夏の花が咲く頃、君を待っていた

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夏の花が咲く頃、君を待っていた

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小寺泰明と娘のためなら、私はすべてを捨てて専業主婦になった。 でも、彼の初恋の人が離婚してから、すべてが変わってしまった。 夫は私を疎...

Chương (1)

第1章

小寺泰明と娘のためなら、私はすべてを捨てて専業主婦になった。 でも、彼の初恋の人が離婚してから、すべてが変わってしまった。 夫は私を疎ましく思い、娘は私のことをまるで家政婦のように扱い、呼びつけては命令する。 私は心がすり減って、離婚届に判を押し、すべてを手放して遠くの街へ去った。 なのに、どうして彼たちは今さら後悔してるの? 第1話 「小寺さん、離婚協議書をよくご確認ください。サインから1ヶ月後、お二人の婚姻関係は正式に終了します」 小寺真希(こでら まき)はバスルームに立ち、電話越しに弁護士の冷静な声を聞いて、静かに返事をした。「はい、分かりました。ありがとうございます」 電話を切ると、彼女は鏡に映る自分を見つめた。右頬には目立つ傷痕があり、それが彼女の劣等感の元になっていた。 スマホがピロンと鳴った。開いてみると、娘から送られてきた「家族写真」が表示された。だが、彼女の顔に感情はなかった。 写真の中、小寺泰明(こでら やすあき)の整った顔には満面の笑みが浮かんでいた。結婚して以来、その笑顔を一度も見たことがなかった。 彼女が心血注いで育てた娘の小寺一花(こでら いちか)も、楽しげに目を輝かせていた。 だが、滑稽なのはこの「家族写真」の母親の位置にいたのは真希ではなく、泰明の初恋の相手であり、彼の心の奥に棲む初恋の秋葉美琴(あきば みこと)だった。 これは、一花がわざと母をからかい、嘲るために作ったものだった。 三ヶ月前、美琴が離婚して戻ってきてからというもの、真希は父娘の目において部外者になり、存在すら疎ましく思われるようになった。 今日は、彼らの結婚8周年記念日。そして、真希の誕生日だった。 だが、泰明は「料理が口に合わない」と言い放ち、怒って彼女を家に置き去りにし、娘を連れて出て行った。 美琴のInstagramを見て、初めて彼らが3人で水族館へ出かけたことを知った。 短い30秒の動画が十数本。中でも、最後の一本が彼女の心を完全に壊した。いつも他人との接触を嫌っていた泰明が、美琴をおぶい、その唇に残ったクリームを指で拭い、自分の口に運んだのだ。 その瞬間、真希の心は、氷の中に突き落とされたように冷え切った。 この家族のために、毎日必死で頑張ってきた自分が、ただ他人の引き立て役にしかなっていなかったなんて、あまりにも哀れで、惨めだった。 彼女は椅子に沈み込み、目の前の溶けかけた苺のケーキを見つめながら、心が少しずつ沈んでいくのを感じた。 時間だけが静かに過ぎていった。 深夜3時。部屋の明かりが突然つき、泰明が娘を連れて帰ってきた。 彼らは真希を見るなり、ほんの一瞬だけ表情に嫌悪を浮かべた。 泰明はネクタイを外して彼女に投げつけた。「俺がショウガ嫌いなの知ってるだろ。なんであんなに入れた?今度は気をつけろよ」 そう言って、恩着せがましく紙袋を投げてきた。「これが誕生日プレゼントだ」 彼女はそれを一瞥し、心の中で苦笑した。それは安物の蜂の形をしたピアス。だが本来の正規品は、高級なスワロフスキーの白鳥ネックレスで、すでに美琴のInstagramで見たことがあった。 真希が無反応でいると、泰明は眉をひそめて声を荒げた。「俺が毎日朝から晩まで働いてるのに、お前は家でラクしてるだけだろ?何もできないくせに文句ばっかり。お前がこんなにだらしなくて、女らしさの欠片もないと分かってたら、絶対結婚なんかしなかった!今夜は外の庭で寝ろ。自分の非を認められないなら、俺は一生お前を許さない!」 そう言い捨てて、彼は寝室に入っていった。 一花は、軽蔑の目で真希を見て、溶けた苺ケーキを彼女の頭に投げつけた。 「今日、秋葉おばさんと水族館ですっごく楽しかったよ。あんたなんて家のメイドみたいなもんでしょ?とっととパパと離婚して出てってよ!私、秋葉おばさんにママになってほしいの!あんたみたいなブス、いらない!」 真希は、自分が愛情を注いで育ててきた娘がこんな酷い言葉を言うなんて、まるでゴミのように扱われ、心が完全に砕けた。 かつての一花は、素直で優しい娘だった。母親である彼女のことが大好きだった。 すべてが変わったのは三ヶ月前、美琴が戻ってきてから。何度か接触しただけで、娘の態度はまるで別人のように冷たくなった。 