結婚式の前に、彼は別の女に誓った

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結婚式の前に、彼は別の女に誓った

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結婚式の前夜。 彼氏は初恋の人にメッセージを送っていた。 【俺が本当に結婚したいのは、ずっと君だけだ】 式はもう目前。 私は、彼がせわし...

Chương (1)

第1章

結婚式の前夜。 彼氏は初恋の人にメッセージを送っていた。 【俺が本当に結婚したいのは、ずっと君だけだ】 式はもう目前。 私は、彼がせわしなく準備する姿を見ていた。すべて初恋の人の好みに合わせた結婚式。 私は何も言わなかった。 だって、私は結婚式も、彼もいらない。 第1話 「こんにちは、再度海外派遣の枠に応募したいのですが」 電話の向こうで人事担当が少し驚いた様子だった。 「結婚のために前回は断りましたよね?今回の派遣は最低でも三年だよ。あんなにあなたを愛してる婚約者が、同意しました?」 「彼は、きっと同意してくれると思います」 八木葉月(やぎ はづき)の返事はきっぱりとしていたが、その声にはどこか苦しさが滲んでいた。 杉浦晴樹(すぎうら はるき)が彼女を愛していることは、誰もが知っている事実だった。 彼女は胃が弱いからと、彼は毎日違うメニューで三食を作ってくれた。 雨の日も風の日も、時間通りに車で迎えに来てくれる。 たとえ軽い風邪でも、彼は24時間そばを離れようとしなかった。 記念日やイベントのたびに、彼は欠かさずサプライズを用意してくれる。 だからこそ、晴樹の初恋である三宅寧音(みやけ ねね)が帰国すると聞いたときも、葉月は一切不安を感じなかった。 でも彼女は間違えた。 寧音が帰国したその日、晴樹は葉月に公開プロポーズをした。 彼女は嬉しさのあまり涙を流した。けれどその夜、彼女の元に匿名メッセージが届いた。 添付されていたのは、晴樹のチャット画面のスクリーンショットだった。 【葉月は五年間もそばにいてくれた。だから、彼女と結婚しないわけにはいかない】 【寧音、本当に結婚したいのは、ずっと君だけなんだ】 そのメッセージを見た瞬間、葉月の体中の血が一気に凍った気がした。 証拠を持って彼に問いただそうとした。 でも、できなかった。 もしこの五年間すべてが嘘だったとしたら?自分がただの代用品だったとしたら?それを確かめるのが、怖かった。 その後の半月、晴樹の態度は何一つ変わらなかった。 葉月は変わらぬ優しさに、あのメッセージは誰かの悪ふざけだったのかもしれないとさえ思い始めた。 けれど、たった今。 新たな写真が何枚か届いた。 写真には、満面の笑みを浮かべて寧音のウェディングドレス選びに付き添う晴樹の姿があった。 しかも今日、晴樹が葉月に選んだドレスは、寧音が一番似合っていたあの一着だった。 「どうしたの、葉月?」 溢れそうな思考が現実に引き戻される。葉月は運転席の晴樹を見た。 「目が赤いよ?そのドレス、気に入らなかった?じゃあ車を戻すよ、他のをもう一度試して」 「いいの」 車が路肩に停まった。晴樹は不安げに彼女の顔を覗き込む。 「何か俺が悪いことした?言ってくれたら直すから。君が泣くのを見るのが一番辛いんだよ」 心臓が見えない大きな手に締めつけられたようで、葉月は言葉が出なかった。 偽善者。 本当に結婚したい相手は別にいるくせに、どうしてこんなにも優しいフリができるのか。 その瞬間、一本の電話が入り、晴樹の表情が急変した。 「泣かないで、すぐ行くから。 葉月、自分で帰れる?寧音にちょっとトラブルがあって、急いで行かなきゃ」 葉月は静かにドアを開けた。雨が降っていた。 振り返って傘を取ろうとした瞬間、勢いよく発進した車に泥を跳ねかけられた。 彼女は茫然とその車を見送る。