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盛夏に散る梨花
「藤堂さん、式の進行は変更なしで、当日、花嫁を別の人に変えるということでしょうか?」 担当者の困惑した視線を受け、藤堂梨花(とうどう ...
Chương (1)
第1章
「藤堂さん、式の進行は変更なしで、当日、花嫁を別の人に変えるということでしょうか?」
担当者の困惑した視線を受け、藤堂梨花(とうどう りか)はためらうことなく頷いた。
「ええ、2週間後の式は予定通り行います。変更が必要な資料は、数日中にこちらからお渡しします」
「かしこまりました。では、霧島様にもご連絡を……」
「結構です!」
言葉を遮るように梨花は強い口調で拒否した。担当者の驚いた表情を見て、彼女は努めて気持ちを落ち着かせ、説明を加えた。
「彼は忙しいので、今後の結婚式に関することは全て、私を通して下さい」
この結婚式は、霧島健吾(きりしま けんご)への最後の贈り物なのだ。
贈り物は、最後の最後まで分からないからこそ、サプライズになるんだから……
第1話
「藤堂さん、式の進行は変更なしで、当日、花嫁を別の人に変えるということでしょうか?」
担当者の困惑した視線を受け、藤堂梨花(とうどう りか)はためらうことなく頷いた。
「ええ、2週間後の式は予定通り行います。変更が必要な資料は、数日中にこちらからお渡しします」
「かしこまりました。では、霧島様にもご連絡を……」
「結構です!」
言葉を遮るように梨花は強い口調で拒否した。担当者の驚いた表情を見て、彼女は努めて気持ちを落ち着かせ、説明を加えた。
「彼は忙しいので、今後の結婚式に関することは全て、私を通して下さい」
この結婚式は、霧島健吾(きりしま けんご)への最後の贈り物なのだ。
贈り物は、最後の最後まで分からないからこそ、サプライズになるんだから……
梨花はウェディング企画会社を出て、スマホでJ市からの切符を予約した。
予約完了のメッセージが表示された途端、健吾から電話がかかってきた。
電話に出ると、健吾の優しい声が聞こえてきた。
「梨花、母さんが会いたいって言うから、夜、家に連れて帰って夕食を一緒にどうかって。
それから、今晩、君に渡したいものがあるそうだ。何だと思う?」
J市では誰もが知っていることだが、健吾は冷淡な性格で、常に他人と距離を置くような態度を取っていた。
彼に言い寄る女性は後を絶たなかったが、彼は全ての優しさを梨花だけに注いでいた。
今日まで、梨花もそう信じて疑わなかった。
梨花の母親と健吾の母親は、非常に仲の良い親友同士だった。
梨花と健吾は幼馴染として育ってきたのだ。
しかし、梨花の母親が亡くなってから1ヶ月も経たないうちに、父親は継母を家に迎えた。
継母の策略によって辺鄙な場所に送られた梨花は、気を失っていた状態から目を覚ますと、酔っ払った男に痴漢されていることに気づいた。
慌てて、彼女は床に散らばっていた瓶を掴み、男の頭に叩きつけた。
男は床で痙攣した後に動かなくなり、彼女が恐怖に怯えていると、健吾が軋むドアを蹴破って飛び込んできて、彼女を抱きしめた。
その時の彼は、梨花にとって、まるで救世主のように現れた。
救出された後も、梨花はその時の出来事が原因で、深刻なトラウマを抱えていた。
健吾は毎日彼女に付き添い、有名な精神科医の診察を受けさせ、あの手この手で彼女を喜ばせようとして、ようやく梨花は過去のトラウマから少しずつ立ち直ることができた。
来る日も来る日も寄り添ってくれる彼に、どんなに冷たい心も温められた。
しかし、父親が母親を裏切る姿を目の当たりにしていた梨花は、恋愛に対して慎重になっていた。
健吾と付き合うと決める前、梨花は彼に真剣にこう告げた。
「健吾、私は、あなたから完全な愛を受けたいの。もし愛情が冷めてしまったら、円満に別れましょう。でも、もしあなたが私を裏切ったら、私は二度とあなたの前に姿を現さない」
健吾は喜びと緊張が入り混じった様子で指を立てて誓った。
「梨花、俺は君だけを愛する。一生君を愛し、君を大切にすることを誓う。俺が君をどれほど愛しているかは、時間をかけて証明する!」
当時、健吾が力強く誓った言葉が、今も耳に残っている。
しかし、全ては時間が経つにつれて明らかになった。
健吾は彼女に捧げるはずだった完全な愛を守ることができなかった。彼は二人の愛を裏切ったのだ。
昨夜、彼女は友人から健吾がもう白川清子(しらかわ きよこ)と入籍していることを聞いたのだ。
霧島家は長年、多くの困窮学生たちを支援しており、清子もその一人だった。
梨花が清子のことをよく覚えているのは、彼女が特別優秀だったからではない。
清子が裏表のある人だったからだ。
梨花は清子が健吾に好意を伝え、告白する現場を目撃していた。しかし、当時、健吾は冷淡に彼女を拒絶した。
「すまない、俺には彼女がいる」
清子のしつこさに、健吾は彼女を全く相手にせず、完全に諦めさせた。
それ以来、清子は梨花の目の前に姿を現すことはほとんどなくなった。
しかし1ヶ月ほど前、健吾は突然梨花に清子の母親が重病で、死期が近いことを告げた。彼女は死ぬ前に娘の結婚した姿を見たいのだと言う。
これまで清子に冷たく接していた健吾が、梨花に相談を持ちかけ、彼女の力になりたいと言ってきたのだ。
梨花は即座にそれを拒否し、彼と付き合う際に言った言葉を、一語一句思い出させた。
「私はあなたからの完全な愛しか受け入れない。もし他の誰かに愛情を分け与えるのなら、私たちの関係は終わる」
それを聞いた健吾は顔色を変え、梨花を裏切ったりしないとすぐに誓った。
梨花は、これでこの馬鹿げた話は終わったと思っていた。
しかし、健吾は梨花に隠れて清子と結婚届を提出しただけでなく、二人の結婚式が2週間後に迫っていることもお構いなしに、
清子をかくまい、日夜一緒に過ごしていたのだ。
梨花は自嘲気味に笑みを浮かべた。今となっては、結婚式前に全てが分かって良かったと思うしかない。
返事がないので、健吾は怪訝そうに言った。
