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結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて
昼間、彼女は彼の温和で有能な秘書だった。 夜になると、彼女は彼にとって柔らかく愛らしい恋人になった。 三年間、寄り添い合う日々を過ごし...
Chương (1)
第1章
昼間、彼女は彼の温和で有能な秘書だった。
夜になると、彼女は彼にとって柔らかく愛らしい恋人になった。
三年間、寄り添い合う日々を過ごし、彼女は彼が自分を愛していると信じていた。
彼にプロポーズをしたとき、返ってきた言葉はこうだった。
「ただの遊びだよ。心じゃなくて体だけの関係で、君は本気だと思ったのか?」
彼女の心は打ち砕かれ、冷え切った。
そして、彼を捨て去るように背を向けて歩き去った。
それから、彼女の人生はまるで奇跡が起きたように加速し始めた。
仕事では圧倒的な成功を収め、法曹界で誰も逆らえないトップ弁護士となった。
その周りには多くの求婚者が集まり、彼女はまるで別世界の住人のようだった。
そんな中、彼は自分の過ちを悔い、彼女を追い詰めるように壁に押し付けた。
目尻が赤く染まりながら、震える声で言った。
「俺のすべて――命も心も君のものだ。だから、俺と結婚してくれないか?」
彼女は明るく笑いながら答えた。
「ごめんなさい。ちょっとどいてくれる?あなたが私の素敵な出会いの邪魔になってるわ」
第1話
激しい夜の情事の後、藤崎佳奈(ふじさき かな)の肌には薄くピンクの輝きが差していた。
高橋智哉(たかはし ともや)は彼女を腕に抱き、長い指先で彼女の繊細な顔立ちをなぞる。
その魅惑的な目には、これまでにない優しい情が宿っていた。
佳奈は激しく求められ、体は疲れ切っていたが、どこか満たされた気持ちがあった。
しかし、彼女がまだその余韻に浸る間もなく、智哉の携帯電話が鳴り響いた。
画面に表示された番号を見た瞬間、佳奈の心はざわめいた。
彼女は智哉の腕にしがみつき、見上げるように言った。
「取らないで、いい?」
電話の相手は遠山美桜(とおやま みおう)だった。
彼女は智哉にとって、手の届かない理想そのものだった。
帰国してまだ1カ月も経たない間に、何度も自殺未遂を繰り返していた。
佳奈はわかっていた。
美桜がわざとこういう行動をとっているのは明らかだ。
それでも、智哉は佳奈の気持ちなどお構いなしに、彼女を腕から払いのけた。
ついさっきまでの甘い空気など感じられない冷たい態度で、ためらいなく電話を取った。
佳奈には電話の内容までは聞き取れなかったが、智哉の瞳には嵐のような感情が揺らめき、外の夜の闇よりも深く見えた。
電話を切ると、彼は素早く服を身に着けながら言った。
「美桜がまた自殺未遂をしたらしい。様子を見てくる」
佳奈はベッドの上に座り、彼をじっと見つめた。
白く透き通った肌には、彼の愛撫の痕跡が鮮やかに残っている。
「でも、今日は私の誕生日。あなた、私と過ごすって約束したよね。大事な話があるの」
智哉はすでに服を着終え、冷たく鋭い目で彼女を見下ろした。
「こんなときに、よくそんな我儘が言えるな。美桜は命の危機にあるんだ」
佳奈が反応する間もなく、智哉は勢いよくドアを閉め、部屋を後にした。
間もなく、外からエンジン音が聞こえてきた。
佳奈は枕の下から小さな箱を取り出し、そっと中を開けた。
中には二つのペアリングが入っている。
彼女の目には涙が浮かび、視界が滲んでいく。
三年前、佳奈が路地裏で悪党に囲まれた時、智哉は彼女を救うために太ももに怪我を負った。
彼女はその出来事をきっかけに、彼を介抱することを自ら申し出た。
そしてある夜、酒の勢いで二人は関係を持った。
その後、智哉は彼女にこう尋ねた。
「俺と付き合うか?ただし、結婚はできない」
佳奈は一瞬の迷いもなく、彼の申し出を受け入れた。
智哉は、彼女が4年間密かに想い続けた男性だったからだ。
それ以来、佳奈は昼間は彼の優秀で美しい秘書として働き、夜になると彼の温順な恋人になった。
彼女は天真爛漫に信じていた。
智哉が結婚しない理由は、彼の家庭環境の影響だと。
そして、佳奈は彼のために自分でプロポーズの場を準備した。
一日中かけて細部まで飾り付け、彼が「結婚」という言葉を恐れることから解放されるきっかけにしたかったのだ。
だが、美桜からの一本の電話が、佳奈の幻想をすべて打ち砕いた。
智哉が結婚しないのは、結婚するつもりの相手が最初から自分ではなかったからだ。
佳奈は悲しげに笑いながら、ペアリングを箱にしまい、露台の飾り付けを自分の手で取り外した。
そして、誰にも知らせずに一人で車を走らせた。
しかし、車が少し進んだところで、彼女の下腹部に激痛が走った。
次の瞬間、温かい液体が太ももを伝い、シートを染めていくのを感じた。
佳奈が目を下ろすと、白いレザーシートが鮮血で赤く染まっていた。
彼女は嫌な予感がして、すぐに智哉に電話をかけた。
「智哉、お腹が痛い、迎えに来てくれる?」
電話の向こうからは彼の苛立った声が聞こえた。
「佳奈、駄々をこねるならタイミングを考えろよ!」
佳奈は増え続ける血を見て恐怖で震え、泣きながら言った。
「智哉、本当なの!お腹がすごく痛いの、それに、血がたくさん出てる!」
彼女が最後まで言い切る前に、電話の向こうから冷たい声が聞こえた。
「美桜は命の危険があるんだぞ。それでも構ってほしいなんて、呆れる」
智哉の冷淡な言葉に、佳奈はしばらく何も言えなかった。
ようやく、彼女は笑みを浮かべたものの、それは苦しさに満ちた笑いだった。
「私が駄々をこねていると思ってるの?」
「違うのか?」
彼の冷たい声は、佳奈の心をまるでナイフのように刺した。
彼女は唇を噛み、震える指でスマホを握りしめ、全力で叫んだ。
「智哉、あんた最低だ!」
激痛と恐怖で冷や汗が全身を覆い、佳奈は救急車を呼ぼうとしたが、手が震えてスマホを操作することもできなかった。
そして、彼女の視界は次第に暗くなり、意識を失ってしまった。
再び目を覚ました時、佳奈は病院のベッドの上に横たわっていた。
その隣には親友の知里が心配そうに座っていた。
佳奈が目を覚ますと、親友の大森知里(おおもり ちさと)がすぐに身を乗り出して、心配そうに彼女を見つめた。
「佳奈、大丈夫?まだ痛む?」
佳奈はぼんやりとした目で知里を見つめ、かすれた声で聞いた。
「私、どうしたの?」
知里は一瞬躊躇した後、静かに答えた。
「あなた、妊娠してたのよ。医者が言うには、もともと子宮壁が薄かった上に、智哉のあの乱暴な行為が原因で流産して大出血したの」
佳奈の目は大きく見開かれ、信じられないように呟いた。
「私......妊娠してたの?でも、もういないの?」
頭の中が真っ白になり、目の奥が熱くなってくる。
それが彼女と智哉の子供だった。
智哉との未来がどうなるかはわからなくても、その命だけは彼女にとって大切なものだった。
佳奈は手をぎゅっと握り締め、涙が静かに頬を伝った。
それを見た知里は、彼女をそっと抱きしめ、優しく言った。
「泣かないで、手術したばかりなんだから体に悪いわ。元気になったら、私が可愛い男の子たちを紹介してあげる。あのクソ男のことなんて忘れさせてあげるから」
知里は怒りを抑えきれずに続けた。
「智哉の野郎、もう少しであなたを殺しかけた上に、目の前で浮気までして、最低すぎる。彼の股が裂ければいいのに!」
佳奈の心は、まるで無数の矢が一斉に突き刺さるような痛みに襲われていた。
冷たい手で知里をぎゅっと抱きしめ、声が詰まってしばらく何も言えなかった。
思い浮かぶのは、命を授かったばかりで失われた子供のことと、七年間も愛し続けた男性のことだった。
心を静めることができず、やっとの思いで口を開いた。
「彼に会ったの?」
知里は頷きながら答えた。
「彼なら四階で美桜に付き添ってる。あなたが手術してた時、私、あなたのスマホで彼に電話したんだけど、サインが必要だって説明しても、あのクソ男は電話すら取らなかったわ」
佳奈は痛みに耐えるように目を閉じた。
「知里、連れて行って……彼に会い行きたい」
「手術したばかりなんだから、怒るのはダメよ」
「自分の目で確かめなきゃ、決断できない」
知里は仕方なく佳奈の頼みを聞き入れ、彼女を四階へ連れて行った。
佳奈は病室のドアの外に立ち、中の様子をそっと覗き込んだ。
そこには、智哉が美桜に薬を飲ませながら、優しい声で励ましている姿があった。
その温かい眼差しと、彼女に向けられた柔らかい声は、佳奈の心を鋭く刺した。
さらに、佳奈が美桜の顔をよく見ると、自分にどこか似ていることに気づいた。
その瞬間、佳奈はすべてを悟ったように悲しげな微笑みを浮かべた。
振り返りながら知里に言った。
「連れて帰って……もういい」
——
佳奈が智哉と再び顔を合わせたのは、二日後のことだった。
彼女はベッドに横たわりながら、かつて深く愛した男性を静かに見つめていた。
いよいよ決断の時が来たものの、彼女の心はまだ引き裂かれるような痛みに苛まれていた。
智哉は彼女の顔色が優れないのを見て、低い声で尋ねた。
「もう二日も経ったのに、まだ痛むのか?」
彼はそれを生理痛だと思っているようだった。佳奈はこれまで一日で痛みが引くことが多かったからだ。
佳奈は熱くなる目元をこらえながら、心の中の感情を押し殺した。
一言も発さず、ただ彼を見つめた。
智哉はベッドの端に腰掛け、冷静な表情を浮かべていた。