きっと美琴が、娘に何か吹き込んだのだろう。母娘の関係をわざと引き裂いたに違いない。 他人の言葉なら、どうでもよかった。けれど、これまで自分がどれほど尽くしてきたか、それがたった三ヶ月の他人の存在にすべて打ち負かされたことが、何よりも彼女の心を冷たくさせた。 彼女の胸中には、深い悲しみが広がっていった。まるで惨めな虫けらのように思えた。娘の一花は母親である彼女を嫌悪し、夫の泰明も日に日に冷たくなるばかり、嫌悪を向けてきた。それどころか、娘の彼女に対する態度を黙認しているようだった。 真希は無表情で立ち上がり、バスルームへ行き、髪についたクリームを洗い落とした。 心は完全に死んだ。もう二人には、何の感情もなかった。 彼女は洗面台の下から一枚の書類を取り出し、自分の名前を書き込んだ。 数日前、彼らは美琴のことで言い争いになり、泰明は離婚協議書を彼女に投げつけた。 彼は「どうせこいつは俺と娘を愛してるから、離婚なんてできない」と思い込んでいたのだ。毎日言葉で真希を侮辱し、それを楽しんでいた。 真希は壊れかけた結婚を守るため、すべての屈辱を飲み込み、床に膝をついてまで赦しを乞うた。 でも、今日、やっと気づいた。どれだけ譲ったって、どれだけ我慢しても、人の心は戻ってこない。 だったら、いっそ手放そう。 夫も、娘ももういらない。 第2話 真希は上着を羽織り、庭の長椅子に横になった。 もう晩秋。空気は冷たく、夜になると気温がぐっと下がる。 冷たい風に身をすくめながら、彼女は上着をきゅっと掴んで体に巻きつけた。 口論になるたびに、泰明はいつもこうして彼女を罰する。表向きは「覚えさせるため」だと言っていたが、実際には彼女を辱める手段でしかなかった。 だが今の真希の心には、波風ひとつ立っていない。何年も彼に執着してきた自分は、一体何のためだったのか、ただぼんやりと考えていた。 うとうとし始めた頃、温かい手が彼女の服の中へと伸びてきた。 真希は驚いて目を開け、泰明の欲に満ちた視線とぶつかった。 彼の熱い吐息が顔にかかる。だが、不思議と彼女の心はとても静かだった。 もしこれが以前だったなら、彼女はきっと嬉しそうに応じ、彼の気に入るように尽くしただろう。だが今日は違う。彼に触れられることすら、嫌悪感が湧いた。 その違和感に気づいたのか、泰明は眉をひそめた。「どうした?」 彼女は彼の手を押しのけて、つまらなそうに答えた。「ちょっと、調子悪いだけ」 不機嫌そうな顔をした彼女を見て、泰明は苛立ちを隠せなかった。「まだ美琴のことで怒ってんのか?ちゃんと説明しただろ。今はただの友達だって。お前、ほんとに心狭いな」 彼の言い訳など聞く気もなく、真希は目を閉じて無視した。 まさか無視されるとは思わなかったのだろう。泰明の怒りが一気に噴き出した。「ほんとムカつくな。美琴の言う通りだよ。俺はお前に甘すぎた。こんな態度取るなら、二度と触らねぇよ」 激しいドアの閉まる音が響いた後、真希はゆっくりと目を開けた。 昔なら、彼の機嫌が少しでも悪くなったら、彼女はすぐに頭を下げて必死に許しを乞うた。 だが今は違う。彼女はもう、諦めることを決めていた。 翌朝。 目を覚ました真希は、以前のように父娘のために栄養バランスを考えた朝食を用意することはしなかった。 彼女は冷蔵庫からミルクを取り出し、のんびりと飲み始める。 離婚協議書にはすでに署名してある。あとはそれが正式に成立するのを待つだけ。 それを思うと、彼女の唇には自然と笑みが浮かんだ。 まさか、全てを手放すことで、こんなにも自由で気楽な気分になれるなんて。それに比べて、これまでの執着がどれほど滑稽だったことか。 Twitterには、美琴が5分ほどの動画を投稿していた。添えられたテキストには、こう書かれている。 【私が一番あなたを必要としてる時、あなたはいつもすぐに駆けつけてくれる。好きな人がそばにいてくれるって、ほんとに幸せ】 動画には、泰明がエプロンを着けて朝食を作っている姿が映っていた。まるで主夫のように、彼の顔には明るい笑みが浮かんでいる。 あんな姿、真希は一度も見たことがない。 彼はずっと、料理の匂いが嫌いだと言ってキッチンに近づこうともしなかった。真希には一度たりとも食事を作ってくれなかったのに、今では、あの美琴のために、楽しそうに台所に立っている。 真希は動画をちらっと見ただけで、スマホをソファに放り投げた。 泰明が、昨夜の自分の拒絶に対する仕返しなのか、それとも単に美琴との関係を急ぎたいのか、どちらでもいい。 もし彼が今すぐ離婚を切り出してきたら、真希は一秒も迷うことなく応じるだろう。 階段を下りてきた一花は、彼女に一瞥もくれずにダイニングへ向かう。