私はまた一年、風雪を待つ

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私はまた一年、風雪を待つ

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崎村家の別荘、夜の九時。二階の主寝室にはまだ仄かな明かりが灯っていた。 藤崎美紀(ふじさき みき)はドレッサーの前に座りながら、スマホ...

Chương (1)

第1章

崎村家の別荘、夜の九時。二階の主寝室にはまだ仄かな明かりが灯っていた。 藤崎美紀(ふじさき みき)はドレッサーの前に座りながら、スマホで一文を打ち込んだ。 「お母さん、あと一ヶ月で結婚契約が切れます。その時に偽装死亡サービスの予約を入れます」 送信ボタンを押すと、すぐに返信が返ってきた。 「美紀、この十年間、本当にご苦労さま。智昭のことをよく世話してくれたし、うちの崎村家に初孫まで産んでくれて……」 「正直、私はもうとっくにあなたのことを本当の嫁だと思ってるの。契約なんて、もうやめにしない?」 そのメッセージを見た瞬間、美紀は無意識にスマホを握る手に力を込めた。 そして慌てて指を動かし、こう打ち込んだ。 「いいえ、お母さん。契約通りでお願いします」 第1話 崎村家の別荘、夜の九時。二階の主寝室にはまだ仄かな明かりが灯っていた。 「すみません、仮死サービスを予約したいのですが」 藤崎美紀(ふじさき みき)はドレッサーの前に座りながら、ゆっくりと文字を打ち込み、送信ボタンを押した。顔には一切の感情が浮かんでいない。 すぐに返信が届いた。 「仮死サービスの予約を承りました。ご希望の仮死日時を教えてください」 「十日後、私の誕生日当日です」 相手の返信を待つことなく、美紀は続けて送信した。 「死因:車の爆発事故。遺体の状態:跡形もなく」 契約の手続きが完了すると、美紀はスマホを静かに置いた。本棚の上に飾られた三人家族の写真が、彼女の目を刺すように痛めつける。 写真の中の美紀は純白のワンピースを着て、幸せそうな笑みを浮かべていた。隣には気品と威厳を漂わせる高身長の男性が立っており、片腕には四歳の息子を抱え、もう一方の手では美紀の手を握っていた。 誰が見ても、まさに理想の家族。羨望を誘う一枚だった。 十年前―― 大学を卒業したばかりの美紀に、突然の不幸が襲いかかる。両親が事故で亡くなり、人生のどん底にいたその時、崎村智昭(さきむら ともあき)が現れた。 美紀を一目見た瞬間、彼は彼女に心を奪われ、猛烈なアプローチを開始した。 彼女がキャラクターグッズ好きだと知ると、千億円を投じて港城最大の遊園地を建設。美紀ひとりのために、それを丸一日貸し切りにして、彼女を喜ばせようとした。 彼女が寒がりだと知ると、莫大な資金を投入して、港城中の地面に高価な床暖房を敷き詰めた。湿っぽく寒い土地が、今では春のように暖かく乾いた街に変わった。 そんな徹底した愛情と優しさに包まれて、美紀は完全に智昭に心を奪われた。 だからこそ、彼が港城中にライブ配信でプロポーズし、彼女の前に跪いた時、美紀は一切迷わず指輪を受け取り、即座に頷いた。 結婚後の数年間、二人の関係は非常に良好だった。美紀はただ、智昭と一緒に穏やかな人生を歩んでいければそれでよかった。 やがて自然な流れで妊娠し、智昭は狂喜乱舞。 出産の痛みを少しでも和らげるため、彼は世界トップクラスの出産専門チームを招き、全力で美紀をサポートした。 だが、それでも異変は起きた。出産当日、美紀は大量出血。普段は神仏を信じない智昭が、床にひれ伏し、一昼夜祈り続けた。 「どうか、美紀を助けてください……」 その誠意が天に届いたのか、母子ともに無事だった。 息子が生まれてからは、夫婦で愛情を注ぎ育てた。息子はすくすくと成長し、家族三人は幸せそのもの。港城でも理想の家庭として知られるようになった。 家では何事も美紀が優先。彼女がたった一度咳をすれば、まだ三歳の息子が大泣きしながら薬を取りに走った。 彼女が熱を出せば、智昭は四歳の息子と一緒に一晩中ベッドのそばで寝ずに看病。 どんなに忙しくても、智昭は毎朝手作りの朝食を用意し、崎村優斗(さきむら ゆうと)くんもそれを真似て、こっそり卵をもう一つ焼いて母に出していた。 ――そんなに愛してくれていたはずの父と息子が、毎週のように、こっそり別の女と会っていたなんて。 それは優斗の五歳の誕生日パーティーの日だった。美紀は不注意で屋外プールに落ち、目を覚ましたとき、信じられない変化が起きていた。 息子の心の声が聞こえるようになっていたのだ。 【ママ、いつ起きるかな……彩子おばちゃんとパパが待ってるんだけど】 信じられない思いで、美紀はベッド脇に座る、あの可愛らしく従順な息子を見つめた。