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愛が消えゆく時
水無月雪(みなづき ゆき)は、望月陽介(もちづき ようすけ)と5年間、籍も入れずに一緒に暮らしてきた。 この5年間で、二人は新居を買い、雪...
Chương (1)
第1章
水無月雪(みなづき ゆき)は、望月陽介(もちづき ようすけ)と5年間、籍も入れずに一緒に暮らしてきた。
この5年間で、二人は新居を買い、雪の好みに合わせた内装にリフォームした。
雪は、陽介からプロポーズされる日を夢見ていた。しかし、ある日、陽介が母にこう話すのを聞いてしまった。
「心変わりなんてしてないよ。俺は雪をずっと妹のように思っていた。男女としての好意を持ったことは一度もない。
いいか、お母さん。俺の嫁は萌しかいないんだ」
……
第1話
水無月雪(みなづき ゆき)は、望月陽介(もちづき ようすけ)と5年間、籍も入れずに一緒に暮らしてきた。
この5年間で、二人は新居を買い、雪の好みに合わせた内装にリフォームした。
雪は、陽介からプロポーズされる日を夢見ていた。しかし、ある日、陽介が母にこう話すのを聞いてしまった。
「心変わりなんてしてないよ。俺は雪をずっと妹のように思っていた。男女としての好意を持ったことは一度もない。
いいか、お母さん。俺の嫁は萌しかいないんだ」
ー
【水無月様、面接の結果、採用が決定いたしました。来月1日午前8時に弊社へお越しいただき、入社手続きをお願いいたします】
雪はメールを保存し、メールボックスを閉じた。
来月か……
もっと早く時間が過ぎればいいのに、と彼女は思った。
この家……
雪は今いるこの家を見渡し、鼻の奥がツンとした。
ここは彼女と陽介で一緒に買った家だ。
家を買うとき、彼女は階層、間取り、立地にとことんこだわった。
陽介は少しもイライラせず、逆に優しく彼女をなだめた。
「一緒に住む家なんだから、君が快適に過ごせなきゃ意味がないだろ」
この言葉のおかげで、家のリフォームは雪がすべて監修した。
すべてのデザインは、彼女と陽介がより快適に暮らせるように考えられたものだった。
でも今は……
彼女が気に入っていた日当たりの良い寝室は、明け渡してしまった。
リビングの壁に飾ってあった、彼女のお気に入りのツーショット写真もなくなっていた。
家の中にあったペアのグッズも、家政婦に片付けられて捨てられてしまった。
これらはまるで、陽介への彼女の愛情のように、どんどん少なくなっていく。
最後には、粉々に砕け散り、消えてしまい、二度と戻ってこない。
寝室の外で園田萌(そのだ もえ)が甘えた声で何かを話している。雪が部屋のドアを開けると、最後の言葉だけが聞こえてきた。
「雪が、一日中部屋から出てこないけど、やっぱり私のせいで、寝室を取られちゃったから怒ってるの?」
雪からは陽介の表情が見えた。
彼の目には優しい愛情が浮かんでいたが、口から出た言葉は期待を裏切るものだった。
「これは俺の家だ。君が好きな部屋に住めないなら、俺が家を持つ意味がないだろ」
似たような言葉なのに、5年の間に聞き手が変わってしまった。
雪はただただ皮肉に感じた。
萌は雪に気づくと、すぐにテーブルの上に残っていたケーキを持って近づいてきた。
「雪、出てきたの?ちゃんと雪に謝りたくて、わざわざ雪が一番好きなマンゴーケーキ買ってきてあげたよ」
雪は反射的に断った。「いらない」
萌はケーキを手に持ち、少し唇を尖らせた。
「もしかして、私が食べちゃったから嫌なの?仲がいいからこそ、そうしたんだけど……」
雪は理解できなかった。
なぜ彼女たちは仲がいいと思っているのだろうか?
それに、本当に仲の良い人に食べ残しをあげるだろうか?
「悪いけど、本当にいらない」
雪ははっきりと断った。
萌はその場に立ち止まり、潤んだ瞳で陽介に助けを求めるように見つめた。
陽介は眉をひそめて近づいてきた。
「萌がわざわざ持ってきてくれたんだから、少しは口にすべきだろう。将来、恥をかかないように、教えたはずのマナーはどこへやったんだ?」
雪は唇を噛み締めた。
唾のついたフォーク。
クリームとマンゴーのないスポンジケーキ。
きれいに舐め取られていないクリームと、潰れたマンゴーの混合物。
見るだけで吐き気がする。
「やっぱり雪、まだ怒ってるのね」
膠着状態の中、萌の目が突然赤くなり、手を放すとケーキが床に落ちた。
「ここに来るんじゃなかった」
瞬く間に、萌は涙を流した。
雪が何が起きたのか理解する前に、萌は突然床に跪いた。
「ごめんなさい、全部私のせいよ。もう行くわ!」
雪は驚き、萌を起こそうとした。
陽介はさらに素早く萌を引き起こし、雪を嫌悪の眼差しで見つめた。
「雪、萌に土下座させるなんて、随分慣れてるみたいだな?
