Đang tải thông tin quảng bá...
君と別れてから
大晦日、夫が息子を連れて、かつての初恋の相手と一緒に花火を見に行ったその夜、月森遥(つきもり はるか)はついに離婚を決意した。 結婚し...
Chương (1)
第1章
大晦日、夫が息子を連れて、かつての初恋の相手と一緒に花火を見に行ったその夜、月森遥(つきもり はるか)はついに離婚を決意した。
結婚して五年。周囲からは「愛されている奥さん」と羨ましがられ、聡明で可愛らしい息子にも恵まれたと誰もが言った。
けれど、その幸福の影に隠された真実を知るのは、遥ただ一人。
夫は、ずっと初恋の人を忘れられずにいる。
命懸けで産んだ息子さえも、心の奥では早く母親を取り替えてほしいと願っているのだ。
遥は決めた。彼らの願いを叶えさせてやることを。心のない夫も、情のない息子も、もういらない。
第1話
月森遥(つきもり はるか)は、ついに離婚を決めた。
結婚して五年。周囲からは「愛されている奥さん」と羨ましがられ、聡明で可愛らしい息子にも恵まれたと誰もが言った。
けれど、その幸福の影に隠された真実を知るのは、遥ただ一人。
夫は、ずっと初恋の人を忘れられずにいる。
命懸けで産んだ息子さえも、心の奥では早く母親を取り替えてほしいと願っているのだ。
遥は決めた。彼らの願いを叶えさせてやることを。心のない夫も、情のない息子も、もういらない。
パンッ、パン、パパーン……
窓の外から響く花火の音に、遥はハッと我に返った。手元には、離婚届。そっとそれを撫でながら、静かにペンを取り、自分の名前を書き入れた。
今日は大晦日。けれど夫も、息子も、帰ってこない。
そんなとき、夫・狩野成実(かりの なるみ)からメッセージが届いた。
【取引先と外で食事中。健ちゃんは秘書に預けてある。食事のあとで連れて花火を見に行くから、先に寝ていい。待たなくていい】
その文面に、遥は口元を歪め、冷たい笑みを浮かべた。
「取引先」とは誰なのか。健翔(けんしょう)を連れて、誰と花火を見に行くつもりなのか。
考えるまでもない。調べる必要すらない。どうせ父子そろって、立花明菜(たちばな あきな)という女と一緒にいるのだろう。
遥は、リビングに飾られた大きな家族写真をじっと見つめた。
成実が健翔を抱き、遥の腰に腕を回し、父と子がそれぞれ、彼女の頬と額にキスをしている。
写真の中の遥は、満ち足りた表情を浮かべている。健翔も笑っている。普段は感情を見せない成実でさえ、その時は穏やかな顔をしていた。
誰が見ても、理想的な三人家族だった。
だが、明菜が戻ってきたあの日から、すべてが変わった。
外で花火が炸裂する音と同時に、彼女のスマートフォンが震えた。届いたのは、明菜からの動画だった。
画面には、明菜が撮った成実と健翔の後ろ姿。大小の背中が寄り添うように並んでいる。その画面の片隅で、明菜の手に光る大きなダイヤモンドリングが、やけに眩しかった。
そして三人の声が重なる。
「あけましておめでとう!」
男が振り返り、優しさを湛えた瞳で明菜に囁いた。
「これから毎年、もう逃さない」
そんな眼差し、そんな声。遥は一度たりとも向けられたことがなかった。
最も情熱的だったはずの結婚初期の二年間でさえ、新年や記念日に彼がしてくれたのは、額に淡いキスと、「ありがとう」という事務的な言葉だけだった。
遥はずっと、成実のことを「岩」のようだと思っていた。何をしても、どう触れても温まらない岩のように。
だが明菜を見て、ようやく気づいた。彼の優しさは、最初からすべて、明菜に預けられていたのだ。
遥は動画を閉じ、最後の花火が夜空に消えるのと同時に、成実にメッセージを送った。
【早く帰ってきて。明日はお墓参りだから】
彼の両親への、最後の親孝行だ。
一ヶ月後、二人は赤の他人になる。
滑稽で、一方的な思い込みに満ちたこの結婚も、ついに終わりのときを迎えるのだ。
どれほどの時間が経っただろうか。玄関のドアが開く音がして、成実が入ってきた。
リビングに遥がまだいるとは思っていなかったらしく、一瞬驚いた顔をした。食卓に並んだ料理に目を向けても、表情は何も変わらない。
「新年くらい、穏やかに過ごさせてくれないか……本当に縁起が悪い」
澄んだ声で、苛立ちをぶつけてきた。
続いて健翔が入ってくると、わざと靴を蹴り飛ばしながら、ドタドタと大きな音を立てて歩き回った。
「もう遅いんだから、静かにして」
思わず注意すると、健翔は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「余計なお世話だ!クソババア!」
そして彼女の右手を見て、吐き捨てるように言った。
「指が三本しかないクソババアが!」
遥は思わず右手を引っ込めた。薬指と小指のない手が、震えていた。
離れると決めていたはずなのに。子どもからの悪意は、彼女の心に深く突き刺さった。
一瞬、息ができないような苦しさに襲われる。
それでも、成実は最初から最後まで、一言も発さなかった。遥が命を懸けて産んだ子どもが、母親を罵倒するのを、黙って見ていたのだ。
ガンッ!
