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風はもう、ここにはいない
六年続いた、誰にも知られない結婚生活。 ある日、夫がかつて愛した女性が戻ってきた。 私はそっと子どもの手を取り、その場所を彼女に返すこ...
Chương (1)
第1章
六年続いた、誰にも知られない結婚生活。
ある日、夫がかつて愛した女性が戻ってきた。
私はそっと子どもの手を取り、その場所を彼女に返すことにした。
第1話
誰にも知られることなく続いてきた、六年の結婚生活。
その今夜、橘真澄(たちばな ますみ)は、初めて娘と「高い高い」をした。
五歳になる心羽(こはね)は無邪気に笑いながら、手を振って篠原柚希(しのはら ゆずき)に声をかけた。
「ママ、叔父さんがね、空に飛ばしてくれたよ!」
その光景を見つめながら、柚希の胸の奥には、やり場のない切なさが広がっていた。
それでも、母として微笑みを作る。せめて、この瞬間だけでも、娘の笑顔を壊したくなかった。
真澄は、酔っていた。何をしているのか、自分でもわかっていないのだろう。
彼は心羽を愛していない。柚希のことも。
今夜、彼が機嫌が良い理由はただ一つ―
彼の「本当に愛した人」水原玲奈(みずはら れいな)が、帰ってきたからだった。
六年前、真澄と玲奈は情熱的に愛し合っていた。
だが、ある日彼女は何の前触れもなく姿を消し、彼は彼女を追う途中事故に遭い、下半身不随となった。
柚希は彼の専属秘書として、昼夜を問わず彼の傍に付き添い、怒りも絶望も黙った受け止め、励まし続け、リハビリにも付き合っていた。
そして、ある日。
彼が奇跡のように立ち上がれたその夜、酒に酔った真澄は彼女を玲奈と勘違いし、狂おしいほど何度も求めた。
その夜、柚希は身ごもった。
真澄は責任を取るように、結婚に同意した。
だが、後になってすべてを知った。彼が結婚を決めたのは、責任感でもなく、愛情でもなかった。
彼はただ、海外で玲奈が海外で他の男と交際しているというニュースを見たから、柚希と結婚したのだった。
結婚後の彼は、まるで存在しないかのように、柚希と娘の生活には一切関わろうとしなかった。
心羽が生まれた日、彼はわざと出張を入れ、病院には現れなかった。
娘が言葉を覚え始めた頃、「パパ」と呼ぶことすら禁じた。
心羽がスケートボードでバランスを崩したとき、ただ一度「パパ」と呼んだだけで、彼は冷たい目を向け、彼女が頭を打って血を流す姿を、ただ、見ていた。
……
だが、今夜の彼は、まるで父親そのものだった。
娘を抱っこした後、ソファにそっと下ろし、柔らかな笑みを浮かべた。
「俺、いいパパになるよ」
「うん、心羽はパパを信じてる!」
彼はその言葉を聞いたのか聞いていないのか、微笑みを残したまま背を向け、口元からぽつりと名をこぼした。
「大翔……」
その名は、玲奈の息子だった。
そうか、彼は大翔の「いいパパ」になるつもりなんだ。
柚希の心が、氷のように冷たく凍りついた。
けれど、心羽はその名前には気づかず、満面の笑みで柚希のもとへ走り寄ってきた。
「ママ、パパって私のこと好きなんだよね?もう『パパ』って呼んでいい?
だってね、抱っこしてくれたし、『いいパパになる』って言ってくれたんだよ!」
その瞳には、希望と憧れが宿っていた。
他の子どもたちのように、パパの胸に飛び込んで、甘えたい。それが心羽の、ささやかだけれど、ずっと抱いてきた願いだった。
柚希は娘を抱き寄せ、込み上げる涙を必死に堪えた。
娘には、この一瞬の幸せが、他の「おばさん」とその息子のおかげだなんて、絶対に知られたくなかった。
「心羽……ママと一緒に、この家を出ようか?」
「え……なんで?」心羽の笑顔は一瞬にして消え、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。
「だって……私たち、家族でしょ?パパと一緒にいたいのに……」
柚希は娘の涙をぬぐいながら、震える声で答えた。
「おじさんの本当に好きな人が、帰ってきたの。だから、もうここにはいられないの」
「でも……パパ、私のこと好きって言ってくれたのに……」その声はだんだん小さくなっていった。
きっと心羽自身も気づいているのだ。真澄が、自分を愛していないということに。
「ママ……お願い。誕生日までは待ってて。パパにあと数回だけ、チャンスをあげよう?パパが本当に私たちを好きになってくれるかもしれない。もし、そうなったら、この家に残ろう……」
柚希は涙をこぼしながら、静かに頷いた。
「うん。何回チャンスをあげるかは、心羽が決めていいよ」
そう、最後のチャンスをあげよう。