いつも萌とこんな風に接してるのか?」
陽介の疑念のこもった言葉は、鋭い矢のように雪の胸を貫き、耐え難いほどの痛みを与えた。
第2話
彼女と彼との付き合いは、五日でも五ヶ月でもなく、五年だった。
彼の心の中では、自分はそんな女だったというのか?
「萌が君が怒ってるって言ってたのも当然だな。あの寝室から出ていく前に、萌に散々嫌がらせをしたんだろう!」
雪はどう説明したらいいのか分からなかった。
陽介が萌を連れてきたのは三日前のことで、連れてきた時の第一声はただの通知だった。
「これから萌は君の義姉になるんだ。ベランダ付きの部屋を片付けて萌に譲り、君は向かいの部屋に移るんだ」
雪は愕然とした状態から受け入れるまで、たった一分しかかからなかった。
なにしろ、その名前は一度聞いているのだ。
その日、雪は部屋を片付けたが、荷物が多かった。
彼女は二日かけて片付けたので、萌が引っ越してきたのは昨日だった。
しかし、この二日間、陽介はずっと家にいた。
今日だけは会社の契約の処理が必要だったため、仕方なく朝早く出かけて行ったのだ。
萌は雪の動く唇を見て、さらに激しく泣きじゃくった。
「違うの、陽介、誤解よ……雪……雪だって、私に優しくしてくれる時もあるのよ。
今日は仕方ないわ。これからいつも家にいてくれさえすればいいんだから!」
萌の泣き声の中、陽介の顔はますます険しくなった。
「雪、萌の言っていることは本当なのか?」
雪は青ざめた顔で、陽介に抱きしめられている萌を見た。
彼女は、この言葉が萌から出たとはあまり信じられなかった。
さらに、なぜ萌がこんな風に自分を中傷するのか理解できなかった。
陽介の腕の中で萌は震え、涙をさらに激しく流した。
しかし、口元の笑みは、雪に彼女の真意を伝えていた。
「雪!」
陽介は片手で萌をさらに強く抱きしめ、失望した口調で言った。
「俺の前でさえ萌にきつく当たって睨みつけるなんて、自分の間違いに気づいていないのか……
どうやら、俺が教えてやったことをすっかり忘れてしまったようだな」
雪は感情の抜け落ちた目で陽介を見た。
また、この似たような言葉だ。
結局、この何年間、彼は彼女に何を教えてきたというのだろうか?
かつては優しく部屋を片付けてくれて、「これからはこういうことは俺がやるから」と言ってくれたことか?
かつて彼女が遊びに行きたいと言った時、「俺は君と一緒にいたい」と言ったことか?
かつて彼女の誕生日ごとに、何度も贈られてきたハート型のケーキとバラの花か?
それとも、かつて彼女がふと振り返った時に、彼がいつも愛情のこもった視線を向けていて、歩み寄って温かく抱きしめてくれたことか?
五年間も一緒にいれば、彼女はバカではない。陽介の様々な行動がなければ、どうして誤解するだろうか?
