が頭痛を訴えたときの対処法については、三枚にもわたるリストを用意していた。 「朝香さん、まさか祈人さんのプライベートアシスタントだっただけじゃなくて、ファンのリーダーまでやってたなんて! 八年前のことまで知ってるなんて……まさか朝香さんが、祈人さんを八年間支えてきた人なんですか?」 ――ただそばにいただけじゃない。 祈人は朝香にとって、最初の患者だった。 大学二年のとき、山で薬草を探していた朝香は、沢のほとりで倒れている祈人を見つけた。 業界の大物に逆らい、仕事を干され、失意の中でうつ病を患っていた祈人。 一番苦しかった三年間、朝香は雨の中で傘を差し、外からの攻撃をすべて防ぎ、 夜の闇の中でそっと寄り添い、笑顔を引き出し、朝まで話し相手になった。 祈人もまた、朝香を裏切ったわけではない。 朝香のために公務員を辞め、撮影現場に戻り、端役から這い上がった。 どんなにきつくても、どんなに汚れても、全部引き受けて働き、朝香の祖母の医療費を稼ぎ、彼女が大学院に進む費用も工面し、自分は毎日パンと野菜だけの質素な食事でやりくりした。 それでも学校に会いに行くときは、心配をかけたくなくて新品の服を着て行った。 あの頃の祈人は、本当に最高の彼だった。 電話越し、朝香が泣きながら「会いたい」と言ったとき、祈人も声を詰まらせてこう言った。 「泣くなよ、俺、今は抱きしめてやれないんだから」 第4話 気がつくと、注文していたアフタヌーンティーがもう運ばれてきていた。 朝香は先日、カフェの店主の不眠症を治してあげたばかりだった。 そのお礼として、今日限定のキャビア入りヨーグルトスコーンを、特別に祈人たちのチームに優先してもらった。 一箱八個入り。 祈人が二つ、監督が二つ、アシスタントの由紀が二つ。 残りの二つは、資料の受け渡しを終えた後、自然な流れで朝香の手元に残った。 思いがけず、そこで「もっと祈人の立場を考えてほしい」ときつく咎められることになった。 「朝香、なんでスコーンを夜音にも持っていかないんだ?自分で食べちゃって。 今、俺は夜音とペアを組んでるって分かってるよな。そういう行動、現場での俺の立場を考えたことある?」 祈人は不機嫌そうに顔をしかめ、冷たい口調で朝香に当たる。 朝香は瞳がかすかに震えたが、震える手を必死で抑えて、かろうじて微笑みを作った。 そのとき初めて気づいた。 もう、自分は祈人の中で、好きなものを自由に食べることさえ許されないほど、価値のない存在になってしまったのだと気づいた。 唇をかみしめ、涙をこらえる。 涙越しににじむ視界で、彼女は意地を張りながらも店主に追加でスコーンを二つ頼み、夜音へと差し出した。 夜音が散々好き嫌いを言いながらアフタヌーンティーを食べ終えるころ、撮影チームはすでに次のロケ地へ移動していた。 距離はそう遠くない。歩いても十数分ほど。 だが、ちょうど運悪く小雨が降り出す。 三人で一つだけしかない傘。 祈人は当然のように朝香のバッグから傘を取り出し、得意げな顔で夜音のもとへ駆け寄ると、朝香をその場に残して、夜音と二人で一つの傘に入り歩き出した。 本当は大した雨でもないのに―― 朝香の心は、雨に打たれるよりずっと冷たくなっていた。 すれ違いざま、夜音が冗談めかして祈人をからかう。 「祈人さん、プライベートアシスタントを置いてきぼりにして、私だけ面倒見てていいの? もし彼女が悲しくなって帰っちゃったら、どうするの?」 その皮肉交じりの言葉が、鋭いナイフのように朝香の胸に突き刺さる。 祈人は少し面倒くさそうな顔をして、後ろをちらりと振り返り、どこか白けたような笑みを浮かべると、 「彼女には行く場所なんてないよ。 ここで仕事できてるだけでもありがたいんだ。 どこに行くっていうんだよ」 そう言い放った。 その一言は、朝香にとって容赦ない大雨そのもので――全身を濡らし、心の奥まで冷やしていった。 この一年、プライベートアシスタントとして、祈人の「唯一の家族」だと周囲には紹介されながら、実際はただの都合のいい存在。 彼のために理不尽な思いをしても、そのことに自己満足していた自分が滑稽に思えた。 結局、「かけがえのない存在」なんて、祈人の都合次第でいくらでも代えが利くのだ。 