だが、いつものような豪華な朝食がないことに気づくと、真希を睨みつけて怒鳴った。「サボるなんて、よくもまあ!さっさと朝ごはん作ってよ、お腹空いたんだけど」 真希は無表情で彼女を見つめ、心の中には波一つなかった。 娘の心の中で、自分は何の価値もない存在、家政婦以下なのだ。 そう思うと、彼女は皮肉な笑いがこみ上げてきた。「リンゴでも食べなさい。パンもある」 一花は一瞬固まった。こんなに冷たい態度の真希は、初めてだった。一瞬だけ戸惑った表情を見せたが、すぐにいつもの調子に戻る。 口元を歪めて嫌味な笑みを浮かべると、一花は悪巧みを思いついたように言った。「それ、あんたの仕事でしょ?毎日ダラダラしてさ、パパがいなかったら、今ごろあなたなんて路頭に迷ってるわよ?早くごはん作れなきゃ、パパに言いつけてやるからね」 彼女をじっと見つめた後、真希はもう何も言わず、無駄なやり取りをやめた。「秋葉のとこ行けば?ママになってほしいんでしょ」 一花を無視して、真希は寝室に入り、クローゼットを開けた。中には、かつて泰明が贈ってくれた服が並んでいる。 もっと正確に言えば、結婚して最初の数年間に贈られたものばかりだ。ここ最近はもう何一つ、買ってもらってはいない。 家計の管理もすべて彼が握っていて、彼女には食材を買うための小遣い程度しか与えられなかった。必要な時に金が足りないと頼めば、いつも無駄遣いだと責められた。 そのことを思い出すと、真希は滑稽ささえ感じた。 美琴には何十万円ものプレゼントを気前よく与える。彼女が数千円で買いたかったオーブンひとつでさえ、物欲が強いと非難されたのだ。 真希は無表情のまま服を整理して袋に詰め、階段を下りて外に出た。 ちょうどその時、バラの花束を抱えた泰明と鉢合わせた。 彼女はまるで彼が目に入っていないかのように、無言でゴミ箱に向かい、袋いっぱいの服を捨てた。 透明な袋の中身を見て、泰明はすぐにそれが自分の贈った服だと気づいた。 彼女に詰め寄るように言った。「どういうつもりだよ、それ全部俺があげた服だぞ!昨夜、美琴が急に熱出したって連絡が来たから行っただけで、お前……」 その言葉を遮るように、真希は冷たく言い放った。「もう全部小さくて、着られないの」 その目には冷ややかな光が宿っていて、顔からは感情が一切消えていた。その態度に、泰明の胸には妙な不安が静かに広がっていった。 第3話 二人が家の中に戻ると、泰明は真っ赤なバラの花束をテーブルにそっと置いた。 「昨夜は気分が良くなかったけど、それでもお前が美琴のことをいつまでも根に持って、美琴を困らせるなんて。それにこれは、帰りにお前のために買ってきたんだ。一緒に美琴に謝って、この件は終わりにしよう。彼女はそんな根に持つ性格じゃない。絶対許してくれるよ」 泰明は久しぶりに彼女に贈り物をして、今回はきっと心を動かされると確信していた。 だが、真希の目に映ったのは、少し花びらの端が反り返った古びたバラだった。心の奥底で冷たい笑いが湧いた。 自分がなんでこんな屈辱を受ける? この花束は、彼が美琴に贈ったものだ。彼女の動画で見たばかり。 他人に贈ったものをお裾分けしただけじゃないの?それって、ゴミ扱いしてるってこと? 真希は静かにテーブルに座り込み、沈黙のまま動かなかった。 泰明の顔が瞬時に青ざめる。「いい加減にしろ。もう引き際は見せたはずだろ?いつまでも騒いでても、お前にいいことなんてないんだよ」 彼女は手で口と鼻を覆いながら、拒絶するように呟いた。「私、花粉アレルギーなの」 その言葉を聞いた瞬間、泰明はぽかんとした。そうだった、彼女のアレルギーのことをすっかり忘れていた。 どう言い訳しようかと考えていたが、振り返って見た真希の冷たい表情に、彼は突然激怒が沸き上がった。こっちはすでに十分に面子を立ててやっているというのに、この女がそんな態度を取るとは! 泰明は花束をつかむと、真希の顔めがけて投げつけた。遠慮もなしに、一輪また一輪と。 真希は首をすくめ、手で顔をかばう。しかし花粉が鼻に入ったのか、すぐに肌に赤い腫れが浮かび上がり、顔色も赤くなり、呼吸が苦しそうになっていった。 泰明は嘲るように笑いながら言い放った。「そんな演技、誰が信じるかよ。俺が簡単に騙されると思ってんの?ブサイクなお前なんか美琴には比べ物にならないんだよ。離婚しないだけで恩を売ってるんだから、ありがたく思え。ありがたく思わないなら、いつか蹴り出してやる。地べたに跪いて謝っても無駄だ」 その時、娘の一花が駆けつけて、散らばった花びらを拾いながら彼女の顔に投げつけ、両手を叩いて叫んだ。「おもしろーいっ!パパ、秋葉おばさんに一泡吹かせてやったね!」 そんな娘を見た泰明は、一花の手を引き、その場に倒れた真希には目もくれず、冷酷に言い捨てた。