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失われた愛のかけら
「深山沙羅(みやま さら)さん、本当にこの実験を受ける決意は変わりませんか?」 白衣のスタッフが探るような目で尋ねてきた。 沙羅はしっか...
Chương (1)
第1章
「深山沙羅(みやま さら)さん、本当にこの実験を受ける決意は変わりませんか?」
白衣のスタッフが探るような目で尋ねてきた。
沙羅はしっかりとうなずいた。
「はい、お願いします」
「かしこまりました。この実験同意書にサインをお願いします。実験が始まると、あなたの記憶はすべて消去され、これまでの人生の出来事は一切思い出せなくなります。もう後戻りはできません。よく考えてからご署名ください」
沙羅は数秒間だけ黙り、自分の人生を走馬灯のように振り返った。
色あせて、短い人生には、もう思い出す価値のある人も出来事も残っていなかった。
ペンを取って、自分の名前を書き、同意書をスタッフに手渡す。
「書きました」
「ありがとうございます、沙羅さん。来週、研究所でお待ちしています」
第1話
「深山沙羅(みやま さら)さん、本当にこの実験を受ける決意は変わりませんか?」
白衣のスタッフが探るような目で尋ねてきた。
沙羅はしっかりとうなずいた。
「はい、お願いします」
「かしこまりました。この実験同意書にサインをお願いします。実験が始まると、あなたの記憶はすべて消去され、これまでの人生の出来事は一切思い出せなくなります。もう後戻りはできません。よく考えてからご署名ください」
沙羅は数秒間だけ黙り、自分の人生を走馬灯のように振り返った。
色あせて、短い人生には、もう思い出す価値のある人も出来事も残っていなかった。
ペンを取って、自分の名前を書き、同意書をスタッフに手渡す。
「書きました」
「ありがとうございます、沙羅さん。来週、研究所でお待ちしています」
研究所を出ると、沙羅は深く息を吐いた。身体の重さも少し和らいだ気がした。
そのころ、香坂拓真(こうさか たくま)は京市最大のカンファレンスホールで新車発表会を行っていた。発表会はネットでライブ配信され、通りすがりの人までもがスマホでその様子を見ていた。
朝から、沙羅のスマホには拓真からのメッセージが届いていた。
【お姫様、発表会でサプライズがあるよ。沙羅が喜んでくれるといいな】
沙羅はスマホを手に取り、配信画面をタップした。
拓真はきっちり仕立てたスーツ姿で、晴れやかな自信をみなぎらせて壇上に立っていた。その背後には、布に覆われた巨大な何かが隠されていた。
司会者がにこやかに尋ねる。
「今回発表される新車は、香坂社長が奥様へのサプライズとしてもご用意されたそうですが?」
拓真はマイクを持ち、観客に向かって答えた。
「今日は妻の沙羅の誕生日です。彼女は僕と一緒に、あらゆる苦難を乗り越えてきました。今の僕があるのは、彼女がいたからこそです。だから半生をかけて作ったこの車を、彼女に贈りたいと思います」
そう言って拓真が布を引くと、そこには可愛らしいピンク色の新車――ピュアハートが現れ、会場は大歓声に包まれた。
【なんでこんな理想の旦那さんがこの世にいるの……誰か私にも分けて!】
【沙羅さんってどんな前世で徳積んだの?お金持ちで優しくてイケメンな旦那とか羨ましすぎ】
【今日もまた嫉妬の一日。私もこんな恋愛してみたい~】
【この車めちゃくちゃ可愛い!やっぱり香坂社長、女心わかってるなあ。うちの旦那にもおねだりしよ】
【本気で奥さんを愛してるからこそ、こういう女性目線の車作れるんだよね。リアルに真実の愛ってあるんだ!真実の愛バンザイ】
司会者が続けて尋ねる。
「どうしてこんなデザインの車を作ろうと思ったんですか?」
拓真はカメラに向かって、深く優しい目をして語る。
「うちの妻は方向音痴で、出かけるとすぐ迷子になっちゃうんです。
僕が一緒にいる時はずっと手をつないでいたけれど、仕事が忙しくなって、毎日付き添ってあげられなくなりました。
それで、彼女がどこへでも好きな場所へ行けるような車を作りたいと思ったんです。
愛とは束縛じゃなくて、育み合うもの。大切な人が自由に羽ばたける勇気を持てるように。
ピュアハートは、すべての女性にふさわしい一台です」
拓真のスピーチには場内から拍手と称賛が起き、コメント欄もハートマークで埋め尽くされた。
沙羅はスマホ画面を閉じ、静かにバッグへしまい込んだ。