それでも彼が変わらなければ、きっと彼女たちは、永遠に彼の世界から姿を消すことになるだろう。
「うん、ありがとうママ!」
「そろそろ寝る時間よ」
娘を寝かしつけたあと、柚希は静かに自分の部屋へ戻った。
もうこの結婚に、形だけの意味すらない。繕うべき関係も、もう残っていない。
翌朝。真澄は目を覚まし、階下に降りてきた。
心羽は朝食中で、彼を見るなり、嬉しそうにパンを置いて駆け寄ってきた。
「パパ、おはよう!」
その瞬間、真澄の顔が冷たく曇る。
「今、なんて呼んだ?」
心羽の小さな腕が空中で止まり、表情が凍りついた。
「おじさん……ごめんなさい、おじさん……」
柚希は感情を押し殺して娘を抱き上げた。
「さ、朝ごはん食べようね。学校、遅れちゃうよ」
真澄の態度は何も変わっていなかった。
昨日の優しさは、玲奈が帰ってきた嬉しさと酒の勢いに任せた、ただの気まぐれ。
真澄は少し表情を和らげ、ダイニングでコーヒーを一口すすると、何の挨拶もなく家を出て行った。
「おじさん、いってらっしゃい!」
心羽はいつものように、背中に向かって声をかけた。
けれど、真澄は一度も振り返らなかった。
登校途中、心羽はずっとうつむいたままだった。
学校が近づく頃、彼女はふと顔を上げ、柚希を見つめながら小さく言った。
「ママ……これで、一回目だよね?あと三回だけ、チャンスあげようね……」
その瞳には、静かに涙が浮かんでいた。
柚希は、心が張り裂ける思いでその姿を見つめ、優しく微笑みながら答えた。
「うん。心羽の言うとおりにしようね」
第2話
柚希は娘の心羽を幼稚園に送り届けると、その足で法律事務所へ向かった。
鞄から取り出したのは、真澄がかつて用意していた離婚協議書。今もなお効力があるのか、彼女は静かに問いかけた。
彼との結婚には、最初から「条件」があった。それは彼が望めばいつでも離婚できるということ。そして彼女には、それを拒む権利すらなかった。
その協議書は、婚前から用意されていた。日付欄は空白のままだが、真澄の署名だけは、はっきりとそこに記されていた。
法的に有効であると確認がとれると、柚希は迷うことなく自身の名を記し、離婚手続きを弁護士に託した。
「お手数ですが、離婚が成立次第、関連書類をこの住所にお送りいただけますか?」
彼女が差し出した紙には、現在住んでいる邸宅の住所が書かれていた。
鼻の奥がツンとと熱くなる。込み上げる涙をこらえるように、柚希はそっと顔を上げた。
彼を、愛していた。本当に、心から。
結婚後も懸命に努力し、未来を信じていた。
けれど、何度も冷たく突き放されるたびに、胸の中の灯は音もなく、消えていった。
そして、玲奈が戻ってきた今、ようやく悟ったのだ。
もう、自分の役目は終わったのだと。
だが、運命の皮肉か、事務所を出て立ち寄ったショッピングモールのエントランスで、柚希はそのふたりの姿を目にしてしまった。
玲奈は、美しかった。強く、自由で、惹きつけるような野性味を纏いながら、真澄の腕に身を寄せ、満面の笑みを浮かべていた。
そして真澄は、片腕に彼女の息子を抱き、その眼差しには惜しみない優しさが宿っていた。
柚希の呼吸が止まる。かつて、自分と心羽にも夢見た光景が、そこにはあった。
耐えきれずに、涙が頬を伝う。それでもなお、彼らを見つめ続けていた。
切なさを押し殺しながら、ゆっくりと背を向けた。
邸宅に戻ると、彼女は静かに履歴書を整え、作品データを添えて、A国にある志望企業数社へと応募メールを送信した。
そして辞表をプリントアウトし、迷うことなく会社へ向かった。
結婚後、真澄によって第一線から外された柚希は、今やただの事務職員に過ぎなかった。
退職は簡単だった。引き継ぎさえ終えれば、すぐにでもこの場所を去ることができる。
人事との手続きを済ませ、デスクに戻って荷物を整理していると、やがて廊下からざわめきと足音が聞こえてきた。
顔を上げた瞬間、視界に飛び込んできたのは、幹部たちに囲まれて歩く真澄と玲奈の姿だった。
玲奈は先ほどの装いとは打って変わり、タイトで端正なスーツに身を包み、洗練されたビジネススタイルを纏っていた。彼女が現れたその瞬間、フロア中の注目が集まった。
真澄の腕は自然と彼女の腰に添えられ、その視線は一瞬たりとも彼女から離れることはなかった。まるで、世界に彼女しか存在しないかのように。
柚希の胸が、締めつけられる。
真澄の表情を見つめたが、そこに自分の存在はなかった。
そしてふたりは、柚希の目の前で足を止めた。
「篠原さん、こちらは水原さん。橘社長の恋人だ。君の業務は、彼女が引き継ぐことになった。君は営業部に異動だ。なるべく早く引き継ぎを進めてくれ」
橘社長の恋人——否定の言葉は、一切なかった。