健翔が勢いよくドアを閉めた。
ようやく成実がゆっくりと歩み寄り、皮肉を口にした。
「今日は新年だ。みんな騒がしくて当たり前だろ。こんな音で文句言うやつなんていない。大げさすぎるんだよ。道理で健ちゃんがお前を嫌いになるわけだ」
遥は口元を歪め、冷ややかな笑みを浮かべた。
「もしかしたら下の階の人も、私と同じように、大晦日をひとりで過ごして、早く眠ろうとしていたのかもしれないじゃない?」
その言葉に、成実は一瞬、視線を落とした。食卓に並ぶ料理に気づき、わずかに罪悪感のようなものが表情に浮かんだ。
だが、遥の声は冷たく続いた。
「健翔の態度だって、誰かがいつも私の悪口を吹き込んで、私を嫌うように仕向けてたからじゃないの?」
成実の動きが、ピタリと止まった。その表情から、さっきまでのわずかな罪悪感が、すっと消える。
眉間に皺を寄せ、低い声で詰問した。
「……明菜のことを言ってるのか?お前が一人で寂しいと思って帰ってきてやったのに、それがその態度か?」
その言葉を聞いた瞬間、遥の心には、もはや怒りも哀しみも湧かなかった。ただ、滑稽だと……おかしくて仕方がないと、思っただけだった。
何も言わず、テーブルに置いていた署名済みの離婚届を手に取った。
そして、ウォークインクローゼット……いや、正確には「寝室」に向かった。
健翔は、遥がこの家のどの部屋にも入ることを許さなかった。成実もそれに何も言わなかった。
だから、遥の服だけが並ぶこの狭いクローゼットが、唯一の避難所になっていた。
扉を閉める瞬間、外でガシャンと食器が落ちて割れる音がした。
けれど遥は、無表情のまま鍵をかけ、その音を聞こえないふりでやり過ごした。
もう、彼らを甘やかす気はない。愛情も、絆も、とうに枯れ果てたそんな他人を、許し続ける理由なんて、遥にはもうどこにもなかった。
第2話
翌朝早く、遥は身支度を整え、押し入れの奥から見つけ出した黒い正装に袖を通した。
鏡に映る自分の顔はやつれていたが、それがかえって今日の目的にふさわしく思えた。お墓参りに行くには、これくらいでちょうどいい。
リビングに足を踏み入れた途端、健翔がわざとらしく「ちっ」と舌打ちをして、食べかけの茶碗を机に叩きつけた。汁がはねて、遥の服に染みを作った。
「うわ、汚っ」
悪意を隠そうともしない笑い声が飛んできた。
かつては素直だった子どもが、ここまで無作法になってしまった。その変貌に、遥はやりきれない悲しさを覚えた。
あの頃、健翔のためにと最高の家庭教師を探して、大雨の中を奔走し、三日三晩も寝込んだことがあった。それでも、健翔にはまっとうな人生を歩んでほしかった。
そう信じて、心血を注いできた。
けれど結局、そんな努力も、明菜の安っぽい芝居の前には無力だったのだ。
遥は得意げに立ち去ろうとする健翔の腕をぐっと掴んだ。声は低く、冷たかった。
「謝りなさい」
その表情に、健翔は一瞬たじろいだ。こんな冷たい顔を、母親が見せたことはなかった。
次の瞬間、我を忘れたように怒鳴り返した。
「謝るもんか!昔なら、お前みたいなクソババア、火あぶりにされてたんだぞ!」
――パンッ!
乾いた音が室内に響いた。遥の平手打ちが、力強く健翔の頬を打ち抜いていた。
頬を押さえ、目を見開いた健翔が、信じられないというように遥を見つめた。
「……殴ったのか、俺を?」
そこへ成実が駆け寄り、健翔を庇うように前に立ち、怒声を浴びせた。
「なんで健ちゃんを殴ったんだ!」
遥は無言で手を引き、軽く振ってから言った。
「私は彼の母親よ。しつけて何が悪いの?」
成実はすぐさま言い返した。
「お前にしつけられる筋合いなんてない!」
ふん。遥は内心で鼻で笑い、感情を見せぬまま淡々と口を開いた。
「心配しなくていいわ。もうすぐ私も、関わらなくなるから」
その言葉に、成実は一瞬きょとんとした。今日の遥は、普段の彼女とはまるで別人だった。
「どういう意味だよ?」と思わず問いかけたが、遥は何も答えず、ただ一言。
「……出発しましょう」
車内、遥は後部座席で終始無言だった。空気はひどく冷え切っていて、まるで他人同士のよう。
成実は何度もバックミラーで彼女の様子を窺い、「これは本気で怒ってるな」と確信した。
以前なら、昨夜のように自分がリビングで音を立てただけで、すぐに遥は飛び出してきた。たとえ喧嘩しても、翌朝には必ず自分から歩み寄ってきた。
けれど今回は違う。残り物の朝食を食べている自分たちの姿にも気づかず、あろうことか健翔を平手で打った。
成実は思い出していた。昨夜、ドアの向こうでひとり佇んでいた彼女の背中を――
考えた末に、助手席の収納ボックスから小さな箱を取り出し、信号待ちの間に後部座席へ放り投げた。
遥は目を閉じて休んでいたが、不意に何かがぶつかり、思わず声を上げた。
「……あんた、頭おかしいんじゃないの?」
結婚してから六年。成実のこういう無神経な態度には、もううんざりだった。
相手の顔がみるみるうちに険しくなる。
「これは記念日のプレゼントだぞ。頭がおかしい、だと?昨日は墓参りに行こうってメッセージを送ってきて、今日はその態度か。謝れってことなんだろ?だったら今、謝った。それ以上、何が欲しいんだよ?」
信号が青に変わり、成実は吐き捨てるように言って、運転を再開した。
遥はバックミラー越しに、彼の不機嫌な顔を見つめた。
謝れなんて、一言も言ってない。なのに、どうしていつも、彼は自分の思い込みをぶつけてきて、それを理由に逆上するのか。
遥は目を伏せ、黙って箱を開いた。中には、ダイヤの指輪がひとつ。