もし、あの動画を一ヶ月前に見ていなければ、きっと今もこの男の言葉に感動して泣いていたかもしれない。
けれど、あの動画のことを思い出すたび、無意識に吐き気を覚えるのだ。
その動画では、早瀬理々(はやせ りり)がメイド服で床にひざまずき、夢中で拓真に奉仕していた。拓真は満足げな表情で、その姿を楽しんでいた。
二人の様子はどう見ても初めてではなかった。
沙羅は動画を見終え、三日三晩も眠れなかった。
拓真に「どうして自分は理々にかなわなかったのか、何が足りなかったのか――」と問い詰めたい気持ちもあったが、答えを知ったところで意味がない。
もう、彼は汚れてしまった。
沙羅には、汚れた男はもう必要なかった。
第2話
沙羅は家に戻り、自分の証明書や古い資料をきれいに並べると、それらを金属のトレーに入れて静かに火をつけた。
炎が勢いよく立ち上り、彼女の過去を物語るすべての紙が瞬く間に灰になっていった。
あと数日で「深山沙羅」という名前がこの世界から完全に消えるのだと思うと、自然と笑みがこぼれた。
ようやく解放されるのだ。
十年の交際、沙羅は拓真と共に、未熟だった時代から大人になり、貧しかった頃から成功するまで一緒に歩んできた。
二人で一番苦しかった時は、チャーハン一皿しか買えなかった。
それでも沙羅は一度も辛いと思わなかった。
愛さえあれば水だけでも満たされる――本気でそう思っていた。
拓真はかつて、空に誓い、地に誓った。この命ある限り、愛するのは沙羅だけだと。
けれど、その誓いも結局、人の心変わりには勝てなかった。
沙羅は信じていたが、彼は忘れてしまった。
沙羅は引き出しから、瑠璃の夫婦御守りを取り出した。
これは結婚した時、拓真が新婚祝いとして贈ってくれたものだった。
「沙羅、これは職人さんにお祓いもしてもらった夫婦御守りだよ。これからも、ずっと二人が心離さないようにって」
当時の拓真の言葉が今も耳に残っている。
沙羅が手を離すと、お守りは床に落ちてバラバラに砕けた。
やっぱり虹はすぐに消えるし、ガラス細工は壊れやすい。二人の愛も、思ったよりずっと脆かった。
沙羅は破片を拾い集め、用意していたギフトボックスにそっと納め、さらにその上に一通の手紙を置いた。
最後の火花が消えかけた時、拓真がドアを開けて入ってきた。
「沙羅、今日は僕のこと考えてくれてた?発表会が終わってすぐ帰ってきたんだ。お腹すいてるだろうと思って、君の好きなスイーツも買ってきた。ちょっと食べてから、夜はご馳走連れてくから」
拓真は沙羅の背後から腕を回し、そっと彼女の肩に頭を乗せた。
沙羅は彼の息づかいを感じ、少しだけ顔を背けた。
「私はお腹すいてない」
沙羅は横にあるスイーツの袋をちらりと見た。いつも自分が通うあの洋菓子店のものだった。
こういう気遣いに関しては、拓真は本当に完璧だった。
好きなものも、嫌いなものも、誰よりも拓真が理解している。
「どうした、今日に限って食欲ないの?怒ってる?ここ数日、発表会の準備でずっと帰れなくて悪かった。ごめんって、許してよ」
拓真は沙羅の顔を両手で包み、少し拗ねたような目で見つめる。
沙羅はふと、拓真の体から漂う甘い香水の匂いに気づく。自分は香水を使わない。この香りは、他の女のものだ。
最近は毎晩のように理々と密会していたのに、真顔で「ずっと残業だった」と言い張る拓真。
沙羅は問い詰めもせず、「怒ってない。気にしないで」とだけ返した。
拓真は嬉しそうに沙羅にキスをして、ポケットからハート型の車のキーを取り出して、宝物のように差し出す。
「このプレゼント、どう?この車、君のためだけに作ったんだ。AI搭載で、もう絶対道に迷わないよ。沙羅が行きたい場所、どこにでも連れていくから」
拓真はどんどん興奮していく。
「君は神様が僕にくれた最高のご褒美だよ。この車が発売されたらたくさんの人が気に入ってくれて、僕の会社の株も一気に上がったんだ。僕ももうすぐフォーブスに載るような大金持ちになるよ……」
沙羅には、拓真の話がやかましく響いた。ハート型のキーを手に取ると、不思議なほど心が冷えていった。
「拓真、私のこと、ずっと愛してる?」
拓真はまるで冗談みたいに笑って答える。
「もちろん、そんなの聞くまでもないだろ?この先も、来世も、その次も、ずっと沙羅だけを愛してるよ」
この言葉を、沙羅はもう何度も聞いた。
昔は疑いもせず信じていた。でも今は、ただの侮辱にしか聞こえない。
「覚えてる?結婚式のとき私が言った言葉。もし私を裏切ったら、本当にあなたの前から消えるって」