「陽介、大丈夫よ……私は本当に大丈夫」
萌は雪よりも焦って口を開き、まるで雪のことを真剣に考えているかのようだった。
「ねぇ、雪。このケーキを食べて謝罪とすれば、陽介ももうあなたを責めないし、私もあなたを許すわ。どう?」
さっきまで涙を流して泣いていた萌。
今は陽介の腕の中で、彼女を見ながら勝ち誇った顔をしていた。
足で床に落ちたケーキのスポンジを踏みつけた。
どこにも悲しそうな様子はなかった。
雪は我慢の限界だった。
「陽介、家には監視カメラがあるのを忘れたの?私がやったかやってないか、自分で見ればいいじゃない」
雪の冷たい言葉が終わるとすぐに、陽介は眉をひそめた。
「家には監視カメラはあるが、死角がどこにあるかも分かっているだろう。萌の反応は嘘じゃない」
雪は急に息苦しさを感じた。
萌の反応は嘘じゃない……
雪は苦笑いした。
五年も住んだこの家で、雪は温もりを少しも感じることができなかった。
第3話
心臓から凍えるような寒気が全身に広がり、五臓六腑まで凍りついた。
このすべてを生み出した氷のような手が、なおも彼女の心臓を引き裂かんばかりだ。
息をするたびに、苦しさが増していく。
「萌は君を責めていないんだ。いい加減にして、萌に謝れ!」
陽介は激しく叱責した。
雪は目を真っ赤にしながら、陽介を見つめていたが、何も言わなかった。
過去5年間、陽介に叱られたことは一度もなかった。
でも、ここ数日で、まるで悪女にでもなったかのように扱われる。
存在することさえ、許されないようだ。
陽介の冷酷な瞳は、雪を威圧するように見つめていた。まるで強制的に何かをさせようとしているかのようだ。
雪は、弁解しようという気力を失った。
「謝ります。ごめんなさい」
陽介の眉間の皺が伸びた。
「もう子供みたいなわがままな振る舞いはやめろ。それに、萌をいじめるのもやめろ。家の隅々まで監視カメラを設置するからな」
雪は、とてつもない疲労感に襲われた。
それは魂の奥底からの疲労感だ。
肉体は粉々に砕け、魂は安らぐ場所もない、そんな疲労感だった。
彼女は自分の居場所を見つけられずにいた。
「監視カメラなんてつけなくても大丈夫よ、陽介。今回のことで、雪はきっと反省してるわ。そうだよね、雪?」
萌はそう言いながら、陽介の胸にさらにすり寄った。
まるで、雪が突然暴れて襲いかかってくるのを恐れているかのように。
陽介はすぐに警戒し、萌を守ろうと雪を近づけさせなかった。
雪はもうこれ以上関わりたくなく、適当に返事をして部屋に戻ろうとした。
しかし次の瞬間、萌が自ら陽介を押しやった。
床に落ちて、ぐちゃぐちゃになったケーキを拾い上げた。
「長い時間並んでやっと買えたのに、雪は一口も食べないうちにこんなことになってしまって……本当に残念だわ……」
萌は悲しそうに言った。さっきまで得意げだった目に、今にも涙があふれそうだ。
陽介はすぐに眉をひそめ、怒りをにじませた。
「雪、さっき謝ったのは萌をいじめたことだけだろ?萌の好意を断って、せっかくのケーキを台無しにしたことについてはどうなんだ?」
雪は口を開いた。
しかし、陽介の視線に、説明しようとしていた言葉を飲み込んだ。
「ご……」
雪がそう言うと、萌は手に持っていたケーキを雪の口元に押し付けた。
「謝らなくていいわ、雪。許してあげる。でも、このケーキ、床に落ちちゃったのがもったいないから、一緒に食べましょう……」
ケーキは埃だらけだった。雪はすぐに手でそれを防ごうとした。
「きゃあ!」
萌は雪の手に近づいた後、まるで誰かに引っ張られたかのように、
バランスを崩して雪にぶつかり、悲鳴を上げて床に倒れた。
雪は萌に覆いかぶさられた。頭が角に強くぶつかり、遅れてきた激痛が襲ってきて、目の前がかすんだ。
「萌!」
陽介は慌てて萌を雪の上から抱き上げた。
「大丈夫か?今すぐ病院に行こう!」
萌は陽介の袖を引っ張って、「大丈夫よ。雪を責めないで。きっとわざとじゃないわ!」
陽介の怒りの声が部屋に響き渡ったが、雪の方を見ることは一度もなかった。
「萌に何かあったら、俺の母さんも君を守れないぞ!」
慌ただしい足音が遠ざかり、雪は後頭部に当てていた手を離した。
温かい血と涙が指の間から滴り落ち、かつて彼女が一番好きだった木の床を汚した。
救急車はすぐに彼女を一番近くの病院へ運んだ。
救急医は雪の状態を見て、深刻な表情を浮かべた。
第4話
何も言えないうちに、看護師が慌てて駆け寄ってきた。
「杉山先生!望月さんの彼女が怪我をなさったんです!至急、全員で診てください!」
雪を見る杉山医師の表情には、明らかな躊躇の色が見えた。若い看護師はもう一度急き立てた。
「望月さんがこんなに焦っているんですから、彼女の怪我はきっと重傷に違いありません!」
今度は杉山医師は躊躇うことなく、振り返って病室を出て行った。
雪はなんとか立ち上がり、廊下を歩いていくと、五六人の医師が一つの病室の前に集まっているのが見えた。
陽介の声は緊張していた。
「早く萌を見てくれ!腕から血が出ているんだ!」
「先生、どうか萌を診てやってくれ!費用はいくらでも払う!