確かに輝いていたが、どこかで見覚えのあるものだった。
……TRの、廃盤モデル。
発売後に何らかの理由で販売中止となったもので、路上に落ちていても拾う人はいないような代物。
一方、昨日の動画で明菜がつけていたのは、TRが世界に一つだけ作った新作。永遠の愛を象徴する、特別なデザインだった。
過去五年間、成実の不機嫌や気まぐれは、仕事の忙しさやストレスのせいではなかった。
プレゼントをくれなかったのも、「ロマンチストじゃないから」ではなかった。
ただ、愛されていなかったから。
それだけのことだった。
パタン。
遥は無言で指輪の箱を閉じ、それをぽんと後部座席に投げ返した。
廃盤品なんて、いらない。
墓地まであと五キロというところで、成実のスマホが鳴った。
彼は画面を見ることもなく、迷いもせずに路肩へと車を停めた。その様子からして、この着信音には慣れているのだろう。
遥の前でも気にする様子もなく、電話を取った。
「……今?でも今日は――」
相手が何を言ったのかはわからなかったが、彼の険しかった顔がふっと緩み、声も優しくなった。
「わかった。すぐに行く」
……へえ、こんな顔もできるのね。
遥は腕を組みながら、次に成実が何を言うのかを黙って待った。
案の定、電話を切るなり、振り返ってこう言った。
「急用で会社に行かなきゃならない。墓参りは……ひとりで行ってくれ」
遥の目は節穴ではない。スマホの画面に「明菜」と表示されていたことくらい、はっきり見えた。
女のために、実の両親の墓参りを放棄するなんて……本当に、ロマンチストだこと。
遥の目に、あからさまな嘲笑が浮かんだ。
「こんな何もない場所に私を置き去りにして、あの墓まで歩いて行けって?成実。あの墓碑の下には、あなたの実の両親が眠ってるのよ。新年の初日に、育ての親の墓参りより大事な仕事って、一体なに?」
第3話
成実は、遥の鋭い言葉に胸を突かれ、思わず語気を強めた。
「あの人たちは、お前にとって親も同然なんだぞ。墓参りくらいしてやれないのか?大人のくせにタクシーも呼べないのか?」
かつての成実なら、ぶっきらぼうでもここまで突き放すことはなかった。不機嫌なときでも、まず遥の身を案じる姿勢だけは崩さなかったのに。
遥はそれ以上なにも言わず、黙ってドアを開けて車を降りた。「バタン」と閉められた音には、彼女の怒りがはっきりと滲んでいた。
成実は一瞬たりとも躊躇せず、ハンドルを切って車をUターンさせ、そのまま走り去った。排気ガスが遥の顔に容赦なく吹きかかった。
その直後、遥のスマホが震えた。
明菜からだった。画面には、いかにも得意げなメッセージが表示されている。
【楽勝だったわ】
たった六文字。それだけで遥の胃がきしむ。こみ上げる吐き気に思わず口元を押さえた。
チャット履歴を遡れば、昼夜を問わず送りつけられた嫌がらせと自慢話の数々。明菜の執念深さは、もはや狂気にも近い。
遥はそのすべてに、一度も返信したことがなかった。
当時は悔しさと憤りで、昼も夜も泣き通し、文字を打つ余裕すらなかったのだ。
けれど今は違う。しがらみから解き放たれ、遥は冷静に指を動かした。
【結婚おめでとう、先に言っとくわ】
皮肉ではない。遥はよく知っていた。あと一ヶ月もすれば離婚が成立し、成実は明菜を妻として迎えるだろう。
だからこれは、本心からの「祝福」だった。
もちろん、その先に待つ修羅場や、愛情が枯れ果てる未来も心から願っている。
すぐに、明菜から怒りの返信が飛んできた。
【恥知らずのクソ女、お前さえいなければとっくに結婚してたわ】
【あの人が、お前なんか好きだと思ってんの?勘違いも大概にしなさい】
【知らないんでしょ?健ちゃん、毎日言ってるのよ。「あのババアを殺して明菜さんをお母さんにしたい」って】
最後の一文は、遥にとっても初耳だった。
スマホを握る手が震える。遥は、じっとその画面を見つめた。
どうして子どもが、そんな言葉を……
しかし、その痛みもすぐに風とともに消えていった。どれほど悪意をぶつけられようと、もうすぐその子は赤の他人になるのだから。
遥は通知をオフにし、スマホを閉じた。
そして歩き続けた。一時間後、ようやく墓地の入口に辿り着いた。
ここの管理人とは顔なじみだ。正月に訪れる者など滅多におらず、すぐに覚えられてしまったのだ。
記帳をする遥の背中を見ながら、管理人が声をかけてくる。
「今日はお一人で?」
「ええ」
詳しい説明はせず、遥は花を手に墓までの道を歩き出した。
写真に写る狩野夫婦の面影は、まだ若かった。あんな事故が起こるとは、誰も想像していなかった。
当時、遥は成実との見合いを終えたばかり。なぜか成実は、無言の反発のように明菜を連れてきていた。
運転していたのは成実の父。助手席では母が、雰囲気を盛り上げようと、ひたすら話し続けていた。
遥は窓際に、明菜はその隣の真ん中の席に座っていた。
あの日、車内が会話で賑わう中、義父は交差点から飛び出してきたトラックに気づかなかった。
衝突音は凄まじく、遥ができたのは、トラック側にいた成実をとっさに抱き寄せることだけだった。
だが、その腕は鉄板に削られ、薬指と小指を失った。
そして、意識を失った。
目覚めたとき、成実は泣き腫らした目で遥を睨みつけ、「結婚しよう」と歯の隙間から絞り出した。
明菜は、なぜかその日を境に姿を消した。
あれ以来、成実は両親の死を遥のせいにし続けた。
けれど、時の流れは残酷にも優しく、二人の距離は知らぬ間に近づき、気づけば二年のハネムーンを過ごしていた。
そして――