ふと、口に出せなかった言葉の数々が急に空しく感じた。 問い詰めても、惨めになるだけだ。 葉月は雨の中をひとり、家まで歩いて帰った。 家に入ると同時に、人事からのメッセージが届いた。 【航空券、手配しました。準備お願いします】 出発は半月後。その日は、晴樹との交際記念日であり、結婚式を挙げる予定だった日でもある。 葉月はテーブルの上に置かれたウェディングカウントダウンカレンダーを手に取った。 一番上には、自分の手書きの文字がある。 「一番幸せな時間に、一番私を愛してくれる人と結ばれますように」 嘘つき。 涙がぽたぽたと紙に落ち、文字が滲んで消えていった。 葉月と晴樹は大学時代の恋人だった。卒業後、葉月は彼のためにこの街に残り、より良い仕事の機会を捨てた。 そして今、彼のせいで、この街を去る決意をした。 晴樹の「やむを得ない事情」は、全て彼女への最大の侮辱だった。 もう、晴樹なんて、いらない。 第2話 雨に濡れたせいで、葉月は少し風邪を引いたようだった。 朦朧とした頭のまま眠りに落ち、次に目を覚ましたときにはすでに午後になっていた。 部屋を出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、晴樹が寧音の濡れた髪を丁寧に拭いている光景だった。 「もう、そこまで拭かなくても大丈夫よ。ちょっとしか濡れてないし」 「ダメだよ、ちゃんと乾かさないと。風邪引いたら辛いのは君なんだから」 葉月はその場に立ち尽くしたまま、ふと昔のことを思い出した。 付き合い始めて最初の年、晴樹は楽しみにしていたライブに葉月を連れて行った。 葉月の体調が悪かったが、彼の気分を壊したくなくて我慢していた。 けれど彼はすぐに異変に気づき、ライブ開始からわずか10分で彼女を連れて病院へ向かった。 あとになって、晴樹は「もっと早く気づければよかった」とそう悔やんでいた。 あれから四年間。葉月が咳をするだけで、晴樹は何か大ごとが起きたかのように慌てていた。 なのに、今日の彼は、すべての気遣いを別の女性に向けている。 「葉月、誤解しないで、俺たちは……」 寧音の髪を拭き終えた晴樹が、ようやく彼女の存在に気づいた。 その直後、寧音が口を開いた。 「私の部屋にゴキブリが出たの。怖くて、それで晴樹が『しばらくここに住めばいい』って」 葉月は晴樹を見つめた。「それが言ってた急用?」 「寧音は君と違って、甘やかされて育ったから、ちょっとしたことでも耐えられなくて……」 その瞬間、葉月の目が赤くなった。 ようやく自分の発言の酷さに気づき、晴樹は慌てて言い直す。 「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」 葉月の両親は彼女が幼い頃に離婚し、彼女は親戚の家を転々としながら育った。 だからこそ、彼女の一番の夢は「自分の家を持つこと」だった。 付き合って三年目、晴樹は必死に働き、この家を買った。「ここが、ふたりの家だよ」そう言ってくれた。 なのに今、彼はその家に別の女を住まわせようとしている。 しかも、彼女の一番脆いところを、迷いなく突き刺してきた。 「大丈夫だよ」 傷ついたのは、自分が差し出した弱さのせい。そう納得した。 でもこれからは差し出さない。 晴樹は安心したように、葉月の手を強く握った。 そのとき、寧音が無邪気に問いかける。「晴樹、この部屋、私にくれたけど、あなたはどこで寝るの?」 晴樹の手が一瞬ピクリと震える。 「書斎で寝るよ」 寧音が部屋に入っていった後、晴樹はすぐに葉月に弁明した。 「結婚前のカップルって、会う時間を減らしたほうがいいって言うだろ?俺たちのために、距離を取ったほうがいいかと思ってさ」 葉月は、静かに手を引き抜いた。 「大丈夫だよ」 口調は穏やかなのに、その一言が妙に晴樹の胸に重く響いた。 深夜、雷雨が突然降り出した。 