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もうあの日には戻れない
付き合って四年、水谷葵(みずたに あおい)は、これまでに何度も松本哲也(まつもと てつや)にプロポーズしてきた。けれど、そのたびに拒まれ...
Chương (1)
第1章
付き合って四年、水谷葵(みずたに あおい)は、これまでに何度も松本哲也(まつもと てつや)にプロポーズしてきた。けれど、そのたびに拒まれた。
葵は、それでも「まだその時じゃないだけ」と信じようとしていた――あの日までは。
哲也が「妹」だと紹介した女性を家に連れて帰ってきたその瞬間、葵はようやく気づいた。自分は、ただの身代わりだったのだと。
愛とは、いつもどこかに後ろめたさを抱えるものなのだろうか。
何度も傷つき、そのたびに心は少しずつ壊れていった。そしてついに葵は、アメリカ行きの航空券を手に入れた。
けれど、葵が離れたあと、なぜ哲也は、彼女を追いかけてきてまで、「戻ってきてくれ」と懇願したのだろうか。
第1話
「監督、今回のドキュメンタリー撮影へのお招き、喜んでお受けします」
「よかった!水谷さん、ずっとこの時を待ってたんだよ!」
電話の向こうから弾むような声が返ってくる。監督の嬉しそうな口ぶりが、そのまま空気を伝って部屋に広がっていくようだった。
「準備期間は一ヶ月あるからさ。国内の友人たちにもこの喜びを分かち合っていいよ。一ヶ月後、現地での再会を楽しみにしてる」
「はい、私も楽しみにしています」
電話を切った水谷葵(みずたに あおい)は、しばし受話器を見つめたまま、監督の言葉を心の中で反芻した。
この喜びを真っ先に伝えたいと思った人は、もう今の私の気持ちなんて、きっと興味もないだろう。
そのとき、部屋のドアの外から男の声が聞こえてきた。松本哲也(まつもと てつや)の声だ。使用人たちに指示を出している。「元・葵の部屋」だった場所に、新しい家具を運び入れるようにと。
今は、そこは清水麻美(しみず まみ)の部屋になっていた。
昨日、海外のドキュメンタリー監督から連絡があり、面接に合格したこと、そして今後一年間アメリカでの撮影に参加することが決まったと知らされた。
葵は喜びに震えた。けれど、哲也と離れるのが寂しくて、彼が帰ってきたら相談して決めようと思っていた。
だが、哲也が帰宅したその日、彼の隣には見知らぬ女性がいた。
何かを訊ねる間もなく、哲也は急いで紹介した。
「妹の清水麻美だ」
その時の彼の表情は、今までに見たことがないほど柔らかく、そして「妹」という言葉を口にする彼の視線は、麻美を情熱的に見つめていた。
麻美はいたずらっぽく笑いながら哲也の腕を軽く小突き、それから葵に向き直った。
「彼のいい加減な紹介、真に受けないでね。私たち、ただのご近所同士。子どもの頃から一緒に育っただけなの」
その瞬間、葵の笑みは唇の端で凍りついた。
こんな顔、哲也が見せたことあった?
どんなに面白い話をしても、どれほど大げさにリアクションをとっても、彼の顔には微笑みすら浮かばなかった。せいぜい、頭を軽く撫でながら「お前の気持ちはわかってる。無理しなくていい」と、そっと言ってくれるだけだった。
冷静で、感情を表に出さない人だと思っていた。けれど、違ったのだ。
彼は、笑うことができる人だった。ただ、その相手が麻美だったというだけ。
視線を麻美に向けた葵の胸に、懐かしさと得体の知れない違和感が一気に押し寄せる。
哲也と麻美は、隣同士で笑いながら昔話に花を咲かせていた。子ども時代の思い出を語るその声は、まるで親密さを証明するかのようだった。
そして、突然、葵の全身が硬直した。
麻美の顔。その顔を、どこかで見た記憶が蘇った。
ふと視線を傍らの鏡に向ける。鏡に映る自分と麻美の顔は、まるで実の姉妹のように似ていた。とりわけ眉と目の形が、驚くほど瓜二つだった。
息が止まった。
頭の中で、過去四年間の記憶がフィルムのように自動再生を始める。