端正な眉と目元には冷淡さが宿りつつも、その手は彼女の額に触れた。
温かな手の感触と共に、声も少し低くなった。
「この前欲しいって言ってたバッグ、手配した。外のソファに置いてあるから、起きて見てみろ」
佳奈の目は無表情のまま智哉を見つめ、短く答えた。
「もういらない」
智哉は少し考え、続けて言った。
「じゃあ車だ。フェラーリにするか、それともポルシェか?」
それでも佳奈が何も反応しない様子に、智哉の眉間がわずかに寄った。
「じゃあ、何が欲しいんだ?」
彼の中では、金で解決できないことなど存在しないのかもしれない。
佳奈は静かに両手でパジャマの裾を握りしめた。
清らかで透き通ったその瞳は智哉をじっと見つめ、震える唇がゆっくりと動いた。
「結婚したいの!あなたと」
第2話
その言葉を聞いた瞬間、智哉の表情は冷え切り、鋭い視線で佳奈をじっと見つめた。
「俺は結婚しないって前に言っただろう。遊びが続けられないなら、最初から承諾するな」
佳奈の目尻は薄紅に染まりながらも、静かに言葉を返した。
「最初は二人の感情だったのに、今は三人になった」
「彼女は君にとって何の脅威にもならない」
佳奈は自嘲気味に微笑んだ。
「彼女の電話一本で、あなたは私を放り出し、私が死にかけていることすら気にしない。智哉、どうすれば『脅威』になるのか教えてよ」
智哉の瞳には怒りがはっきりと浮かんでいた。
「佳奈、生理痛くらいでここまで大げさに騒ぐ必要があるのか?」
佳奈は彼の言葉を聞き、静かに息を吸い込むと言った。
「じゃあ、もし私が妊娠していたら?」
「子供を理由にするのはやめろ。俺は毎回きっちり避妊している」
その冷たく迷いのない口調に、佳奈の心に残っていたわずかな幻想が音を立てて崩れた。
もし本当に子供がいたとしても、彼はそれすらも排除しようとするだろう。
佳奈は拳を固く握り、爪が皮膚に食い込んでも痛みを感じなかった。
彼女は顎を上げ、苦々しい笑みを浮かべて言った。
「あなたはこう言ったわね。『二人の関係は感情だけ。結婚はしないし、どちらかが飽きたらすぐに別れよう』。智哉、私、もう飽きたの。別れよう!」
その言葉は簡潔で、迷いも未練も感じさせなかった。
だが、誰も彼女の胸の中から血が流れていることに気づくことはなかった。
智哉の手は拳を握りしめ、青筋が浮かび上がっていた。彼の目は鋭く、冷たく佳奈を射抜いた。
「その言葉がどういう結果を招くか分かってるのか?」
「この言葉があなたの機嫌を損ねるのは分かってる。でも智哉、私は疲れたの。三人で築く愛なんていらない」
彼女はかつて、愛さえあれば結婚など必要ないと信じていた。
しかし、それが間違いだったと気づいた。智哉の心は、最初から彼女には向いていなかったのだ。
智哉は彼女の顎を乱暴に掴み、その瞳に冷笑を浮かべた。
「こんな手で俺に結婚を迫るつもりか?佳奈、お前は俺を甘く見てるのか、それとも自分を買いかぶってるのか」
佳奈は絶望に満ちた目で彼を見つめた。
「どう思われても構わない。今日ここを出ていくわ」
彼女がベッドから降りて荷物をまとめようとした瞬間、智哉は彼女の腕を強く引き寄せ、抱きしめた。
熱く湿った唇が、彼女の唇を正確に捉えた。
その低く響く声は冷たく、嘲笑を含んでいた。
「俺を離れて、また藤崎家が以前の状態に戻るのが怖くないのか?これはお前が三年かけて捧げた青春の代償なんだぞ」
その言葉に佳奈の頭は真っ白になった。目を見開き、信じられない様子で彼を見た。
「それってどういう意味?三年の青春って何のこと?」
智哉は彼女の唇の咬み痕を冷たい指先で弄び、口元には嘲笑を浮かべていた。
「俺に助けを求める計画を立てて、結婚しない条件でも俺についてきた。それが父親を助けて藤崎家を救うためじゃないと、他に理由があるのか?」
確かに三年前、藤崎家は前例のない経済危機に直面していた。
智哉と付き合い始めてから、彼は藤崎家に多くの仕事を与え、その危機を脱させた。
それを智哉が自分のことが好きだからだと、彼女は信じていたのだ。
佳奈は震える唇で問いかけた。
「じゃあ、この三年間、あなたの優しさはすべて演技で、そこには一切の感情がなかったってこと?」
智哉はその問いに怒りが爆発し、額の血管が浮き上がった。
歯を食いしばりながら冷たく言い放った。
「ただの体だけの遊びだ。本気になると思ったのか?」
その短い一言は、鋭い刃となって佳奈の心を深く切り裂いた。
佳奈は三年間、深い愛情を注いできたが、智哉にとってそれはただの金と肉体の取引に過ぎなかった。
彼女だけが愚かにも、彼が自分を愛していると信じていたのだ。
その事実に気付いた瞬間、佳奈は体中の全ての神経が獣に引き裂かれるような痛みを感じた。
目に宿る悲しみも徐々に冷たく硬いものに変わっていく。
「三年間の青春で、もう十分に高橋社長への恩を返したと思います。これでお互い清算しましょう。これからは二度と関わらず、お互い幸せに生きましょう」
佳奈の倔強な表情に、智哉はますます怒りを募らせた。
「佳奈、一晩だけ考える時間をやる。その後でよく考えてから俺に答えろ」
冷酷な雰囲気をまといながら、智哉は背を向けて部屋を出て行った。
残された佳奈は、ひとりベッドの上で体を丸めたまま動けなかった。
ずっと抑えていた涙が、気づけば頬を伝って流れ落ちていた。
彼女の七年間の片思いと、三年間の献身的な尽くしは、智哉にとってただの恥ずべき取引でしかなかった。
恋愛において、先に心を動かした方が負けだと言われる。
ましてや佳奈は智哉に出会ってから四年も前に恋をしていた。
彼女は完敗し、惨めな姿をさらすしかなかった。
泣き疲れた佳奈は、静かに立ち上がり、最低限の荷物をまとめると、振り返ることなく部屋を後にした。
——
一方で、夜の静けさを切り裂くように、黒いロールスロイスが街道を駆け抜けていた。
智哉の頭の中には、佳奈が「私たち、別れよう」と言った時の毅然とした表情が浮かんでいた。
ただ誕生日を一緒に過ごさなかっただけ、ただ嫉妬しただけ。
そんなことで別れを切り出すなんて、彼女の小さなわがままをちゃんと直さなきゃいけないと考えていた。
智哉はイライラしてネクタイを引き剥がし、助手席に投げ捨てた。
携帯の着信音が何度も鳴り響き、しばらくしてようやく応答ボタンを押した。
「なんだ?」
電話の向こうから、飄々とした声が聞こえた。
「何してんだよ?全然電話に出ねえじゃん」
「運転中だ」
石井誠健(いしい のりたけ)は不敵な笑みを浮かべながら言った。
「何が運転中だよ?藤崎秘書といちゃいちゃしてんじゃないの?お邪魔しちゃった?」
「暇そうだな」
「いやいや、ちょっと聞きたかっただけだ。月影バー、来るか?辰也が奢るらしいぞ」
10分後――
月影バー。
誠健は智哉に酒を差し出し、悪戯っぽく笑いながら言った。
「顔が地面に落ちそうなくらい暗いぞ。どうした?佳奈と喧嘩でもしたのか?」
智哉は冷たい視線を彼に向けながら言った。
「カップルが感情をぶつけ合うことで仲を深めるのを知らないのか?」
「おやおや!これは“夜”を重ねるうちに情が湧いちゃったってやつか?まさか本気になった?」
誠健は“夜”という言葉をわざと強調しながら、痞悪な笑みを浮かべた。
智哉はためらいなく彼を蹴り飛ばした。
「黙れ」
「分かったよ、黙るよ。でも忠告しとく。もし佳奈が本当に好きなら、美桜との関係はきっちり整理しろ。毎回彼女から電話が来るたびに駆けつけるようじゃ、そのうち“奥さん“が出て行っても文句言えないぜ」
智哉は眉間にシワを寄せた。
「彼女には脅威にならないと説明した。でも信じない」
「いや、普通の女なら信じないだろうな。美桜はお前の幼馴染で、子供の頃から婚約者みたいなもんだろ?どの女が、自分の男がそんな相手に頻繁に会いに行くのを我慢できると思うんだ?」
智哉は煙草ケースから一本取り出して火をつけ、深く吸い込んだ。
その黒い瞳はますます暗さを増していく。
「俺と彼女は......」
言葉を言い終える前に、貸し切りルームのドアが開いた。
遠山辰也(とおやま たつや)が美桜を伴って部屋に入ってきた。
「悪いな。美桜がちょっと情緒不安定で、一緒に来させてもらった。迷惑じゃなければいいが」
誠健は智哉の険しい表情を横目で見て、気まずそうに笑った。
「いやいや、迷惑なわけないだろう。美桜、こっち来て誠健兄さんの隣に座れよ」
美桜は優しげで無邪気な笑みを浮かべながら答えた。
「そっちはエアコンの風が直接当たるから寒いわ。ここに座らせてもらう」
そう言うと、彼女は智哉の隣に腰を下ろし、小さな箱を鞄から取り出して智哉の前に置いた。
「智哉さん、この前私を助けるために彼女の誕生日を逃したけど、怒られなかった?」
智哉は淡々と答えた。
「怒ってない」
「それなら良かった。これ、彼女へのお詫びとして私が選んだ口紅よ。もし彼女が誤解してるなら、私から直接説明してもいいわ」
智哉は目もくれずに拒絶した。
「いらない」
その言葉を聞いた途端、美桜の目には涙が浮かんだ。
「智哉さん、私があなたを煩わせすぎているの?でも、病気の発作が出ると、ついあなたに頼ってしまうの」
言葉と共に、大粒の涙が頬を伝って落ちていく。
智哉は彼女を一瞥し、眉を寄せた。
ポケットに口紅をしまい込み、低く言った。
「俺が彼女に渡しておく」
美桜は瞬時に表情を明るくし、智哉に一杯酒を注いだ。
「智哉さん、これ飲んでみて。兄が海外のオークションで落札した82年もののワインよ」
彼女が酒杯を渡すとき、指先が意図せず彼の手首に触れた。
智哉はすぐに手を引き、煙草を灰皿に押しつけて消した。
