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終わらない夢に、君を探して
「神谷さん、検査の結果ですが……ステージ4のすい臓がんです。治療を中止すれば、余命はおそらく一ヶ月もありません。本当に、治療を受けない...
Chương (1)
第1章
「神谷さん、検査の結果ですが……ステージ4のすい臓がんです。治療を中止すれば、余命はおそらく一ヶ月もありません。本当に、治療を受けないおつもりですか? ご主人の了承は……?」
「はい、大丈夫です。彼も……きっと、納得してくれます」
電話を切ったあと、私はしんと静まり返った部屋をぐるりと見渡した。
胸の奥が、ひりつくように痛んだ。
ただの胃痛だと思っていた。昔からの持病の悪化だと――まさか、がんだったなんて。
小さくため息をついて、リビングのテーブルに置かれた写真立てに目をやる。
写真の中で、十八歳の神谷蓮がこちらをまっすぐに見つめていた。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
雪の降る帰り道、髪に舞い降りた白い結晶を見つけた彼が、冗談めかして言ったのだ。
「これって、いわゆる『共に白髪の生えるまで』ってやつかな?」
第1話
「神谷さん、検査の結果ですが……ステージ4のすい臓がんです。治療を中止すれば、余命はおそらく一ヶ月もありません。本当に、治療を受けないおつもりですか? ご主人の了承は……?」
「はい、大丈夫です。彼も……きっと、納得してくれます」
電話を切ったあと、私はしんと静まり返った部屋をぐるりと見渡した。胸の奥が、ひりつくように痛んだ。
ただの胃痛だと思っていた。昔からの持病の悪化だと――まさか、がんだったなんて。
小さくため息をついて、リビングのテーブルに置かれた写真立てに目をやる。
写真の中で、十八歳の神谷蓮(かみやれん)がこちらをまっすぐに見つめていた。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。雪の降る帰り道、髪に舞い降りた白い結晶を見つけた彼が、冗談めかして言ったのだ。
「これって、いわゆる『共に白髪の生えるまで』ってやつかな?」
胸が締めつけられるような、かつての幸福の記憶。私と蓮は幼なじみで、十八のときに恋人同士になった。大学を卒業してからは、狭いボロアパートで彼と二人、夢を追いながら苦労の日々を過ごした。
やがて彼の会社は軌道に乗り、私は新しいマンションと車を手に入れた。私はオシャレが好きで、ブランドの新作は毎シーズン届けられた。旅行が好きな私のために、彼は忙しい合間を縫って、よく遠出にも付き合ってくれた。誕生日も記念日も、彼からのサプライズは欠かさなかった。
私が不妊症だとわかったときも、彼は一言も責めることなく、「全部俺のせいだ」と言った。誰もが口をそろえて言っていた。――神谷蓮は、私のことを溺愛しているって。
でも、その彼が、結婚七年目にして――秘書の女と、外にもう一つの家を作った。
彼はその女、望月寧々(もちづきねね)に豪華な一軒家を買い与え、「愛の巣」だなんて言っていたらしい。
毎晩まっすぐ帰ってきた人が、ある日を境に夜帰らなくなり。望月への態度はどんどん甘くなり、私への態度は冷え切っていった。私を見るたび、彼はまるで嫌悪するかのように眉をひそめた。
考えたくもなくて、床に落ちたガラスの破片を拾い始めた。数日前、蓮との口論の末に割ってしまった花瓶の残骸だった。
あの日は結婚記念日だった。私は彼の好物を用意して、家で待っていた。「今日は早く帰る」と言っていたのに、帰ってきたのは午前二時。
――また、彼女と一緒にいたのだろう。
私たちは激しく言い争い、そのとき蓮は、私の心を完全に壊す一言を吐いた。
「芽衣(めい)、俺には子どもが必要なんだ」