萌を治してくれるなら、何でもする!」
偶然か、それとも運命か。
通りすがりの雪の耳に、杉山医師の声が飛び込んできた。
「血痕は乾いています。これは他人の血です」
「まさか!他人の血なはずがない!もう一度よく調べてくれ!道中で、萌は痛みで泣いていたんだ!」
杉山医師は唇を固く閉じ、黙って検査を始めた。
陽介はしきりに、ここが青くなっているのではないか、あそこが腫れているのではないかと聞いていた。
この様子では、杉山医師は30分はここから離れられないだろう。
雪は外の薬局で薬とガーゼを買い、店員に傷の手当てをしてもらった。
店員は念を押した。「念のため、病院でしっかり診てもらった方がいいですよ。頭を打ったのは軽傷じゃないですから」
雪は店員の忠告に、ただ「はい」と答えた。
病院?
何のために?二人のイチャイチャを見るため?
それとも、また陽介に叱られるため?
もういい。全て終わったことだ。
家に帰って床の血痕を片付け終えた途端、陽介が萌を抱えて帰ってきた。
雪の頭に巻かれたガーゼを見て、陽介は一瞬呆気に取られた。
萌は陽介の様子を窺うと、すぐに雪に悲しげな視線を向けた。
「雪、そんな……まるで、自分が怪我人だって陽介にアピールしてるみたいじゃない……
でも、急に引っ張られたから、本当にバランスを崩しちゃったの」
陽介は元々しかめていた眉を、この言葉を聞いてさらに険しくし、雪を睨みつけた。
「自業自得だ」
陽介の目は氷のように冷たかった。
「君が萌を引っ張って転ばせるまでは、萌に謝って、今後心を入れ替えればそれで済ませるつもりだった。
だが、君は反省の色も見せず、性懲りもなく、しかもこの期に及んで、俺の目の前でこんなことをするとは。
俺の見ていないところでは、もっと酷いことをするんだろうな?
萌が君と一緒にいるのは危険すぎる。明日から別のマンションに引っ越してもらう。荷造りをしないなら、引っ越し業者を呼ぶ。
もし邪魔をするなら、家政婦に荷物を全部捨てさせる」
雪は最初から最後まで何も言わなかった。
彼女はただ立ち尽くし、茫然としていた。
萌は勝ち誇ったように雪から視線を外し、陽介に、ラーメンが食べたいと甘えた。陽介は優しく、すぐに作ってあげると答えた。
二人は仲睦まじく、寝室へと入って行った。
寝室のドアが閉まり、陽介の温かい態度は全て遮断された。
広々としたリビングは、暖色の照明に照らされているのに、冷え切っているように感じた。
雪は、自分の影がそこかしこにあるこの家を見渡した。
確かに5年間住んでいた。
だが、今になって初めて、ここは自分の家ではなかったのだと気づいた。
自分の家はここにはない。
でも、5年間も住んだこの家を、本当に出て行かなければならないのだろうか?
第5話
雪は、たった一日しか住んでいない部屋の片付けを始めた。
元の寝室から運び出したばかりの荷物が、まだ箱に入ったままたくさんあった。雪は箱を開けなくても、中身の一つ一つにどんな思い出が詰まっているか分かっていた。
そして、その思い出の一つ一つは、陽介と繋がっていた。
いつの間にか萌がやって来て、勝手にドアを開けた。部屋の中の様子を確認すると、嘲笑を始めた。
「まさか、あなたが居座ると思ってたよ。だって、陽介って金持ちだし」
雪は萌を見上げた。萌は勝ち誇った様子で部屋に入り、自分の領地を見回すように視線を巡らせた。
しばらくすると、彼女は嫌そうに口を開いた。「広いバルコニーもないこんな所に置けるものなんて、期限切れのガラクタくらいよね」
雪は、まだ開けていないたくさんの箱をじっと見つめた。
これらの箱には、この5年間の歳月がそのまま記録されている。
でも、もう過ぎたこと……
手放すべきなんだ。
もうすぐここを出て、新しい生活を始める。これらの荷物は、もう一緒に連れて行く必要はない。
雪は、ふと心が軽くなった気がした。
「雪」
萌が少し興奮したような息づかいで雪を呼んだ。雪が不思議そうに顔を上げると、萌は大きな花瓶を手に持ち、雪の前に立っていた。
雪が顔を上げたのを確認すると、萌は可愛らしい笑みを浮かべ、手を離した。