「そこに置いとけ」
美桜は彼が自分を拒む様子を見て、一瞬冷たい表情を見せたが、すぐに従順な笑顔に戻った。
辰也は酒杯を持ち上げ、智哉と乾杯しながら言った。
「お前の彼女にはまだ会ったことないな。今度一緒に連れてこいよ」
誠健がからかうように笑った。
「最近は無理だろうな。今、絶賛喧嘩中らしい」
辰也は智哉の険しい表情を見ながら笑った。
「喧嘩なんてすぐに仲直りできるさ。まあ、俺が助けたあの女の旦那みたいにはなるなよ。彼女が流産して大出血で死にかけてるのに、電話を無視して他の女と一緒にいたって話だ」
第3話
智哉はグラスを持つ手を何度も握りしめた。
同時に、心の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。
あの日、美桜が自殺未遂を起こし、佳奈も生理痛で何度も彼に電話をかけていた。
最初は応答していたが、後には苛立ちのあまり電話を切ってしまった。
もしかして、それが原因で別れを切り出したのだろうか。
智哉は視線を落としながら、辰也と誠健がそのクズ旦那を罵るのを聞いていた。
指先に挟んだ煙草の火が手の甲を焼いても、全く気付かなかった。
その夜、智哉はずっと落ち着かない気分で過ごしていた。
普段ならこの時間になれば佳奈から電話が来て、帰宅を気遣う言葉があったはずだ。
しかし、今は深夜1時を過ぎても、一度も連絡が来なかった。
胸の奥に不安が広がり、智哉はすぐに煙草を揉み消し、スマホを手にして店を後にした。
バーを出たところで、一人の少女が花かごを抱えて近づいてきた。
「お兄さん、彼女さんに花をプレゼントしませんか?」と笑顔で話しかけてきた。
智哉はかごの中に盛られたシャンパンローズを見つめながら、辰也の「ちょっと優しくすればいいだけ」の言葉を思い出した。
そして答えた。
「全部、包んでくれ」
少女は嬉しそうに花を美しくラッピングして彼に渡し、たくさんの祝福の言葉を添えた。
智哉の険しい表情も、少しだけ和らいだ。
彼は財布から数枚の万札を取り出して少女に渡した。
しかし、花束を抱えて家に戻った彼を待っていたのは、佳奈の愛らしい姿ではなく、家政婦だった。
「お帰りなさいませ。酔覚ましスープをお作りしましたが、一杯いかがですか?」
智哉は眉をひそめ、階上を見上げながら尋ねた。
「彼女は寝ているのか?」
家政婦は一瞬戸惑った後、すぐに答えた。
「藤崎さんは出て行かれました。これをお預かりしています」
智哉は家政婦から一つの封筒を受け取り、それを開けてみた。
中には佳奈が書いた衣類リストが入っていた。
額に青筋を立てながら、彼はその紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
すぐにスマホを取り出し、佳奈に電話をかけた。
着信音が長く鳴った後、ようやく彼女が応答した。
受話器の向こうから、少し掠れた声が聞こえてきた。
「何?」
智哉は骨ばった手でスマホを強く握り締め、歯を食いしばりながら問いかけた。
「本気でやるつもりか?」
「本気よ」と佳奈は冷静に答えた。
「佳奈、後悔するなよ!」
そう言い放つと、彼は電話を切り、険しい表情のまま階段を上った。
背後から家政婦の声が聞こえてきた。
「旦那様、この花は......」
「捨てろ!」
振り返りもせずそう言い残し、彼はそのまま寝室へ向かった。
寝室のドアを開けると、白いサモエドの首に黄色いお守りがつけられているのが目に入った。
彼は以前、佳奈のSNSでそのお守りを見たことがあった。
「一番愛する人のために山で祈願してきたお守り」と書いていた。
その瞬間、智哉は冷笑した。
「一番愛しているのはこの犬かよ」
怒りに任せてサモエドの首からお守りを引き剥がし、自分のポケットに押し込んだ。
サモエドはその行動に怒り、彼に向かって激しく吠え立てた。
智哉は不機嫌そうにサモエドを睨みつけた。
「吠えるなよ。お前の母ちゃんもお前を捨てたんだ」
そう吐き捨てると、勢いよくドアを「バタン」と閉めた。
翌朝、智哉はいつものように腕を伸ばし、隣にいるはずの佳奈を抱き寄せようとした。
しかし、手が空を切った瞬間、彼は目を見開き、現実を思い出した。
佳奈がいない。
胸の奥に重苦しさが広がり、彼は急に息苦しくなった。
これまで毎朝、智哉はいつも佳奈と“特別なひととき”を過ごしていた。
彼女が自分の腕の中で甘える様子を見ていると、胸の奥に何とも言えない感情が湧き上がってきた。
その感情はまるで毒のように彼の骨髄にまで染み込み、彼を支配していた。
今はその毒に駆られるように、どうしようもなく佳奈を探したい衝動に駆られていた。
だが、一言も告げずに出て行った彼女の姿を思い出すと、怒りが再び燃え上がる。
探しに行くなんてプライドが許さない、そう思った。
階下に降りると、高木幸太(たかぎ こうた)がリビングでスマホを片手に誰かと話しているのが目に入った。
智哉は冷たい視線を送りながら近づき、声をかけた。
「何をそんなに忙しそうにしている?」
高木はすぐにスマホをしまい、申し訳なさそうに言った。
「高橋社長、藤崎秘書はひどい病気ですか?病院に様子を見に行きますか?」
智哉は眉をひそめた。
「彼女がそう言ったのか?」
「はい。さっき、一週間の休暇を申請してきたんです。直接社長に報告すればいいのに、わざわざ私を通して正式に手続きをしました」
智哉の黒い瞳がわずかに暗くなった。
「許可したのか?」
「はい、さっき許可しました。藤崎秘書にはしっかり休んでもらって、仕事は私が調整しますので」
高木は自分の効率の良さを褒められると思っていた。
しかし、返ってきたのは冷たく鋭い一言だった。
「次の四半期の賞与、なしだ!」
——
佳奈は手術で大量に失血したため、一週間の休養を経て仕事に復帰した。
オフィスに入るなり、同僚たちが愚痴をこぼしている声が耳に入った。
「この一週間、本当に地獄だったわ。毎日深夜まで残業だし」
「高木さんなんて、藤崎秘書の休暇を許可したせいで、四半期の賞与が何十万円もカットされたらしいよ」
佳奈はその話を聞いて心を痛めた。
その賞与は高木の結婚資金だと聞いていたのに、自分のせいで無くなってしまったのだ。
同僚たちに仕事を数点引き継ぐと、佳奈は意を決して総裁室のドアをノックした。
ドアを開けると、黒いスーツに身を包んだ智哉がデスクに座っていた。
彼の冷たい視線が一瞬佳奈に注がれたが、すぐに書類に戻る。
その無関心な態度に、佳奈の心は締め付けられた。
七年前、冷淡で美しいこの男に心を奪われたのがすべての始まりだった。
それが、彼に近づくために全てを捨てて飛び込んだ理由だった。
だが彼女の長年の愛情は、智哉にとってただの遊びに過ぎなかった。
佳奈は心の痛みを必死に隠し、冷静な口調で切り出した。
「高橋社長、グループの人事部の規定では、10日以内の休暇申請は直属の上司の許可だけでいいはずです。高木さんが私の申請を許可したのに問題があったのでしょうか?なぜ彼の賞与をカットしたんですか?」
智哉はゆっくりと目を上げ、その魅惑的な目でじっと彼女を見つめた。
まるで彼女の心の中を全て見透かしているかのようだった。
「なぜだと思う?」
智哉の声はわずかに嘲笑を含み、佳奈の胸に痛みをもたらした。
「私が別れを切り出したからですか?もし私に不満があるなら、私だけを相手にしてください。他の人を巻き込まないでください」
智哉は薄笑いを浮かべた。
「そうして欲しいなら、黙って家に戻れ。そしたら全部水に流してやる」
佳奈は苦笑いを浮かべ、準備していた辞表を取り出して差し出した。
「高橋社長、私はもう戻りません。それどころか、今日限りで辞職します。これが辞表ですので、後任者との引き継ぎをお願いします」
智哉は彼女の差し出す辞表を冷たい視線で見つめ、手にしたペンの先を微かに揺らした。
「もし俺が受理しなかったら?」
佳奈は微笑みを浮かべたまま、はっきりと言った。
「高橋社長、飽きたら別れるっておっしゃったのはあなたですよね?今さら引き止めるなんて、まるで自分の言葉に責任が持てないみたいじゃないですか?」
智哉はその言葉を聞くや否や椅子から立ち上がり、佳奈のそばに歩み寄った。
彼女の顎を掴み、指の腹でその白く滑らかな頬をなぞるように撫でた。
低く圧力を帯びた声で囁く。
「佳奈、俺が遊びを投げ出すと思うのか?違う、まだ物足りないだけだ」
第4話
智哉のキスはいつも強引で容赦がなく、佳奈が逃げ出す隙を一切与えなかった。
彼は彼女をデスクに押し付け、一方の手で彼女の顎を掴み、もう一方の手で彼女の腰をしっかりと抱き寄せていた。
柔らかく甘い感触が、彼の全身の神経を刺激し、体内に眠る獣が檻を破ろうと暴れ回っていた。
智哉と佳奈が一緒にいた頃、その情事はとても円満だった。
彼がどれだけ求めても、佳奈は彼の望むまま応えてくれた。
時には疲れ果てて気を失うことさえあったが、彼女は決して文句を言わなかった。
しかし、今の彼女はまるで別人のように激しく抵抗し、涙が熱く頬を伝っていた。
智哉は動きを止めた。
長い指で彼女の目尻の涙をそっと拭いながら、欲求不満を滲ませた低い声で言った。
「佳奈、このゲームは俺が終わりだと言うまで終わらない。分かったか?」
佳奈は涙に濡れた瞳で彼を見つめ、血の滲んだ唇を震わせながら言った。
「智哉、私はあなたに辱められるためにいるわけじゃない!」
智哉は彼女の唇から血の滴を舐め取ると、目に笑みを浮かべることなく静かに笑った。
「もし藤崎家を犠牲にする覚悟があるなら、試してみるといい」