「梨花、聞いてるのか?」
梨花は小さく返事をして、「家にいないの。後で一人で行くから、迎えに来なくていいわ」と言った。
健吾は心配そうに、「いつ出かけたんだ?どうして俺を呼ばなかったんだ?」と尋ねた。
梨花は電話から、布が擦れる音と女の吐息が聞こえてきて、表情が険しくなった。
「あなたにサプライズを用意したの。結婚式の日にあげるわ。それで、ウェディング企画会社にいくつか指示を出してきただけ」
健吾は抑えきれない喜びの声で、「どんなサプライズだ?」と尋ねた。
梨花は口元を歪めて、「今言ったらサプライズにならないでしょう。結婚式の日に分かるわ」と答えた。
健吾は興奮を抑え、優しい声で言った。
「梨花の好きにすればいい。楽しみにしているよ。じゃあ、後で」
電話を切る直前、健吾は「チュッ」と投げキッスの音をした。
しかし、それは彼自身が出した音ではなく、他の女性にキスをする音だと、梨花には分かっていた。
梨花は何も知らないふりをして、平静な顔で切れた電話を見つめていたが、心の中は嵐が吹き荒れていた。
健吾、2週間後、結婚式で起こる出来事が、あなたにとって本当にサプライズであることを願うわ。
第2話
電話を切った後、梨花はそのまま実家へは向かわず、自宅に戻った。
100坪を超える広々とした家は、彼女と健吾が時間かけて丁寧に飾り付けてきたため、広すぎるという印象はなく、温かみのある空間になっていた。
かつて彼女は、ここが健吾と永遠に暮らす家になると思っていた。
しかし、昨夜、健吾の裏切りを知った瞬間から、それは叶わぬ夢となった。
2週間後の結婚式で交換するはずだった二つの婚約指輪は、
健吾がデザインする姿を、梨花が最初から最後まで見守って完成した、特別なものだった。
当時、健吾は梨花を抱きしめ、目を輝かせながら説明した。
「この指輪には仕掛けがあって、二つを合わせるとハートの形になるんだ。俺たちが永遠に離れないようにって意味を込めてね」
梨花は思い出から我に返り、未練なく指輪を取り出し、宅配便の番号に電話をかけた。
「もしもし、集荷をお願いしたいのですが……」
結婚式当日の花嫁が清子に変わるのであれば、この特別な意味を持つ指輪も、彼女の手元に渡るべきだろう。
結婚式当日の午前9時に届くよう手配し、配達員が指輪を持って行くのを見届けると、梨花は肩の荷が下りたように、静かに息を吐き出した。
100坪を超える「家」の至る所に、彼女と健吾が愛し合ってきた証が残っている。
ここを出る前に、梨花は自分の痕跡をすべて消し去ろうとしている。
……
梨花が実家に着いた時、彼女の目はまだ赤く腫れていた。
健吾の母は、梨花が赤い目で入ってくるのを見て、彼女の後ろを二度ほど視線を往復させた。健吾の姿が見えないので、少し不思議に思った。
「どうしたの?泣いたの?
健吾に何かされたの?」
梨花は誰にこの胸の苦しみを打ち明けたら良いのか分からなかった。健吾の母がどんなに優しくても、所詮、血の繋がった実の息子には敵わないのだ。
彼女はなんとか表情を作り直し、無理やり口角を上げた。
「ううん、何でもないわ。外で風が強くて、目にゴミが入っちゃっただけ」
目をこすりながら、流れ出た涙を拭うと、梨花はいつもの表情に戻った。
健吾の母は安堵の息を吐き、笑顔で言った。「もし健吾に何かされたら、必ず私に言いなさい。私が叱ってあげるから」
梨花が実家に到着してまもなく、健吾の車が地下駐車場に入ってきた。
健吾の母は彼がなかなか来ないので、梨花に呼びに行かせた。
駐車場で、梨花は唯一灯りがついている車にすぐに気づいた。
健吾は車内でタバコを吸い、スマホの画面をじっと見つめていた。梨花が近づいてくることにも全く気づいていない。
「そんな服を着て俺を誘惑するなんて、明日はベッドから起き上がれないようにしてやる」
電話から、清子の甘える声が聞こえてきた。「これはあなたへのご褒美よ。後で後悔しないようにね。今夜、必ず来て」
健吾は小さく悪態をつき、低い声で言った。「今夜、思い切り可愛がってやる」
電話を切っても、健吾はまだ興奮冷めやらぬ様子で、立て続けに数本のタバコを吸って、込み上げてくる衝動を抑えようとしていた。
梨花にとって、今日見た健吾の姿は、これまでの認識を覆すものだった。
あんなに自分のことを愛してくれていると思っていた人が、他の女性にも同じように優しく、しかもあんなにも夢中になっているなんて。
梨花は苦笑いを浮かべたが、胃の中はひっくり返るようだった。
エンジンを切る音が聞こえ、健吾はタバコの火を消した。
梨花は彼がドアを開ける直前に、急いで地下駐車場を後にした。
ほとんど同時に二階に戻ると、使用人がテーブルに料理を並べていた。
健吾の母は二人を見て、健吾を睨みつけた。
「何をぐずぐずしているの?梨花に呼ばれないと来ないつもりだったの?」
健吾は表情を強張らせ、緊張した面持ちで梨花を見た。
「今、俺を探しに来てくれたのか?」
梨花は彼と目を合わせ、普段通りの顔で言った。「ええ、電話していたから戻ってきたの。何か問題でも?」
健吾は梨花をじっと見つめ、緊張した表情のまま言った。「誰と電話していたか、聞こえたか?」
梨花は皮肉に思ったが、健吾に悟られないよう、表情を崩さなかった。
「いいえ、聞こえなかったわ。仕事関係の人でしょう?他に誰がいるの?」
梨花は健吾を真っ直ぐに見つめた。彼が急に安心した様子になり、いつもの優しい表情に戻って、彼女の頭を撫でた。
「仕事じゃないんだ。一週間後のチャリティパーティーのために、君に新しいアクセサリーを特注したんだけど、その件で電話があったんだ。
俺のそばにいる限り、君はいつだって一番輝いているよ」
梨花が助け出された後、健吾が中心となって、霧島グループは定期的にチャリティパーティーを開催するようになった。
集まったお金は、梨花の名前を冠した基金を通して全額寄付されていた。
彼は梨花の幸せを願い、彼女がこれからも健康でいられるようにと、これらの活動を行っていた。
神様を信じない健吾がそこまでしてくれることに、梨花は当時、とても感動していた。