目頭が熱くなる。柚希は拳を握りしめて耐えた。
あまりにも、あっけなかった。こんなにもあっさりと、彼は「元の場所」を彼女に返すのか。まるで、心羽も、そして自分の感情すらも、最初から存在しなかったかのように。
「真……」
その名を口にした瞬間、真澄の冷ややかな視線が、柚希の言葉を封じた。
「篠原さん、異動に不満がある場合、上司に相談してくれ」
その語調には、「二度と私情を挟むな」という無言の圧が込められていた。
「水原さんのほうが、このポジションにふさわしい」
柚希には、その言葉の意味がわかっていた。それは、仕事の話だけではない。
この「人生」という舞台においても、自分はすでに役割を終えたのだと。
胸の奥にじわりと染み込むような切なさ。それでも柚希は、表情を崩すことなく、微笑みながら玲奈に手を差し出した。
「承知しました」
そうして、玲奈と静かに握手を交わした。
真澄は満足げにそれを見つめていた。その瞳に宿るのは、柚希にも、心羽にも一度として注がれたことのない「優しさ」だった。
こんなにも違うのか。愛していると、愛していないの境界線は。
でも、もういい。もう、とっくに期待なんてしていない。
夜になり、会社では急遽、玲奈の入社を祝う食事会が開かれることになった。すでに辞表を出していた柚希は参加を断るつもりだったが、玲奈が執拗に声をかけてきた。
「篠原さん、もしかして私があなたの仕事を奪ったって怒ってるんですか?だから参加しないのですか?でも私、本当にそんなつもりじゃなかったんです。すべて真澄さんが決めたことなんです。
今日が入社初日なので、もっとお話できたら嬉しくて。知らない同僚も多いですし……ご一緒していただけませんか?」
その言葉の裏に潜む意図を感じ取りながらも、柚希は穏やかに笑みを浮かべ、静かに首を振った。
「考えすぎです。ただ、娘を迎えに行かなければならないので」
「ご主人にお願いすれば?」
「……夫はいません」
その声は、冷たいほどに淡々としていた。しかし、胸の奥では切なさが波紋のように広がっていた。
真澄は、決して「夫」ではなかった。生活のすべてが分かたれていた。まるで、最初から存在しなかったように。
「ごめんなさい……知らなくて」
そう言いつつも、玲奈はなおも食事会へと誘いを続けた。
「それなら、お嬢さんも一緒に連れてくれば?うちの子も来るし、一緒に遊ばせられますよ」
「結構です。うちの子は、こういう場所が苦手なので」
そのとき、小さな影が駆け寄ってきた。
「ママ!今日ね、叔父さんが迎えに来てくれたの!それで、ママのとこまで連れてきてくれたよ!」
心羽がうれしそうに飛びついてきた。
柚希は目を見開いた。真澄は、心羽の通う幼稚園すら知らないはずなのに——
顔を上げると、真澄がゆっくりと歩いてきていた。その視線は、変わらず玲奈に向けられ、柚希たちに向けられることはなかった。
「真澄さん、篠原さんの娘さんと知り合いだったの?」
「大翔を迎えに行ったとき、偶然会ったんだ。前に会社にも何度か来たことがあるし」
その語り口には、まるで他人事を語るような冷たさがあった。
心羽が「パパ」と呼ぼうとした。
その瞬間、柚希はそっと目で制した。
心羽は寂しげにうつむいた。
「そうだったですね……でも、この子にはお父さんがいないんってことは知らないでしょ?一人で育ててるなら、営業部への異動はやめた方がいいんじゃない?」
真澄は柚希に目を向け、ほんの一瞬だけ間を置いて答えた。
「君がそう思うなら、それでいい」
玲奈は満足げに笑い、やさしく頷いた。
ふたりの間には、誰も入り込めない空気が流れていた。
柚希の脚にしがみつきながら、心羽がそっと顔を埋める。
「ママ!真澄パパ!抱っこ!」
そのとき、大翔の声が空気を破った。
彼が、ちいさな足で駆け寄り、真澄の脚にしがみついた。
第3話
心羽の身体がぴたりと固まり、そっと顔を上げた。視線の先には、真澄の腕に抱かれた大翔の姿があった。
真澄は、大翔を優しく抱きしめていた。その目に浮かぶ慈しみの色を、心羽は一度も見たことがなかった。
真澄と目が合うと、彼はほんの一瞬だけ腕の力を緩めた。しかし、それだけだった。
心羽は切なげに目を潤ませたが、真澄はその視線からそっと目をそらした。
「大翔、だめよ。また真澄パパに抱っこさせて……降りてちょうだい」
玲奈がやわらかくたしなめても、大翔は首にしがみついたままだった。
「やだ。ぼく、真澄パパがいい。真澄パパも、ぼくのこと好きだもん!」
そう言って、彼は真澄の頬にキスをし、「ケーキ食べたい」と甘えた声でささやいた。
「ふふっ、じゃあ行きましょう。真澄、行こう?」玲奈は彼の腕にそっと手を添え、数歩進んだあと、わざとらしく振り返る。