「覚えておきなさい。これが陽介の前で可哀想な振りをした報いよ」
花瓶は雪の足に重く落ちて、鈍い音を立てた。
雪は悲鳴を上げそうになるほどの痛みを感じた。萌は雪の口をしっかりと塞ぎ、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「叫んでみれば?私が陽介に、あなたが自分で怪我をしたって言いつけるわ。どっちの言葉を信じると思う?」
雪は痛みで冷や汗が服にしみ込み、全身が震え、一言も言葉を発することができなかった。
萌は雪が諦めたと思ったのか、口を塞いでいた手を離し、にこにこと笑いながら言った。
「安心して。あなたが陽介から離れて、もう二度と関わろうとしなければ、私も何もしないから」
家の外から、陽介の訝しげな声が聞こえてきた。
「何かが落ちた音がしたけど、何をしているんだ?」
そう言いながらエプロン姿の陽介がやって来た。萌は数歩前に出て、陽介の視線を遮った。
「何でもないわ……」
雪は、はっと顔を上げて陽介を見た。激しい痛みに耐えながら、声を絞り出した。
「萌が花瓶で……」
「雪!」
萌は目を潤ませた。「まだ、私に何か濡れ衣を着せるつもり?私が陽介とあなたより親しいからって?」
陽介は床に散らばった破片を見て表情を変え、萌をさらに心配そうに見た。
「怪我はしてないか?」
その言葉を聞いて、雪は絶望に打ちひしがれた。
萌は勝ち誇ったように雪を睨みつけ、陽介と目が合うと、すぐに涙を流した。
萌は悲しそうな顔をしている。
「私は怪我してないわ。雪が、私を見て急に花瓶で自分を殴って……それで……」
陽介は冷たく言った。「それで、なんだ?」
「陽介は彼女のものだって。私こそ追い出されるべきだって……」
陽介は、その時になってようやく雪に視線を向けた。
凍りつくように冷たい視線だった。
「雪、俺は君を甘やかしすぎたのか?!」
雪は苦笑いをしたが、何を言えばいいのか分からなかった。
陽介は雪の言葉を信じず、説明する機会すら与えない。
「雪!」
陽介は怒りに満ちた声で雪を呼んだ。
「萌は君の義姉だ。君は俺の妹みたいなものなんだ、分かるか?俺が何年か面倒を見てやったからって、俺にたかっていいと思うな!」
第6話
雪は皮肉っぽく笑った。「あなたにたかるつもりはないわ」
「そうしてくれると助かる」
陽介は、雪とはこれ以上話したくないという苛立ちを隠さず、萌の方を気遣ってテーブルに案内し、ラーメンをよそってやった。
二人分だけだった。
雪がびっこを引きながら軟膏を探していると、萌がわざとらしく心配そうに声をかけてきた。
「雪、薬塗ってあげる。じゃないと、ずっと治らないわよ」
雪が口を開くまでもなく、陽介は萌を制止した。
「放っておいていい。萌は優しすぎるんだよ」
少し間を置いて、陽介は雪の方を見もせずに言った。
「足を怪我したからって、出て行かなくていいと思うなよ。明日、母さんが迎えに来る。兄代わりに、俺がしてやれるのはここまでだ」
最後の言葉は、彼女と彼自身の立場を思い出させるためだった。
雪は表情一つ変えず、軟膏を持って部屋に戻った。
散らかった部屋を見渡し、雪は無表情で不用品回収業者に連絡した。
夜が明け、陽介の母が来て雪の足を見ると、急に固まってしまった。
「雪、いじめられたの?」
雪は、鼻の奥がツンとして、喉が詰まって言葉が出なかった。ただ、涙を浮かべて首を横に振るだけだった。
陽介は鼻で笑った。「自分のしたこと言えないだけだろ。母さん、同情する必要ないよ」
陽介の母は息子を睨みつけ、隣に立つ萌にも厳しい視線を向けた。
「五年も一緒に暮らして何もなかったのに、他の人が来てたった三日でしょ。雪は頭も足も怪我だらけじゃない!」
陽介は眉をひそめて反論した。「それは雪の嫉妬心が強いせいだろ。萌に関係ない」
雪は、自分のせいで陽介の母と陽介が喧嘩するのを望まず、陽介の母の袖を引っ張って言った。
「おば様、私は大丈夫です」
陽介の母は呆れたように息子を睨みつけ、そして、後ろの運転手に言った。
「雪の荷物をまとめて。もう、ここにはいられない。私と一緒に帰るわよ!」