沙羅はわずかに口元をゆがめ、遠くを見るような目でつぶやいた。
拓真の瞳は澄みきったままで、微塵の迷いも感じられなかった。
沙羅の顔に頬を寄せて「心配しなくていい。僕は一生、君との誓いを忘れないから」と微笑む。
そのとき、拓真の携帯が鳴った。
画面をちらっと見て、慌てて着信を切る。
「会社の連中、ほんと空気読めないな。今日が君の誕生日だって分かってるはずなのに、電話してくるなんて」
沙羅は画面に【癒し系女子】の文字が映ったのを見逃さなかった。
電話がまた鳴り、拓真はもう一度切ろうとする。
「もしかしたら大事な用事かもしれないよ。出た方がいいんじゃない」
沙羅が促すと、拓真はほっとして「うん、すぐ戻るから」と言い残して部屋を出ていった。
沙羅は鏡越しに、ドアの隙間から拓真の笑顔を見ていた。
そっとドアを開けてみると、外から拓真の声がはっきり聞こえる。
「小悪魔ちゃん、まだ足りない?僕もう限界だよ、ちょっとは休ませてくれよ」
相手が何か言ったのか、拓真はさらに楽しげに笑っている。
「本当?今日はご褒美だな……」
沙羅はそれ以上聞きたくなくて、そっとドアを閉じた。
数分後、満足そうな顔で拓真が戻ってくる。
「沙羅、行こう。今日は君の誕生日だし、ちゃんとお祝いするよ」
第3話
沙羅は立ち上がると、隣に置いていたギフトボックスに拓真が気づいた。
「それ、何?」と拓真がうれしそうに尋ねる。
「これ、あなたの誕生日プレゼントに用意したの」
拓真はギフトボックスを手に取ると、抑えきれない笑顔を浮かべた。「沙羅、今年はずいぶん早いね。僕の誕生日、まだ先なのに」
拓真の誕生日は沙羅の誕生日のあと、ちょうど沙羅が実験室に入る予定の日だ。
その日、拓真が自分のいなくなったことに気づくだろうと思うと、沙羅の心は少しだけ晴れやかだった。
「うん、早めに用意したの。誕生日まで開けずに取っておいて」
拓真はギフトボックスを大事そうに棚にしまった。
「沙羅は本当に僕に優しいな。僕はなんて幸せなんだろう」
そう言って、拓真は沙羅の手を引いて外に出た。
地下駐車場には、新品のピンク色の車が停まっていた。
それは今日、拓真が発表したばかりの新車だった。
「沙羅、試乗してみようよ。きっと気に入るはず。これは僕からのプレゼントだよ」
沙羅は車体の周りをゆっくり見て回った。
ナンバープレートを目にした瞬間、全身が震え出した。
二日前、理々から送られてきた動画に映っていたのは、まさにこの車だった。
理々と拓真が車の中で激しく抱き合い、シートには二人の痕跡が残っていた。
沙羅がなかなか車に乗ろうとしないのを見て、拓真は少し不安そうに尋ねる。「どうしたの?この車、気に入らなかった?」
沙羅は首を横に振った。「免許取ったばかりで、あまり運転に自信がなくて」
拓真はキーを手に取り、手慣れた様子で運転席のドアを開けて座り込んだ。
「じゃあ、僕が教えるよ」
沙羅はバッグからウェットティッシュを取り出し、助手席のシートを丁寧に拭いてから座った。
「新車なんだから、そんなに気にしなくてもきれいだよ」と拓真が笑う。
沙羅は淡々とした声で答えた。「工場から出荷される時に、誰が座ったかわからないじゃない?私は、前に誰かが使ったものが昔から苦手なの」
その言葉に、拓真の笑顔が少し引きつり、気まずそうな空気が流れたが、すぐに話題を変えた。
「今夜は君の好きなフレンチを予約してあるんだ。ひと月前から予約しないと取れない店なんだって。かなり美味しいらしいよ……」
拓真は楽しそうに話していた。
沙羅が手を伸ばすと、シートの隙間から硬いものに触れた。何気なく取り出してみると、それはシャネルの口紅だった。
沙羅はそれを拓真の目の前に差し出し、軽く微笑む。「これも私へのプレゼント?」
拓真は一瞬目を泳がせ、顔を赤らめる。
「うん、他の女がこの口紅は今年人気って言ってたから、沙羅にも似合うと思って。普段あまり化粧しないけど、この色はきっと合うよ」
沙羅は心の中で冷たく笑いながら、目の前で口紅の蓋を開けた。中身はすでに削れて平らになっていた。
「これ、誰か使ったみたいだけど。店員さん間違えたんじゃない?」
拓真は焦りながら言い訳をする。「たぶん……店員さんが間違えて渡したのかも」
沙羅は淡々と続ける。
「私、前にも言ったけど、人が使った中古品が苦手なの」
少し間を置いて、冷たい目で拓真を見つめた。
「同じことは、男にも言えるわ」
その冷たいまなざしに、拓真はうろたえ、沙羅の手をつかんで必死に弁解した。
