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愛しき日々の果て、余生は安らかに
結婚して三年、橘正明は三年間、妻の千里を憎み続けていた。 雅美が戻ってきたあの日、彼の限界はついに訪れた。 彼は「偽装死」を計画し、雅...
Chương (1)
第1章
結婚して三年、橘正明は三年間、妻の千里を憎み続けていた。
雅美が戻ってきたあの日、彼の限界はついに訪れた。
彼は「偽装死」を計画し、雅美と駆け落ちしようとしていたのだ。
「一ヶ月後、死んだことにする。
橘家の後継者という肩書きを捨てて、これからはずっと雅美と一緒に生きていく」
手術室でその言葉を聞いてしまった千里は、すぐさま弁護士に連絡し、離婚届の提出を依頼した。
そして、遠く海外にいる兄に電話をかける。
「兄さん、もう、正明のことはあきらめた。
一緒に、海外で暮らすよ」
第1話
橘千里(たちばな ちさと)は、夫の橘正明(たちばな まさあき)が連続で十二戦ものボクシングの試合をこなし、肝臓を損傷したと聞き、急いで病院へ駆けつけた。
迷うことなく自らドナーに名乗りを上げ、輸血のための検査を受けた後、病室へと連れていかれた。
一気に1000mlもの血液を抜かれた。
体から血が引き抜かれるたびに、意識はどんどん遠のいていく。
どれほどの時間が経ったのか、もう分からない。
ぼんやりとした意識の中、耳元でどこかで聞き覚えのある声が響いてきた。
「正明、あんた、雅美のことそんなに好きだったの?
インスタに『そのネックレスが好き』って載せただけで、命懸けで試合して、わざわざそのネックレスを手に入れに行ったってわけ?十二戦連続とか、命捨てる気かよ!?
今度は交通事故で脚に火傷した雅美のために、自分の妻の血を1000mlも抜いて、さらには皮膚まで移植しようとしてるって?
千里さんがこれまで橘家やあんたのためにしてきたこと、みんな知ってるよ?それなのに、あんまりじゃない?」
千里の指先が、無意識に手のひらへと喰い込む。
正明が十二戦もの試合に挑んだ理由は、ただ雅美の欲しがったネックレスのため?
肝臓の損傷だって、全部嘘?自分の血を使うための演技?
眠らされて、手術台に運ばれて、皮膚を剥がされるなんて……それも全部、雅美のためだったの?
部屋の空気が一気に凍りつく。
「千里みたいなやつ、俺がどう扱おうが関係ないだろ」
正明の声が低く、枯れていた。
「三年前、あいつが無理やり結婚を迫ってきて、雅美は海外に行った。俺がどれだけ探しても見つからなかった。その三年間、俺は抜け殻みたいに生きてきた。
昨日ようやく雅美が帰ってきて、今日いきなり事故に遭った。千里の手は汚れてる。血を抜こうが皮膚を使おうが、それが当然の報いだ。
命を取れと言われたとしても、それも仕方ない。雅美を追い出した責任は、すべてあいつにある。それが償いだ。
……けど、あいつの命には興味ない。俺にはもっと大事なことがある」
その言葉に、千里の血は凍りついた。体の震えが止まらない。
「お前、今は結婚してるだろ……それでも、まだ何をしようってんだ?」と、篠原冬也(しのはら とうや)が恐る恐る尋ねた。
「一ヶ月後、死んだことにする。
橘家の後継者という肩書きを捨てて、これからはずっと雅美と一緒に生きていく」
かろうじて開いた瞳で、千里は声の主を見つめる。
正明の体は傷だらけで、声を出すのも辛そうだったが、それでも指先の血を拭い、あのネックレスをぎゅっと握り締めていた。
真っ赤に腫れた目には、狂気に近い執着と深い情が宿っていた。
その目を、千里は三年間、一度も見ることがなかった。
千里の前では、正明はいつだって無表情だった。だが、雅美のことになると、まるで別人のように感情を露わにする。
メスが皮膚を切り裂いた痛みよりも、胸に突き刺さるような苦しみの方が千里の呼吸を奪った。
正明は、東都でも一、二を争う名門・橘家の御曹司。容姿も頭脳も優れ、どこへ行っても注目の的だった。同年代の女子たちは皆、彼に憧れていた。
千里もその一人だった。
けれど、千里はわかっていた。正明の視線が、決して自分に向くことはないと。
彼が想いを寄せていたのは、橘家の養女であり、幼なじみの橘雅美(たちばな まさみ)だった。
放課後、彼女の好きなアイスを届けるために走って帰る。雅美が高熱で寝込んだときは、学校を抜け出してまで看病する。
「ボクシングしてる男ってかっこいいなぁ」
その一言で、彼は何年も拳を握り続けた。
他の誰も、彼の目に入ることはなかった。
千里には、最初からチャンスなんてなかったのだ。
全てが変わったのは、橘家の祖父が、正明と雅美の関係に気づいたとき。命を懸けて雅美を海外へ送り、正明に千里との結婚を命じた。
祖父が入退院を繰り返す中、正明はついに折れ、千里との結婚を承諾した。
けれどその直後、祖父が千里に「願いが叶ってよかったな」と言ったことを聞き、それを千里が仕組んだと誤解した。
それから、彼は千里を深く憎むようになった。
だが知らなかったのだ。正明の秘密を祖父に伝えたのは、他でもない、雅美だった。
それは、正明が仇敵に拉致され、生死不明になったときのこと。雅美は祖父に二十億円を条件に、自ら国外へと姿を消すと申し出たのだった。
「橘家の後継者が殺された」という噂が広まり、橘財閥の株は暴落した。その窮地を救ったのは千里だった。あらゆるリスクを背負い、表に立ち、正明を取り戻した。
世間の目を避けるため、両家は三年間の契約結婚を決めた。
千里は、何度も説明しようとした。だが、結婚してからの三年間、正明は彼女に対して、仇を睨むような視線しか向けなかった。
同じ家に住んでいても、まともに会話すらしなかった。
証拠を突きつけても、一瞥すらくれなかった。
一昨日、雅美が帰国した。そしてその直後、交通事故に遭った。
それだけで、正明は「千里の仕業」だと決めつけた。
千里の頬を、涙がとめどなく伝っていく。喉には言葉にならない塊が詰まり、呼吸すら苦しい。
看護師に付き添われて正明が病室を出て行った後、千里は別の病室に移された。
麻酔が切れたあと、震える手で兄・小林涼真(こばやし りょうま)に電話をかけた。
「兄さん。もう、正明のことはあきらめた。
一緒に、海外で暮らすよ」
第2話
妹の言葉を聞いた瞬間、バーで悩んでいた男は、思わず勢いよく立ち上がった。
「本当か!?千里、やっと目が覚めたのか?俺、最初から言ってたよな、あの橘なんてロクなもんじゃないって。
拳も性格もヤバい、あんな奴のそばにいたら、お前が傷つくだけだって!