遥は思考を断ち切り、墓前に花を手向け、嗄れた声で語りかけた。
「お義父さん、お義母さん……最後に、こう呼ばせてください。
私は、もう成実のそばにいることに疲れ果てました。彼には、最愛の人が戻ってきました。きっと、これからは幸せになるでしょう。どうか、安心してください。
今日は来られませんでしたが、私からは、毎年必ずお参りします」
言葉が尽き、遥はその場に座り込んだ。何を話せばいいのか、もう分からなかった。
そのとき、ひとひらの風が吹き、花びらがふわりと舞って、そっと頬に触れた。
狩野夫婦も、私を悼んでくれているのだろうか。
遥は昼過ぎまでそこにいて、管理人と簡単な昼食を取り、帰路についた。
ところが途中、空が急に暗くなり、「ザーッ」と容赦ない雨が降り出した。
配車アプリを開いてタクシーを呼ぼうとしたが、待ち人数は数百人。あたりには人影もなく、雨宿りできる木さえない。
遥はずぶ濡れになりながら歩き続け、四時間後、ようやく都心に着いた。
ガラスに映った自分の姿は、見るも無惨だった。
濡れた髪は頭皮に張りつき、表情は虚ろ。まるでどぶから這い出てきたような風体。
視線を逸らそうとしたそのとき、ふと、ガラスの向こうに目が留まった。
なんという皮肉。
成実が、健翔と明菜と向かい合い、楽しげに談笑している。まるで本物の家族のように。
そしてガラスの外では、遥が浮浪者のように立ち尽くしていた。
気づいた。朝、成実が去ってから、一度も連絡がなかったことに。
遥はびしょ濡れのスマホを取り出した。それでも、固くなった指で震えるように電話をかけた。
……繋がった。
店内でスマホを見た成実は、明らかに不快そうに顔をしかめ、そのまま通話を切った。
遥は切られた画面をしばらく見つめ、ホーム画面に戻り、やがて暗転するのを見届けた。
どんなにボタンを押しても、もう二度と光らなかった。
成実の心のように。どれだけ温めても、もう温もることはない。
遥はしばらくその場に立ち尽くし、やがてゆっくりとSIMカードを抜き取り、ゴミ箱に投げ入れた。
そして静かに、家路についた。
第4話
夜の十時。
遥は布団にくるまり、身を縮めるようにしていた。しっかりと包まっているはずなのに、体の芯を這い上がってくるような寒気は防ぎようがなかった。
頭が重く、意識はぼんやりとしていた。熱があるのか、体は冷えたり、急に火照ったりと落ち着かない。眠ったのがいつだったのか、目覚めたのがいつだったのかも定かではない。
ふらつきながら起き上がり、自分でお湯を注ごうとした遥は、手元が狂い、ポットを床に落としてしまった。
派手な音とともに熱湯が跳ね、足元や太ももにかかる。
「っ……!」
一瞬の鋭い熱さで意識が覚醒し、遥は反射的に浴室へと駆け込んだ。蛇口をひねったその瞬間、目の前がぐるりと回り、そのまま浴槽の中へと倒れ込んだ。
意識が遠のく中、最後に浮かんだのはこの一言――ああ……私、こんなところで死ぬんだな……
けれど、運命はまだ遥を見捨ててはいなかった。
病院のベッドで目を覚ましたとき、遥は、まるで生まれ変わったような心地だった。
だが、運命はそこまで甘くなかった。
なぜなら、病室のドアの前に立っていたのは、険しい顔つきの成実だったからだ。腹の奥底に沈殿した怒りが、言葉ではなく視線からひたひたと伝わってくる。
彼はためらうことなく大股でベッドに近づくと、青ざめた遥の顔など気にも留めず、襟首を掴み、鋭く叱責した。
「お前、頭がおかしいのか?普通に弱って見せるだけじゃ飽き足らず、今度はこんな極端な手で俺の気を引こうとしたのか?」
「……げほっ」
遥はまだ熱も下がりきっておらず、目覚めたばかりの体に衝撃が加わって、激しく咳き込んだ。唇は真っ白で、目は真っ赤に充血していた。
それでも成実は彼女の咳を芝居だと決めつけ、怒鳴った。
「そんな茶番、やめろ。親父たちは騙せても、俺は騙されないからな!」
咳がようやく治まり、遥は震える手で成実の手を振り払った。そして蒼白の顔で、一言一言を噛みしめるように告げた。
「弱って見せたんじゃない。昨日、大雨の中、墓地から四時間歩いて帰ってきたの。高熱で倒れただけ。お願いだから、あなたの気なんて、これ以上向けられたくない」
もう、この男のために苦しむのは、たくさんだった。
成実はその場に立ち尽くし、しばし呆然とした様子で遥の顔を見つめたあと、おそるおそる訊いた。
「お前……歩いて帰ってきたのか?」
今さらそんなことを聞いてどうする?
遥は黙って襟を直し、ベッドに戻って布団をかぶった。
そのとき、ドアが乱暴に開き、健翔が駆け込んできた。
「お父さん、このクソババアと何しゃべってんの?明菜さんがずっと待ってるよ!」
遥を睨みつける健翔の目は、まるで三人の家族を邪魔する怪物を見るようだった。
「今どきタクシーも呼べないとか……どうせ演技でしょ?そういうの、ドラマで散々見たから。マジで気持ち悪いんだけど!」
成実は息子の言葉に一瞬違和感を覚えた。けれど、胸の中に芽生えかけた罪悪感を打ち消すように、その言葉を盲目的に信じた。そして、冷笑を浮かべて言い放った。
「遥、お前のこと、本当に見くびってたよ」
そのとき、明菜がドアに寄りかかりながら入ってきて、掠れた声で言った。
「成実、私、先にタクシーで帰るわ。遥さん……大変そうだし」
そう言うと、ぐらりとその場に倒れそうになった。
成実は慌てて一歩飛び出し、明菜の体を支えた。
「眩暈がするなら座って待ってろ。俺はちょっと様子を見に来ただけだから」
「……ふっ」
遥は短く笑った。
