君を忘れた日

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君を忘れた日

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誰もが夏野雄介(なつの ゆうすけ)は妻の夏野遥香(なつの はるか)を心から愛していると思っていた。 でも誰も知らない。雄介がずっと前から...

Chương (1)

第1章

誰もが夏野雄介(なつの ゆうすけ)は妻の夏野遥香(なつの はるか)を心から愛していると思っていた。 でも誰も知らない。雄介がずっと前から遥香そっくりの替え玉を見つけて、夜ごと愛し合っていたことを。 遥香が目覚めても、それは変わらなかった。 雄介は知る由もなかった。遥香の病気が完治していないこと、あと二ヶ月ですべての記憶を失ってしまうことを。 その時から、遥香は二度と夏野雄介を思い出すことはない。二度と彼を愛することもない。 第1話 「夏野さんの脳腫瘍がまた悪化しております。今度は前回のような長期昏睡にはなりませんが、記憶障害が生じます。二ヶ月後には、すべての記憶を失われることになるでしょう」 医師の声に同情がにじんだ。「ご主人さんにはもうお話しになられましたか?」 夏野遥香(なつの はるか)は慌てて顔を上げた。「夫には言わないでください」 医師は驚いた顔になった。「なぜでしょうか?ご主人様はあなた様を心から愛していらっしゃいます。五年間の昏睡中も、毎日ベッドサイドで看病なさって……うちの病院でも語り草になっているほどです」 遥香は理由を話さず、ただ繰り返した。「検査結果のことは内緒にしてください」 医師は首をかしげながらも頷いた。 遥香が階下に降りると、夏野雄介(なつの ゆうすけ)がちょうど病院に着いたところだった。 「遥香!」雄介は駆け寄って彼女の手を取った。「ごめん、会社のことで遅くなった。検査はどうだった?」 遥香が見上げると、夫の首筋に目が留まった。 真新しい赤い痕。つけられたばかりなのは明らかだった。 遥香は視線をそらして小さく答えた。「大丈夫だった」 雄介はほっとした様子で言った。「そうか、よかった」 雄介は遥香の手を引いて病院の出口まで歩くと、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。 黒いロールスロイスが雨よけの下に停まっているが、地面には水たまりがあちこちにできている。 雄介は迷わず遥香を抱き上げて車まで運んだ。 その様子を見て、病院の入り口にいた人たちがざわめいた。 若い女性たちが声を上げる。 「うわあ!あの人優しすぎ!奥さんが水を踏まないように抱っこして運んでる!」 「しかもめちゃくちゃかっこいいし!あれって夏野雄介じゃない?」 「え、あの清都大学のAI教授?この前賞もらった人でしょ?」 「そうそう!会社もいっぱい持ってて、富豪ランキングにも入ってる若手実業家よ!」 「イケメンでお金持ちで奥さん思い。こんな完璧な旦那様、奥さんは前世で何したのよ!」 周りの話声を聞きながら、遥香は下を向いて表情を暗くした。 昔の自分も、前世で徳を積んだから雄介に出会えたんだと思っていた。 七年前に脳がんが見つかって、体の機能が落ちて、医者からは一生子供は望めないと言われた。それでも雄介は躊躇なく結婚してくれた。 手術は失敗して、植物状態のまま五年間眠り続けた。雄介はずっと付き添ってくれていた。 一ヶ月前に目が覚めてからは、まるで宝物を取り戻したみたいに大切にしてくれていた。 三日前までは。遥香が会社を訪ねて、雄介が女の子をデスクに押し倒してキスしているのを見てしまうまでは…… その子のことは知っていた。 遥香が支援していた苦学生の小早川美咲(こばやかわ みさき)。 自分に似ているからという理由で、大勢の苦学生の中から選んで大学まで援助した。 成績優秀で清都大学の大学院に進学して、遥香が雄介に指導教授をお願いした子だった。 まさかこんなことになるなんて…… 遥香は自嘲気味に口元を歪めた。 車は別荘の前に着いた。 雄介は遥香と一緒に車から降りると、玄関先に人影が見えた。 美咲が書類を抱えて軒下に立っている。白いワンピース姿で寒さに震えていた。 遥香は雄介の体が一瞬強張るのを感じた。 「小早川」雄介の声は固い。「何しに来た?」 美咲は手の書類を握りしめて、おどおどと答えた。 「先生、論文で分からないところがあって、相談に伺いました」 雄介は眉をひそめた。 