自分ひとりが我慢すれば、みんなが幸せ――そうやって切り捨てられるだけだった。 朝香はもう、次のロケ地へ向かう気力も残っていなかった。 愛する気持ちは、呼吸のたびに胸を刺す痛みへと変わっていく。 やるべきことは全部終わった。もう、身を引くときだ―― そう思いながら、小雨の中を歩き、やっとの思いで仮住まいの別荘にたどり着く。 しばらくして、由紀から涙声で電話がかかってきた。 「大変、朝香さん!夜音さんがスコーンを食べて食中毒で倒れちゃったの!」 朝香は息を切らせながら走った。 着いた途端、夜音のマネージャー・矢野に激しく突き飛ばされた。 「朝香、お前、どうかしてるんじゃないのか! 祈人が手に入らないからって、夜音の食べ物に毒でも入れたのか? そんな卑劣なことまでやるとは! 祈人さんもどうかしてるよ、こんな女をそばに置くなんて」 頭が真っ白になり、何も言い返せずに祈人を頼るような目で見つめる。 廊下を冷たい風が通り抜ける中、祈人は壁にもたれ、腕を組んだまま眉間を押さえていた。 その目には、深い失望の色だけが浮かんでいた。 矢野は感情のまま足を上げ、朝香を蹴ろうとした。 朝香は思わず頭をかばったが、予想していた痛みはやって来なかった。 「矢野さん、やめてください。 俺の顔に免じて、女性には手を出さないでほしい。 彼女は、ただ一時的に気が動転していただけです。 必ず反省させて、きちんと責任を取らせますから」 祈人は冷たい顔でその場をおさめるが、その一言一言が、朝香が「毒を盛った」という疑いを裏付けるものだった。 第5話 その場に立ち尽くして三秒――やっと朝香は悟った。 この世界には、もう無条件で自分を信じてくれる人なんて誰もいない。 しばらくして、椅子の背をつかみながら、朝香はゆっくりと床から立ち上がった。 歯を食いしばり、一語一語をしぼり出すように訴える。 「私はやっていません。何度聞かれても、毒なんて盛っていません!」 矢野マネージャーは怒りにまかせて、手に持っていた固いビジネスバッグで朝香の頭を強く殴りつけた。 その拍子に、朝香の頭が壁にぶつかり、鈍い音が響く。 額から温かい血が流れ落ち、まぶたを伝って、白い服に鮮やかな赤がじんわりと滲んでいく。 それでも、朝香は黙ることなく、毅然と顔を上げ、こみ上げる涙を必死に押し戻した。 「医師としての誓いに従い、私は絶対に医徳を守る。 誰かを救うために医者になったんです。 だから、やっていないものは、やっていません!」 夜音はどんな策略で朝香を陥れることもできる。 でも、医師としての誇りだけは、決して踏みにじらせはしない。 「ふざけるな、いい加減にしろよ!」 矢野がシャツの袖をまくり、今にも手を上げそうになったそのとき―― 「やめろ!」 祈人がようやく低い声で制した。 「ここは病院だぞ!」 ――それから三時間。 ようやく救急室の扉が開く。 だが中で手術を受けていたのは、夜音ではなかった。 慌てて病室へ駆けつけると、夜音は気だるそうにベッドでぶどうを剥いて食べていた。 大きな目で無邪気そうに「ごめんなさい」と言いながら、「胃洗浄のあと眠くなって寝ちゃった。 みんなに伝えるの、うっかり忘れてたの」としれっと話す。 ――うっかり、だなんて。 みんなが入り口で息を詰めて待っていたというのに、夜音は一言で済ませてしまう。 その手口の巧妙さに、朝香は言葉を失った。 徹夜明けの朝香は、まだ昼間の雨で濡れたままの服を着ていた。 体は重く、頭がぼんやりしている。 病棟のベンチでしばらく休み、ようやく立ち上がろうとしたとき、アシスタントの由紀が慌てて駆け寄ってきた。 「朝香さん、大変!祈人さんがエレベーターに閉じ込められてるの! お願い、助けてあげて!」 助けを求められれば、医師として反射的に走り出してしまう。 足元はふわふわして、力が入らなかったが、朝香はとにかく由紀についていった。 現場につくと、朝香は壁に手をついて、必死に呼吸を整える。 喉はからからに乾き、体中が熱く火照っている。 「警察には連絡した?」 由紀は戸惑いながら答える。 「祈人さんが、イメージダウンになるからって、通報しないでくれって……」 おそらくエレベーターは地下二階で止まっているのだろう。 