運転手が広いベランダのある部屋に入ろうとすると、陽介はそれを遮った。萌は笑みを浮かべて口を開いた。
「おば様、彼女の部屋はあっちですよ」
陽介の母は呆然とし、客間とベランダのある部屋を交互に見比べ、それからすっかり変わってしまった家の中を見回した。
急に陽介の母は元気がなくなり、雪に申し訳なさそうに、そして憐れむような視線を向けた。
雪が何か慰めの言葉をかけようとしたその時、不用品回収業者がやってきた。
未開封の段ボール箱がすべて運び出されていくのを見て、陽介は眉をひそめた。「全部売っちまったのか?」
雪は伏し目がちに「うん」と小さく返事をした。何も説明しなかった。
陽介がさらに何か聞こうとした時、萌はすぐにお腹が空いたと甘えた声を上げた。
陽介がキッチンに行くと、萌は彼の耳元で何か囁いていた。二人はとても親密そうだった。
雪は運転手に彼女の運転免許と銀行カードを持って来てもらい、陽介の母と一緒に望月家に戻った。
その後半月あまり、陽介の母の介護のおかげで、雪の怪我はほぼ完治した。
陽介の母は、時々雪に怪我の経緯を尋ねた。
雪はただ首を横に振るだけだった。
この先、陽介の母は萌と付き合っていくことになるのだ。自分のせいで陽介の母に迷惑をかけたくはなかった。
雪はネットで大きなスーツケースを購入し、持って行くものをすべて詰め込んだ。
しかし、避けようとしていることほど、起こってしまうものだ。
陽介と萌が、陽介の母の家へやってきた。
陽介の母は、陽介が荷物を持っているのを見て、最初はとても喜んだ。
「やっぱり、雪のことが放っておけなかったのね……」
第7話
しかし、陽介の母は、息子が連れてきた萌の姿を見ると、
途端に笑顔がこわばり、言葉を失った。
萌はその冷淡さに気づき、可憐そうに陽介の服を握りしめた。
「陽介、雪がおば様に何か言ったから、おば様は私をこんなに嫌っているの?」
陽介の母は一瞬にして怒りで顔が真っ赤になった。
「雪は私と一緒に何日も過ごしたけれど、あなたの悪口は一言も言わなかった。なのに、あなたは初めて家に来た日に彼女のことを悪く言うなんて!」
萌はすがりつくように陽介の背後に隠れた。
「でも、おば様は私を嫌っているし、雪も私を嫌っている」
陽介はすぐに雪の方を向き、開口一番に叱責した。
「雪!俺と萌が帰って来たのに、何も言わないのか?」
雪は複雑な目で二人を一瞥し、なんも言わなかった。
陽介は雪の様子がおかしいと感じたが、隣の萌はずっと服を引っ張っていた。
陽介は母の方を向き、説得した。
「お母さん、萌は俺の妻なんだよ。初めて家に来た日に冷たくするのか?」
陽介の母はため息をつき、それ以上何も言わなかった。
陽介は萌を連れて二階建ての家の見学を始めたが、二階に上がった途端、母に呼ばれて行ってしまった。
家の中は静かで、萌も陽介を探す様子もなかった。
雪は急に異変を感じ、階段の手すりにつかまりながら二階に上がると、案の定、萌が自分の寝室にいるのを見つけた。
しかも、床はめちゃくちゃで、化粧品と服が混ざり合い、破片や液体が散乱していた。
ベッドの上も無事で済まなかった。
雪は頭に血が上った。「何してるの?!」
萌は雪を挑発するように見て、「あなた、目障りなの。もうすぐ望月家に嫁ぐのに、あなたを見たくない。
あなたが後で、おば様に私の悪口を言うかどうかわからないし」
雪は深呼吸をした。ドアの外から、陽介が探しに来た声が聞こえた。「どうしたんだ?」
明らかに雪の叫び声を聞いていた。
部屋の中の様子を見て、目を丸くした。
「これは……」
萌は突然目を赤くした。「陽介、雪を叱らないで。彼女は私を見て少し興奮しただけなの。
この部屋も、雪が私をいじめたからこうなったわけじゃないし……」
萌の泣き叫ぶ声の中、雪は力なく床からスーツケースを拾い上げた。
スーツケースの中の財布がひっくり返され、中の銀行カードはすべて折られていた。
自分の給料で買ったアクセサリーは、すべて変形し、悪意を持って踏み潰されていた。
雪は何かを思い出した。
慌てて自分の運転免許を探した。
しかし、ない!