「今回はお灸をすえただけだ。次があるなら、お前次第だからな」 父娘二人はそのまま去っていった。誰も彼女を気にかけようとはしなかった。 呼吸が苦しいまま、真希はゆっくりとソファに這うようにたどり着き、全身の力を振り絞って携帯を手に取る。友人の佐藤理子(さとう りこ)に電話をかけた。 しばらくして、目覚めた時、彼女は病院のベッドにいた。 すべてを諦めようと決めたとはいえ、あの仕打ちを思い出すと、胸が微かに締めつけられた。 真希は心の中で繰り返した。「もう少しだ、すぐに解放される、新しい明日が来る」 ドアが静かに開く音がして、理子が入ってきた。腕を組み、窓辺で立ち止まると、穏やかではない表情で言った。「あなた、花粉アレルギーで死にかけたって、私が泰明に電話したら、あの人ぜんぜん心配しなかったばかりか、むしろひどいことばかり言ったの。旦那のくせにそんなヤツありえないわ!」 真希は苦い笑みを浮かべながら答えた。「離婚協議が成立したら、私たち、もう関係ない」 理子は驚いたように目を見開いたが、すぐにうなずいた。「その考えが正しい。本当にそう思えて良かった。あなたにはもうそんな生活、ふさわしくないって前から言ってたのよ、傷だらけになる前に」 口数は少ないままだが、真希は心の中で自分に言い聞かせた。あと少し。もうすぐ、苦しい日々から解放される。 第4話 真希は一週間入院していたが、泰明は一度も姿を見せなかった。電話の一本もない。 理子はリンゴの皮を剥きながら、吐き捨てるように言った。「泰明なんて、夫失格よ。離婚を選んだのは正しい判断だったわ。まさか、今さら後悔してまた頑張って支えるとか言わないよね?」 真希自身も泰明と何度も喧嘩し、離婚を考えたことがあったが、そのたびに土下座して謝り、結局うやむやになっていた。 そんな過去を思い出すと、真希は自分が滑稽で、惨めで、涙が出そうになる。 「もう戻らないよ。何年も一緒にいたら、犬にだって情が湧く。でも、泰明にとって私は、犬以下だったんだろうね」 そんな自虐的な言葉に、理子は胸を痛めながら言った。「真希、そんなふうに考えないで。男なんて星の数ほどいるわ。泰明一人に執着する意味なんてないよ」 八日目、退院した真希は、帰宅の足を重く感じていた。 あの息苦しくなるような家に戻るかと思うだけで、胸が締めつけられる。 玄関のドアを開けた瞬間、腐った食べ物の悪臭が鼻を突いた。床に捨てられたバラの花束は、すでにカラカラに枯れている。 真希はすぐに悟った。泰明は一花を連れて、また美琴のところに行ったのだ、と。 これが彼の手段だった。口論になるたび、彼はこういう手段で彼女を痛めつけた。 真希の愛が深いことを彼は知っていた。だからこそ、娘との時間を見せつけ、より大きな苦しみを与える。 あの日、怒り狂ってバラを投げつけてきた彼の顔を思い出すたび、真希は背筋が凍る。あれは、彼女の知っている泰明じゃない。 スマホが鳴り、現実に引き戻される。 画面を見ると、美琴から動画が届いていた。 映像には、一花がアイスクリームを頬張っている様子が映っていた。無邪気な笑顔で言う。「秋葉おばさん、ママになってくれない?あのブサイク女、アイスも食べさせてくれないし、いつも変なまずいごはんばっかり作るの。気持ち悪くなるくらい。秋葉おばさんのほうがずっといい、なんでも好きなもの食べさせてくれるもん!」 「学校の三者面談のときもさ、変なボロ服着て、顔には傷があってさ、友達にあれがママって言えなかったよ。うちの家政婦って言っちゃった。あんな情けないママなんて、いらない!」 カメラの向こうでは、美琴が満足げに微笑んでいた。そして、わざとらしくこう訊ねる。「でも、あなたのママには敵わないよ。私なんかより、ずっと優秀だったんでしょう?だからお父さんも彼女と結婚したんだよね」 一花はプイッと顔をそらし、軽蔑したように言った。「あんなブサイクと比べるなんて、秋葉おばさんに失礼だよ!パパは同情しただけ。結婚してやっただけで、ホントは大嫌いなんだよ」 「顔の傷?私をかばった時にできたんだって。あの時、木の棚がそのまま落ちて、あいつが死んでくれたらよかったのに!そしたら、家に居座られることもなかったのに」 真希は、思わず息を呑んだ。娘に期待するのはやめたはずだった。それでも、胸が痛かった。 心からの愛情も、献身も、一花の目にはただの笑い種だったのだ。 直後、美琴からメッセージが届いた。【あなたの娘も、あなたの夫も、あなたのことが大嫌いよ。そんなあなたが、どうして私と張り合えると思ったの?】 真希は画面を閉じ、何も返さなかった。 彼女は深く息を吸い込んで、静かに決意を固める。もう、迷わない。全てを手放すと決めたからには、あんな人たちに心を乱される価値なんてない。 