震える声で尋ねた。 「優斗……何か、ママに隠してることがあるの?」 優斗は一瞬戸惑ったが、すぐに表情を整え、美紀に抱きついた。 「ママ、起きたんだね!怖い夢でも見たの?僕がママに隠しごとなんて、するわけないよ?」 だが次の瞬間、彼の心の声がまた響く。 【パパとの約束だもん、ママには彩子ママのこと、絶対バレちゃダメ】 ――彩子ママ。 その言葉に、美紀の瞳孔が収縮し、心臓が激しく脈打つ。 まさか、自分が大切に育ててきた息子が、他の女を「ママ」と呼んでいるなんて。さらに追求しようとしたその時、スマホが「ピン」と音を立てて震えた。 画面に映ったのは一枚の写真。薄暗いホテルの部屋、乱れたベッド、そして絡み合う男女の手。見覚えのある、男性の逞しい腕。 ――智昭だった。 続けて送られてきたメッセージ。 「美紀、まさかあなたの旦那が、私のベッドの上でもあんなに激しいなんてね」 その瞬間、美紀の顔から血の気が引いた。全身を貫くような、抑えきれない痛み。 信じられなかった。人生のすべてを捧げた夫と、愛情を注いできた息子が――他の女に心を預けていたなんて。 涙が溢れ、視界が歪む。美紀はようやく気づいた。 あの甘い夜の囁きも、微笑ましい親子のやり取りも、すべては自分を欺くための演技だった。 誰もが羨む理想の夫と息子――その正体は、裏切り者だった。 自分はただの道化。愛されていると信じ、笑われていた哀れなピエロ。 美紀は机の上の離婚届と親子関係断絶の書類を見下ろし、何の感情も浮かべることなく、ペンを取り、自分の名前を書き連ねた。 その後、二通の書類を丁寧にギフトボックスに詰め込んだ。 十日後、彼女は完全にこの世から姿を消す。 港城中が知ることになるだろう―― 崎村氏の愛妻、美紀。誕生日当日、爆発事故により焼死。遺体は跡形もなく消えたと。 第2話 寝室のドアをノックする音が響き、智昭が優斗の手を引いて入ってきた。男は足湯用の桶を持ち、隣の息子は大きなフルーツサラダのボウルを両手で抱えて、どこか媚びるような表情を浮かべている。 「美紀ちゃん、足湯で冷えを取ってくださいませ」 「ママ、大好きなフルーツ食べて!」 智昭はしゃがみ込むと、優しく美紀の靴下を脱がせて足を洗い、さらにマッサージまでしてくれる。その目には溺愛の色が滲んでいた。 優斗も、美紀に一口フルーツを食べさせては、ティッシュを用意し、口元の甘い汁を丁寧に拭ってくれる。 そんな二人の過剰な気遣いを見ながらも、美紀の心には冷たい笑みが浮かんでいた。彼女はさっきのギフトボックスを手に取り、二人に差し出す。 「これはあなたたちへのプレゼントよ」 智昭は嬉しそうに受け取り、顔を輝かせた。 「えっ、俺に?何をくれたの?」 優斗も背伸びして、興奮気味に声をあげた。 「ありがとうママ!ママ大好き!優斗、超うれしい!」 だが、息子がリボンを解こうとしたその瞬間、美紀が手を伸ばして止めた。彼女の声は冷ややかだった。 「十日後、私の誕生日に開けて。それまでは意味がないわ」 二人はその言葉に素直に従い、ギフトボックスをそっと金庫の中へしまった。 金庫の扉が閉まった直後、智昭のスマホがひとつ音を立てた。 空気が一瞬で静まり返る。 そして次の瞬間、息子の心の声が響いた。 【やばい、彩子おばちゃんが家で待ってるのに……早くママを寝かしつけて、パパと一緒に彩子おばちゃんのとこ行かなきゃ】 美紀の表情は変わらないまま、小さな息子がベッドに登ってきて「ママ、寝る前にお話して」と甘えてくるのを見つめていた。 智昭も美紀を抱きしめてベッドに横たえ、「早く寝ようね」と優しく囁く。 美紀は心の中でまた冷笑しながら、日頃溺愛していた息子をじっと見つめた。その目は深く沈んでいた。 「前にママが話してあげた人魚姫の話、覚えてる?」 優斗はきょとんとして、何か言おうとしたが、美紀は続けた。 「人魚姫は王子に裏切られて、泡になって消えてしまったの。永遠に、誰の世界からも……。優斗、もしママも裏切られたら、人魚姫みたいにこの世界から消えちゃうかもしれないよ」 美紀は一言一言をはっきりと、突き放すように語った。 空気が一気に張り詰め、優斗の目が泳ぐ。 【ママ、どうしたの?まさか……何か知ってる?】 心の中で焦りが走る。だが考える間もなく、智昭のポケットのスマホが再び何度も鳴り出した。 それは、彩子からの出発を促すメッセージだった。 二人は目を合わせ、慌てて美紀に布団をかける。智昭は優しく彼女の頬に触れながら微笑んだ。 「何を変なこと考えてるんだよ。早く寝な?」 その視線で合図を受けた優斗が、すぐに口を開いた。 「そうだよママ、ゆっくり休んで。