ちゃんと考え直したなら、それでいい。荷物はまとめたか?すぐに迎えに行く!」
電話口から聞こえる涼真の声は、興奮のあまり震えていた。千里の胸には、締めつけられるような痛みが広がった。体の怠さを無理に抑えながら、静かに口を開いた。
「兄さん、先に手続きして。
私は一ヶ月後に行く。こっちのことが全部片付いたら、もう戻らないから」
その言葉を聞いて、涼真はようやく海外移住に必要な準備を思い出し、大きく頷いた。そして電話を切って、急いで手続きを始めた。
通話が終わると、千里の目に静かな陰が差した。
一ヶ月。
正明が偽装死を図る前に、小林家と橘家の繋がりを完全に断ち切り、自分は橘家からも、正明自身からも先に抜け出す。
この三年間、彼に借りなんて一つもなかった。だからこそ、彼の偽死劇の後始末なんか、手伝う義理もない。
千里は、一人で五日間入院していた。
その間、正明は一度も顔を見せなかった。
血を抜かれ、皮膚まで提供させたというのに、彼は何の説明もなく、千里を病院に置き去りにした。
目覚めた彼女が何を思い、どんな気持ちでいるかなど、考えすらしなかったのだ。
千里は皮肉げに口元を歪め、無意識にこぼれていた涙を拭い、知人に頼んで離婚届の用紙を取り寄せてもらった。
退院の日、彼女はその離婚届を手に橘家へ戻った。
玄関前までくると、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「正明、私のために千里さんを病院に放って、一週間もそばにいてくれて……
彼女、怒って帰ってこなかったりしないよね?
もう、私のためにお粥を並んで買いに行かなくていいし……ベッドのそばにいてくれなくてもいいから、千里さんの様子、見に行ってあげて……」
正明は雅美の足首を優しく揉みながら、目に甘さを浮かべていた。しかし千里の名前が出た途端、明らかな苛立ちがその表情を曇らせた。
「いいんだよ、あいつはどうせ俺から離れられない。
たとえ家を出ても、三日も経たずに泣いて戻ってくるさ」
千里の体がビクリと震えた。
彼の中では、彼女が自分を愛しすぎて逃げられないと、完全に思い込んでいた。だからこそ、ここまで傲慢に振る舞えるのだ。
千里は苦笑を浮かべ、唇を噛みしめて扉を押し開けた。
その瞬間、部屋が静まり返った。
正明の甘やかな表情は消え去り、雅美の背中を軽く撫でながら、千里を鋭い視線で睨んだ。
彼女が騒ぎ立てるとでも思っていたのだろう。
だが千里は何も言わず、一枚の書類を差し出した。
「……押して」
いつものように感情を爆発させると思っていた正明は、一瞬ぽかんとした。
かつて、彼女が仕事の申請書類をこうして持ってきたこともあった。
疑うこともなく、彼は認印を取り出し、眉をしかめながら離婚届に無意識のうちに印を押した。
だが何か言おうとしたそのとき――
スマホが震えた。
仕事の電話だと気づき、雅美に軽く声をかけて、書斎へ向かった。
離婚届を渡した後、千里は自室へ戻ろうとすると、背後から雅美の声が飛んだ。
「あなたが千里さん?正明から聞いてるわ。
何が何でも彼と結婚しようとした、しつこい小娘だって」
雅美はふっと笑った。
「彼に気に入られたくて必死なんだって?
