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雪の果ての恋文
婚礼を間近に控えた原田小春(はらた こはる)は、婚約者である白石真一(しらいし しんいち)に陥れられ、命の瀬戸際に立たされる。絶体絶命の...
Chương (1)
第1章
婚礼を間近に控えた原田小春(はらた こはる)は、婚約者である白石真一(しらいし しんいち)に陥れられ、命の瀬戸際に立たされる。絶体絶命のその時、幼なじみの高峯健司(たかみね けんじ)が彼女を救い出し、いつまでも守り続けると誓ったのだ。
しかし、結婚後の日々は小春の望むものとは程遠く、健司の愛の裏には恐るべき秘密が潜んでいた。彼女がこれまで大切にしてきたものは、結局は他人が巧妙に仕組んだ嘘に過ぎなかったのだ。
第1話
結婚式を目前に控えたある日、私、原田小春(はらた こはる)の婚約者である白石真一(しらいし しんいち)は、原田恵(はらた めぐみ)が交通事故に遭い、失明したことで、そのすべての責任を私に押し付けた。
そして彼は、私を冷蔵倉庫に閉じ込めたのだった。
まる一日一夜、私は冷たい隅っこに丸まり、体は凍えて感覚を失い、意識も次第に遠のいていった。
凍え死ぬのだろうか――そう思ったその瞬間だった。
幼なじみの高峯健司(たかみね けんじ)が、冷蔵庫のドアを蹴破って、私を救い出してくれた。
彼の手は血で染まっていたのに、そんなことはお構いなしに、ただ私を強く抱きしめ、その眼差しには痛ましさがあふれていた。
それを聞きつけた母は、怒りのあまり我を忘れて車で駆けつけようとしたが、途中で事故を起こし、重傷を負ってしまった。
高額な手術費に直面し、私はやむなく白石真一のもとへ行き、母が私にくれた持参金を返してほしいと懇願した。
ところが彼は、同情の色すら見せず、冷ややかに笑いながら氷水を私に浴びせ、「出て行け」と吐き捨てたのだった。
絶望のどん底にいたその時、高峯健司が突然現れた。彼は高額な手術費用を全額立て替えてくれただけでなく、深い愛情を込めてプロポーズまでしてくれたのだ。
「小春、あいつが君を愛してないんなら、俺が貰う。一生守ると誓う。決して離したりしない」
けれども、母は手術中に脳出血を起こし、結局、私の元から永遠に去ってしまった。
泣き崩れる私を彼はしっかりと抱きしめ、決して離さないと約束したのだった。
結婚して五年、健司の私への愛情は、まるで燃え盛る炎のように変わらず熱かった。世界中が彼が私を命よりも愛していると知り、私たちはついに愛の結晶を授かろうとしていた。
その知らせを健司に伝えようと、心躍らせていた矢先のことだ。彼と秘書の会話が耳に入ったのだった。
「社長、ご指示通り、ご遺言の全財産の受益者を原田恵様に変更いたしました。それと、お求めになったバッグも恵様にお届け済みです。残りの追加購入品はどういたしましょう?恵様はあまりお気に召さないご様子で……」
「……じゃあ、小春にやれ」
私はドアの前に立ち尽くし、体は震えが止まらず、頭の中は真っ白だった。
そうだったのか……健司が私にくれたスカーフやブレスレット、マグカップ……愛の証だと思っていたそれらの贈り物は、全て原田恵が欲しがらなかったものの残りだったのだ。
心臓をギュッと握りつぶされるような痛みが走り、息もできないほどだった。
彼らはいったいいつから……?