優斗、宿題あるから今日はもう行くね」 美紀は何も言わず、布団をかぶって目を閉じた。 父子は彼女が眠ったと思い込み、電気を消してそっと部屋を出ていった。 だが、誰も知らない。 ドアが閉まった直後―― 暗闇の中で、美紀は静かに目を開いた。 第3話 「パパ、今日のママ、なんだか変だよ。ちょっと心配……」 車に乗り込むなり、優斗は不安げな表情で口を開いた。 だが智昭は、ただ優しく息子の頭を撫でて安心させるだけだった。 「ママはちょっと疲れてるだけさ。休めば元気になるよ。もうすぐ彩子おばちゃんの家に着くから、楽しみだろ?」 その言葉を聞いた優斗は、不安をすぐに忘れたようにニコッと笑い、興奮気味に頷いた。 これから会える彩子ママのことを思うと、胸が高鳴って仕方がないようだった。 だが、その時彼らは知らなかった。美紀が彼らの出発後すぐに立ち上がり、こっそりとその後を追っていたことを。 智昭と優斗が家を出てまもなく、美紀のスマホには見知らぬ女からのメッセージが届いていた。 それは、智昭とその女がベッドで一緒に写っている写真だった。 メイド服、ナース服、そしてバニーガール―― その下には一行の文字が添えられていた。 「あなたの旦那さんと息子、今うちに来てるの知ってる?」 美紀は数秒その画面を見つめたあと、無言でアクセルを踏み込んだ。 自分の目で、あの親子がどこまで自分を裏切れるのか、確かめたかった。 黒いマイバッハは前方を猛スピードで走り、やがて市街地を離れて郊外へ向かう。 一時間後、車はようやくある豪華な別荘地の前で停まった。 この別荘地の噂は、美紀も以前から耳にしていた。 資産価値は数千億円。人目を避けるような静かな環境で、昔、美紀は騒がしい都会を嫌って智昭にこの別荘を買ってほしいと頼んだことがあった。 だが彼はいつも曖昧な返事をして、結局買わなかった。 当時は高すぎるからだと思っていたが、今ようやく理由が分かった―― ここは彼と別の女の家だったのだ。 前方では、父子が車を降り、別荘の玄関からスラリとした体つきで華やかな美人が現れた。 写真の中の女――間違いなく同じ人物だった。 その姿を見た優斗は、興奮気味に叫んだ。 「彩子ママ!」 長年育ててきた息子が、他人の女をママと呼ぶその声を耳にして、美紀の胸は引き裂かれるような痛みに襲われた。 思わず服の裾を強く握りしめ、声を漏らさぬよう必死にこらえた。 ほどなくして、優斗は走り寄って西村彩子(にしむら あやこ)に抱きつき、甘えるように顔を彼女の胸元に埋めた。 「彩子ママ、やっと会えたね。ずっと会いたかったんだよ」 彩子はにこやかに微笑みながら腰をかがめ、優斗を抱きしめてその頬にキスをした。 そして何かに気づいたように顔を上げると、遠くに立つ美紀と視線がぶつかった。 彼女はそのまま優斗を抱いたまま、わざとらしく問いかける。 「ねえ優斗くん、ちょっと聞いてもいい?美紀ママと彩子ママ、どっちが好き?」 優斗の表情が一瞬固まり、困ったように視線を泳がせたが、それでも答えた。 「美紀ママのことは好きだけど……でも美紀ママはちょっと厳しいから、彩子ママのほうが楽しいかも」 美紀はその場に立ち尽くし、胸が締めつけられるような痛みに息もできなかった。 目の前の三人は、まるで本物の家族のように親密で、幸せそうだった。 彼らが笑顔で肩を寄せ合いながら別荘へと入っていくのを、美紀はただ呆然と見つめていた。 震える足を動かし、彼女もそっとその後を追った。 中では、彩子が息子を優しく寝かしつけていた。 やがて、優斗の顔には満ち足りた笑みが浮かび、静かに眠りについた。 その姿を確認すると、彩子は意味深に眉を上げ、悪戯っぽく智昭の上にまたがった。 そして自分のパジャマのジッパーをゆっくりと下ろしていく。 「智昭、今日のために特別なパジャマにしたんだけど……どう?」 その瞬間、智昭の目に情欲が宿り、彼女を力強く抱き寄せてベッドに押し倒した。 そして、彼女の鎖骨に濡れたキスを落とす―― 次の瞬間、別荘の中には甘く淫らな声が響き始めた。 外の塀の向こう、美紀はその場でくるりと背を向け、目元を真っ赤に染めながら拳を強く握りしめた。 涙をこらえ、声を殺し、膝から崩れ落ちて地面に座り込む。 胸の奥が、切り裂かれるように痛んでいた。 第4話 美紀はぼんやりとしたまま家に戻った。玄関に入ったばかりのところで、またスマホが鳴った。 彩子から届いたのは一本の動画だった。画面に映っていたのは、目を覆いたくなるような光景。 「跪いて……後ろからの方が好きなの」 衣擦れの音と肉体がぶつかる音が、美紀の耳に直接届いてくる。 彼女はスマホの角を握りしめ、指先が白くなるほど力を込めた。顔色はみるみるうちに青ざめていった。 