初恋は白く、傷痕は紅く

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初恋は白く、傷痕は紅く

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「千尋(ちひろ)、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度...

Chương (1)

第1章

「千尋(ちひろ)、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」 薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。 「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」 「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」 スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。 「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」 帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。 「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」 「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」 千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。 彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。 怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか? 第1話 「千尋、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」 薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。 「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」 「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」 スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。 「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」 帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。 「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」 「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」 千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。 彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。 怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか? 星野晴美――怜の忘れられない初恋の人。かつて怜と晴美が婚約するという噂は、この界隈では誰もが知っていることだった。しかし晴美が海外へ留学したため、その話は立ち消えとなった。 落ち込んだ怜は癒しを求め、彼に片思いをしていた千尋との電撃結婚を決めた。以来、六年の月日が流れた。 あの日の結婚式を千尋は鮮明に覚えている。タキシード姿の怜がひざまずき、自分がデザインした指輪を差し出した。 「千尋、愛してる。俺は一生、君だけを愛する。俺の心にまだ晴美がいると思っているかもしれないけど、大丈夫だ。この先の人生で必ず証明する。俺の心には相原千尋しかいないってな。結婚してくれないか?」 その言葉は決して嘘ではなかった。 結婚してからの六年間、怜は本当に千尋だけを愛していた。彼女が不安にならないよう、女性がいる飲み会には一切参加しなかった。記念日やイベントごとには必ず彼女が喜ぶサプライズを用意し、毎朝二人の写真を撮り、老後に振り返る楽しみにしていた。 ――三か月前に晴美が帰国するまでは。 晴美の帰国を千尋も承知していた。怜が彼女を手伝いに行くのも千尋自身が認めたことだった。 だが次第に怜の様子がおかしくなり、帰宅が遅れる日が増えていった。 二か月前、結婚六周年の記念日。 「千尋、会社で大きなプロジェクトがあるから、終わったら改めて祝おう」 しかしその日、晴美のSNSにアップされた写真を見て千尋は初めて眠れない夜を過ごした。そこに写る指の小さなほくろは、間違いなく怜のものだった。 一か月前のバレンタインデー。 「特大の花火をあげるよ。帝都中に俺が千尋を愛してると知らせるんだ」 だが花火を見ている途中、怜は電話一本でまた去った。 その夜、晴美から怜とベッドで過ごした写真が千尋に送られてきた。 『私が帰ったのよ。いつまで江藤怜の妻でいるつもり?』 怜が言う「仕事」や「トラブル」は、いつも晴美に会いに行くための口実だった。 晴美がいない間は、自分を騙せた。だが晴美が戻ってきた今、もう自分を騙すことはできない。 千尋は美しい夢から目を覚ましたのだ。 手放すことを恐れない。もう怜はいらない―― 第2話 「千尋、朝だよ」 翌朝、千尋は怜のキスで目を覚ました。彼女が目を開けると、怜はいつものようにベッドサイドのカメラを持ち上げ、横たわる二人を写真に収めた。 怜の笑顔は輝いていて、瞳には星が散りばめられているようだった。「今日は随分寝坊したね。さあ起きて。会社は休みを取ったんだ。千尋に小さなサプライズを用意してあるよ」 千尋はベッドに横たわりながら、怜の首筋に残る薄くなったキスマークをじっと見つめ、素直に頷いた。「うん」 身支度を整えると、千尋は怜に手を引かれて家を出た。玄関を出る前に、怜は彼女を抱き上げ、優しく車まで運んだ。 「目隠ししてね。秘密の場所に行くんだ。きっと気に入ると思うよ」 車は街を抜け、三十分後に静かに停まった。 怜はドアを開け、千尋の手を取り、優しく彼女の頭を守りながら車外へ導いた。 「目隠しを取っていいよ、俺のお姫様」 目隠しを外した瞬間、視界いっぱいに広がる薔薇の花畑が目に飛び込んできた。 「気に入った?」怜は期待に満ちた表情で尋ねた。 「綺麗だね」千尋はただそれだけを答えた。 実際のところ、この場所のことは既に知っていた。数日前、晴美から写真が送られてきたのだ。 『綺麗でしょう?大学時代、怜が私のために作ってくれた秘密の薔薇園なの。ずっと残しておいてくれたのね』 千尋は何も返事をしなかったが、今、晴美の言葉の意味をようやく理解した。 自慢げに語る怜の横顔を見て、千尋はそっと目を閉じた。 怜は千尋の沈黙には気付かず、嬉しそうに続けた。「これからはここが俺たちの秘密基地だよ。子供が生まれたら一緒に来ようね」 そんな未来はもう来ない。 そのとき、怜のスマホが鳴った。画面に映ったのは『最愛』と書かれた名前だった。 怜は千尋の反応を伺い、彼女が平然としているのを確認すると安心したように微笑んだ。「秘書からだ。会社の急用かな、ちょっと待ってて」 「うん」千尋は静かに答え、薔薇の海を眺め続けた。 離れた場所で電話を取った怜の表情は柔らかく、愛おしげだった。風に乗って、途切れ途切れに怜の声が聞こえてくる。 どうやら晴美は悪夢を見ただけで電話をかけてきたらしい。 『ピコン』 千尋のスマホに通知が届いた。彼女はゆっくりと視線を落とし、震える手でスマホを握りしめた。 胸が締め付けられ、まるで地獄へ引きずり込まれるようだった。 第3話 『妊娠したの、怜の子よ』 短いその言葉は、鋭い矢のように千尋の胸を貫いた。 彼女はスマホを閉じ、それをポケットにしまうと、こちらに戻ってくる怜を無言で見つめた。 