そう言うと、彼は立ち上がり、目を逸らさず佳奈の乱れたスカートとその下の細く長い脚を一瞥した。
佳奈は強烈な屈辱を感じ、急いで身なりを整えるとドアに向かって歩き出した。
ドアを開けると、そこには白いワンピースを身に纏った美桜が立っていた。
彼女は人畜無害な笑顔を浮かべていた。
「智哉さん、朝ごはんを持ってきました」
佳奈はこれが美桜との初めての近距離での対面だった。
彼女たちの顔立ちには確かに少し似ているところがあった。
特に目元と鼻筋が。
その瞬間、佳奈は自分の推測が正しかったことを確信した。
智哉が彼女を純粋な目的で疑った一方で、彼を引き留めた理由はただひとつ、
彼女を美桜の代わりとして見ていたのだ。
三年の愛情は、最後には代用品という結末を迎えた。
佳奈の胸は張り裂けるような痛みに襲われた。
彼女はなんとか自分を落ち着かせ、美桜に軽く頷くと、その場を立ち去った。
オフィスのドアが閉まる音を聞きながら、智哉は冷たい目で美桜を見つめた。
「どうしてここに来た?」
美桜の目にはすぐに涙が浮かび、弱々しく頭を垂れた。
「ごめんなさい、智哉さん。最近、朝ごはんを全然食べてないって聞いたので、胃が悪化しないか心配で……」
智哉は眉間にシワを寄せ、冷たい声で言った。
「そこに置け」
美桜は一転して明るい笑顔を浮かべ、彼のもとへ駆け寄った。
ピンク色の弁当箱をデスクに置きながら、甘い声で話しかけた。
「智哉さん、あなたが好きなツナとハムのサンドイッチを作りました。食べてみてください!」
弁当箱を見つめる智哉だったが、その中の美しいサンドイッチにはまったく食欲が湧かなかった。
彼は弁当箱を横に押しやり、低い声で言った。
「会議がある。終わってから食べる」
美桜は少し落ち込んだが、すぐに従順な態度を見せた。
「分かりました。じゃあ、ここで待っていますね。邪魔しませんから」
「隣の応接室で待っていろ」
そう言いながら、智哉は内線で高木を呼び出した。
「美桜さんを応接室に案内し、誰か付き添わせておけ」
高木は迅速に行動し、すぐにドア口に現れると、美桜に丁寧に案内を促した。
「美桜さん、隣の応接室にお茶とお菓子を用意しています。石川さんが付き添いますのでどうぞ」
美桜は真剣な表情で高木を見つめ、柔らかい声で言った。
「藤崎秘書がとても親切だと聞きました。彼女に付き添ってほしいのですが」
高木は申し訳なさそうに答えた。
「申し訳ありません。藤崎秘書は社長の首席秘書で、これから会議に出席しなければなりません」
しかし、高木は心の中で苦笑していた。
うちの社長、最近藤崎秘書と揉めてばかりなのに、ここにこの人を加えたら状況がもっと悪化するんじゃないのか?
美桜は淡い微笑みを浮かべながら続けた。
「そうですか……でも、藤崎秘書が淹れるコーヒーはとても美味しいと聞きました。一杯だけ淹れていただけませんか?」
智哉の端正な眉間に冷たさが走り、その黒い瞳には暗い色が宿った。
佳奈は彼のものだ。誰にでも扱わせるわけにはいかない。
だが、彼女が頑なに離れようとすることを思い出すと、彼の怒りはさらに燃え上がった。
「彼女の言う通りにしろ」
智哉は冷淡に命じた。
高木はその言葉を聞いて数秒間呆然と智哉を見つめた後、心の中で深くため息をついた。
高橋社長……現カノに元カノのためのコーヒーを淹れさせるなんて、そんなことをしていたら現カノを失いますよ?
仕方なく高木は美桜を連れて応接室に向かった。
佳奈は自分の席で会議資料を整理していたが、高木が彼女の机を軽くノックした。
「藤崎秘書、高橋社長が美桜さんにコーヒーを持って行くよう指示しています。02番の応接室です」
佳奈は顔を上げ、冷静に答えた。
「分かりました。すぐに行きます」
資料を片付けた後、佳奈は給湯室に向かい、キャビネットからコーヒー豆を取り出してグラインダーに入れた。
彼女がコーヒーを淹れ始めたところで、横に小柄な人影が現れた。
佳奈は表情を変えず、手を止めることなく作業を続けた。
「美桜さん、コーヒーが出来るまであと5分ほどかかります」
美桜の清純で可愛らしい顔には、どこか冷たい表情が浮かんでいた。
「藤崎さん、私を見て何かおかしいと思わないんですか?」
佳奈は手を止めることなく、視線を下げたまま淡々と答えた。
「高橋社長に近づく女性は毎日のように見ていますので、特に珍しくはありません」
「まだ分からないの?智哉さんがあなたと付き合ったのは、私に似ているからよ。
彼は一度もあなたを愛したことなんてない。ただの私の代わりだったのよ。
今、私が戻ってきたから、あなたという代用品はもう必要ないの」
佳奈は静かにお湯をコーヒーカップに注ぎ、漂う香りが給湯室いっぱいに広がった。
彼女はその香りを楽しむように鼻をすんと鳴らし、穏やかな笑顔を浮かべた。
「イタリア産のコーヒー豆、とても風味がいいわ。美桜さんは甘さはどれくらいが好みですか?」
美桜は拳を握りしめ、まるで空振りしたような苛立ちを感じた。
「佳奈、もう演技はやめて!智哉さんと一緒にいるのはお金のためなんでしょ?これ、2億円の小切手よ。さっさと彼のそばから消えてちょうだい」
佳奈は心の奥に湧き上がる感情を押し殺し、淡々とした態度で角砂糖を一つカップに落とした。
スプーンでゆっくりと混ぜながら、気怠げに答えた。
「美桜さん、あなた体が弱いって聞いてるわ。そのお金は治療費に使ったらどう?もし結婚する前に倒れでもしたら、それこそもったいないじゃない?」
「佳奈、あんたって……!」
美桜は歯を食いしばり、怒りに震えた。
まさかこんなにも手強い相手だとは思わなかった。
彼女は佳奈を睨みつけると、テーブルの上のコーヒーを掴んで勢いよく持ち上げた。
そして、怒りに任せて佳奈の顔めがけてぶちまけた。
熱々のコーヒーが空中で美しい弧を描きながら、佳奈の顔に向かって飛びかかっていった。
第5話
佳奈は素早く反応し、横に身をかわしたが、それでも熱いコーヒーの一部が足に飛び散った。
彼女は思わず息を呑み、痛みで顔をしかめた。
美桜に文句を言おうと顔を上げたその瞬間、彼女の体が後ろのガラス棚に向かって倒れていくのが見えた。
佳奈はとっさに手を伸ばして彼女を引き留めようとしたが、美桜はその手を振り払った。
「ガシャーン!」
美桜の腕がガラスを粉々に砕き、鋭い破片が床に散らばる。
彼女の腕から流れる鮮血が、足元に滴り落ちていった。
その時、背後から智哉の冷たい声が響いた。
「佳奈、何をしている!」
智哉の高く引き締まった体が素早く美桜のそばへ駆け寄る。
その深い瞳はどんどん暗さを増していった。
「大丈夫か?」
美桜の顔は真っ青になり、涙が頬を伝い落ちていた。震える唇で、泣きながら話し始めた。
「智哉さん、全部私が悪いんです……私が不注意で藤崎秘書にコーヒーをかけてしまったんです。だから、彼女が私がわざとだと思って押したんです……でも、彼女を責めないでください、お願いです……」
その言葉を聞いた瞬間、佳奈の目は驚きで見開かれた。
美桜が自分を陥れるために苦肉の策を使ったことに気づき、彼女はすぐに反論した。
「私じゃありません!彼女が自分で倒れたんです!」
智哉の冷たい視線が彼女の体を一瞬だけ舐めるように走り、彼女の火傷した足に視線が留まる。しかしすぐに目を逸らし、冷たい声で言い放った。
「俺が戻ったら話をつける」
そう言い残すと、彼は美桜を抱えるようにして足早にその場を去った。
佳奈は彼らの背中を見送りながら、表情に言いようのない痛みが浮かんでいた。
これが、自分が七年も愛し続けた男なのか。
彼は美桜と自分の間で、一度も自分を信じる選択をしなかった。
佳奈はすぐに気持ちを切り替えた。美桜の計略を成功させるわけにはいかない。
たとえ智哉との関係が終わったとしても、彼が自分にどう思おうと関係ない。
だが、こんな捏造された事実を許すわけにはいかない。
一度許せば、次もまた同じことが起きる。
彼女はすぐに同僚の石川を見つけ、彼女の技術部にいる恋人に頼んで、さっきの出来事の映像をコピーしてもらった。自分の潔白を証明するためだった。
すべてを処理した佳奈は、その一件から素早く気持ちを切り離し、冷静さを取り戻した。
佳奈は仕事に集中し、高木も智哉も不在の中、会議室では彼女が午前の定例会議を仕切っていた。
彼女は各部署からの報告を手際よく記録し、この週の難題となっているプロジェクトについても議題に挙げた。
智哉がいない会議室の空気はいつもより和やかで、参加者たちもリラックスしていた。
彼らは佳奈の有能さを称賛しながら、冗談交じりに彼女と智哉のコンビネーションの良さを話題にした。
「二人、本当に息が合ってるよね。もしかして社長夫人になる日も近いんじゃない?」
佳奈は軽く微笑みながら答えた。
「私たちはただの仕事仲間です。変な憶測はやめてください。それに、私はもうすぐ……」
退職する、そう言いかけた瞬間、会議室のドアが勢いよく蹴破られた。
黒いスーツに身を包んだ智哉が、地獄から現れた悪魔のようにドアの向こうに立っていた。その冷たく鋭い黒い瞳が、まっすぐ佳奈に向けられる。
さっきまで穏やかだった会議室の雰囲気は一変し、重苦しい空気が場を包み込んだ。
参加者全員が立ち上がり、一斉に声を揃えて言った。
「高橋社長」
智哉は答えず、長い脚で佳奈に向かって歩み寄った。
冷たい手で彼女の手首を強く掴み、氷のような声で命じた。
「来い!」
彼は佳奈を引っ張りながら会議室を出た。
そして彼女の足元に視線を落とし、その白い足の甲に赤く腫れた跡があるのを見つける。