じゃあ、コーヒー淹れてちょうだい。ホットでお願い」
髪を掻き上げたその首元に、ダイヤがきらめくネックレスが。
それは、正明が十二連勝を果たしたボクシング試合で手に入れた優勝の証。
永遠の愛を象徴するネックレスだった。
わざと見せつけて、挑発しているのだと千里はすぐに察した。
千里は眉をひそめ、口喧嘩をする気にもなれず、無言で背を向けようとした。
だが雅美はその反応を見越したように、柔らかく笑いながら続けた。
「もし断ったら、正明にいじめられたって言っちゃおうかな。
そうしたら彼、きっと怒るわよ。あなた、無事でいられるかしら?」
千里の指先がわずかに震え、瞳に陰が落ちた。
雅美の言う通りだった。正明は、彼女の言葉を疑うことはない。
千里は、まだここを出るまでに時間が必要だった。余計な争いは避けなければならない。
「……わかった。淹れてくる」
十分後、千里はコーヒーを運んできた。
雅美は一口含み、顔をしかめた。そして次の瞬間――
そのコーヒーを千里の顔にぶちまけた。
「なにこれ、まずすぎ!気持ち悪っ!」
怒りが収まらなかったのか、カップを掴み、彼女の頭に叩きつけた。
ガシャンッ!
「……っ!」
カップは床に砕け、千里の額から真っ赤な血が流れ落ちた。床に落ちたその血が、鮮やかな赤を描いた。
痛い。
それが、脳に響いた最初の感覚だった。
千里がまだ動けずにいると、雅美はふと何かに気づき、テーブルの水を手に取って自分の頭にかぶった。
「きゃっ!」
と悲鳴を上げて、わざとらしく床に倒れ込んだ。
ちょうどその時、正明が戻ってきた。
異変を察知し、慌てて駆け寄ってくる。
目に映ったのは、頭を抱えてうずくまる雅美の姿。怒りに我を忘れた正明は、千里を突き飛ばし、雅美を抱き上げた。
一切の手加減もなく。
千里はよろめきながら倒れ込み、両手で体を支えようとしたが、陶器の破片が手のひらに突き刺さり、そこから鮮血が噴き出した。
「雅美、大丈夫か?
足を捻ったか?火傷はしてない?」
雅美は怯えたように正明の胸に顔をうずめ、弱々しく首を振った。
「……私、平気。きっと、千里さんが怒ってるのよ。あなたがずっと私のそばにいたから……
私がうっかりコーヒーをこぼしちゃって、そしたら熱湯をかけられて、突き飛ばされて……
でも、大丈夫。千里さんが怒るのも無理ないし、責めるつもりはないの」
正明の目には、千里への憎悪がありありと浮かんでいた。
「お前って、本当にいつまで経っても変わらないな。汚い真似ばかりして、心まで腐ってる」
彼は雅美をかばいながら、テーブルに残っていた熱湯入りのカップを手に取った。
「俺、言ったよな?雅美に手を出すなって。
だったら、同じ目に遭ってもらう!」
その声と同時に、説明の機会も与えられぬまま、湯は千里に容赦なく浴びせられた。
彼女はとっさに腕で顔を庇い、その腕は真っ赤に焼けただれた。痛みに悲鳴を上げた。
前髪の隙間から、冷や汗が額をつたった。
さらに追い打ちをかけようと正明が一歩踏み出すが、千里は痛みを堪えながら必死に叫んだ。
「私、何もしてない!」
彼女は執事に監視カメラの映像確認を依頼していた。
「すべては、彼女が仕組んだの!」
執事がノートパソコンを抱えて正明の前に現れた。
雅美の策略が始まったその瞬間から、千里はすでに対応策を用意していた。
──だが、まさか。
映像が巻き戻され、事実が一つ一つ映し出される。
一瞬、正明の顔色が変わった。だが、雅美が彼の胸元で泣き出すと、彼の表情はたちまち元に戻った。
彼は雅美の髪を優しく撫でて、耳元で囁いた。
「大丈夫。わかってる、お前が悪くないって」
そして、雅美が涙を止めたのを確認すると、千里に視線を戻し、まるで施しでも与えるように言い放った。
「この件は、これで終わりだ。荷物をまとめて、客間に行け」
千里の傷口を見ることもなく、冷たい視線を最後に投げかけて背を向け、部屋を出ていった。
まさか。
これだけ証拠を突きつけても、彼は雅美を庇うのか。
千里は血にまみれた手を見下ろし、乾いた笑みを浮かべた。その瞳には、冷たく乾いた絶望だけが残っていた。
「……わかった。出ていくわ」
第3話
千里はその夜のうちに主寝室から荷物をまとめて出ていった。
必要な旅券だけを持って、衣類すら一枚も持ち出さず、家政婦にすべての私物を処分させて、雅美のために場所を空けた。
部屋に戻ると、今までにないほどの疲労感に襲われ、病院に行く力もなく、そのままベッドに倒れ込んだ。
夜中、意識がぼんやりするほどの熱に包まれ、全身がまるで炎にくべられているように熱く、皮膚が焼かれるような感覚だった。
明らかに秋口の気温ではない。
千里は違和感を覚え、重たいまぶたを無理やり開けると、正明がベッドの脇に座り、彼女の腕の火傷を丁寧に処置しているところだった。
彼女が目を覚ますと、彼は目を細めて彼女を一瞥し、ベッドサイドの薬と水を手に取って、口元へ差し出した。