しかし今は、梨花は淡々と「あなたの好きにして」と答えた。
夕食後、健吾の母は紫檀の箱を取り出し、中から翡翠の腕輪を取り出して梨花の手首に嵌めようとした。
「これは霧島の家に代々伝わる、嫁に受け継がれる腕輪よ。やっと梨花に渡せる日が来たわね」
健吾の母は優しい笑顔で、梨花と健吾を交互に見つめた。
梨花は手首の翡翠の腕輪を見つめた。透明感のある美しい模様が、彼女の細い手首をより一層白く見せている。
しかし、彼女にはそれを楽しむ余裕はなかった。
梨花は苦笑しながら腕輪を外し、箱に戻した。
「おばさんの気持ちは分かる。でも、こんなに大切な贈り物は、結婚式の日にいただいた方が良いと思う」
梨花の強い意志に、健吾の母は結婚式の日に改めて渡すことにした。
健吾が何度も時計を見るのに気づき、梨花は機嫌を伺うようにして帰ることを告げた。
帰り道、急激な腹痛に襲われ、梨花は生理が早まっていることに気づいた。
家に戻った健吾は、お湯を用意して梨花の靴下をそっと脱がせ、足を温めてあげた。
梨花は、俯いて彼の頭のつむじを見つめながら、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
心変わりしているにも関わらず、どうして以前のように優しくできるのだろうか。
この深情さは、作り物だったのだ。
ベッドに横たわると、健吾は大きな手で梨花の腹部を優しくマッサージした。
眠気が襲ってきたが、健吾が自分を眠らせようとしている理由が分かっているので、梨花はなかなか寝つけなかった。
スマホが小さく2回振動し、梨花は健吾がそれ手に取るのを感じた。彼の呼吸が荒くなり、マッサージの手にも力が入る。
彼の思惑通り、梨花の呼吸は徐々に落ち着き、眠っているように見えた。
健吾は音を立てずにベッドから起き上がり、服を着替えると、急いで家を出て行った。
梨花は窓辺に立ち、猛スピードで走り去る車を見つめていた。爪が手のひらに食い込んでも、痛みは感じなかった。
第3話
翌朝、梨花が目を覚ますと、健吾はすでに帰宅していて、キッチンで何かを作っていた。
梨花が寝室から出てくると、健吾は満面の笑みで彼女を迎えた。
「ほら、新しく白玉団子を作ってみたんだ。食べてみて」
この光景に、梨花は少し呆然とした後、ダイニングテーブルについた。
彼女は顔を上げて健吾を見つめ、探るような視線を向けた。
「昨夜、どこに行っていたの?」
健吾の笑顔は一瞬で凍りつき、思わず梨花の視線を避けたが、すぐに我に返った。
彼は梨花の隣に座り、心配そうに彼女の手を握り締めた。
「昨夜、会社で急用ができて少し出かけていたんだ。君がぐっすり眠っていたから、起こさなかった。悪い夢でも見て起きたのか?」
健吾の目には、偽りなく深い愛情が溢れていた。
梨花には理解できなかった。どうして人は、愛情と肉体関係を別々の相手に捧げることができるのだろうか。
梨花は何も答えなかった。健吾は彼女を抱きしめ、優しく慰めの言葉をかけた後、すぐに秘書に電話し、検査の予約と薬の手配を頼んだ。
あの事件の後、長い間、梨花は薬を飲まなければ眠ることができなかった。
薬を飲んでも、あの夜の悪夢にうなされることがよくあった。
酒の臭い、血まみれの手……
梨花を心配する健吾は、彼女が悪夢に苦しむ時、すぐに傍にいられるようにと、長い間、彼女の部屋で布団を敷いて寝ていた。
しかし、それほどまでに彼女を想っていた健吾が、梨花を裏切ったのだ。
梨花は顔を上げると、健吾の顎に、うっすらとしたキスマークがあることに気づいた。
家ではいつもラフな服装で、上の二つのボタンを外し、セクシーな喉仏を覗かせていた健吾が、
今日に限って、一番上のボタンまでしっかりと留めていた。
料理をしていたため、少し捲り上がった袖口から、女性に引っ掻かれたような痕が見えた。
健吾は、これらの証拠が梨花の目に触れていることに気づいていなかった。
これらの痕跡がどこでついたものかは、言うまでもない。
健吾は白玉団子をスプーンですくい、梨花の口元に運んだ。
その甘い香りを嗅ぎ、先ほど見つけた痕跡を思い出した梨花は、吐き気を催し、慌てて彼を突き飛ばしてトイレに駆け込んだ。
心配そうな顔で梨花のそばに寄り添っていた健吾が、梨花の口元の汚れを拭おうとした時、梨花は感情が抑えきれなくなり、彼を強く突き飛ばした。
「触らないで!」
健吾は、上げた手を宙に浮かべたまま、困惑した様子で梨花を見つめ、沈んだ声で言った。
「梨花、俺の何か気に障ることがあったか?」
梨花はなんとか気持ちを落ち着かせ、「ううん、違うの。小説を読んでいたら、ついあなたを主人公に重ねてしまって」と答えた。
健吾は安堵の息を吐き、再び梨花に近づき、彼女の顔についた水滴を拭き取った。
彼は笑って、「どんな小説を読んでいたんだ?そんなに夢中になって」と冗談めかして言った。
梨花は顔を上げて健吾と見つめ合った。「誰もが羨む恋人同士の話なんだけど、男主人公は時間の試練に耐えられず、心変わりして、彼女を裏切るの。でも、彼女も他の女性も両方欲しいと思っていた彼は、結局どちらも失ってしまうのよ。
健吾、あなたもあの主人公みたいに……」
健吾の指先が小さく震えたが、すぐに平静を取り戻し、彼は梨花を強く抱きしめた。
「小説は作り話だ。誰も俺たちを引き裂くことはできないし、俺も心変わりして他の女性を愛したりしない。
梨花、俺の愛を信じてくれ」
健吾は断固とした口調で言った。それは梨花を説得するためなのか、それとも自分自身を納得させようとしていたのかは分からなかった。
健吾は梨花を病院に連れて行き、改めて検査を受けさせた。彼女の精神状態が不安定なのを感じ取ったのか、その後数日間は、片時も梨花のそばを離れなかった。
やがてチャリティパーティー当日がやってきた。健吾は梨花を連れて、ドレスを選びに行った。
梨花はあまり乗り気ではない様子でドレスを見て回り、黒色のドレスに目が留まった。
健吾は彼女の視線に気づき、優しく尋ねた。
「これが気に入ったのか?