「バカか、お前は」
そう呟くと、智哉は彼女を腕に抱き上げた。
駐車場に着くと、智哉は佳奈を助手席に押し込むように座らせ、グローブボックスから未開封のやけど用クリームを取り出した。
彼の長い睫毛が伏せられ、薄い唇は固く結ばれていた。
黒い瞳には不穏な波が立ち込めている。
彼はクリームを手に取り、慎重に佳奈の赤く腫れた足に塗り始めた。
その表情は微妙な感情が交じり合い、読み取るのが難しい。
佳奈が痛みで顔をしかめ、白い歯で唇を噛みしめるのを見ると、彼の手の動きは少しだけ優しくなった。
腫れた部分をすべて塗り終えると、智哉は目を上げて佳奈を見つめ、低く笑いながら言った。
「こんなに不器用で、俺がいなくても生きていけるとでも思うのか?」
彼は立ち上がり、クリームを佳奈の膝に投げるように置いた。
「一日二回塗れ。ここ二日は水に濡らすな。それで跡が残ったら、泣きついてくるなよ」
佳奈はうつむき、感情を隠した声で言った。
「生きていけるかどうか、試せば分かることです」
智哉は彼女の頑固な顔を見て、鼻で冷たく笑った。
「佳奈、お前が拗ねてるのは分かるが、どうして美桜を巻き込むんだ?彼女がうつ病なのを知らないのか?俺は言っただろう、彼女がお前にとって脅威にはならないって。どうして信じられないんだ」
佳奈の中に芽生えた感謝の気持ちは、一瞬でかき消された。
彼女は冷たい目で智哉を見つめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「智哉、もう一度言います。私は美桜さんに触れていません。彼女がわざと倒れて、私を陥れたんです。信じられないなら、監視カメラを確認してください」
智哉は目を細めて彼女を見つめた。
「俺はそんなにバカじゃない。でも美桜は血液凝固障害がある上、希少な血液型だ。今、失血がひどいが、血液バンクには在庫がない。お前が献血しろ。そうすれば遠山家はお前に手を出さない。この話はそれで終わりだ」
佳奈の胸に刺さる痛みは、瞬時に引き裂かれるような激痛に変わった。
その痛みは息をすることさえ忘れさせるほどだった。
智哉は彼女に美桜のために献血を要求している。
彼女はつい先週流産したばかりで、手術中に大量出血して貧血状態に陥り、今も漢方薬で体を整えている最中だった。
佳奈は冷たい目で智哉を見つめ、かつてないほどの強い声で答えた。
「智哉、もし私が今、血を献血できないと言ったら、あなたはどうするつもり?無理やり連れて行くの?」
智哉は冷たく澄んだ目で彼女を見つめ返し、淡々と言った。
「お前の健康診断では問題なかった。400CCだけなら体に影響はない。美桜は遠山拓輝(とおやま ひろき)の大切な娘だ。お前が責任があるかどうかに関係なく、藤崎家が動けば俺でも止められない」
佳奈は自嘲気味に笑った。
智哉は美桜が父親にとって特別な存在だと理解している。けれど、佳奈だってかつては同じように大切にされていたのではないか
彼女が流産した時、彼は一度も電話に出なかったのに、美桜が小さな傷を負っただけで彼はこれほど心配している。
佳奈は悲しみを感じながら冷たい目で智哉を見つめ、静かに言った。
「智哉、400CCは問題ないって言うけど……じゃあ2000CCだったらどうするの?」
第6話
智哉の瞳が一瞬止まり、冷たく佳奈を見据えた。
「命を捨てたいなら、試してみるといい」
佳奈の整った顔立ちに薄い嘲笑が浮かぶ。
「どうして私が試したことがないって思うの?もし私が今、2000CCも失血していたら、それでも彼女に献血しろって言うの?」
「佳奈、くだらない言い訳はやめろ。生理中の最大出血量なんてせいぜい60CCだろう?嘘をつくならもう少しまともな話にしろ」
佳奈は苦々しく笑った。
ここまで言っても、彼は信じてくれない。
少しでも彼が自分に気を掛けていたら、少しでも彼女のことを理解していれば、追及するくらいはしたはずだ。
彼が少しでも彼女のことを理解していれば、彼女が見て見ぬふりをするような人間ではないことくらいわかるはずだった。
それが、愛されている人間とそうでない人間の違いだった。
美桜の小さな傷でこれほどまでに慌てふためく彼。
一方で、佳奈が危険な流産手術を経験したことには一切気づかなかった。
佳奈が胸の痛みを感じていたそのとき、病室の入口に見覚えのある人影を見つけた。
佳奈はその場で呆然と立ち尽くした。
あの日、意識が朦朧とする中で、彼女は一つの人影を見た。
耳元で優しく低い男性の声が彼女の名を呼ぶのが聞こえた。
彼女は無理やり目を開け、その声の主が目の前にいる男性であることをはっきり覚えていた。
そのとき彼女は、その腕をしっかりと掴みながら、弱々しく懇願した。
「お願い……助けて……」
目を覚ましたとき、知里が教えてくれたのは、彼女を病院に運んでくれたのが眼鏡をかけたイケメンだったということ。
佳奈は自嘲気味に微笑み、足を引きずるようにその男性、辰也の元へと歩いていった。
「あなたは美桜さんのお兄さんですよね?」
辰也は軽く頷き、穏やかな声で答えた。
「はい。藤崎さん、体調に何か問題があれば、私が……」
佳奈は一瞬目を閉じ、運命を受け入れるように小さく息を吐いた。
神様も皮肉なことをしてくれるものだと感じながら、彼女は微笑み、口を開いた。
「辰也さん、少しお時間をいただけますか?」
彼女が辰也を近くの階段に誘おうとしたその瞬間、智哉が手首を掴んだ。
「何を話すつもりだ?俺の前で言えないことでもあるのか?」
佳奈は冷たい笑みを浮かべた。
「あなたの前で話す?あなたに聞く権利があるとでも?」
「佳奈、いつからそんなに理不尽になったんだ?」
「理不尽なのは私?それとも冷酷なのはあなた?」
言い終えると、彼女は智哉の手を振りほどき、そのまま辰也と共に階段へ向かった。
佳奈の顔は青ざめ、血の気が感じられなかった。
彼女は顔を上げて、目の前の辰也に視線を合わせる。
「辰也さん、あの日、命を助けてくださったことに、まだお礼を言えていませんでした。それなのに、こんなに早く恩返しの機会をいただくなんて」
彼女は自嘲気味に笑い、続けた。
「ご安心ください。妹さんには献血します。ただ、お願いがあります。私を助けたことは、誰にも言わないでください」
辰也の眉がわずかに寄り、穏やかな声で問いかけた。
「お腹の子は……智哉の子ですね?」
佳奈は淡い笑みを浮かべた。
「誰の子だったかなんて、もうどうでもいいことです。結局、いなくなってしまったのですから。ただ、このことが私の決断に影響を与えるのは避けたいだけです」
彼女は智哉がこの事実を知ったとき、どんな反応を示すか想像もつかなかった。
だが、それを考える余裕もなかった。ただ、これ以上問題を大きくせず、一刻も早く智哉の元を去ることだけを考えていた。
辰也の瞳が一瞬だけ沈み、佳奈の表情や眉間に、どこか母親の面影を感じたかのようにじっと見つめていた。
辰也の瞳が一瞬沈み、佳奈の眉間にどこか母親の面影を見た気がした。
彼の胸が一瞬締め付けられるような感覚が走り、少し心配そうに尋ねた。
「でも君、あのとき大出血しただろう?まだ日が浅いのに、本当に大丈夫なのか?」
佳奈は唇に薄い嘲笑を浮かべ、冷ややかに答えた。
「それは私の問題です。ただ、あなたへの恩を返して、これでお互い何の借りもない状態にしたいだけ」
「そんな必要はないよ。俺はそういう人間じゃない。君の体が無理なら、無理にとは言わない」
「私は人の恩を借りたままにするのが嫌いなんです、とくに美桜さんに関係する人には。辰也さん、私たちの約束、忘れないでください」
佳奈はそう言い終えると、軽く辰也に頭を下げ、そのまま待っていた看護師のほうへ歩いていった。
「早く血を取りにいきましょう」
「佳奈!」
智哉が彼女を引き止め、その目は鋭く彼女を見つめた。
「辰也と何を話したんだ?俺に隠してることがあるんじゃないか?」
佳奈は冷たい目で智哉を見返し、唇に浅い笑みを浮かべた。
「どうしたの?次のスポンサーを探してるのが怖い?心配しないで、私がどんなに飢えてても、あなたの兄弟に手を出すことなんてないから」
そう言い終えると、智哉の手を振り払い、背筋を伸ばして看護師について病室へ入っていった。
智哉はなぜか胸がひどく痛むのを感じながら、彼女の背中をじっと見つめ、両手をゆっくりと握りしめた。
20分後、佳奈が病室から出てきた。
小さな顔は紙のように真っ白で、元は艶やかだった唇も血の気を失っていた。
彼女の目には光がなく、体をふらつかせながら、壁に手をついて廊下を歩いていく。
智哉はすぐに彼女を追いかけ、腰をかがめて彼女を抱き上げた。
その目には言葉にできない感情が浮かんでいた。
「近くで休もう」
彼が足を動かそうとしたその瞬間、後ろから小さな看護師の声が聞こえてきた。
「高橋社長、美桜さんが情緒不安定で、泣きながら社長に会いたいと言っています。急いで病室へ向かってください」
佳奈は無表情で智哉を見つめた。
血の気のない唇に、皮肉な笑みが浮かぶ。
さっき採血をしたとき、彼女は目の前が暗くなり、意識が遠のくように感じていた。
それでも無理やり病室を出てきた。
智哉が自分に歩み寄る姿を見たとき、彼女の心にはわずかな期待が生まれた。
「体が持たない、連れて行ってほしい」と言おうと思った。
しかし、看護師の言葉を耳にした瞬間、彼女は自嘲の笑みを浮かべた。
美桜と自分を天秤にかけるとき、智哉が選ぶのはいつも美桜だった。
果たして、智哉はほんの少しだけ迷った後、彼女を地面に下ろし、低い声で言った。