「ごめん、沙羅。もしかして怒ってる?すぐ新しいのを買ってくるから、お願い、怒らないで。僕、君に怒られるのが一番苦手なんだ」
沙羅は何も答えず、手を振り上げて口紅をゴミ箱に投げ捨てた。
その直前、彼女のスマホに理々からメッセージが届いていた。
【沙羅さん、口紅を拓真さんがプレゼントした車にうっかり置いてきちゃいました。ごめんなさい】
沙羅は返信しなかった。理々がわざと見せびらかしているのはわかっていた。拓真が必死で謝っている姿を見ていると、ふいに馬鹿らしくなってきた。
沙羅はそっと顔をそらし、流れる車窓の景色を眺めた。
人生で最後になるかもしれない記憶の残る誕生日を、くだらない男のために無駄にしたくはなかった。
レストランに着くと、拓真は紳士ぶって先に車を降り、沙羅に手を差し伸べてエスコートした。
店の前には人だかりができていた。
「うわ、本物の理想の旦那様と奥さんだ!本当に仲良しカップルで羨ましい!」
「奥さん、めちゃくちゃ美人じゃない?これなら拓真さんが夢中になるのも納得だね。あんな奥さんがいたら、他の女なんて眼中に入らないよ」
「見てよ、この現実離れした夫婦!旦那さんはお金持ちでイケメンだし、プレゼントも豪華で、まるで小説みたい」
褒められっぱなしの拓真は鼻高々だ。
「皆さん、道を開けてください」
人ごみをかき分けながら、拓真は沙羅を店の中に案内した。
テーブルには、沙羅が好きな料理がずらりと並んでいた。
第4話
拓真はワイングラスを掲げ、涙ぐんだ目でしみじみと言った。
「沙羅、覚えてる?あの頃、僕たちはお金がなくて、ご飯にも困るくらいだった。僕はバイトに出ても騙されたりして、でも沙羅が毎日二時間かけて家庭教師の仕事に通って、あの苦しい日々を支えてくれた」
「沙羅、君と一緒だったからこそ、僕はここまで来られたんだ。本当にありがとう。
これからは、僕たちふたりにもっとたくさんの幸せが待ってるはずさ」
そう言い終えると、拓真はワイングラスの中身を一気に飲み干した。
沙羅もグラスを揺らし、静かにワインを一口飲んだ。
あのときは、沙羅の人生で一番苦しくて、一番幸せな時間だった。
お金はなくても、心は澄んでいた。愛は互いに寄り添うその瞬間に、限りなく広がっていった。それが沙羅の心の奥底に深く刻まれている。
けれど今、その愛は根こそぎ抜き取られ、傷跡だけが残っていた。
沙羅は胸の奥で苦笑いした。——でもね、拓真、私たちに「これから」なんてもうないのよ。
「昔の話はもういいじゃない。あんまり言うと感傷的になっちゃうし」
拓真は、沙羅が昔のつらいときを思い出して落ち込んでいるのかと勘違いし、急いで話題を変えた。
「そうだね、もうやめよう。さあ、食べよう食べよう」
今日はなんだか沙羅の様子が少し沈んでいるように感じて、拓真は一生懸命に沙羅の皿に料理を取り分けた。
沙羅は少しだけ口をつけると、箸を置いた。
「どうしたの?あまり美味しくなかった?」
拓真はいつものように気遣いを見せる。
「人って、同じものばかり食べてたら飽きると思わない?」
拓真は眉をひそめる。「もしかして、料理が合わなかった?他の店に行こうか?」
「いいの。飽きたからってすぐに変えたら、なんだか薄情じゃない?」
拓真は、今日一日沙羅がどこかよそよそしいことに気づいていた。
まるで全身がトゲだらけになったみたいで、時々そのトゲが自分に刺さるような気がする。
でも、何がどう変わったのかはうまく言葉にできなかった。
彼が沙羅の気分を確かめようとしたとき、またスマホが鳴りはじめた。
とっさに切ったが、何度も何度も着信が続く。
今度は電話じゃなくて、連続したLINEメッセージだった。
沙羅は向かい側から、ちらりとその画面を目にした。
はっきりは見えなかったが、どうやら女の子の写真が映っているようだった。
拓真は画面を見つめ、メッセージを次々と開いては、頬を赤らめていた。
沙羅は静かに尋ねた。「誰から?こんな時間にいっぱいメッセージなんて」
拓真はあわてて画面を消し、何でもない風を装った。「いや、次の新車の写真だよ。技術部がチェックしてほしいって」
少し間を置いて、こう続けた。「ちょっと工場を見てこなきゃならないんだ。データにトラブルがあったみたいで。食事が終わったら、先に帰っててくれる?あとで僕も帰るから」
拓真は沙羅には代行を手配し、自分はタクシーで店をあとにした。
運転手は嬉しそうにハンドルを撫でながら話しかけてきた。
「いやあ、この車、すごくいいですね。旦那さん、奥さんにほんとによくしてますね。僕もいつかお金貯めて、妻にこんな車を買ってあげたいです」