哲也との出会いは、あるホテルの非常階段だった。養護施設を追い出されて三年目。学歴もなければ、特別なスキルもない。唯一頼りにしていた友人の紹介で受けた映画のオーディションも、申込金として払った十万円が戻ることなく不合格となり、希望は完全に潰えた。
現実に完全に打ちのめされた葵が、オーディション会場のホテルの非常階段で泣き崩れていた。そこで哲也が現れた。
ハンカチを差し出しながら、「何かお困りですか?」と優しく声をかけてくれた。
その一言は、溺れる寸前で掴んだ命綱のようだった。みっともない姿も、捨てたはずのプライドも構わず、葵は涙ながらに彼に二万円を借りた。
哲也は黙って彼女の涙を拭き、豪華な食事を奢り、さらに二十万円を差し出した。
「この程度、俺にとっては大した額じゃないから」
そう言われても、葵は借用書を書いた。
その後、夢を捨て、昼と夜、二つのアルバイトを掛け持ちして節約し、二十万円を貯めた。そして哲也に連絡した。
返済を終えたとき、哲也は静かに尋ねた。
「俺の彼女になってくれないか?」
後に、なぜそんなことを言ったのかと訊ねた葵に、哲也は「お前の頑張りと誠実さに惹かれたんだ」と答えた。
けれど今、麻美を目の前にして、葵はようやく真実に気づいた。
彼女と麻美は、あまりに似ていた。眉も、目も。
第2話
葵がその衝撃から立ち直る間もなく、哲也は静かに言った。
「麻美は体が弱くてね。医者から、日当たりのいい部屋にするようにって言われてるんだ」
この別荘で南向きの部屋は二つだけ。ひとつは哲也の部屋、もうひとつは葵が使っている部屋だった。
「葵、すぐに部屋を移ってくれ」
夜が明けるのを待つことすらできないのか、哲也はもう使用人に合図を送り、葵の荷物をまとめるよう指示していた。
「今すぐじゃなきゃダメ?」
葵はかすかに笑ってそう言った。どこか乾いた、諦めにも似た笑みだった。哲也はその頬に優しく手を添え、なだめるように微笑んだ。
「わがままを言わないで。麻美はほんとに体が弱いんだ。義姉として、譲ってやってくれよ」
「お義姉さん、ありがとう」
無邪気な声で麻美が続いた。
義姉。
その一言が、胃の奥をひどく揺らした。哲也の口からその言葉が出ると、皮肉以外の何ものでもない。
この四年間、哲也は一度も「結婚」という言葉を口にしなかった。それでも葵は、家庭を持ちたい一心で、自分から何度もプロポーズしてきた。
けれど、そのたびに哲也は笑って、あるいは真剣な顔で、それをやんわりと拒んだ。
葵にはわかっていた。哲也は、自分に「妻」という立場を与えたくなかったのだ。
それなのに今、麻美の前であえて「義姉」という言葉を使い、彼女に部屋を譲らせようとしている。
聞いてやろうかと思った。今なら、私と結婚してくれるの?
けれど、胸の奥どころか内臓のすべてが痛んで、もうその問いを口にする力すら残っていなかった。
「どうでもいいわ」
ぽつりと呟き、葵はソファに横たわって目を閉じた。仮眠を装いながら、ただ現実を遮断した。
葵は孤児だった。子供の頃から施設で育ち、ずっと誰かと同じ寝室で暮らしていた。
成人して施設を出たあと、ようやく自分だけの部屋を手に入れた。けれど、それも「自分の家」ではなかった。三年間で八回も引っ越しを繰り返し、どこにも根を下ろせずに生きてきた。
哲也に出会うまでは。
彼は、葵にこれまで手にしたことのない「ちゃんとした生活」を与えてくれた。そして、あの広い別荘で独立した一部屋をくれた。
引っ越してきた初日、葵は割り当てられた部屋で声を殺して泣いた。二十年間の彷徨が、ようやく終わった気がしたから。やっと家を持てた、そう信じたかった。
でも、違った。
どれだけ大きな別荘で、どれだけ部屋があろうと、葵ひとりを受け入れる場所は、結局そこにはなかった。
葵は自分の誤りに気づいた。誰かに愛されることこそが、安定した生活の前提だと信じていた。けれど、愛なんて、この世でいちばん不安定なものだった。
メールボックスに届いていたドキュメンタリーの出演オファーを見たとき、葵の中で、哲也から離れたいという思いが決定的になった。
そして夜が明けると同時に、葵は監督に電話をかけ、そのオファーを受けることを告げた。