葉月のスマホに晴樹からメッセージが届く。 【葉月、君が隣にいないと落ち着かないよ】 ちょうどその時、寧音からも写真付きのメッセージが届いた。 写真の中、晴樹はベッドの縁に座り、寧音に手首を握られたまま、いつもより柔らかい笑みを浮かべていた。 【雷が怖くて眠れなかったら、彼が「一緒にいてあげる」って。呼び戻してもいいけど】 葉月は胸が苦しく、息が詰まるようだった。 彼女は起き上がり、風邪薬を取り出した。そこへ晴樹から、もう一通メッセージが届く。 【でも、君との未来のためなら、不安でも耐えてみせるよ】 葉月はコップに水を注ぎ、風邪薬と込み上げる吐き気ごと無理やり飲み込んだ。そして、指先で数文字を打ち込んだ。 【うん、おつかれさま】 そのまま、寧音とのトークルームを開き、ひと言だけ送った。 【いいよ、好きにして】 ベッドに身を沈め、葉月は頭の中で日数を数える。 あと十四日。もうすぐだ。 第3話 翌朝の朝食は、晴樹が用意していた。 彼は葉月の反応を細かくうかがっている。 「葉月、君のいない夜は本当に辛かった。でも、あと十三日我慢すれば、ようやく君を迎えに行けるんだ」 「そうね、あと十三日」 葉月の目には、曇った光が浮かんでいた。 「晴樹、餃子を取って」 彼が餃子を箸でつまんだ瞬間、寧音が彼の手元に顔を寄せ、そのまま食べた。 晴樹はすぐに葉月の方を見た。 「気にしないで。寧音はいつもこんな感じだから」 昔の晴樹なら、異性との距離感には特に気をつけていた。少しでも葉月を不快にさせないよう、細やかに配慮していた。 でも今、その距離感は寧音には当てはまらないらしい。 「気にしてないわ」葉月は顔も上げずにそう返した。 その返事に、晴樹は一瞬言葉を失った。「葉月、君……」 「ねえ葉月、晴樹の昔の姿、知ってる?」 寧音が話に割って入り、挑発的な視線を向けてきた。 「彼、昔は本当に鈍くてさ。でも私の言うことだけはちゃんと聞いてくれたの。私が好きな料理を覚えて作ってくれたり、生理の日もちゃんと覚えてて、毎月サプライズをくれたり……」 葉月は黙ってその話を聞いて、喉が締めつけられるような感じがした。 彼女ははっきりと告げられていた。 晴樹の優しさは全て、寧音を深く愛していた証だと。 「寧音、ふざけすぎだよ」 晴樹の言葉は、本気の制止ではなく、甘やかしに近かった。 葉月は、すっかり食欲を失った。 彼女は立ち上がって部屋に戻り、書類を手に取った。 出てきたとき、晴樹の手には彼女のスマホがあった。 「さっき人事から電話が来てた。引き継ぎ資料、いつ渡すか聞かれてたよ。 葉月、結婚休暇もう取ったんじゃなかった?まだ仕事があるの?」 結婚式の準備のため、葉月はすでに有休をすべて使い切り、約一ヶ月の休みを確保していた。 「ちょっと抜けてた分があって、それだけ処理しに行くの」 晴樹は特に疑うこともなく、「外は雨だから、俺も一緒に行くよ」と言った。 葉月は書類を抱きしめるように持った。その中には、ビザ資料も挟んである。 彼に知られても構わない。最初から、彼女は隠すつもりはなかったのだから。 車の中は、妙に静かだった。 会社のビルに着いたとき、晴樹は傘を差して葉月と一緒に会社へ向かった。 彼はスマホをいじりながら歩いていた。明らかに、彼の意識は別のところにあった。 けれど、その手に持つ傘は、いつものように大きく彼女側に傾けられていた。彼女が濡れないように、完璧な角度で守っている。 こういう優しさも、演技でできるんだ。 葉月は冷ややかな目で彼を見つめた。 晴樹、もう少しだよ。 もう少しで、この茶番劇も終わり。 そのとき、人事担当がビルの入口から出てきた。 「八木さん、海外赴任のビザ……」 第4話   「寧音が家の中で転んだって……」 晴樹の足が止まった。人事担当の声も耳に入らないほど焦っていた。「先に戻らないと……」 その言葉が最後まで言い終わる前に、葉月は雨の中を小走りで軒下に向かった。 