「傷口が炎症を起こして熱が出てる。解熱剤を飲んで、少し休め」
その低く落ち着いた声には、かすかな不安の色が混じっていた。
千里は差し出された薬をそのまま飲み下した。すると正明が続けて言った。
「その薬、雅美がわざわざ買ってきたんだ。
ちゃんと効くから、しっかり休め。これからは彼女と揉めるなよ」
結婚して三年、正明が病気の彼女にこうして看病したのは初めてだった。だがそれは、彼女に雅美と争わないように言い聞かせるためだった。
全てが彼女のせいではないのに。
だがそれがどうしたというのか。彼が大事にしているのは雅美だけ。
千里の胸には、言葉にできない嘲りが込み上げていた。
意識は再びぼやけ、まるで高熱に焼かれているように身体がどんどん熱を帯び、まぶたは重くてもう開けられない。
どれほどの時間が経ったのか、ようやく目を開けた。
千里は身を起こし、首筋に手を当てた。ひどく熱い。鏡の前までふらふらと歩くと、両目は真っ赤に充血していた。
熱は下がるどころか、ますますひどくなっていた。
これ以上放っておくわけにはいかない。千里はふらつきながら部屋を出ようとし、ふと何かを思い出して引き返し、ベッドサイドの薬を手に取った。
病院に着いたとき、体温はすでに四十度を超えていた。
一時は呼吸困難を起こし、救急処置室に運ばれた。
その後、入院が決まり、血液検査と腕の火傷の処置が行われ、一晩中点滴を受けてようやく熱が少しずつ引いていった。
「ここまで炎症を起こしていながら薬も塗らず、高熱のまま適当な薬を服用するなんて……命に関わることだという認識はありますか?」
医師の声に、千里は眉をひそめ、心臓が一瞬跳ねるように鳴った。
「先生、腕の傷はちゃんと処置したはずですし、飲んだ薬も家族がくれた解熱剤のはずなんですが……どうしてこんなことに?」
そう言いながら、心の中に不穏な声が浮かんできた。
千里は目を伏せ、唇をきつく結び、バッグから薬を一粒取り出して医師に差し出した。
「これが渡された薬です。解熱剤ではないのですか?」
医師は薬を受け取り、刻印を確認すると、表情を一変させた。
「これは……非常識だ!この薬は国の規制薬品で、熱を下げるどころか腎臓中毒や胃潰瘍のリスクがある。
誰がこんなものを?こんなの、悪意以外の何物でもない!」
千里は薬を見つめたまま動けなかった。ようやく下がりかけた体温が一気にぶり返し、指先まで灼けるように熱くなった。
その時、スマホが震えた。
正明からのメッセージだった。
画面を開くと、そこには雅美が満面の笑みで喋っている動画が表示された。
【千里さん、私のプレゼント、気に入った?病院のベッド、なかなか居心地いいでしょ?】
【あれね、あなたのために選んだ特別な薬よ。飲めば心臓がジェットコースター並に上がったり下がったりして最高なの!】
【それからね、腕の薬も間違えちゃった。気づいたときにはもう遅くて、とりあえず保湿だけしておいたの。ちゃんと処置しないと跡になっちゃうかもよ?】
千里がスクリーンショットを取る前に、そのメッセージは削除された。
正明が撤回したに違いない。彼女が証拠を残さないように、雅美の責任を追及されないために。
千里は冷笑を浮かべ、深く息を吸い込みながら、スマホで110番をダイヤルした。
「すみません、殺人未遂の被害を通報したいのですが」
通報を終えると、千里はそのまま深い眠りに落ちた。
次に目を覚ましたときは、鳴り止まない電話の音でだった。
正明からの着信だった。
彼の意図はわかっていた。口論する気力もなく、着信拒否しようとしたところ、再び着信が鳴る。
今度は、涼真からだった。
「千里、移住の手続きはすでに進んでる。あと半月くらいで完了するはずだ。
帰国の航空券ももう取った。迎えに行くから、そっちは大丈夫か?」
普段は気だるげな兄の声も、千里が気が変わらないかと心配しているのか、このときばかりはどこか緊張していた。
彼の慎重な様子に気づきながら、千里はそっと睫毛を伏せ、かすかに微笑んだ。
「うん、大丈夫。
安心して。私、もう迷わない。全部片付けたら、必ず行くよ」
そう言い終えた瞬間、部屋の扉が外から勢いよく開かれた。
正明が険しい顔で立っていた。
「行く?どこへ行くつもりだ?
雅美の件が終わるまでは、どこへも行かせない!」
第4話
正明の声は、深く沈んでいた。
千里の笑みは一瞬にして消えた。
兄を心配させたくなかった彼女は、適当な言い訳をして慌ただしく電話を切った。
電話が切れた直後、正明の問い詰めるような言葉が飛んできた。
「お前、なんで警察に通報した?
雅美が薬を取り違えたのは、ただの衝動だっただけだ。
そこまでしなくてもよかっただろ?勝手に通報して……あいつ、泣き出したんだぞ!」
いつもは冷淡な正明の目が、怒りを帯びていた。
まるで千里が、とんでもない過ちを犯したかのように。
正明に詰められて、千里は目を伏せ、口元に皮肉げな笑みを浮かべた。
「そこまでって……私、昨日救急救命室に運ばれたのよ?