外から聞こえていた家具の移動音がようやく止んだ頃、葵は部屋を出た。
食堂では、哲也と麻美がすでに朝食をほとんど食べ終えていた。
葵の姿を見て、哲也が言った。
「なかなか出てこないから起こさなかったんだ。ゆっくり休ませてあげたくてさ。昨夜は、よく眠れたか?新しい部屋、慣れた?」
葵は軽く笑った。
邪魔したくなかった?きっと、私の存在なんて忘れてたんでしょ。
だって、目の前に本物がいるのなら、もう代用品なんかいらないものね。
「大丈夫よ」
麻美が屈託ない笑顔でこちらを見ていた。葵はその視線を受け止めたまま、静かに口を開いた。
「麻美さん、私の元の部屋で、よく眠れた?」
「私」の部分を、あえて強く発音した。
麻美はゆっくりと微笑みながら答えた。
「帰国したばかりで、まだ時差ボケが残ってて、あまり眠れなかったの。でも、部屋のせいじゃないわ。ただ、家具がちょっと古く見えたから、哲也に替えてもらったの。あれ全部、お義姉さんが使ってたものなんでしょう?必要なら、あなたの部屋に運ばせましょうか」
「いいわよ。使い古しなんて、私ももういらないから」
途端に、哲也の表情が曇った。冷ややかな目で、葵を睨んだ。
「余計なことは言うな。お前は麻美の義姉なんだから、譲ってやるべきだ。さあ、食事に来い」
食事?
葵が食卓を見渡すと、三人目の食器はどこにもなかった。この朝食には、最初から彼女の居場所などなかったのだ。
胃がきゅうっと縮こまり、激しい痛みに思わず腹部を押さえた。
「食べないわ。出かけるから」
「どこに行くんだ?」と哲也が尋ねた。
「友達と約束してるの」
さらに詰めようとした哲也の手首を、麻美がそっと押さえた。
「哲也、お義姉さんが友達と約束してるなら、行かせてあげましょう?私がここにいるから」
胃のむかつきは限界に達し、葵はそれ以上その場に留まることができなかった。
部屋を出ると、予約していたビザの手続きに行く予定だったが、「義姉さん」と繰り返し呼ばれるだけで気分が悪くなり、タクシーで向かった先は、病院だった。
そして、検査結果は、思いもよらぬものだった。
彼女は、妊娠していた。
第3話
哲也と深く愛し合っている。そう信じて過ごした四年間。葵は幾度となく、彼との間に子供を授かることを願った。
何度も哲也にプロポーズした。満席のレストランで、客たちが「承諾してあげなよ!」と声を上げるほどの雰囲気の中でさえ、哲也は静かに首を横に振るだけだった。
「葵、まだその時じゃない」
彼はそう言った。
「お二人にお子さんがいらっしゃらないからじゃないかしら?」そんなふうに言う人もいた。哲也の家柄は普通ではない、だから子供ができれば結婚するのでは、と。
そんな言葉に、葵はいつしか期待を抱くようになっていた。愛が最も深まったその瞬間に、命を共に育む。それが結晶となって生まれくるなら、そう願っていたのだ。
けれど、今となっては、その子がなぜもっと早く現れてくれなかったのかと悲しくなった。もしそうだったら、すべてが違っていたかもしれない。それでも同時に、今でよかったのかもしれないとも思う。遅れて訪れたその命が、彼女の人生にまだ選択肢を残してくれたのだから。
放心状態のまま病院のロビーに着いたとき、周囲のざわめきは彼女の耳に一切届かなかった。巨大な悲しみが心を覆い、お腹にそっと手を当て、小さな声で呟いた。
「ごめんね......お母さん、なにもできない。あなたを守ることも、連れてきてあげることも......できないんだ」
報告書を破り、ロビーの外にあるゴミ箱へと捨てた。
もう、この子を残さないと決めた。哲也と完全に無関係な、自分自身の人生を、新しく始める必要があった。
ビザの手続きを終えて家に戻る頃には、すでに夕暮れが迫っていた。家には哲也が一人だけ。
「どこに行ってたんだ?」
淡々とした視線を彼に向けたまま、葵は何も言わず部屋へと向かう。
「友達に会ってた。言ったでしょ」
「葵、いったいどうしたっていうんだ?」
哲也は彼女のそばに来て肩に手を置いた。
「麻美のことをなぜそこまで拒絶するんだ?麻美は俺の妹だ。それだけのことだよ」
「彼女が妹なら、じゃあ私は何なの?」
