紙は短く、情を尽くせず

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紙は短く、情を尽くせず

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結婚して三年、新村紗綾(にいむら さや)は足の不自由な森田裕司(もりた ゆうじ)を献身的に支え続けてきた。 そしてついに、裕司の両脚が回復し、...

Chương (1)

第1章

結婚して三年、新村紗綾(にいむら さや)は足の不自由な森田裕司(もりた ゆうじ)を献身的に支え続けてきた。 そしてついに、裕司の両脚が回復し、自力で立てるようになったその日――彼が真っ先に向かったのは、空港だった。迎えに行ったのは、かつての初恋の相手。 その様子を見た紗綾は、ただ静かに微笑んだだけだった。 裕司と結婚して三年。契約で決められた期間も、もう終わり。果たすべき役目は、すべて終わったのだ。だから、彼のもとを去ることに、迷いはなかった。 だが、紗綾がいなくなってから、裕司はようやく気づいた。 自分が本当に手放してはいけなかった存在が、誰だったのかを…… 第1話 新村紗綾(にいむら さや)は、足が不自由になった森田裕司(もりた ゆうじ)の世話を、三年もの間、片時も離れずに続けてきた。 結婚して最初の一年目、裕司は彼女を心底嫌っていた。 ちょっと足に触れただけで、彼女を家の外に閉め出し、九十九日も戻してくれなかった。 結婚二年目、裕司は彼女に対して冷たくもなく、温かくもない態度を取り続けた。 紗綾が毎日欠かさずリハビリのマッサージをしても、彼の口からは一言の感謝も返ってこなかった。 結婚三年目、紗綾はようやく裕司の足が回復するのを見届けた。 だがその瞬間、裕司が最初に取った行動は、初恋の相手を迎えに行くことだった。 …… 「詩音、俺の足、治ったよ。帰ってきて。空港まで迎えに行く!」 見慣れたアイコンをチラ見して、嬉しさで涙ぐんでいた紗綾の笑顔は、瞬時に凍りついた。 裕司が自分を愛していないことなんて、紗綾はずっと前から分かっていた。 彼が愛しているのは、最初から最後まで、初恋の女性――中山詩音(なかやま しおん)だけだった。 三年前、大学を卒業した裕司と詩音は、それぞれ異なる道を選んだ。 裕司は家業を継ぐために国内に残り、詩音は夢を追って海外へ旅立った。 二人は別れたが、裕司の心は一度として詩音を手放したことはなかった。 その後、詩音は突然、海外で電撃結婚した。 その事実を知った裕司は受け入れられず、暴走して空港へ向かい、そのままアメリカまで飛んで奪い返すつもりだった。 けれど、その途中で事故に遭い、彼の両脚は動かなくなった。 もう二度と、自分の力で立ち上がることはできないと言われた。 その時、紗綾はまだ研修医だった。主任医師と共に、裕司の手術を担当した。 手術の後、かつては何もかもを持っていた裕司は、自分が障害者になった現実を受け入れられなかった。 彼は怒りっぽくなり、些細なことでキレては物を投げ、周囲に当たり散らした。 病院の医師も看護師も彼に近づけず、最も経験の浅い紗綾が、一人で対応することになった。 彼女は、近所にいそうな優しい雰囲気のある女の子で、自然と人の心に入り込むような親しみやすさを持っていた。 加えて、確かな医療技術と丁寧な対応力もあり、病院で唯一、裕司に近づける存在となった。 その後、裕司が退院した頃、彼の母が紗綾の元を訪れた。 彼女は紗綾に1億円を手渡し、「裕司に近づき、結婚を前提に彼の世話をしてほしい」と頼んできた。 ちょうど母親の治療費で困っていた紗綾は、迷うことなくその話を受け入れた。 病院を辞め、三年かけて裕司のそばに寄り添い続けた。 裕司が足の痛みで苛立つたびに、紗綾はその怒りをすべて受け止めた。 傷が痛む夜は、一晩中マッサージをして眠らなかった。 リハビリ中に彼が転んだ時は、必ず彼の下に自分の体を差し出して支えた。 誰もが不思議がった。突然現れたこの若い女性が、なぜ裕司にそこまで尽くすのかと。 でも、それを知っているのは紗綾だけだった。 彼女の大学四年間の学費は、すべて裕司の支援によるものだったのだ。 裕司は大学の慈善会の責任者で、紗綾は彼が支援していた多くの学生の中の、目立たない一人に過ぎなかった。 二人の距離は、まるで天と地ほどに遠いものだった。 だからこそ、紗綾は一度も自分から彼に近づこうなどとは思わなかった。 けれど、偶然にも、脚を失った裕司と再会してしまった。 そして彼女は、自らその距離を縮める決意をした。 自分のすべてを捧げてでも、彼のそばにいたかった。 紗綾は思っていた。これだけ長く尽くしていれば、いつかは裕司が自分の気持ちに気づいてくれるかもしれない、と。 だが―― その期待は、詩音に向けた一通の電話によって、あっけなく打ち砕かれた。 彼は回復した足の喜びを、真っ先に詩音に伝えた。 その姿を見た瞬間、紗綾の中で何かが音を立てて崩れた。 結婚して三年―― 彼女は一度たりとも、裕司の心に入ることができなかったのだ。 毎年、七夕の日になると、裕司は一日中姿を消した。 