喉に綿でも詰まったかのように言葉が出てこない。 怜の顔には罪悪感とわずかな苛立ちが浮かんでいた。「千尋、先に戻ろう。会社のことで急用ができたんだ。今度またちゃんと時間作るからさ、な?」 本当に会社の用事なのか。それとも、晴美が寂しがっているのだろうか。 千尋は問い詰めたかった。だが、その言葉は喉元で凍りついたまま出てこなかった。 ただ静かに頷き、内心では皮肉を含んだ笑みを浮かべていた。 あの結婚式で、「一生千尋だけを愛す」と誓った男は、もうどこにもいなかった。 もしも六年前の怜が今の怜を見たら、どうするだろう。 拳を振るうのか、それとも晴美をもう二度と手放すなと背中を押すのか。 怜は言い訳を用意していたに違いない。だが、それを口にする暇もなかった。 素直に頷いた千尋を見て、怜の胸には言いようのない不安が広がった。 まつ毛に涙を宿す千尋を見て、怜は慌てたように声を上げた。「千尋、どうしたの?誰かに何か言われた?」 千尋は何も言わなかった。自分で口を開けば、浮気の理由を問い詰めてしまいそうで、それがもう意味のないことだとわかっていた。 静かに首を横に振り、冷たく言った。「ううん、何も」 その反応を、怜は自分の約束を守れなかったことへの怒りだと誤解した。 彼は千尋の腰に腕を回し、甘えるように耳元で囁いた。「ごめん、千尋。今日は本当に予想外だったんだ。君の誕生日には、絶対に特別なサプライズを用意するよ。楽しみにしてて」 千尋が返事をする間もなく、怜のスマホが再び鳴った。 内容は見えなかったが、彼の呼吸が乱れるのを千尋は感じ取った。 怜はもう千尋の表情すら気にせず、彼女の手を引いて車に戻ると、自宅まで送り届けた。 「今夜は先に寝ててね。ソファで待ったらだめだよ。君が疲れちゃうと、俺、すごく心配になるから」 別荘が見える場所で車を停めると、怜は「じゃあね」とだけ言って車を飛ばしていった。 千尋は無言でその車を見送り、一台のタクシーを止めて運転手に言った。「さっきの車、追ってください」 タクシーは路地を曲がりながら怜の車を追いかけ、やがて一軒の一戸建の前で止まる。 怜が慣れた手つきでドアを開け、待っていた晴美と抱き合う姿を、千尋はただ黙って見つめていた。 長い時間をかけてタクシーで帰宅し、家に入った千尋は、壁に並ぶ写真をしばらく見つめていた。 その全てを外し、怜が六年間撮りためたアルバムと一緒に暖炉に放り込んだ。 火は瞬く間にそれらを焼き尽くし、やがて灰だけが残った。 その夜、千尋は一睡もできなかった。 目を閉じれば、昼間のあの光景が何度も浮かんできた。 ——あと29日。 あと29日で、千尋は怜と永遠に別れる。 第4話 翌朝、怜が戻ってきたとき、千尋は朝食をとっていた。床には昨日の灰がまだうっすらと残っていた。 「千尋、昨日何か燃やしたのか?」怜が尋ねる。 「うん、あなたの誕生日も近いから、何か作ってみたの。でもあまりにも出来が悪くて、燃やしちゃったの」 「千尋が作るものが下手なわけないよ。どんなものでも、俺は大好きだよ」 そう言って怜は千尋の後ろからそっと抱きしめ、甘い言葉をささやいた。 かつてはその行為に千尋も微笑み返していた。でも今は、ただ吐き気しか感じなかった。 クチナシの香水の匂いが鼻をつき、千尋は怜の服に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。 その視線に気づいた怜は、わざとらしく咳をして言い訳を始めた。「昨日、助手がコーヒーをこぼして、仕方なく着替えたんだ」 「そう……別に説明しなくてもいいわ」 「どうして説明しないでいられるんだ?」 怜は気が緩んだように微笑み、千尋の鼻先をつついた。「うちの千尋は焼きもち焼きなんだから。説明しなかったら、また怒るだろう?」 それ以上話が広がるのを避けるように、怜は話題を変えた。 ふと家の中を見回し、怜は違和感に気づいた。「あれ?写真が全部ない。カップやクッションも……どうしたの?」 「埃がたまるからしまったの。カップもクッションも古くなったから同じくね」 「そっか……」 怜は何かがおかしいと思いながらも、はっきりとは気づけず、それ以上問い詰めることはなかった。 彼は千尋の指を絡めながら言った。