彼女は静かに晴樹を見つめた。「戻ってあげて」 彼は彼女のこの行動を予想していなかった。不安が胸の奥にじわじわと湧いてきて、思わず一歩前に出た。 その瞬間、寧音からの電話が鳴った。 「痛い……」と一言泣き声が聞こえただけで、晴樹の全ての判断は彼女へと傾いた。 「先に様子見てくる。あとで迎えに行くから」 以前の葉月なら、その言葉を信じて疑わなかった。 だが今は心のどこにも響かなかった。 彼女はそのまま人事と手続きを済ませ、正式に海外赴任の契約書にサインした。 家に戻ったのは、それから二時間後。そのタイミングで、晴樹から電話がかかってきた。 「葉月、急に会社でトラブルがあって、迎えに行けなくなったんだ。タクシーで帰ってもいい?」 同時に、彼女のスマホには新たな写真が送られてきた。 転んだはずの寧音が、晴樹の腕にしっかり抱きつき、まるで新婚夫婦のように家具店を見て歩いていた。 予想通りのドタキャンに、葉月は静かに答えた。「大丈夫。仕事のほうが大事でしょ」 電話越しに、女性の笑い声が微かに聞こえた。 晴樹は慌ててスマホを遠ざけたのか、少し間を置いてからまた話し出した。 「家に着いたら連絡して。心配になるから……」 だがその言葉が終わる前に、葉月は電話を切った。 彼女は写真を一枚ずつ保存してから、スマホを置いた。 そして、荷物の整理を始めた。 この五年間、晴樹から贈られたプレゼントが部屋を埋め尽くしていた。 葉月はそれらを一つひとつ写真に撮り、中古販売サイトに出品していく。 最後に残ったのは、指輪だった。 付き合って一年目、晴樹が自らデザインして贈ってくれた指輪。 葉月は黄ばみかけたリングを撫でながら、ライトにかざした。 内側には、イニシャルが刻まれていた。 「ねね」 寧音。 四年越しの衝撃が、葉月を襲った。 笑ってしまうほど、滑稽だった。 あの指輪でさえ自分のためのものではなかったのだ。 彼女は指輪を迷いなくゴミ箱に捨てた。 それからの数日間、晴樹は寧音と共に新居の準備に忙しそうだった。 その間に、葉月の荷物は少しずつ部屋から消えていった。 結婚式まで、あと八日。 葉月がビザ手続きを終えて帰ってくると、リビングでは彼ら二人が招待状を選んでいた。 寧音はまるで妻のような口ぶりで、葉月を呼んだ。「葉月も見てみて、どれがいいと思う?」 ソファの上に散らばった招待状は、以前葉月が何日もかけて選んだものだった。 自分の結婚式のために、細部まで完璧にしようと準備していた。 「結構よ」葉月は一言だけ残して、自室に戻った。 もう、これらの招待状は彼女の結婚式には一枚も使われない。 夕方、寧音が葉月の部屋をノックした。 「これ、晴樹が選んだ招待状なんだけど、どうしてこのデザインにしたか知ってる?」 葉月は招待状を手に取り、開いてみた。 そこには、晴樹の筆跡で書かれた名前があった。 新郎の欄には彼の名前が、そして、花嫁の欄には寧音の名前が記されていた。 「ウェディングドレスも、彼と一緒に選んだの。式場も彼が決めてくれたし、この招待状も……」 寧音は誇らしげに笑った。「この結婚式のすべては、晴樹が私のために準備してくれたのよ。そんな彼と、まだ結婚するつもり?意味ある?」 第5話 葉月はふっと笑った。 「だから、なぜ彼はあなたと結婚しないのね?」 寧音の表情が凍りついた。 「葉月、勘違いしないで。彼がたとえあなたと結婚しても、心の中には私しかいないのよ」 そう言って、寧音はわざと手に持ったカップを揺らした。 葉月の目が鋭くなった。それは、結婚式のために彼女が手作りしたペアカップだった。 たとえ使われなくても、自分の大切なものだった。 「返して」 葉月が手を伸ばした瞬間、寧音は自分から床に倒れ込んだ。 カップは粉々に砕け散った。 「何してるの?」 直後、晴樹が飛び込んできて、葉月を突き飛ばすように倒した。 