紗綾がどれだけ心配して探しても、彼は絶対に戻ってこなかった。 後に知った。七夕は、裕司と詩音が恋人になった記念日だったと。 詩音と離れていても、彼は彼女との記念日を一つ残らず覚えていて、毎年欠かさずプレゼントを用意していた。 裕司には、決して開けてはいけない書斎があった。 ある日、掃除中に紗綾がうっかりその部屋に入ってしまい、裕司は彼女を家の外に閉め出し、夜通し雨の中に立たせた。 そこには、詩音の写真がびっしりと飾られていた。 その瞬間、紗綾は悟ったのだ。 自分がどれだけ尽くしても、裕司の心を動かすことは、永遠にできないのだと。 でも――それでも、良かった。 裕司の足が治った今、彼女の「任務」は、もう終わったのだから。 裕司が詩音と電話で喜びを分かち合っているうちに、紗綾は部屋の隅に移動し、静かに電話をかけた。 「お母さん、裕司の足、治ったよ。私の役目は終わった。だから、離婚するね」 第2話 森田家では裕司の回復を祝う盛大なパーティーが開かれた。 紗綾は朝早くからホテルに向かい、裕司の母と一緒に準備に奔走していた。 バルコニーでは、二人の女性がそれぞれ複雑な表情で向き合っていた。 しばらく沈黙が続いたのち、裕司の母が深いため息をついた。 「紗綾、本当に離婚するつもりなの? 三年間、裕司のことを献身的に看病してくれて……彼の脚が治ったのは、あなたのおかげよ。きっと感謝してるわ。これからは二人で穏やかに暮らしていけると思ってたのに」 「詩音が戻ってくるそうです」 紗綾がそう一言だけ口にすると、裕司の母の表情が一変した。 驚きから、心配、そして諦め――その変化は明らかだった。 「……そう、わかったわ。あなたの選択を尊重するわ」 裕司の母は最終的にそう口にした。 その言葉を聞いた紗綾の心には、冷たい風が吹き抜けた。 さっきまで引き留めようとしていた裕司の母が、詩音の名前を聞いた途端に手放してしまった。 ――やっぱり、みんな知っていたのだ。裕司にとって、詩音がどれほど大切な存在かを。 自分が三年も尽くしてきたことなんて、所詮は「お手伝いさん」のようなものだったのだ。 「紗綾、離婚した後はどうするの?お母さんが亡くなってから、あなた一人きりでしょう? 三年間も裕司の世話をしてくれて……私にとっては、もう実の娘みたいな存在よ。何か困ったことがあったら、遠慮せず言ってね」 思いもよらない母のような優しさに、紗綾の目にうっすら涙が浮かんだ。 裕司の母の言うとおりだった。三年前、彼女は裕司の母から1億円を受け取り、それで母の病気を治せると信じていた。 だが、わずか三ヶ月で病状は悪化し、母は帰らぬ人となった。 母は亡くなったが、裕司の母からお金を受け取っていた紗綾は、責任を感じて森田家に残り、裕司の看病を続けることを選んだ。 だが、もうそろそろ自分の人生を考える時だ。 少しの沈黙の後、紗綾は口を開いた。 「私は留学して博士課程に進みたいと思ってます。もともと医学を学んでいましたし、また勉強を再開したいんです」 「それなら心配いらないわ。ちゃんと手配してあげるわ」 紗綾は感謝の気持ちを込めて裕司の母を見つめた。 そして、忘れずに付け加えた。 「離婚のことは私から裕司に話しますので、お母さんにはご迷惑をかけません」 裕司の母は静かにうなずいた。紗綾を見るその目には、どこか哀れみが浮かんでいた。 詩音が帰ってきた今、紗綾が離婚を切り出せば、裕司は喜んで応じるだろう。もはや自分が口を出す必要もない。 ――ただ、こんなに良い子なのに……森田家とは縁がなかったのね。 やがて、賑やかな客たちが集まり始め、裕司の母は紗綾を連れて宴会場へ向かった。 だが、宴の開始時間になっても、主役の裕司が姿を見せない。 裕司の母は手を振って娘の森田優芽(もりた ゆうめ)を呼んだ。 「優芽、お兄ちゃんを迎えに行くように言ったでしょ?どこにいるの?」 優芽は意味ありげに笑った。 「お母さん、心配しないで。すぐ来るから、絶対にびっくりするわよ!」 そう言って、優芽は紗綾を見下すように睨みつけ、彼女のそばに歩み寄って小声で言った。 「田舎娘、あんたの幸せタイムはもう終わりよ」 優芽はずっと紗綾のことを気に入らなかった。裕司に近づいたのは金目当てだと決めつけ、陰で何度もいじめてきた。 そのとき――宴会場の扉が開かれた。 黒のオーダーメイドスーツに身を包んだ裕司が、ワインレッドのイブニングドレスを着た詩音を連れて現れた。 二人は腕を組み、微笑みを交わしながらゆっくりと歩みを進める。 「えっ、あれって……詩音?森田坊ちゃんの初恋の相手、あの詩音じゃない?」 「そうそう、詩音以外にあんな目で見る人なんていなかったわ」 「森田坊ちゃん、ほんと一途よね。あの時だって詩音のために足を怪我したんだし。足が治ったら、すぐに迎えに行ったってわけね」 「ほんとに……でもさ、まだ森田家にしがみついてる人もいるみたいよね?」 ざわめきが広がる中、周囲の視線が紗綾に集中した。 その視線には、嘲笑と軽蔑が混じっていた。 優芽はクスリと笑いながら言った。 「どう?詩音お姉さまの美しさに圧倒された?」 「もう分かったでしょ?