電話の向こうで、秘書の声は明らかな媚びを含んでいた。
「社長、本当に恵様にご執心なんですね!五年前も、小春様のお母様を事故に遭わせて、その角膜を恵様に移植させるためにお手を回されたとか。今度は、遺産のすべてを恵様に……それは数百億円もの資産ですよ!」
健司は一瞬の躊躇もなく、即座に答えた。
「恵が喜ぶなら、俺は何だってする」
秘書はまだ何か言いたそうだったが、躊躇いながらも、ついに口にした。
「でも……奥様がご存知になったら、お悲しみになるのでは……?」
健司は長い間沈黙した後、揺るぎない口調で言った。「昔、俺は彼女に負い目がある。だから一生面倒を見ると決めたんだ。彼女に対しては、後悔も何もない」
秘書がさらに何か言おうとしたが、健司は電話を切り、重い沈黙だけが残った。
健司は窓辺に立ち、煙草をくわえていた。煙の向こうの彼の表情は陰り、何を考えているのか全く見えなかった。
そして私――私はそのままドアの前に立ち、足がガクガクと震え、今にも倒れそうだった。
彼の私への愛が、最初から最後まで偽りだったなんて。この五年間、私が大切にしてきた幸せは、彼の罪悪感に過ぎなかったなんて。
あの優しい抱擁も、深い愛の言葉も、全ては緻密に計算された嘘だったのだ。
絶望が潮のように押し寄せ、私を完全に飲み込んでいった。
私は思い返した。幼なじみとして共に過ごした二十数年、いったいいつから高峯健司は原田恵に心を奪われたのだろうかと。
じっくり考えてみれば、実は前兆はあった。ただ、私は全く気づかなかっただけなのだ。
第2話
幼い頃、健司が家に来るたび、決まって最初にこう尋ねたものだった。「恵はいる?」それを聞くたび、私はいつも、彼がただ我が家に慣れているだけなのだと思い込んでいた。あるいは、恵が私の「妹」だから、ついでに聞いているだけだと。
大きくなってからも、彼が私に贈り物をする時は、いつも入念に二つ用意していた。一つは私のため、もう一つは原田恵のためだ。私はそれも、彼が私を愛しているからこそ、その愛が家族へも移ったのだと思い込んでいた。あるいは、私を大切に思う気持ちが、自然と身内にも向けられたのだと。
けれど、今になって思えば、あれは彼が恵を偏愛していた証拠に過ぎなかった。私は、彼の本心を隠すための、単なるカモフラージュでしかなかったのだ。
かつて私は、彼こそがこの世で最後に私を心から大切にしてくれる人だと信じていた。
彼の些細な仕草さえも、愛の証だと受け止めていた。でも今、その「愛」と呼ばれていたものは、まるで入念に仕組まれた芝居だった。そして私は、真実を知らされず、騙され続けた愚か者だったのだ。
母が亡くなって間もなく、恵の目は奇跡的に見えるようになった。
当時、私はその回復をただ心から喜んでいた。それが、私の母の犠牲によるものだとは、考えもしなかった。
母が命と引き換えに得た光が、彼の手によって、恵への取り入り道具に使われていたのだ。
つまり、彼がしてきたことの全ては、ただ恵を喜ばせるためだけだったということか。
白石真一に傷つけられた後、傷だらけの私の心は、ようやく自分を本当に大切にしてくれる人に出会えたと思い込んだ。
健司は救いだと、暗闇の中の光だと、再び愛を信じさせてくれる人だと、そう確信した。
しかし今、その全てが泡と消えた。
彼の愛は、最初から入念に計算された策略だった。甘い砂糖衣に包まれた毒薬だった。その甘さに溺れさせておきながら、真実が明るみに出た時には、私の心をズタズタに引き裂くためのものだった。
私は玄関に立ったまま、涙が止まらなかった。
無意識にお腹にそっと手を当てた。そこには、私たちの愛の結晶、新たな命が宿っているはずだった。
けれども、今や愛さえも消え失せた。彼が、この命のそばにいる理由なんて、どこにあるだろうか?
私は一瞬のためらいもなく、震える指でスマートフォンを取り出し、病院の予約ダイヤルを押した。
「もしもし、中絶手術の予約をお願いします」
三日後の手術予約書を受け取ったばかりの私が、廊下で向かいから歩いてくる二人とばったり出くわした。健司が、恵を支えながら検査室へと向かっていたのだ。
二人が並んで立つ姿は、健司が恵を細心の注意で守り、その眼差しには優しさが満ちていた。
事情を知らない人が見れば、きっと彼らこそが本当の夫婦だと思うだろう。
私を見た健司は、足を止め、一瞬恵をチラリと見て、気まずそうな表情を浮かべた。
「小春?どうして病院に?どこか悪いのか?言ってくれれば良かったのに……」
彼の声には緊張が混じっていて、まるで本当に私を心配しているかのようだった。
しかし、私はもう彼の本性を見抜いていた。私に向けられる彼の視線は、いつも偽りに満ちていた。その温もりが本物なのは、原田恵を見つめる時だけなのだ。
「大丈夫。ちょっと調子が悪くて、病院に来ただけよ」
そう言うと、健司は慌てて私の体を支え、心配そうに見つめた。
「どこが悪いんだ?医者はなんて言った?」
一方の恵は、不満そうに私を睨みつけた。
「今はもう大丈夫だから」
私はそっと彼の手を振りほどき、冷たく言い放った。
「そうか……それで、小春、午前中に何か良い知らせがあるって言ってたけど?」
結婚して以来、私はずっと子供が欲しいと思っていた。この世界に、血の繋がった身内が欲しかった。
だが健司は、子供を持つことにはあまり乗り気ではなかった。私はそれを、彼が私の出産の苦しみを恐れているためだと思っていた。私を大切に思ってくれている証拠だと。
ところが一年前、彼は真剣な面持ちで私に言ったのだ。「小春、子供を作ろう」
その時、私は心の底から嬉しかった。彼が本当に心を変えてくれたのだと信じた。
冷蔵倉庫での事故で低温障害を負ったため、私の体は妊娠しにくくなっていた。妊活を始めて一年、西洋医学、漢方、ありとあらゆる民間療法を試したが、なかなか結果は出なかった。
そして昨日、ついに妊娠していることに気づいたのだ。
私は天が授けてくれた贈り物だと心から喜び、その知らせを一刻も早く健司に伝えたくてたまらなかった。
けれど今、真実が明らかになった。彼が心待ちにしていた子供は、おそらく恵の願いだったのだろう。