「質問なら大学でしろ。なんで家まで来るんだ?すぐ帰れ……」 そう言いかけて外の激しい雨に目をやり、言い直した。 「……雨がひどいな。とりあえず上がれ」 そして遥香の方を見る。まるで許可を求めるように。 遥香は何も言わずに目をそらした。 家に入ると、遥香はすぐに自分の部屋に向かった。 ベッドで横になったものの落ち着かず、こっそりと雄介の書斎の前まで行った。 ドア越しに雄介の怒った声が聞こえる。 「小早川、何考えてるんだ!遥香に俺たちの関係がバレたらどうするつもりだ!」 美咲は今にも泣き出しそうな声で答えた。 「わ、私は……先生が遥香さんだけを愛してるって分かってます……」 「私なんて身代わりです。先生と遥香さんの邪魔をするつもりなんてありません……」 卑屈な言葉に、雄介の怒りも収まった。 疲れたように眉間を揉む。 「それで何しに来たんだ?」 「わ……分からないです……」美咲は唇を噛んだ。「先生に会いたくて……体も変なんです」 「変って?」雄介は思わず身を乗り出した。「具合でも悪いのか?」 美咲は首を振って目を潤ませた。 「前は毎日先生と一緒にいられたのに、遥香さんが目覚めてから数日に一度しか会えません。寂しくて、体も……」 美咲は目を大きくして、雄介の手を取って自分の腰に当てた。「先生は私のこと、恋しくないんですか?」 無邪気な言葉だったが、男の急所を正確に突いていた。 雄介の目つきが変わる。もう我慢できなくなって、美咲をデスクに押し倒した。 ガサッ! 次の瞬間、遥香は論文が散らばる音を聞いた。美咲の驚いた声も一緒に。 「先生、遥香さんがまだ上にいます」 雄介の声はもうかすれていた。 「なら静かにしろ、この小悪魔」 ドア越しに漏れ聞こえる声。 遥香はついに我慢できず、洗面所に駆け込んで吐いた。 もう二人の関係は知っていた。 初めて見たわけでもない。 それでも、吐き気が止まらなかった。 どれくらい吐いたか分からない。スマホが震えた。 支えながらスマホを見ると、医師からのメッセージだった。 【夏野さん、新しい治療法が見つかりました。記憶を保持できる可能性がありますが、リスクもあります。検討されますか?】 遥香は迷わず返信した。 【結構です。忘れることを選びます】 こんな吐きたいだけの思い出なんて。 忘れた方がいい。 第2話 遥香は美咲がいつ帰ったのか分からなかった。 翌日の雄介は、やたらと優しくなっていた。階段を降りるのでさえ抱っこしたがる。 夕方になると、雄介から言い出した。「遥香、今夜の仕事はキャンセルした。チャリティオークションに付き合う」 遥香はプロの写真家で、業界では名の知れた存在だった。 毎年何枚かの作品をチャリティオークションに寄付して、イベントにも出席している。 今年は目覚めたばかりだったが、やはり招待状が届いていた。 二人はオークション会場に着くと、思いがけない人に出会った。 「先生!遥香さん!」小早川美咲が嬉しそうに駆け寄ってくる。「お二人もいらしてたんですね!」 雄介は少し眉をひそめた。「お前こそ何でここに?」 「私も写真を出品してるんです!」美咲は恥ずかしそうに頭を下げた。「実は遥香さんの影響で写真を始めて、賞までいただいたんです!」 そして星のような瞳で遥香を見つめる。 「遥香さんは私の憧れです。いつかあなたみたいになりたいです!」 私みたいに? それとも私の代わりになりたいの? 遥香は皮肉に微笑んで、何も答えなかった。 オークションが始まった。 遥香と雄介は二階のVIP席に座り、美咲は一階の客席にいた。 今回のオークションで最も有名な写真家として、遥香の作品が最初に出品された。 「続いては夏野遥香さんの七年前の作品『記憶』です」 スクリーンに写真が映し出されると、雄介の顔が変わった。 「遥香!」彼は振り返って彼女を見る。「どうしてこの写真を売ったんだ?」 画面には海辺で握り合った手が写っていた。二人の薬指にはお揃いの結婚指輪。 雄介と遥香の愛の証。プロポーズの日に撮った大切な一枚だった。 遥香はこの作品を宝物のように大事にしていて、誰かが2億円出しても売らなかった。 なんのに今、売りに出している。 遥香は雄介を見上げて聞き返した。「雄介、あの日の約束覚えてる?」 雄介は即座に答えた。「もちろん。君だけを一生愛すって、絶対に裏切らないって約束した」 そう言ってから、少し後ろめたくなった。 もしや……遥香が何かに気づいて、この写真を売ったのだろうか? 