葵はかろうじて笑顔を作り、そう問いかけた。
「お前は俺の恋人で、彼女の義姉さんだろう?」
込み上げる吐き気を必死にこらえながら、できる限り平静を装って葵は言った。
「じゃあ、私と結婚してくれる?」
肩に置かれた彼の指が、ぴたりと強ばった。哲也はほんの少し眉をひそめた。
「またその話か。言っただろ、まだその時じゃないって」
その言葉に、葵の胸はきしむように痛んだ。まだ形もない、小さな命が、お腹の奥で脈打っているような気がした。その命は彼女の心と、血と、肉と、深く繋がっていた。
もしこの子が生まれてくれたなら......もし哲也との愛が本物だったなら......どれほど幸せだっただろう。
家族がいて、愛しい子供がいて、もう一人ぼっちじゃなくなるし、心の拠り所ができるはずだった。
けれど、現実は残酷だった。最初からすべては偽りの愛。哲也にとって自分は、愛した誰かの代用品にすぎなかったのだ。
葵はうつむき、小さくうなずいた。これまで幾度となくプロポーズを退けられたときのように、従順な顔で、静かに答えた。
「......わかった」
「いい子だ」
哲也は、いつものように安堵の表情を浮かべながら、葵の頭を撫でた。
葵にはわかっていた。哲也が自分に最も満足していたのは、「従順さ」だった。彼の言葉を疑うことなく受け入れ、彼の決断に逆らわず、黙って従うこと。
けれど、これまでの葵は、それでもよかった。愛していたから、愛する人のために尽くすのが当たり前だと信じていた。
でも、もう従順ではいられない。
葵の態度に、哲也はすっかり落ち着いたと思い込んだのか、その晩の食卓では、何の遠慮もなく麻美の世話ばかり焼き、葵には一瞥もくれなかった。
葵はそれを気にも留めず、自分のペースで淡々と食事をとった。
妊娠がわかってからというもの、吐き気は日に日にひどくなっていた。とくに脂っこい料理を前にすると耐えがたく、ついに我慢できず席を立ち、洗面所に駆け込んで嘔吐した。
「お義姉さん、どうしたの?」
麻美の声が扉越しに聞こえ、それだけでさらに激しく吐き気が襲ってきた。
「見に行くよ」
哲也と家政婦が駆けつけ、水とタオルを差し出した。
家政婦は、自分の作った料理が原因ではないかと心配し始めた。麻美が辛い料理を食べたいと言い、特に油と辛さを強くするよう頼まれたから、それに応えたのだと説明した。
葵は彼女を責めなかった。哲也も当然のように麻美を庇い、ただ家政婦に「薄味の料理を何品か作って」と頼んだだけだった。
吐き気がようやくおさまったとき、哲也が彼女を支えて起こした。その拍子に、ポケットから一枚の診察券が床に落ちた。
それは、病院のものだった。
第4話
「病院に行ったの?」
診察券に具体的な診療科が記されていなかったのは、せめてもの救いだった。
葵は努めて平静を装いながら答える。
「胃の調子が悪くて」
「薬は飲んだ?」
哲也の手のひらから伝わる温もりが、服越しにじんわりと伝わってくる。顔を上げると、心配そうにのぞき込む彼の瞳が、かつて麻美が現れる前とまったく同じ色を湛えていた。
冬になると決まって、生理痛に苦しめられる葵は、ソファにうずくまり湯たんぽを抱えて動けなくなることが多かった。そのたびに哲也は両手をこすって温めては、そっと彼女のお腹に当ててくれた。
「もし赤ちゃんができたら、手のひらをお腹に当てれば、赤ちゃんの動きが感じられるかもね」
そんな冗談を、葵は何気なく口にしていた。
哲也は決して笑わず、反論することもなかった。当時は、黙って受け入れてくれているのだと思っていた。
けれど今思えば、あの沈黙こそが、そんな未来が訪れないことを悟っていた男の、静かな拒絶だったのだろう。
二人の未来に夢を見ていたのは、初めから葵ひとりだけだったのだ。
いま、このお腹の中で、新しい命が育まれている。
その事実が、罪悪感となって胸を刺した。葵はそっと哲也の手を押しのけた。
「どうした?」彼が眉をひそめた。
首を振りながら診察券を彼の手から受け取り、「別に......ご飯に戻ろう」と言葉をこぼした。