深い愛情は、拓真にとって単なるキャラクター設定であり、同時にビジネス戦略でもあった。
よくできた広告だ。誰もがこの車を「真実の愛」の象徴だと思い込んでいる。
沙羅は窓の外を見つめ、冷ややかに言った。
「前の車、見える?ついていって」
運転手は首をかしげる。「旦那さんからは家まで送るようにって言われてますけど……」
「違うわ、不倫現場までお願い」
運転手は訳が分からず、あわてて口をつぐんだ。
拓真は会社のビルに到着し、足早に建物へ入っていった。
ビルの窓にほのかな明かりが見え、沙羅には誰かがそこで待っているのがすぐに分かった。
沙羅もそのあとをつけて行った。
オフィスの前に着くと、中から男女のいちゃつく声が聞こえてきた。
「さすがだなあ、ほんと柔らかくてたまらないよ」
「好きならもっとキスして。私、キスされるのが一番好きなの」
「ああ……やっぱり君の方が僕をその気にさせる。なんでこんなに魅力的なんだ?」
「私って、あなたの奥さんより面白いでしょ?ねえ……」
「理々、君はまさに小悪魔だよ。君のせいでどうにかなりそう。でも、彼女のことだけは口にしないでほしい。誰とも比べられる存在じゃないから」
拓真はさらに激しくなり、理々の体もとろけていく。
……
中からはいやらしい言葉や男女の体がぶつかる音が絶え間なく聞こえてきて、沙羅はまるで海の底に沈められたように息苦しさを感じた。
動画で二人の関係を見ていた時とは比べ物にならない衝撃が、耳から全身に突き刺さってくる。
沙羅の心は、完全に終わってしまった。
まさか、自分の誕生日に、拓真が理々と密会するなんて。
愛なんて、ただの幻想だった。
風が吹けば、すぐに消えてしまう泡のようなもの。
十年分の思い出が次々と脳裏をよぎる。
まるで夢みたいに、はかない幻のようだった。
拓真が本当に自分を愛していたのかどうか、今となってはもう分からない。
けれど、もうそんなことはどうでもよかった。
これからの人生は、自分で歩いていかなきゃいけない——沙羅はそう静かに心に決めた。
第5話
沙羅はオフィスビルを出ると、振り返ってそびえ立つ高層ビルを見上げた。
かつて拓真が何も持っていなかった頃、沙羅は必死で彼を支え、投資先を探し、起業に力を貸してきた。
今ではこんな大きなビルが建つまでになったけれど、もうここに自分の居場所はなかった。
家に帰っても、眠気はまったく訪れず、沙羅の頭の中は様々な思いでいっぱいだった。
拓真はその晩、一度も帰らなかった。夜が明けかけたころ、ようやく家に戻ってきた。
後ろから静かに沙羅を抱きしめ、優しく耳元にキスした。
鼻に生臭い匂いがふっと漂い、昨夜の光景を思い出した沙羅は、思わず「うっ」と吐き気を催した。
拓真は慌てて沙羅の背中をさする。
「どうした?何か悪いものでも食べた?」
しばらくして、沙羅はうつむきながら力なく答えた。
「大丈夫。昨日の夜ご飯のあと、冷たい風に当たりすぎただけだと思う」
「じゃあ、生姜湯を作ってあげるよ。体が温まるから」
拓真は手慣れた様子でキッチンへ向かった。
沙羅は、拓真の体力には感心するばかりだった。昨夜は一晩中浮気相手と過ごしたはずなのに、今はこうして何事もなかったかのように自分の世話をしてる。
ただ、その体力が自分のために使われることは、もうずいぶん前からなくなっていた。
夫婦らしい時間は、もう遠い昔のものになっていた。
拓真は「忙しい」とか「疲れている」と言い訳ばかりしていた。
沙羅は様々な健康法を試してみたけれど、どれも効果はなかった。
結局、彼の情熱はすべて他の女に向けられていたのだ。
しばらくして、拓真が生姜湯を持ってやって来た。
「ほら、熱いうちに飲んで」
薄く細く切られた生姜の千切りが、見事に揃っている。包丁さばきもすっかり板についたものだ。
沙羅は器の底の生姜を見つめ、不意に目頭が熱くなった。
胃が弱い沙羅のために、拓真はいつもこうして生姜湯を作ってくれた。
どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、必ず自分のためにこの一杯を用意してくれた。
この平凡な生姜湯を、もう十年も飲み続けてきた。
沙羅はスプーンですくってひと口飲む。味は何も変わっていないのに、もうその人は、かつての拓真ではなかった。
ぽつんとこぼれた涙が、器の表面に静かな波紋を描いた。
拓真は沙羅をぎゅっと抱きしめて謝った。