数秒後、画面に新たなメッセージが表示された。 「愛されてないのが本物の浮気女よ。身の程をわきまえて、さっさと消えなさい」 再び突きつけられた現実に、吐き気と胸の痛みが同時に押し寄せる。 壁に手をついて、思わずえずいてしまいそうになる。 涙が怒りと共に溢れ出し、 しばらくして、彼女は顔を上げて涙を拭き取り、無表情でメッセージが点滅する画面を見つめたまま、スマホを放り投げた。 もう何も未練はなかった。 この瞬間から、彼女と崎村家の父子は完全に決別、もう二度と交わることのない他人になるのだ。 ぐっすりと眠り、翌朝目を覚ました美紀は、この十年間、父子からもらったプレゼントを全て箱に詰め、玄関先に置いた。 すでにリサイクル業者に引き取りの予約を済ませており、すべて売却して慈善団体に寄付するつもりだった。 ところが、一晩中帰らなかった父子が、まさかのこのタイミングで帰宅した。 車を降りた瞬間、目に飛び込んできたのは、いくつもの箱に詰められた衣類とアクセサリー。 すぐにそれが自分たちが過去に美紀へ贈った品々だと気づいた。 優斗は不安そうに美紀の手をそっと握った。 「ママ、どうしたの?なんでこれ全部捨てちゃうの?」 美紀は彼の顔を淡々と見つめ、感情のない声で答えた。 「寄付するの。必要としてる人にあげるのよ」 隣で智昭は、美紀の機嫌が悪いのを察し、昨晩息子と共に帰らなかったことで怒らせたのだろうと考えた。 彼は美紀を強引に抱き寄せ、甘えるように言った。 「ごめん。昨日さ、優斗が夜中に映画観たいって言うからさ、つい連れてっちゃって……言うの忘れちゃっただけ。まさかそれで怒ってるわけじゃないよね?」 以前なら、智昭がこうして甘えれば、美紀はすぐに心を許していた。 だが今の彼女は、氷のように冷たく、微動だにしない。 彼女は男を突き飛ばし、冷ややかな表情を浮かべた。 すると次の瞬間、智昭が彼女の手首を掴み、 手にしていたブレスレットを彼女の手に巻きつけた。 ダイヤのブレスレットが、キラキラと光を放つ。 「ごめんってば……これ、君に。お詫びの印。もう怒らないでよ」と、優しい声で囁きかける智昭。目には愛情がにじんでいた。 以前の美紀なら、きっと感動して涙を流していたかもしれない。 でも今となっては、そんなものに何の価値も感じなかった。 彼女は無表情のまま、その好意を受け取ろうとしなかった。 そのとき、優斗の心の声が響いた。 【この前、彩子ママにプレゼント買ったとき、店員さんがおまけでつけてくれたやつ……パパ、捨てずに取っといたんだよな】 おまけ……そういうことね、と美紀は冷笑し、手を引っ込めた。 「カチャン」と音を立てて、ダイヤのブレスレットが床に落ちた。 彼女はゆっくりと顔を上げ、期待に満ちた二人の顔を見つめながら、冷たく言い放った。 「いらない。持って帰って」 そう言って、くるりと背を向けて部屋に戻っていった。 残された父子は、その場に立ち尽くすしかなかった。 優斗は怯えたように父親に尋ねた。 「パパ……ママ、怒ってる?彩子おばちゃんのこと、ママにバレちゃったのかな……?」 智昭の目には、暗い影が差していた。 去っていく美紀の背中を見つめながら、自分に言い聞かせるように、息子をなだめた。 「大丈夫だよ……バレるわけない。もうすぐママの誕生日だろ?サプライズ用意して、機嫌直してもらおうな」 息子は素直にうなずいた。 第5話 時間が経つのは早いもので、このところ父子はずっと彩子のそばに付き添っていて、ほとんど家に帰っていなかった。 そんなある日、美紀は「仮死サービス所」からの電話を受け、書類に署名するために来所するよう言われた。彼女は荷物をまとめ、出かけようと玄関に向かった。 その時、しばらく家に帰っていなかった優斗が突然帰ってきて、彼女の行く手を塞いだ。 「ママ、どこ行くの?」 「ちょっと用事があるの。すぐ戻るから」 美紀は優斗をかわしてドアを開けようとしたが、優斗は彼女の脚にしがみついて離れなかった。 「ママ、行かないで!行かないで!優斗ね、おもちゃ買いにショッピングモール行きたいの。ママ、一緒に行こうよ?」 美紀が反応する間もなく、優斗は強引に彼女を車に引っ張り込んだ。 車は猛スピードで走り出し、あっという間にショッピングモールの前に到着した。 車が停まった瞬間、彼女の目に映ったのは、モールの正面入り口に整列している従業員たちの姿だった。まるで誰かを待っているかのように、きちんと並んでいた。 美紀が車を降りた瞬間、彼女は満開の藤の花束と熱烈な歓迎を受けた。 「崎村夫人、お誕生日おめでとうございます!」 祝福の声が響き渡り、カラフルな紙吹雪が空から舞い降りる。