そして私は、ただ利用された道具に過ぎなかった。
深く息を吸い込み、必死に感情を整えた。溢れそうになる涙をこらえ、絶対に流させなかった。
「健司、お金が必要なの。手術を受けるために」
中絶手術のために。
第3話
健司の顔色が一瞬、曇った。だが、すぐに平静を取り戻した。
「小春、心配するな。いくら必要なのか教えてくれれば、すぐに手配するから」
私が答える間もなく、原田恵の声が泣きを含んで、すぐ横で響いた。
「健司お兄ちゃん!先生が親知らずが生えてきたから抜かないといけないって!」
健司の注意は一気に恵の方へ向き、彼はすぐに彼女の方へ向き直り、心配そうな表情を浮かべた。
「恵、怖がらないで。痛くならない方法を先生に聞いてくるからね」
恵は唇を尖らせて、目に涙を浮かべた。
「歯を抜いたら、美味しいものがいっぱい食べられなくなるの」
健司はそっと彼女の頭を撫でながら、甘やかすような口調で言った。
「大丈夫、いい子だね。治ったら、恵が食べたいものは何でも買ってあげるから」
目の前で繰り広げられる光景に、私の心は完全に奈落の底へと落ちていった。
恵が歯を一本抜くだけなのに、健司は命がけで心配し、目に溢れるのは憐れみばかり。
一方で私は、手術を受けるというのに、彼は軽く尋ねただけで、心配の色は微塵も見せなかった。
愛しているかどうかは、こんなにもはっきり分かるものなのか。
私はその場に立ち尽くし、目に涙を溜めていたが、もうこぼれ落ちることはなかった。心臓が氷漬けにされたように冷え切っていた。
「気分が悪いから、先に帰って休みたい」
私の言葉を聞いて、高峯健司はわずかに目を上げて私を一瞥しただけだった。その目には、慌てる様子も気遣いも微塵もなく、まるで他人を見るかのようだった。
「運転手に家まで送らせる。恵は抜歯するんだ。彼女が怖がっているから、俺はそばにいる」
こんなことは以前にもあった。恵にちょっとしたトラブルがある度に、健司はいつも真っ先に彼女のもとへ駆けつけた。私はずっと、彼が私を愛しているからこそ、恵にも優しくしてくれたのだと思っていた。
私はそれを彼の優しさだと思い、心の奥ではその優しさにさえ感動していた。
ところが今、真実が刃物のように、全ての幻想を突き刺した。
ようやく私は悟った。あのいわゆる「優しさ」は、私への愛のためでは決してなく、彼の心の奥底にある人が、最初から私ではなかったからだと。
私は背を向けた。足取りはふらふらとしていたが、振り返る勇気はなかった。
家に着くと、ドアに寄りかかった。目に涙が浮かんだが、もう流れ落ちることはなかった。
私は考え始めた。家の隅々まで知り尽くしているこの家で、健司の本心に気づかなかったのはなぜだろう。
ただ一ヶ所を除いては。
屋根裏の物置。
結婚して間もない頃、猫を探している時に間違ってそこへ入ってしまったことがあった。
中の様子をよく見る間もなく、健司に冷たく「出て行け」と言われた。その時の彼の目は冷たく無情で、口調は逆らうことすらできないほど厳しかった。
後で彼は説明してくれた。お手伝いさんだと思ったから、あんなに厳しくしてしまった、中には亡くなった母親の形見が入っていて、他人に入ってほしくなかったのだと。
だから、結婚して五年経っても、私は二度とそこへは行かなかった。
複雑な思いを抱きながら、私はゆっくりと屋根裏へと階段を上った。
ドアにはパスワードロックがかかっていた。
迷いながら恵の誕生日を入力すると、ロックが「カチッ」と音を立てて開いた。
ドアを押し開け、明かりをつけると、目の前の光景に私は瞬時に立ち尽くした。
物置全体に、原田恵の写真がびっしりと飾られていた。幼い頃から大人になるまでの一枚一枚が、丁寧に額装され、壁に掛けられていたのだ。
なんと、私たちの家に、健司はこんな場所を隠し持っていたのか。その中身は、すべて原田恵に関することだった。
物置にはソファが置かれ、その横には机があった。机の上は写真とノートで山積みになっていた。
震える手で、私はそれらの写真を一枚一枚めくっていった。一枚一枚が刃のように、私の心臓を深く刺した。
【今日、原田小春の家に遊びに行った。一目で恵を見つけた。彼女はとても綺麗だった。体が弱いと聞いたから、彼女に良いものは何でも与えて、元気に育ってもらわないと】
【恵が今日、僕に話しかけてきた。初めての言葉が「小春のことが好きなの?」だったなんて。まさか、と反射的に否定したけれど、彼女の目を見たら、一言も言葉が出なかった】
【恵が交通事故に遭った。小春の母親の仕業だと言っている。彼女は小春の母を恨んでいる。僕が調べたところ、単なる事故だった。でも、恵には角膜移植が必要だ。死んだばかりの人のものしか提供できない。恵が必要なら、小春の母の角膜を彼女に与えてやろう!】
……
写真はどんどん増え、書き込みはますます刺々しくなっていった。
その中に、なんと私たちの結婚写真が一枚混ざっていた。
写真の中の私たちは、まるで世界が祝福しているかのように輝く笑顔を見せていた。
裏返してみると、そこには原田恵への長い手紙が書かれていた。
便箋は少し黄ばんでいたが、文字は鮮明だった。
【恵、君が白石真一のことが好きなのは知っている。理解しているし、君を叶えてやりたい。たとえそれが僕にとって大きな代償を伴うことだとしても。だけど、君は体が弱い。誰かの支えが必要だ。そして、僕は君のそばを離れるわけにはいかない。
だから、僕は原田小春と結婚することに決めた。そうすれば、親族という名目で君のそばにい続け、もっとよく君の面倒を見られる。安心してくれ。僕はずっと君のそばにいる。それがどんなに辛くとも、君が僕を必要としなくなるその時まで、心からそう願っている。健司より】
読み進めるうちに、気づかないうちに涙が頬を伝い、ぼんやりと視界を滲ませた。
高峯健司、諺にあるように、愛ある者は寛容なし、愛なき者は常に裏切りをはかる。
私の愛があなたの目を見えなくし、好き勝手な行動への油を注いでいたのだ。
でも、今はもう目をしっかりと見開いた。
高峯健司、あなたのこと、もういらない!
