いつかきっと明るい未来が訪れる

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いつかきっと明るい未来が訪れる

GoodNovel Hoàn thành

悠真との結婚式を目前にして、わたしは新婦の名前を、彼の初恋だった羽川にすり替えた。 すべては、ある事実を偶然知ってしまったから。 悠真...

Chương (1)

第1章

悠真との結婚式を目前にして、わたしは新婦の名前を、彼の初恋だった羽川にすり替えた。 すべては、ある事実を偶然知ってしまったから。 悠真がわたしと結婚しようとしていたのは、亡き父の遺言があったからにすぎなかった。 そして――五年付き合って一度も触れてこなかった理由は、わたしの心臓病を気遣っていたからじゃなかった。 ただ、彼は羽川のために自分を律していただけだった。 それだけじゃない。彼は、わたしに隠れて羽川ともうひとつの「家」を築いていた。 それを知った瞬間、すべてが馬鹿らしくなった。 だから、わたしは自分の持っていた株を全部売って、国外に渡って治療を受けることにした。 第1話 式の準備がすべて整った頃、わたしは静かに新婦の名前を羽川ひまり(はねかわ ひまり)に差し替えた。 お願い、と羽川が泣きながら頼んできたから、「悠真を返して」って。 それも、別にいいかなって思った。 だって彼らが「愛」を選ぶなら、会社は要らないよね? わたしはすべての株を手放し、この街をあとにした。 でもさ――ふたりとも? わたしの株がなければ、あなたたちの「真実の愛」なんて、案外脆いものじゃなかった? 「桃山さん、本当に……ご自身の名前を他人に差し替えるおつもりですか?」 「ええ」 ホテルのロビーを出た瞬間、わたしは見上げた青空に、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。 これでようやく――一生付きまとうはずだった影から、解き放たれたんだ。 結婚式の書類に記された「桃山夕凪(ももやま ゆうな)」の名前。 その欄を、わたしは丁寧に線で消し、代わりにこう書いた。 「羽川ひまり」と。 それは、ほんの数日前に羽川から届いたメッセージがきっかけだった。 彼女は、月城悠真(つきしろ ゆうま)の初恋だったらしい。 「もしあなたのお父様が、『彼女を支えてやってくれ』なんて言わなければ、悠真はきっとあたしを選んでいた。別れる必要なんてなかった」と。 ……そう語る言葉に添えられていたのは、彼と一緒に映った数枚の写真。 ――しかも、ベッドの上の、ね。 見た瞬間、ほんとに倒れそうになった。 ちょうど隣にホテルのマネージャーがいたから助かったけど、いなかったらたぶん、そのまま発作を起こしてた。 そして、目を覚ましたときには――すべてを悟っていた。 悠真が五年間わたしに触れなかったのは、病気を気遣った優しさなんかじゃなかった。 羽川以外に手を出さないって、そういう忠誠心だったのね。 もういいわ。そう思って、スマホを手に取った。 羽川にこの朗報を伝えた。 彼女にとってわたしは、恋路を邪魔する悪役だったらしい。 じゃあ、ヒロインの座は返してあげましょう。 ……でもね、五年間の時間を、わたしは本気で生きてきた。 愛して、信じて、騙されて。 この胸の奥に沈んだ痛みは、簡単には抜けない。 しかも、わたしにはもう、彼らに仕返しする気力も体力もない。 だから――もう、いっそ全部捨ててここを離れようって思ったの。 わたしの名義で所有していた光耀グループの株式を、市場価格で全部売って。 そのお金で、海外の最高の医療を受けに行くの。 心臓病を、本気で治すために。 これからは――わたしの人生を、わたし自身のためだけに生きていく。 そう決めて、全部の手続きを終えた頃には、すっかり夜も更けていた。 家に戻ると、中は真っ暗。 きっと今日も悠真は、いつも通り遅くまで会社で仕事をしてるんだと思ってた。 だけど、玄関のドアを開けた瞬間――目の前に現れたのは、服が乱れて顔をこわばらせた男女だった。 ……悠真と、羽川だった。 その場に凍りついた空気の中、わたしは彼の口元に残った口紅の跡をちらりと見て、できるだけ自然に声を出す。 「ただいま」 悠真は目を逸らして、わたしの目をまともに見ようともしない。 けれど口調だけは、いつも通り優しさを含んでいた。 「……ごめん、今日は帰ってこないと思ってて。だからひまりを呼んで、ちょっと仕事の話をしてたんだ。 お前も知ってるだろ、会社のことって本当に忙しくてさ。お前の体じゃ手伝わせるわけにもいかないし。 だから、他の人に頼るしかなかった」 ――前だったら、こんな言い訳を聞いたら、わたしは罪悪感に押しつぶされてたと思う。 自分と父のせいで、彼に会社を任せて苦労させているって、そう思い込んでた。 だからこそ、わたしは全部我慢してきた。 たとえば、羽川を家に呼んで「仕事の話」をしてるとき、わたしは横でお茶を出してた。 会社でふたりが遅くまで残業してると聞けば、時間を見計らって差し入れを持っていった。 でも――この前、わたしが結婚を了承し、株をすべて彼に譲ると伝えたときから。 悠真はもう、自分がこの会社の本物の社長だと勘違いし始めた。 わたしに遠慮なんて、もう一切なかった。 まるで、わたしは羽川と彼の使用人だった。 ……あのメッセージを羽川から受け取らなければ、わたしはずっとその世界に縛られたままだったかもしれない。 気づかせてくれたことには、感謝してる。たとえ、それが皮肉でも。 深く息を吸って、心の奥から疲れが浮かんでくるのを感じた。 もう――彼らの世話なんて、こりごり。 だから、ちょっとだけ親切なつもりで教えてあげた。 「……口元の、口紅。拭いておいたほうがいいわよ」 せめて、演技くらいはちゃんとやってほしい。 もう、あの人に恋してた頃みたいな、都合のいい幻想は消えてしまった。 悠真は一瞬固まったまま、指で唇を拭った。 手の甲にくっきりと赤い痕が残って、それを見た彼の顔が引きつる。 わたしはそのまま、キッチンに向かい、水を一杯くんで、頭を冷やそうとした。 たぶん――さっきの一言が、彼には効いたんだろう。 慌てた様子でキッチンまで追いかけてきて、言い訳の嵐を投げつけてきた。 「夕凪、違うんだ!ひまりとは何もない、ただの――ただの誤解なんだ! ……ただ、ちょっと口紅がついちゃっただけだ」 取り繕うように、そんな言い訳を口にする悠真を見つめながら、わたしは静かに思っていた。 この人は、父に恩を感じてくれてたんだろうか。 それとも、わたしを騙しているうちに少しでも罪悪感とか、情が芽生えたんだろうか。 ――でも今なら、はっきりわかる。 そんなもの、何ひとつなかった。 この人はただ、わたしの会社が欲しかっただけ。 平然とした顔で黙っているわたしを見て、悠真は勘違いしたみたいだった。 いつものように、わたしが素直に信じると思ったのか。 まるで当然のように、口を開く。 「なぁ夕凪、どうせもうすぐ結婚するんだし、会社の株、全部俺に譲ってくれよ。 そもそも、お前の父さんが株の大半をお前に残したから、俺の意見が株主会で通らないんだよな。 今度の判断は、会社にとっても大事なんだ。お前にもわかるだろ?」 まただ―― 「お前のため」を盾に、疲れたフリして、恩着せがましく、都合のいい理屈を並べる。 でも、もうわたしは前みたいには応じない。 「わたし、その株、売るから」 悠真の顔が、ピクリと動いた。 けれど無視して、淡々と続ける。 「もし欲しいなら、仲介業者を通して手続きして。連絡先はあとで送るわ。正規の流れでね」 本当のことを言えば、わたしだってつい最近まで信じてた。 彼の「苦労」は、てっきり会社の問題かと―― でも仲介業者から言われたの。 うちの会社はもう軌道に乗っていて、そんなに疲弊するはずがないって。 思い返すと、馬鹿みたいだった。 そう思ったら、つい笑いが漏れた。 その声に、悠真はようやく現実を直視したらしい。 ショックから抜け出した瞬間、怒りを露わにして怒鳴りつけてきた。 「夕凪っ!お前、いい加減にしろよ!会社の重大な話を、お前のくだらない嫉妬と一緒にすんな!」 