破片が彼女の手のひらに深く食い込み、鋭い痛みが走った。 「彼女がカップを壊したのよ、私はただ……」 「たかがカップ一つ壊れたぐらいで、何大騒ぎしてるんだ。葉月、君って本当に理解できない」 葉月の言葉は途中で止まった。指の隙間からにじみ出る血が床にぽたぽたと落ちていく。 彼の腕の中で、寧音が痛そうに声を上げた。 晴樹はたった二秒だけ躊躇し、すぐに寧音を抱き上げて玄関へ向かった。 「大丈夫だ、俺がついてる。病院に連れて行く」 痛みに、葉月の目には涙がにじんだ。下を向き、カップの破片を見つめる。 この五年間、彼女は晴樹を全力で愛してきた。だが、どんな状況であっても、最終的にはすべて寧音が優先される。 その瞬間、心の奥で渦巻いていた怒りは、すっと静まり返った。 悪いのは自分じゃない。ただ、彼がそれだけの価値もない男だったというだけ。 葉月は、残っていたもう一つのカップと砕けた破片を、まとめてゴミ箱に捨てた。 一瞥もくれなかった。 その夜、葉月は久々に深く眠れた。 翌朝、晴樹からメッセージが届いた。 【ごめん、寧音の母親と母さんって親友で、昔から彼女を守るように言われてたんだ。事故があったら困るし、母さんも君に良い印象持ってないし……】 【寧音がずっと泣いてたんだ。一人で病院に残すなんてできなかった。だから昨夜は帰れなかったけど、誤解しないで】 どこまでも、自分の立場しか考えていないメッセージだった。 葉月はスマホを放り出し、一言も返信する気になれなかった。 午後になって、晴樹が寧音を連れて帰ってきた。 まずは寧音を休ませ、それから葉月の部屋のドアをノックした。 「君があんなにひどく怪我してるなんて知らなかった。もう二度と、あんなことはさせない」 晴樹は彼女の手をそっと握った。強く握ることすらできなかった。 傷は深くはないが、血痕が痛々しい。 葉月は何気なく返事をしながら、手元の結婚式カウントダウンのカレンダーにまた一日を斜線で消した。 このカレンダーを作ったとき、彼女は心から式を楽しみにしていた。 だが今、彼女が数えているのは「離れる日」だけだった。 「葉月、カップはどうしたの?」 葉月は視線をそちらに向けただけで、答えなかった。 晴樹は焦り始めた。 「一つだけって縁起悪いもんな……今度もっといいペアを作りに行こう」 「もう、今度なんてないよ」 「え?」 彼は聞き取れなかったようだが、表情は明らかに不安げだった。 「もし疲れてるなら、準備は俺がやるよ。それに、君が寧音のこと苦手でも問題ない。式が終わったら、彼女とはもう会わないって約束する。 ねえ、葉月?」 手を握られ、葉月が彼を見た。 「手がすごく冷たい。体調でも悪いの?」 彼の顔には、心配と優しさがにじんでいた。 「毛布持ってくるね」 そう言って、彼は急いでクローゼットを開けた。 だが、そこには半分しか服がなかった。消えていたのは、葉月の持ち物だった。 晴樹は慌てて振り返り、部屋の隅々まで見渡した。 その時初めて、かつて彼女のもので溢れていた部屋が、今はすっかり空になっていることに気づいた。 晴樹の声が震えた。 「俺が贈ったプレゼントは? 葉月、君の服は、どこに行ったんだ?」 第6話 「プレゼントは、売った。 服は、しまった」 葉月が一言ずつ発すると、晴樹の顔色がみるみる蒼くなった。 「俺に怒ってるのか?」 葉月は黙ったまま何も言わなかった。 晴樹はほかのクローゼットを開け、そこで葉月がまとめたスーツケースを見つけた。 すると急に、肩の力がすーっと抜けたようだった。 「もうすぐ新居に引っ越すんだから、服をしまっておくのはむしろちょうどいいだろう。荷物はそのまま持っていけるし。 プレゼントは、売れたものは仕方ない。今度もっといいものを買ってあげるよ。古くなったし、処分しても問題ない」 葉月の手を握りながら、彼の声は急に低く沈んだ。後悔の色がにじんでいた。 