「千尋、もう誕生日プレゼント用意してあるんだ。きっと気に入るよ、楽しみだろ?」 千尋はその言葉に期待などしていなかった。 怜の心はもうここにはない。どんな贈り物も、千尋には無意味だった。 それでも、千尋はゆっくりと頷いた。 その無言の返答に怜は安心し、未来の計画を楽しそうに語り出す。「千尋、ずっとオーロラを見たいって言ってたよね?今度一緒に見に行こうよ」 千尋は何も答えず、怜の描く「もう存在しない未来」をただ黙って見つめていた。 そのときスマホが震え、怜はちらりと千尋を見てから電話に出た。 かすかに聞こえる女の声。「怜、赤ちゃんがあなたに会いたがってるの。来てくれる?」 晴美の声だった。 怜は眉をひそめた。断ろうとしたが、「初めての子ども」の七文字が喉をふさぎ、結局「わかった」とだけ返した。 電話を切って振り返り、怜は申し訳なさそうに言った。「千尋、ごめん。会社が……」 「会社でしょ?」千尋は冷たく微笑んだ。「大丈夫、行ってらっしゃい」 「本当にごめんね。落ち着いたら、ちゃんと時間作るから」 怜は千尋を力強く抱きしめた。その腕はまるで彼女を自分の中に閉じ込めようとするかのようだった。 深い愛情を語りながら、怜はあっさりと家を後にした。 戻ってきてから、わずか三十分も経っていなかった。 千尋はスマホに届いた晴美からのメッセージを見つめ、皮肉な笑みを浮かべた。 『結婚して六年?たった一本の電話で怜は私の元へ来る。あなたなんて、私の代わりでしかなかったのよ』 第5話 ——そう、私はただの代役だった。 たった六年大事にされたからといって、怜が晴美を忘れてくれるとでも?一生私だけを愛してくれると、どうして思ってしまったのだろう。 「だから言ったのに、自分の気持ちを預けちゃだめだって……ほら、また聞かなかったんだから」 空虚な別荘に、千尋の苦い独り言が響く。 それからの日々、千尋と怜の間には、まるで無言の取り決めでもあるかのような静かな日常が続いた。 千尋は静かに荷物をまとめ、怜はもはや言い訳すらしない。朝早く出かけて、夜遅く帰る彼の体からは、いつもクチナシの香りが漂っていた。 気づけば半月が過ぎ、千尋の誕生日がやって来た。 怜は今回は約束を忘れていなかった。彼は千尋を新しく購入した別荘に連れて行った。 いつものように優しい眼差しで言った、「千尋、この別荘、君が好きだって言ってたろ?だから買ったんだ。誕生日プレゼントさ。どう?」 千尋は何も言わず、静かに周囲を見渡した。 煌びやかな照明、天井から垂れ下がる彩色のリボン、ホールの中心には巨大なバースデーケーキ。 「おいおい、怜さん、愛が重すぎるって!別荘丸ごと誕生日プレゼントって、涙出るよな、奥さん!」 「お前は黙って酒でも飲んでろ、千尋が驚くだろうが」 怜は笑いながらたしなめるが、その言葉を否定はしなかった。 かつてなら、千尋は顔を赤らめて笑い、怜を褒めていた。 だが今の千尋には、もうそんな気持ちは湧いてこなかった。 何を褒めるというのだろう。 罪滅ぼしで買ったこの別荘を?それとも、晴美と逢瀬を重ねながら巧みに時間をやりくりしていることを? ただ、微笑むだけ。 その千尋の表情に、怜は何かを感じ取ったが、考える間もなく会場が静まり返った。 「遅くなってごめんなさい。千尋さん、誕生日おめでとう」 女の声が響く。——晴美だった。 千尋と怜は思わず入り口を振り向く。 晴美は美しく着飾り、まるで主役のような輝きを放っていた。 堂々と歩み寄ってきた彼女は、挑発めいた笑みを浮かべながら口を開いた。 「千尋さん、今日はあなたの誕生日。私からのプレゼントは……そうね、怜の好み、全部教えてあげるわ。七年付き合ってたから、全部知ってるの」 「晴美、やめろ」 怜の声には戸惑いと苛立ちが混ざっていた。 「もう、怜ったら」 晴美はふわりと笑い、小腹をなでながら話題を変えた。「本当は怜の友達ともゆっくり話したかったんだけど、今は妊娠中だし、お酒は控えなきゃ。 ねえ千尋さん、この別荘案内してくれない?」 「……ごめんなさい。私もここ、あまり詳しくなくて」 事実を口にしただけだったが、晴美の顔色は一瞬で曇る。 「私のこと、まだ怒ってるの?」 「私は……」 「千尋、晴美が退屈してるんだ。ちょっと案内してやってくれ。