第2話 わたしは、ぽかんとしてしまった。 まさか――嫉妬してるって、本気で思ってるの? たしかに、昔のわたしを知ってる人なら、誰だってこう言うかもしれない。 「桃山さんは、月城さんに夢中だったもんね」って。 でも、わたしは、誰が相手でもきっと同じように接したと思う。 恋人になった人には、惜しまず愛を注ぐって、ただそれだけだった。 それに――今回の株の件は、感情とは全くの別物だった。 なのに、その場にいた羽川まで、妙に焦った様子で口を挟んできた。 「桃山さん、もしあたしの存在がそんなに気になるなら、会社辞めます。 もう二度と、悠真の前に現れません。それで満足ですか? お願いだから、嫉妬に目を曇らせないで……」 ……何を言ってるの? だって、あんたには全部伝えてたはずでしょ。 結婚式の新婦を羽川に変えたってことも、ドレスを彼女のサイズで作り直したことも。 知ってるはずなのに――どうしてこんなことを? 考え込む暇もなく、悠真がいきなりわたしのスマホをひったくって、目の前に突きつけてきた。 その声は……これまで聞いたことがないほど冷たかった。 「お前、スマホに登録してる仲介業者の連絡先――今すぐ消せ。 今なら、まだ許してやれる。 けど消さないなら、婚約も式も全部チャラにしてやるよ」 わたしは黙って手を伸ばし、スマホを受け取った。 そのまま、複雑な想いを込めた視線で悠真を見つめる。 ――削除したってまた追加すればいいだけなのに。 ……でも、この体のせいで、怒りは禁物。 だから、わたしは、彼を刺激しないように、何も言わずに、ただ言われたとおりに操作した。 一つひとつ、悠真の目の前で仲介の連絡先を削除していく。 それを見届けた悠真は、ようやくホッとしたように息を吐いた。 そして、声のトーンを少しだけ和らげて、こう言った。 「夕凪、お前、変なこと考えるなよ。俺がお前を愛してなかったら、結婚なんかしようと思うわけないだろ。 今日のお前の態度……正直、ちょっと傷ついたよ」 そう言って、少しの間を置いてから―― 「俺とひまり、しばらく一緒に住むから。 お前はここで、反省でもしててくれ。次からは、こんな真似しないようにな」 羽川は悠真のあとをついて出て行こうとし、その前に―― まるで何かを施すような口ぶりで、こちらに言葉を投げかけてきた。 「物分かりがいいだな」 ガチャリと扉が閉まる音が響き、わたしだけが部屋に取り残された。 深く息を吐いた。 ――本当は、父がいなくなった時点で気づくべきだったのだ。 この世で頼れるのは、自分自身だけだって。 一晩休んでから、わたしは再び仲介業者へ連絡を入れた。 わたしの手にある株の数は、決して小さくない。 会社内の株主たちはもちろん、外の投資家ですらその価値に目をつけている。 だから、ほんの数日で―― 市場価格の、なんと二倍という条件で、買い手が現れた。 本当なら、もう少し待てばもっと高値がつくかもしれない。 でも、わたしにはもう、そんな気力すらなかった。 あの二人が「幸せそうに」いちゃつく姿なんて、もう一秒だって見たくない。 だから、契約通りの金額が振り込まれたその瞬間、仲介への手数料を払い、すぐに出国の準備を始めた。 手続きの間、わたしは口座に入ったお金を着実に海外へと移していった。 何度も、何度も。 そして、あの日悠真が言っていたように―― わたしへの「お仕置き」として、彼はこの一週間、ただの一度も連絡してこなかった。 出発当日。 荷物はすべてまとめ終わった。 最後に、家族の写真を額縁ごと取り外し、スーツケースにしまおうとした、そのとき―― バンッ!!! ドアが、蹴り飛ばされるように開いた。 悠真が、怒り狂った様子で飛び込んできた。 その顔は、怒気に満ちていて、目は血走っていた。 「夕凪!!お前、いい度胸してんな!! ちょっと俺が連絡しなかったくらいで、そんな子どもみたいなことすんのかよ!? 俺がこの一週間、どれだけ頭下げて金集めてたと思ってんだ! てっきり、他の株主が俺に反発して売り抜けたのかと思ってたよ! ……まさか、お前だったなんてな!!」 