「ごめん、沙羅。本当に昨日はトラブルがあって帰れなかったんだ。朝一で片付いたから、すぐ戻ってきたよ。だからもう泣かないで。沙羅が泣くと、僕の心まで壊れそうになる」
沙羅は涙をぬぐい、無理に微笑みを作った。
「うん、仕事が忙しいのはわかってる。私、怒ってないよ。ただ生姜の香りが目にしみちゃって」
「そうか、僕の沙羅は世界で一番優しい奥さんだ」
本当は、その優しい妻はもうすぐ消えてしまうのに。
そう思うと、沙羅の胸の痛みも少しずつ遠ざかっていった。
「生姜湯飲みながら、もう少しだけ休んでて。朝ごはん、すぐ作るから」
拓真は沙羅の髪をくしゃっと撫で、甘えるように言った。
「僕がいなくなったら、沙羅はどうやって生きていくんだろうな」
そう言い残して、またキッチンへ向かう。
胸の奥がしんと痛んだけれど、もう沙羅はそれに溺れることはなかった。
あと少しだけ、耐えればいい。
そのとき、スマホがブルッと音を立てた。
理々から数枚の写真が送られてきていた。
広いオフィスで男女が絡み合い、理々はほとんど透けたレースのランジェリー姿で拓真の胸にもたれかかっている。
【昨日のお誕生日、楽しかった?拓真さんにちょっと甘えたら、すぐ来てくれたの。やっぱり体力あるね、一晩中離してくれなくて。お姉さんのとこでも、こんなに激しいの?】
【それに、あの車も拓真さんがくれたんだよ。私が工場で選んだやつなの。沙羅さんのは、私が選ばなかった残り物】
【ねえ、私たちどっちが拓真さんにとって本命なんだろうね?】
理々の挑発的なメッセージにも、沙羅の心は少しも揺れなかった。
その間に拓真が朝食を運んできた。
ほかほかの白がゆ、ふわふわのミルクパン、焼きたての卵焼きにフルーツ。
どれも胃に優しくて栄養のあるものばかり。
「ほら、食べて。ちゃんと食べないと元気出ないよ」
沙羅はテーブルにつき、静かに口へ運ぶ。
けれど胃がどうしても受け付けず、思わず吐きそうになった。
拓真の顔が急に曇る。
「沙羅、どうした?体の具合が悪いのか?よし、すぐ病院に行こう」
第6話
病院に着くと、拓真は受付や会計、検査の手続きにバタバタと走り回った。
三十分ほど待って、ようやく医者に呼ばれた。
医者は沙羅の顔色を見ながらいくつか質問をし、「症状から見ると、もしかすると妊娠かもしれませんね。一度採血して調べてみましょう」と告げた。
拓真は嬉しさを隠しきれず、顔を輝かせて言った。
「沙羅、僕たち、ついに親になるんだよ」
沙羅は少し眉を寄せ、「まだ分からないよ。結果が出るまで何も言えない」と静かに答えた。
「うん、すぐに一緒に行こう」
沙羅の心は重く沈んでいた。この子は、あまりにも間が悪い。
採血を終えて待合室で座っていると、拓真の電話がまた鳴った。
慌てた様子で沙羅を見て、すぐに切ろうとした。
「まったく、こういう時に限って、みんな空気読めないな」
沙羅は静かに笑った。「大丈夫よ、結果が出るまで時間かかるし。電話、出てきていいわよ」
拓真は安心して席を立ち、外に出て電話を取った。沙羅もそっとそのあとをつけていく。
病院の廊下の隅で、理々が興奮した顔で拓真にしがみついていた。
「どうして来たんだ?今日は家でゆっくりしてなさいって言っただろ」
「だって会いたくなっちゃったんだもん。私、ここ最近、生理が半月も遅れてるの。もしかして妊娠かもって思って、病院で検査してもらいに来たの」
「何だって?妊娠だなんて、冗談じゃない。ちゃんと対策してるはずだ」
「それでも、万が一ってあるでしょ?さっき調べたら、陽性反応出たんだよ」
理々はバッグから妊娠検査薬を取り出し、拓真に見せつける。
「ほら、私、嘘なんかついてないよ」
拓真の顔色が変わり、検査薬を思わず投げ捨てた。
「いいか、僕の子どもを産む資格があるのは沙羅だけだ。君がもし本当に妊娠していたら、すぐに下ろしてこい。じゃないと容赦しないぞ」
理々は涙を浮かべて抗議した。
「どうしてそんなにひどいこと言うの。あなたの子どもなのに」
拓真は理々を抱き寄せてキスしながらなだめた。
「子どもなんてできたら面倒だろ?僕はもっと君と一緒にいたいんだ」
そのまま二人はお互いを求め合い、なかなか離れなかった。
沙羅は吐き気が増してきて、危うくその場で倒れそうになった。
部屋に戻ると、ちょうど検査結果が出ていた。沙羅は用紙の「陽性」の文字をぼんやりと見つめた。
たった一度のことで、どうしてこんなことになるんだろう。
この子を、何年も待ち望んできたのに、どうしてこんな時に授かってしまうんだろう。
でも、この子とは、きっと縁がなかったんだ。