「篠原さんも、早く来てくださいね?」
柚希はその場にしゃがみ込み、涙を浮かべる心羽の頬に手を添えた。
「ママ……あの人たちが、叔父さんの好きな人なんだよね?」
その一言に、柚希の心が崩れた。娘を強く抱きしめ、二人して声もなく泣いた。
あまりに残酷な現実。大人でさえ耐え難い光景を、幼い心がどれほどの痛みで受け止めているのか。
柚希は何も言えなかった。でも、心羽にはもう分かっていた。言葉は、必要なかった。
「ママ、もう一度だけ見に行きたい」
涙をぬぐい、小さな手を差し出す。
「叔父さんが好きな人って、どんな人か、ちゃんと見ておきたいの」
「……心羽、帰ろう。もう、十分よ」
柚希は、これ以上彼女を傷つけさせたくなかった。
けれど、心羽は強く首を横に振った。
「行きたいの」
「……わかった」
ふたりは手を繋ぎ、宴会場の扉を静かにくぐった。
華やかな光と笑い声に満ちた空間。その中心には、眩しいほどに輝く三人の姿があった。
部屋の隅に腰を下ろし、柚希と心羽はただ黙って、その光景を見つめていた。
心羽の視線は、ずっと真澄を追っていた。
大翔に向けるその優しさ、微笑み、気配り——
それは、心羽が一度も与えられたことのない、夢にまで見た「父親」の姿だった。
真澄が果物を一つずつ丁寧に口へ運んでやる様子を見て——
心羽は静かに立ち上がった。
「ママ、叔父さん……本当に、あの人たちのことが好きなんだね。あんなにふうに、楽しそうに笑ってる……
帰ろう。もう、邪魔はしたくない」
その言葉は、柚希の胸を鋭くえぐった。冷たく、深く、息が詰まるほどに。
「……うん、帰ろう」
心羽は小さく頷き、ふたりで静かに会場をあとにしようとした——そのとき。
「篠原さん、少しお待ちください」
真澄の秘書がふたりの前に立ちはだかった。
「橘社長が、心羽ちゃんを連れて遊びに行きたいとおっしゃっています。こちらにお預けいただけますか?」
彼は社内で唯一、ふたりの関係を知る人物だった。
「叔父さんが……わたしを?」
心羽の顔がぱっと明るくなり、人混みの向こうに彼の姿を探す。
「はい、橘社長のご指示です」
ちょうどそのとき、スマホにメッセージが届いた。
【心羽を連れて花火を見に行く】
彼のほうから、初めて心羽を誘ってきた。
柚希の胸には、不安と戸惑いが渦巻いていた。
だが、あまりにも嬉しそうな心羽の顔を見てしまったら——もう何も言えなかった。
「心羽、気をつけてね。なにかあったら、すぐにママに電話するのよ」
「うん!大丈夫。いい子にするから、叔父さんに好きになってもらえるように頑張る!」
「……そう」
柚希は小さな頭をそっと撫でた。その背中に「父の愛」を渇望し続ける気配を感じ取った。
最後に一度だけ、真澄のほうを振り返る——どうか、この子を、もうこれ以上、傷つけないで。
心の奥でそう願いながら、柚希はひとり、会場をあとにした。
帰宅して間もなく、スマホが鳴り響いた。
「ママ……ママ……叔父さんが、私のこと置いてっちゃった……」
受話器越しに響く心羽の泣き声が、鋭く胸をえぐる。
「怖いよ……ママ……うわああああ……」
「心羽!?今どこにいるの?」
「わかんない……」
「大丈夫。ママ、すぐ行くから。電話切らないでね。ずっと話してて。もうすぐ着くから!」
柚希は、心羽の腕時計に連動したGPSで場所を確認し、車を飛ばした。
ようやく見つけたとき——
心羽は雪の積もる道端に、ぽつんと座っていた。肩には厚く雪が降り積もり、小さな身体はすっかり冷え切っていた。
その姿に、柚希の中の何かがぷつりと音を立てて切れた。
力が抜けるように彼女を抱きしめると、涙が止めどなく溢れた。
「心羽……ママが来たよ。もう大丈夫、絶対に一人にしないから」
「ママ、怖かったよ……寒かった……」心羽は柚希の胸に顔をうずめ、泣きじゃくった。
その体は炎のように熱く、病院へ向かう車中で高熱を発し、意識も朦朧としていった。
「ごめんなさい……パパなんて呼んで……ごめんなさい……置いていかないで……お願い、ひとりにしないで……」
そのかすかな声に、柚希の手が震えた。胸の奥が、音を立てて裂けるようだった。
たった一言、「パパ」と呼んだだけで——あの人は、この子を雪の中に置き去りにした。まだ五歳の、小さな命を。
「心羽、大丈夫。ママはずっと一緒にいるから。絶対に、一人にはさせないから」
第4話
心羽が病院に運び込まれたとき、すでに意識は失われていた。診察を終えた医師は、柚希に向かって冷たく言い放った。
「こんな状態になるまで放っておくなんて……母親失格ですね」
柚希は何も言い返さなかった。いや、言葉にできなかった。
胸の奥で、同じ言葉を何度も自分に投げつけていたから。