どれだけ尽くしても、男の心は手に入らないのよ」 「詩音お姉さまが戻ってきたんだから、さっさとガラクタまとめて出ていきなさいよ!」 スポットライトの下、紗綾は無数の鋭い視線に晒されていた。 まるで刃物のように、その視線が彼女の心を切り裂いていく。 ――そうよ、私はこの場所にふさわしくない。 誰も私を「家族」として見ていなかった。 誰も私を「人」として尊重してくれなかった。 もう、ここを去るべき時だ。 第3話 「お母さん、詩音が帰ってきたよ!」 裕司は詩音の手を引きながら、興奮気味に母親の前へと歩み寄った。 裕司の母は眉をひそめ、詩音をじっと見つめる。 「もう結婚してるんでしょ?それなのに、どうして帰国したの?」 詩音は唇を噛みしめ、悔しそうに目を潤ませたかと思うと、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。 「おばさん……昔のことは全部私が悪かったんです。ごめんなさい」 その言葉を聞いた瞬間、裕司は胸を締めつけられるような思いで、詩音を抱きしめた。 「母さん、詩音はもう離婚したんだ。あいつ、DVする最低な男だったんだよ!」 「もう過ぎたことだ。俺は気にしないし、母さんも詩音にそんな態度を取らないでね」 裕司の母は、息子が詩音に未練があることを前からわかっていた。だが、人前でここまで強く言い返されると、さすがに顔が立たず、袖を払ってその場を去っていった。 残された裕司と詩音の視線は、自然と紗綾に向けられた。 裕司は何の説明もすることなく、淡々と言った。 「詩音は帰国したばかりで、行くところがないんだ。先に家に戻って、部屋を片付けておいてくれ」 いつものように命令口調で言われ、紗綾は一瞬反応できなかった。 「詩音さんが……私たちの家に住むの?」 裕司は眉をひそめた。 「当たり前だろ?じゃなきゃどこに泊まらせるんだよ」 そのやり取りを見ていた優芽が、くすっと笑い声を漏らした。 「家って……まるで自分が森田家の奥さんみたいな顔しちゃって」 周囲からも嘲笑が起こり、紗綾の心は一気に冷え込んだ。 三年前、裕司が交通事故に遭い、生きる気力を失って毎日酒浸りになっていた。 ある日、彼の住む家で火事が起きた。火の中に飛び込んで裕司を背負い出したのは紗綾だった。 そのとき、落ちてきた照明器具が頭に当たり、彼女は一か月も病院のベッドで眠っていた。 目を覚ました時、裕司は病室のベッドの隣に座り、彼女にプロポーズした。 そしてこの家を新しく買い直し、「ここが俺たちの未来の家だ」と約束してくれたのだった。 けれど今、詩音が戻ってきただけで、その家に当然のように入り込もうとしている。 紗綾が黙っていると、詩音が裕司を見上げて、またもや涙ぐんだ。 「裕司……紗綾さん、私が泊まるの嫌なのかな?だったら、ホテルに泊まるよ。紗綾さんに嫌われたくないし……」 「ダメだよ!ホテルなんて、変な人も多いし危ないだろ!」 裕司は即座に否定し、視線を紗綾に向ける。 「紗綾、詩音はただの仮住まいだ。そんなにケチケチすんなって」 紗綾はふっと笑みを浮かべた。 「そうね、あなたの言う通り。私が器の小さい女だったわ。先に帰って部屋を片付けておくわね。ごゆっくり」 そう言い残し、紗綾は踵を返して、嘲笑と軽蔑の混ざったその宴会場を後にした。 たかが家一軒。どうせいずれ詩音のものになる。今さら執着したって仕方ない。 誰もいない家に戻ると、紗綾は自分が使っていた日当たりのいい寝室を空けた。 もともと倹約家だった彼女は、裕司からプレゼントを貰ったこともなく、三年住んでも荷物はスーツケース一つに収まる程度だった。 それも悪くない。身軽に去れるなら、それに越したことはない。 荷物をまとめ終えたところで、スマホが鳴った。 SNSのタイムラインに、誰かが動画を投稿していた。 シャンパンタワーの前で、裕司と詩音がグラスを交わし、まるで恋人同士のように見つめ合っている。 「キスしろー!」という声援まで入っていて、紗綾はそれ以上見られず、そっと動画を閉じた。 しばらくして、裕司と詩音が帰ってきた。二人とも酒の匂いを漂わせていた。 紗綾が自分の寝室を詩音に譲ったのを見て、裕司は満足そうに微笑んだ。 詩音が風呂へ向かった後、裕司は珍しく紗綾の隣に腰を下ろし、手を伸ばして彼女の頭を撫でようとした。 「紗綾、やっぱり君は一番物わかりがいいよな」 紗綾はすっと身を引き、その手を避けた。裕司の手は空中で止まり、目に影が落ちた。 「言ったろ?詩音は仮住まいだって」 「ええ、大丈夫。詩音さんがどれだけ長く住んでも、私は気にしない」 紗綾は一束の書類を取り出し、裕司に手渡した。 「以前お世話になった病院が、医療物資を欲しがってるの。森田グループの名義で寄付できないか、確認してもらる?」 裕司はそれを受け取り、皮肉めいた笑みを浮かべた。 「こういう時だけ、条件出してくるんだな」 紗綾は何も言わず、その書類をじっと見つめていた。 裕司は、これを詩音の宿泊に対する紗綾への見返りだと解釈し、内容も確認せずに署名した。 もちろん、一番下に紛れ込ませてあった離婚届にも気づくことはなかった。 