それ以上聞きたくなくて、私は家を飛び出した。彼は追ってこなかった。
それから一週間、私は昔の実家に身を寄せていた。そして、ひどい胃痛で病院に行き、現実を突きつけられた。
久しぶりに戻ったこの家は、埃っぽいままだ。蓮もこの一週間、一度も帰ってきていないのだろう。
かがんで破片を拾っていたとき、検査結果の紙がポケットから落ちた。私は手を止めて、それを見つめた。
……彼に伝えるべきだろうか。私が死ぬってことを、彼が知ったら、悲しむだろうか。
自然と目元が熱くなり、それに自分で苦笑する。
――今の彼なら、「ざまあみろ」とでも言うかもしれない。
気を取り直して片付けを続けていたそのとき、不意に部屋の明かりがついた。
眩しさに目を細めながら玄関を見ると、そこには蓮が立っていた。白いワイシャツの襟元には、赤い口紅の跡。
私の顔を見て、彼は軽く眉を上げた。
「もう拗ねるのは終わったか?」
私は答えず、検査結果の紙をそっとポケットに押し戻す。思いがけず彼が帰ってきたせいで動揺していた私は、手を切ってしまった。
慌ててキッチンに走り、水道の蛇口をひねる。
「新手の演技?自傷?ほんと、甘やかされて育ったんだな、お前は!」
もう何も期待していないはずなのに、その言葉が胸に突き刺さる。
――昔の彼なら、こんな口調で私に話すことはなかった。
私が不安になれば、どんなに喧嘩をしても優しく抱きしめてくれた。家出をしても、すぐに探し出して「怒る暇もない」と笑っていた。
「俺はお前を甘やかしたいんだ。だから一生、俺から離れられないようにしてやる」
そう言っていた彼は、もうどこにもいない。
水を止め、薬箱を出して自分で手当てをしていると、蓮が少しだけ声のトーンを和らげた。
「芽衣、もういいだろ。あいつとはただの遊びだ」
「業界の連中も皆そうだよ、家はちゃんと守ってる」
「妊娠して子どもが生まれたら、向こうは海外にでも送るつもりだ」
彼の言葉が終わる前に、スマホが鳴った。
「神谷さん、どこ? 一人で怖いの……早く帰ってきてよ……」
望月寧々の甘えた声が、受話口から漏れ出た。蓮はまるで宝物でも扱うように、優しく彼女をあやしている。
私は何も言わず、包帯を巻き終えた手で、数日放置されていた食事を片付け始めた。
通話を終えた蓮は、私を一瞥もせず玄関へと向かう。
「蓮」
私は背中に声をかけた。
「……今度はなんだよ?」彼は舌打ちをして続けて言った「寧々が熱出してんだ。俺、行かなきゃなんねぇんだよ。くだらないことで――」
「離婚しましょう」
「……は?」
彼は苛立ちを隠さず、こちらを振り返る。
「さっきは自傷、今度は離婚? 何、次は『死にたい』ってか?」
「……もし、ほんとうにもうすぐ死ぬとしたら?」
私がそう呟いたとき、彼は何も言わず、ドアを閉めた。
その音が鳴り終わると同時に、この広すぎる家は、またしても沈黙に包まれた。
腹の奥がきりきりと痛み出す。慌てて薬を取り出して飲み込む。
――痛い。こんなにも痛いのに。
私は彼に伝えたかった。本当に、もうすぐ死ぬんだって。
震える手で、再び彼の番号を押す。けれど、返ってくるのは無機質なアナウンス。
――着信拒否されていた。
私はかすかに笑って、壁のカレンダーを見上げた。
「……今日が、蓮と『さよなら』する、最初の日なんだね」
第2話
数日ほど静養した後、私は馴染みのリユースショップの担当者に連絡し、手持ちの服やバッグ、アクセサリー類をすべて手放すことにした。
「奥さま、神谷社長はほんとに優しい方ですね。昨日、今季の新作をまとめて注文されたばかりなのに、今日にはもう衣装部屋を空けるなんて……」
そんな言葉を聞きながら、私はただ静かに微笑んだ。スマホの画面を指先で滑らせていくと、望月寧々のSNSが表示された。投稿されたばかりの写真には、まさに今季の新作バッグが映っている。
――どうやら、新しい「持ち主」は、もう決まったようだ。