モールの大画面には【美紀さん、30歳のお誕生日おめでとうございます】のメッセージが流れ始めた。 呆然とする中、美紀は人々に囲まれながらモールの中へと導かれていった。 外では通行人たちが羨望の眼差しでその光景を見つめていた。 「すごっ、崎村社長って本当に奥さんのこと大切にしてるんだね!」 「このサプライズのために、社長が半月も前からモールの営業を止めさせて準備したんだって!」 「しかも今回のプレゼント、めちゃくちゃ高価らしいよ。中に入って見てみたいなあ。しかも、息子くんも一緒に準備したんだって!」 「ほんと、理想の家族って感じよね……」 通行人たちのささやきが、美紀の耳に次々と入ってくる。しかし、彼女の表情には何の感情も浮かばなかった。その胸の奥にある苦しみは、当人にしか分からない。 モールのホールでは、やわらかなスポットライトがステージを照らしていた。智昭はその光の中に立ち、気品と威厳をまとっていた。彼はレッドカーペットの端に静かに立ち、美紀を見つめていた。 彼女の姿が見えた瞬間、彼の表情は一気にやわらぎ、ゆっくりとステージを降りて、美紀の手を優しく取った。そして、片膝をつきながら言った。 「美紀、誕生日おめでとう。愛してる」 その一言に、場内は歓声で包まれた。 「美紀、前に俺と息子がしたことで君を怒らせてしまった。本当にごめん。今日は君の誕生日だ、もう怒らないでくれないか?」 隣にいた優斗もおずおずと美紀の服の裾を引っ張りながら言った。 「ママ、もう怒らないで?パパと優斗ね、半月も前からママにサプライズ準備してたんだよ」 「ママ、お誕生日おめでとう。許してくれる?」 美紀はその場に立ち尽くし、胸の奥から重たい感情が込み上げてきた。 彼らは知らないのだ。ある出来事が起きてしまえば、それはもう許されるものではないということを。 彼女が反応を示さないのを見て、智昭は懐から小さな箱を取り出し、ゆっくりと開けた。 ライトの下で、一本の金の簪が姿を現した。 翡翠の緑とルビーの赤が金色の中で輝き、まばゆい光を放っていた。 観客たちからは驚きの声が上がった。 「さすが、鳳凰が舞う伝説の金簪……めちゃくちゃ綺麗!」 「世界に一つしかないって聞いたよ。崎村社長がオーストラリアの博物館から特別に取り寄せたんだって。数千億円はしたとか……」 「きゃー、羨ましすぎる!崎村夫人、ほんとに幸せ者だよね……」 羨望の眼差しが集まる中、当の美紀は無表情のままだった。 今さらどれだけ高価な贈り物をもらったところで、彼女の心はもう戻らない。 一度冷え切った心は、どれだけ努力しても、もう温め直すことはできないのだ。 観客たちは美紀の無反応に戸惑い、ざわざわとささやき始めた。 そんな中、突然、冷たい女の声が会場に響いた。 「智昭」 入り口に、一人のすらりとした女性が姿を現した。 第6話 黒髪のロングヘアに真紅のルージュ、白いトレンチコートをまとった彩子が、優雅な足取りでショッピングモールへと入ってきた。 智昭と優斗が顔を上げ、彩子を見た瞬間、驚きと喜びの表情が一瞬浮かんだ。 優斗は興奮した様子で「彩子おばちゃん!」と呼ぼうとしたが、智昭に口を塞がれてしまう。 周囲の視線を一身に浴びながら、彩子は悠々と美紀の前に立った。 「この簪、ほんとに綺麗ね」 美紀の手にある簪を見つめながら、彩子は羨ましげな声を出した。 周りのスタッフたちは目を見合わせ、それぞれ複雑な表情を浮かべていた。 今日は崎村社長がモールを貸し切っており、無関係な人物の立ち入りは禁止されていたはず。だが、この女性は止められるどころか、堂々と社長夫人に話しかけている。 誰もが口を閉ざし、息を飲んだ。 「崎村夫人は本当にお幸せですね。この簪、世にも珍しい逸品だとか。聞いた話では、崎村社長が数千億円も出して手に入れたとか……社長の愛の深さが伺えますわ」 一見すると羨望と称賛の言葉だが、美紀にはその裏にある皮肉がはっきりとわかった。 美紀が反応しないのを見て、彩子はひらりと身を翻し、探るような口調で言った。 「聞いたんですけど、社長が夫人を怒らせたとか?だからご機嫌が悪いのかしら?」 隣の智昭の表情が曇り、口を開こうとした瞬間、彩子が先に口を挟んだ。 「崎村夫人、そんなに怒らないで。私、今日は社長の代わりに謝りに来たんです」 「実は……おとといの夜、崎村社長は私と一緒にいたの……」 彩子が声を上げた瞬間、言葉を途中で止めた。 その場にいた全員が彼女に視線を向け、信じられないという表情を浮かべる。 「……それに、同僚たちも一緒に。企画案について話し合っていました」 彩子が後半を続けると、皆がほっと息をついた。 崎村社長はあれだけ崎村夫人を大切にしているのだから、他の女性とどうこうなるなんてありえない――誰もがそう思っていた。 