第4話
魂が抜けたようにベッドに倒れ込んだ。体中の力がすっかり抜けて、重くて動けず、心の奥底から冷たさがじんわりと滲み出てくる。いつまでも晴れない。
目を閉じ、暗闇で心の痛みを覆い隠そうとした。しかし、砕けた記憶の断片が、まるで押し寄せる波のように、何度も何度も私の記憶を打ちつけてくる。
小さい頃から、私は父と母の手のひらで転がすように大切に育てられてきた。私の世界はシンプルで美しく、愛で満たされていた。
ところが、原田恵が来てから、すべてが変わった。
彼女は父の初恋の人が遺した子で、母親が交通事故で亡くなった後、父に引き取られて我が家にやってきたのだ。
幼かった私は、その背景にある意味を理解できなかった。ただ、妹ができて一緒に遊べるのはいいことだ、と単純に思っていた。彼女がおずおずと家に入ってくるのを見て、心の中は好奇心と期待でいっぱいだった。自分の一番好きなおもちゃを彼女に渡してあげるほどに。
しかし、すぐに気づいた。この家の空気がおかしくなっていることに。
母と父は大喧嘩をした。争いの声が家の平穏を破り、母は毎日泣いてばかりいるようになった。彼女の笑顔はどんどん減り、父の注意も、次第に私から離れていった。
なぜ妹が来ただけで、家がこんなにも見知らぬ場所に変わってしまったのか、私は理解できなかった。
母のうつ病が次第に深まるにつれ、父の関心がとっくに恵に傾いていることにようやく気づいた。
私が頑張って勉強し、一番を取って、ようやく父の一言の褒め言葉を引き出せる。なのに、恵は、簡単な童謡を一曲覚えただけで、やすやすと父の賛辞と抱擁を手に入れた。
その瞬間、私の心はゆっくりと冷めていった。
この家の中で、私は孤独を感じ始めた。誰も本当に私を気にかけてはくれず、私の存在は、もはや重要ではないかのようだった。
かつての婚約者だった白石真一さえ、彼女の軽い一言のために、私を冷凍庫に閉じ込め、死にかけさせたのだ。
私の存在は、この家にとって、あってもなくてもいいものだった。
高峯健司が現れるまでは。ついに救いに出会えた、と思った。
彼は他の誰とも違った。その目に映るのは私だけだった。
だが今となっては、真実が刃のように、すべての幻想を引き裂いてしまった。
彼が愛と言っていたものは、恵のために紡がれた嘘に過ぎず、私は単に彼が恵をなだめるための道具でしかなかったのだ。
最初から最後まで、私は本当の意味で彼の愛を手にしたことは一度もなかった。
混乱した思いに浸っていると、寝室のドアが開いた。
健司が入ってきた。相変わらずの優しい顔で、まるで何もなかったかのように。
「ただいま、小春。体調、良くなったか?」
その偽りの顔を見ると、抑えきれない怒りが込み上げてきた。今すぐ彼の頬を思いきり叩きつけ、偽りの優しさを徹底的に打ち砕いてやりたい。
「小春、どうした?気分でも悪いのか?冷や汗が出てるぞ」
健司の声が耳に届き、私ははっと我に返った。無意識に二歩後ろに下がり、彼との距離を置いた。
「大丈夫、ちょっと低血糖かもしれない。少し休めば治るわ」
「最近、赤ちゃんを授かる準備で疲れてるんじゃないか?小春、プレッシャーを感じすぎるなよ」
健司は相変わらずの甘やかすような口調で私の頭を撫でた。しかし今の私には、彼の一挙一動がすべて偽りにしか見えない。
「小春、最近お疲れ様。プレゼントだよ」
健司が差し出した口紅を受け取り、淡いピンク色のリップクリームに視線を落とした。
ふと、今日恵がSNSに投稿したことを思い出した。
写真に写っていた口紅は、どうやら私が今手にしているものと全く同じようだった。
添えられた言葉は、【『素敵だね』って、ただ口にしただけなのに、デパートを出る前に届いたんだ。大切に思われてるって感じるのって、本当にいいものね】というものだった。
なるほど、私がもらったプレゼントは、ただのおまけだったのか。
胸が酸っぱく締めつけられ、涙が目ににじんだ。でも、私は必死にこらえて流れ落ちるのを防いだ。
「この色、好きじゃないわ。他の誰かにあげて」
「小春、どうしたんだ?何か嫌なことでもあったのか?」
「今までプレゼントをあげた時、嫌だなんて一度も言ったことなかったじゃないか。プレゼントが大きかろうが小さかろうが、君はいつも喜んで受け取ってくれたのに」
以前は、健司がくれたものなら、何でも好きだった。彼が私を愛してくれていることが何より大切だったから。
でも今、彼の心そのものが偽物なら、どうして好きでいられよう?