業者を見送ったあと、私は親友の須藤ことり(すどうことり)を誘って「一つ付き合って」とだけ伝え、車を出した。目指したのは、郊外の静かな丘にある霊園だった。
車が霊園の前で止まったとき、ことりは驚いたように私を見る。
「……ここって、墓地じゃないの?」
私は何も言わず、彼女の手を取って管理棟へと向かった。
受付では、丁寧な対応のスタッフがパンフレットと区画図を渡してくれた。
案内を受けながら、私は樹木葬エリアを中心に見学した。桜の木の下、陽当たりのいい場所にある一角がなんとなく気に入って、そこに決めた。そして、その場で仮契約と内金の支払いも済ませた。
私には、もう身寄りがいない。両親は数年前に他界し、兄弟もいない。亡くなったあと、誰かがお墓を訪れることもないだろう。
だったらせめて、自分の最期くらいは自分で準備しておこうと思ったのだ。
……今まで、蓮が稼いできたお金を私はあまり使おうとしなかった。彼のためにと遠慮して、贅沢もそこそこにしてきた。だけど、ようやく「使ってもいい」と吹っ切れたときに、それが自分の墓になるなんて。
――男に尽くす人生なんて、本当に馬鹿らしい。
スタッフに「墓所名義のお名前をお願いします」と言われ、私は迷いなく自分の名前を書き込んだ。
「神谷……芽衣です。自分のために見に来たんです」
驚いた様子の職員と、目を丸くしたことり。その視線を気にも留めず、私は静かに手続きを終えた。
霊園を出たあと、ことりが運転席で怒鳴るように言った。
「芽衣!どういうこと!?なんで自分のお墓なんて見に来てんのよ!?」
その声には、焦りと不安、そして深い恐怖がにじんでいた。彼女は、私が消えてしまうことを本気で恐れている。
私はぼんやりとした目で窓の外を見ながら、淡々と答えた。
「膵臓がん。ステージ4なの。もう……余命、一ヶ月だって」
それはまるで、天気でも話すかのような平静さだった。
本当は、一人で来るつもりだった。
でも――こんなことを一人で抱えていると、あまりにも寂しすぎると思った。
それに、ことりには私の最期をきちんと見届けてもらいたかった。そう思った。
ことりの目に涙が浮かんでいるのを見て、私はふと、少しだけ嬉しくなった。
――ねぇ、蓮。
あなたはもう、私のことなんて何とも思ってないかもしれないけど……
それでも、まだ私を大切にしてくれる人が、ちゃんといるのよ。
しかしその瞬間、腹部を激しい痛みが襲った。
冷や汗が滲み、私は座席に身を倒しながら息を詰めた。
ことりはすぐに「病院に行こう!」と叫んだが、私はかすれた声で「……家に帰りたい」と頼んだ。
怖かった。無機質な病院のベッドも、機械音だけの孤独な空間も。そこで最期を迎えるのが、どうしても嫌だった。
ことりを心配させないように必死に意識を保っていたが、ついに限界がきて、私はそのまま意識を失った。
ぼんやりと意識が戻りかけたとき、隣で誰かが叫んでいるのが聞こえた。
「神谷蓮!あんたって人は……!今すぐ帰ってこい!この最低男!」
ことりの怒鳴り声だった。
蓮が家に戻ったとき、ことりの姿はもうなかった。
私は一人、ソファに座って、両手で湯呑みを握っていた。
たった数日で、すっかり痩せてしまった。以前はちょうどよかった服も、今では身体の上でぶかぶかしている。
――この病気は、本当に人を蝕んでいく。
「また何の茶番だ?いい加減にしてくれ。俺がどれだけ忙しいか分かってるのか?」
蓮は苛立ちを隠さずに眉をひそめた。
私は何も言い返せなかった。
そのとき、再び玄関のドアが開く音がした。入ってきたのは望月寧々で、手には果物の入った袋を提げている。
私が何か言う前に、彼女の方から急いで口を開いた。
「奥さま、私が無理に来たんです。午後、神谷さんと街で買い物してたときに、あなたが倒れたって聞いて……心配で……」
――つまり「忙しかった」って、愛人とデートしてたってこと?