部屋に戻り、裕司の署名が入った離婚届を見つめながら、紗綾は泣いていいのか笑っていいのか、わからなかった。 三年の想いが、やっぱり報われなかったことに泣きたくなった。 でも、ようやくこの場所から離れ、新しい人生を始められることには、少しだけ笑いたくなった。 第4話 翌朝早く、まだ空が明けきらないうちに、紗綾はドアのノックの音で目を覚ました。 「紗綾、ちょっとお粥作ってくれ。詩音が昨日お酒飲んで、胃が気持ち悪いってさ」 裕司は足を怪我してからというもの、他人に弱った姿を見せたがらず、この別荘には使用人も置かず、紗綾にあれこれ命じるのが日常になっていた。 まだ意識がはっきりしない紗綾は、反射的に拒否した。 「やだ」 「……なんだって?」裕司は耳を疑った。紗綾が自分に逆らうなんて、初めてのことだったからだ。 問い返されて、紗綾の頭も少しずつ冴えてきた。 彼女は自分のお腹を指差して言った。 「生理中で、お腹がすごく痛いの。冷たい水に触るのは無理」 裕司は彼女を上から下まで眺め、言い訳として納得できるかを考えているようだった。 しばらく黙っていたが、やがてため息をついた。 「……まあいい、詩音を連れて外で食べてくる」 裕司と詩音が出かける頃、紗綾は部屋で本を読んでいた。 もうすぐ海外で博士課程に進む予定だったので、先に勉強を再開しようと思ったのだ。 そこへ詩音が部屋に現れ、わざとらしく優しげな声で言った。 「紗綾さん、私と裕司、今からご飯食べに行くけど、一緒にどう?」 紗綾は断らなかった。詩音が誘った以上、自分に拒否権などないのは分かっていたからだ。 黒いマイバッハが車の流れの中を走り抜け、最終的に裕司と詩音の母校の前に停まった。 車を降りると、詩音はすぐに裕司の腕に絡みついた。 「裕司、久しぶりに来たね。全部、私たちの思い出の場所!」 裕司は頷きながらも、そっと隣に立つ紗綾に目をやった。どこか居心地悪そうに立っている。 「詩音が学食の鶏粥を食べたいって言うから、ここに来たんだ」 珍しく、紗綾に向かって説明の言葉を口にしたが、返ってきたのは冷ややかな一言だけだった。 「うん、別にいいよ。楽しんで」 裕司は眉をぴくりと動かした。紗綾が、なんだか前と違う気がする。 その違和感を考える間もなく、詩音が彼の腕を引っ張って校内へと入っていった。 二人が歩く先々には、かつての恋の思い出が詰まっていた。二人は笑いながら昔を語り合い、すっかり後ろの紗綾の存在など忘れていた。 その背中を見つめながら、紗綾はひどく疲れた気持ちになっていた。 ――もう少しだけ。我慢すれば、離婚手続期間が終わる。そしたら、全部終われる。 そう自分に言い聞かせた。 学食の雰囲気は良く、料理の種類も豊富だった。 裕司は料理で溢れたトレイを手に、嬉しそうに詩音の元へと向かった。 「詩音、大学のとき好きだったやつ、全部買ってきたよ。食べてみて」 紗綾はテーブルの上に並ぶ真っ赤な料理を見て、しばし呆然とした。 三年という歳月の中で、裕司は詩音の好みをしっかり覚えていたのに、自分が辛い物を食べられないことは一度も覚えなかった。 紗綾は席を立ち、自分であっさりした料理を買いに行こうとした。 その時、背後から熱い土鍋を持った学食のおばちゃんが、不注意で彼女にぶつかってきた。 熱いスープが飛び散り、裕司は咄嗟に詩音を抱き寄せた。 その一瞬、熱いスープがほぼすべて紗綾の腕にかかり、彼女の片腕には瞬く間に水ぶくれが広がった。 「大丈夫か?」裕司は詩音を放り出すようにして立ち上がり、紗綾の腕を掴んだ。その顔には、初めて彼女への心配の色が浮かんでいた。 紗綾がまだ何も答えられずにいると、詩音が叫んだ。 「裕司、熱い……すごく痛いよ!」 詩音の手には、赤い点が数個あるだけだった。紗綾の腕の水ぶくれに比べれば、取るに足らない程度だった。 それでも彼女は手首を押さえながら、涙を流して震えていた。 「裕司、火傷しちゃったの……!」 その言葉を聞いた途端、裕司は紗綾の腕を放し、詩音を抱きかかえた。 「大丈夫だ、詩音。今すぐ病院に連れて行く!」 数歩進んだところで、裕司はようやく後ろにいる紗綾の存在を思い出した。 振り返りながら、どこか申し訳なさそうな表情を向けてきた。 「君は医者だし、応急処置くらいはできるよね?ちょっと自分で処理しておいて」 「詩音を先に病院に連れて行くから。あとで運転手に迎えに来させるよ」 数日間、必死に張り詰めていた紗綾の心が、その瞬間、音を立てて崩れた。 これが、自分の夫――三年間、心から尽くしてきた相手の姿。 自分がどれほど傷つこうと、詩音の前では全てが無意味だった。 三年間の気遣いも、愛情も、まるで雑草のように、彼の足元で何度も踏みにじられていた。 第5話 暑さが厳しい中、紗綾の腕の傷は適切な処置を受けられず、感染が悪化してしまった。 医者は入院を勧め、紗綾もそれに従った。 この三年間、彼女は裕司の身の回りの世話を昼夜問わず続けてきた。体調が悪い時ですら、彼のそばを一歩も離れようとはしなかった。 だが今、彼女はただ、自分のために生きたいと思っていた。 紗綾は携帯の電源を切り、病室で静かに療養しながら読書にふける日々を過ごした。 