食卓に戻ると、麻美が気遣うような声で、上辺だけの心配をいくつか並べた。
だが葵には、まともに取り合う気力も残っておらず、ただ黙って無視することにした。
「お義姉さん、怒ってるんですか?辛い料理ばかり頼んでしまって、本当にごめんなさい」
麻美の声が震えている。目には涙がにじんでいた。
「子供の頃、母がよく激辛料理を作ってくれた。でも母が亡くなってからは、ずっと海外暮らしで、何年も口にすることがなくて......今日はつい、懐かしくなってしまって。お義姉さんが辛いの苦手なんて、知らなくて本当にすみません」
顔を上げると、哲也が麻美の手首を握り、慰めるように言葉をかけていた。
「麻美ちゃんのせいじゃないよ。自分を責める必要はない。辛い料理が好きなら、お手伝いさんにもっと作ってもらえばいい」
その光景があまりに和やかで、親密に見えて、葵は思わず反吐が出そうになった。
箸を置き、「気分が悪い」とだけ言い残して、部屋に戻った。
しばらくして、部屋の扉がノックされる音がした。
哲也が現れ、お粥の入ったお盆を持って入ってくると、机の上にそっと置いた。
「夕飯、食べてなかったから、おばさんが作ってくれたんだ。少しでも食べて」
その声は柔らかく、そして、その目にはまっすぐ葵の姿が映っていた。まるで麻美がこの家に現れる以前のように。
じっと哲也を見つめながら、葵の胸に疑念がよぎった。
この男は二重人格なのか。それとも、二人の女に想われる状況を楽しんでいるだけなのか。
視線が長く交わされたまま沈黙が続くと、哲也が少し困ったように眉をひそめた。
「......何を見てるの?」
「私たち、恋人だったのかなって、ちょっと思っただけ」
葵はふっと笑ってそう言った。麻美が現れてから、葵が彼に微笑みかけたのは、これが初めてだった。
ここ数日張りつめていた空気が一瞬だけ和らぎ、哲也は安堵のようなため息をついた。そして、いたずらっぽく彼女の頬をつねた。
「そんなの、聞くまでもないだろう」
葵はその言葉に応えず、ただ彼の瞳をまっすぐ見つめ返した。喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。
今、あなたの目に映っているのは、誰?
そんな問いは、もう意味がなかった。答えは、とうにわかっている。自分をさらし者にするようなことはしたくなかった。
「お粥、食べて。他に食べたいものがあれば、おばさんに頼んで作ってもらえばいい」
そう言って、彼はお粥の器を葵の前に押しやった。
葵はゆっくりとレンゲでお粥をかき混ぜた。立ち上る湯気が冷めていくのを、ただぼんやりと見つめた。
ふいに、込み上げる吐き気が喉元をせり上がった。目の前のこの男との間に宿った、小さな命のことが、胸に重くのしかかる。
この数日間の出来事、麻美と自分の、どこか似た面影。
お粥をかき混ぜる手が止まり、葵はぎゅっと歯を食いしばった。そして、目の前の男を真っすぐに見据えながら、静かに問いかけた。
「ねぇ、哲也ってさ、どうして麻美さんと付き合わないの?」
第5話
哲也の目に、動揺の色が浮かんだ。窓の外をじっと見つめたまま、しばらくしてようやく口を開いた。
「麻美は......ただの妹だよ」
「違うわ」
葵の声は静かだったが、迷いはなかった。彼の稚拙な嘘など、すぐに見抜けた。
その瞬間、ふと何かが胸に閃いた。なぜ、哲也は本当に愛している麻美ではなく、その代用品でしかない自分と付き合っているのか。その理由が、今になってわかる気がした。
恋人であれば、別れがある。夫婦でも、離婚という結末が待っていることがある。でも、家族は違う。ましてや、愛を秘めた「偽物の家族」ならば、その絆は簡単には壊れない。
哲也は、心の奥を見透かされたと感じたのか、答えをはぐらかすようにそっと葵の頬に触れ、なだめるような声を出した。
「考えすぎだよ。麻美とは幼なじみで、ほとんど本当の兄妹みたいなもんだ。それに、あいつの家には事情があって、今はひとりぼっちなんだ。俺が面倒を見るのは当然だろ?」
爪が手のひらに食い込むほど、葵は拳を握りしめた。
ひとりぼっち。