離婚成立まで、あと十数日。 残された時間を無駄にしたくなくて、真希は理子と共に、旅することにした。寺院を巡り、祈りを捧げ、自分の体と心をまるごと浄化するような旅だった。 かつて執着していたものは、あまりにちっぽけでくだらなかった。 この旅で彼女は初めて、自分の居場所を感じた。帰るべき心の拠り所ができた。 旅の間、泰明からの連絡は一切なかった。 彼女には分かっていた。これは泰明なりの罰なのだと。無視という形で、彼女を見捨て、冷たく切り捨てようとしているのだと。 以前の彼女なら、きっと心を痛めていただろう。世界中から見放されたような気持ちになっていたはずだ。 でも今は、心の中は穏やかだった。あの父娘は、もはや自分にとって何の意味もない存在だった。 旅を終えて戻った後も、真希は家には帰らず、しゃぶしゃぶの店に向かった。 以前は、ひとりで食事をするのが寂しくて仕方なかった。でも今は、それすらも心地よい。 肉をしゃぶしゃぶして口に運び、真希は満足げに笑った。その瞬間、視線の先に、見慣れた人影が映り、彼女の表情が凍りついた。 第5話 泰明は娘の一花と美琴を連れて、店の一卓に座っていた。他にも数人が同席していたが、真希にとっては見知らぬ顔ばかりだった。 今日は美琴の誕生日。彼女はバースデーハットを被り、泰明の隣に寄り添うように座っていた。 同席者たちは賑やかに茶化す。 「小寺社長と美琴さん、本当にお似合いですよね。まさに理想の夫婦ですね。結婚式はいつですか?呼んでくださいね」 美琴は頬を赤らめ、泰明をちらりと見上げる。 だが、泰明はその言葉を否定することなく、当然のような顔で受け入れた。その様子を見て、美琴の笑顔はさらに輝きを増す。 テーブルは笑い声で満ちていた。少し離れた席から、その光景をじっと見つめる真希の存在に、誰も気づいていなかった。 彼女の心は静まり返っていた。怒りも悲しみも湧いてこない。 むしろ、目の前の三人が本物の家族のようにすら見えた。 その瞬間、美琴がふと振り返り、彼女の視線に気づいた。 すると、美琴はわざとらしく泰明の肩に頭をもたれさせ、囁くように言った。「こんな素敵な誕生日、ありがとう」 泰明は彼女を見つめ、優しく微笑む。「俺たちの間で、そんなに他人行儀なこと言うなよ」 その言葉を聞いた美琴は、わざとらしく酔ったふりをして泰明の首に腕を絡ませた。目はとろりと潤み、露骨に欲を滲ませていた。 周囲の人たちが一斉に湧き上がる。「キス!キス!」 泰明は自ら顔を近づけ、美琴にキスをした。 彼は彼女を抱きしめ、情熱的にキスをした。 同席していた他の連中は歓声を上げ、口笛を吹き始めた。 真希はその光景を静かに見つめたまま、ゆっくりと席を立った。 その際、テーブルのグラスに手が当たり、床に落ちてガシャンと割れる音が響いた。さすがに周囲の注目を集める。 泰明が何気なく目をやると、たちまち凍りつき、目に焦りの色が浮かんだ。まさか真希がここにいるなんて。 彼の視線が真希の去っていく姿を追っているのに気づき、美琴は嫉妬心を押し殺し、あえて気遣うように声をかけた。「泰明さん、今の人、真希さんだったんじゃない?見られちゃったかも。ごめんなさい、ちょっと飲みすぎちゃって、きっと誤解されちゃったよね。怒って、またあなたに文句言ったりしないかな?」 泰明は鼻で笑い、平然を装う。「見たからって、どうってことないだろ。もし本当に何かあるなら、人前でベタベタしたりしないさ」 彼はそう言いながら平気なフリをしたが、トイレに立ったタイミングで、メッセージを送った。【しゃぶしゃぶ食べに来てたのか?】 以前なら、このメッセージを送ってから一分も経たないうちに、真希から返信があっただろう。 だが、今日は食事が終わるまで、彼のスマホは静まったままだった。 一花を連れて帰宅した泰明は、玄関で靴を脱ぎながら心の中で構えていた。きっと今頃、真希は泣きながら責めてくるに違いない。 だが、リビングに入った彼が目にしたのは、ソファに静かに座っている真希の姿。彼女は何も言わなかった。視線すらよこさなかった。 あまりにも静かなその態度に、泰明はわずかな違和感を覚えた。 第6話 食事会が終わった後、泰明は美琴から「お茶でも飲みに来ない?」と誘われたが、丁重に断った。胸の中には後ろめたさと罪悪感があったため、家に戻ったら少し優しい言葉でもかけてご機嫌を取れば済むだろう。 だが、彼の予想は外れた。真希は、まるで彼の存在など見えていないかのように振る舞ったのだ。それに気づいた瞬間、怒りが一気に湧き上がった。 「今日は美琴の誕生日なんだぞ。俺と一花が一緒にお祝いしてたのに、お前はそれをつけ回してきたってわけ?本当、恥知らずにもほどがある」 真希は依然として一度も彼に視線を向けなかった。