「葉月、ごめん……どうしても気が動転していて、不注意で君を傷つけてしまった」 葉月は彼の顔をただじっと見つめたが、胸の内にはまったく揺れがなかった。 夜になり、晴樹はベッドのそばに座り込んで彼女に声をかけた。 「葉月、君が眠るまでここにいる。そうじゃないと安心できないから」 五年間、葉月はいつも隣に晴樹がいるのを当たり前と思ってきた。 その当たり前を壊すのに、晴樹は一ヶ月もかからなかった。 深夜一時、ようやく眠気が訪れかけたところで、晴樹が突然呼びかけた。 「葉月?」 彼女は反射的に目を開ける。 スマホの光が晴樹の顔を浮かび上がらせ、不安そうな色がにじんでいた。 葉月はまた目を閉じた。 「葉月?」 今度は晴樹の言葉が途切れたまま、彼女は返事をしなかった。 晴樹はぱっと立ち上がり、わざと足音を小さくしながら寝室を後にした。 「おとなしくしてて……すぐ戻るからな」 ドアがそっと閉まる。 葉月は朦朧としながら、過去の記憶をたどった。 付き合って四年目、突然の交通事故で骨折したとき、晴樹は仕事を全部放り出し、徹夜で付きっきりで看病してくれた。 彼女が「寝なきゃだめだよ」と説得しても、「君が辛いときに俺が気づいてあげられなかったら後悔する」と聞き入れなかった。 だが今、同じ彼が、自分のそばにいることすら苦痛そうに感じている。 しかも、葉月はもう彼を必要としていないと思った。 翌朝、再び雨が降り始めた。 葉月が寝室から出ると、晴樹が駆け寄ってきた。 彼はずぶ濡れのまま、胸元から朝ごはんを差し出す。 「濡れてなくてよかった。君の好きな店の肉まんを買ってきたんだ。帰ってくるまでに時間かかって、冷めたらおいしくないと思って急いで戻ってきた」 葉月は受け取ると、肉まんがまだ温かいのを感じた。 確かにお腹は空いていたので、彼女は断りもしなかった。 晴樹はキッチンへ向かい、葉月にはミルクを、寧音にはお茶を用意して運んできた。 寧音は向かい合って座り、写真を一枚葉月に見せてきた。 街灯に映る雨のなかで、晴樹の傘は大きく寧音側に傾く。黒いコートに包まれた彼女は、雨にぬれることなくぴったりと守られていた。 写真の片隅には、葉月が最も好きだったあの朝食店が写っていた。 葉月が顔を上げると、寧音は自分の手に持ったお茶を笑顔で見せた。 「肉まん、おいしい?」 あの店まで往復二時間。晴樹はこれまで何度もお使いを頼まれて走った。 ただし、今回はついでだということが、葉月にははっきり伝わった。 葉月は肉まんを最後の一口まで味わってから答えた。「おいしいわね」 寧音の笑顔は少し曇った。 葉月はミルクを一気に飲み干した。 その後の二日間、晴樹は突如として葉月に手厚く世話を焼き始めた。 朝早く起きて朝食を買ってきたり、昼夜の食事を毎回変えて用意したりした。 ただし、その気遣いのすべてに寧音が絡んでいた。 葉月のスマホには、新たに何枚か写真が届いた。 結婚式まで、あと五日。 晴樹からメッセージが届く。 【葉月、有休を取る手配をした。迎えに行くから、結婚写真の撮影に行こう】 葉月はカウントダウンカレンダーをちらりと見た。結婚写真の文字が赤く目立っている。 かつてはこれを心から楽しみにしていたはずなのに、今では彼女はすっかり忘れてしまっていた。 葉月はペンを手に取り、また一日を斜線で消した。 結婚式はいらない。結婚写真も撮るつもりはない。 もう今日で決着をつけよう。 晴樹とはきれいに別れるのだ。 第7話 けれど、晴樹は約束を破った。 二時間後、葉月に電話がかかってきた。 「葉月、ごめん。会社から急にA市への出張が入ったんだ。五日間……付き添えなくてごめん」 葉月が結婚写真の撮影を予約していたのも、同じそのA市だった。 「どうしてもっていうなら、他の人に代わってもらえるよう会社に掛け合う。もし何かあっても、全部自分が責任を取るから」 晴樹の声には心配と罪悪感がにじんでいた。