医師の部屋に入り、沙羅は淡々と告げた。
「中絶手術の予約をお願いします。できるだけ早く」
医師は驚いた様子で尋ねる。
「ご主人はご存じですか?さっきまでとても嬉しそうでしたよ」
「必要ありません。法律上、産むかどうかは女性が決める権利があるはずです」
医師は小さくため息をつき、質問をやめて手術の予定を入れた。
「明日の午後に空きがあります。その時に来てください」
診察室を出るとき、沙羅の表情は驚くほど落ち着いていた。
もうすぐ、すべての痛みから解放される。
そこへ拓真が戻ってきて、足早に沙羅に駆け寄る。
「どうだった?結果は出た?もしかして妊娠してる?」
「違うわ。ただの胃の不調みたい。薬を飲めば治るって」
「検査結果は?ちょっと見せて」
「捨てたわ」
拓真は少し疑わしそうに尋ねる。
「本当に妊娠じゃなかったの?」
「うん。妊娠なんてそんな簡単なことじゃない。二人で何年も一緒にいたのに妊娠しなかったんだから、きっと私はそういう体質なんだと思う」
拓真は残念そうな顔を浮かべたが、すぐに明るさを取り戻して言った。
「大丈夫だよ。僕がもっと頑張れば、きっとそのうち赤ちゃんができるから」
沙羅は黙って拓真を見つめ、心の中で冷たくつぶやいた。
あなたには、私の子どもを持つ資格なんてない。
まして、父親になる資格なんて、もっとない。
第7話
沙羅が家に着くと、拓真は玄関先で何度も念を押した。
「沙羅、家でちゃんと休むんだよ。体調を整えて、元気な子どもを産んでくれ」
その嬉しそうな顔を見ながら、沙羅はただ静かにうなずいた。
けれど一瞬だけ、彼が子どもについて本当はどう思っているのか、確かめたくなった。
「拓真、もし本当に私に子どもができたら、ちゃんと愛してくれる?」
拓真は沙羅の頬に手を添えて、優しく微笑む。
「もちろんさ。僕は絶対にその子を世界で一番幸せにするよ。
じゃあ、いい子にして家で待ってて」
沙羅は彼の腕をそっとつかみ、心の中で「あなたの子どもを授かった」と打ち明けたくなった。
何度も、こんなふうに伝える場面を想像してきた。
拓真が大喜びして沙羅を高く抱き上げ、声を上げて「パパになるんだ」とはしゃいでくれる——そんな光景を。
でも、現実には彼は別の女性にも子どもを授けていた。
沙羅の手は、力なく下ろされた。
拓真が出ていくと、沙羅はぐったりと眠りに落ちた。
翌朝目覚めると、スマホには新しいメッセージが届いていた。
理々から写真が何枚か送られてきた。
画面を開くと、妊娠検査薬と診断書の写真が映っていた。
【沙羅さん、私、妊娠しちゃった。拓真さんが「沙羅は子どもを産めないから、僕の家を継ぐ後継ぎが必要だ」って言ってた。だから私の子どもは将来、全部の財産を相続するんだって】
【私もうお腹に赤ちゃんいるのに、拓真さんったら昨日も私を離してくれなかったの。もうお腹が痛くなるくらい。沙羅さんは家でのんびりお昼寝できていいね】
沙羅はメッセージ画面を閉じ、タクシーで病院へ向かった。
冷たい手術室の中、沙羅は震えながらベッドに横たわった。
最後にお腹をそっとなでて、涙が静かにこぼれ落ちる。
赤ちゃん、ごめんね。ママは君をこの世界に迎えてあげられない。
ほんの数分で、小さな命は母体から離れ、ごみ箱の中の廃棄物になった。
沙羅は震える声で医師に尋ねる。
「……私の赤ちゃん、見せてもらえますか?」
医師は面倒そうな顔で答えた。
「アレしているときは、そんなこと考えなかったくせに、今さら母親面ですか?」
医師の冷たい態度にも構わず、沙羅はごみ箱のそばにひざまずき、小さな塊を両手で拾い上げた。
ティッシュで包み、大事そうに持ち帰った。
病院を出ると、空は明るく晴れていたのに、沙羅には骨の芯まで冷たさが染みた。
スマホには、理々からのメッセージが途切れることなく届いている。
今度は高級マンションの写真だった。
【拓真さんが、赤ちゃんが生まれたら一番いい暮らしをさせたいって。だから一緒に新しい家を見に来てくれたの。ここの別荘は二十億もするんだって、素敵でしょ?】
沙羅はその足で弁護士事務所へ向かい、離婚について相談した。
「本当に何もいらないんですか?拓真さんの資産は相当なものです。これではもったいないですよ」
「はい、何も要りません。どうか早く書類を作ってください」
しばらくして、離婚届は出来上がった。
沙羅は家に戻り、離婚届と赤ちゃんを包んだティッシュを一緒にギフトボックスに入れた。
その箱をそっと元の場所に戻し、口元にかすかな笑みを浮かべる。