私は鼻で笑った。
「何その態度……!」
蓮の眉間にシワが寄る。「芽衣、お前、いつからそんな礼儀知らずになった?」
「あなたの『礼儀』って、妻を裏切って外で浮気すること?」
私の冷たい一言に、彼は言葉を失った。
「奥さま、ごめんなさい。全部私が悪いんです。神谷さんを責めないでください……」
望月寧々の声は泣きそうに震えていたが、その表情にはどこか勝ち誇ったような余裕がにじんでいた。
「ご迷惑ですよね……今すぐ帰ります」
その瞬間、蓮が怒鳴った。
「俺も一緒に行く!こんなヒステリックな女がいる場所なんて、もう家じゃない!」
怒りに満ちた蓮の表情を見た瞬間、私はふと、引っ越してきた初日を思い出した。
あの日、彼は私の手を引いて、家の隅々を一緒に回ってくれた。
ソファに並んで座りながら、彼は言っていた。
――「お前がいる場所が、俺の帰る家だ」
それなのに、今の彼は「ここは家じゃない」と言い捨てた。
私は湯呑みを握りしめ、視線を落としたまま、必死に涙を堪えた。
蓮は彼女の手を取り、部屋を出ていこうとする。
だが、そのとき、電話の着信音が鳴った。彼は数秒ためらったのち、スマホを持ってベランダに出ていった。
蓮の姿が見えなくなると、望月寧々の表情が一変した。
ふっと肩の力を抜き、目線をテーブルの花瓶へと向けた。
「百合に変えたんですね。あなた、確かヒナギクが好きだったんじゃなかった?」
私は眉をひそめた。――どうしてそれを……?
「まさか、私が初めて来たと思ってる?」
彼女は微笑みながら、部屋の中を見渡した。
「このソファも、キッチンも、書斎も、そして……あなたたちのベッドさえも。私はあなたが思ってる以上に、この家のことをよく知ってるわ」
氷水を頭から浴びせられたような感覚。私はその場で凍りついた。
この家の家具はすべて私がこだわって選んだもの。
でも今は、それらすべてが吐き気を催すほどに汚らしく見えた。
「そうそう、書斎の椅子、もう変えた?あれ、ちょっと座り心地悪かったのよね……」
――もう耐えられなかった。
私は手を振り上げ、彼女の頬を打った。
パチンという音が室内に響く。望月寧々の頬が真っ赤に腫れ上がる。
彼女はかすかに笑みを浮かべた後、突然しゃくりあげるように泣き出した。
「奥さま……ごめんなさい……次はもうしませんから……」
その直後、荒々しい力が私を突き飛ばした。
「芽衣、お前また何してるんだ!?」
第3話
蓮は望月寧々をしっかりと腕に抱き寄せた。声を出そうとしたけれど、喉の奥が締めつけられ、何も言葉にならなかった。
涙が頬をつたう頃には、もう彼の背中は遠ざかっていた。私は、どうしても今の彼を、あの十八歳の少年と重ねることができなかった。
――あの日、雪が降る駅前で「ずっと一緒に白髪になるまで」と笑ったあの人とは、もうまるで別人だ。
「……芽衣、もしお前が本当に死にそうだったとしても、俺は同じことを言うと思うよ」
彼は一度も振り返らず、そう言い残して出ていった。
「死んでくれるなら、やっと静かになる。だったらさっさと死ねばいい」
その瞬間、全身から力が抜け、私はその場にへたり込んだ。
……ああ、この人、本気で私が死ぬことを願ってるんだ。
それからというもの、蓮は二度と家に戻ってこなかった。私ももう、何も期待していなかった。
遺品整理リストを作り、遺影用の写真を撮り、最期に着る服を買いに行った。
数日後、写真屋の店主から「現像できましたよ」と連絡を受け、私は受け取りに向かった。
帰ろうと角を曲がったところで――蓮と望月にばったり出くわした。
「……何してる。まさか俺を尾行でもしてるのか?」
くだらない言い合いはしたくなかった。腹の奥がまた疼きはじめていて、私はただその場を去りたかった。
「神谷さん、奥さま、写真を撮りに来たみたいです」
望月がそう言って、私の手元にある封筒に手を伸ばそうとした。私は思わず一歩引いた。
「奥さま、見られたくないみたいですね。そんなに秘密にして……もしかして、何か隠してるんじゃ?」