ただただ、この男が心底くだらないとしか思えなかった。外見だけでなく中身まで腐りきっている。 他の女とベタベタしておきながら、その責任をすべて彼女に押し付けてくるなんて、まさに他人に責任転嫁するプロだった。 泰明は眉間に深い皺を寄せ、真希を鋭く睨みつける。 以前なら、彼が少しでも不機嫌そうにすれば、真希はすぐに「ごめんなさい」と謝った。たとえ過ちが彼にあったとしても、彼女はいつも自分を責め、彼のご機嫌を取ろうとしていた。 だが、今はその手がまったく通じない。 この異常な変化に、泰明はどこか不安を感じはじめ、苛立ちが募っていく。 「何度言わせるつもりだ?俺と美琴はただの友達だよ!男女の関係なんて一切ない!少しは自分のことに集中できないのか?いつまで俺を監視してる気だ」 それでも真希は彼を見ようともせず、静かに返した。「あなたの言うとおりね。私、本当に自分のことに集中しないと」 その一言で、泰明は完全にキレた。彼女がわざと冷たくしている、そんなふうにしか思えなかった。 怒りのまま、彼はテーブルの上に置かれていたフルーツとグラスを全部床に叩き落とした。 だが真希は微動だにせず、静かにテレビを見続けていた。 泰明の目は血走り、拳を固く握りしめた。「俺は毎日朝から晩まで働いてるってのに、お前は家で優雅に暮らしてて、それでもまだ文句があるってのか?一花に母親がいないのが可哀想だから離婚しないだけだ。じゃなきゃこんなブス、さっさと捨ててるよ」 いつもの手だ。精神的に彼女を追い詰めようとする、慣れたやり口だ。 だが真希は冷たく、それでいて淡々とした口調で返す。「さっきも言ったけど、私は気にしてないし、怒ってもいない」 その言葉に、泰明はまるで綿に向かって拳を振り下ろしたような虚しさを感じた。怒りのやり場がなくなった彼は、ますます彼女の態度が気に入らなかった。 彼の中では、真希はわざとらしく無関心を装っているに違いないのだ。 彼女がどう思おうと、この件はこれで終わりにするわけにはいかない。「美琴の件は、ちゃんと面と向かって謝って許してもらえ!それができないなら、お前はこの先ずっと庭で寝ることになるからな!」 泰明はそう吐き捨てて、階段をドカドカと上っていった。 だが真希は気にも留めず、静かにソファに座り続けていた。心の中は、もう悲しみも怒りもない。ただ平穏だけが広がっていた。 一花がパタパタと階段を降りてきて、彼女の目の前に立つ。「またパパを怒らせたでしょ?あんたみたいなブス、パパには似合わない!私は秋葉おばさんと一緒に暮らしたいの、だから早く出てって」 真希は一花をじっと見つめ、口元に皮肉な笑みを浮かべた。「もうすぐよ。あなたの好きな秋葉おばさん、すぐに本当のお母さんになれるわ」 彼女はそう言いながら、庭に出ようと立ち上がる。 玄関に差し掛かったとき、一花の声が後ろから飛んできた。「ラーメン食べたい!早く作って!半熟卵付きでね」 真希は立ち止まることなく、一言だけ残して去っていった。「秋葉おばさんに作ってもらいなさい」 その背中に向かって、一花は信じられないような暴言を浴びせた。それはとても六歳児の口から出る言葉とは思えないものだった。 けれど、今の真希にとってはどうでもいいことだった。 この娘のことも、もう必要ない。彼女がどう育とうと、それは自分には関係のないことだった。 それなら、何もかも気にする必要はない。 その後しばらく、泰明は以前と同じように、一花を連れて家に帰ってこなかった。 そうやって真希を苦しめようとしているのだ。 しかも出て行くとき、彼はこう言い放っていた。「美琴に土下座して謝らない限り、俺たちは絶対に戻らない」 その言葉を思い出して、真希は思わず笑いそうになった。彼女としては、そんな父娘と一刻も早く縁を切りたかったのだ。 夜になって、美琴から一通の動画が届いた。 上半身裸の泰明に、美琴がベッドの上でマッサージをしている動画だった。 言葉は必要ない。その映像だけで、美琴の意図は明白だった。「あなたはもう彼を繋ぎ止められない」と見せつけたかったのだ。 真希は無視して、スマホをサイレントモードにした。どうせ邪魔になるだけだから。 それだけではない。普段Instagramすらろくに投稿しない泰明が、こっそりと気持ちを伝えるような投稿をいくつもしていた。彼もまた、じっとしていられなかったのだろう。 その必死さが、真希には滑稽にしか見えなかった。 もう少し。もうすぐ、自由になれる。 時間はあっという間に過ぎて、あと二日しか残っていなかった。 あの父娘のことを一切気にかけなくなると、時間が驚くほど自由になった。真希は自分の好きなことを、自分のペースでできる。 