あまりの勢いに、わたしも一瞬だけ呆然としてしまった。 けれど、すぐに思い直す。 そうよ。彼がこの会社で「偉そうに」していたいのなら―― わたしの株を、どうしても手に入れる必要があったのよ。 他の誰かの手に渡ったら、彼の「王様ごっこ」は終わってしまうんだから。 だから、わたしは冷静に考える。 今日が旅立ちの日。 もう争う必要なんて、どこにもない。 ことを荒立てずに去れれば、それでいい。 だから、わたしはできるだけ穏やかに話した。 「これで、お金と会社はお互いに清算。あんたは名実ともに会社の持ち主になった。それで、みんなハッピーじゃない? それに……このお金は、わたしの治療に必要なの」 わたしの病気は、ちゃんと治療すれば治るものだった。 でも、会社が苦しいと信じていたわたしは、悠真がそのためにどれだけ頑張っているかを思うと、彼に多額の医療費を頼むことなんて、とてもできなかった。 ――けど、わたしが甘かった。 悠真は、もうとっくにわたしの持ち物を「自分のもの」と思い込んでいた。 どんな他人でも、心臓病の患者には気を遣うものだ。 けど、彼は違った。 彼は、わたしの体なんて、どうでもよかった。 その証拠に、わたしの手にあった家族写真の額縁を、彼は無造作に奪い取った。 「……そうか、お前が教えてくれたんだな、夕凪」 バンッ! 無情な音を立てて、額縁が床に叩きつけられた。 そして――彼は、その中の写真を引き抜こうとした。 「……っ!!」 目の前が真っ白になった。 それは、父と母とわたし、三人が揃って写った――唯一の写真だった。 気血が逆流するような衝撃の中、わたしは咄嗟に彼の腕にしがみついた。 「悠真!あんた、正気なの!?」 だけど、彼はまるで何の感情もないように、淡々と行動を続けた。 彼が取り出したのは――あらかじめ準備してあった財産譲渡の契約書と、一本の黒いペンだった。 「……サインしろ」 わたしが何も言わずに固まっていると、彼は嘲笑を浮かべて言った。 「やっぱ、お仕置きしなきゃ言うこと聞かねぇんだな」 でも――わたしは話せなかった。 喉が締め付けられ、息が苦しい。 それでも彼は、八つ当たりのように、わたしの唯一の希望を―― その手で、無残に引き裂いた。 それを、「お仕置き」だなんて―― 悲しむ間もなかった。 わたしは必死にその場に膝をつき、彼の足元に縋る。 意識がだんだんと遠のいていく中、命の本能で、言葉を吐き出した。 「……薬……薬を……」 すると、黒いペンがわたしの手に押し付けられた。 かすかに届いた、冷たく無慈悲な声。 「サインしろ。そしたら薬をやる」 第3話 「……サイン、する……」 絞り出すように、わたしはそう言った。 生きるために―― この命を守るために、わたしは屈した。 わたしの返答を聞いた悠真の表情が、ようやく少しだけ和らぐ。 彼は温かい水を一杯くんできてくれて、薬を口元まで運んでよこした。 さらには、小さな飴玉までそっと手渡してくる。 ……でもわたしは、そんな施しみたいな優しさに、何の反応も返さなかった。 薬を飲んで、ほんの少し息が整ったその瞬間。 わたしは我を忘れて、粉々になった額縁の方へと駆け寄った。 胸の奥から溢れ出す悲しみは、もうどうにも止められなかった。 震える手で、一片一片、床に散らばった写真の破片を拾い集める。 そして、荷物の中から小さな袋を取り出し、丁寧にその中へと収めていった。 あの写真は―― 母が、まだ生きていた頃のもの。 父と三人で一緒に写った、たった一枚の思い出。 母は、わたしが幼い頃に亡くなった。 先天性の心臓病が再発して、帰らぬ人になった。 当時の父は、やっと事業を始めたばかりで、まともな治療を受けさせる余裕すらなかった。 母を看取った後も、そのことをずっと悔やんでいた。 だからこそ―― わたしにも心臓病の遺伝が見つかった時、父は昼夜を問わず働くようになった。 わたしの命を守るために。 あれは、彼の償いであり、贖罪でもあった。 けれど、願いは届かなかった。 無理を重ねた結果、父もまた身体を壊してこの世を去った。 