病院内を慌ただしく行き交う医師たちの姿を見つめながら、彼女の目と心には、強い憧れが満ちていた。 かつて彼女の夢は、病に苦しむ人々を救う立派な医者になることだった。 だが裕司の母との契約のため、その夢を諦めざるを得なかった。 ようやく再び学びの場に戻る機会を得た今、彼女はただ、少しでも多くの知識を身に付け、一刻も早く現場に復帰して、自らの志を果たしたいと願っていた。 退院間近、紗綾は病院で偶然優芽と出会った。彼女は友人の付き添いで来ていた。 紗綾の姿を見るなり、優芽は怒りの表情で駆け寄ってきた。 「田舎者、あんた何してんのよ?わざと行方くらましたの?家の中めちゃくちゃになってるの知ってんの?裕司があんた探して飛び回ってるんだから!」 「私を?何のために?」紗綾は首を傾げた。 入院していたのは、むしろ裕司と詩音に二人きりの時間を与えるためのはずだった。 優芽は苛立たしげに髪をかき上げた。「もう説明するのも面倒!とにかく帰って自分の目で見なさい!」 そう言って、彼女は紗綾の怪我をまったく気にする様子もなく、無理やり彼女を病院から連れ出し、家へと連れて帰った。 邸宅の門をくぐった瞬間、紗綾は違和感を覚えた。 一週間前は青々としていた庭の草木がすっかり枯れ果て、屋内もひどく散らかっていた。 玄関の音を聞いた裕司は、目を輝かせて出てきた。 そして大股で近づくなり、紗綾の怪我した腕を掴んだ。 「どこ行ってたんだよ! 最近、ずいぶん気が強くなったな!ちょっと病院に送るのが遅れただけじゃないか、それで家出とか……家の中、見てみろよ、めちゃくちゃだぞ!」 紗綾の腕からは血が滲み、皮膚を越えて骨にまで響くような痛みが走った。 彼女はなぜ裕司が自分を探していたのか不思議に思っていた。だが今、ようやく理解した。 家に家政婦がいなくなったからだ。 彼は紗綾の怪我の具合にも、どこで何をしていたかにも興味がない。 ただ、いつもの通りに家事をこなす「都合のいい存在」でないことを責めているだけだった。 紗綾は歯を食いしばりながら、彼の手から腕を引き抜いた。 「裕司、痛いってば!」 その時になってようやく、裕司は彼女の服についた血に気づいた。 食堂で負ったあの傷を思い出し、彼の表情が少しだけ和らいだ。 「そんなに酷い怪我だったとは思わなかった。悪かったよ。でも君も家出なんて子供じみた真似してさ、これでおあいこだろ? 来て、見せたいものがあるんだ」 裕司は生まれて初めて、紗綾の手を取って二階へと連れて行った。 目の前に差し出されたのは、豪華なダイヤのネックレスだった。 「これ、君にやるよ。怪我の見舞いってことでさ。詩音ももうすぐ出て行くし、もう機嫌直そう」 紗綾は口を開いたが、何も言葉が出てこなかった。 以前の彼女なら、彼からの贈り物をどれほど待ち望んでいただろうか。どんな些細な物でも、きっと嬉しかったはずだ。 だが今、目の前にあるそのネックレスを見ても、裕司がこれを自分のために買ったのか、それとも詩音のためなのか、判断がつかなかった。 紗綾は無表情のまま箱を受け取り、そのままテーブルの上に置いた。 そして浴室へ向かい、シャワーを浴びてから部屋に戻ると、鏡の前で詩音がそのネックレスを身に着けているのが目に入った。 鏡越しに紗綾と目が合った詩音は、わざとらしく挑発的な笑みを浮かべた。 「ごめんね、紗綾さん、見苦しいところを見せちゃって。昨日このネックレスが素敵って言ったら、今日には裕司が買ってきてくれたの。ほんとに……」 詩音の言葉が終わる前に、裕司がキッチンから現れた。 彼は詩音の首元のネックレスを見て、一瞬だけ表情を固まらせた。 詩音は彼の腕にしなだれかかり、甘えるように微笑んだ。 「裕司、ありがとう。すっごく気に入っちゃった」 裕司は複雑な面持ちで紗綾を見て、次に詩音へ視線を移し、しばらく沈黙の後にようやく口を開いた。 「気に入ってくれたなら、良かったよ」 「そうね、詩音さんが喜んでくれたなら、いいんじゃない?」紗綾は淡々と頷いた。 そう言って、彼女は二人の前を通り過ぎ、庭へと向かった。 鼻先にかすかに漂う懐かしい香り。裕司はその背中を見つめながら、何かがおかしいと感じていた。 どうして怒らないんだ?まさか、演技か? ……まぁいい。ネックレス一つくらいで、次はもっと高いのを買ってやればいい。紗綾がそんなに器の小さい女のはずがない。 裕司はそう自分に言い聞かせた。 第6話 離婚に必要な手続が順調に進んでおり、紗綾はすでに海外行きの航空券を予約していた。あとは、その最後の日を待つだけだった。 この日、彼女はすべての荷物を箱に詰め、先に海外へ送る準備をしていた。 箱を抱えて家を出ようとしたその時、詩音と優芽が突然家の中へ駆け込んできて、正面からぶつかってしまった。 箱の中身は床に散らばり、紗綾は慌てて拾い集めたが、すでに彼女たちに見られてしまっていた。 「こんなに荷物まとめて、何するつもり?」と優芽が尋ねた。 紗綾は適当に理由をつけた。「全部いらない物よ。福祉施設に寄付しようと思って」 優芽は鼻で笑った。「あんたのガラクタを福祉施設に?かわいそうに、あんなとこにいる子たちが気の毒だわ」 紗綾は挑発に取り合わず、箱を閉じて出て行こうとした。 