それでもまだ大したことないって言うつもり?」
ショック症状で、死にかけた。
一晩入院しても、彼は一言も見舞いの言葉をかけなかった。
通報したと知って、彼が最初に口にしたのは「なぜそんなことをした」だった。
雅美が薬を取り違えたと聞けば、まず彼女をかばった。
正明の心は、どこまでも偏っていた。
千里の反論に、正明は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに苛立ちを滲ませて眉をひそめた。
「確かに薬を取り違えたのは軽率だった。でももう、俺がちゃんと叱った。だから、いつまでもこだわるな。
それに、もうお前は無事なんだろ?気が済まないなら、俺がここに残って看病する。これで満足か?」
何かを続けようとしたその時、不意に正明のスマホが鳴った。
画面を見て、雅美の名前を確認した彼は、険しかった表情を少し緩めた。
「大丈夫だ。心配するな。誰もお前を連れて行ったりしない。
もう泣くな。手の傷はまだ痛むか?」
通話しながら、彼の足は自然と病室の外へと向かっていく。
その背中を見つめながら、千里はふと、可笑しくなった。
もうとっくに彼に期待なんてしていなかったはずなのに、それでも、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
彼女は命を落としかけた。それでも正明は、ただ「叱った」で済ませた。
一方で、雅美が手に小さな切り傷を負っただけで、彼は一瞬たりともそばを離れようとしなかった。
胸が締めつけられるように痛んだ。もはや彼に立ち向かう気力すら残っていなかった。
正明は「残って看病する」と言った。
けれど、雅美がそれを許さなかった。
彼が病室に足を踏み入れるたび、すぐに雅美からメッセージが届く。
【正明、家に一人でいると怖いの。戻ってきてくれない?】
【最近、夢遊病がひどいの。あなたがそばにいてくれないと安心して眠れない。お願い、戻ってきて】
【今日はすっごく退屈だったの。もし戻ってきてくれないなら、友達を訪ねて一年くらい海外に行っちゃおうかな】
一通のメッセージや電話だけで、正明は完全に意識を持っていかれる。
「ゆっくり休め」とだけ言い残して、彼は病室を去っていく。
千里は、彼が来るのも、去るのもただ黙って見送った。
もはや彼に何の期待もなかった。再び、雅美への偏愛を見せつけられても、心はすでに麻痺していた。
千里の願いはただ一つ。
一刻も早く元気になり、永遠にこの場所から離れること。
二度と、正明の顔など見たくなかった。
退院の日、彼女は一人だった。
出発前の最後の週、会社の提携先が主催するボクシング観戦イベントの招待状が届いた。
正明と共に参加してほしい、との案内だった。
要請に応じて、千里は静かに準備を整えて出かけた。
正明は車の横に立っていた。
ダークカラーのスーツが彼の凛とした雰囲気を際立たせていた。
だがその手は、車の屋根に添えられ、雅美を助手席にエスコートしていた。
雅美は淡いピンクのベアトップドレスに身を包み、長い髪をなびかせていた。
整ったメイクに星のような瞳で正明を見上げ、笑みを浮かべていた。
そのあまりにも親密な光景に、千里は思わず足を止めた。
だがすぐに表情を整え、何事もなかったように後部座席へと乗り込んだ。
車中、彼女はただ静かに窓の外の風景を眺めていた。
正明と雅美がどれだけ楽しげに会話をしていても、千里は一言も発さなかった。
やがて、車内に静寂が訪れた。
その空気の中、時折刺すような視線を感じた。千里が視線を向けると、ちょうど正明と目が合った。
だが正明は、すぐに目を逸らした。
会場には、多くの来賓客が集まっていた。
正明は雅美と腕を組み、千里を一歩後ろに残したまま会場へ入っていった。
友人を紹介し、椅子を引き、身を寄せて試合の説明をしていた。
「ネットの噂って本当なんだな。橘社長は奥さんのこと、まったく気に入ってないみたいだ」
「誰が見ても分かるだろ。今、隣にいるのは橘雅美さん。あれだけ気遣ってるんだ。もうすぐ離婚って噂、あながち嘘じゃなさそうだな」
千里の耳に、そんなささやきが入ってくる。胸の奥がちくりと痛み、思わず指先に力が入った。
だが表情は変えなかった。
リング上では激しいボクシングが繰り広げられていた。
血の匂いに耐えきれず、千里はそっと席を立ち、後方へと歩き出した。
その時だった。
突然、雅美が立ち上がり、慌てて周囲を探し始めた。
「ネックレスが……私のネックレスがないの!」
第5話
「正明っ、あなたがくれたネックレス、なくなっちゃったの!
十二試合も勝って手に入れた、世界に一つしかない大事なネックレスなのに……
お願い、探すの手伝って、すごく大切なの!」
一瞬で場がざわついた。
照明がすべて点灯し、状況をようやく理解したところで、千里の腕がいきなり強く掴まれ、出入口のほうから乱暴に引き戻された。
「橘社長!この女、こそこそ逃げようとしてましたよ。
盗んだブツ、持ってるんじゃないですか?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女の背中からネックレスがポトリと落ちた。
近くにいた男が素早く拾い上げ、高々と掲げる。
「見ろ!やっぱりこの女が盗ってたんだ!」
「なんか怪しいと思ったら……ほんとに泥棒だったとはな!」
その瞬間、全員の視線が千里に集中した。
冷たい視線、軽蔑、嫌悪、そして面白がるような好奇心……
そんななか、雅美がゆっくりと彼女の前に歩み寄ってきた。
「千里さん、ご両親が早くに亡くなって、お兄さんと二人きりで育ったって聞いてる。礼儀とか、多少なってなくても仕方ないって思ってたわ。
でもね、このネックレスだけはダメなの。これは本当に、私にとって特別なものなの。
それに、ネックレスだけじゃなくて、ブレスレットもダイヤの指輪もなくなってるの。どれも正明がプレゼントしてくれたのよ。ごめんね、ちょっと確認させてもらえる?」
そう言って、雅美は軽く手を振った。
すぐに二人のボディーガードが駆け寄り、左右から千里の両腕をつかんで、彼女の服を無理やり引っ張り始める。
千里の表情が一変した。
「放して!私は盗んでなんかない!