死の間際、彼は会社で最も信頼していた人に、わたしを託した。 ――それが、悠真だった。 そして、彼がわたしにした「恩返し」が、これだった。 わたしが悲しみに沈む中、彼はまるでそれを面白がるように、皮肉を口にした。 「たかが写真じゃないか。そんなに大事かよ?」 わたしは破片をきちんと袋に収め、彼を見上げた。 もう、その目には何の感情も宿っていなかった。 「母は写真を撮られるのが苦手だったの。父も仕事で忙しかったし…… これは、わたしが両親と一緒に写った唯一の写真」 悠真は、思わず目を見開いた。 唇を引き結び、気まずそうに言葉をこぼす。 「……そんなの、知らなかった」 わたしは無言のまま、冷たくその視線を逸らした。 もう、彼と言葉を交わす気にはなれなかった。 だが―― それが気に食わなかったのか、悠真は突然わたしを力任せに抱え上げ、寝室のベッドへと引きずっていった。 わたしが目を伏せ、もう彼を見ようともしないと―― さすがの悠真も、自分の行動が行き過ぎだったと気づいたのかもしれない。 そっと手を伸ばし、わたしの頬に触れようとしてきた。 ……けれど。 その手を、わたしは迷いなく払いのけた。 悠真の顔色が、さっと険しくなる。 それ以上何か言うこともなく、彼は「わたしがすねているだけ」と勝手に思い込んだようだった。 そして再び、財産譲渡の契約書と黒いペンをわたしの前に差し出してきた。 「サインしろ。そしたら、お前の写真を修復しに行ってやる」 ――もう、何を言われてもどうでもよかった。 わたしは黙ってペンを手に取り、その紙に名前を書いた。 叩きつけた後で飴玉を差し出すような、そんな「飴と鞭」のやり方。 それがどれほど吐き気を催すものか、彼は知らない。 彼がちゃんと言葉を選んで話していたら、わたしはきっと初めからサインしていた。 だって――財産なんて、もう全部国外に移してある。 悠真の手元に残るのは、ただの空っぽの紙切れだけ。 ……まさか、こんなにも極端な手段を取るとは思ってもみなかったけど。 彼はわかってない。 こんな「強要された契約」に、法的な効力なんてないことを。 でも、彼の狙いは――そこじゃなかった。 彼が「結婚式」の話を持ち出すまでは、わたしも気付かなかった。 あの目の奥にある計算の色――それを隠すつもりもなく、彼はあくまで優しげな口調で続けた。 「明日、結婚式だろ?せっかくだし、今日中に婚姻届も出しに行かない? これで、お前も正式に俺の妻になるわけだしさ」 わたしは彼を見上げ、その下心をはっきりと突きつけた。 「――婚姻届を出したら、今日のあれを『家庭内のトラブル』にできるから、でしょ?」 悠真の顔が少し強張った。 「まだ怒ってるのかよ……?」 眉間にしわを寄せて、不機嫌そうに呟く。 彼は、わたしが自分の意見に従わないことを何より嫌う。 「俺はただ、お前が俺と一枚岩じゃないから焦っただけだよ。 それに、結婚すれば俺の金もお前の金になるんだから、サインくらいで騒ぐなよ。 少しでも俺のこと考えてたら、株なんて匿名で売らなかったはずだろ! 夫婦ってのは共同体だろ?お前はそれなのに、俺に隠れて財産を勝手に処分した。今回のことは、その罰にすぎないんだよ」 反論しようとしたその瞬間、悠真は強引にわたしの髪に触れ、指で梳かしはじめた。 そして、顔を両手で包み込むようにして、真っ直ぐにわたしを見つめる。 「俺は……本気でお前を死なせるつもりなんかない。だから、悪いのはお前の方だ」 その言葉を聞いた瞬間、わたしはすべての力が抜けていくのを感じた。 ふっと、ベッドに身を投げ出した。 もう、怒る気力さえ湧いてこなかった。 ――どうして、今まで気づかなかったんだろう。 彼がここまで、恥知らずな人間だったなんて。 たしかに―― 出会ったばかりの頃の彼は、とても優しかった。 病院に何度も付き添ってくれて、 雨の日に薬を買いに走ってくれて、 どんなに忙しくても、わたしの電話一本で駆けつけてくれた。 それに、父が彼を信頼していたこともあって、わたしも自然と好感を抱いていた。 でも―― 羽川とのことを知ってから、まるで霧が晴れたようだった。 