その言葉が、鋭く胸に突き刺さった。哲也は、気づいていないのだ。目の前にいる、この自分こそが、本当の「ひとりぼっち」だということに。
心が、音を立てて崩れていく。過去の数年間、共に過ごしてきた時間は、結局はすべて偽りだった。哲也は、麻美への想いを、自分という存在に投影していただけ。そんな「偽りの愛」に、しがみつく価値なんてあるだろうか。
「うん......」葵は無理に笑顔を作った。「わかってる」
哲也は、いつものように葵の従順さに安堵した様子で、額にキスを落とすと、そのまま部屋を出ていった。
ドアが閉まった瞬間、葵はその額をティッシュで乱暴に拭き取り、嫌悪感を込めてゴミ箱に投げ捨てた。
その夜、葵は一晩かけて荷物を整理した。自分の持ち物と、哲也からもらったものをきっちり分けて、それぞれ別の箱に詰め、クローゼットの奥に隠した。
交際が始まってすぐの頃、葵はもう一度哲也から金を借り、演技学科の学業を終えた。
卒業後、撮影現場のオーディションを受けに行こうとしたとき、哲也が引き止めた。
「遠距離になっちゃうだろ。寂しいよ」
そのときの葵は深く考えずに言った。
「会いに来てくれればいいじゃない。現場は面会OKなんだし」
だが、哲也は頷こうとはしなかった。
「仕事が忙しくて、抜けられないんだ」
熱のこもった視線で見つめられ、その瞳に浮かぶ愛しさと未練に心が揺らぎ、「わかった。もう行かないよ」と、葵は妥協した。
それでも、仕事は探した。借りた金は、何としてでも返さなければと、そう思ったから。
一年後、貯金が貯まり返済の日を迎えたその日に、哲也は別荘での同居を提案した。
葵は心から喜んだ。二人の関係が、ようやく一歩進んだのだと思った。
二十インチの小さなスーツケースに全財産を詰め、ここへ引っ越してきた。
それから三年。今もなお、あのスーツケースひとつにすべてが収まってしまう。
引っ越して間もなく、哲也は言った。
「仕事は辞めなよ。俺が養ってあげる。何ひとつ不自由のない生活を、約束するから」
その言葉を、葵は恋人としての温もりだと信じ、うれしさとともに頷いた。
けれど、今あらためて部屋を見渡すと気づいてしまう。麻美が現れるまでは、この空間も、この感情も、すべてが自分のものだと信じていた。けれど、麻美が姿を現した瞬間、自分はただの居候になった。ここにあるもの全てに、ただ「寄生」していただけだったのだと。
初めて悟った。自分のものとは、自分で稼いで手に入れたものだけ。誰かに頼らず、生きる力を持たなければならないのだと。
その後数日間、哲也と麻美の姿を別荘で見ることはなかった。使用人によれば、長く海外にいた麻美が国内旅行をしたがり、哲也が付き添っているらしい。
行き先を尋ねても、使用人は首を振った。ただ「一週間ほど外出する」とだけ、哲也から聞かされているとのことだった。
葵の表情に、陰りが落ちた。
仕事を辞めたばかりの頃を思い出した。退屈に耐えかねて、哲也に週末の短い旅行を提案したことがあった。
だが、哲也はいつもこう言った。
「仕事が忙しすぎて、週末も空けられない」
葵はあきらめず、何度も頼んだ。
「週末だけでいいの。たった二日、無理なら一日でもいい。お願い、一緒にどこか出かけたいの」
哲也はいつも穏やかだったが、冷ややかに拒んだ。
「会社に処理待ちの仕事が山ほどある。本当に無理なんだ」
葵は彼の腕にしがみつき、甘えた声を出した。
「本当に行きたいんだよ......遊びに」
そんな愛嬌たっぷりの仕草にも、返ってくるのは、うすく微笑んだ顔と額へのキス、そして、またもや変わらぬ拒絶。
「わがままを言わないで。旅行はまた今度にしよう。今はお前を養うために、しっかり稼がないと」
「私、別にそんな贅沢な暮らしなんて望んでないけど」
そう言いながら、葵はそっと彼の首に腕を回した。
「そうか?」哲也は、決まって彼女の鼻先をつついた。「でも俺は、もっといいものを与えたいんだよ」
第6話
葵は、ただぼんやりとしていた。
当時の彼女は、哲也が自分を心から愛してくれていると信じて疑わなかった。哲也はすでに、何不自由のない豊かな生活を与えてくれていたというのに、それでもまだ、自分は十分に尽くせていないと思い込んでいたのだ。