ここ、監視カメラあるでしょ?落とし物なら映像見ればいいだけじゃない。
根拠もなしにボディチェックするなんて……違法だよ」
必死に抵抗するが、相手は屈強な男二人。力の差はどうにもならなかった。
誰も助けようとせず、冷たい目が彼女に突き刺さるなか、服が引き裂かれそうになる。
千里の目に、一瞬、鋭い光が走った。
そして、ためらいなく雅美の腹に蹴りを叩き込む。
「きゃあああっ!」
雅美が床に倒れ込み、悲鳴が響いた。
その場にいた全員の動きが一瞬で止まった。
「いくらなんでも、小林家のお嬢さんがネックレスなんか盗むわけないよね?ただの誤解じゃない?」
「でもあのネックレスって、橘社長が試合で勝ち取ったっていうレア物なんでしょ?夫のことそんなに好きだったって噂だし……ずっと嫉妬してたんじゃない?」
「それに雅美さんに蹴り入れたし……橘社長のあの目、見た?絶対、ただじゃ済まないよ……」
ざわつくなか、正明がすごい勢いで駆け寄ってきた。
雅美の様子を心配そうに覗き込んだあと、その目を千里に向け、鋭く睨みつける。
「てめぇ……!
よくも雅美に手を出したな……死にたいのか!?今すぐ謝れ!」
千里は震える手で服をかき合わせながら、その目に冷たい皮肉を宿して言った。
「彼女がボディーガードに命じて私の服を脱がせようとしたとき、あなたは黙って見てたよね。
私が反撃したら謝れって?あなたの心はどこに行ったの?
今日の騒ぎは全部、彼女の自作自演よ。私が謝る理由なんて、どこにもない」
そう言って、千里は踵を返した。
しかし正明の顔色は最悪で、すぐさま彼女の前に立ちはだかる。無言で片腕を伸ばし、行く手を遮る。
そして、低く静かな声で告げた。
「謝れ。今すぐにだ。
じゃなきゃ、ここから一歩も出さない」
千里は唇を噛み締め、服の裾をぎゅっと握りしめた。爪が食い込んで、手のひらが痛む。
心の奥が、怒りでぐちゃぐちゃにかき乱される。
それでも、なんとか口を開いた。
「どうしても謝らなかったら、どうするつもり?」
正明は鼻で笑い、軽く手を上げた。
それを合図に、二人のボディーガードが再び彼女の両腕を押さえつける。
「ちょうど今日のリングに一人足りなかったんだ。
場を盛り上げるには……お前がちょうどいい」
第6話
たった一言だった。
それだけで、千里の全身から血の気が引いた。
今日の試合は、プロボクサーの試合。
見世物として殴り合うリング。血が出るほど会場は沸き、拳はまるで命を奪うかのように振り下ろされる。
もし自分がそこに立たされたら……笑いものどころか、生きて帰れる保証すらない。
正明が雅美のために、ここまでやるなんて……
千里は、笑いながら涙をにじませた。
「盗みを働いて、挙げ句に暴力まで振るったやつが、謝りもせずに泣いてるなんて……そんな資格、あると思ってるの?」
正明の目には、明らかな苛立ちが浮かんでいた。
ボディーガードが再び押さえつけにかかろうとするその瞬間、千里の心に絶望が広がる。
口の中に広がる血の味。千里は全身の力を振り絞り、近づいてきたボディーガードを思いきり突き飛ばして正明へと駆け寄った。
そして、頬を思いきり打った。
鋭い音が、静まり返った空間に鳴り響いた。
「盗んでなんかない!だから、絶対に謝らない!」
涙が堰を切ったように流れ出し、嗚咽を必死にこらえながら叫んだ。
「雅美を蹴ったのは、あの人が私を陥れたから!証拠もないくせに、服まで脱がせようとしたのよ!
あの場で抵抗しなかったら、皆の前で裸にされてたかもしれない……!
あの人が何を言おうと、あなたは全部信じるのね。私のことなんて……最初から何だと思ってたの!?」
千里の目には涙が浮かび、声は震え、心は完全に崩れ落ちていた。
いつもなら、どんなときも冷静だった千里が、初めて感情を爆発させた瞬間だった。
正明はその涙に、一瞬だけ言葉を失った。胸の奥がざわめいた。
だがそのとき、雅美が歩み寄ってきた。
「もういいじゃない、千里さんも、きっと悪気があったわけじゃないのよ。
ボディーガードが私の指示を誤解しただけ。
ネックレスも戻ってきたし、私ももう気にしてないわ」
その言葉とは裏腹に、口元の笑みは目には届いていなかった。
雅美はワイングラスを手に取り、口を開かず小さく唇を動かす。
「お、わ、り、よ」
次の瞬間、彼女は千里に近づきながら、自分の体に赤ワインをこぼした。
パリンッ!