「待って」と詩音が呼び止め、箱の中からブレスレットを一つ取り出した。「これ、なんか面白そう。もらっていい?」 紗綾の視線が詩音の手元に向かい、慌てた様子でそのブレスレットを奪い返した。 「だめ、それは間違えて入れたの。これは寄付しない、私が持っておく」 それは、母が亡くなる前に紗綾に遺してくれた最後の品だった。ずっと大切に保管してきたのに、まさか詩音に見つかってしまうとは思わなかった。 「何がだめよ。ブレスレット一つじゃない。詩音姉さまが欲しいって言ってるんだから、ありがたく差し出しなさいよ」優芽が嫌悪を込めて罵った。 「だめなものはだめ。私の物よ、なんであげなきゃいけないの!」怒りがこみ上げ、紗綾は顔を真っ赤にして叫んだ。 優芽は一瞬呆然とした。紗綾が自分に怒鳴った?こいつ、何様のつもりよ! 優芽が手を伸ばして奪おうとしたその時、裕司がドアを開けて入ってきた。 「外からでも聞こえるくらいの騒ぎじゃないか。何してるんだ?」裕司の不機嫌そうな視線が部屋を一通り見渡し、最後に紗綾に止まった。 紗綾が何か言おうとする前に、詩音がうつむいてすすり泣き始めた。 「裕司、私が悪かったの。紗綾さんがいらない物を箱にまとめてて、それを福祉施設に寄付するって言うから、1つのブレスレットを気にいって、買えないかって聞いただけなのに、嫌だって……」 「そうよ。ケチもいいとこ。お金払うって言ってるのに、それすらダメなんだって」優芽が火に油を注いだ。 裕司はそれを聞いて、すぐに顔をしかめ、紗綾の方を睨んだ。 「いらないブレスレットなんだろ?詩音が欲しいならあげればいいじゃないか。俺が新しいの買ってやるよ」 その当然のような口調が、紗綾の胸を鋭く刺した。彼女は唇を噛みしめ、大きく息を吸い込みながら、涙をこらえた。 紗綾はブレスレットを裕司の前に差し出した。 「裕司、よく見て。このブレスレットは、母が遺してくれた形見なの。私にとって、どれだけ大切な物か、あなたにはわかる?」 母が亡くなったばかりの頃、紗綾はこのブレスレットを毎日身につけていた。寝るときですら外さなかった。 けれど、裕司のリハビリに付き添っていたある日、ブレスレットをぶつけてしまい、それ以来、大事に保管していたのだ。 彼と毎日一緒にいたのだから、少しは覚えていてくれると思っていた。 だが、裕司はしばらく見つめた後も、表情一つ変えなかった。むしろ、その口調はさらに冷たくなっていった。 「紗綾、君、ほんとにひどくなったな。たかがブレスレットのくせに、形見だなんて嘘までついて……俺が信じると思ってるのか? 結局、詩音を困らせたいだけだろ。彼女が欲しがる物は何でも邪魔するくせに、寄付するって言ってたくせに詩音にはあげたくないって、なんなんだよ。 紗綾、まさかお前がこんな器の小さい女だったとは……本当に失望したよ!」 裕司は詩音の手を引いて出て行き、ドアを勢いよく閉めた。 紗綾の体はその場でふらつき、ついに力尽きてその場に崩れ落ちた。 詩音がどんなことを言っても、裕司はそれを信じる。けれど、自分がどれだけ本当のことを言っても、彼は一言たりとも信じてくれない。 紗綾は手の中のブレスレットを抱きしめ、ぽろぽろと涙を流した。 第7話 紗綾は今回の騒動を受けて、ブレスレットを宅配便で送ることに不安を覚え、自分のバッグに入れて、直接持って行くつもりだったのだ。 その日、紗綾は裕司の母から電話を受け、家に食事に来ないかと誘われた。 裕司の母は丁寧に言葉を選びながら、「もしかしたら、これが家族で食べる最後の団欒になるかもしれないの」と話し、紗綾の心を打った。彼女は少し迷った末に、了承することにした。 紗綾が森田家の実家に着いたとき、すでに裕司は詩音と一緒に、かつて紗綾がいつも座っていた席に座っていた。 紗綾は二人の視線を避けるようにして、下座に腰を下ろした。 食事の最中、裕司は詩音に対して細やかな気遣いを見せていたが、紗綾は無表情のまま、何を食べても味がしなかった。 裕司の母はそんな様子を見て辛そうな顔をしたが、息子を直接咎めることもできなかった。 食事が終わり、紗綾は裕司の母に別れを告げて家を出た。その直後、庭から裕司、優芽、そして詩音の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。 「裕司、これブレスレットって、クルミ割りに使えそうなくらい硬いわね。何の素材でできてるのかしら?」 「素材なんてどうでもいいよ。どうせ安物だろ?紗綾って貧乏くさいし、ロクな物持ってないんだからさ!」と優芽が笑いながら言った。 たったそれだけの言葉で、紗綾の血が逆流するような怒りが込み上げてきた。怒りに駆られて庭へ向かうと、案の定、詩音の手首にはあのブレスレットがはめられていた。 そのブレスレットにはすでに無数の傷がついており、どうやら本当にクルミを割るのに使われたらしい。 紗綾の目には炎が燃え上がり、怒りで顔が赤く染まり、胸が激しく上下して、呼吸の音が聞こえるほどだった。 「裕司、あなた……私のブレスレットを盗んで詩音に渡したの?」 裕司は不快そうに眉をひそめた。「盗んだって?