じゃあ試着してみろ。気に入ったら家まで送らせる」
梨花が口を開く前に、店員が困った顔で近づいてきた。
「申し訳ございません、藤堂さん。こちらのドレスはすでに別のお客様にご予約いただいております。他のデザインもご紹介させていただきますが」
健吾は店員を不機嫌そうに睨みつけ、有無を言わさぬ口調で言った。「相手に確認してくれ。譲ってくれるなら、新しいドレスを無料で提供する」
店員は困ったように梨花を一瞥し、健吾の隣へ行き、小声で「白川様がお取り置きされているものです」と答えた。
小さな声だったが、梨花には聞こえていた。
彼女は振り返って健吾を見ると、彼の表情が変わるのを見て、乾いた笑いがこみ上げてくるのを感じた。
「ただのドレスだろ?譲らせようか?」
梨花は興味なさそうに首を横に振り、「デザインが良いから見ていただけだ。人でも物でも、人のものを奪う趣味はないので」と答えた。
何かを暗示しているかのような梨花の言葉に、健吾は眉根を寄せ、一瞬、胸騒ぎを覚えた。
梨花は別のドレスを選び直し、健吾は胸のモヤモヤを抑え、彼女の後に続いた。
最終、梨花は健吾の勧めで、青いドレスを選んだ。
試着室で服を着替えている時、彼女のスマホの画面が一瞬光り、「あと7日」という表示が現れた。
第4話
健吾はその表示を凝視し、再び胸騒ぎを覚えた。
ちょうど梨花のスマホを手に取ろうとしたその時、試着室のカーテンが開き、彼女が出てきた。
そのドレスは、健吾が彼女のために用意した宝石のアクセサリーと見事に調和し、元々美しい梨花の魅力をさらに引き立てていた。
健吾は梨花のスマホのカウントダウンのことを一瞬で忘れ、目を奪われた。
「梨花、君と一緒にいられて、俺は本当に幸せだ」
健吾の深い愛情のこもった眼差しに見つめられて、以前の梨花なら、きっとドキドキしていたに違いない。
しかし今の梨花は、冷静に視線を逸らし、心は微塵も揺れなかった。
健吾がキスをしようと顔を近づけたが、梨花はさりげなくそれを避けた。
「早く行こう。時間がないわ」
梨花がスマホを手に取る様子を見て、健吾は先ほどの表示のことを思い出した。
彼は眉根を寄せ、「君のスマホに7日間のカウントダウンが表示されていたが、あれは何だ?」と尋ねた。
梨花は一瞬たじろぎ、目に動揺の色が浮かんだ。
去る前に、健吾に自分が去るつもりだと気づかれたくなかった。
「7日後は私たちの結婚式の日よ。忘れたの?」
梨花の澄んだ瞳に見つめられ、健吾は一瞬後ろめたさを感じ、慌てて話題を変えた。
パーティーはまだ始まっていなかったが、ホールにはすでに多くの人が集まり、賑やかだった。
健吾と梨花が来るのを見ると、皆が二人の周りに集まってきた。
ホール内はエアコンが効いて少し肌寒かったので、健吾は用意していたショールを梨花の肩にかけた。
その光景を見て、多くの女性が羨望の眼差しを向け、健吾の友人や仕事仲間は、からかい交じりに言った。
「霧島社長は藤堂さんを本当に大切にされているんですね。J市中探しても、お二人ほどお似合いのカップルはいませんよ。一週間後の結婚式、必ず出席させていただきます」
「J市で奥さんを大切にするランキングで霧島社長が2位なら、1位を名乗る人はいないでしょうね」
「当たり前ですよ。霧島社長はまさに理想の夫です。J市の女性で、藤堂さんが羨ましくない人なんていませんよ」
周囲は二人をお似合いだと褒める声で溢れ、健吾は笑みを浮かべた。いつもは冷淡な彼も、今日は少し柔らかい表情を見せていた。
ご機嫌取りだと分かっていても、健吾はまんざらでもない様子で、誰に声をかけられても笑顔で対応していた。
人々は健吾と親しくなる方法を見つけ、お世辞を次々に並べた。
梨花は、耳がガンガンして、頭がくらくらした。
それに今の梨花は、何も知らない人々からのお祝いの言葉を聞きたくなかった。
健吾は梨花のうんざりした表情に気づき、騒がしい人々を追い払い、彼女を静かな場所に連れて行った。
しかし、少し落ち着いたのも束の間、黒いドレスを身に纏った清子が、妖艶な姿で近づいてきた。
「霧島社長、梨花さん、お久しぶり」
清子は、長年霧島グループの支援を受けてきた代表者として、このチャリティパーティーに出席する資格があった。
それだけでなく、この後、彼女のスピーチも予定されていた。
梨花は彼女と社交辞令を交わしたくなかったので、気づかないふりをして、スマホを見つめていた。
清子は一歩前に出て、申し訳なさそうに言った。
「梨花さん、まだ私のことを怒っているの?本当にごめん。実は、あの時、どうしたらいいか分からなくて、つい霧島社長に偽装結婚の話を持ちかけてしまったんだ。
でも、霧島社長は私の申し出を断ってくれたし、今は私も彼氏ができたので、もう過去のことは水に流してもいいんじゃない?」
梨花には、彼女の言葉に謝罪の気持ちは全く感じられず、むしろ挑発しているように聞こえた。
健吾も彼女の自慢げな口調に気づき、眉をひそめて、清子を追い払おうとした。
「身の程をわきまえろ。梨花は君を嫌っているんだ。分かったら、近づくな」
清子は、まるで甘えるように鼻で笑って、「彼女が私を嫌いでも、私のことを好きな人もいるんだからね」と言った。
彼女はそう言いながら、健吾を見つめ、わざと彼にウィンクをした。
健吾は何を思ったのか、喉仏を上下に動かし、グラスの酒を一気に飲み干した。
二人が人目をはばからずイチャイチャしているのを見て、梨花は立ち上がり、トイレの方へ歩き出した。
健吾は、梨花を追うように慌てて席を立ち、その後を追った。残された清子は、人々に囲まれていた。
「清子さん、そのドレス、とても素敵ですね。イヤリングも綺麗です」
清子は得意げに顔を上げた。