そうだ、上の階で映画でも観てきたらどうだ?」 怜の声が少し強くなる。「千尋、言うことを聞いて」 ——その言葉を、千尋は何度聞いたことだろう。 以前なら、仲直りのためにそう言っていた。「千尋、言うことを聞いて。俺が悪かったから」 でも今は違う。 彼が言う「言うことを聞いて」は、晴美を楽しませるための命令だった。 千尋は怜をじっと見つめ、やがて静かに頷いた。 「……わかった」 ——あと14日。 もうすぐ、ここを去る。 それまでの間、「ガイド役」くらいは務めよう。 千尋は心の中で、そう自分に言い聞かせた。 第6話 千尋は晴美を連れて二階へ上がった。 二階に到着した途端、晴美は足を止め、お腹に手を添えながら柔らかな笑みを浮かべて千尋を見つめた。 彼女は千尋の周りをぐるりと一周しながら、舌打ちまじりに言う。 「千尋さん、誰かに言われたことない?あなた……私とよく似てるって」 千尋は黙って晴美を見つめる。ただ、この女がどこまで言うつもりなのか、見届けたかった。 沈黙に動じることなく、晴美はため息混じりに言葉を続けた。 「前にも言ったけど、怜の心から私のことが消えたことなんてないの。あなたはただの代用品。もし私があなただったら、とっくに身を引いてるわ」 彼女は首をかしげて笑った。その笑顔には、確かな勝利の色があった。 「そういえば、あなたたち六年間も結婚してるのに、一度も妊娠してないのよね。千尋さん、それっておかしいと思わなかった?」 「……何が言いたいの?」 千尋の心はずんと沈んだ。これから晴美が語ろうとしていることが、決して耳に優しいものではないと、直感的に分かった。 止めたかった。でも、体に力が入らなかった。 そんな千尋の様子を見て、晴美は優越感たっぷりに笑った。 「怜、あなたに言わなかったのかしら?実は結婚する前に、彼、自分から結紮手術を受けたのよ。他の女に子どもなんて絶対産ませたくないから、って」 「だからあなたは六年も妊娠できなかった。でも私は?帰国してたった三ヶ月で、もうお腹に赤ちゃんがいるの」 彼女は千尋の耳元で、毒のような声を囁いた。 「まだわからないの?千尋さん」 千尋は晴美の顔を見ようとしなかった。力の抜けた足を支えるために手すりを握りしめる。その体は、夏なのに冷たい氷に閉ざされたようだった。 ——六年。 何度も自分を責めた。病院にも行き、怪しげな薬にも手を出した。ただ、怜との子どもがほしかった。 でも、違った。できなかったんじゃない。最初から、怜が望んでいなかった。 涙がこぼれ落ちる。千尋はそれを一息で拭き取ると、無表情な声で問い返した。 「……結局、何が言いたいの?」 「別に。ただ真実を伝えたかっただけ」 晴美は艶やかに笑いながら、千尋の頬に触れて涙を拭った。 「怜が、私とこの子をどれだけ大事にしてるか、もう見ればわかるでしょ? ——もし、あなたが私たちに何かしようとしたら、怜はどうすると思う?」 「……は?」 その瞬間、千尋の視界が白く跳ねた。 気がつけば、晴美は階段を転げ落ちていた。 真夏なのに、体が凍えるほど冷たかった。 怜の絶叫が響く。「晴美!」 階下では、正気を失ったような怜が晴美を抱きしめ、血の染み込んだ階段の上で動揺していた。 ざわつく人々の視線が千尋に突き刺さる。 次の瞬間、怜が千尋の前に立ちはだかり、手を伸ばしてその首を掴んだ。 「千尋……お前、晴美に何をした!?」 「わたし……何も……してない……!」 千尋は必死に怜の手を叩きながら、かすれた声で言葉を吐いた。 涙が頬を濡らす。でも、怜は何も信じてくれなかった。 救急車のサイレンが近づく中、怜は冷たく言い放った。 「晴美と子どもが無事なら、それでいい。だが、もし……流産でもしてたら——千尋、俺たちは離婚だ」 「……いいわ」 怜はそれを聞いたのか、聞かなかったのか。もしくは最初から、千尋の言葉など気にも留めていなかったのかもしれない。 彼は一度も振り返ることなく、その場を立ち去った。 第7話 晴美と怜を乗せた救急車は、サイレンを鳴らして別荘を離れていった。怜の友人たちも、彼の後を追うように次々と姿を消していく。 いつもなら「奥さん!」