慌てる雄介に、遥香は笑いかけた。 「そうね、覚えてるなら写真なんていらないでしょ。チャリティーに使った方がいい」 実現できない約束なら、写真を残す意味もない。 そんな本音は口にしなかった。 その時、会場では競りが始まっていた。 「1000万」 「2000万」 「3000万!」 さすが有名写真家だけあって、すぐに白熱した競りになった。 そこで雄介が札を上げた。 「2億!」 一桁違う金額に、会場がざわめいた。 雄介は遥香を見つめて真剣に言った。 「例えばそうだとしても、俺の君への約束だから、一生手元に置いておきたい」 拍手の中、雄介がこの写真を落札した。 知り合いたちが冗談を言う。 「結局夏野さんは2億円寄付したかっただけで、ついでに奥様とのラブラブぶりを見せつけたかっただけよね。私たちはみんな当て馬になっちゃった!」 みんなが笑ったが、遥香だけは心から笑えなかった。 オークションは続いた。 今夜は富裕層ばかりが集まっているため、主催者は一人一点までという制限を設けていた。 だから雄介は他の作品には興味を示さず、遥香のためにロンガンの皮を剥いて、一粒ずつ口に運んでくれた。 そんな時、司会者の声が響いた。 「続いては新進気鋭の写真家、小早川美咲さんの作品『夢』です!」 拍手と共にスクリーンが明るくなったが、次の瞬間、誰かが叫んだ。 「これは何だ!」 第3話 スクリーンに映ったのは、美咲自身だった。 男の前にひざまずき、うつろな瞳で——何をしているかは、見れば分かる。 男の顔は映っていない。けれど遥香には分かった。雄介だ。 ざわめきが起こった。 「なんだこれは!こんなものをオークションに出すなんて、正気なのか?」 「見間違いでなければ、写真に写っているのはあの写真家の小早川美咲本人でしょう?売名行為?」 「アート作品にこういう内容のものがあるのは確かだけれど、これは……美的感覚が全くないわね!」 あちこちから議論の声が上がる中、美咲は真っ青になって首を振り続けた。 「違う……私が出したのはこの写真じゃない、本当に違うの……」 しかし誰も彼女の言葉に耳を貸そうとしない。 司会者は冷静を保ったまま、オークションを続けた。 「こちらの写真の開始価格は200万円となっております。より高い金額を提示される方はいらっしゃいますでしょうか?」 会場が静寂に包まれた。 数人の男たちの下品な笑い声だけが響いていた。 「200万でこんなもの?ネットにありふれたエロ写真じゃないか!」 「そうだな、写真はいらないが、この女が直接サービスしてくれるなら200万払ってもいいぞ」 「ははは!」 侮辱の声があちこちから飛び交い、美咲の顔から血の気が引いて、体がふらつき始めた。 その時―― 「400万!」 雄介の冷たい声が響き、会場が一瞬で静まった。 誰もが信じられないという顔で雄介を見つめ、誰かが小声でささやいた。 「夏野さんがあの美咲をご存知なのか?」 「ああ、思い出した。あの子って、夏野さんの学生だったような……」 司会者も一瞬戸惑ったが、それでも丁寧に説明した。 「夏野様、私どものオークションの規定では、お一人様一点までとさせていただいております。途中で変更される場合は、先ほどの作品を諦めていただき、より高い金額を提示していただく必要がございます」 雄介は遥香の方を見たが、遥香は下を向いて何も言わなかった。 下にいる美咲は既に泣き出していた。 「先生、私のことは構わないでください。私が写真を間違えただけです、お気になさらないで……」 彼女の声はどんどん小さくなり、最後は泣き声に変わった。雄介は胸が締めつけられ、思わず口にした。 「分かった。4億でこの写真を買おう」 会場の人々が息を呑み、司会者もさらに確認した。「つまり夏野様は、奥様の写真を諦めるということでしょうか?」 雄介は改めて遥香を見たが、今度は遥香が立ち上がって去って行くのが見えた。 「遥香!」 雄介はようやく慌てて追いかけようとしたが、その時下から人々の叫び声が聞こえた。 「美咲が倒れました!」 雄介の足が止まった。 会場があっという間に騒然となり、遥香がオークション会場を出て行く最後の瞬間、司会者の声だけが聞こえてきた―― 「おめでとうございます、夏野様。4億円で小早川美咲様の『夢』を落札されました!」 遥香は目を閉じ、ずっと我慢していた涙がこの瞬間ついに頬を伝った。 彼は結局、彼女を選んだのね…… …… それから数日間、遥香は雄介と口をきかなかった。 