なるほど、わざわざ見舞いに来たわけじゃないのね。
それでも明菜は演技を続ける。
「いいの、私は平気……遥さんのほうが心配だもの……あっ!」
悲鳴のような声が病室に響いた。成実が彼女を抱き上げたのだ。
去り際、成実は遥に冷たい声を残した。
「無駄な足掻きはやめろ、見苦しい」
健翔も振り返り、舌を何度もベーッと出して見せた。
そこへ若い看護師が薬の交換にやって来た。彼女はどこか羨ましげに言った。
「ご兄弟夫婦の方々ですか?仲がよさそうですね」
遥は淡々と答えた。
「あれは私の夫と息子、それから……夫の初恋の人です」
看護師は一瞬言葉に詰まり、それから顔をしかめ、怒ったような口調に変わった。
「なんだ、やっぱりあの女の人、変だと思ったんです。何もないのに大袈裟に検査を受けたりして……まさか演技だったなんて……!」
看護師のあからさまな態度の変化に、遥は少しだけ気分が晴れた。そしてこの一年で初めて、心から笑った。
幸いにも火傷の衝撃はそれほど深刻ではなく、一週間の入院の末、医師は退院を許可した。
退院の日、迎えに来る者は誰もいなかった。
遥は青空を見上げ、白く流れる雲を仰ぎ、頬を撫でるそよ風に目を細めた。
こんなにも気持ちのいい風があっただろうか。まるで、生まれ変わったような軽さだった。
一人で並木道を歩くうちに、足取りは次第に軽くなり、気がつけば小走りになっていた。心の重荷を下ろした人間って、こんなにも自由になれるのか。
家に着き、扉を開けると、あのときのポットがまだ床に転がっていた。どれほど慌ただしく運び出されたかが、そこからもわかる。
そして何より、成実が一度も戻ってこなかったことも。
でも、不思議と何も感じなかった。
クローゼットへ行き、タグのついたままの服と、ぬいぐるみをまとめた。今回こうして助かったのは、階下の住人が119番してくれたおかげだった。
新しい服やぬいぐるみ、使われることのなかったキッチン用品――大きな箱に三つ分。階下の人に相談したところ、喜んで引き取ってくれた。
クローゼットの中は空になり、残されたのはコート一枚と、替えの服が少しだけ。
遥は部屋を見回し、そっと隠していた引き出しを開けた。中には、デザイン画を描きためたノートがしまわれていた。
成実の妻になる前、遥はジュエリーデザイナーだった。
夢も、キャリアも、すべてを閉じ込めて、この部屋にしまい込んでいた。
けれど、去るときが来たなら、自分の夢だけを手に持って出ればいい。
そう思いながら片づけていると、玄関の外から声が聞こえた。
「……遥?」
それは成実の声だった。
第5話
遥の表情が、ふいに氷のように冷たくなった。
この男、ほんとに興ざめ。
足音を響かせて、成実がクローゼットの前まで駆け寄り、中が空っぽであることを確認すると、喉までせり上がっていた詰問の言葉は、あっさりと凍りついた。
代わりに、薄ら笑いを浮かべて言った。
「なるほど、また新しい手口か。今日退院したってのに、連絡しなかったのもわざとだろ?俺に後悔させたいわけだ。今度は家の中を空っぽにして、家出でもするつもり?三歳児かよ。こっちが折れてるんだから、さっさと謝ってこいよ。そんな子供じみたこと、もういい加減にやめろ」
何ひとつしていないのに、一方的に怒鳴られるなんて。
遥は何も言わずに成実を見つめ、静かに問い返した。
「……言いたいことはそれだけ?」
たった一言で、成実の詰問は見事に封じられた。
成実は信じられないといった目で遥を見つめ、そこでようやく、彼女がずいぶんと変わったことに気づいた。
病院で明菜を見たときも、遥は一言も発さず、そして今も何も尋ねてこない。
以前の遥なら、夫が女性と少しでも接しただけで、必ず気にしたものだった。明菜のことでも、激しい口論になったことがあるのに。それが今は、まるで他人事のように冷静だなんて。
いや、きっとこれは彼女の「苦肉の策」に違いない。
成実の目に、嫌悪の色がにじむ。そして、吐き捨てるように呟いた。
「遥、お前ほんと変わったな。前はうるさかったけど、それなりにかわいいとこもあったんだよ。今は……何も残ってない」
それでも遥は淡々と彼を見つめ、さらりと返した。
「あなたの言う『かわいいところ』って、あなたの浮気を黙って許すこと?」
「ほらな、やっぱりまだ怒ってるじゃないか!もう一週間以上経ってるんだぞ、そこまで根に持つことかよ!?」
成実は何か証拠でも掴んだかのように自信を取り戻し、得意げな顔を浮かべた。
だが今回は、遥は何も返さず、ただ黙って下を向き、自分のデザイン画を整理し続けるだけだった。
それを見て、成実は彼女の弱点を突いたと確信し、再び優位に立ったと思って鼻で笑った。
「ま、怒りが収まったら連絡してくれよ。この数日は家には帰らないからさ」
そう言い残して、本当に彼は一週間、家に帰らなかった。
遥はその静けさを心から楽しみ、ゆっくりとすべての荷物を整理し終えた。
数日後、かつて物で溢れていた部屋には、ソファセットとハンモックチェアだけが残っていた。
偶然にも、そのどちらもが、明菜がSNSに投稿していたモデルとまったく同じだった。
前回スマホが壊れてからは新しいものを買わず、半月をなんとか乗り越えた。そろそろ、新しいスタートを切るつもりだった。
遥は整理した小物をフリーマーケットに出すため、知人に会わないようにと、わざわざ二つ隣の区にある公園を選んだ。
売れ行きが上々だった頃、遠くから見覚えのある三人がこちらへ向かってくるのが見えた。
明菜が、わざとらしく驚いた様子で声をかけた。