あの人が心羽を愛していないことなど、とっくに分かっていたのに。それでも、彼に託してしまった。
「……パパ……パパに会いたい……」
熱に浮かされた心羽のかすれた声が、病室の空気を震わせる。頬は赤く火照り、濡れた髪には涙が絡みついた。
「ママ……パパに抱っこしてほしい……いい子にするから……」
その震える声を、何度も、何度も。
そのたびに、柚希の心は軋み、音を立ててひび割れていく。
こんな時でさえ、まだ父の愛を求めているか。
柚希はスマホを取り出し、躊躇の末に真澄へ電話をかける。
……出なかった。
仕方なく、短いメッセージを打つ。
【心羽が高熱で入院しています。可能であれば、病院まで来てあげてください】
送信ボタンを押した指先が、じんと冷えていた。
しかし、朝になっても返事はなかった。
代わりに、目に飛び込んできたのは——玲奈のSNS。
華やかな夜景を背景に、幸せそうな三人の写真が投稿されていた。
心羽を放置したまま、彼は微塵の後悔も見せず、まるで何事もなかったかのように無関心でいた。
それを見た瞬間、柚希の中に微かに残っていた希望は、静かに、確かに、消え去った。
あの人にとって——
心羽は最初から、「いないも同然」だったのだ。そして、柚希自身もまた。
彼女は眠らずに、娘のそばに付き添い続けた。
そして、夜が明ける頃——
「……ママ、ごめんね。心配かけちゃって……」
目を覚ました心羽の、あまりにも大人びた声が、柚希の胸を締め付けた。
「バカね、謝ることなんてないのよ」——本当は、自分が謝らなければならなかった。
「パパの愛を与えてあげられなくて、ごめんね」柚希は心の中でそう呟いた。
「ママ、泣かないで。もう大丈夫だから」
「……うん、泣かない」
柚希は心羽を抱きしめた。その小さな身体はまだ熱を帯び、腕の中でかすかに震えていた。
三日間の入院を経て、退院の日。ようやく真澄から、ひとつのメッセージが届いた。
【まだ病院か?迎えに行く】
その画面を見た瞬間、心羽の顔がぱっと明るくなった。
「ママ、叔父さんが迎えに来てくれるって!」
たったそれだけのことで、こんなにも喜ぶ。
柚希は頷きながら、胸の奥で祈っていた。
どうか今度こそ、来てくれますように。たとえ、それが罪悪感であっても構わない。今度こそ、約束を守ってほしい——と。
時間は、静かに、けれど無情に過ぎていった。
心羽は病室の扉を、朝からずっと見つめ続けていた。
昼を過ぎた頃、彼女はぽつりと呟いた。
「……叔父さん、来ないんだよね?
きっと忙しくて忘れちゃっただけだよ……ママ、帰ろ?」
無理に笑顔を作り、自分に言い聞かせるように。
その笑顔が、何よりも痛ましかった。
「……うん、帰ろう」
ふたりは手を取り合い、静かに病室をあとにした。
そして、エレベーターの前で、彼の姿が現れた。
「……パパだ!」
思わずそう呼んだ心羽は、すぐに慌てて言い直す。
「ちがう、叔父さん……迎えに来てくれたんだ!」
だが、その次の瞬間、エレベーターから玲奈が現れる。
心羽の手がわずかに震えたのを、柚希はすぐに握り直した。
真澄はふたりに気づくと、ほんの少しだけ眉を顰めた。
その表情には、かすかな気まずさが滲んでいた。
「大翔、大丈夫だった?」玲奈が尋ねる。
「うん、ちょっと擦りむいただけ」と答えた真澄は、視線を逸らした。
柚希と心羽のほうを見ることは、ついになかった。
彼の中に、迎えに来たという意識などなかったのだ。その目に映っているのは、玲奈と大翔だけ。
娘が高熱で倒れたというのに、心ひとつ動かない。もはや言葉すら出なかった。
柚希はうつむき、そっと心羽に声をかけた。
「……心羽」
「ママ、帰ろ?」その声は、あまりにも静かだった。
車の中、ふたりは一言も言葉を交わさなかった。
心羽は窓の外を見つめながら、肩を小さく震わせていた。
家に着くと、心羽は黙って自分の部屋に入り、静かにドアを閉めた。
柚希は何も言わず、その扉の前に立ち尽くした。声をかけることもできず、ただ——黙って、寄り添っていた。
第5話
二時間後、心羽はようやく部屋のドアを開けた。
小さな腕にはぬいぐるみのクマをしっかり抱きしめ、目は泣き腫らして真っ赤に膨らんでいた。
そのクマは、真澄が彼女に贈った、たった一つのプレゼント。
心羽にとって、それは大切な「証」だった。
「ママ、もういらない」
無理に口角を上げて、笑顔を作りながら、それを柚希に差し出す。
「叔父さんには、あと二回しかチャンスないの」
「……うん」
柚希は、受け取ったクマをそっと抱きしめたまま、言葉を見つけられずにいた。
「ママ、誕生日パーティーをしたい。お友だちを呼んで……みんなでお祝いしたいの。いい?」