健司はまったく訳がわからないといった様子だったが、結局それ以上は言わなかった。ただ、優しく私の鼻をこすり、甘やかすように言った。
「何色が好きなんだ?買いに行ってくるからな!小春の言う通りにするよ!」
彼は話題を変え、台所から真っ黒な液体の入ったお椀を持ってきた。
「まず薬を飲め。おばさんに二時間以上も煎じてもらったんだ」
「この漢方薬はすごく効くらしいぞ。さあ、飲め」
その漢方薬の椀を見て、さきほど健司が恵に宛てた手紙のことを思い出した。日付はちょうど一年前だった。
【恵は子供が好きだけど、痛いのも傷跡が残るのも怖がっている。だったら、小春に産ませて、その子を恵に預ければいいだろう】
私が心から待ち望んでいた子供さえ、恵を喜ばせるための道具に過ぎなかった。
以前はどんなに苦い薬でも、私たちの願いのためにと、すすんで飲もうとした。
でも今、その薬はまるで毒薬のように見え、吐き気を催させる。
「飲みたくないわ」
私の珍しく強い態度に驚いたのか、健司は数秒間言葉を詰まらせ、やっと口を開いた。
「どうしたんだ、小春?俺たちの子供が欲しくないのか?」
私は深く息を吸い込み、彼の目をまっすぐに見据え、声には一片の決意を込めた。
「もし私が子供を欲しくないと言ったらどうするの?」
第5話
健司の顔色が一瞬で変わった。さっきまでの優しい眼差しは一瞬で冷たい目つきに変わり、口調も強硬になった。
「小春、そんなこと言わないで。おとなしく薬を飲みなさい」
わたしは苦笑いしながら、健司が差し出した漢方薬を受け取ると、一気に飲み干した。
すると健司の表情はようやく和らぎ、ほんの少しだけ満足げな微笑みを浮かべた。
「小春は本当にお利口さんだね!体を温めるから、スープも飲んで」
彼は台所から湯気の立つスープの入ったお椀を持ってくると、そっと私の前のテーブルに置いた。
スープの表面は黄金色の油が光り、確かに美味しそうに見えた。
ただ……
「私、パクチー苦手なの」
スープの表面には、あふれんばかりにパクチーがたっぷりと乗せられている。緑が鮮やかで、ほとんどこぼれ落ちそうだった。
パクチーが好きなのは原田恵であって、わたしではない。
以前は、健司がただ忙しすぎて、わたしのそんな些細な好みまで覚えていられないだけだと思っていた。
でも、さっき屋根裏部屋で目にした光景が、その幻想を完全に打ち砕いた。
屋根裏には、壁一面に原田恵に関するメモがびっしりと貼られていた。
そこには恵が何を好み、何を嫌うかが克明に記され、恵がバナナは食べるけれどバナナ味のビスケットは食べないことまで、こと細かに書き留められていたのだ。
それでは、わたしは?彼の心の中では、わたしは単なる都合のいい道具でしかなかった。
健司の手がわずかに止まった。持っていたスプーンが宙に浮き、それから彼は何事もなかったように言った。
「パクチーが苦手なら、取り除いてあげるよ。女の子はみんなパクチー好きだと思ってたから」
彼の声には、どうでもよさそうな軽い気持ちが満ちていた。まるで大したことじゃないことのように。
私の胸に、抑えきれない苦みが込み上げてきた。
健司にとって、女の子はおそらく原田恵とその他の二種類にしか分けられない。
そして、わたしはその「その他」なのだ。
健司の専用着信音が鳴った。彼は着信表示をちらりと見ると、目つきがたちまち優しいものに変わった。
「小春、秘書からの電話だ。ちょっと出てくる」
この五年間、この専用着信音が鳴るのは何度目だろう。深夜であれ早朝であれ、この音が鳴れば、健司はいつも嫌な顔一つせず、すぐに電話に出た。
彼はひどい睡眠障害を抱えていて、一旦起こされると烈火のごとく怒り出す。
結婚したばかりの頃、生理で夜中に腹痛がひどくて眠れず、鎮痛剤も切れていたことがあった。わたしはそっと彼を揺すり、お湯を一杯持ってきてほしいと頼んだ。
健司は目を開けると、怒りに満ちた眼差しだった。一言も発さず、立ち上がって台所へ向かった。