彼がわたしに冷たくなったのは、 わたしが妥協を繰り返してきたからだ。 そして、彼の目的も……はっきりと、見えてきた。 沈黙を続けるわたしに、ついに悠真は苛立ちを見せた。 「今、籍を入れるのがイヤなら、それでもいい。とにかく、結婚式までここで大人しくしてろ」 意味が分からなかった。 ――けれど、彼が部屋を出て、ドアの鍵がガチャンと閉まった瞬間。 わたしはベッドから跳ね起きた。 一気に扉へと駆け寄り、ドアノブを力任せに回す。 でも、どれだけ回しても開かない。 焦りと恐怖で、胸がどくどくと音を立てる。 「悠真っ!もしかしてわたしが訴えるのを恐れて閉じ込めてるの!? 訴えたりなんかしない!だから、お願いだから出して!」 もうすぐ飛行機が出る時間だ。 こんなところで足止めされてる場合じゃない。 そして、もう―― 悠真と駆け引きするつもりなんて、欠片もなかった。 第4話 外からは、もう何の音も聞こえなかった。 ただの一言すら――冷たい返事さえも返ってこなかった。 時間だけが、じわじわと過ぎていく。 もうダメかもしれないと諦めかけたその時―― ギィ――と、ドアが静かに開いた。 ……でも、そこに立っていたのは悠真じゃなかった。 代わりに現れたのは、どこか複雑な表情を浮かべた羽川だった。 彼女の手元には、きちんと整理されたわたしのスーツケースと、床に落ちたままだったスマホがあった。 羽川は、それを無言でわたしの手に渡してきた。 「てっきり、これは引き止めるための芝居かと思ってた……まさか、本当に出て行くつもりだったなんてね」 わたし自身も、まさかこの瞬間に―― かつての「恋敵」に対して、感謝の念が湧くとは思ってもいなかった。 もし彼女が来てくれなかったら、わたしはきっと結婚式当日までこの部屋に閉じ込められたままだった。 わたしは視線をリビングへと向ける。 そこには、悠真の姿はなかった。 テーブルの上には、まだ湯気の立つ料理が置かれていた。 きっと、彼は羽川にわたしの食事を届けるよう頼んだのだろう。 それを見て、わたしはようやくほっと息を吐いた。 スーツケースのハンドルを握りしめ、スマホを手にして、ドアの方へと歩き出す。 羽川の横を通り過ぎるとき、ふと足を止めて言った。 「……ありがとう」 羽川は鼻で笑う。 「お礼なんていらないよ。むしろ、早く出てってほしいくらい」 それから、彼女は一瞬目線をそらして、こう続けた。 「ねえ、知ってた?……あたし、妊娠したの」 わたしは、思わずその場で固まった。 彼女はスマホを取り出して、すでに撮ってあった妊娠検査の診断書を見せてきた。 「悠真の子よ。生まれた瞬間から隠れて生きるなんてイヤだった。あんたさえいなければ、あたしはもうとっくに彼と結婚してたの。だから、あのときメッセージを送ったのよ」 「……こんなに早く、現実を理解してくれるなんて思わなかったけどね。でも、あんたって本当に――悠真のこと、好きだったんだね」 その顔には、もはやかつてのような嫉妬の色はなかった。 むしろ、ほんのわずかな同情すら含まれていた。 わたしは視線を落とし、彼女のふっくらとしたお腹を見つめた。 何も言い返さなかった。 彼女には、わたしが悠真をどこまでも愛して、身を引いたと―― そう見えているのだろう。 でも――もし最初から、悠真に「初恋の人」がいたと知っていたら。 わたしは絶対に、彼との結婚なんて引き受けなかった。 だって、父が亡くなる前に言ったのは、彼にわたしのことを頼むってことだけ。 「結婚しろ」なんて、一言も言ってなかった。 だから――わたしは彼女に、ひとつだけ言っておかなきゃならないことがある。 「悠真が自分から、あんたとの関係を隠してたのよ。 全部、わたしの持ってた株のために。計画的に、わたしを騙しただけ。 わたしはあんたたちの仲を壊したわけじゃない。責める相手、間違ってるわ」 だけど、羽川はただ手をひらひらと振りながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 その返事は、まるで論点の違うところを突いてくる。 