彼女の声音は一見控えめで、けれど含みをもったその言葉に、蓮が目を細めた。視線が私の腕の中の写真フレームへと向かう。
「何を隠してる?」
痛みがどんどん強くなる。それでもここで立ち去ることだけを考えていたのに、蓮が私の手首をぐっと掴んだ。
その瞳にあるのは、かつての優しさではなかった。あるのは――嫌悪と疑念。
でも、私はもうその目に傷つくような女ではなかった。
「別に……あなたには関係ないことよ」
私は静かに彼の手を振りほどこうとしたが、彼は封筒を掴んで離さなかった。その拍子に写真フレームが落ち、袋から滑り出た中身が地面に露わになった。
――私の遺影。モノクロの、それはもう「別れの準備」だった。
「……え? これ……白黒写真?」
望月が驚いたように言う。けれど、彼女の唇はわずかに笑っていた。
私はただ、その写真を見つめた。
――やっぱり、見られてしまったか。
彼は、これを見て後悔するだろうか。こんなにも冷たくしたことを、少しでも悔やむだろうか。
「これが……お前の『隠し事』か?」
冷ややかな声が響いた。
蓮の顔には、一切の哀しみも、動揺もなかった。あるのは、ただ冷酷な静けさ。
「……今度は本気で死ぬつもりか?」
かつて、私が咳をしただけで心配で眠れなかった人が――今の彼は、私の死すら「芝居」だと疑っている。
私はふと、笑ってしまった。
「ダメかしら? 少しくらい後悔するあなたの顔、見てみたかったの」
「じゃあ勝手に死ねよ」
そう言い捨てて、彼は私を突き飛ばし、振り向くこともなく歩き出した。
その瞬間、もう限界だった。私は崩れるように地面に倒れた。
「奥さま!?」
周囲から驚きの声があがる。望月が駆け寄り、私の身体を抱き起こした。
そして、私の耳元にそっと囁いた。
「見たでしょ? あの人はもう、あなたが死んでも微塵も動じない。……あなた、もう愛されてないのよ」
私は残された力で、彼女の手を振り払った。
その瞬間――
「……やめろ、寧々。構うなよ。どうせ、また芝居だ」
蓮の声がした。振り返りもせず、冷たい声で吐き捨てた。
「演技が好きなら、勝手に一人で演じてればいい」
私は通りすがりの人に助けられて、どうにか家へ戻った。
ソファに倒れ込むようにして、やっと一息つく。
痛み止めを飲んで、少しだけ腹の痛みが和らいだ。
けれど、心の中は真っ暗なままだった。
目を閉じると、あの言葉が何度も何度もよみがえる。
――「じゃあ、勝手に死ねよ」
私は思い出す。あの冬のことを。
私は重い肺炎にかかって、何度も危篤の宣告を受けた。お金もなくて、彼は親戚や友人の家を回り、頭を下げ続けた。
何度も断られ、罵倒されて、それでも必死だった。
そんな彼が、ある日、病室で私の足元に膝をつき、泣きながら手を握った。
「芽衣……お願いだ、薬を飲んで。……死なないでくれ」
――あの時、あんなにも私を生かそうとしてくれた人が、今は誰よりも私の死を願っている。
壁のカレンダーを見上げる。余命の「ひと月」は、もうすぐ終わる。
……良かったね、蓮。あなたの望んだ通りになる日が、もうすぐ来るわ。
第4話
日々は、ただ静かに過ぎていった。
けれど、私の身体は確実に蝕まれていった。
眠気に勝てないことが増え、痛みも徐々に頻度を増していった。
ことりは「うちに来て」と言ってくれたけれど、私は首を横に振った。
――誰にも気を遣いたくなかった。
ただ一人で、穏やかに終わりを迎えたかった。
けれど、望月寧々は、そんな私を放っておこうとはしなかった。
彼女は頻繁にメッセージを送ってきた。
蓮との旅行の写真、ラグジュアリーホテルのペアルック自撮り、そして――彼の寝顔。
どれも、これまでの私だったら心を抉られるような写真ばかりだった。
けれど不思議と、何も感じなかった。
……そう、あの日までは。
ある日、彼女から一枚の写真が届いた。
それは――私と蓮が昔住んでいた、あの思い出の家だった。