拓真、これが私からの誕生日プレゼントよ。気に入ってくれたらいいけど。
理々からのメッセージは、まだ止まらなかった。
【拓真さんが、私のために京市で一番高級な産後ケア施設を予約してくれたの。ここはお客さんも超一流ばかりで、ひと月二千万もするんだって。私の赤ちゃんを世界一幸せにしたいって言ってくれてる】
結局、誰があなたの子どもを授かっても、同じなのね。
沙羅は虚しさに包まれながら、部屋の中をぐるりと見回した。
この家は、沙羅が何年もかけて心を込めて作り上げてきた場所だった。部屋の隅々に、自分と拓真の思い出が染みついている。
このマンションは、拓真が初めて大金を稼いだときに買ったものだ。
ここで二人は恋をして、結婚し、「ずっと一緒にいよう」と誓い合った。
部屋の一つひとつの調度品も、沙羅が選び抜いたものだった。
拓真の財産が何倍にも増えても、なぜか新しい家に引っ越すことはなかった。
でも、家も古くなれば、人も変わる。
沙羅も、もうここを去るべき時が来たのだと静かに思った。
第8話
その後数日、拓真は一度も家に帰ってこなかった。
おかげで沙羅は、部屋の片付けに集中することができた。
庭のラベンダーは今が盛りで、濃い紫色があふれんばかりに咲いている。
それは、拓真が沙羅のために植えてくれたものだった。沙羅が紫色を好きだと言ったから。
沙羅はシャベルを手に、ラベンダーを根こそぎ掘り起こした。もう誰もこの花たちの世話をすることはない。
それから、自分の服やバッグ、生活用品もすべてまとめてゴミ箱へ放り込んだ。
家の中から自分の痕跡が一つ残らず消えたことを確かめてから、沙羅はようやく手を止めた。
広い部屋は、急にぽっかりと空虚になった。
きれいで、整っていて、それでいてどこか死んだような静けさが漂っている。
沙羅は満足そうに微笑んだ。
どうせ出ていくのなら、跡形もなくきれいに消えたい。
その時、拓真から電話がかかってきた。
「沙羅、ここ数日すごく忙しくて、全然家に帰れなかった。怒ってないよね?」
ここ一年、拓真が家に帰ることはほとんどなかった。沙羅はもうとっくに慣れている。
もうこれからは、夜が明けるまで一人で待つ必要もない。
「うん、分かってる」
「新車の売上が十万台を突破したんだ。今日は会社で祝賀パーティーがあって、パーティーが終わったら必ず帰るから、一緒に誕生日を祝おう」
今日は拓真の誕生日だ。
今回の新車「ピュアハート」の発売が、彼のキャリアを再び頂点に押し上げた。
きっと来年のフォーブスのランキングにも名を連ねることだろう。
拓真、あなたはついに望み通りの人生を手に入れたんだね。
電話を切ると、沙羅の心はこれまでにないほど静かだった。
何も持たず、身一つで家を出た。
最後にもう一度だけ、この古い家を振り返り、タクシーに乗って研究所へと向かった。
道すがら、スマホを開くと、SNSは祝賀パーティーの動画であふれていた。
ふと動画を再生すると、理々が満面の笑みで拓真の隣に立っていた。
拓真はビシッと決めたスーツ姿、理々は今風のおしゃれな服に身を包み、二人は舞台の中央でまるで理想のカップルのようだった。
拓真はカメラを前に、余裕の表情でスピーチを始めた。
「今回、新車の事前予約は目標を大きく上回りました。これもひとえに、理々のマーケティング戦略のおかげです。
理々が『ピュアハート』という企画を提案してくれなければ、この成功はあり得ませんでした。
ここで、理々が正式にグループの副社長に就任したことをご報告いたします」
理々は新しい辞令を受け取ると、うれしそうなまなざしで拓真を見つめた。
「ありがとうございます、社長。私はほんの少しお手伝いしただけです」
沙羅は吐き気をこらえながら、スマホを閉じた。
本当に「ピュアハート」なのか、それとも打算のかたまりなのか――
でも、もうどうでもいいことだった。
沙羅は手元の結婚指輪を外し、窓の外へと投げ捨てた。
もう、沙羅は拓真の妻ではなくなる。
研究所に着くと、スタッフがいつものように声をかけてきた。
「沙羅さん、最後にもう一度だけお考え直しできますが、本当に実験を受けられますか?」
沙羅は迷いなく答えた。
「はい、お願いします」
スタッフは沙羅を真っ白な部屋へ案内した。中にはベッドが一台あるだけで、他には何もなかった。
「それでは、ベッドに横になってください。三日後、あなたは再び目覚め、すべての記憶を失い、新しい人生を歩み始めます」
沙羅はベッドに横になり、そっと目を閉じた。
——拓真、私はあなたのことを永遠に、永遠に忘れる。