「当然よ、これらは全部私の彼氏が送ってくれたものよ。私にくれるものは、当然全部最高のものだわ」
彼女の自慢話に、周囲の女性たちは羨ましそうにため息をついた。
「そのイヤリング、藤堂さんが今日つけているアクセサリーと同じ翡翠を使っているみたいですね。もしかしたら、彼氏と霧島社長が同じ原石を買って、作ったものかもしれませんね」
梨花は歩みを止め、手首の翡翠の腕輪を睨みつけ、力任せに外して握り締めた。滑らかなはずの翡翠が、手のひらに食い込んで痛みを感じさせた。
第5話
健吾が追いかけてきた時には、梨花はすでにトイレに入っていた。
トイレに入って2分ほどすると、梨花は健吾の着信音を聞いた。しかし、すぐに電話に出たようだ。
「裏庭で待ってろ」
すぐに足音が聞こえ、次第に遠ざかっていった。
梨花はこの会場で何度もパーティーに出席したことがあり、建物の構造をよく知っていた。
裏庭という言葉で、梨花は健吾がどこへ行くのかすぐに理解した。
梨花はトイレを出て、奥の倉庫まで回り込み、窓の隙間から、急ぎ足でやって来る健吾の姿を確認した。
そこで待っていた清子は、健吾の胸に飛び込んだ。
健吾は全く拒絶する様子もなく、彼女の腰に優しく腕を回し、まるで骨まで溶け込ませるかのように強く抱き寄せた。
「また俺を誘惑する気か?この前、ベッドから起き上がれなかったことを、もう忘れたのか?」
ここ数日、健吾は梨花のそばを片時も離れなかった。
だから梨花は、彼が言っている「この前」がいつのことなのか、すぐに理解した。
二人が実家を出たあの夜、健吾は朝まで帰ってこなかった。
そして、体にはキスマークと引っ掻き傷があった。
清子は健吾の腰に腕を回し、顔を上げた。
健吾は彼女をしばらく見つめた後、激しいキスをした。二人は激しく抱き合い、絡み合った。
静まり返った裏庭に、唇が交わる音が響き渡った。
清子はわざと健吾の唇を噛み、我に返った彼は、唇から流れ出した血を拭った。
「死にたいのか?目立つところに痕を残すなと警告したはずだ。
梨花に見られたら、面倒なことになる」
清子は彼の厳しい態度にもひるまず、豊満な胸を彼の体に擦り付けた。
「適当な言い訳をすればいいでしょう。彼女は何も疑わないわ。
私はベッドであなたが乱暴な方が好き。この前のメイド服、気に入った?今夜も私のところに来ない?今回は新しいことを……」
彼女は背伸びをして健吾の耳元で何かを囁くと、彼は乾いた唇を舐め、清子の顎を掴んで再び激しいキスをした。
窓の後ろに立っていた梨花は、窓の隙間からその一部始終を見て、全身が凍りつくように感じた。
健吾と清子の関係はすでに知っていたが、実際にこの目で見ることで、想像以上の衝撃を受けた。
心臓を鷲掴みにされたように苦しく、梨花は窓枠に掴まり、倒れそうになった。
梨花が気持ちを落ち着かせて倉庫を出ると、健吾はすでに清子と別れ、彼女を探していた。
梨花の姿を見つけると、健吾は大股で近づいてきた。額には汗がにじんでいた。
「どこに行っていたんだ?姿が見えなくなって、本当に心配した」
梨花はわざと彼の傷ついた唇に視線を向け、「トイレから出たらあなたがいないから、庭を散歩していたの。ところで、唇はどうしたの?」と尋ねた。
梨花の言葉に、健吾はみるみるうちに狼狽し、再び額に冷や汗をかいた。
「どの庭に行ったんだ?」
梨花は嘲りの笑みを浮かべ、振り返って彼から目を逸らした。
「すぐ近くの庭よ。たくさんの人がいたわ。どうしてそんなに慌てているの?」
梨花は、別の庭に行ったと言った途端、健吾が「裏庭じゃなくて良かった」と安堵の息を吐くのを見た。
「いや、君がどこかに行ってしまって、見つけられなくなるんじゃないかと心配しただけだ」
清子はステージに立ち、長年にわたる霧島グループの支援についてスピーチをしていた。彼女は何度もこちらを見ていた。
健吾は人ごみの向こうにいる清子を見つめ、先ほど裏庭で彼女が言った「プレゼント」のことを思い出した。
彼は全身に力が入った。思わず唇を噛み締めると、傷口に痛みを感じ、梨花の質問にまだ答えていないことを思い出した。
「最近、少し口内炎ができてしまって、それが破れてしまったんだ。大したことない」
梨花は小さく鼻で笑い、背を向けて歩き出した。
「疲れたから、先に帰るわ」
健吾は、突然、言いようのない不安に襲われ、梨花の手首を強く掴んだ。
「両親に一声かけてから、一緒に帰る」
数分後、健吾は梨花を連れ、パーティー会場を後にした。向かったのは、実家だった。
「母さんが、実家に泊まっていかないかって言っているんだ。明日、戻ろう」
梨花は何も言わず、実家に戻り、シャワーを浴びてからベッドに入った。
ここ数日の心労で、梨花はベッドに横たわるやいなや、うとうとし始めた。
隣では、スマホを操作する音と、健吾の楽しそうな笑い声が聞こえていた。
どれくらい時間が経っただろうか、隣で物音がした。
健吾は優しく梨花の肩を叩き、彼女の頬に軽くキスをして、小さな声で言った。「母さんが話があるそうだ。ちょっと行ってくる。何かあったら呼んでくれ」
梨花は「うん」と小さく返事をして、再び眠りについたふりをする。
健吾がこっそりと部屋を出ていくと、梨花は起き上がった。
足音からすると、健吾と健吾の母は書斎に向かったようだ。
少し迷った後、梨花はそっと書斎の扉まで歩み寄った。
扉の隙間から光が漏れ、健吾の母の怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「何度言ったら分かるの!梨花は良い子よ。彼女がいるなら、周りのだらしない女を整理しなさいって言ったでしょう。それなのに、清子との関係は深まるばかりで、周りの人にもバレているのよ。
もし梨花の耳に入ったらどうなるか、考えたことがあるの?