「ここで待っていろ」
佳奈は静かに智哉を見つめ、そのまま美桜の病室へ急ぐ彼の後ろ姿を目で追った。
彼女は視線を落とし、涙で濡れた目を隠すように顔を伏せた。
「藤崎さん、送りましょうか」
辰也が近づいて彼女を支えようとしたが、佳奈は彼の手を振り払った。
頑なな目つきで辰也を見つめ、冷たく言った。
「辰也さん、あなたとの恩義はこれで終わりです。これ以上、借りは作りたくありません」
そう言い終えると、彼女は壁を支えにしながらゆっくりと歩き出した。
彼女の足は震え、視界はだんだん暗くなり、体中の力が抜けていくのを感じた。
それでもなんとか遠山家の目の届かないところまで、智哉のいる空間から出ていこうと必死だった。
しかし、遠くへは行けなかった。
とうとう体が支えきれなくなり、目の前が真っ暗になると、彼女の体は地面に倒れこんでいった。
床に顔を打ちつけるかと思った瞬間、腰を支える大きな手が彼女を抱き留めた。
耳元に、緊張した男性の声が聞こえた。
「佳奈!」
第7話
佳奈が目を開けると、見慣れた顔が目に飛び込んできた。
まるで救いの手を求めるように、彼女はその男性のシャツをぎゅっと掴み、か細い声で言った。
「先輩、ここから連れ出してください……」
彼女は智哉にこんな無様な姿を見られたくなかった。
彼の同情するような目も耐えられなかった。
何もかも拒否し、ただ一刻も早くここを離れたかった。
雅浩は少し緊張した様子で彼女を見つめ、言った。
「この状態でどうやって帰るつもりだ?医者に見てもらわないと」
「いいえ、先輩!ただ献血しただけで、少し疲れただけです。家まで送ってくれれば大丈夫です」
雅浩の優しい目には心配が浮かんでいた。彼は佳奈を横抱きにすると、低い声で安心させるように言った。
「怖がらないで、僕が連れ出してあげる」
そのとき、智哉が外に出てきたが、ちょうど雅浩が佳奈を車に乗せる場面を目撃した。
雅浩の目には佳奈への深い憐れみと優しさがあふれていた。
怒りで拳を握りしめながら、その車が視界から消えるのを見つめた智哉の目には、陰鬱な色が浮かんでいた
————————
佳奈が目を覚ますと、すでに翌日の朝だった。
一晩中何も食べず、多くの血を抜かれたため、彼女は自分の胃が空っぽだと感じた。
彼女が寝室から出ると、おいしい食事の香りが彼女の鼻をくすぐった。
彼女は驚きながらキッチンを見た。
高く逞しい人影が彼女に向かって歩いてきた。
雅浩は手に粥のボウルを持ち、ピンクの子豚柄のエプロンを腰に締め、顔全体に笑みを浮かべていた。
「昨夜、医者に見てもらったんだ。君は血が足りないって言われたから、補血のために豚レバーの粥を作ったよ。食べてみて」
佳奈は少し恥ずかしそうに笑いながら言った。
「先輩、昨夜は本当にお世話になりました。次にご馳走させてください」
彼女と雅浩はR大法学部の優秀な学生で、雅浩は彼女よりも2学年上だった。
二人とも法学界の重鎮、白川先生の門下生である。
3年前、雅浩は修士課程を修了し海外に渡ったが、佳奈はその後、智哉の秘書となった。
二人は専門分野でそれぞれの道を歩み始めた。
雅浩は微笑みながら言った。
「いいね、先生も君に会いたがってるよ。もう少し元気になったら、一緒に先生を呼ぼう」
佳奈は頭をかきながら苦笑いを浮かべた。
「先生には感謝しているけど、彼の期待に沿った道を歩まなかったことが申し訳なくて、顔向けができないんです」
白川先生は彼女を非常に高く評価しており、彼女が法曹界に進めば大きな影響を与えるだろうと公言していた。
しかし彼女は卒業後、智哉との関係を優先し、法律の専門職を放棄して秘書としての道を選んだ。
そのため、白川先生は彼女のことを長く惜しんでいた。
雅浩は優雅に椅子を引き、彼女に座るように促しながら笑って言った。
「人それぞれの道がある。先生は君を責めてないよ」
佳奈の心にはほろ苦い感情が湧き上がった。
彼女は雅浩を見つめながら尋ねた。
「先輩は北欧で有名なトップ弁護士になったのに、なぜまた国に戻ってきたんですか?年収もすごい額になっているでしょう?」
雅浩の目に一瞬光が宿り、しかしすぐに消えた。
彼は穏やかな声で答えた。
「あちらの食事が合わなくて、だから戻ってきたんだ」
そして、佳奈にスプーンを渡しながら、さりげなく尋ねた。
「君と彼はどうなったの?」
佳奈は彼に向かって強引な笑みを浮かべながら、淡々と答えた。
「別れました」
雅浩の目が彼女の顔に熱い視線を送り、数秒間停止した後、すぐに気楽に笑って言った。
「心配するな、先輩がいるからね。彼には近づかせないよ」
彼は大きな手を伸ばし、佳奈の頭を軽く撫でた。まるで慰めるように。
彼女がこの関係でどれだけ苦しんでいるか、彼にはよく分かっていた。
昨夜、彼女は眠りの中でずっと泣いていたのだ。
その手が引かれる前に、部屋のドアが押し開けられた。
智哉が冷たい空気を纏い、入口に立っていた。
その魅惑的な目は、佳奈の頭の上にあるその大きな手をじっと見つめていた。
彼は二人が反応する間もなく、大きな足を踏み出し佳奈に近づいた。
彼女の手からスプーンを奪い、彼女を椅子から抱き上げた。
急いで寝室に入り、「バン」とドアを閉め、鍵をかけた。
佳奈が何が起こったのか理解する前に、彼女はすでに智哉に押し倒されていた。
外からは雅浩の急なノックの音が聞こえた。
智哉の体から発する冷気は、佳奈が唇を震わせるほどだった。
「智哉、あなたは狂っている!」
智哉の目はわずかに赤みがかっており、声は掠れていた。
「もっと狂えるさ」
彼は言葉を終えると、彼女の唇を力強く噛んだ。
智哉の頭の中は、その男が佳奈を甘やかすように見つめる眼差しでいっぱいだった。
彼はこれまでになく、一人の女性のために理性を失いつつあった。
彼女の唇を狂ったようにかじり、雪のような白い首筋から徐々に下へと這っていった。
佳奈は抵抗しながら大声で罵った。「智哉、最低よ!私たちはもう終わったの。これ以上、私に幻滅させないで!」
しかし、智哉は手を緩めることなく、さらに熱狂的にキスを続けた。
彼は力強く佳奈の胸をかじり、声をひそめて尋ねた。「こんなに早く新しい恋人を見つけたのか?」
「私たちは別れたの。私が誰といようと、あなたには関係ないわ!」
「そうか?もし彼を法曹界から消すとしたら、それも関係ないのか?」
「智哉、それは許さないわ!」
「俺の女を触るくらいのことを彼はやった。俺にできないと思うか?」
「彼はただの先輩よ。私たちには何の関係もない。彼をターゲットにしないで」
佳奈は智哉がどれだけ残忍で自己中心的であるかを知っていた。自分に不利な人物に対して容赦なく手を下すことで知られていた。
雅浩は海外から帰国したばかりで、まだ足場が固まっていない。智哉が手を下せば、彼の将来は簡単に潰れてしまうだろう。
智哉は彼女の緊張した様子を見て、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。「俺と一緒に帰るか、さもないと彼が無事でいられる保証はないぞ」
ちょうどその時、部屋のドアが力強く蹴り開けられた。
雅浩は佳奈が反応する間もなく、すぐに寝室へ突進し、智哉に向かって拳を振り下ろした。
瞬く間に、部屋の中から物が壊れる音が鳴り響き、佳奈のかすれた叫び声がその中に紛れ込んだ。
どれほど時間が経ったのかわからないが、部屋はやがて静けさを取り戻した。
雅浩は乱れた服装と、ところどころに血の跡を付けたまま部屋から出てきた。
彼はその場にしゃがみ込み、震える佳奈を心配そうに見つめた。
「佳奈、俺は君が誰かに屈する理由にはならない。さあ、起きてご飯を食べよう」
彼は大きな手を伸ばし、震えている佳奈を地面から引き起こした。
そして彼女を支えながら、椅子に座らせた。
佳奈は涙を浮かべた目で彼を見つめ、「ごめんなさい、先輩」と小さな声で言った。
「謝る必要なんてないよ。俺たちは同じ先生に学んだ仲間だ。君を守るのは当たり前だろう。粥が冷めちゃったから、温め直してくるね」
彼は冷えた粥を手に取り、キッチンに向かった。
その時、智哉も寝室から出てきた。
彼は雅浩ほどひどい状態ではなかったが、顔には明らかな傷跡が残っていた。
唇を拭きながら、冷たい目で佳奈を見つめて言った。
「俺と一緒に来るか、ここに残って彼の粥でも飲むか、選べ」
佳奈は冷たい視線で彼を見返し、毅然と答えた。
「私たちは終わったの。もうあなたとは戻らない」
「佳奈、それが君の選択だ。後悔するなよ!」
智哉はそう言い放ち、振り返って部屋を出ようとしたその瞬間、携帯電話が鳴り響いた。
画面に「美桜」の名前が表示されているのを見て、苛立ちながら応答ボタンを押した。
「智哉さん、茶室の監視映像が佳奈に消されたみたいなの。うちの両親が知ったら、彼女を傷害罪で訴えるって言ってる。早く来て説得しないと、佳奈が牢屋に入ることになるわよ」
智哉は冷ややかな眼差しで佳奈を見つめ、躊躇なく答えた。
「それなら、彼女が牢屋に入るのを見届けるだけだ」
第8話
美桜の声は大きく、佳奈の耳にはっきりと届いた。
さらに、智哉の先ほどの心を抉るような言葉も。
佳奈は、自分の7年間の深い愛情がまるで犬にでも与えたように無駄だったと感じた。
冷たい目で智哉を見つめながら言った。
「石川さんにお願いしてあの映像を録画してもらっただけで、削除なんて頼んでません」
智哉は無表情で彼女を見つめ返した。
「証拠も証人も揃ってる。まだ言い逃れするつもりか?」
佳奈は悲しげに微笑んだ。
なぜ自分は彼に説明しようとしているのか?