陽介の母は異変に気付き、慌てて尋ねた。「何かなくしたの?」
「運転免許、私の運転免許がないんです!」
陽介の母が萌の方を見ると、萌は泣き出した。
陽介は眉をひそめて不機嫌そうに言った。「お母さん、萌が言った通り、雪が悪いんだよ。
もしかしたら、雪が自分で運転免許を隠して、萌に濡れ衣を着せているのかもしれない。
そうでなければ、萌が彼女の運転免許をどうするんだ?」
雪は立ち上がり、萌に向かって歩み寄った。「私の運転免許はどこにあるの?!」
陽介は彼女を遮るように手を差し出した。
「自分でなくしたくせに、萌のせいにするのか?萌は今、君にいじめられて泣いているんだぞ。まだどうしたいんだ?」
雪は胸が張り裂ける思いで、陽介を見て悲しそうに笑った。
「私が彼女をいじめた?」
雪は涙をこらえて、「この5年間、あなたを選んだことを本当に後悔してる」
しかし、陽介はすぐに反論した。
第8話
「俺を選んだってどういう意味だ?君が一人でこっちで学校に通ってるから面倒を見てやってただけで、妹みたいだと思ってたんだ」
この言葉は、ちょうどやってきた陽介の母でさえ聞き捨てならないものだった。
叱責しようとしたその時、隣の萌が既に口を開いて説得を始めていた。
「陽介、雪もそんなつもりで言ったんじゃないと思うわ。
雪だって、ずっと陽介をお兄さんみたいに思ってたんでしょう?」
雪はこの質問に答えたくなかったが、陽介はまるで何か言われるのを恐れているかのように、警戒しながら彼女を見つめていた。
雪はぼんやりとした。
何であんなに陽介が好きだったのか、理由さえ思い出せなくなりかけていた。
もしかしたら……あの土砂降りの日に、彼が傘を自分に譲って、一人で雨の中を走っていったからかもしれない。
あるいは、自分が病気になった時、彼が即配サービスを待てずに、真夜中に薬を買いに出かけてくれたからかもしれない。
あるいは……彼がいつも自分を甘やかしてくれたこと、そして愛情のこもったあの瞳のせいだったのかもしれない。
「ええ、ずっと家族よ」
雪は皮肉を込めてそう言った。
過ぎ去ったことは、もう過ぎ去ったのだ。
萌は微笑みながら口を開いた。
「じゃあ、私と陽介の結婚式場を選んでくれない?陽介は忙しいし、私も一人で決められないの。
雪が手伝ってくれたら、本当に助かるんだけど」
雪は言葉に詰まった。
萌を見て、吐き気がするほどだった。
自分の部屋をあんな風にしておいて、今度は結婚式場を選べと?
「あなたはやっぱり陽介の妹同然の存在だから、少しでも私たちのことを祝福してもらえたら嬉しいな」
陽介の母は雪を心配そうに見て、それから陽介を見て、叱責した。
「雪の足はまだ怪我してるのよ。式場の下見は他の人にお願いできないの?」
陽介は黙って、萌の言葉を認めた。
陽介の母は怒り心頭だったが、雪は既に頷いていた。
「いいわ」
「家族として、当然のことよ」
陽介と陽介の母は同時に驚いた。雪があんなにあっさり承諾するとは思っていなかった。
雪はその時、萌を見た。
「あなたの用事は済んだわね。じゃあ、私の運転免許はどこ?」
萌は無邪気に言った。「雪、本当に知らないの。さっきあなたが物で私を叩いた時、よく見えなかったのよ……」
陽介の顔色が変わった。
「雪、萌をいじめるなんていい度胸だな!ここは自分の家だと思ってんのか!
この家で部外者は誰なのか、分かってるのか?
俺がいなければ、君はこの家で何者でもないんだぞ!」
言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。
雪は涙をこらえて陽介を見た。
「ええ、私が部外者だわ」
短い言葉だったが、まるで骨を削られるようだった。
息もできないほどの苦しみ、胸が押しつぶされそうだった。
隣の陽介の母はずっと陽介の袖を引っ張り、困った顔をしていた。
「雪にそんな言い方しちゃダメよ。雪をここに連れてきたのは陽介でしょ……」
婚約の話まで出ていたのだ。
陽介の母は萌に配慮し始めて、言葉を濁した。
陽介は冷ややかに笑った。
「あの時の同情心が、萌にこんなにも辛い思いをさせることになるなんて、もし知っていたら。
彼女に会うことなんてなかったと願うよ」
雪はこらえていた涙が、ついに溢れ出た。
5年間の最後。
心からの「彼女に会うことなんてなかったと願う」という言葉だった。
「陽介、そんな言い方しないで。雪がどれだけ傷つくか……」
萌は涙を浮かべて言った。
「私がいじめられたからって、家の中が喧嘩ばかりじゃダメよ」
「もう、いい加減にしなさい」
陽介の母は陽介を睨みつけた。
今のこの状況は、彼が蒔いた種だ。
第9話
「もう帰りなさい。私は雪と運転免許を探す」
陽介は冷たく鼻を鳴らした。
「今後この家に、彼女がいるなら俺いないからな!」
言い終わるのも待たずに、陽介は萌を連れて踵を返した。
大きなドアの閉まる音で雪は我に返り、呆然と涙を拭った。
部屋を片付け、運転免許を探し始めた。
陽介の母は少し躊躇した。
「雪、私がお手伝いさんに一緒に片付けさせましょうか?