高価な宝石やブランドバッグをいくら買ってきても、珍しい贈り物を持ってきても、彼女は一度も振り向こうとしない。 遥香の誕生日の日まで。 雄介が必死に頼み込んで、彼女はようやく一緒に出かけることに同意した。 車は長い間走り続けて停車し、雄介は彼女の目を覆って車から降ろし、長い間歩いてからようやく口を開いた。 「いいよ遥香、目を開けて」 遥香が顔を上げると、彼らが港に来ていることに気づいた。 目の前には巨大なクルーザーが停泊していて、華やかにライトアップされ、船体には―― 「遥香号」と書かれていた。 遥香が困惑した様子で雄介を見た。「これは……」 雄介は彼女の手を取った。 「これは君のために特別に造らせたクルーザーだ。君の名前をつけたんだ」 彼は静かに言った。 「遥香、数日前のオークションは本当にごめん。美咲は俺の学生で、君も支援している子でもある。本当にただ彼女を助けたかっただけで、他意はないんだ」 「写真についても彼女に聞いたが、誰かが嫉妬して作ったものだと言っていた。信じてくれないか?それに……」 彼は少し間を置いて、優しく言った。 「君は最初から『記憶』の写真をチャリティーに出したがっていたじゃないか。寄付が一つ増えるのも良いことじゃないか?」 遥香のまつげが微かに震えた。 「例えそうだとしても、俺の君への約束だから、一生手元に置いておきたい」 雄介のあの日の言葉がまだ耳に残っているようだったが、今は完全に違う言い分になっていた。 遥香は下を向いて、心の内を隠し、淡々と言った。「私たちの間に、そんなに説明は要らないわ」 だって私は……もうあなたを信じていないし、それにもうすぐこんな醜いことも忘れてしまうから。 雄介は遥香のこの言葉を自分を許してくれたのだと勘違いして、嬉しそうに彼女の手を引いた。 「行こう、船に上がって見てみよう!」 遥香がクルーザーに上がると、知っている人がほとんど全員集まっているのが見えた。 雄介は高さ3メートルもある巨大なケーキを用意して、みんなで彼女の誕生日を祝った。 クルーザーが出航し、空に花火が上がって、すべてが夢のように美しかった。 遥香でさえ一瞬幻想に陥った。 まるで彼ら二人がまだ一番愛し合っていた頃のような、甘美な時間。 雄介のスマホが震えるまでは。彼は下を向いてスマホを見た。 遥香がちらりと見ると、彼がメッセージを見ているのではなく、インスタを見ているのが分かった。 彼女は何かを察して自分のインスタを開くと、案の定美咲が写真を投稿したばかりだった。 写真の中で美咲は一人でテーブルに座り、暗闇の中にケーキと寂しげなろうそくが一本あって、キャプションには―― 【生まれて23年目、また一人で誕生日を過ごしている】 第4話 その瞬間から、雄介は上の空になった。 花火が終わると、彼はついに我慢できなくなって、遥香の手を握り、申し訳なさそうに口を開いた。 「遥香、会社に緊急事態が起きて、どうしても戻らないといけない。明日必ず時間を作るから、いいか?」 遥香は彼を見上げて、何とも言えない表情で言った。「どんな仕事がそんなに急ぎなの?クルーザーから急いで戻らなければならないほど?」 雄介は少しためらって、「AIプロジェクトの件で、俺しか承認できないんだ。必ず時間を作るから、怒らないで」 そう言うと彼は遥香の額にキスをして、慌てて去って行った。 遥香はデッキに出て、雄介がスタッフと一緒にモーターボートで夜の海に消えていくのを眺めた。 白い波しぶきが広がって、まるで彼女の胸に穴が開いたようだった。 一時間後、遥香のスマホが突然鳴った。 美咲からだった。 遥香は一瞬ためらったが、すぐに理由が分かった。 彼女は少し迷ってから電話に出たが、相手は何も言わず、代わりにかすかな声が聞こえてきた―― 「先生!本当に私の誕生日を祝いに来てくれたんですね!でも……でも今日は遥香さんの誕生日でもあるのに、一緒にいなくて大丈夫なんですか?」 「大丈夫だよ、彼女にはたくさんの友達や家族がいるけど、君には俺しかいないじゃないか?」 「先生……」 少女の感激した泣き声が急に止まり、次に聞こえたのは言葉にならない音…… 遥香はついに我慢できなくなって、電話を切った。 自分が悲しむと思っていたが、しかし涙も出ないことに気づいた。 おそらく、絶望しきったら、もう涙も出ないのかもしれない。 彼女は深呼吸をして、ある番号にかけた。 「もしもし」電話が繋がるとすぐに彼女は口を開いた。「写真は全部撮れましたか?」 …… 雄介は一晩帰らなかった。 クルーザーの予定では海上を3日3晩巡航することになっていたが、翌日の朝早く、遥香もモーターボートで港に戻った。 家に帰ると、待っていたものがもうポストに届いていた。 それは封筒で、中身は全て雄介と美咲の写真だった。 車内でキスしているもの、オフィスで抱き合っているもの、さらには学校の図書館でも…… すべて遥香が私立探偵に依頼して撮らせたものだった。 心の準備はできていたはずなのに、これらの写真を見た時、遥香の指は震えた。 この頻度だと…… 雄介が仕事だと言って出かけるたびに、ほとんど美咲と一緒にいたのだ…… 遥香は急いで封筒を閉じて、2階に上がり、金庫からアルバムを取り出した。 これは彼女と雄介のアルバムだった。 遥香は写真家だったので、ずっと写真で日常を記録するのが好きだった。 自分が脳腫瘍だと分かった時、雄介との記憶を失うことを恐れて、二人の写真を全部まとめて保管していた。 たとえ記憶を失っても、写真を見れば、自分と雄介がかつて幸せな時間を過ごしたことを思い出せると思って。 でも今は…… 遥香は冷たく笑って、すぐにライターで写真に火をつけた―― 最初の一枚は、雄介が彼女を背負って海辺を歩いているものだった。 彼女は幼い頃に父親を亡くし、誰にも背負ってもらったことがないと言ったので、彼は一晩中彼女を背負って歩いた。 二枚目は、彼女が病気が分かって雄介と別れようとした時のものだった。 でも雄介は無数のドローンを使って、空に彼女の名前を描いてプロポーズした。 三枚目は、彼女が病気で意識を失っていた5年間、雄介が彼女のベッドサイドに座って、丁寧に彼女の体を拭いているものだった。 7年間、遥香の人生は雄介のことばかりだった。 でもそれらの思い出も美しさも、今は全て炎に包まれて灰になった…… 写真を燃やした後、遥香は雄介と美咲のひどい写真を全部アルバムに入れた。 汚された美しい思い出は覚えていたくない。 でもこの裏切りだけは、絶対に忘れてはいけない。 …… 燃やし終えた時は深夜だった。 遥香はそのまま眠りに落ちた。どれくらい眠ったのか分からないが、突然手首を掴まれた。 驚いて目覚めると、暗闇の中に雄介の青白い顔があった。 「遥香」声を震わせながら、「君は……俺たちの写真を燃やしたのか?」 第5話 遥香は少し戸惑った。雄介の手に半分燃えた写真があるのに気づいたのは、その時だった。 写真が多すぎて、後の方は燃やしきれずにそのままゴミ箱に捨てていたのだ。 雄介に見つかってしまった。 でも、雄介と美咲の写真を入れたアルバムはもう金庫に鍵をかけてしまってある。雄介の目に触れることはない。 「ええ」 否定しなかった。雄介はようやく本気で慌てて、彼女の手をぎゅっと握った。 「遥香、君がこの写真を一番大切にしてるって言ってたじゃないか。どうして燃やしたんだ?俺が何かしたのか?」 いつも落ち着いている雄介が、今は悪いことをした子供みたいに泣きそうになっている。 「俺に悪いところがあるなら言ってくれ。全部直すから!」 遥香はようやく彼を見た。 言ったところで、彼が美咲から離れるだろうか? 言ったところで、彼の裏切りを許せるだろうか? 許せるわけがない。 だから、言わない方がいい。 むしろ、きれいさっぱり忘れてしまった方がいい。 そう考えて、遥香は落ち着いた声で言った。 「考えすぎよ。アルバムを見てて眠っちゃって、アロマキャンドルが燃え移ったの。消そうとした時にはもう燃えちゃってたけど、ネガがあるから大丈夫」 この嘘はひどすぎる。雄介が信じるはずがない。 「遥香……」彼が口を開きかけた時、スマホが突然震えた。 雄介はスマホを見て顔色を変えると、急に立ち上がった。 「遥香、ちょっと電話に出る」 そう言って慌ててベランダに出て行った。遥香の耳に、断片的な言葉が聞こえてくる―― 「今月まだ来てないって……」 「ちゃんと検査したの?間違いない?」 ベランダから雄介の興奮した声が聞こえてきたが、遥香は聞く気にもなれず、ただ目を閉じて皮肉な笑みを浮かべた。 そうね。 どんなにひどい嘘でも、相手が気にしなければ通るものなのね。 …… その後数日間、雄介は落ち着かない様子で、写真のことを問い詰める余裕もなかった。 遥香も気にせず、ひたすら記憶を失った後の準備をしていた。 この日、大学で手続きを済ませてオフィスから出たところで、階段で美咲と鉢合わせした。 「遥香さん!」美咲は彼女を見て嬉しそうに、「どうしていらしたんですか?