泰明は彼女をまるで無能のように扱ってきたが、会社が立ち上がったばかりの頃、大事な取引先との交渉はすべて彼女が担当していた。 軌道に乗ったあと、真希は妊娠を機に仕事を辞め、家庭に専念した。 だが、会社の株の三分の一は、今でも彼女の名義になっている。 去る前に、このあたりの整理はきっちりしておかなければならない。これからの人生のための、大事な準備だ。 彼女はそう心の中で計算していた。ちょうどそのとき、泰明が娘を連れて帰ってきた。 第7話 二人の姿を見たとき、真希の胸には、もはや何の感情も湧かなかった。 ただ、以前のような嫌悪感すらもう消えていた。どうせあと二日もすれば、もう二度と顔を合わせることもない。ならば、無駄な感情は抱かず、穏やかに終わらせればいい。 そんな彼女の態度に、泰明は得体の知れない不安を覚えた。その正体は自分でもうまく言い表せなかった。 かつてなら、彼と娘が二日帰らなかっただけで、真希は数十回も電話をかけ、何百通も謝罪のメッセージを送って、必死に帰ってくるよう懇願した。 だが今回、家を十日以上も空けたのに、彼女からは一切の連絡がなかった。 泰明は、自分の胸のもやもやした感情を「可哀想だから」「一人で寂しいだろうから」などと無理やり言い訳していた。 けれど彼の本音は、自信に満ちていた。真希は自分を愛していて、もう自分なしでは生きられない。だからこそ、何度でも彼女を苦しめることができると信じていた。 今回、自ら帰ってきたのも彼女に「チャンスをやる」という、上から目線のつもりだった。 ところが、真希の顔に浮かぶのは相変わらずの無表情で、冷たい。泰明は苛立ちを隠さず、顔をしかめた。「なんだ、その態度は?俺たちが帰ってきて嬉しくないのか?」 真希は彼と無駄口を叩く気もなかった。残り2日、くだらない言い争いをする必要もない。そう考え、彼女は何も言わずにさっさと庭へと足を向けた。 彼女の冷めきった背中を見つめながら、泰明の胸の奥には、得体の知れない焦燥感が広がっていった。 彼は複雑に絡み合った気持ちだった。特に過去を思い出すと、慌ただしさが込み上げてくる。 自分がどん底だったあの頃、ずっと傍にいてくれたのが真希だった。 真希が部屋に戻り、水を飲もうとリビングに入ると、そこには、床一面に花びらが散りばめられ、テーブルにはキャンドルディナーが用意されていた。 この光景に、真希はただただ皮肉な思いに駆られた。今さらそんなことをしても、何の意味もない。 彼女は眉をひそめ、鼻と口元を手で覆った。 その仕草を見て、泰明が慌てて近づいてきた。 「具合でも悪いのか?」 真希は落ち着いた声で答える。「花粉症なの」 彼女は昔から花が嫌いだった。特にバラは、美琴が好んでいるものだ。 泰明は思わず言い返しかけたが、真希の変化を思い出し、ぐっと飲み込んだ。 最近の彼女は、あまりにも別人のようで、まるで自分の掌からこぼれ落ちるように感じられた。それが妙に不安だった。 彼は思った。もしかすると、これまでの冷たさが過ぎたのかもしれない。二人で過ごした日々を思えば、今さらひどい言葉は口に出せなかった。 泰明が何も言わずに黙り込んだことで、逆に真希は驚いた。 あれだけ感情的だった彼が、何も言わないなんて、こんなことは初めてだった。 そんな彼が突然、二枚のチケットを取り出した。夜のクルーズ船のものだった。「前の結婚記念日、それとお前の誕生日。俺、ちゃんと祝えなかった。今回は、その埋め合わせをしようと思って。家族みんなで行こう」 真希はただ黙ってそれを見つめていた。手を伸ばすことはなかった。 ふと、彼女は思った。自分の変化に、泰明は何かを察したのだろうか?だからこそ、こんな急な取り繕いを始めたのか? だが、どう思っていようと関係なかった。遅れてやって来た愛情なんて、価値がない。 そのとき、玄関から美琴が現れた。手には、一花の大好物のアイスクリーム。 一花は満面の笑みで美琴の手を握った。「ありがとうママ!やっぱりママが一番好き!」 泰明は顔をしかめ、すぐに口を挟んだ。「勝手に呼ぶな」 だが一花は無視して、きっぱりと言い放った。「だって、私は秋葉おばさんがママになってほしいの!あのブスはいらない」 泰明は、一花を抱きかかえると、無言のまま階段を上っていった。しっかり娘を教育しなければならない。 二人が去った後、美琴はさっと部屋を見渡し、テーブルの上のクルーズチケットに視線を止めた。そして、嘲笑を浮かべながら言い放った。「こんなふうにしがみついたって無駄よ。すぐに分かるはず。泰明さんが本当に愛してるのは、誰なのかって」 第8話 真希は、美琴の言葉がわざと自分を刺激しようとしているのだとわかっていた。だが、顔にはほとんど感情の色は浮かばなかった。「もう全部、手放すつもり。