心羽が顔を上げて言うその声は、わずかに震えていた——けれど、どこか、希望を託すような響きがあった。
「……もちろんよ」
そう答えながら、柚希は知っていた。
それは、娘が真澄に残した「二つのうちの一つ」最後のチャンスなのだと。
これまで、誕生日はいつもふたりきり。飾り付けも、ケーキのロウソクも、歌も拍手も、全部ママ一人。そして真澄は、一度たりとも姿を見せたことがない。気にしたこともなかったのだ。
心羽はまだ咳が残っていたため、数日学校を休ませることにした。
週末。
ふたりは遊園地へ出かけた。柚希はベンチに座り、スマホでパーティー会場を調べていた。
そんな折、不意に耳に飛び込んできたのは——
心羽の泣き声だった。
顔を上げると、大翔が心羽の持っていたおもちゃを無理に奪おうとしていた。
心羽が渡さなかったことで、大翔は力任せに彼女を突き飛ばした。
小さな体が地面に転がる。
柚希は反射的に立ち上がり、娘を抱き上げる。
「謝りなさい」
低く、はっきりとした声で大翔を見据えた。
だが大翔は目を逸らし、口を尖らせて言った。
「なんでぼくが謝んなきゃいけないの?あの子、自分で転んだくせに」
「私は見てた。あなたが押したの。謝って!」柚希の声は静かだったが、決して揺るがなかった。
その瞬間、誰かの足音を察した大翔は突然その場に座り込み、大きな声で泣き出した。
「大翔!」
駆け寄ってきたのは真澄。彼は大翔のそばにしゃがみ込み、体を確認するように手を伸ばした。
その焦り、その優しさ——そのすべてを、心羽は一度も受け取ったことがなかった。
柚希は、喉の奥で苦笑が漏れるのを感じた。
大翔は彼の腕にしがみつき、泣きながら言った。
「真澄パパ、この人たちがいじめたんだ!おもちゃ取って、叩いたんだよ!」
真澄は目を細め、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先に、柚希と心羽の姿が映る。
一瞬だけ、表情が止まる。
けれど——次の瞬間には、氷のような冷たさがその瞳に宿っていた。
「どういうことだ?」
「叔父さん……この子が私を押したの。ママはただ、謝ってほしいって言っただけ……」
心羽は涙を止めて、懸命に訴えた。彼の顔を見た瞬間、泣くことすらやめた。
少しでも、関心を向けてほしかった。
「……ケガは?」
「ないよ」心羽は小さく首を振り、微笑む。たった一言の問いかけを、「愛情」だと信じた。
「……そうか、ならいい」
それだけを言い残し、彼は心羽の頭に触れることもなく、大翔の手を引いて歩き出した。
光を失った心羽の瞳が、ぽつりと沈む。
柚希は、無音のまま胸を締めつけられていた。
彼女たちを愛さないことを責めるつもりはなかった。
だが、これ以上——
心羽の「心」を壊すことだけは、もう許さない。
「待って」柚希の声が、はっきりと響いた。
「彼に、謝ってもらうわ」
真澄は振り向き、その表情に明らかな苛立ちが浮かんだ。
「……いい加減にしろ。子どものことで騒ぎ立てるな」
「橘さん、子どもだからこそ、大事なことがあります。彼が押したのは事実。店には防犯カメラもある。必要なら確認してもらっても構いません」
柚希は、初めて真正面から彼に言い返した。
真澄は驚いたように目を細めた。
だが、彼女は一歩も引かなかった。
もう、譲らない。
これ以上、心羽に「我慢させる側」でいたくなかった。
「……じゃあ、俺が代わりに謝る」
大翔がうつむいたまま黙っているのを見て、真澄は冷たく言った。
「わざとじゃなかったんだ」
「ねえ……」柚希の胸に、静かに氷が降り積もるような感覚が広がった。
最後まで、あの子の味方なのね。
「もういいよ。わたし、怒ってないから」心羽がそっと柚希の手を引き、小さく微笑んだ。
その笑顔は、どこまでも静かで、どこまでも苦しかった。
「ママ、帰ろう」
その幼い顔を見つめながら、柚希はただ頷いた。
「……うん」
第6話
あの日を境に、真澄は二度と家に戻ることはなかった。
柚希も心羽も、まるで示し合わせたかのように、彼のことを口にすることはなかった。
誕生日が近づくにつれ、ふたりは招待状を用意し、学校へと持っていった。
「みんな、来てくれるって!」
心羽は満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに言った。
誕生日の二日前。柚希は学校で、真澄と玲奈の姿を目にした。ふたりの間にいた大翔は、俯いて静かに泣いていた。
どうやら問題を起こし、保護者として呼び出されたらしい。真澄は大翔の背を優しく撫でながら、穏やかな声で話しかけていた。
その光景は、あまりにも滑稽だった。
心羽のことで、彼がここへ来たことは一度もなかったのに。