朝香と由紀は階段を駆け下りる。 地下への入り口で、由紀が体を震わせながら言った。 「朝香さん、地下二階って、霊安室があるんだよ…… やっぱり林田さんたちが来てから、祈人さんを助けに行ったほうがいいんじゃない?」 「だめよ!」 祈人には閉所恐怖症があり、長く閉じ込められると、再びうつ病の発作が出る恐れがある。 もう気持ちは冷めてしまったはずなのに、朝香は医師として見捨てることができなかった。 急いで地下二階に駆け降り、朝香は何度もエレベーターの扉をたたいて叫ぶ。 「祈人!聞こえる?」 返ってくるのは虚しい反響だけ。 頭はくらくらし、体は熱くなったり冷えたりを繰り返す。 それでもどこからか力をふりしぼり、エレベーターの扉をこじ開けて、隙間からスマートフォンで中を照らしてみようとした。 だがバランスを崩し、手にしていたスマートフォンが闇の中へと落ちてしまう。 そのとき、ただ一つの出口である階段のほうから、急いで扉を閉める音が響いた。 「やめて!まだ朝香さんが中にいる!閉めないで!」 第6話 朝香はようやく悟った――由紀はだまされていたのだ。 祈人がエレベーターに閉じ込められているなんて、最初から嘘だった。 唯一の救いは、アシスタントの由紀が外で助けを呼んでくれるはずだということだった。 だが次の瞬間、外から由紀のうめき声が何度か響き――それきり、ぴたりと音が途絶えた。 辺りは死んだような静寂に包まれ、朝香は力なく壁にもたれかかった。 朝香は力なく壁にもたれかかる。 頭がぼうっと熱く、視界は暗く霞む。 全身が冷え切り、膝ががくがくと震えて、思うように動けない。 深夜の霊安室には、言葉にできないほどの不気味な気配が漂う。 闇の中から無数の目が自分を見ているような錯覚に襲われ、腐敗した遺体の臭いに、胃がひっくり返る思いがする。 冷たい風が何度も吹き抜け、どこかからかすかな声のようなものまで聞こえてくる。 心臓が激しく波打ち、神経は張り詰めた糸のようになっていた。 どれほど時間が過ぎたかわからない。 まるで永遠のように感じたそのとき――微かに誰かの呼ぶ声が届いた。 「朝香、地下二階にいるのか?」 祈人の声だ! 思わず心臓が跳ね上がり、朝香は叫びそうになるのを慌てて口を押さえた。 ほとんど泣き声で、切羽詰まった声を絞り出す。 「祈人、私はここ!早く助けて!」 これほど必死に、祈人にそばに来てほしいと願ったことはなかった。 祈人が自分の声を聞いたのは間違いない。 だが、扉の方へ駆け寄ろうとした祈人は、突然現れた夜音の声に足を止められる。 「祈人さん、何してるの? 今日の撮影、すごく大事なシーンなのよ。 今すぐメイクに行かないと間に合わなくなるわ」 扉の隙間から、祈人が夜音の手を強く振り払うのが見えた。 「朝香がまだ中にいる。俺はまず彼女を助ける」 まぶたが重く、意識も遠のきそうになったが、その一言で朝香は少しだけ楽になった。 喉が焼けつくように渇き、しゃがれ声で必死に叫ぶ。 「祈人、私はここ!ここにいる!」 二十歩、十歩――祈人が近づいてくる。 あと五歩。朝香の胸に、不思議な安堵の気持ちが湧き上がった。 ――しかし、夜音はしなやかに祈人の腰に腕を絡め、ささやきかける。 「祈人さん、本当にそれでいいの? アシスタントひとりのために、監督を怒らせる気? せっかく苦労して手に入れた今のポジション、こんなことで全部失うつもり?」 その数言で、祈人の足が止まった。 夜音の迫力と誘惑に、祈人の意志は揺らぎ始める。 「ねえ、私があとで矢野マネージャーに頼んでおくから、朝香さんは任せて。 今は一緒に行こうよ」 夜音の黒い瞳が、みじめな朝香を見下ろし、皮肉げに笑っている。 祈人はしばらく迷った末、苦しそうな目で朝香を見やりながらも、結局夜音に手を引かれ、朝香のいる方とは反対の出口へと消えていった。 けれど、朝香はもう、深くは失望しなかった。 ただ、祈人を呼ぶ声がだんだん小さくなっていき、最後にはただの独り言のようになった。 その週末、朝香と祈人が交わした言葉は、片手で数えられるほどしかなかった。 朝香の変化に気づいた祈人は、気まずそうに鼻をさすりながら口を開く。 「朝香、本当に助けたかったんだ。 でも、現場じゃ俺の一存でどうにもできないこともある。 