動揺しながらも【これは何?】と打とうとした瞬間、彼女からの新たなメッセージが届いた。
【プレゼント。】
嫌な予感がして、私は慌てて蓮に電話をかけた。
しかし、応答はない。
いても立ってもいられず、私はタクシーを拾ってその家へと向かった。
――あの家は、私たちがボロアパートから抜け出して、初めて手に入れたマイホームだった。
彼の会社が少しずつ成長し、ふたりで夢を語り合いながら暮らした大切な時間。
そのすべてが、あの場所に詰まっている。
彼が高級マンションを買ってくれても、私はこの家だけは手放さなかった。
思い出の詰まった、私たち「だけ」の居場所だった。
到着して目に飛び込んできたのは、開け放たれた玄関と、出入りする工事業者の姿だった。
中はひどく荒れていて、床にも壁にも養生シートが敷かれ、家具もすでに運び出されていた。
――私は、崩れた。
「やめて!やめてください!」
必死に声を上げたけれど、誰も耳を貸さない。
混乱する中、私は蓮に何度も電話をかけた。
十数回目、ようやく彼が出た。
「……ああ、あの家、リフォームしてる」
「寧々が住みたいって言うから」
その一言で、胸の奥が、音を立てて崩れ落ちた。
蓮がやって来たのは、すでに深夜1時近くだった。
業者たちはすでに帰った後だった。
私はそこで、5時間以上待っていた。
でも、それすらも、もうどうでもよかった。
「……なんで、こんなことするの。あの家がどんな意味を持ってたか、あなただって知ってたでしょ?」
私の声は震えていた。
知っていたはずだ。
喧嘩しても、彼が帰ってこない夜でも、私はあの家でずっと待っていた。
忘れられない日々と、祈りと、想いのすべてが、あの空間に刻まれていた。
それを、彼は――壊した。
すべて知っていながら。
すべて、「彼女が欲しいと言ったから」。
蓮は何も言わなかった。
代わりに、背後からハイヒールの音が近づいてきた。
望月寧々だった。
「奥さま、ごめんなさい。悪いのは全部、私なんです」
「最近、会社が忙しくて、ちょっと会社の近くに住めたらいいなって思っただけで……」
「神谷さんが、『ちょっと古いけど、使ってない家がある』って言ってくれて。リフォームすれば住めるって……」
「まさか、そんなに大切な場所だとは知らなかったんです。本当に……すみません」
そう言って、彼女はゆっくりと家の中に入ってきた。
「……あらら、もうこんなに壊しちゃってたんですね……」
小さく溜息をつきながらも、その口元には微かに笑みが浮かんでいた。
――わざとだ。
私は拳を握りしめた。
すると蓮が私の前に立ちふさがった。
「……たかが家ひとつで。今度は暴力か?」
「『たかが』? あなたにとっては家も私も、『壊れてもいいもの』なんだね」
私の言葉に、彼は何も答えず、望月の腕を引いた。
「寧々には仕事があるんだ。くだらないことで騒ぐな」
「場所が気に入ったなら、新しく買ってやるよ」
「いらない」
私は目を赤くして彼を見た。
「私は、この家じゃなきゃ嫌なの」
蓮の表情が険しくなる。
「芽衣……いい加減にしろ」
「奥さまを責めないでください。私が……悪いんです」
望月が彼の手を握る。
「じゃあ、お金でお詫びします……」
「何で償うの? あなたが何を出そうと、この場所は返ってこないのよ!」
私は彼女を突き飛ばした。
彼女はよろめき、壁に手をぶつけて小さな擦り傷を作った。
「……あっ」
彼女が眉を寄せた瞬間、蓮は焦った様子で彼女の手を取った。
「芽衣……お前、ほんとに狂ってきてるな!」
「この家が欲しい? いいか、はっきり言ってやる」
「絶対に渡さない」
「この家は、俺が金を出して買った家だ。どうしようが俺の自由だ」
「それと、勘違いするなよ。今、お前を養ってるのは誰だと思ってる?」
第5話
蓮は望月を連れて、そのまま出ていった。
私は玄関の外の壁にもたれかかり、息を整えようとしていた。
胸がきゅっと締めつけられて、うまく呼吸ができなかった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