グラスが床に落ち、ガラスの破片が飛び散る。
目を潤ませた雅美はふらつくように後退し、割れたグラスを踏み、バランスを崩して正明の胸に倒れ込んだ。
「千里さん……仲良くしたかっただけなのに……」
そう言って、スカートの裾をまくり、小さな傷を見せつける。
「いた……い……」
すぐに周囲から非難の声が飛ぶ。
「やっぱり育ちが悪いんだな、親がいないとこうなるのか?盗みだけじゃ飽き足らず、雅美さんがわざわざ手を差し伸べたのに、それを裏切るとか……救いようがないよ」
「小林家の恥さらしだ!」
怒声が飛び交う中、正明が怒鳴る。
「千里っ!」
千里は、雅美の目に浮かんだ満足げな光を見て、またかと悟った。
何度も使い回された、あの女の卑劣な手口。
くだらない。
顔の涙をぬぐい、一歩前へ出た千里は、ワイングラスを手に取り、それを雅美の足元に叩きつけた。
雅美の瞳が驚きで見開かれる。その瞬間、千里は彼女を強く突き飛ばした。
「きゃああっ!!」
雅美の体がガラスの破片に覆われた床へと崩れ落ちた。
「正明!」
今度は本気で泣き叫んでいた。
「そんな手、私には通用しない。
仕掛けてきたら、同じ分だけ返す。覚えておいて」
指先についたワインをぬぐい、千里は視線を上げた。
正明が雅美を抱き上げ、その視線が自分とぶつかった。鋭く、毒を含んだような憎悪の眼差しが、千里を刺し貫いた。
もし雅美に何かあったら、彼は本当に自分を殺すかもしれない。
千里は息を飲み、羞恥心と恐怖を押し殺してその場を後にした。
会場を出た直後、背後から怒鳴り声が追ってきた。
「待て!
今すぐ雅美に謝れ!」
ドアに手をかけた瞬間、正明の大きな手が車のドアノブを押さえて、逃げ道を塞いだ。
千里は彼を一瞥し、無言でその手を押しのけ、車に乗り込む。
ドアが閉まる直前――
「お前、後悔するなよ」
低く、冷たい声が耳に残った。
第7話
エンジンがかかった。
頭の中は混乱していた。極度の疲労で目を開けることすら難しく、ようやく静かな場所でひと息つける……そう思った矢先だった。
突然、甲高いエンジン音が鳴り響いた。
おかしい、と気づいて目を開いた瞬間にはもう遅かった。運転手がアクセルを踏み込み、猛スピードで車を走らせたのだ。
運転席に目をやると、不気味な視線がこちらを捉えた。千里の背筋に冷たいものが走った。
「……あなた、私の運転手じゃないわね」
喉の奥からかすれるような声が漏れる。
「誰なの……あんたは!」
男は眉間にしわを寄せ、不気味に笑った。
「お前にお仕置きしに来たんだよ」
車はそのまま監視の届かない山奥へと突っ走った。
止まった瞬間、千里は扉を開けて逃げようとした。しかし男に髪を掴まれ、乱暴に引き戻された。口には布が詰め込まれる。
ガシャッ!
ガラスが肌を切り裂き、痛みに頭が真っ白になる。
だが、それで終わりではなかった。
二発目、三発目と続く。
必死に抵抗するも、男の力は強く、びくともしない。叫びたくても、声ひとつ出せなかった。ただ、傷を刻まれていくしかなかった。
誰もいない山奥に響くのは、千里のかすれた嗚咽だけ。
全身から血が流れ、意識が遠のいていく。もうダメだと思ったそのとき、ようやく男の手が止まった。
そして彼女を地面に放り捨てる。
次の瞬間、車のライトが灯り、エンジン音がまた鳴る。
千里の耳に残るのは、自分のか細い呼吸音だけ。目の前に、こちらへ向かってくる車の影――
もう終わりか、そう思ったとき、視界の端に誰かが駆け寄ってくる姿が映った。
誰なのか確認する前に、意識が途切れた。
……
再び目を覚ましたとき、千里はまた病院のベッドにいた。
体中が包帯でぐるぐる巻きにされていて、まるで自分の身体じゃないみたいだった。少しでも動かすと、痛みに息が詰まる。
「動くな。傷が深いから、下手に動くと開く。
医者呼んでくる。大人しくしてろ」
そう言い残して、正明は病室を出ていった。
彼が出ていってまもなく、枕元に置かれたスマホがしつこく震え始めた。
動けない身体で正明の帰りを待とうと思っていたのに、相手はまるで命を狙っているかのように、何度も何度もコールしてくる。
耐えきれず看護婦を呼び、スマホを手渡してもらうと、着信の相手は見知らぬ番号だった。
怪訝に眉を寄せながら応答すると、突然、画面に映像が再生された。
あの夜、宴会のシーンだった。
「泣かないで、雅美さん……正明さんが絶対に何とかしてくれるって!
あの人、雅美さんが泣いてるの見たら絶対に私を殺すから……!」
雅美は真っ赤な目で震える声を出す。
「千里さんのためを思ってあんなに譲歩したのに……どうしてあんなこと……酷すぎるわ……」
顔を覆って泣くその姿は、どこまでも儚く、同情を誘うものだった。
誰も慰め方が分からず、正明が戻るのをじっと待つしかなかった。
そして、正明が戻ってきた。
彼の姿を見た瞬間、雅美は勢いよく飛び込んだ。
「正明……復讐して。見てよ、これ……ワインまみれで、脚まで傷だらけで……痛いのよ!