他人の子どもには、これほど「父親」としての役目を果たそうとする。
それが、「愛」というものの差なのだろうか。
視線を逸らすと、教室から出てきた心羽が目に入った。
彼女は真澄の前を通り過ぎたとき、ほんの一瞬だけ立ちとまり、小さな声で挨拶をした。
「叔父さん、叔母さん、こんにちは」
真澄がその声に気づいて視線を向けると、玲奈が先に口を開いた。
「篠原さん、お迎えですか?」
「ええ」柚希は短く頷いた。
「本当に羨ましいわ。お嬢さん、こんなにお利口さんで……うちは毎日大騒ぎなのよ」
苦笑しながら、玲奈は続けた。
「同じ母子家庭なのに、どうしてそんなに立派に育てられるのかしら?」
柚希が何も言わずにいると、心羽が静かに口を開いた。
「でも、大翔にはパパがいるでしょ?だったら、パパがちゃんと見てあげればいいと思う」
その一言に、真澄の目がわずかに揺れた。視線を合わせることができなかった。
「あら、心羽ちゃん、それ誤解よ。おばさんと彼は、ただのお友達なの」玲奈が慌てて取り繕ったが、心羽はそれ以上聞こうとはせず、涙を隠すようにうつむいた。
「叔父さん、叔母さん、さようなら」
小さな手が柚希の手をぎゅっと握る。その細い指先から、必死な思いが伝わってくる。
柚希は背後からの視線を感じた。振り返らずとも分かる。彼はまだ、こちらを見ている。
「真澄、あなたに残されたチャンスは、あと一回しかないよ」
柚希は心の奥でそう告げた。
そして、その夜。久しぶりに、玄関の扉が開く音が響いた。
心羽は元気がなく、柚希は絵を描く彼女のそばに寄り添っていた。
その音に気づき、ふたりは同時に顔を上げた。
「叔父さん……」
「……おかえりなさい」
かすかな声が重なった。
真澄は無言で頷き、手に持った小箱を心羽に差し出した。
「これ……わたしに?」目を丸くしながら受け取った。
真澄からの贈り物は、これが二度目だった。
「うん」
「ありがとう、叔父さん!」
心羽は抑えきれず、その場で包みを開ける。
中に入っていたのは、小さなレゴの車。
柚希の眉が僅かに動いた。それは、以前玲奈のSNSで見かけた、大翔が気に入らずに投げ出したプレゼントのひとつだった。
「ちゃんと子どもをしつけろ。余計なことを言わせるな」真澄の冷たい声が、柚希の胸に突き刺さった。
「それと、あいつの前に無駄に顔を出すな」
その一言は明らかに「警告」だった——彼女が何かを口にすることを恐れているのだ。
柚希はわずかに笑った。
「了解しました」
真澄がなかなか立ち去ろうとしないのを見て、柚希はさらに尋ねた。
「……ほかに、何か?」
「心羽の幼稚園、変えさせてくれ。どこでもいい。手配はこっちでやる」
彼女の胸の奥が、静かに冷えていく。
それが、完全なる「断絶」の始まりだった。
柚希は、心羽の方へ視線を向ける。
小さな手の中にあるレゴの車に、涙がぽたりと落ちた。
「……わかりました」
拒んだところで、意味などないと分かっていた。
真澄が背を向けたその瞬間——
「叔父さん!」
心羽が立ち上がり、走り寄った。
「明後日、わたしの誕生日なの。一緒にお祝いしてほしいの。
一度でいいから……今回だけでいいから……お願い」
その頬にはまだ涙の痕が残っていたけれど、その瞳はまっすぐで、揺らぎがなかった。
柚希は顔を背けた。これ以上、見ていられなかった。
真澄は、沈黙したまま微動だにしない。
心羽は、背筋を伸ばして、じっと彼を見上げていた。
まるでその一言が、世界のすべてかのように。
第7話
「……わかった」真澄は、ほんのわずかに頷いた。
その瞬間、心羽の顔はぱっと明るくなり、目尻に残っていた涙を指でぬぐいながら駆け出した。
テーブルの上から招待状を一枚取り出し、彼に差し出す。
「時間も場所も、ここに書いてあるよ。叔父さん、ぜったいに遅れないでね?」
その一言一言に、希望と願いが詰まっていた。
真澄は無言で招待状を受け取り、何も言わず玄関のドアを開けて立ち去った。
「ママ、叔父さん来てくれるって!」
跳ねるように戻ってきた心羽に、柚希はやさしく微笑みかけた。
「うん、聞こえてたよ」
柚希には知っていた。心羽がどれほどこの言葉を待ち望んでいたかを。
その夜、心羽は一度捨てたぬいぐるみのクマを再び部屋に持ち帰り、レゴの小さな車の隣に、そっと並べて置いた。
まるで、そこに「家族」がいるかのように。
柚希は、娘の静かな後ろ姿を見つめながら、不安を胸に押し込んだ。
来られないのなら、せめて最初からそう言ってほしい。希望の灯が何度も踏み躙られるくらいなら。
一方、真澄が持っていた招待状を、大翔が見つけた。
「うわああああん!」
突如、泣き出す声に、玲奈と真澄が同時に振り向く。