彩子は微笑みながら、朗らかに続けた。 「崎村夫人、人ってあまりにも狭量だと嫌われますわよ。ご主人にも少し自由をあげないと」 皆の視線が一斉に美紀へと向けられた。彼女の反応を待っている。 その隅で、智昭の表情は読めないほどに暗かった。 そんな中、彩子は皆の目が美紀に向いている隙を見計らって、そっと智昭のそばへ歩み寄った。 男は低く、苛立ちを隠さずに言い放った。 「お前、なんで勝手にここへ来たんだ」 彩子は色っぽく微笑みながら、男に体を寄せた。声もまた、甘く誘うような響きだった。 「だって……崎村社長と奥様の仲が悪くなると困るでしょう?だから……」 言いながら、彼女の手はそっと智昭のスーツの中に滑り込んでいった。 男の変化に気づいた彩子は顔色一つ変えず、逆にくすくすと笑い、さらに大胆に出た。今度は智昭の手を取って、自分のコートの中へと導き、ふっと息を吹きかける。 「……だから、あなたを元気づけに来たの」 男の目が一瞬で妖しく光を帯びた。 「まったく……お前って女は小悪魔か!」 そう言って低く唸ると、手に力を込めて何度も揉みしだいた。まわりをちらりと確認した後、さらに大胆に―― 彩子は頬を紅潮させ、甘い吐息を漏らしながらも、何度も声を漏らしそうになっては耐えた。 しばらくして、智昭はようやく手を引っ込め、何事もなかったかのように振る舞い始めた。 舞台の上では、美紀が二人のやり取りをすべて目にしていた。指先が掌に食い込むほど強く握りしめていたが、自分が血を流していることにも気づいていなかった。 「崎村社長!奥様に簪をつけてあげてくださいよ!みんなで奥様がどれだけ美しくなるか見たいんです!」 誰かが場を和ませようと声を上げ、周囲もそれに賛同した。 智昭はそれに乗じて前に出て、簪を手に取り、美紀を優しく見つめながら言った。 「つけてあげるよ、妻なんだから」 だが、簪を美紀の髪に挿そうとしたその時――彼女は一歩下がった。 理由は一つ、この男が気持ち悪かったからだ。 観客たちは困惑した表情を浮かべた。崎村社長夫人がここまで怒るのは初めてだ。社長は一体何をしたのか―― 重い空気が流れる中、静かな角から彩子の声が響いた。 「崎村夫人って、本当に扱いづらい方ね」 智昭の手が止まる。 彩子はにっこりと微笑んだ。声の大きさは絶妙で、誰もが聞き取れる程度。 「こんなに綺麗な簪、もし崎村夫人がいらないなら、私にくださらないかしら?ちょうど私も婚約者と結婚する予定なんですの。崎村夫人、お譲りいただけませんか?」 智昭は不快そうに彩子を睨んだ。その視線には、明らかな警告が込められていた。 だが彩子は彼と目を合わせず、か弱げな演技を続けた。 「婚約者は、事情があって公にできないんです。でも、私のことを本当に愛してくれていて、何だってしてくれるの」 「ですから……この簪、譲っていただけませんか?」 そう言って、彩子は美紀の手を掴んだ。彼女の表情は哀れそのものだった。 美紀は目を上げて彩子を見つめた。この女、一体何を企んでいるのか―― すると、智昭が声を上げた。怒りを抑えた声だった。 「何言ってんだよ、西村さん。この簪は妻への誕生日プレゼントだ。いい加減にして、さっさと帰れ……」 「お願いです、崎村夫人!どうか私にください!」 彩子は突然、膝をついて地面に崩れ落ちた。涙をぽろぽろと流しながら、必死に懇願する。 周囲の人々は驚きの声をあげ、ざわめき始める。 「恥知らずね、あの女……」 「でも、奥様も少し意地悪じゃない?」 そんな声が聞こえてくる中―― 遠くから、美紀の耳に息子・優斗の心の声が届いた。 【彩子ママ、かわいそう。ママってば、なんであんなにケチなの?簪一本くらいで、彩子ママに跪かせるなんて……ママなんか嫌い】 その嫌悪に満ちた言葉が、美紀の心に突き刺さる。 信じられない思いで息子を見た。自分が簪を渡さなかっただけで、息子はこんなふうに思うのか? あの、いつも彼女を大事にして、「ママに一番いいものをあげる」って言っていた優斗は、どこへ行ってしまったの―― その横で、ずっと黙っていた智昭がついに動いた。 彼は美紀の前に立ち、彩子に怒鳴りつけた。 「彩子!自分の立場をわきまえろ。お前ごときが俺の妻と張り合えると思ってんのか?さっさと出て行け!」 その目は鋭く冷たく、場の空気を一瞬で凍らせた。 彩子はその怒鳴り声に呆然とし、目に涙を浮かべた。 「智昭……」 だが、男は容赦しなかった。 「まだわかんねえのか!早く消えろ!」 彩子は信じられないという顔でその場に立ち尽くし、やがて泣きながら店の外へと走り去った。 智昭は彼女の背中を無言で見送ると、振り返って美紀に簪を手渡した。 「これは君のものだ。