「遥さん、こんなとこで何してるの?何売ってるの?」
成実は眉をひそめ、遥がまた何か妙なことをしているのではと勘ぐっていたが、露店の品物を見た途端、その目が鋭く細まった。
「遥、これ全部……俺たちの物だろ?まさか、これも売るつもりかよ?」
健翔も何点かに気づき、手を伸ばした。
「これ、俺の車のモデルだ!」
だが手に取る前に、遥がさっと彼の手を押さえ、にっこりと微笑んで言った。
「訂正するけど、それはあなたの車のモデルじゃないわ。私が買った車のモデルよ。
これも、私が買った記念の万華鏡。これだって、私が選んだダイヤモンド付きのフォトフレーム」
一つひとつ指差して説明したあと、遥は成実のほうに視線を移し、声のトーンを落とした。
「そしてこれらは全部、あなたたちが『センスが悪い』って言って見向きもしなかったものよ。フリーマーケットで売ったって、どこが悪いの?」
成実は、目の前にいる遥が、まるで別人のように思えた。
少し大きめのフォトフレームに目をやった瞬間、全身が小刻みに震えた。
「これ……結婚写真を飾るやつだよな?中の写真は?」
遥は彼の視線を追い、わざとらしく首をかしげてみせた。
「え?最初から空っぽだったんじゃなかった?」
「遥!お前、ふざけるなよ!」
成実の態度が遥に向き始めているのを見て、明菜は苛立ったように、わざと成実の腕にしがみつき、遥に向かって言った。
「遥さん、誤解しないで。成実はね、ただこの婚姻を壊したくないだけなの」
どうして、浮気相手がここまで堂々としていられるのか。
遥は、その厚かましさにむしろ感心すら覚えた。
「婚姻を壊したくない人は、自分の妻の前で、他の女に腕を組ませたりしないわよ」
その一言に、成実は火でも触れたように慌てて明菜の手を振り払った。
遥はすでに素早く荷物をまとめ、冷ややかな目で二人を見やった。
「おかげさまで、商売が台無しよ。どうぞ仲良くお散歩でもしてて。私は場所、変えるから」
第6話
遥は大きな袋を背負い、その場を後にした。
成実は追ってこなかった。いや、追ってくるはずがないと初めからわかっていた。隣には明菜がいる。そんな状況で、他の誰かに気を配れるわけがない。
不用品を売り切った頃には、もうすっかり日が暮れていた。
今日は祝日で、どの家も楽しげな笑い声に包まれていた。遥は、自分をみじめにしたくなくて、一度も入ったことのない、けれどずっと気になっていたバーに足を踏み入れた。
店内はアートな内装で彩られていて、以前、成実にそんな店の話をしたことがあった。あのとき彼は、「まともな人間が行くような場所じゃない」と吐き捨てるように言った。
店内は外の喧騒とは無縁で、静かな音楽が流れ、落ち着いた雰囲気に包まれていた。なんとなく、心の奥がじんわりと温まるような空間だった。
遥が店の隅の席に腰を下ろして間もなく、司会者がステージに上がり、マイクを軽く叩いて静かにするように合図した。
「今日は特別な日です。そこで、特別なゲストをお招きしました。皆さん、盛大な拍手でお迎えください!」
拍手の嵐の中、幕の奥から一人の人物が姿を現した。その顔は、遥には見慣れたものだった。
明菜は優しく微笑みながら会場を見渡し、遥の姿を見つけたとたん、わずかに目を見開いた。しかしすぐに、さらに明るい笑みを浮かべてマイクを握った。
「皆さん、こんばんは。アキナです。一年前、私はこの店でレギュラーとして歌っていました。そしてここで、運命の人と出会ったんです」
明菜は客席の成実を見つめた。スポットライトが彼女の視線を追う。
一人はステージの上に、もう一人は客席に。遠くから視線を交わす二人は、まるで最も愛し合う、運命に導かれた恋人たちのようだった。
観客たちは騒ぎ立て、司会者は成実をステージに呼び上げた。健翔が手を叩きながら、彼の背中を押した。
ふだんは無表情な成実が、今はまるで少年のように照れ、頬を赤らめていた。
遥は席の隅で身を縮め、腕を組みながら、その賑やかな光景を静かに見つめていた。妻であるはずの自分は、今では夫の幸せを見届けるだけの、通りすがりの証人のようだった。
「成実さん、あのとき助けてくれてありがとう。私の気持ちは、あれから一度も変わってません」
明菜の瞳には光が宿り、今にも涙をこぼしそうだった。
成実の目には戸惑いと迷いが広がり、そっと手を伸ばして彼女の涙をぬぐった。
「キスして!」
「キスして!」
客席からの歓声が沸き上がる中、明菜は得意げに遥を見た。
特別な再会の日。遥の夫とその子どもは、公の場で別の女性の愛の告白を受け入れ、否定しなかった。
くだらない。
遥は目を伏せ、グラスの酒を一気に飲み干した。みんなが愛を祝福するその場を、彼女はそっと立ち去った。
ステージの上で明菜を見つめていた成実だったが、なぜか朝方、激しい嫌悪をぶつけてきた遥の顔がふいに思い出された。
その瞬間、視界の隅に見慣れた姿が映った。
遥……?どうして、彼女がここに?来るなと言ったはずなのに。
そう思う間もなく、成実は彼女の背後に、不審な男の姿を見つけた。考える暇もなく、ステージから飛び降りて外へと駆け出した。
一方その頃、明菜は復讐の快感とスポットライトの高揚感に酔いしれていた。今回はきっと成実を落とせる。そう確信していたが、彼はなかなか明確な態度を見せなかった。
何を迷ってるの?ねぇ、何か言ってよ。
そう促そうとしたその瞬間、成実は一言も発することなく、ステージを降りて走り去った。
……成実は、遥を追いかけたの?
なぜ? こんなにいい雰囲気だったのに!