詩音がちょっとの間借りただけだろ。数日後に返すって言ってるじゃないか」 「持ち主に断らずに持ち出すのは盗みよ。そんな簡単なことも分からないの?」 紗綾は感情を抑えきれず、体を震わせながら詩音の腕を掴み、ブレスレットを取り返そうとした。 「痛いっ、紗綾さん、痛いっ!」詩音が甘えた声で叫ぶと、裕司の怒りが爆発した。 たかがいらないブレスレットのために、紗綾が自分に反抗し、詩音に手を出すなんて―― 裕司は紗綾の肩を強く掴み、そのまま後ろへ突き飛ばした。 紗綾は反応できず、そのまま地面に倒れ込んだ。 空に稲光が走り、すぐに雨が降り始めた。 詩音は裕司の胸に身を寄せながら、申し訳なさそうに言った。 「全部私のせいだよ、裕司……お願い、もうケンカしないで。今すぐブレスレット返すから」 そう言って、詩音は手首からブレスレットを外し、紗綾に差し出した。 紗綾は身体の痛みを気にする余裕もなく、地面から這い上がるようにして立ち上がり、詩音の差し出す手に手を伸ばした。 もう少しで手が触れ合うという瞬間――詩音の手が小さく震え、ブレスレットは地面に落ちて粉々に砕けた。 紗綾の瞳孔が恐怖と衝撃で見開かれ、詩音はすぐに叫んだ。 「あっ、紗綾さん、なんでちゃんと受け取らないの?割れちゃったじゃない、どうするのよこれ……」 「壊れたならそれでいいさ。自業自得だろ」裕司は冷たい声で言い放ち、詩音と優芽を連れて家の中へ入っていった。 しとしとと雨が降り続く中、紗綾は砕け散ったブレスレットの破片を見つめながら、胸の奥にチクチクとした痛みが広がっていった。 彼女は胸を押さえ、その場に膝をつき、地面に額をつけるようにして、声を上げて泣き始めた。 母が遺してくれた唯一の形見がなくなった。彼女がこの世で最後にすがっていた想いも消えてしまった。 三年間、必死に耐えてきたのに、何も得られなかった。すべてを失ってしまったのだ…… 第8話 裕司は風呂から上がると、無意識のうちに窓辺へと足を運んだ。 薄暗い庭の明かりの下で、小さな影が地面に膝をつき、ブレスレットの破片を一つひとつ探し続けていた。 胸の奥が何かに刺されたように痛み、呼吸が苦しくなった。 紗綾があのブレスレットにそこまで執着しているなんて……もしかして、本当に彼女の母親の形見なのか? 裕司はバスタオルを放り出し、階段を下りようとしたその時、詩音と優芽が駆け上がってきた。 「お兄ちゃん、まさかあの女のところに行こうとしてるの?言っとくけど、あれはただの演技だよ。注目集めたいだけだから、騙されちゃダメ!」 詩音は不安げに目を伏せた。 「裕司さん……あの日、あのブレスレットはいらないって紗綾さん自身が言ったんだ。それで、ちょっとだけ借りて遊ぼうと思って……全部、私のせいだわ。紗綾さんを傷つけてしまって」 裕司はその言葉を聞いて、はっとした。 そうだ、確かに彼女がいらないって言ったんだ。詩音が欲しいって言った途端に態度を変えたんだ……それって、詩音に対する当てつけだろ? だから今、あんな風に庭でわざと惨めなフリしてるんだな。もし自分が行ったら、彼女を甘やかすだけだ。 そう考えて、裕司は紗綾のもとへ行くのをやめた。 空が白み始める頃、紗綾はようやく庭でブレスレットの破片をすべて拾い終えた。 一晩中雨に打たれ、頭は重く、足元もふらついていた。 でも、休むわけにはいかなかった。もうすぐここを離れるのだ。ブレスレットを修復しなければ、心残りで前に進めない。 紗綾は街中を駆け回り、ついに市内最大級の宝石店で、修復できる職人を見つけた。 紗綾は感極まり、何度も頭を下げて感謝を述べた。 修復には丸三日かかった。 「割れたものは割れたものさ。どれだけ丁寧に直しても、ヒビは残る。それでも、できる限りのことはしたよ」 職人はそう言って、ブレスレットを手渡してくれた。 紗綾はブレスレットに残る無数のヒビを見つめ、胸が締めつけられるようだったが、それでも丁寧に頭を下げた。 「先生、よくわかっています。ここまで修復してくださって、本当にありがとうございます!」 紗綾はブレスレットの入った箱を大事そうに抱え、作業室を後にした。 だが、階段を下りる途中で、最も会いたくない人物と鉢合わせてしまった。 「紗綾さん、偶然ね。あなたも宝石を買いに来たの?」 詩音はにこやかに話しかけてきた。 紗綾は返事をせず、視線を逸らして階段を下りようとした。 その瞬間、すれ違いざまに激しく背中を押された。 甲高い悲鳴が宝石店中に響き渡った。 裕司が駆けつけた時、二人の女性が床に倒れていた。 紗綾の顔には青あざと紫の腫れが浮かび、膝からは血が止めどなく流れ出ていた。 一方の詩音は目立った傷は見られなかったが、しゃくり上げながら泣きじゃくっていた。 「紗綾さん……私、あなたに嫌われてるのはわかっている。ブレスレットを壊しちゃったのも、本当に反省している。今日はそのお詫びのためにプレゼントを買いに来たんだ。でも……どうして私を階段から突き落としたの?」 紗綾が何か言おうとする前に、裕司の目が怒りに満ちて彼女を見据えていた。 「紗綾……お前、なんて酷いやつなんだ。詩音に何かあったら、絶対に許さないからな!」 