誰にも渡さない」 その声は優しかったが、美紀の表情は冷たかった。 「……わかったわ」 パッパッパ―― その瞬間、クラッカーの音とともに祝福の歓声が響き渡った。 「崎村社長、奥様!おめでとうございます!」 「奥様、お誕生日おめでとうございます!」 皆が二人の仲直りを祝福し、美紀の誕生日を祝った。 だがその隅で、智昭だけが物思いに沈んでいた。 宴が終わり、人々が散っていくと、智昭のスマホが鳴り続けた。 彼は画面を見ずとも、気が気でない様子だった。 そして、車に乗ろうとしたその時――彼は一瞬迷い、スマホをちらりと見てから、申し訳なさそうに口を開いた。 「ごめん、会社で急用が入った。ちょっと行ってくる」 美紀は何も答えなかった。 だが、智昭はそれを了承と受け取り、足早にその場を後にした。 第7話 車が半分ほど走ったところで、美紀はふいに何かを思い出し、運転手に商業施設まで引き返すように頼んだ。 車が目的地に到着して停まった瞬間、彼女のスマホが突然震え、一通のメッセージが届いた。 そこには、色香に溺れた動画が添付されていた。画面の中で絡み合っていたのは、ついさっきまで一緒にいた夫・智昭と、彩子だった。 動画の中、彩子はトイレの洗面台に腰掛けていた。 巨大な鏡に映し出された二人の姿は、まさに情欲の渦中――酔いしれ、夢に溺れるような有様だった。 「んっ……やさしくしてよ、もう無理……」 「さっきまで俺を誘惑してたくせに、もう音を上げるのか?」 「ガシャン!」という音と共に、美紀のスマホが手から滑り落ちた。 その背景は見覚えのある場所だった。まさしく、今いるショッピングモールのトイレ。 トイレの中、彩子は黒いレースのランジェリーを身にまとい、智昭の上に跨っていた。 二人の顔は火照り、肌には汗が滲んでいた。 濃密な空気の中、彩子が艶めいた声で囁く。 「智昭、私とあの人、どっちがいい?」 しばらくして、男の低く熱を帯びた声が答えた。 「お前だよ。あいつはベッドじゃつまらない。やっぱりお前が面白い。体位もバリエーション豊富だしな」 彩子は満足げに笑い、行為が終わると、智昭が背後から何かを取り出し、彼女の頭にそっと挿した。 美紀の目が見開かれる。 それは、先ほどまで自分が持っていた鳳凰の簪だった。 「これ、あげるよ。今度からは皆の前でせがむな。欲しいもんがあるなら、俺にこっそり言えばいい」 男の声音は甘く、優しく、まるで恋人に語りかけるようだった。 彩子は嬉しそうに微笑みながら、何気なく尋ねた。 「じゃあ、奥さんにはどうするの?」 「また偽物でも渡しておけばいいさ」 トイレの外、美紀は拳を握りしめ、指先が白くなるほど力が入っていた。 彼女は壁にもたれかかりながら、力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。 胸の奥が苦しくて、息をするのも辛い。 そして、ふらふらと歩き出すと、少し離れた場所に、さっき姿を消した息子・優斗がしゃがみ込んでいるのが見えた。 優斗の顔には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。 「ママ……?どうしてここに……?」 美紀はゆっくりと目を上げ、冷たい声で問いかける。 「どうしてここにいるの?家に帰るって言ってたじゃない」 息子はどもりながら答えた。 「トイレに来ただけだよ」 嘘をつくときの優斗の癖が、彼女の胸の中の荒れた感情を少しずつ冷ましていった。 次の瞬間、彼の心の声が耳元に響いた。 【パパに言われたんだ。トイレの前を見張って、絶対にママを中に入れちゃダメだって。彩子ママと一緒にいるのバレたら困るから】 美紀の呼吸が止まり、指先が掌に食い込むほど強く握りしめた。 かつては何よりも大切に育ててきた息子が、今では平気で嘘をついている。 彼女は思い出していた――ある夜、優斗が絵本を読みながら、怒ったような顔で言ったことを。 「僕は絶対、物語の主人公みたいにママを騙したりしない。ママを悲しませたくない。だって、ママが大好きだから。ママに心全部あげるんだ」 その記憶が胸を刺し、美紀の目に涙が浮かぶ。 彼女は必死にその涙を堪えながら、問い詰めた。 「優斗、もう一度聞くわ。ママに隠してること、あるの?」 優斗の体が一瞬、ピクリと硬直した。迷いが表情に浮かぶ。 【ママ、何か気づいたのかな?】 だが、彼は口を開いた。 「ないよ。言ったじゃん。僕は絶対にママを騙さないって」 美紀の体が震え、全身から力が抜けていった。 彼女は一言も返さず、その場を背を向けて去った。 まるで魂が抜けたように、家に帰ると、何時間も、何もせずにただ座り込んでいた。 そして、一昼夜が過ぎたころ、彼女は静かに立ち上がると、リビングの中央で火を点けた。 