と声高に千尋に呼びかけ、親しげに振る舞っていた男たちも、今はまるで彼女がそこにいないかのように、笑い声を交わしながら素通りしていった。一瞥さえくれないままに。 賑やかだったホールは、あっという間に静まり返り、千尋はぽつんと中央に立ち尽くしていた。目の前にはまだ切り分けられていない五段重ねのバースデーケーキ。 彼女はゆっくりとその場にしゃがみ込み、顔を両手で覆った。嗚咽が、指の隙間から漏れ出した。 しばらく泣いていた千尋は、ふらふらと立ち上がり、外へと歩き出した。 外に出ると、怜の友人たちの車はすでに一台も残っていなかった。別荘は山奥にあるためタクシーも呼びづらく、そこへ追い打ちをかけるように、ぽつぽつと雨が降り始めた。 軒下に立ち尽くし、千尋は振り返って豪奢な別荘を見つめた。 たしかに美しい場所だった。でも——ここは、彼女のものではない。怜がどれほど優しくしてくれたとしても、彼そのものが千尋のものだったことは一度もなかったのだ。 「ここには泊まらない」 そう心に決めた千尋は、雨の中へと駆け出した。 容赦なく叩きつける雨が、肌に冷たく、痛かった。彼女は記憶を頼りに、国道を目指してひたすら歩いた。 どれほど歩いたかもわからない頃、やっと車のヘッドライトが見え始めた。千尋は何度も手を上げ、ようやく午前二時過ぎ、一台の車が停まってくれた。 びしょ濡れのまま帰宅したとき、千尋の体はすでに限界を迎えていた。頭はぼんやりと重く、手足には力が入らない。 ふらふらとベッドに腰掛け、スマホを手に取って長い間スクロールした。でも、怜からのメッセージは一通も届いていなかった。 視界が二重になり、手は震え、体は小刻みに震え出す——これは、熱が出る前の兆候だと分かった。 助けを呼ぼうと、千尋は震える手で「119」を押すつもりだったが、間違えて怜に電話をかけてしまった。 ……プルル、プルル…… わずかな期待が、胸の奥で微かに芽生えた。 一度でいい。怜が電話に出てくれれば、誤解を解くチャンスがあるかもしれない——そんな小さな望みだった。 だが、返ってきたのは冷たい機械音だった。 『おかけになった電話番号への通話はお繋ぎできません』 「……もう、いいよ」 ぽつりとつぶやいた千尋の涙が、スマホの画面にぽつぽつと落ちる。 意識がぼやけていく中、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。 ——ねえ、千尋。あんた、誰にも必要とされてないわけじゃない。少なくとも……救急車は、あんたを迎えに来てくれるじゃない。 そんな皮肉めいた思いが脳裏をよぎり、千尋の意識はそこでぷつりと途切れた。 次に目を開けたとき、窓の外はすでに昼下がりの光に包まれていた。 点滴の交換をしている看護師の声が耳に入る。千尋は上体を起こし、スマホに目を落としたが、そこにもやはり、怜からの連絡はなかった。 それどころか、彼の友人たちとのグループチャットからも、千尋の名前は削除されていた。 ——そういうことなんだろう。 きっと怜は、もう離婚するつもりなのだ。 スマホを握りしめながら、千尋はかすかに笑った。乾いた、苦い笑みだった。 三日間、病院のベッドにいた。けれど、その間一度も、怜からの連絡はなかった。 退院の日、会計窓口で怜の姿を見つけるまでは。 怜は相変わらずの怜だった。ただ、目の下の隈と赤く充血した眼が、疲労の色を物語っていた。 彼女の姿に気づいた怜は、驚いたように目を見開いた。 「千尋……?なんでここに?」 「ちょっと体調が悪くて。薬をもらいに来ただけ」 千尋は静かに頷き、怜に背を向けてその場を立ち去ろうとした。 だが、その腕を怜が掴んだ。 「晴美の子は無事だった。……千尋、お前、晴美に謝るべきだ」 ……謝る? 千尋の唇がかすかに震えた。あの日、彼女は何もしていない。ただ、晴美が勝手に転んだだけだ。 なぜ一度も、自分の言葉を信じてくれないのか——怜に問いただしたい思いが込み上げる。 だが、すべての想いは喉の奥に沈み、一言だけになった。 「……わかった。謝るよ」 第8話 けれど結局、千尋は晴美に謝ることはなかった。 怜と千尋が一緒にいるのを見た瞬間、晴美はお腹を押さえて「痛い」と叫び出したのだ。 怜は千尋に言葉をかける間もなく、宝物のように大事にしている晴美の元へと駆け寄った。 