陽介たちを見に行くわ。あんなに怒って運転したら危ないから」
そう言うと、陽介の母は慌てて階段を下りて、二人の後を追った。
雪は落胆しなかった。
陽介が言ったことは正しかった。
落胆する理由もなかった。
雪は部屋中を探し回り、ようやくベッドの下から、顔写真の部分が切り取られた運転免許を見つけた。
顔写真はゴミ箱の中に捨てられ、バラバラになっていた。
携帯電話の着信音が鳴り、同時に二つのメッセージが届いた。
雪は携帯電話を手に取ると、そのうちの一通が萌からだと分かった。
【今日は警告だけよ。恥を知ってるならさっさと出て行きなさい】
【私が望月家に入った後、あなたと同じ屋根の下で暮らすなんてまっぴらごめんだわ】
雪は無表情でメッセージを閉じ、もう一通のメッセージを開いた。
【水無月様、ご予約いただいた29日13時発の航空券の手配が完了いたしました。快適なご旅行を!】
雪は大きく息を吐いた。
まだ間に合う。
雪は運転免許や銀行カードなどを再発行した。
壊されたアクセサリーは全て現金に換えた。
276万円。
これまで陽介の母にはずいぶんお世話になった。毎年たくさんのプレゼントもいただいた。
今となっては価値が下がっているが、それでもそれなりの金額になった。
雪は少しお金を足し、それを新しい銀行カードに入れて枕元に置いた。
雪が自分のことを済ませた途端、見慣れた車が庭に停まった。
萌は後部座席から動かず、運転手に雪を呼びに行かせた。
雪は深呼吸をして、車に乗り込んだ。
五年間の結末をつける。これでよかったんだ。
雪は萌と一緒に座りたくなかった。
助手席のドアを開けると、いつも忙しいはずの陽介が中にいた。
萌は陽介の肩にもたれかかり、幸せそうに微笑んでいた。
「雪、陽介があなたと二人きりになるのは心配だって言うのよ。どれだけ説得してもダメだったの」
雪は笑った。
その笑いは、まるで自分自身を嘲笑うようだった。
婚約式のための会場は三ヶ所予約されていた。
最初の会場は、萌がひとめ見ただけで却下した。
「ここは三階でしょ?お年寄りの方がお祝いに来てくれたら、上がってくるのが大変じゃないかしら」
陽介は何も言わずに萌を連れて二ヶ所目、三ヶ所目へと移動した。
終始、萌の言うことに従い、少しも嫌がる様子はなかった。
萌にはとことん甘く、
少しも嫌がる様子はなかった。
そして、29日になった。
萌はまたしても朝9時に雪を連れ出した。
今回見ている会場は広い芝生で、一面にバラの花が咲き誇っていた。
これまでの婚約会場の中で一番高額な場所だった。
「雪、ここはどう?陽介も気に入ってるみたい。高いほど私に相応しいって」
雪は適当に頷いた。
「ええ、とても素敵」
本当に素敵だった。
自分のお金を使うわけでもないし、婚約も自分とは関係ない。
どうだってよかった。
萌はさらに嬉しそうに笑った。
「そうよね、私は高価なものに相応しいんだから。
階数だの、間取りだの、立地だの、値段が上がらなきゃ、どれだけ選んでも意味ないわ。
あのマンションはもう陽介と相談して売却することにしたの。もっと広いマンションを探し直すわ」
萌は雪を見て、晴れやかに笑った。
「どう思う?雪」
「いいんじゃない」
雪が反応しないのを見て、萌は会場を決めていた陽介の元へ向かった。
二人はひどく親密で、会場のマネージャーでさえ何度も顔を赤らめ、そそくさとその場を離れた。
萌は時折、挑発するように雪を見た。
雪は時計を見た。11時。
もう行く時間だ。
飛行機が離陸し、空へと舞い上がる。
慣れ親しんだ街を、本当に後にする。
雪の顔に、心からの笑みが浮かんだ。