「葉月、君がずっとA市に行きたいって言ってたの、俺、知ってるんだ。だから、がっかりさせたくない」 葉月はしばらく沈黙した。 「仕事、大事にして。結婚写真なんて、また撮れるから」 「式が終わったらすぐ飛行機とって、A市に行こう。約束する」 電話を切ったあと、葉月は晴樹の同僚の番号を見つけて、メッセージを送った。 すぐに返事が来た。 タイミングが悪いことに、晴樹の出張は本当に急なものだった。 葉月はカレンダーを一枚めくり、その裏に貼ってあった紙を広げた。 二晩かけて書き上げた旅のプランが、びっしりと二枚。 半分は結婚写真を撮るための場所選び。 もう半分は、晴樹と一緒に訪れたい場所だった。 結婚写真はもういい。でも、彼女は海外へ行く前に、一度だけ、A市へ行っておきたかった。 葉月はカレンダーをスーツケースにしまい、部屋の隅々を見回して忘れ物がないかを確認した。もう、ここには自分のものは何もない。 そうしてスーツケースを引いて、後ろを振り返ることなく部屋を出た。 結婚式まで、あと三日。 葉月はガイド通りに、A市のあちこちを歩き回った。 その間にも、晴樹からのメッセージは何通も届いた。 【寧音には、友達のところに泊まってもらった。君が気まずくならないようにと思って】 【A市に着いたよ。君がずっと憧れてた街、ほんとに素敵だ。式が終わったら、一緒にゆっくり過ごそう】 …… 【桜がきれいだよ。君と一緒に見られたら、どんなに良かったか】 いや、願わなくても、葉月は確かに見ていた。 晴樹から送られてきた桜の写真を閉じ、葉月は顔を上げた。 その場所も、ガイドに入れていたお気に入りの一つ。 そしてちょうどその時、その桜並木の中でスマホをポケットにしまった晴樹が両腕を広げていた。 次の瞬間、ウェディングドレスを着た寧音がその胸に飛び込む。 見つめ合う二人の目は熱を帯び、まるで運命で結ばれた恋人同士のように映っていた。 晴樹は笑いながら彼女を抱きしめた。 「これで満足?君が欲しがるものを、俺が断ったことなんてあった? 俺が愛してるのは君だよ。それは、君が一番わかってるだろ?」 葉月の足が、その場で止まった。冷たい風が吹き抜け、寒さが骨の奥まで染みこんでくる。 彼らの写真を撮っていたのは、葉月が何日もかけて探し抜いた、こだわりのカメラマンだった。 四時間以上、葉月は二人から程よく距離をとりながら、後を追った。 彼らが次々と移動していく場所はすべて、葉月のガイドに書かれた結婚写真スポットだった。 場所を変えるたびに、晴樹から葉月へメッセージが届く。 【葉月、君が恋しい。全部投げ出して、今すぐ君のところへ行きたくなる】 【結婚式まで、あと三日。こんなに時間が長く感じたのは初めてだ】 【縁結びの石には、カップルの名前がたくさんあったよ。今度は君と来て、俺たちの名前も刻もうね】 【葉月、俺たちはずっと一緒にいよう。絶対に、一生離れたりしない】 気づけば空はすっかり暗くなり、観光客の姿もまばらになっていた。 葉月はゆっくりと縁結びの石へと歩み寄った。 一番上の目立つ場所に、並んだ二つの名前を見つけた。 「晴樹」と「寧音」 彼が誓った一生って、なんだったんだろう。 葉月は思わず吹き出した。だけど笑ったはずなのに、涙が頬を伝って落ちていた。 そのとき、またスマホが鳴り始めた。 送信者は寧音だ。そこには、彼女と晴樹の結婚写真が何枚も添えられていた。 【私が欲しいものは、彼は全部叶えてくれるの】 【あなたのおかげで、本当に綺麗な写真が撮れた。ありがとう】 第8話 葉月はスマホの電源を切った。一文字も返信しなかった。 結婚式の前日。 A市から戻った葉月は、親友の大野夏帆(おおの なつほ)に会いに行った。 「ごめんね、あんなに準備してくれたのに、結局、花嫁の付き添いもできなくなっちゃって。 私と晴樹は……」 説明しようとした瞬間、夏帆が彼女を強く抱きしめた。 