先生に会いに来たの?」 そう言うと美咲は遥香の腕に抱きついたが、遥香は冷たく振り払った。 「雄介もいないし」遥香は素っ気なく言った。「もう演技する必要はないでしょ」 前回の誕生日の時の美咲からの電話で、二人の関係の正体ははっきりしていた。 それでも美咲は認めようとせず、ただ目を大きく見開いて、無邪気で困惑した顔で遥香を見つめた。 「遥香さん、何のことですか?まだオークションの時に先生が私の写真を落札したことを怒ってるんですか?ごめんなさい、ごめんなさい、本当にわざとじゃなくて……まだ怒ってるなら、私を叩いてください……」 そう言うと美咲は本当に遥香の手を掴んで、自分を叩かせようとした。 遥香は呆れて手を引いた。 「何やってるのよ……」 ところが手を引いた瞬間、美咲が突然「あっ」と声を上げてバランスを崩し、階段を転げ落ちた。 「美咲!」 急な叫び声が背後から響いて、遥香が振り返ると、雄介が廊下の角に立っていた。 雄介は駆け下りて倒れている美咲を抱き起こし、緊張で顔が真っ青になっていた。 「美咲、大丈夫か?お腹は……」 雄介の言葉が終わらないうちに、美咲が泣き出した。 「先生!」美咲は雄介の服を掴んで、泣きながら言った。「遥香さんが私を突き飛ばしたんです……彼女は……本当に私を嫌いになったんですか?」 第6話 美咲の叫び声を聞いて、周りに人が集まってきた。 遥香の表情が冷たくなった。「私じゃない、彼女が勝手に……」 彼女は説明しようとしたが、言い終える前に、雄介がもう美咲を抱きかかえていた。 「すぐに病院に連れて行く!」 そう言って彼は慌てて去って行き、遥香のことは完全に無視していた。 …… 遥香は病院に着くと、医師が雄介と話していた。 「夏野さん、ご安心ください。小早川さんは軽傷です。少しお休みいただければ問題ございません」 雄介はほっとして、振り返ると遥香がいるのに気づいた。 彼は少し驚いて、彼女のそばに歩み寄り、優しく言った。 「遥香、どうして来たんだ?」 遥香は言った。「私は美咲を突き飛ばしてない。彼女が私をはめたのよ」 遥香は本来、雄介たちと関わりたくなかった。 でもこんな濡れ衣だけは嫌だった。だからはっきりさせに来たのだ。 雄介の動きが一瞬止まった。 次の瞬間、彼は優しく言った。「大丈夫、俺が美咲に謝っておく。この件はもう終わりにしよう」 そう言って雄介は遥香の手を引いて去ろうとした。 でも遥香は動こうとしない。 彼女は顔を上げて、信じられないといった顔で彼を見た。 「謝る?どうして謝るの?雄介、さっき私が言ったこと聞こえなかった?私は美咲を突き飛ばしていない!彼女がわざと――」 「もう十分だ!」 今度は、遥香の話を雄介が我慢できずに遮った。 「美咲はそんなことをする子じゃない!」 遥香の顔が真っ青になった。 「そんなことをする子じゃない?」遥香の声から力が抜け、苦笑いを浮かべて、声を震わせた。「じゃあ雄介、あなたは私がそんな人間だと思ってるの?」 遥香の青ざめた顔を見て、雄介はようやく胸が痛んだ。 雄介は慌てて遥香の手を握った。 「遥香、そういう意味じゃない。ただ美咲が今の状況で君をはめるはずがない、なぜなら彼女は……」 雄介は言葉に詰まり、話し方を変えて説明を続けた。 「つまり、君がわざとやったわけじゃないのは分かってる。たぶん美咲の後ろに階段があることに気づかなくて、それで……」 余計な言葉ばかりで、言い訳にもなっていない。 雄介も言葉に詰まって、最後は遥香を見つめて、疲れた声で言った。「遥香、この件はもう話さないでくれないか?」 遥香は彼を見上げた。 彼女はふと思い出した。高校時代、成績が上がった彼女を妬んだ誰かが、カンニングの濡れ衣を着せたことがあった。 雄介は何も聞かずに彼女を信じて、彼女を悪く言った人たちに謝らせた。 昔、雄介が彼女を裏切っても、これまでの関係で、彼女のことくらいは信じてくれると思っていた。 でも今、彼は彼女の人格さえ信じていない。 最後の希望も消えて、彼女は下を向いて、小さく言った。「分かった」 遥香がこんなに簡単に諦めるとは思わなかったのか、雄介は最初驚いたが、すぐに彼女を抱きしめて、優しく言った。 「やっぱり、遥香は優しいな」 優しい? 遥香は力なく口元を歪めた。 説明する気になれなかった。 説明は、大切に思う人にするものだから。 そして彼女は、もう雄介のことなんてどうでもよくなってしまったのだから。 …… それから数日間、遥香は離婚手続きの準備を始めた。 