まさに、「愛とは常に不足を感じること」という言葉そのものだった。
けれど今、哲也は何のためらいもなく、何も思い煩うこともなく、麻美と旅行に出かけてしまう。その姿を前に、葵がこれまで「愛の証」だと信じて疑わなかった「常に不足を感じること」は、実のところ、哲也が巧妙に装ったただの言い訳にすぎなかったのだと、痛感せざるを得なかった。
彼女はあまりにも愛されたくて、わずかな幻想にもすぐに心を委ねてしまう性質だった。だからこそ、あの態度を哲也の愛情表現だと、都合よく勘違いしてしまったのだ。
「葵さん」
使用人のおばさんの声が、彼女の回想を遮った。
「お昼は、何がよろしいですか?」
葵は無意識のうちに、自分のお腹をそっと撫でた。あの日、麻美が注文した脂っこい料理の数々で、つわりがひどくなっていた。薄味の料理をお願いすると、ソファに身を預け、出国前に済ませておくべきことについて考え始めた。
哲也と麻美がいないことが、むしろ安堵に繋がっていた。二人の仲睦まじい様子を目にするたび、過去四年間の自分の境遇と無意識に比べてしまっていたからだ。
何度も胸が締めつけられ、何度も心が死んでいった。
愛という名で覆われた嘘は、麻美の登場によって、完全にその仮面を剥がされ、もはや隠れる場所を失ってしまった。
この数日間に起きたことは、葵が四年かけて築き上げた信念を、音を立てて崩してしまった。気持ちはまったく落ち着かず、思考はどこまでも混乱を極め、ついにはお腹が痙攣を始めた。
次第に強まる痛みに、葵は腰を折り曲げたまま、長いあいだ立ち上がることができなかった。使用人が異変に気づき、慌てて病院へと連れて行ってくれた。
完全に意識を失う直前、葵は最後の力を振り絞って医師の手を握りしめ、誰にも妊娠のことは言わないでほしいと頼んだ。
医師は事情を察し、静かにうなずいた。
そして、葵の意識は闇の中へと沈んでいった。
再び目を覚ました時、ベッドの前には哲也と麻美が立っていた。
哲也は不機嫌そうな顔をしており、麻美は心配げに眉を寄せていた。葵が目を開けるや否や、麻美が急いで声をかけた。
「お義姉さん、具合は良くなりましたか?」
哲也が戻ってくるとは思ってもいなかった葵は、思わず口を開いた。
「......どうして、戻ってきたの?」
哲也が答える前に、麻美が言葉を継いだ。
「お手伝いさんから哲也に電話があって、お義姉さんが倒れたって聞いたんです。それで、急いで戻ってきました」
麻美のその言葉には、ほんのわずかに責めるような響きがあった。それが葵の胸にざらついた不快感をもたらした。
「......ごめんなさい。旅行の邪魔をして」
葵がそう言うと、哲也が不満そうに吐き捨てた。
「そうだよ、お前さえいなければ、あと二日は楽しめたのに」
麻美は思いやり深く彼の手をそっと握り、「哲也、そんなこと言わないで」とたしなめるように言った。
「お義姉さんもわざとじゃないんだから。また機会があれば行けるよ」
哲也は彼女の手を包み込み、微笑み返した。
葵は、二人の睦まじい様子を見ないように目を逸らし、静かに視線を落とした。
「......戻ってこなくてもよかったのに。だいたい、戻って来いなんて、誰も頼んでない」
「なんだその言い方は?俺が見舞いに戻ってきたのが、間違いだったっていうのか?」
「......どうして戻ってきたの?」葵は、もう一度問いかけた。
哲也は一瞬、言葉に詰まった。その沈黙を埋めるように、麻美が口を挟んだ。
「私が哲也に、戻ろうって言ったんです。お義姉さんのこと、きっと心配してると思ったから。旅行なんて、またいつでも行けますよ」
「そうだよ......麻美はほんとに優しいな」
その一言を聞いた瞬間、葵の胃がひっくり返るような感覚が走り、込み上げる吐き気を抑えることができなかった。
二人に「出て行って」と言おうとしたその時だった。
麻美がふいにこめかみに手を当て、ふらつくように哲也の胸に倒れ込んだ。
第7話
哲也は慌てて彼女の身体を支えた。
「麻美、どうしたんだ?」
麻美はかすかに首を振った。