健吾、もう大人なんだから、いちいち口うるさいことは言いたくないけど、後で絶対後悔するような無茶はしないでほしいの」
健吾の母の言葉の一つ一つが、梨花の耳に突き刺さり、健吾が何を言っているのか聞き取る余裕もなかった。
梨花は全身が凍りつくように冷たくなり、夜に健吾と清子が抱き合っているのを見た時よりも、もっと心が痛んだ。
健吾がしていたことは、健吾の母はずっと知っていたのだ。そして、彼女は息子と共に、自分を騙していた。
しかも、健吾の母だけでなく、周りの人たちも健吾と清子の関係を知っていたのだ。
自分は、皆が騙されていると、愚かにも信じていた。
騙されていたのは、自分だけだった。健吾から捧げられた愛が本物だと信じていたのは、自分だけだったのだ。
だったら、あの祝福は何だったのだろう。陰で笑われていただけだったのだろうか。
書斎からはまだ声が聞こえてくるが、梨花にはもはや何も聞こえなかった。
痺れた足で書斎を離れ、寝室に戻ると、梨花は布団にくるまり、少しでも温まろうとした。
愛も真心も、偽ることができるのだ。
第6話
梨花は寝室に戻ると、放心状態のまま、意識が朦朧として眠りに落ちていった。
途中で、健吾が一度戻ってきて、梨花の寝顔を見つめていたことに気づいた。
しばらくすると、健吾のスマホに何度も電話がかかってきた。そして、けたたましい着信音の後、彼は2秒ほどためらってから部屋を出て行った。
翌朝、健吾は帰ってこなかった。
健吾の母は、家政婦が用意した朝食を梨花の目の前に置き、優しい顔で言った。
「健吾は会社で急用ができて、朝早くに出て行ったの。もし暇なら、ここで私と一緒に過ごしたらどう?退屈しないでしょう」
健吾の母の落ち着いた様子を見て、梨花は少し呆然とした。
昨夜、二人の会話を盗み聞きしていなければ、健吾の裏切りを知っていなければ、梨花は健吾の母の言葉を真に受けていただろう。
今、梨花にとって、二人は嘘つきだった……
騙されていたのは自分だけで、皆にいいように弄されていたのだ。
梨花は心の中で自嘲気味に笑ったが、表情には出さなかった。
梨花がJ市を去るまで、あと一週間も残っていない。彼女は、自分の出発を邪魔されたくなかった。
「昨日、ウェディング企画会社から連絡があって、確認事項があるんだ。この結婚式のために、健吾と私は長い時間をかけて準備してきた。万全を期したいので。また後日、お邪魔させて」
健吾の母はにこやかに微笑み、梨花の申し出を止めなかった。
彼女が今、梨花を引き止めたのは、彼女に何も疑って欲しくなかったからだ。
朝食後、梨花は実家を出て、ウェディング企画会社へ向かった。
梨花の言葉に嘘はなかった。今日は本当にウェディング企画会社に行く用事があったのだ。
先週、花嫁を清子に変えるよう依頼した際、梨花は変更に必要な資料を渡すと言っていた。
今週、健吾は片時も梨花のそばを離れなかったが、梨花もただ時間を過ごしていたわけではなかった。
健吾は梨花に全く警戒心を抱いておらず、スマホもパソコンも、パスワードは彼女の誕生日だった。
梨花は健吾が風呂に入っている間に、こっそり彼のスマホとパソコンの中身を確認した。
その時に梨花は知ったのだ。
健吾は清子と結婚届を提出しただけでなく、結婚写真もハネムーンも、彼女と共にしていたことを。
当時、健吾は2週間の出張だと言って自分を騙していたが、実際は清子とハネムーンを過ごしていたのだ。
梨花は自分のスマホに送られてきた結婚写真や二人の親密な写真を、ウェディング企画会社に渡した。その他の詳細も伝え、変更作業を依頼した。
全てを終えた梨花は、心にぽっかりと穴が空いたような気がしたが、想像していたほど辛くはなかった。
ウェディング企画会社を出て、梨花は以前受けた検査結果が出ているはずだと思い出し、車で病院へ向かった。
駐車場に車を停めると、健吾の車もそこに止まっていることに気づいた。
梨花が検査結果を受け取る場所に行く前に、産婦人科から出てくるところの健吾と清子を見つけてしまった。
二人は笑顔で、健吾は清子の腰を優しく支えており、まるで新婚で、間もなく新しい命を授かる夫婦のようだった。
すでに麻痺していると思っていた心が、チクリと痛んだ。
清子は、いつの間にか目の前に立っていた梨花に気づき、わざとらしく健吾に寄り添ってから、口を開いた。
「梨花さん、こんなところで会うなんて。まさか、あなたも妊娠でもしたの?」
突然、梨花の名が聞こえた健吾は、思わず清子から手を離し、顔を上げた。
彼は急に緊張した面持ちになり、清子の腰から手を離すと、落ち着かない様子で、額に冷や汗をかいた。
「梨花、どうしてここにいるんだ?」
「検査結果を受け取りに」
梨花は冷たい声で答え、清子の挑発的な視線を真正面から受け止めた。
健吾は慌てて梨花のそばに行き、動揺した様子で説明した。
「梨花、会社に行く途中で清子に会ったんだ。彼女が怪我をしていたから、家の援助を受けていた学生だし、と思って連れてきてやった。病院に来てから、彼女が妊娠していることを知って。それで、ついでに検査に付き添ってやったんだ」
梨花は深呼吸をして、胸の痛みを和らげようとした。
「数ヶ月前には、お母さんを安心させるために結婚の真似事をしようと悩んでいた清子が、もう妊娠しているなんて。おめでとう」
清子は健吾に熱い視線を送り、彼を冷や汗でびしょ濡れにさせた。
「ありがとう、梨花さん。もう妊娠3ヶ月目なんだ。しかも双子なんだよ。昨夜、旦那がベッドで少し乱暴で、怪我しちゃったんだが、大したことないんだ。彼は用事で来られないので、道で霧島社長に会えて本当に助かった……」