署名済みの離婚協議書と、探偵が撮った写真を全部弁護士に送った。 弁護士は電話で何度も保証してくれた。 「夏野さん、安心してください。これらの写真があれば、離婚は確実です。たとえあなたが記憶を失われても、私がきちんと処理いたします」 遥香はうなずいた。「離婚のことは、お願いします」 そう言って電話を切ったが、顔を上げると、雄介が寝室の入り口に立っていた。 雄介は急いで彼女の手を掴み、緊張した表情で言った。 「離婚?遥香、誰が離婚するって?」 第7話 遥香の胸が一瞬、ドキッとした。 でもすぐに冷静になった。 「大学時代のルームメイトの花宮寧香(はなみや ねいか)よ。離婚するから、私の知ってる弁護士を紹介したの。どうかしたの?」 雄介の肩から力が抜けた。「いや、俺はてっきり……」 言いかけて、苦い笑みを浮かべた。 考えすぎだった。 遥香が俺と美咲のことを知るはずがない。最近少しぎくしゃくしてても、離婚なんて考えるわけがない。 そう自分に言い聞かせて、話題を変えるように遥香の手を取った。 「遥香、君にプレゼントがあるんだ」 遥香が不思議そうに見上げる。「プレゼント?」 雄介は優しく微笑んだ。「君がずっと子供が欲しいって言ってたよね?よく考えてみたんだ。君の言う通りだと思う。俺たちにも子供がいた方がいい」 遥香は信じられないという表情で雄介を見つめた。 自分が病気のため子供ができないことは、ずっと前から分かってた。 そのことをずっと申し訳なく思ってたし、雄介が本当は子供好きだと知ってたから、結婚してすぐに養子をもらいたいと提案したことがあった。 でも、あの時雄介ははっきりと断った。 なぜ急に気が変わったんだろう? 違和感を感じた遥香は、思わず尋ねた。「なぜ急に?」 「急じゃないよ」雄介は穏やかに答えた。「実は、もう手続きを始めてるんだ。少し時間はかかるけど、半年から八か月後には、俺たちの子供に会えると思う」 雄介は養子をもらうことについて、これまで見せたことのない熱心さを示した。 別荘の一室を片付けて赤ちゃん部屋にして、リフォームしてから、赤ちゃん用品をいろいろ揃えていった。 ベビーベッドから小さな洋服、おもちゃや絵本まで、本当にいろんなものを。 すごく丁寧に準備してた。 遥香には、どこか不自然に感じられた。 その夜のこと。頭痛で目を覚ました遥香は、赤ちゃん部屋の方から物音がするのに気づいた。 ドアの近くまで行くと、中に美咲と雄介がいるのが見えた。 雄介は美咲の手首を掴んで、厳しい声で詰め寄ってる。 「美咲!誰が夜中にうちに来ていいと言った?しかも、この部屋に?それに、こんな写真を撮って何のつもりだ?」 美咲の手にはアルバムがあって、中にはエコー写真やお腹の写真が入ってたけど、顔は写ってなかった。 美咲が泣き出した。 「赤ちゃんが生まれる過程は一度きりだから、記録に残してあげたくて……深い意味はありません……」 雄介の表情がさらに険しくなった。 「記録だって?この子に君が本当の母親だってことを知らせたいんだろう!美咲、もうはっきり言っただろう。君のお腹にいるこの子は産んでもいいが、俺と遥香の子供としてだけだ!」 「そして君は、絶対にこの子の前に現れちゃいけない!」 美咲はその瞬間、ついに泣き崩れた。 「分かってます……」泣きながら必死に言った。「全部分かってるんです……信じないなら見てください、このアルバムの表紙を……」 雄介は眉をひそめながら、手にしたアルバムを閉じた。 表紙にはこう書かれてた―― 【赤ちゃんへ、これはあなたの成長記録のプレゼントです】 【お母さん 夏野遥香より】 雄介は驚いて美咲を見上げた。「君は……」 美咲はもう泣き崩れてた。 「全部分かってるんです……先生が赤ちゃんを残してくれるのは、遥香さんのためだけだって。私は何も奪おうなんて思ったことありません。自分の立場も分かってます……」 「でも本当に赤ちゃんに思い出を残してあげたくて、それで写真を撮ったんです。安心してください、赤ちゃんにあげるものは全部、遥香さんの名前で……んっ……」 美咲の言葉が終わらないうちに、雄介が激しく彼女にキスをした。 男の瞳に愛情が宿って、やがて独占欲に変わって、少女をベビーベッドの柵に押しつけた。 美咲は怖くなってお腹を押さえた。 「先生、お腹の赤ちゃんが……」 でも雄介は乱暴に彼女のスカートを引っ張った。 「大丈夫、優しくするから」 ベッドのきしむ音が続く中、ドアの外の遥香もついに耐えきれず、壁に背中を預けて座り込んだ。 