千尋はその場にしばらく立ち尽くし、やがて一度も振り返ることなく、静かに歩き去った。 怜が我に返ったときには、千尋の姿はすでに遠くに消えていた。 家に戻った千尋が最初にしたことは、怜から贈られたすべての品々をひとつひとつ整理することだった。 ——プロポーズの時に贈られた、彼がデザインした指輪。 ——結婚式のために作ってくれたティアラ。 ——毎年の記念日に届いた数々の贈り物。 ——一度も欠かしたことのない、誕生日のサプライズ。 ……怜は、いつも心を込めてくれた。 それこそが、千尋が怜を疑わなかった理由でもあった。 けれど、ずっと後になって千尋は知ることになる。 ——あの指輪は、本当は晴美のためにデザインされたもの。 ——ティアラは、晴美が「欲しい」と言ったから作られたもの。 ——記念日のギフトの一つ一つが、晴美の好みに基づいて選ばれたもの。 ——誕生日のサプライズすら、実はすべて晴美の希望だったのだ。 千尋は、それらを一つにまとめて大きな段ボールに入れた。中には、署名済みの離婚届も。 そして、箱の一番上にはメモを一枚貼った。 『これらはすべて、晴美さんのために用意されたもの。お返しします。怜も、一緒に返します。私はもういりません』 彼女はその箱を宅配サービスの営業所に託し、倍額を支払って一時保管を頼んだ。 発送のタイミングを待つのみだった。 出発の朝、怜が帰宅した。連れていたのは、もちろん晴美。 晴美は腰に手を当て、気遣わしげな様子でリビングのスーツケースに目を留めた。 そして、そっと唇に手を当てる。 「千尋さん……どこか行くんですか?私が来たから……嫌になっちゃいました?」 そう言って、怜の袖をつかむ。 弱々しく、哀れで、男心をくすぐるような仕草。 「ねえ、怜……私、帰った方がいいかな?二人の関係を壊すわけにはいかないし……」 「帰るなんて、何を言ってるんだ」 怜は不機嫌そうに眉をひそめ、千尋に向き直る。 その目には、失望の色がにじんでいた。 「千尋、お前さ、いつまで子供みたいに拗ねてるつもりなんだ? 晴美はお前に突き落とされたばかりなんだぞ。一人で過ごさせるなんて、無理に決まってるだろう。ふざけるなよ」 千尋は怜をじっと見つめたまま、ゆっくりと頷いた。 いつものように、静かに——「……わかったわ」 でも、なぜだろう。 その「わかった」が聞けたはずなのに、怜の胸は妙にざわついていた。 気を紛らわせるように軽く咳払いし、千尋に問いかける。 「千尋……そのスーツケース、どこに行くつもりだ?」 「友達の結婚式があるの。付き添い人を頼まれてるのよ」 「でも、こんな大きな荷物は必要ないだろ?」 怜は眉を寄せ、スーツケースを持ち上げた。 「……空港まで送るよ」 そのときだった。 「……あっ!」 怜が玄関に足を向けた瞬間、晴美が再びお腹を押さえて小さく叫んだ。 「怜、千尋さん……ごめんなさい。ちょっと……お腹が……もしかして赤ちゃんが……」 彼女は申し訳なさそうに微笑みながら、怜を見上げる。 「怜、病院に一緒に行ってくれる?」 「……でも……」 「大丈夫よ、怜。あなたたち、病院に行ってあげて」 千尋は口元に笑みを浮かべたまま、晴美の挑発的な視線を無視して言った。 「私はタクシー呼んであるし、晴美さんの彼氏がいないなら、あなたが付き添うのが筋よ」 その言葉は、かつて怜自身が言っていたこととまったく同じだった。 それなのに、千尋の口からそれを聞いた瞬間、怜の胸に奇妙な痛みが走った。 しばらく迷った末に、怜はやはり晴美への不安に負けた。 「……千尋、帰ってきたら……迎えに行くから、空港まで」 「……うん」 千尋は微笑んで頷いたが、怜には伝えなかった。 ——その日が来ることは、もうないのだと。 彼女は怜が車で去るのを見届けたあと、すぐに宅配サービスの担当者へ電話をかけた。 「今日、例の箱、送ってください」 通話を終えると、予約していたタクシーもちょうどやってきた。 千尋は車に乗り込み、六年暮らしたその家を、静かに、そして確かに、後にした。 もう、怜と会うことはないだろう。 彼のことで涙を流すことも、もうない。 私は、もっといい未来を手に入れるのだ。 ——そう、千尋にはもっと明るい未来が待っている。