もし俺が監督に嫌われて、この仕事を失ったら……朝香だって、俺を責めるだろ?」 滑稽のあまり、思わず笑ってしまった。 朝香は、祈人の泳ぐ視線をまっすぐに受け止めて言った。 「それが、夜音さんが私をまた丸一日閉じ込めたことへの言い訳?」 もしアシスタントの由紀が、こっそり食べ物や薬を差し入れてくれなかったら―― いまごろ朝香はどうなっていたかわからない。 「祈人、私が本当に必要としていたとき、あなたはそこにいなかった。 だから、これからは――もう、来なくていい」 第7話 この喧嘩のあと、祈人は初めて家に戻らず、一晩を外で明かした。 「どれだけ遅くなっても必ず帰る」と交わしていた約束も、すっかり忘れてしまっていた。 祈人は泥酔したまま夜音に家まで送り届けられ、首筋や胸元には無数の赤い痕が残っていた。 朝香が祈人を支えようと近づくと、夜音はあわててシャツの襟を直す。 焦って見せかけてはいるが、実際はわざとらしく胸元のキスマークを隠し、朝香の目を引こうとしているのが見え見えだった。 祈人の視線の届かないところで、夜音は意味深な微笑みを浮かべる。 酔い潰れた祈人を寝かしつけると、夜音は口紅を取り出して鏡の前で化粧直しを始めた。 まるで自分が本命だと宣言するかのように、「私と祈人さんはもともと婚約してて、親同士が話し合って公式に発表することになったの」と言い放つ。 「祈人さんが世間から干されてた三年間、誰もそばにいなかったのが幸いだったわ。 もし他に誰かいたら、私にこんな幸運は回ってこなかったかも。 そう思わない?朝さん」 胸の奥をきつくわしづかみにされるような痛みに、朝香はしゃがれ声で問い返した。 「……それ、祈人が自分で言ってたの?」 夜音はその大きな瞳を揺らしもせず、はっきりとうなずいた。 「そうよ。祈人さんが、 『この数年、どうしても夜音のことが心から離れなくて、 それがなければとっくに諦めてた』って」 心臓を鋭くえぐられたような痛みが走り、朝香はその場に立ち尽くした。 それなら、この八年間、祈人を支え続けた自分は―― 一体、何だったのだろう。 ただの冗談、笑い話のようなものだったのか。 これまで夜音とのいさかいで気まずくなったときは、いつも朝香が折れて祈人を慰めてきた。 でも今回は、もう自分を犠牲にしてまで関係を修復したいとは思わなかった。 すると、今度は祈人のほうから、珍しく自分から歩み寄ってきた。 けれど彼が手渡してきたのは、今にも枯れそうな野花一輪―― それを朝香の耳元に挿し、「お前に一番似合う」と満面の笑みで褒めそやす。 朝香は、指が掌に食い込むほど拳を握りしめて、かすかに苦い笑みを浮かべた。 夜音には九千九百九十九本のバラを贈り、朝香には道端で摘んだ一輪のしおれた野花。 「お前は特別だから、こういう花じゃなきゃ似合わない。 他のありきたりなものなんて、お前にはふさわしくないよ」 そんな言葉に、朝香は乾いた笑いを漏らすだけだった。 そして、スマートフォンを取り出し、夜音がSNSで自慢げに投稿したバラの写真を祈人に突きつけた。 「祈人」 「ん?」 「両方にいい顔して、疲れない?」 「……」 朝香はこれまで、祈人の本心を疑ったことはなかった。 だが本心というものは、こんなにも簡単に変わってしまうのだ。 祈人は言葉に詰まり、顔を真っ赤にして黙り込む。 いつものように、噂話や「家族のような存在」という言い訳を並べ立てたが、朝香はただ「うん」と静かに答えるだけだった。 そっと祈人の頬に触れようとした手は、空中で止まる。 その目には、どうしても消えない悲しみが宿っていた。 「祈人、私は一度もあなたを見捨てたことなんてない」 ――ただ、その気持ちが、昔ほど激しく表に出なくなっただけ。 祈人は一瞬戸惑い、朝香の表情をじっと見つめる。 どこかいつもと違う。 けれど、八年間ずっと祈人だけが頼りだった朝香には、他に行く場所なんてない――そう思うことで、祈人はどこかで自分を安心させていた。 飛行機のチケットは明後日の夜に予約されていた。 その日、祈人が家に帰ると、夜音が当然のようにスーツケースを持ってリビングにいた。 数日間、夜の撮影が続くため、夜音がこの別荘で一緒に暮らすことになったのだ。 