明菜は怒りに震えながら、成実の後を追って足を踏み出した。
客席は騒然となり、誰もが何が起こったのかわからずざわついていた。
外に出ると、夜風はまだ少し冷たかった。遥はコートの襟をきゅっと引き、さっき飲んだ酒が胃の奥でじわじわと熱を発していた。
酒に慣れていないせいか、頭がふらつき、数歩も歩かないうちに天地が揺れるような感覚に襲われた。
遥は壁にもたれ、立ち止まって深呼吸した。
そのとき、知らない声が響いた。
「お嬢ちゃん、一人かい?」
遥は警戒心を露わにして振り返り、思わず距離を取った。
男は帽子を深くかぶり、顔がよく見えなかった。突然、手を伸ばしてきた。
遥は必死に抵抗したが、男の力は信じられないほど強かった。
「遥!」
聞き慣れた声だった。
今は離婚の話なんてどうでもよかった。遥は叫んだ。
「成実!助けて!」
痴漢が驚いて手を引っ込めようとしたそのとき、成実の背後からもう一人が現れ、「きゃっ」と声を上げてその場に倒れ込んだ。
明菜だった。足首を押さえ、涙を浮かべている。
「足が……」
「お父さん!明菜さん、捻挫しちゃった!早く病院に連れてって!」
健翔が慌てて叫んだ。
痴漢は突如勢いを取り戻し、遥の手を乱暴に握ったまま、成実を挑発するような視線を向けた。
普通に考えれば、どちらを優先すべきかは明らかだった。
遥は成実を見つめた。
成実は苦悩の末、ついに方向を変え、明菜を抱きかかえた。そして遥に向かって叫んだ。
「怖がらないで!警察を呼ぶから!」
健翔は怒りに満ちた声で叫んだ。
「あんなクソババアなんて、ほっときゃいいのに!」
三人は夜の闇の中へと消えていった。
遥は、その光景をただ信じられない思いで見つめていた。
第7話
これは本当に人間の所業なのか。成実は、いつだって遥の想像を軽々と超えてくる。
「どうやら援軍はいないようだな」
痴漢は、どこか誇らしげに言った。
遥はポケットに手を伸ばし、鍵を取り出すと、そのまま相手の目を目がけて突き刺した。男が絶叫し、拳を振り上げて彼女に叩きつけた。
もみ合いになる中、遥は何発も強烈な拳を浴びた。だが、一瞬の隙を突いて、男の下半身に蹴りを入れた。痛みにのたうち回るその隙を逃さず、スマホを奪い取り、すぐさま警察に通報した。
警察が到着し、状況を確認している間も、遥の胸には疑問が残っていた。
「さっきここで、通報とか……なかったんですか?」
警官は首を傾げながら、ごく自然に答えた。
「いえ、ありませんでしたよ」
はっ、成実は……通報すら面倒がったんだ。
警察署で手続きを終え、病院で治療を受ける頃には、遥の体には無数の傷が刻まれていた。医師たちは、その重傷をどうやって耐え抜いたのかと目を見張っていたが、遥はただ微笑み、何も言わなかった。
もっと重い、心の傷だって乗り越えてきたのに。こんなの、何でもない。
すべてが終わった頃には、もう午前三時を過ぎていた。
遥は疲れ切った体を引きずるようにして帰宅した。静まり返った家には、人の気配すら感じられなかった。ソファに身を沈めた瞬間、全身の力が抜けていく。
どれほど時間が経ったのだろう。玄関のドアが開く音がした。
「パッ」
突然灯った明かりに、遥は目を細めた。手で眩しさを遮りながら、その隙間から成実と健翔が入ってくるのを見た。
「ふん、またみっともない姿でお父さんに縋って……!」
健翔の口からは、容赦のない言葉が飛び出した。
だが、遥にはもう彼を叱る力も残っていなかった。目を閉じ、親子の姿を無視するようにして、淡々と口を開いた。
「何か取りに来たんでしょ?さっさと持っていって。静かに休みたいの」
成実の目が、遥の腫れた頬、折れた爪、無数の傷をなぞるように動く。それでも彼女は一言も泣き言を言わなかった。ただ、全身から疲労だけが滲み出ていた。
打ち明ける気力すら、もう残っていない。
夫というのは、本来なら、妻が安らげる唯一の場所であるはずなのに。
母親の傷を気にも留めず罵る健翔を見て、遥の心はすっかり冷え切っていた。
どうして、私の子がこんなふうになってしまったの?
沈黙が落ちてしばらく、遥は目を開け、健翔をじっと見つめた。少し考えたあと、呟くように言った。
「謝れってこと?あなたのデート、台無しにしちゃったから?なら、謝るわ」
疲れていた。ただ、それだけだった。
成実は健翔に向かって一言。
「部屋で寝なさい」
そして、ドアを開けて外に出ていった。遥は、彼がどこへ行くのかも気にしなかった。
三十分後、再び玄関のドアが開いた。
成実が両手にいくつもの薬袋を提げて戻ってきた。彼は遥のそばにしゃがみ込み、ヨード液と綿棒を取り出した。
カサリ、という音で、遥は目を開けた。
「何してるの?薬ならもう塗ったわよ。今さらそんな芝居がかったことして、何の意味があるの?」
成実の眉がひそみ、苛立ちが露わになった。
「薬を塗ってやってるのに、罵られるとはな。遥、お前は本当にどうしようもない女だ。人にひどくされないと、気が済まないのか?」
遥は冷ややかに笑った。
「私に酷いことしてるって、自覚はあるのね」
成実は黙り込む。もはや気取った優しさを装うつもりもないらしい。
綿棒とヨード液をテーブルに放り投げると、立ち上がって遥を見下ろした。
「前から言ってただろ。あんな所へ行くなって。聞かないから、自業自得だ」
自業自得?本当にすごいわね。傷だらけの妻に向かって、まだ無傷のところを探しては、そこに刃を突き立てるなんて。
遥は、もう喧嘩をする気力すら残っていなかった。静かに成実を見つめ、ぽつりと尋ねた。
「じゃあ聞くけど、あなたと明菜は、どこで再会したの?」
たしか、明菜自身が「バーで」って言ってた、聞き間違いじゃなければ。
遥は成実の顔を見ることなく、毛布を引き寄せて頭まで覆った。
もう、疲れた。心の底から。なんで、私がこんな目に遭わなきゃいけないの?
あと半月。でも、もう一時間すら持ちこたえられそうにない。
成実のスマホが、何度も何度も鳴っていた。
彼は出なかった。
しばらくして、健翔の部屋のドアが開き、スマホを持って駆けていく声がした。
「明菜さんからだよ!」
さらに三十分後。成実と健翔は立て続けに家を出ていった。
窓の外は、もう夜明け前の青白い空。
二人が去ったあとで、ようやく遥は安心してまどろみに落ち、目を覚ましたときには、外はもう暗くなっていた。
起き上がると、全身がきしむように痛んだ。
これだけの時間が経っても、成実は遥のスマホについて、一度も気にかけなかった。たった一度でも電話してくれれば、壊れて使えないってことくらい、すぐにわかったはずなのに。
遥はソファからゆっくりと体を起こし、食べ物を買いに外へ出た。
住宅を出たすぐ先の角。そこに、成実と明菜が寄り添うように何かを話している姿が見えた。
その瞬間、横から黒い影が風のように走り抜けた。
気づいたときには、腹部に激しい衝撃が走った。血が溢れ出すのを見下ろしながら、遥は茫然と顔を上げた。
向こうでは、明菜が金切り声を上げて、成実の腕にしがみついていた。
「成実、怖いわ!」
犯人の男は、その叫びに驚いて、遥にもう一度刃を突き刺し、慌てて逃げていった。
遥の体は、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。視線の先、遠くに、まだ明菜のそばに立つ成実の姿があった。
第8話
遥が病院で目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
医師は眉間に皺を寄せながら、重々しく口を開いた。
「もともとの傷もまだ塞がっていないのに、さらに二箇所も刺されてね。通行人がすぐに運んでくれていなければ、大量出血で命を落としていたかもしれないよ。
これからは体調が悪い時は、ちゃんと家族に看てもらいなさい。一人で無理をするのは、もうやめることだ」
通行人が搬送してくれた?