「どうしたの、大翔?」
「心羽、クラスの子みんな呼んでいるのに、ぼくは呼ばれてない!」
招待状を握りしめながら肩を震わせ、涙をぽろぽろとこぼす。
「泣かないで。きっと、大翔が意地悪したからよ。謝れば、次はきっと誘ってくれるわ」
玲奈はそっと大翔を抱きしめ、真澄に意味ありげな視線を送った。
「やだ……やだよ、ぼくもみんなと遊びたい!ぼくもパーティーする!ぜったいやる!」
大翔は玲奈の胸にしがみつき、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら叫んだ。
「でも、その日はあなたの誕生日じゃないでしょ?」
「もう誕生日なんてどうでもいい!ママお願い、みんなと遊びたいの!」
「大翔……お願い、泣かないで……」
涙が止まらない息子に、玲奈の目にも、涙が浮かぶ。
そのとき——
「……いい。やらせてやる」
真澄が無言で大翔を抱き上げ、低く声で告げた。
「同じ日にパーティーをやろう。クラス全員呼べばいい」
「ほんとに?真澄パパ!」
大翔は顔を上げ、涙をぬぐって笑顔を取り戻す。
「真澄パパ、だいすき!」
そう言って真澄の首にぎゅっと抱きついた。
その頃、柚希と心羽は、そんなことを知らぬまま、誕生日会の準備を進めていた。
誕生日の前日に退園手続きを終え、旅立ちの準備をしようとしていた。
家に戻ると、心羽は時計を見つめながら呟いた。
「時間、もっと早く進めばいいのに……」
その無邪気な言葉が、柚希の胸を締めつけた。
今度こそ、約束を守ってくれますように——
当日の朝、柚希は真澄にメッセージを送った。
【誕生日会は17時からです。どうか遅れないでください】
数分後、【うん】という短い返事が返ってきた。
柚希は、そばでタブレットをいじっている心羽を見つめながら、ほんの少しだけ安心した。
もし本当に、真澄が来てくれるなら——自分は、それでもこの家を去る気は変わらないのか。
昼食を終えた後、ふたりはホテルへ向かい、最後の飾り付けに取りかかった。
「ママ……叔父さん、本当に来てくれるよね?」
風船を抱えながら、心羽が不安げに聞いた。
「きっと来るよ。ほら、朝にこんなメッセージが届いたから」
スマホの画面を見せると、心羽はほっとしたように微笑んだ。
準備が整ったころ、柚希の携帯が鳴った。
「すみません、急用ができて……今日は行けなくなってしまって……」
次々と届く、参加辞退の連絡。電話が鳴るたびに、柚希の胸がざわついた。
「ママ……みんな、来ないの?」
心羽の声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
「大丈夫。叔父さんが来てくれるでしょ?ママと叔父さんがいれば、それでいいの」
その笑顔が、あまりに健気で、あまりに切なかった。
言葉にならないまま、柚希は再び真澄にメッセージを送った——だが、返事はなかった。
やがて、約束の時間が過ぎても、誰一人現れなかった。
ふとした拍子に柚希がスマホを確認すると、玲奈のSNSの投稿が目に飛び込んできた。
【大翔 入学お祝いパーティー 〜 クラス全員集合!】
楽しそうに笑う子どもたち。見守る保護者たち。
そしてその中心にいるのは、真澄だった。
【真澄パパ、ありがとう。大翔、とっても幸せそうでした♡】
手が震え、スマホがカーペットに落ちた。
彼は知っているのに——今日は、心羽の誕生日なのだと。
「ママ、これ……」
心羽がスマホを拾い上げ、画面をじっと見つめる。
それでも、泣かなかった。
「……ごはんにしよう」
小さな体はスマホをテーブルに置き、ケーキをそっと前へ引き寄せる。
「ママ、ろうそく、つけて」
柚希は、震える指で火を灯し、部屋の灯りを落とした。
「叔父さんが、ずっと幸せでいられますように。あと、ママと、ずっといられますように」
その祈りの言葉に、柚希の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
急いでぬぐい、笑顔を作る。
「……さあ、食べようか」
「ママ、わたし、もうママとだけでいい。ごはん食べたら、あの家から出よう?」
そう言って一口ケーキを食べたあと、心羽は、声を上げて泣き始めた。
柚希は、そっと彼女を抱きしめる。
「……もう大丈夫。ママが、ずっとそばにいるよ」
「最後のチャンス」は、静かに、終わった。
その夜、ふたりは荷物をまとめて、家を出た。
そして翌朝一番の便で、A国へと旅立った。
搭乗直前、柚希は真澄に最後のメッセージを送った。
【どうか、幸せな人生を】
スマホの電源を切り、心羽の手をしっかりと握って歩き出す。
もう、彼との間には、何ひとつ残っていなかった。