もしかして、智哉が自分を信じてくれることを期待しているのか?
美桜に関わることなら、智哉は必ず彼女の味方をする。
そう分かっていながらも、心のどこかで期待してしまう自分が虚しかった。
佳奈は唇を軽く噛み、感情を落ち着かせるように努力した。
「そういうことなら、立件して調べてもらえばいいです。私がやっていないことを認めさせられるなんて絶対に許しません。たとえ藤崎家を巻き込むことになっても、自分の無実を証明してみせます」
普段の彼女は穏やかで控えめ、従順で聞き分けのいい性格だった。
しかし、今目の前にいる彼女は、智哉が見たこともない毅然とした姿だった。
智哉は小さく笑いながら言った。
「口だけは達者だな」
「高橋社長、お忘れなく。私は法律を学んでいました。もしも当時、あなたのお金に目が眩んでいなければ、今頃はきっと優秀な弁護士になっていたでしょうね」
佳奈はその言葉を口にしながら、「お金に目が眩んだ」という部分を意図的に強調した。
そして、まるで何でもないことのように軽く笑った。
まるで、そんな風に見られるのは慣れっこだと言わんばかりに。
智哉はその言葉に激怒し、奥歯を噛みしめた。
「それじゃあ、せいぜい頑張るんだな!」
そう言い捨てると、振り返りもせずにドアを強く閉めて出て行った。
智哉が階下に降りると、高木が車から飛び出してきて慌てて言った。
「高橋社長、藤崎秘書に買われた栄養品を忘れましたよ。社長が届けられますか?それとも私が……」
高木が言い終わらないうちに、智哉の冷たい声が響いた。
「捨てろ」
高木は智哉の唇にできた傷に目をやり、何が起きたのかすぐに察した。
彼は懸命に説得を試みた。
「高橋社長、それは社長が大変な手間をかけて選んだ高級栄養品じゃないですか。それを捨てるなんて、もったいないですよ。
藤崎秘書だって、ただ社長が自分を放っておいたことを責めてるだけで、ちょっとした拗ねてるだけですよ。
もし私が今カノを連れて、元カノに献血させた上で、放っておいたら、たぶん生きて帰れませんよ。
社長の顔に少し傷ができたくらい、大したことじゃありません。
藤崎秘書が怒りを静めたら、僕が届けに行きますから」
智哉はしばらく考え込むように高木を見つめていた。
脳裏には、真っ青で血の気がない佳奈の顔が浮かんでいた。
たった400CCの献血で、彼女があんな状態になるなんて。
智哉は思わず心の中で呟いた。
これまで彼女に食べさせてきた高級料理の意味が、全部台無しになったような気分だ、と。
彼は淡々と一言だけ言った。
「好きにしろ」
その後、ポケットから煙草を取り出し、火をつけながら言った。
「監視カメラの映像を確認して、どうなっているのか調べろ」
高木はすぐに答えた。
「すぐ確認します。高橋社長も藤崎秘書がそんなことをするとは思っていませんよね? 彼女は仕事もできて美人で、社長の信頼も厚い。おそらく、そんな彼女に嫉妬して、辞めさせて自分がそのポジションを狙っている人がいるのかもしれません」
智哉は煙草を深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。
白い煙に包まれたその端正な顔には、どこか謎めいた雰囲気が漂っていた。
彼は目を細め、冷たい声で言った。
「誰がそんな真似をするつもりか、見てやろう」
車はゆっくりと動き出し、高橋グループへ向かった。
オフィスのドアを開けると、中から親しげな声が聞こえてきた。
「おや、可愛い孫じゃないか。おばあちゃんに会えて、びっくりした?」
室内にいたのは、淡いブルーのチャイナドレスを着た高橋お婆さんだった。
白髪を巻いた髪型で、70代とは思えないほど若々しく、元気そうだった。
智哉はいつもの冷たい表情を少しだけ緩め、微笑みを浮かべた。
「どうしてここに?家でのんびり花でも育てていればいいのに」
「そんなつまらないものより、お前が曾孫を産んでくれるほうがずっといいに決まってるわ」
彼女はオフィスを見回し、目を細めて微笑んだ。
「聞いたわよ。すごく可愛くて優秀な秘書がいるって話だけど、その子はどこにいるの?」
「辞めた」
智哉はそっけなく答え、それ以上の説明はしなかった。
高橋お婆さんは呆れたように顔をしかめた。
「あんなにお利口でしっかりして、綺麗で優秀な子を繋ぎ止められないなんて、お前は本当にダメな子ね!あの子を孫嫁にしたかったのに」
どうやら自分が動かなければ、孫嫁候補が逃げてしまうと感じたようだ。
智哉は肩をすくめ、軽く笑った。
「佳奈が従順だったのは昔の話だ」
彼の声にはどこか寂しさが混じっていた。
「今の佳奈はまるで棘のある薔薇みたいだ。俺が近づこうとすると、棘で刺してくる」
彼女のことを思い出し、智哉の胸にまた一つ不快感が広がった。
——
一方、佳奈は状況を詳しく確認した後、石川さんが裏切ったことを知った。
彼女は佳奈の指示で証拠を消したと断言し、さらには二人の間に二千万円の取引記録があると証言した。
その二千万円は、佳奈が彼女に貸したお金だった。
石川さんは彼氏との結婚資金や家の改装費が足りず、佳奈に二千万円を借りたのだ。
だが、そのお金が彼女を罪に陥れる証拠として使われてしまった。
佳奈は冷笑を抑えきれなかった。
この世の中では、火事や泥棒だけでなく、親友すら警戒しないといけないなんて。
信じていた相手に背中から刺されるとは思いもしなかった。
佳奈は目線を上げて雅浩を見た。
「先輩、どうやらこの件はかなり厄介ですね。証拠は全部私に不利なものばかり。先輩の名前に泥を塗ることになるかも……」
雅浩は気にする様子もなく笑って言った。
「俺がいるんだから、もう誰にも君をいじめさせないよ。証拠は俺が見つけるから、君はこの数日間、体を休めることに集中して。体を元気にするのが先だよ、分かった?」
「私も一緒に探します。石川さんが裏切ったのにはきっと何か裏がある。誰かが彼女をそそのかしたに違いない」
二人が話している最中、佳奈のスマホが突然鳴り出した。
画面に表示された名前を見て、佳奈は眉をひそめ、不機嫌そうに電話を取った。
電話に出た瞬間、耳をつんざくような声が響いてきた。
「佳奈!今すぐ家に戻って来なさい!」
電話の主は彼女の祖母だった。いつも佳奈を呼びつける時は碌なことがない。
佳奈が藤崎家の広間に足を踏み入れた瞬間、いきなりコップが彼女に向かって飛んできた。
避ける暇もなく、コップの蓋が彼女の額に当たり、鮮やかな血が額から流れ落ちた。
佳奈は思わず手で傷口を押さえ、訳が分からないまま藤崎夫人を見つめた。
「私が何をしたっていうんですか?入ってきた途端にこんな仕打ちをされるなんて」
「よくそんなことが聞けるわね!藤崎家と高橋家の大規模プロジェクトが止まったのは、あんたのせいでしょ!