あの時、目の前にいたはずの成実は、一体何をしていた?
遥はバーでの夜を思い返し、ふっと苦笑いを浮かべながら首を振った。
「……家族なんて、いません」
「どうして、あなたがまだ成実のそばにいられるのか、ほんとに理解できないわ」
いつの間にかドアの前に立っていた明菜が、腕を組み、どこか満足そうな目で遥を見下ろしていた。
傷一つない姿で、ゆっくりとこちらに歩み寄りながら、唇の端をつり上げて言った。
「昨日、私ね、ただ気絶したふりをしただけだったの。でも成実はあなたのことなんて気にも留めず、私を真っ先に病院に連れて行ってくれたのよ。
私があなただったら、とうに離婚してる。そんなに図々しくて、よく何年も彼のそばに居座れたわね。
遥、正直あなたのこと、見くびってた。でも、命だけは意外としぶといのね」
その言葉一つ一つに、嘲笑と軽蔑がたっぷりと混じっていた。明菜は遥が怒りに震える姿を期待していたのだろう。
だが、彼女の読みは外れた。
いまの遥に、怒りはなかった。ただ、冷え切った静けさだけが心を覆っていた。
遥は明菜の挑発に、淡々と応じた。
「眩暈がするなら、もっと休んだ方がいいわ。それに、気絶の演技も、もう少し上手くやらないとね。いずれ彼にバレたら、あなたの甘い夢もそこで終わるわよ」
「……なによ、それ!」
明菜が言い返そうとしたその瞬間、ドアの外から足音が近づいてきた。
彼女はとっさにベッド脇に身を寄せ、わざと大袈裟に床へ倒れ込んだ。
「遥……私はただ、あなたの様子が心配で来ただけなのに、どうして突き飛ばすの?私、なにか悪いことした?」
その芝居がかった言葉が響いたちょうどそのとき、成実と健翔が病室のドアを開けた。
成実は一瞬にして表情を強ばらせ、大股で明菜に駆け寄り、優しくその体を抱き起こした。そして遥を鋭く睨みつけた。
「お前、いったい何をしているんだ。外で勝手に敵を作って、それを明菜のせいにするつもりか?」
続いて健翔が小走りで近づき、いきなり遥の腹部に拳を叩き込んだ。
「わるいひと!」
そこは、まさに傷口の上だった。
鈍い痛みに襲われ、遥の体は反射的に跳ね上がった。布団の下から、じわりと新たな血が滲み出した。
遥は震える全身をかばうようにしながら、震える指でナースコールのボタンを押した。
成実は、その光景を茫然と見つめていた。一瞬、迷いの色がその瞳に浮かんだ。
やがて駆けつけた看護師が、慌てて包帯を巻き直しながら状況を把握し、堪えきれない怒りをにじませて成実に言い放った。
「あなた、お子さんのお父さんですよね?子供に善悪を教えるのが親の役目じゃないですか。こんな傷口を殴らせて、大出血で命に関わったら、あなた責任が取れるんですか?」
成実は口を開きかけたが、言葉にならなかった。その隣で、明菜が空気を和ませるように、にっこりと笑って言った。
「子供ですから、力加減がわからないんですよ」
健翔は安心したように、明菜の後ろに隠れた。
看護師は目を細め、じっと明菜を見つめて言った。
「あなたが不倫相手ですね?最初から最後まで、なんの異常もなかったでしょう?気絶のふりにも限度がありますよ。人を馬鹿にするのも大概にしてください」
看護師として本来、口にすべきではない言葉だった。だが、それだけ我慢の限界だったのだろう。
明菜の顔が一瞬、引きつった。成実もまた、疑わしげに彼女を見た。焦った明菜は、とっさに遥の方へ視線を向け、声を震わせながら言った。
「遥さん、いくら私のことが嫌いだからって、医療スタッフに嘘を吹き込むなんて、あんまりよ。そんなこと、ひどすぎるわ……」
そう言って鼻をすするふりをしながら、涙を浮かべた。成実はすぐに明菜の肩を抱き、冷たい目で遥を見つめた。
「お前には心底がっかりした。明菜に謝れ」
二箇所も刺されて、生死の境をさまよった遥。それでも、成実は病院に連れていこうとはしなかった。その遥が、何の異常もない不倫相手に謝れと言われている。
馬鹿げていた。
遥は唇をきゅっと噛み締め、静かに目を閉じた。その態度は、言葉以上に明確だった。
成実は冷たく、重たい声で言い放った。
「明菜に謝らないなら、もう二度と見舞いには来ない」
そう言い残して、彼は病室を出て行った。
成実はその言葉通り、その後ただの一度も病院に姿を見せなかった。
明菜はというと、毎日のように「三人の幸せな生活」と題した写真や動画を送りつけてきた。
遥は、それらを一つ一つ確認することもせず、すべてをひとつのフォルダに保存しただけだった。
離婚が成立したその日、遥は退院を強行した。自宅に戻り、最後の荷物をまとめて、すぐにチケットを予約した。
保存しておいた写真と動画を圧縮し、タイマー付きのメールに添付した。
出発前、遥は離婚届を家のもっとも目立つ場所に置いた。
さようなら。この息の詰まる、苦しみばかりの家。
さようなら。私をこれほどまでに痛めつけた、あの親子。
もう二度と、会うことはない。