少しでも楽になってほしいと、その温かいお湯を期待していたのに、彼は熱湯をたっぷりと注いだマグカップを持ってくると、ためらいもなくわたしの手にぶっかけたのだ。
「うるさい、君!俺が眠れないって分かってるだろ?君の腹痛が俺に関係あるかよ」
「飲め、お湯が欲しいんだろ?まだ飲みたいか?」
熱湯の灼熱感が瞬時に皮膚を貫き、激しい痛みをもたらした。わたしは思わず声をあげてしまった。
今でも手には、その火傷の醜い痕が残っている。
その瞬間、感じたのは手の痛みだけでなく、心の底から凍りつくような寒さだった。
あの時、わたしはまだ馬鹿げたことに彼に謝った。自分のせいだ、彼の睡眠を邪魔すべきではなかったと。
愛しているかどうかなんて、こんなにも明らかなんだ。とっくにわたしは完敗していたのだ。
健司は早足でベランダに出て電話に出た。かすかに聞こえるのは、どうやら原田恵の声のようだった。
「健司お兄ちゃん、お腹が痛くて……辛いの……」
健司が何と答えたかははっきり分からなかったが、彼が素早く上着を羽織り、「会社に急用ができた。行ってくる」と一言残すと、慌てて出て行った。ドアさえきちんと閉めず、部屋にぽつんと一人取り残された。
ずっと揺れ動いていた思いが、この瞬間、ついに完全に固まった。
携帯を取り出すと、親友の深川光(ふかがわ ひかり)に電話をかけた。
「光、決めたよ。前に話してた、海外留学のこと、一緒に行く」
電話の向こうで光は少し間を置いた。やがて、ほっとしたような声が返ってきた。
「本当?小春、やっと決めたんだね」
彼女の声には、隠しきれない喜びが少し混じっていた。「航空券はもう手配しておいたよ。一週間後、時間に遅れないでね。待ってる」
第6話
ベッドの脇に置いた携帯電話をそっと切り、枕元へ戻した。
目を閉じようとしたその瞬間、携帯が突然、ぶるぶると震えだした。
画面には原田眞一郎(はらた しんいちろう)の名前が表示されている。その文字を見ただけで、胸の奥にむっとする嫌悪感が込み上げてきた。
【恵が貧血気味らしい。明日、病院に行って輸血してやれ】
メッセージは簡潔でストレート。命令口調はあたかも当然のことのように響く。
画面をじっと見つめ、キーボードの上に指を浮かせたまま、何と返せばいいのかわからなかった。
五年前、恵は、母が仕組んだ車の事故だと言い張った。婚約者だった白石真一は彼女の一方的な言葉を信じ込み、婚約を破棄しただけでなく、私を完全に恥をかかせ、挙句の果てには冷蔵倉庫に閉じ込めたのだった。
私はそこに閉じ込められ、気の遠くなるような一日一夜を過ごした。
凍傷で体中が青紫色になり、がたがた震え、ほとんど意識を失いかけていた私を救い出してくれたのは高峯健司だった。
ところが、そんな姿の私を見た父は、一片の情けも示さず、むしろ容赦なく平手打ちを浴びせてきたのだ。
「小春、お前の母親が精神病だったように、お前もか?どうして妹を守れなかったんだ!」
彼は私に弁明の機会すら与えず、ただ恵の言い分だけを信じた。
幼い頃から、父の恵への偏愛には慣れっこだった。だが今回は、死にかけている私にすら一片の憐れみもなく、むしろ生きている価値すらないと思っているようだった。
母が亡くなって以来、彼とは一切連絡を取っていなかった。
この五年間、彼が自ら連絡してきたのはたったの二度。一度は、私の指導教師に恵の進路を決めてもらうよう頼むため。そしてもう一度が、今回の恵の貧血で輸血をしろというものだった。
私と実の父を繋いでいたのは、恵のためだけの要求だけだったのだ。
目頭が熱くなった。でも、私は涙がこぼれ落ちるのを必死にこらえた。
泣いてはいけない。こんな時に弱みを見せてはいけない、と自分に言い聞かせた。
もう失望はし尽くした。とっくに慣れるべき時だったんじゃないか?
かつて私を深く傷つけたあの瞬間、裏切られ続けた期待の数々、それらが私に強さを学ばせるのに十分ではなかったのか?