「もう大丈夫そうなので、失礼する。梨花、検査結果はもらったか?送って行ってやる」
健吾は清子の話を遮り、梨花の手を取った。
梨花は清子から視線を逸らし、静かに首を横に振った。
梨花と清子が同じ空間にいるのを避けるかのように、健吾は急いで彼女を連れ出した。
検査結果を受け取ると、すぐに病院を後にした。
梨花はまるで感情を失った操り人形のように、ただぼんやりと健吾に手を引かれるがまま、その場を後にした。
付き合い始めた頃、梨花は健吾にこう言った。「もしあなたが私を裏切ったら、私は二度とあなたの前に姿を現さない」と。
梨花はその約束を守り、さらにスペシャルな贈り物を、結婚式の日に彼に届けるつもりだった。
第7話
帰り道、健吾のスマホは何度も着信を知らせていた。
梨花が見ていない隙に、健吾はメッセージを確認した。
清子からのメッセージだった。
【健吾、私たちの子供、どんな名前にしようか?今夜、一緒に考えてくれない?】
健吾はメッセージを打ち込み、警告の言葉を彼女に送った。
【名前のことは後で考える。それと、梨花の前であんな誤解を招くような言い方をするな。俺たちのことがバレたらどうなるか分かっているだろうな!】
そうは言っても、梨花には健吾の表情から、彼が清子の妊娠を嫌がっていないことが分かった。
以前から、健吾は子供が大好きだと言っていた。
梨花は自分のスマホの画面が光るのを見て、清子から友達申請が来ていることに気づいた。
挑発だと分かっていても、梨花は申請を承認した。
承認するとすぐに、清子からメッセージが届いた。
【梨花、私の子供の父親は誰なのか、気にならないの?あなたがそんなに鈍感で、健吾が私と親密な関係だってこと、少しも気づかないとは思えないんだけど】
梨花からの質問を待っているかのように、その後数分間、メッセージは届かなかった。
梨花はメッセージを見て、返信しなかった。
答えは分かっているし、もうすぐこの街を去るのだから、今さら騒ぎ立てる必要もない。
梨花から返事がないので、我慢できなくなった清子は再びメッセージを送ってきた。
それは、健吾と清子の結婚届の写真だった。梨花はすでこのことを知ったので、今更驚いたり、傷ついたりすることはなかった。
【梨花、健吾と結婚届を出したのは私だ。たとえあなたたちがもうすぐ結婚式を挙げるとしても、私が彼の妻なんだ。私が離婚に同意しない限り、あなたは一生、私の下にいるのよ。ましてや、今は彼の子供が私のお腹の中にいるんだ。しかも双子よ。私たちはもう切っても切れない関係なんだ】
【彼がどれだけ私を愛しているか、あなたは知らないでしょう。彼はほとんど毎日、時間を作って私に会いに来てくれる。それに、私の存在を周りの人にも話しているんだよ。惨めだと思わない?周りの人が、健吾がどれだけあなたを大切にしてるか褒めていたのは、ただの嘲笑だったんだよ】
【チャリティパーティーで私が着ていたドレス、覚えているの?あれは健吾が高額で特注してくれたものなんだよ。あなたには、そんな風にされたことあるの?】
【彼がどれほど私を気に入っているか、あなたには想像もつかないでしょう。あなたみたいなつまらない女、健吾は好きになるはずないんだ。彼が好きなのは、私みたいにベッドで蕩けられる女なの】
清子は、さらに多くのベッド写真を送ってきた。
清子の高慢で、勝ち誇ったような態度に、梨花はただただ冷笑するしかなかった。
「何を見ているんだ?そんなに真剣な顔で」
健吾が突然声をかけたので、梨花は複雑な思いから我に返った。
梨花はスマホの画面を消し、首を横に振って何も言わなかった。
梨花の落ち着いた様子を見て、健吾は言いようのない不安に襲われた。まるで何かが、自分の手からすり抜けていくような気がした。
彼は梨花の手を取り、自分の太腿に押し付けた。
梨花は嫌だったが、抵抗しても無駄だと思い、健吾の好きにさせて、シートにもたれて目を閉じた。
梨花が抵抗しなくなったのを感じ、健吾は深呼吸をして、ようやく落ち着いた。
それから数日、健吾は結婚式を前に、会社でどうしても片付けなければならないことがあると言い、昼も夜も家にいなかった。
梨花は健吾の行動を詮索しようとはしなかったが、清子が彼の情報を送ってきた。
会社が忙しいというのは嘘で、健吾は清子と一緒に過ごしていたのだ。
二人はベビー用品店に行き、まだ性別が分からない二人の子供のためにベビー用品を買っていた。
清子は、健吾が真剣に子供の名前を考えている横顔や、彼女のお腹に顔を寄せている写真を送ってきた……
【梨花、健吾はこの数日、ずっと私と一緒にいた。彼はきっと、仕事が忙しいと言ってあなたを騙しているんでしょうね。あなたが、彼が私と子供にどれだけ愛情を注いでいるか、この目で見ていないのが残念だね】
【ねえ、結婚式の日に、彼は私と子供のために式場から逃げるかしら?】
梨花は彼女の挑発に乗らなかった。
結婚式当日、確かに式場から逃げる人がいる。しかし、それは健吾ではなく、梨花自身なのだ。
第8話
健吾が家にいない数日間は、梨花にとって好都合だった。
彼女は家にある自分の持ち物全てを整理した。
梨花は誰にも言わずにJ市で小さなマンションを購入し、荷物を一時的に保管する場所としていた。
家の中には、彼女と健吾との思い出が、徐々に消えていった。
結婚式の前夜、健吾が突然帰宅した。手には、見覚えのある写真を持っていた。