「辛かったでしょ?」 葉月がどれだけ晴樹を愛していたか、夏帆には痛いほど分かっていた。もし少しでも余地があったのなら、葉月はきっとここまでの決断はしなかったはずだ。 目に涙を浮かべた葉月は、夏帆に手を引かれて部屋の中へ入った。 その間も、スマホには次々と祝福のメッセージが届いていた。 【晴樹さんって、奥さん大好きで有名だもんね。こんな旦那さんがいて、明日はきっと人生最高の日だね】 【末永くお幸せに】 【大学時代からずっと見守ってたよ、二人のおかげでまた恋を信じた。葉月は絶対に幸せになってね】 その中には、晴樹からのメッセージもあった。 【葉月、夜の八時に帰るから。待っててくれ】 けれど、八時を迎える前に、寧音からある住所が送られてきた。来いということだ。 正直、葉月は少しだけ気になっていた。 その住所を頼りに、葉月は指定された場所へ向かった。 個室のドアは少し開いていた。中では、寧音が酒瓶を取ろうとし、それを晴樹が止めていた。 「寧音、アルコールアレルギーだろ。ふざけるなって」 「どうせ今からあの人に会いに帰るんでしょ?私に構わないでよ」 「寧音」 涙をこぼした寧音に、晴樹の声はすぐに優しくなった。 「俺、今日はここにいるよ。帰らない」 葉月は目を伏せた。祝福のメッセージに紛れて、また新たなメッセージがいくつも届いていた。 【葉月、プロジェクトが大詰めで、今夜は会社に残ることになった】 【もう少しだけ頑張れば、何日か休み取って一緒にA市行ける】 【葉月、君のために14日間頑張ったんだ。最後の一日を乗り越えたら、ようやく君をお嫁さんにできる】 葉月は思わず笑ってしまった。 「君のために」という言葉が、やはり滑稽だ。 晴樹はスマホを机に置いた。あきれたように、しかし甘えを含んだ口調で言う。「これで満足した?」 けれど寧音は首を振る。「明日、結婚式に行かないで」 晴樹は黙った。 「彼女にはこれから先、何十年もの時間がある。でも私が欲しいのは、たった一日だけ……それも、ダメなの?」寧音の声は涙まじりだった。 しばらく沈黙が続き、やがて晴樹は口を開いた。「わかった」 寧音は涙をぬぐい、嬉しそうに彼の胸に飛び込んだ。 その瞬間、ドアの隙間から寧音の勝ち誇ったような視線が、葉月の目と交差した。 葉月の視線は、次第に冷たさを帯びていく。 明日の結婚式に彼が来なかったら、自分がどれだけ心配し、どれだけ不安になるか、彼は想像したことがあるだろうか? 自分が彼の家族や友人に、どう説明すればいいかなんて考えたことがあるのか? いいや。晴樹なら分かっていたはずだ。 それでも、寧音のためなら構わなかった。 全ての恥を、葉月に押し付けてでも。 葉月は、本当は夏帆に謝ってから、式をやめるというメッセージをみんなに送るつもりだった。 五年間の付き合い。彼に、最後くらいメンツを残してあげようと思っていた。 でも、もうそんな必要はない。 葉月はその場を離れ、夏帆の車に乗り込んだ。 「夏帆、お願いがあるの」 翌朝10時。 涙ぐむ夏帆に見送られながら、葉月は空港へと向かった。 飛行機の離陸前、晴樹の家族グループチャットには通知が鳴り止まなかった。 【晴樹の携帯、電源切れてる!どういうこと?葉月、どこにいるの?】 【もう全員揃ってるんだよ!?あとはあんたたち二人だけなのに!】 【晴樹、式が始まるぞ。葉月に付き合って変なことするのはやめろよ!】 【葉月、一体何がしたいんだ!】 予想通りだった。晴樹の家族も友人も、もともと葉月のことを快く思っていなかった。だからこそ、今この瞬間、責められるのは葉月の方だった。 葉月は何も言わず、グループチャットから退出し、晴樹に関係するすべての人間を一括でブロックした。 スマホの電源を切ると、飛行機は滑走路を離れて空へ舞い上がった。 シートに身を沈めながら、葉月は心の中で静かに呟いた。 晴樹、さようなら。 もう二度と会わない。