あぁ、雄介が急に子供が欲しいと言い出したのは。 あぁ、雄介がこんなにその子を楽しみにしてるのは。 あぁ、美咲が階段から落ちた時、雄介が彼女がわざとやったとは信じなかったのは。 つまり、彼女が「養子にもらう」その子は、美咲の子供だった。 雄介は、彼と美咲の間に生まれた子供に、自分をお母さんと呼ばせようとしてるのだ。 遥香は目を閉じて、涙が静かに頬を伝った。 雄介、どうしてこんなひどいことができるの? …… 子供のことで、遥香はもう限界だった。 演技をするのも嫌になって、雄介に実家で休みたいとはっきり言った。 雄介は最初反対したけど、結局は折れた。 空港まで送ると言ったけど、途中で電話がかかってきて、急に会社に用事ができたと言った。 遥香は分かっててインスタを開くと、案の定美咲がまた病院でのストーリーを投稿してた。キャプションには―― 【お腹が少し痛い、うう、大丈夫かな】 でも遥香はもう問い詰める気力もなくて、雄介が去った後、自分で運転して空港に向かった。 ところが車が別荘の門を出たばかりの時、大型トラックが突然突っ込んできた。 ガシャン! 遥香は反応する間もなく、車全体が吹き飛ばされた。 第8話 頭を車窓に激しく打ちつけ、エアバッグが展開する中、遥香は座席でぼんやりしてた。 意識が朦朧とする中、トラックから数人の若い男たちが降りてくるのが見えた。 遥香には分かった。あれは美咲と同じ孤児院で育った男たちだった。 美咲を支援してた時、彼らも一緒に支援してたのだ。 彼らは車のそばまで来て遥香の状況を確認した。 「これだけぶつかったら、助からないだろ?」 「そうだ。この女、もともと脳に病気があるんだから、絶対助からない!」 「はは、よかった!こいつが死ねば、美咲が夏野家の奥さんになれる。俺たちにもいいことがあるぞ!」 「よし、よし、早く行こう!人が来る前に!」 彼らは慌てて立ち去り、遥香はその場に横たわったまま、胸が激しく上下してた。 やっぱり……美咲がやったことだった…… 別荘の門の前は人通りがなく、遥香は必死に携帯を取って救急車を呼ぼうとしたが、携帯は手の届かないところにあって、緊急SOSのボタンにしか触れなかった。 そのボタンを押すしかなかった。 長年、彼女の緊急SOSには一人しか登録していなかった。雄介だった。 電話はすぐに繋がった。 「もしもし、遥香?」 遥香は必死に声を出した。「雄介、早く……救急車を呼んで……」 でも電話の向こうは慌ただしかった。 遥香の耳に、かすかに美咲の泣き声が聞こえてきた。 「先生、赤ちゃんは大丈夫でしょうか?」 雄介は完全にそっちに気を取られて、遥香が何を言ったか全然聞いてなかった。急いで言った。 「遥香、こっちで緊急事態が起きてる。後でかけ直すから」 そう言って彼は一方的に電話を切った。 プープープー。 短い電子音が静まり返った車内に響いて、遥香は絶望して目を閉じた。 体力がどんどんなくなって、頭が割れそうに痛んで、いろんな記憶が頭の中をよぎった…… 雄介が指輪をはめてくれた瞬間…… 雄介が手術前に彼女の手を握って離れないでと懇願した瞬間…… 雄介が彼女が目を覚ました時に喜び泣いた瞬間…… 遥香はついに力尽きて、ゆっくりと目を閉じた。 その時、突然声が聞こえてきた。 「こっちで交通事故が起きてます!急いで!手伝ってください!」 遥香は自分が車から引きずり出されるのを感じて、周りで救急車のサイレンが鳴り響いた。 そして―― 「だめです、この状況では手術が必要です!」 「でも手術すると記憶を失う可能性があります!」 「記憶なんてどうでもいい!命の方が大事だ、急いで手術を!」 きつい消毒液の匂いが漂って、遥香はついに意識を失った…… 手術の後、遥香は三日三晩昏睡状態だった。 三日後、彼女はやっと目を覚ました。 「遥香!」 ベッドサイドで見守ってた雄介が慌てて彼女の手を取った。 普段は落ち着いてて上品な男が、今は疲れ果てて、顔には無精ひげが生えてた。 でもそんなことより、彼はただ心配そうに遥香の手を握った。 「遥香、気分はどう?どこか痛むところは?」 「あの日電話を切ったりして、本当にごめん。君が事故に遭ってるなんて知らなかった、本当にごめん……」 雄介は今にも泣き出しそうに言った。 でも目の前の遥香は少し眉をひそめただけだった。 彼女は雄介の涙に何の反応も示さず、ただ自分の手を引き抜いて、警戒するように彼を見て、最後に冷たく言った。 「あなた、どちら様?」