深く息を吸い込み、感情を落ち着けようとした。
指が電源ボタンを軽く押す。画面が暗くなるのと同時に、私の心に残っていた最後の期待の灯も消えた。
これからは、もうあの人たちに振り回されたりしない。
翌朝目を覚ますと、案の定、健司は戻っていなかった。胸の奥が少し沈んだが、すぐにそれは消えた。
今日は領事館に行って移民の手続きをしなければならない。もし彼が家にいたら、何と言い訳すればいいかわからなかっただろうから。
領事館に着くと、係官は何度も念を押してきた。
「原田さん、本当に移民されるんですね?そうすると、もう一生、帰ってこられなくなる可能性もありますが」
「はい、確かにそうします」
ここを離れることは、きっと良いことだ。そうすれば、自由な身になれる。高峯健司も、もう私を見つけられないだろう。
家に戻り、まだドアを開けようとしたその時、容赦なく一発の平手打ちが私の頬を襲った。その衝撃で二歩も後ろに下がり、バランスを崩して倒れそうになった。
原田眞一郎、私の実の父だ。
「小春、お前、本当に図々しくなったな!昨日、妹の輸血に行けって言っただろうが、どうして行かなかったんだ!」
口元からにじみ出た血をぬぐい、なんとか体を起こして原田眞一郎を見た。胸の奥に押さえきれない失望が渦巻いていた。
「恵が輸血を必要としようが、私に何の関係があるんですか!」
父の顔が一瞬で土気色に変わった。怒りに満ちた目で私を睨みつける。
「恵はお前の妹だぞ」
その厚かましい言葉を聞いて、私は思わず嗤ってしまった。
「私の母が産んだのは私だけです。妹なんていません」
「行くも行かぬも、今日は行くんだ」
原田眞一郎はすぐさま近づき、乱暴に私を引きずり立てた。力では敵わない。彼に引きずられて床を這うように進み、転びそうになりながら、体のあちこちが擦られて痛んだ。
彼は私の惨めな様子など全く意に介さず、そのまま車に押し込み、病院へと急いで連れて行った。
病院に着くなり、彼は看護師に向かって大声で叫んだ。
「輸血だ!VIP病室の原田恵の輸血だ!早く!たっぷり採ってくれ!」
看護師は私の青ざめた顔色を見て、そっと気遣った。
「お体、具合が悪そうですが……?誰か代わりの方に来てもらいませんか?」
第7話
妊娠中は献血できません。重度の貧血を引き起こすおそれがあるんです。
そう言いかけた私に、原田眞一郎は苛立った様子でせかす。
「余計なこと言うな、いつものように取り繕ってるんじゃないだろうな!」
ここは原田家の私立病院。看護師も彼の指示に逆らえず、躊躇いもなく注射器を手に採血を始めた。
400ミリリットルもの血液が抜かれ、私は限界だった。顔色はますます青ざめ、目の前が真っ暗になると、そのまま気を失ってしまった。
「もうこれ以上は無理です。彼女は気絶しています。取り返しのつかないことになります」
看護師が訴えると、原田眞一郎は仕方なく中断を命じ、口の中で呟いた。
「まったく、役立たずめ」
看護師に車椅子に乗せられ、休憩室へ向かう途中、廊下の奥から健司が恵を抱きかかえて歩いてくるのに出くわした。
その光景を目の当たりにし、心の準備はしていたつもりでも、胸が締め付けられるような痛みが走った。
「健司、会社に用事があるんじゃなかったの?」
彼も私がここにいるとは思っていなかったらしく、慌てた様子で言い訳した。
「小春、誤解しないでくれ。お父さんから連絡があって、恵の体調が悪いから病院に連れて行ってくれって」
彼の腕の中の恵は、目には侮蔑の色を浮かべながらも、無邪気なふりをして言う。
「お父さんが健司お兄ちゃんを呼んだんだよ。お姉ちゃん、怒ってないよね」
ちょうどその時、私の検査結果を持った看護師が近づいてきた。
「原田小春様、あなた妊娠されていますよね。そんな状態で献血なんて、貧血になりますよ。ひどくなると、流産の危険だって……」
私は内心、焦った。健司に気づかれたくない。
顔を上げると、彼は泣きじゃくる恵をなだめるのに忙しく、看護師の言葉にはまったく気づいていないようだった。
私は無理に笑顔を作り、看護師に小声で言った。「大丈夫です」
二人の情熱的な様子をもう見たくはなかった。一刻も早くその場を離れたかった。
しかし、鋭い目つきの恵に見つかってしまう。彼女は健司の腕からもがくと、走り寄って私の手を掴んだ。
「お姉ちゃん、今日、家族でご飯食べようよ。お姉ちゃんと一緒に食べるの、久しぶりだもん」
私は冷たく恵の手を振り払った。
「結構です。用事がありますから」
それでも恵は諦めず、声にいっぱいの哀れみを込めて言う。
「お姉ちゃん、私のこと怒ってるの?健司お兄ちゃんを頼ったのが悪かったの?」
これ以上絡まれるのも嫌だった。立ち去ろうともがいたその時、不機嫌そうな顔の健司に進路を塞がれた。