あなたと何を争うつもりもないわ」 美琴はあざ笑うように口を開いた。「やめておきなさいよ。本当に去りたいなら、とっくに出て行ってるわ。図々しく居座ってるのは、結局お金のためでしょ?あ、そういえば、前に泰明さんにバラの花を贈ってもらったでしょう?香り、最高だったんじゃない?」 その言葉に、真希の表情が一変し、複雑な感情が浮かんだ。 美琴でさえ、自分の花粉症を知っているのに、泰明はまったく気づかなかった。本当に愚か者だ。 やはり、彼の心の中に自分の居場所など最初からなかったのだ。 間もなく、泰明が娘を連れて戻ってきた。沈んだ顔で、真希に言った。「まだ子どもだから、分からないこともある。もうちゃんと叱った。一緒に夜のクルーズ、行こう」 その言葉を聞いた瞬間、美琴が慌ててカバンからチケットを取り出した。「泰明さん、これ見て!私たちが大学時代から好きだったバンド、今日が最後のライブなの。解散前のファイナルステージよ」 泰明は一瞬、迷った。 以前の彼なら、迷うことなく美琴の誘いを選んでいたはずだ。 けれど今日、彼は真希の様子に、なにか違和感を覚えていた。だからこそ、自分からクルーズに誘ったのだ。 もし今また美琴を選べば、真希は本当に耐えられない。 たとえ彼女が自分を深く愛し、離れないと確信していても、不安は消えず、彼は決断した。 「ごめん。そのバンド、もう好きじゃなくなった。それに、先に真希に約束してたんだ」 そう言って、彼は背を向け、着替えのために部屋へと入っていった。 その展開は、美琴にとって完全な予想外だった。これまで彼女の頼みはすべて通ってきた。それなのに、今日は、あのブスのために、自分を拒否したのだ。 彼女の顔が歪む。「ブス、いったいどんな手を使ったのよ」 真希は返す言葉もなかった。言い返す価値すら感じなかった。 しかし、その沈黙が逆に、美琴の怒りに油を注ぐ。 怒り狂った美琴は、テーブルの上にあったバラの花束をつかむと、それを真希の頭に向かって力いっぱい叩きつけた。 花粉が一気に舞い上がり、真希は大量に吸い込んでしまった。顔が真っ赤に腫れ、息がどんどん苦しくなっていく。 そんな彼女を見ながら、美琴は勝ち誇ったように笑った。「さあ、泰明さんがどっちを選ぶか、楽しみね」 そう言って、彼女は突然床に倒れ込み、お腹を押さえてうめき始めた。 泰明が部屋から出てきたとき、目に入ったのは呼吸困難で顔を赤くし、今にも倒れそうな妻と、腹を抱えてうずくまり、苦しむ初恋の人。 その場に立ち尽くし、動けなかった。 真希は、自分の身体の異変をはっきりと感じていた。このままじゃ、本当に死ぬ。 もはや他のことは考えられない。生き延びることが最優先だ。「泰明、お願い、早く病院に……私、限界……」 その声を聞いて、泰明はようやく我に返り、真希のもとへ駆け寄ろうとしたが、美琴が彼の足をつかんで叫んだ。「泰明さん、助けて。お腹が誰かにナイフで刺されてるみたいに痛いの」 そこへ一花が駆け寄り、美琴のそばにしゃがみ込むと、真希を指さして叫んだ。「全部このブスが悪いんだよ。わざと秋葉おばさんを怒らせて、病気にさせたの。パパを試すために演技してるだけ、秋葉おばさんを早く病院に連れて行って」 泰明の顔色がみるみる険しくなった。「お前、どこまで下劣なんだ。人間のクズだな、真希」 そう言い放つと、彼は真希を完全に無視して美琴を抱え、家を出て行った。 残された真希の心は、完全に打ち砕かれた。まだ、どこかで彼に期待してた自分がいたなんて。滑稽すぎる。 彼女は震える手を伸ばし、ソファにあった電話をなんとか取り上げる。理子の番号を押した瞬間、意識が遠のいていった。 次に目を覚ました時、彼女は病院のベッドの上にいた。 理子が険しい顔で見下ろしていた。「死ぬ気だったの!もう少し遅かったら、今ごろあんたが死んだよ」 真希は、ただ黙っていた。何も言わなかった。 今回の入院は長引かなかった。離婚協議書の効力が発効するその日に、退院手続きを済ませた。 以前と同じ、泰明は、最初から最後まで、彼女の命すら気にかけなかった。 家に戻った真希は、床に散らばった乾ききったバラの花びらを見下ろした。まるで、自分の壊れた結婚生活そのものだった。終わりを迎えていた。 荷物をまとめ、彼女は離婚協議書をテーブルの一番目立つ場所に置いた。 荷物は多くない。振り返ることなく、真希はその家を後にした。 長年過ごしたその場所は、もはや家ではなかった。ただの檻だった。 ここを出て、彼女はようやく自由になれる。 真希は前もって予約していた航空券を手に、空港へと向かった。 搭乗を待つ間、携帯が鳴った。泰明からだった。 彼女は画面を見つめ、一切の迷いもなく通話を切り、そのまま電源を落とした。 これから先、どこにいようと、泰明との縁は、ここで終わりだ。