部外者の朝香には、それについて口を挟む権利はない。 夜音は家中を好き勝手に歩き回り、祈人の部屋に入り込んでは、ベッドの上で大の字になってはしゃいでいる。 「林田さんも由紀さんもいないなんて、普段から住んでるのはあなたたちだけなのね。 知らない人が見たら、まるで新婚夫婦みたいだと思うんじゃない?」 以前、夜音が突然やってきたときも、洗面所のペアカップや、ベランダのペアパジャマを見ていたはずだ。 もし最初から二人の関係に気づいていなければ、夜音がここまで執拗に朝香を陥れたり、わざと祈人を誘惑したりはしなかっただろう。 祈人は慌てて「ただの知り合い」だと装い、朝香との距離を取ろうとする。 翌朝、朝香が気づくと―― 夜音は朝香の歯磨きコップを勝手に使い、さらに彼女のパジャマまで着て、リビングを堂々と歩き回っていた。 グラマラスな体つきの夜音は、家では下着をつけずに過ごし、そのたびに弾む胸元が目を引く。 そして、朝香は、祈人の視線に夜音への熱い欲望が宿っていることを、痛いほど思い知らされた。 第8話 「にゃあ〜」 二匹の三毛猫――みたらしともなか――が、元気よく夜音の元へと駆け寄った。 しかし夜音は思わず悲鳴をあげ、顔色を変えて祈人の胸にしがみつく。 そのくせ、朝香の目を盗んで猫のお腹を蹴り飛ばすという卑劣な真似までした。 「夜音さん、何してるの!?」 怒りを抑えきれず、朝香は夜音に向かって怒鳴った。 この子たちは、朝香が十年も大切に育ててきた猫だ。 祈人と出会うよりも前から、ずっと一緒にいた家族同然の存在―― みたらしももなかも臆病な性格で、普段は知らない人に寄っていくことなんてない。 でも今日は、夜音が朝香のパジャマを着ていたせいで、興味を持って近づいただけだった。 祈人も、彼らが人に危害を加えるはずがないことを知っている。 それでも彼は、きつい表情で「猫は外に出してくれ」と声を荒げた。 夜音は猫たちを睨みつけ、その瞳に暗い憎しみを滲ませる。 「祈人さん、この二匹、本当に厄介だわ。 朝香さんに頼んで、毒餌でも買わせておいてよ。 寝るときにうるさいし、まとめて始末しちゃえばいいのに」 「そんなの絶対にダメ!」 朝香は猫を庇い、目を真っ赤にして夜音をにらみ返す。 「私が生きている限り、絶対にこの子たちに指一本触れさせない!」 パジャマやコップのことで夜音と争うつもりはなかったが、この猫たちだけは、誰にも傷つけさせない――そう強く心に決めていた。 嫌な予感が胸をよぎり、朝香はその夜すぐにペットの輸送業者に連絡を取った。 だが翌朝目を覚ますと、猫たちの姿が消えていた。 頭の中に警鐘が鳴り響き、朝香は別荘の隅々まで必死に探し回る。だがどこにも見当たらない。 焦りで胸が押しつぶされそうになりながら歩き回っていると、最上階から悲痛な猫の鳴き声が聞こえた。 朝香の全身が一瞬で強張る。 慌てて屋上へと駆け上がると、そこには―― 夜音が、やかんの熱湯を片手に、みたらしともなかに浴びせかけていた。 二匹の猫は全身を震わせ、苦しげに身をよじって、やがて力なく床に倒れ、呼吸もかすかになっていく。 朝香はその場に崩れ落ちそうになるが、矢野マネージャーに無理やり押さえつけられ、動けなくなった。 夜音は瀕死の猫たちを片手でぶら下げ、屋上の手すりにまたがる。 一歩踏み出せば、すぐにでも転落しそうな状態だった。 振り返りながら、涙を浮かべて祈人に訴える。 「祈人さん、私、何もしてないの。 信じてくれないなら、私、ここから飛び降りて死ぬから」 猫たちは、朝香にとって最後の心の拠り所だった。 すべてを失っても、たった二匹だけは守りたかった―― 朝香は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、苦しげに祈人にすがりつく。 「お願い、猫を助けて……」 だが、肝心なときになっても、祈人は夜音を手元に引き戻す選択をした。 その目の前で、猫たちは四階から真っ逆さまに落下し、命を落とした。 朝香の中で、何かが音を立てて崩れ去った。 祈人が後悔してその事実に気づいたときには、もう遅かった。 朝香は彼に何の言い訳もさせることなく、そのまま静かに飛行機に乗り、祈人の世界から姿を消した。