「でもさぁ、悠真が株を買うために払ったお金、返してあげたんでしょ? それで『好きじゃない』なんて、女同士だからこそ分かるのよ。あんた、未練あるくせに。 でもまあ、あさってにはあたしと悠真は正式に夫婦になるし。 もう、あんたが入り込んできたことくらい許してあげるわ」 ――もう、聞いてられない。 彼女の自己満足なモノローグを無視して、わたしは足を踏み出す。 ……けれど。 ドアの外へ一歩出たその瞬間、羽川がわたしの腕をつかんで引き戻してきた。 さっきまでの感謝の気持ちは、一瞬で消え失せる。 「どいて」 冷たい声で睨みつける。 相手が妊婦じゃなかったら、とっくに突き飛ばしていたかもしれない。 それでも羽川は、まるで何も聞こえていないかのように、勝手にしゃべり続ける。 そして――一枚のカードを、無理やりわたしの手に押し込んできた。 「ねぇ、あんた今、文無しで海外行くんでしょ?危ないじゃない。 このカードに40万入ってるわ。これ持って、二度と日本に戻ってこないで」 深く息を吸って、わたしは彼女の顔を見上げた。 その表情は――まるで「恩を施してやってる」とでも言いたげな、薄ら笑いだった。 ……もう我慢できなかった。 パシンッ! わたしの手が、勢いよく羽川の頬を打つ。 その音は、部屋に鋭く響き渡った。 彼女は叫び声を上げ、顔を抑えながら――何かを言いかけた、そのとき。 わたしの視線の端に、急いで駆けてくる悠真の姿が映る。 それを見た羽川は、瞬時にその場へ倒れ込み、顔を押さえたまま大げさに叫んだ。 「悠真っ!お腹が痛いのっ……ああっ、すごく痛いっ!」 なにそれ…… わたしは思わず眉をひそめた。 意味が分からない――そう思っていた次の瞬間。 ――ドンッ!! ものすごい力で、わたしの身体が後ろへ突き飛ばされた。 強く突き飛ばされたその衝撃に、 スーツケースを持っていたわたしはバランスを崩し、そのまま腰から床に倒れ込んだ。 鋭い痛みが背中に走り、顔から血の気が引いていくのがわかった。 ――痛い…… わたしがうずくまっている横を、悠真は迷いなく通り過ぎる。 そして羽川をそっと抱き上げ、わたしの方を一度も見ることなく、その場を後にした。 わたしは彼の横顔に、一瞬だけ視線を送った。 そこには――焦りと、切迫した感情が滲んでいた。 ああ……なるほど。 悠真は、羽川が妊娠していることを知っていたのだ。 でも―― もう、それはわたしには関係のないことだった。 痛む腰を押さえながら、わたしは何とか身体を起こし、階段を一歩一歩ゆっくりと降りていった。 そのまま、一番早く来たタクシーを拾って乗り込む。 全速力で急いだはずだった。 でも、腰の痛みが足を引っ張り、結局――わたしは、わずかに遅れてしまった。 仕方なく、フライトの便を変更する。 それでも、わたしは落ち込まなかった。 打ち身の薬を腰に塗って、空港で一晩を過ごすことにした。 その間に、短期滞在だった出国手続きも、長期へと切り替える。 ――しばらく、日本には戻らないつもりだ。 そして翌朝。 飛行機に乗り込むその直前、わたしのスマホが鳴った。 「もしもし、桃山夕凪様でいらっしゃいますか?」 「……そうですが」 「実は、これまでずっとマッチングをお待ちいただいていた心臓のドナーが、ようやく見つかりました。できるだけ早く、m国に来ていただけませんか?」 スマホの画面には見慣れない番号が表示されていた。 戸惑いながら、わたしは聞き返した。 「わたし……海外の病院には予約してないはずですけど」 「『桃山正松(ももやま しょうまつ)』様、ご存知ですか?」 わたしはハッと息を飲む。 「……父です」 「お父様からのご依頼で、ずっとドナーを探しておりました。夕凪様のご体調が特殊なため、条件が厳しかったのですが……ようやく適合者が見つかりました」 電話を切ったあと、わたしはしばらくその場に立ち尽くした。 胸の奥がじんと熱くなって―― ……それでも、涙はこぼさなかった。 そしてそのまま、わたしは最後の一歩を踏み出し、 飛行機に乗って、この国を離れた。