その時、梨花は、最後の荷物の整理をしていた。
随分と物が少なくなった部屋を見て、健吾は自分が間違えて入ってしまったのかと思ったほどだった。
リビングで、顔に埃をつけて子猫のような梨花の姿を見て、彼は安堵した。
「一体どうしたんだ?こんなに散らかして。それに、随分と家の中が寂しくなったな」
梨花は健吾が突然帰ってくるとは思っていなかったので、彼の言葉に思わず固まった。
幸い、ここ数日で、彼女はポーカーフェイスで嘘をつく技術を身につけていた。
「要らない物を片付けているの。結婚式が終わったら、新しい家具を揃えるわ」
健吾は明らかに梨花の言葉の真意を理解していなかったが、梨花はわざわざ説明しようとはしなかった。
彼は優しい笑みを浮かべ、梨花を自分の隣に座らせ、持っていた写真を彼女に見せた。
「俺たちが付き合ってから初めて撮った写真を、修復してもらったんだ。ほら、以前と全く同じだろう?」
梨花は、真新しい写真を受け取った。
満開の梨の花の下で、梨花は微笑んでカメラを見つめ、健吾は横顔で彼女を見つめている。
これは、梨花が健吾と付き合うことを決めた後、初めて正式に撮った写真だった。
しかし先日、健吾のオフィスに飾ってあったこの写真は、清子が飼っている犬に破かれてしまった。
写真の原本は残っていなかったので、もう一度印刷することもできなかった。
このことを教えたのは健吾ではなく、清子が彼からの寵愛を自慢する際に、わざと言ってきたのだった。
今、この写真は、健吾の手によって修復された。
しかし、写真は修復できても、二人の関係は元には戻らない。
梨花は落ち着いた声で言った。「急に、あなたが作ってくれたラーメンが食べたくなったの。今夜、一緒にご飯を食べよう」
あの事件の後、何日も飢えに耐えていた梨花は、ラーメンを2杯も平らげた。
梨花がいつでも好きな時にラーメンを食べられるように、健吾は自らラーメン屋に通い、1ヶ月かけて同じ味を再現したのだ。
梨花はこのラーメンで、健吾との関係に、終止符を打とうとしていた。
健吾は梨花の頭を撫で、即座に承諾した。
しかし、2杯のラーメンが完成してテーブルに置かれた途端、健吾のスマホの着信音が鳴り響いた。
健吾は電話を切ると、それまでのリラックスした表情から一転、深刻な面持ちで、申し訳なさそうに梨花を見た。
言葉にはしなかったが、彼の中ではすでに答えが出ていた。
「梨花、会社で急に……」
梨花はラーメンを眺めながら、笑みを浮かべようとしたが、できなかった。
「仕事の方が大事でしょう。早く行って。時間はまた作れるわ」
健吾は梨花を強く抱きしめ、「梨花、理解してくれてありがとう」と言った。
梨花は笑っていたが、その笑顔は目に届いていなかった。
「梨花、今日は遅くなるかもしれない。待たなくていいから。明日の結婚式で、ウェディングドレス姿の君を見るのを楽しみにしているよ」
梨花は彼の腕の中で、小さな声で言った。「私も楽しみにしているわ……」
花嫁が別人に変わっていたら、どんな顔をするのか、本当に楽しみだわ。
健吾が出て行った後、梨花のスマホに清子からメッセージが届いた。
【梨花、結婚式の前の晩も、彼は私と一緒にいた。あなたに、私と張り合う資格があるか?私に勝てると思ってるの?】
清子は、梨花が返信しないことには驚いていなかったが、それでもしつこく、耳障りな言葉を送りつけてきた。
梨花はスマホの画面を消し、目の前の美味しそうなラーメンを見つめたが、食欲は全く湧かなかった。
感情だけでなく、人の好みも簡単に変わってしまうのだ。
梨花は健吾が持ってきた写真を真ん中から破り、彼の写っている方だけを残した。
全てを終えると、梨花はゆっくりと風呂に入り、ベッドに横たわると、すぐに眠りについた。
ぐっすり眠り、翌朝7時前に梨花は目を覚ました。
スマホで列車の時刻と、宅配便の配送状況を確認し、梨花は機嫌良く荷造りを始めた。
ほとんどの荷物は数日前に送ってしまったので、残りは、これから必要な物だけだった。
全ての荷造りを終えると、梨花はかつて自分が「家」だと思っていた場所を、振り返ることなく去った。
……
一方、健吾は清子のベッドで目を覚ました。彼は胸を押さえたが、胸騒ぎはますます激しくなった。
時計を見ると、健吾は急いで服を着た。
昨夜、清子から電話があり、彼女は泣きながら転んでお腹が痛いと言っていた。
行ってみると、それは清子の気を引くための嘘だった。
しかし、清子に迫られ、健吾はそのまま彼女の家に泊まってしまった。
清子の家を出た健吾は、今日が梨花との結婚式だということを思い出し、幸せそうに微笑んだ。
興奮を抑えきれず、彼は梨花にメッセージを送った。
【梨花、今すぐにでも君に会いたい】
すぐに返信が来た。
【私も同じ気持ちよ。結婚式が始まったら、きっと気に入ってくれるサプライズを用意したわ】
刻一刻と時間は過ぎ、結婚式場には祝福に駆けつけた人々で満席となり、健吾はステージに立ち、梨花との出会いから今日までの愛の軌跡を語っていた。
ロマンチックな音楽が流れ、色とりどりの風船が空に舞い上がり、花嫁は、皆の羨望の眼差しを浴びながら、ゆっくりとステージ上の健吾へと歩みを進めた。
「梨花、俺はこれからの人生をかけて、君を愛し、君を大切にすることを誓う。俺と、一生を共に過ごしてくれるか?」
全員の視線が集まる中、ベールを被った花嫁は大きく頷いた。
健吾は満面の笑みで、花嫁のベールを上げた。
しかし、目の前に立っているのが清子だと分かると、彼の表情は凍りつき、全身を激しい恐怖が襲った。