私は、ずっとあなたに守られてきたの。傷つけられるなんて耐えられない……
もしこのままなら、私は海外に行くわ。二度と帰ってこない!」
正明は慌ててなだめる。
「どうすればいい?」
その言葉を聞いた雅美の目が、ひそかに輝いた。
彼女は背伸びして耳元で囁く。
「私を一回切ったでしょ?私はそんなに優しくないの……
だから、彼女には九十九回、切り返して」
正明の顔に複雑な影が差す。
口を開こうとするが、その前に、雅美がさっとスカートをめくり、脚の小さな傷を見せ、拗ねるように甘える。
その瞬間、反射的に彼は頷いていた。
「分かった。お前のために、俺がやる」
映像の最後、雅美は彼の胸にすがりついて泣いていた。
「……痛いよぉ……」
正明は目を細め、優しく彼女の傷を処置し、そっと頭を撫でる。
「守れなくて、ごめん。全部俺のせいだ」
まるで恋人のように、甘く、親密な空気。
その様子を見た誰かが、空気を読んでそっと呟いた。
「まったく、さすが橘家の人間なんだな。容赦ない……
可哀想に……千里さんもほんとついてないね」
第8話
千里の手からスマホが滑り落ち、床に叩きつけられた。
全身の血が一気に頭へと逆流し、まるで再び刃物で切り刻まれているような、耐え難い痛みが襲ってきた。
つまり、あの男は正明が雇った人間だったのだ。
すべては、雅美の怒りを晴らすために。
まつ毛が震え、胸の奥がきつく締めつけられ、息もできないほどに苦しい。
涙が枯れるまで泣き続けたあと、千里はそのまま意識が朦朧としたまま眠りに落ちた。
どれくらい経っただろうか。雅美の甲高い声で目を覚ました。
「私のために仕返ししてくれるって言ったじゃない!なんで怒ってるのよ?
昨日だって、あの女のせいで私を宴会場に置き去りにして……
今だって、そんな冷たい態度取って、もしかして……もう私のこと、愛してないの!?」
だが今回、正明はいつものように優しい言葉でなだめることはなかった。
「仕返しをするとは言った。でも、殺せなんて言ってないだろう?
俺が怒ってるのは、あいつをひき殺そうとしたからだ!」
泥だらけで倒れていた千里、その上を車がゆっくりと迫っていくあの瞬間を思い出すだけで、正明の心臓は凍りつくようだった。
慌てて彼女を抱きかかえ、病院へと運んだ。全身血まみれで、真っ白な顔の彼女が手術室に運ばれていく姿。
まるで、もう二度と目を覚まさないのではないかと。
そう思った瞬間、彼の中のすべてが崩れた。手術室の前で呆然と立ち尽くし、何も考えられなかった。
そんな正明の表情を見て、雅美は納得がいかないまま唇を噛み締めた。
彼の目に映る複雑な感情――それが何なのか、深く考えるのが怖かった。ただ、急がなければならないと思った。
「……ごめんってば。私が悪かったの。あのときはちょっとカッとなっちゃって……
でも、千里のボディーガードが昨日のこと調べてるって聞いたけど、まさか私が関わってるってバレたりしないよね?」
少し態度を下げ、甘えるように言うと、正明の怒りも次第に収まっていった。
雅美の心配そうな言葉が終わる前に、彼が遮った。
「大丈夫だ。俺がいる限り、千里には辿り着けない」
その言葉を聞いた瞬間、雅美の顔にようやく笑みが戻った。
「じゃあ、この話はもうやめよう。
ねぇ、前に言ってた死んだことにして二人で逃げるって話、もう準備できた?」
「遺体の手配は済んでる。一週間後、千里の誕生日パーティーの日が、俺たちの出発日だ」
正明の言葉に、雅美は胸をなでおろした。
涙を拭い、彼にそっと抱きついて甘えるように言った。
「出発前に、蒼木市のお寺にお参りに行こうよ。計画がうまくいくように、お願いしたいの」
正明は病室のドアを一瞬気にしたが、雅美が不満げに鼻を鳴らすのを見て、すぐに了承し、彼女を連れて病院を後にした。
そのたった一枚の壁の向こうで、千里は目を閉じたまま唇を噛み、激しく波立つ感情を必死に押し殺していた。
そして、秘書に電話をかけた。
「会社の件、最優先で処理して。無理な部分は後回しでいい。五日後のフライト、手配して」
通話を終えると、胸の奥で荒くなった呼吸をどうにか抑え込んだ。
正明は、どれだけ綿密に計画を立てても、千里という「予測不能な存在」を想定していなかった。
驚かせようと、こっそり仕掛けてくるつもりなら、こっちはそれより早く、消えてやる。
こんな人たちの尻拭いなんて、まっぴらだった。
病院にはそれから五日間滞在した。
退院の日、千里はようやく二つの朗報を受け取った。
一つは、会社の本部移転が無事に完了したという報せ。
もう一つは、移住手続きが正式に下りたという知らせだった。
ようやく、この場所から離れられる。
電話越しに興奮して話す涼真の声を聞きながら、目頭が熱くなりかけた。
手の甲でそっと涙を拭ったとき、視界の隅に結婚指輪が映った。
薬指に残る銀の輝きに一瞬だけ目を留め、彼女はそれを外し、洗面所の排水口に投げ捨てた。
すべて、終わった。
――空港。
チケットを手に、搭乗口へと向かっていたその途中。
ふと顔を上げると、向こうから、雅美と腕を組んだ正明が歩いてくるのが見えた。
おそろいのような濃い色のコートを纏い、見目麗しい二人の姿は、周囲の視線を集めていた。
千里は、ただ静かにその背中を見送った。
やがて二人の姿が視界から完全に消えると、彼女は迷うことなくスマホを取り出し、正明のすべての連絡先をブロックした。
そしてSIMカードを抜き取り、二つに折ってゴミ箱に投げ入れた。
そのまま、振り返ることなく、搭乗口へと歩き出した。