「大丈夫。きっと、急いで歩きすぎて疲れちゃったの。ちょっとめまいがして......」
「検査に行こう」
そう言うなり、哲也は一度も振り返ることなく、彼女の肩を抱いて病室を出ていった。
葵はその背中を見送り、ほっと息をついた瞬間、胸の奥に針で刺されるような細やかな痛みが広がった。
目を覚ましてから、哲也は一度として彼女の体調を気遣う言葉をかけてくれなかった。それなのに、麻美が額にそっと手を当てただけで、あんなにも慌てふためいて心配していた。
目を開けた瞬間に見えた哲也の顔を見て、もう灰になったはずの心に、ほんの一瞬だけ小さな炎が灯りそうになった自分が、情けなくて仕方なかった。
哲也と麻美が去った後、医者が一度病室を訪れた。葵のベッドのそばに誰の姿も見えないのを確認すると、医者はわずかに眉をひそめて訊ねた。
「ご家族の方は、来られていないのですか?」
哲也の顔が一瞬、脳裏に浮かんだが、葵は静かに首を振った。
「家族はいません」
医者は少し驚いたように目を見開き、言葉を変えた。
「お子さんの父親は――」
葵は自分の腹にそっと手を当てた。
「これは......予期せぬことでした。子どもは、諦めようと思っています」
カルテをめくりながら、医者は淡々と訊いた。
「今なら、手術の手配が可能ですが。どうされますか?」
「お願いします」
葵は迷いのない声で答えた。
手術室へ向かう途中、葵はずっとお腹に手を添えていた。
検査の日、医者に「あと数日もすれば、赤ちゃんの心音が聞こえてくるでしょう」と言われたことを思い出した。
今日を過ぎれば、もう二度とその音を聞くことはない、その現実が胸を締めつけた。
もっとずっと先の話になると思っていた。だが、縁のない出会いは、早く別れた方が傷も浅いのだと、現実が皮肉にも教えてくれた。
再び目を覚ましたとき、葵は救急病棟から産婦人科の病棟に移されていた。
その間、哲也は一度も姿を見せなかった。隣のベッドでは、若い女性が両親や恋人に囲まれ、温かな気遣いに包まれていた。
それに対して、葵はひとりぼっちだった。彼女はスマホを握りしめ、長いあいだ迷った末に、意を決して哲也に電話をかけた。
何度かコールののち、ようやく繋がった電話の向こうで、哲也は少し苛立った声を出した。
「何か用?」
葵は勇気を振り絞り、心の中で「これが最後」と自分に言い聞かせながら、彼に問いかけた。
「見舞いに来てくれない?」
「麻美の体調が良くなくてさ。今は離れられないんだ。お前はもう大丈夫なんだろ?」
葵は唇を開いたが、言いたいことが喉に詰まり、何も言えなかった。
哲也に拒まれたことで、どこか安堵した自分がいた。けれど、同時に胸が締めつけられるように痛んだ。
断られてよかった。もし来てくれていたら、自分の中に残っていた想いを、どうやって隠し通せばよかったのだろう。
それでも、その言葉は、息が詰まるほどに彼女を傷つけた。
葵は乾いた笑みを浮かべた。「うん、大丈夫。じゃあね」
電話を切ると、今度は吉岡里菜(よしおか りな)に連絡を取った。
里菜は葵の元同僚だったが、気が合い、退職後も連絡を取り合っていた。
葵が電話口で、妊娠していたこと、そして子どもを諦めたことを打ち明けると、里菜はすぐに果物を手に病院へ駆けつけてくれた。
事情を聞いた里菜に、葵は哲也には妊娠のことを知らせないでほしいと頼んだ。里菜は真剣にうなずき、それを引き受けた。
里菜は病室に残って、葵のそばに付き添った。昼寝をしていると、ガラスの割れる音で目を覚ました。
ふと見ると、葵がベッドの端で身体を丸め、苦しそうにうずくまっていた。
「葵、大丈夫!?」
里菜は慌ててナースコールを押した。医師や看護師が駆けつけ、すぐに検査が行われた。
その結果、胎児が完全には除去されておらず、再手術が必要だと告げられた。
「通してください、通してください!」
看護師たちは慌ただしく廊下の人々に道を開けさせ、ストレッチャーを押しながら手術室行きのエレベーターへと向かった。
エレベーターの扉が閉まるその直前、里菜はその人混みの中に、見覚えのある人影を見つけた。
哲也だった。