「小春、そんなに意地を張らなくてもいいだろう。恵はただ一緒に食事がしたいだけだ」
「体調が悪いんです。休ませてください」
ようやく健司も私の青ざめた顔に気づいた。
彼がまだ何か言おうとしたその時、恵の泣き声がそれを遮った。
「私が悪かったの……お姉ちゃんが具合悪いのに気づかなくて……全部、私のせい……」
健司は慌てて彼女をなだめ、私は鼻で笑うと、背を向けて立ち去った。
やっぱり、恵がいる限り、彼の視線は一瞬たりとも私に向くことはないのだ。
病院を出て、横断歩道を渡り、道路の向こう側でタクシーを待っていた。
ちょうど携帯を見下ろしたその時、一台の黒いSUVが目の前を猛スピードでかすめ、耳障りなクラクションと急ブレーキのキーッという鋭い音が響いた。
突然の出来事に驚き、体が反射的に後ろにのけ反り、バランスを崩した。
背中が歩道脇の花壇に強く打ちつけられ、小石や土が飛び散り、肌を擦りむいた。
同時に、腹部に激しい痛みが走った。体内から温かい液体が流れ出している……血だ。大量の血が。
痛みで無意識に体を丸め、両手で必死に腹部を押さえたが、鮮血がなおも指の間から絶え間なく溢れ出て、服を真っ赤に染めていく。
朦朧とした意識の中で、その黒い車のナンバープレートが目に入った。
高峯健司の車だった。
第8話
失血がひどく、意識はだんだんと遠のいていった。目の前のすべてが霞んで見える。
幸い、病院の近くで通りすがりの人に見つかり、救急車で運ばれた。
手術室から目を覚ますと、視界はぼんやりとし、耳元には医師の低い声が響いた。
「原田小春さん……流産されました。お子様は……」
身体が一瞬で硬直した。涙が止まらなかった。心臓がえぐり取られたような、引き裂かれるような痛みだけが残る。
今でも覚えている、妊娠がわかったあの日の胸の高鳴りを。未来への期待に満ちたあの気持ちが、つい昨日のことのように。
病院で五日間を過ごした。その五日間、健司からは一本のメッセージも、一本の電話もなかった。
彼の心の中で、私は本当に取るに足らない存在なのだろう。
明日は海外へ発つ。荷物をまとめに家に戻った。
家の中は、耳をつんざくような静けさだった。健司がソファに座り、誰かに電話をしていた。その声は優しく、まるで誰かをなだめているようだ。
「恵、心配しないで。彼女には電話しないよ。恵を怒らせたんだから、絶対に償わせるから」
私が入ってくるのを見て、健司は一瞬たじろいだ。そして、無意識に電話を切った。
「小春、帰ってきたのか」
「帰ってこない方がよかったの?」と、私は言い返した。
健司の電話がまた鳴った。考えるまでもなく、恵からの着信だ。
彼は画面を一瞥し、目をわずかにそらした。
「小春……会社でちょっとトラブルがあって、今から行かなきゃ」
車のキーを手に取り、出かけようとした。
「健司、待って」
私は彼を呼び止めた。
「明日は結婚記念日だよね。何か買いたい物があるんだけど、ここにサインしてくれない?」
カバンから書類を取り出し、彼の前に差し出した。彼はそれを受け取り、ざっと目を通すと、ペンでさっとサインをした。
それが離婚届だとは、まったく気づいていない。
「私もあなたにプレゼントを用意したの。後でテーブルに置いておくね」
私の妊娠通知書と流産の診断書だ。
健司はそっと私の手を掴み、優しく口づけた。
「小春がくれるものなら、何だって好きだよ。だって君が、俺にとって最高のプレゼントだから」
私は彼を見つめた。その目には、一片の感情もなかった。
高峯健司。その時、本当に気に入ってくれるといいわね。
彼は足早に立ち去ろうとした。
「健司!」
「なんだ?」
振り返った彼の顔には、明らかな苛立ちが刻まれていた。
「気をつけて行ってね」
私の声は平静だったが、どこか断固たる響きを帯びていた。
手を上げて、いつものようにそっと彼の襟元を整えた。
これが最後だと、私は知っていた。
彼は私の顔を見つめ、その目にかすかな動揺のようなものが浮かんだ。私の手を握り、自分の胸元へと引き寄せた。
「小春、すぐに戻るからな。待っててくれ、帰るまで」
私は彼を待たなかった。離婚届と妊娠通知書、流産の診断書をテーブルの上に置き、その上に結婚指輪を添えると、私も家を出た。
外は雨が上がったばかりで、虹がかかっていた。今の私の気持ちのようだ。
嵐は過ぎ去り、ようやく新たな道が開ける。
携帯電話に、健司からのメッセージが届いていた。
【小春、他に何か欲しいものはあるか?何でも買ってやるよ】
その文面に、私は思わず唇が歪んだ。遅れてきた罪悪感か?
ふと、彼が私が残していったものを見て、どんな顔をするのか少し興味が湧いた。
残念ながら、もうそれを見ることはない。
未練なく飛行機に乗り込む。待っているのは、まったく新しい生活。私だけの未来だ。
高峯健司のいない未来。