メッセージは、望月からだった。
【私の勝ちね。】
【これからあなたが持っていたもの、全部、ひとつずつ奪っていくつもりよ。】
私は無言で画面を閉じ、スマホの電源を落とした。
そして、ゆっくりとあの家の中に戻った。
すでに家具は何もなかった。
床は剥がされて凹凸ができ、陽の当たるバルコニーの隅には、望月好みの淡いピンク色の塗料が未開封のまま置かれていた。
室内はがらんとして、何ひとつ残されていなかった。
私が一番好きだった出窓の台は、無残にも砕かれ、
お気に入りだった小花柄のテーブルクロスは、ゴミ袋の中にくしゃくしゃに詰められ、
蓮とふたりで選んだカーテンは、今や誰にも見向きもされず、外のゴミ捨て場に丸めて放り込まれていた。
私は部屋の中を何度もぐるぐると歩き回った。
そして、ようやく現実を受け入れた。
もう、ここは私たちの「家」ではない。
最後に一度だけ、玄関から振り返ってその場所を見つめ、私は何も言わず、背を向けて歩き出した。
家に戻ると、ふと、望月が言っていた言葉が思い出された。
この別荘の家具も、あれこれと彼女が口にしていたものだ。
私はすぐにリユース業者へ連絡し、彼女に触れられたものをリストアップして、すべて処分した。
もう、私の残された時間には、何ひとつ邪魔されたくなかった。
業者を見送る頃には、深夜になっていた。
汗ばむ身体のままカーペットに寝転び、私は初めて、心からの安堵を感じていた。
カレンダーは毎日、紙を削るように薄くなっていった。
でも、驚くほどに、私の心はどんどん澄んでいった。
痛み止めを飲む回数は増え、意識がはっきりしている時間は短くなっていった。
けれど、ある日、ふと身体が軽く感じられた。
その日、私は郵便屋さんに二つの封筒を託した。
ひとつはことり宛て。
中には私の想いと、名義財産の明細。
私の最後の整理は、すべて彼女に託した。
もうひとつは――神谷蓮宛てだった。
中身は、すでに署名を終えた離婚届。
たとえ死ぬとしても、私はこの人との縁を、すべて断ち切りたかった。
もう顔を合わせる必要も、言葉を交わす必要もない。
彼はきっと、すぐに署名するだろう。そう確信していた。
すべてを終えた私は、庭に出て日向ぼっこをした。
風は心地よく、空は高く晴れていて、
陽の光が、少しだけ背中を押してくれるようだった。
鏡を見たとき、あまりの顔色の悪さに驚いた私は、久しぶりに口紅を塗ろうと思った。
寝室の引き出しを探していたとき、ある古いノートが見つかった。
日記帳――だった。
すっかり忘れていた。
手に取ると、表紙にはうっすらと埃が積もっていた。
開いてみると、そこには若い頃の私の文字が、たくさん並んでいた。
蓮と恋に落ちたあの日のこと。
彼の不器用な告白、大学生活、起業の奮闘、成功の瞬間――
一ページ一ページに溢れるように言葉を書いていた私。
読み進めるうちに、自然と口元がほころんでいった。
けれど、ページをめくるごとに、文字は少なくなっていき――
最後のページには、たった一行。
【今日も帰ってこなかった】
日付を見ると、もう数年前のものだった。
それ以来、私は日記をつけるのをやめてしまったらしい。
このノートごと、記憶の奥にしまい込んでいた。
私は迷いながらも、ペンを取り、久しぶりに文字を書いた。
書き終えた頃には、空が赤く染まり始めていた。
また腹部が痛み出したので、慣れた手つきで薬を数粒飲み込んだ。
カーペットに寝転ぶと、少しずつ痛みが薄れていくのがわかる。
そして、身体がふわりと軽くなる。
まどろみの中、私は幻を見た。
――雪が降っている。
その中を、十八歳の神谷蓮が、こっちへ向かって走ってくる。
鼻の頭を真っ赤にしながら、それでも笑顔を浮かべている。
彼が手を差し伸べてくる。
その瞳は、まっすぐで、やさしくて。
私はその手に、自分の手を重ねた。
そして――一緒に雪の中へ、駆けていった。