燃やしたのは、自分がこれまで夫と息子のために心を込めて作った贈り物や衣類の数々。 そして、壁に飾られていた、三人の幸せそうな家族写真。 火は勢いよく燃え上がり、煙が立ちこめる中、写真の中の笑顔が次第に炎に呑まれていく。 五年前の誕生日――父子がプレゼントを渡す順番で喧嘩になり、最後には優斗が泣き出したこと。 四年前、優斗が念願の数学オリンピック金メダルを獲得し、二人がサプライズを仕掛けてくれたこと。 そんな温かな記憶が、目の前で灰になっていく。 炎が激しく燃え上がる中、美紀は無表情で金庫の奥から一番重いものを取り出した。 それは、智昭が彼女を口説いていた頃、毎日書き続けていた七千通のラブレターだった。 一年間、三百六十五日、欠かすことなく書き続け、六年間積み重ねた想いの結晶。 美紀はそれを抱きしめるように持ち上げると、何のためらいもなく火の中へ投げ込んだ。 煙が屋敷中に立ちこめる。 そのとき、屋敷の玄関が乱暴に開かれた。 「おい、マジかよ!?美紀!」 「ママっ!」 智昭と優斗が、慌てて駆け込んでくる。 「何してるんだよ!?」 第8話 美紀はゆっくりと目を上げ、冷たく答えた。 「別に。いらないものを燃やしてただけ」 その時、智昭がそっと優斗の肩を押して、目配せをした。 息子のあどけない声が響く。 「ママ、簪あげる」 美紀は優斗の手にある偽物の簪をじっと見つめ、なかなか口を開かなかった。 【ママ、これが偽物って気づいてないよね……?】 優斗の幼い心の声が、かすかに届いた。 美紀は自嘲気味に笑い、そっと目を閉じた。 ――なるほど、息子も真実を知っていたのか。二人して、私を騙してたんだ。 この家で、心から馬鹿なのは自分だけだった。 再び目を開けた時、彼女の瞳は真っ赤に染まっていた。 そして最後に、父子を振り返り、涙ぐんだ目で問いかけた。 「真心が裏切られたら、どうなると思う?」 二人はその場で固まり、何も言えなかった。優斗が小さな声で呟く。 「ママ……どうしたの?」 美紀は苦笑し、何も答えずに寝室へと向かった。 バタン! ドアが激しく閉まり、すぐに鍵のかかる音がした。 父子は顔を見合わせ、呆然と立ち尽くした。 どうしていいか分からない。この女性が、どんどん遠ざかっていく気がした。 翌日。 美紀は仮死サービス所を訪れ、契約の署名を行った。 彼女が選んだ仮死方法は「交通事故による爆発、遺体不明」。 仮死実行日は、明日――彼女の誕生日だった。 すべての手続きが終わると、美紀は残金を支払い、サービス所の扉を出た。 「おい、美紀……?」 「ママ?」 「こんなところで何してるの?」 馴染み深い二つの声が、彼女の横から聞こえてきた。 振り返ると、そこには崎村父子が驚いた顔で立っていた。 「ここって、仮死サービス所じゃないか?何しに来たんだ?」 優斗が小走りで駆け寄り、母親の手をぎゅっと握った。 智昭も眉をひそめ、美紀の横を通って中を覗こうとするが、彼女はそれをさっと遮った。 「通りかかっただけ。別に何でもないわ」 女は淡々と答えた。 智昭は何かがおかしいと感じ、さらに問い詰めようとした――その時、柔らかな女の声が割って入った。 「智昭さん」 彩子が微笑みながらコーヒーを手にやってきて、智昭に差し出す。 そして、余裕の表情で彼の隣に立った。 智昭はどこか焦った様子で何か言おうとしたが、美紀がそれを遮った。 「帰るわ。あなたたちは続けて」 明日にはもう、この場所を去るのだ。やることは山ほどあった。 彼女は優斗の手を冷たく振りほどき、背を向けて歩き出した。 智昭が止めようとしたが、彩子が彼の腕を取って引き留めた。 遠ざかっていく美紀の背中を見つめながら、思わず声を上げる。 「美紀、明日の誕生日パーティ、朝八時だぞ。忘れるなよ」 だが、美紀は何も返さなかった。 彼女は静かに家に戻り、がらんとした部屋の中で長い間、ただ座っていた。 夜の六時、冷蔵庫を開け、そこにあるすべての食材を使って、自分のための豪華な食事を作った。 夜の十時、すべてのアクセサリー、金製品、そして数百万円の現金を引っ張り出し、スーツケースに詰め込んだ。 夜の十二時、美しくフルメイクを施し、黒のサテンのボディラインに沿ったロングドレスを身にまとい、仮死サービス所に電話をかけた。 夜の闇の中、女の静かな声が響いた。 「今、別荘にいます。仮死契約、履行をお願いします」 霧のかかる夜、黒い車が静かに崎村家の門をくぐった。 荷物を持った黒衣の女性が、何の迷いもなくその車に乗り込んだ。 翌日。 【速報!――崎村グループ令夫人、午前二時に江浦大橋で交通事故。爆発により死亡。遺体は発見されず】 このニュースは瞬く間にトレンド一位となった。