その言葉は雷鳴のように紗綾の心に響いた。 裕司は紗綾を冷たく見下ろすと、詩音を抱き上げ、そのまま病院へと向かって走り去った。 紗綾は自分の体中にできた傷を見つめながら、もう痛みを感じられないほどだった。 泣きながら笑い、皮肉っぽく自分自身を慰める。 ――まぁ、いいか。心がこんなに痛いと、体の痛みなんて感じなくなるのかもね。 こんな傷だらけの体なんて、もう大事にする価値もないのかもしれない。 第9話 紗綾は宝石店の店員に付き添われて病院へ運ばれた。偶然にも、かつて彼女が働いていた病院だった。 足を怪我し、かつての裕司と同じく整形外科を受診したことで、かつての師匠である真田先生と再会することになった。 傷の手当てが終わると、真田先生は心配そうに声をかけた。 「調子はどう?まだ痛むか?旦那さんは?入院してるってのに付き添ってもくれないのか?」 紗綾は気まずそうに笑った。 「大丈夫です、先生。自分のことくらい、自分でできますから」 その一言で、真田先生はすべてを察した。玉の輿とは聞こえはいいが、その裏にある苦しみは、当人しか分からない。 真田先生は紗綾の肩を軽く叩いて、優しく語りかけた。 「無理するなよ。どうしてもダメなら、また病院に戻ってこい。君のことは、いつでも歓迎するからな」 その言葉に、紗綾の胸がじんわりと温かくなった。 「ありがとうございます、先生。ずっと現場を離れてたので、また感覚を取り戻したら……必ず戻ってきます!」 その言葉に、真田先生も嬉しそうに頷いた。 「そうか、それはいいことだ。医者ってのは、常に腕を磨き続けなきゃいけないからな。 そういえばな、君は知らないかもしれないが……お母さんのあの病気、今は治療法があるんだよ。 もしお母さんがもう数年頑張ってくれてたらな。今頃、君も一人で苦労することはなかったかもしれないな」 紗綾は一瞬、時が止まったように動きを止め、それからゆっくりと問い返した。 「先生……つまり、当時の医療では、母の病気は治らなかったってことですか?」 「ああ、そうだよ。俺、あの時言っただろ?発症から亡くなるまで、長くても三ヶ月って。 ……あれ?いや、俺が言ったのは、君じゃなくて、別の女性だったな。君の家族だって言ってた。君がショックを受けないように、遠回しに伝えたいって」 「……」 紗綾の頭の中で、何かがブツッと音を立てて切れた。 紗綾には、他に親族などいなかった。あの時病院に現れた女性――それは、裕司の母しかありえない。 彼女は、すでに母の病が治らないことを知っていた。それでも「治療費」として1億円を差し出し、紗綾に裕司のそばに残るよう取引を持ちかけたのだった。 母の死は、裕司の母にとっては想定内だったのだろう。だが紗綾は、それでも彼女の「善意」に感謝し、裕司のそばにいることを選んだ。 裕司の母は、息子を立ち直らせるために、紗綾の三年間を差し出させた。命がけの三年。それでも、最後に待っていたのはこんな結末――。 真田先生が驚くのも構わず、紗綾は顔を両手で覆い、声を上げて泣き崩れた。 「三年……笑い話みたいな三年だった……私、バカだった……ほんとに、バカだった!」 彼女は狂ったように自分の体を殴り始め、真田先生は慌てて鎮静剤を打ち、ようやく紗綾は静かに眠りについた。 目を覚ましたとき、紗綾はまるで糸の切れた操り人形のように、感情の欠片も見せなかった。 足を引きずりながら、退院手続きを済ませた。 振り返った時、病院の廊下で、裕司が詩音をそっと支えて歩いている姿が目に入った。その表情には、深い優しさと気遣いが滲んでいた。 紗綾は一切目を逸らさず、彼らとすれ違おうとした。だがその瞬間、裕司が彼女の肩を強くつかんだ。 「どうして詩音の前を、平気な顔で通り過ぎられるんだ!?紗綾、詩音に謝れ!」 彼の怒鳴り声に、紗綾は静かに首を横に振った。 「私は詩音さんを突き飛ばしてない。謝る理由なんてないわ」 詩音はすぐにすすり泣きながら口を開いた。 「裕司、紗綾さんを責めないで……きっと悪気はなかったのよ……」 裕司は怒りに任せて、紗綾を壁に押しつけた。目には怒りの炎が燃え盛っていた。 歯を食いしばり、一語一語を絞り出すように言い放つ。 「紗綾、詩音に謝らないなら、もう家には戻らせない! なんでそんなに分からず屋になったんだ?このままじゃ、行くあてもないのに、どこまで意地張れるか見ものだな!」 その言葉に、紗綾の口元に苦笑が浮かんだ。 裕司も、彼女が帰る場所のない人間だと分かっていたのだ。 でも、彼は知らない。紗綾が帰る場所を失ったのは、誰のせいだったのか。 今回は、涙を見せなかった。彼女の目には、ただただ燃え上がる憎しみだけが宿っていた。 その視線に、裕司は言葉を失った。こんな紗綾を見るのは、初めてだった。 彼が呆然とするその隙に、紗綾は勢いよく彼を突き飛ばし、足を引きずりながら病院を後にした。 ボロボロの体を引きずりながら、彼女は空港へ向かった。この街を――完全に、去るために。 出発前、紗綾は裕司宛ての離婚届を速達で送った。 送り状には、かつて彼女が何度も何度も書いた、あの名前が書かれていた。 けれど、今はただ一言だけ。 ――裕司、もう二度と会わない。