第6話
神谷蓮がその荷物を開けたのは、届いた翌日のことだった。
前日の午後にはすでに配達されていたのに、宛名を見ただけで無造作に玄関の棚に放り投げていた。
それを思い出したのは、望月が一言口にしたからだった。
「……あの封筒、開けないんですか? もしかして奥さま、怒って送ってきたのかも……」
神谷蓮が封を切ると、中には離婚届が入っていた。
しかも、すでに署名まで済ませてある。
「……離婚? なんだよこれ、子どもじゃあるまいし……」
彼の声には呆れと苛立ちが混じっていた。
「奥さま、お怒りになってるんですよ。たぶん、あの家のことじゃないかと……」
「でも神谷さん、ちゃんと説明しましたよね? 私が仕事の都合で住みたいって言っただけだって。奥さま、きっとわかってくれるはず……。やっぱり、私、引っ越すのやめましょうか?」
その一言が、神谷蓮の怒りに火をつけた。
「……なんでだよ。なんでお前が我慢しなきゃなんねぇんだ」
「いいか、あの女、今回ばかりは俺が思い知らせてやる。施工業者に連絡しろ、工事のペース上げろって伝えとけ!」
怒りに満ちたその命令に、望月は満足そうな笑みを押し隠しながら、かすかにうなずいて部屋を出て行った。
――もっと騒げばいい。
神谷芽衣が暴れれば暴れるほど、自分の立場は確実になる。
神谷蓮は離婚届をテーブルの上に放り投げ、スマホを手に取って芽衣に電話をかけた。
だが、コール音が鳴るばかりで誰も出ない。
何度かけても同じだった。
とうとう彼は、「直接確かめに行く」とばかりに、車を出した。
――どこまで騒ぐ気だ?
離婚したいって言うなら、いいさ。望みどおりにしてやる。
家に着くと、人気はなかった。
家具も、明らかに減っていた。
彼は気に留めることもなく、声を張り上げた。
「……芽衣?」
返事はない。
階段を上がり、寝室に向かう。
クローゼットはがらんどうで、かつて芽衣が「絶対に飾っておきたい」と言っていた彼からの贈り物も、すべてなくなっていた。
なぜか――胸の奥が、ひどく冷えた。
そこに残っていたのは、ひとつの古びたノートだった。
角はすっかり黄ばんで、表紙も少し剥がれていた。
蓮は何気なくそのノートを手に取った。
開いた最初のページには、丁寧でかわいらしい文字で、ふたりの名前が書かれていた。
間には、子どもっぽいハートのイラスト。
十八歳の頃、芽衣がよくやっていたことだ。
そういえば、あの頃の芽衣は毎日欠かさず日記を書いていた。
彼が「見せてよ」と頼んでも、彼女は絶対に見せてくれなかった。
だから彼は、芽衣が寝たあとにこっそりと日記を読み、元に戻しておくのが習慣になっていた。
その中には、彼のことばかりが綴られていた。
けれど、会社が忙しくなってからは、そんな習慣も自然と消えていった。
彼女が書斎で何かを書いている姿を、何度か見かけたことはあった。
けれど、いつの間にか――それも見なくなった。
神谷蓮は、ノートをぱらぱらと無造作にめくった。
「こんな、女の独りよがりな感傷になんて付き合ってられるか」
そう思って、ページを一気に最後へめくる。
そして、そこにあった、たった一行の言葉が目に入った。
「神谷蓮、さようなら」
彼はじっとその文字を見つめた。
胸の内に、静かに、けれど確実に燃え上がる怒りの火。
彼はノートを乱暴にゴミ箱へ放り込み、靴を履いて玄関を飛び出した。
「また家出かよ! 馬鹿らしい……」
彼女は自分を何だと思ってるんだ? 子どもか?
こんな茶番で自分を脅すつもりなのか?
……呆れる。
再びスマホを取り出し、今度こそ着信拒否に設定しようとしたときだった。
彼女から電話がかかってきた。
神谷蓮は冷たく笑って通話ボタンを押す。
「おいおい、家出はどうした? もう降参か? 一日しかもたなかったとはな」
……だが、返事はなかった。
沈黙が続いたあと、かすかに震える女性の声が聞こえた。
「……私だよ、須藤ことり」
「……すぐに、斎場まで来て」
「……芽衣、亡くなったの」