せっかくの秘書の仕事をなんで辞める必要があったの!
その結果どうなった?智哉が藤崎家に手を下して、あんたのせいで藤崎家は崩壊寸前よ!」
藤崎夫人はそう言いながら、目の前の茶卓を激しく叩きつけた。
その態度には威厳と冷酷さしかなく、少しの家族愛も見られなかった。
佳奈は額の傷口の痛みを気にする余裕もなく、藤崎夫人が言った言葉を噛み締めた。
高橋家が藤崎家との取引を停止した。
智哉は本当に言った通りの行動を取ったのだ。
佳奈は苦々しく笑いながら言った。
「それで、夫人のご意見は何ですか?私に智哉のそばに戻れと言うのですか?
身分も求めず、彼の欲望を満たすだけの相手として?」
藤崎夫人は冷たく笑い返した。
「あんた、よくそんな厚かましいことを考えられるわね。智哉のベッドに上がったくらいで、身分を求めるなんて。
そもそも、私が手を回してやらなければ、あんたなんかにこんなチャンスが巡ってくるわけないでしょ!」
この言葉を聞いた瞬間、佳奈の目は驚きで見開かれた。
信じられないという表情で藤崎夫人を見つめた。
第9話
「今なんておっしゃいました?私を智哉のそばに押し付けたのが、あなたなんですか?」
佳奈は驚きと困惑で声を震わせた。
藤崎夫人は鼻で冷笑を漏らす。
「そうじゃなければ何だと思うの?本気で智哉がヒーロー気取りでお前を助けたとでも?
少しは頭を使いなさい。智哉ほどの身分の人間が、どうしてわざわざあんな偏狭な路地に現れるわけ?
私とあなたの兄が仕掛けて、彼をそこに引っ張り出さなかったら、あんたにこの三年間の贅沢な生活なんて訪れるわけないでしょう。
なのに、あんたは恩を知らずに図に乗って、智哉の妻の座を狙うつもり?
考えてもみなさい。あんな恥知らずの母親を持った女を、このB市のどこの名家が嫁として迎え入れると思ってるの?
いいかい、何があっても智哉のそばに戻りなさい。さもなくば、お前の母親の恥を全部暴露してやるわよ」
藤崎夫人の言葉は、まるで佳奈と血縁が一切ないかのように冷酷だった。
彼女の額から流れ落ちる血が頬を伝い、唇へと達した。
その血の味が口内に広がるたびに、佳奈は胸の奥から込み上げる嫌悪感に襲われた。
その嫌悪感は、こんな家族を持っていることへの自己嫌悪だった。
自分の祖母が伯父の息子と結託して、自分を商品同然に智哉のもとへ送り込んだこと。
最も悲しいのは、佳奈がそのことに全く気付かず、自分が真実の愛を手にしたと思い込んでいたことだ。
この三年間、彼女は智哉を心から愛してきた。
彼と一緒にいるために、大好きだった弁護士の道を諦め、結婚への憧れも捨てた。
どんな不平も口にせず、智哉の「秘密の恋人」として三年間を捧げてきた。
しかし、それは周囲から見ればただの権力と金の取引だった。
そして、その背景にあったのは最も近しいはずの家族だった。
佳奈は額の血を手で拭い、口元に苦笑を浮かべた。
その声には、これまでにないほどの強い意志が滲んでいた。
「もうこれ以上、あなたたちの言いなりにはなりません。そして、智哉のもとにも戻りません。
これから先、藤崎家がどうなろうと、私には一切関係ありません」
そう言い放つと、佳奈は振り返ることなく外へ向かった。
しかし数歩進んだところで、玄関に立つ父親の姿が目に入った。
彼は信じられない表情を浮かべ、目には涙を滲ませていた。
震える手で胸を押さえ、藤崎夫人を怒りの込めた目でじっと見据えていた。
彼は虚ろな声で言った。
「母さん、俺が親不孝だったからか、それとも藤崎家のために命を削って働いたのが足りなかったのか……どうして娘にこんな仕打ちをするんだ」
自分の最も信頼していた母親が、愛する娘を策略に巻き込んだと知った瞬間、佳奈の父の胸に針で刺されたような痛みが走った。
額には瞬く間に冷や汗がにじみ出る。
佳奈は様子が明らかにおかしいことに気づき、すぐに駆け寄って父を支えた。
「お父さん、どうか怒らないで。私は平気だから。お父さん、心臓の手術をしたばかりなんだから、無理しちゃだめ」
父は心配そうに佳奈を見つめ、大きな手で彼女の額にある傷口を優しくなぞった。
掠れた声で謝るように言った。
「ごめん、父さんが君を守れなかった」
「お父さん、もういいから。病院に行きましょう」
佳奈は父を車に乗せ、病院へと急いだ。
診察を終えた医者は、術後に無理をしすぎたこと、さらにさきほどの精神的ショックが術後の回復に悪影響を及ぼしていると指摘し、数日間の入院が必要だと告げた。
佳奈は父の入院手続きを済ませた後、一人で廊下に出て、父の秘書に電話をかけた。
事情を聞き出すと、父の会社が高橋グループとの協力プロジェクトに、ほぼ全ての資金を投資していたことが判明した。
プロジェクトの将来性が非常に有望だったため、父は大きな決断をしたのだ。
しかし、昨日になって突如、高橋グループ側から契約解除が通知され、さらに父が業界内で機密を漏洩したとの疑いをかけられたという。
もしそれが事実とされれば、佳奈の父は資金を回収できないどころか、刑事調査にかけられ、最悪の場合、投獄される危険性がある。
佳奈はスマートフォンを握る手に力が入った。
そのプロジェクトについて、佳奈も詳しく知っていた。
それは高橋グループが新たに開発した分野で、成功すれば利益が倍増するどころか、想像を超える収益を生む可能性があった。
佳奈の父が、命よりも大切にしている信用を裏切るような行為をするはずがない。
それを考えると、誰かが意図的に仕組んだ罠に違いないと確信した。
佳奈の表情は次第に冷たくなり、彼女はすぐさま智哉に電話をかけた。
しかし、何度かけても無情にも切られてしまう。
五度目のコールで、ようやく電話が繋がり、冷たく突き放すような声が聞こえてきた。
「後悔したのか?」
佳奈は唇を噛み、感情を抑えながら、疲労でかすれた声で話し始めた。
「智哉、私の父は約束を破るような人じゃない。私への復讐なら、私だけにして。父の一生の名誉を汚さないで。
父はずっと信用を命よりも重んじてきた人なの。手術を終えたばかりの父に、こんな仕打ちをすれば、本当に命を奪ってしまうことになるのよ、分かってる?」
智哉はその言葉を聞いて一瞬動揺したが、すぐに深い瞳の奥に一抹の薄笑いを浮かべた。
「父親を助けたいのか?」
彼は軽く笑いながら言った。
「病院の駐車場で待ってる」
佳奈は智哉が手を下したことを予想していたが、彼の口から直接聞かされると、また違った感情が込み上げてきた。
まさか、3年間共に過ごした日々をまるで何もなかったかのように切り捨てられるとは思わなかった。
少しでも心が動いた瞬間があれば、彼はこんなにも冷酷で無情にはなれないはずだ。
そう思うと、佳奈の喉は詰まり、目頭が熱くなった。
彼女は顔を上げて、廊下の眩しい蛍光灯をじっと見つめながら、冷たい声で言った。
「智哉、覚えておいて。私は必ず父の汚名をそそいでみせる。あなたに無実の人を冤罪で苦しめる権利なんてない!」
智哉は薄く笑いながら言った。
「いいだろう。どうやってその公正とやらを取り戻すのか、楽しみにしているよ」
5分後
佳奈は地下駐車場で智哉の車を見つけた。
高木が彼女に手を振りながら声をかけた。
「藤崎秘書、高橋社長がお車の中でお待ちです」
彼は車のドアを開け、佳奈を中に入らせた後、気を利かせてその場を離れ、遠くで待機した。
車内に入った佳奈を見た智哉は、彼女の額の傷を一目で見つけた。
その黒い瞳が一瞬で血のような赤みを帯びる。
「誰にやられた?」
彼は佳奈の顎を掴み、その深い瞳でじっと彼女を見つめた。
佳奈は顔をそらし、冷たく言った。
「あなたには関係ない」
「佳奈、これが『私なしでもやっていける』って言ってた結果か?見ろよ、自分をこんなボロボロにして」
そう言うと、彼はグローブボックスから軟膏を取り出し、佳奈の傷口に塗り始めた。
そして、過去に自分が酔って顔をぶつけた時、佳奈に「罰」として買わされた奇妙なデザインの絆創膏を取り出した。
その奇妙でひどいデザインに、佳奈は身を引きながら言った。
「嫌だ、貼らない」
智哉は彼女を力強く引き寄せ、その絆創膏を強引に額に貼り付けた。
貼り終えると、仕返しするように彼女の唇に軽く噛みつき、からかうように笑った。
「ブスだな」
佳奈は怒りに顔を真っ赤にしていた。
智哉が藤崎家をここまで追い詰めておきながら、まだ彼女をからかう余裕があることに腹が立った。
「智哉、一体どうすれば父を許してくれるの?」
智哉はその深い瞳で彼女をじっと見つめ、喉から冷ややかな笑みを漏らした。
「簡単なことだ。俺の元に戻ってこい。そうすればお前の父親も無事で、藤崎家も元通りになる」
第10話
佳奈は何も考えずに即答した。
「それ以外なら、全部聞いてあげる」
智哉は彼女の顎をつかみ、薄笑いを浮かべながら低い声で言った。
「でも、俺が欲しいのはそれだけなんだよ」
「智哉、たとえ私が目的を持ってあなたに近づいたと思っているとしても、この3年間、あなたをしっかり支えてきた。私はもうあなたに何の借りもない。私を自由にしてもらう理由は十分なはずよ」
佳奈のその頑固な目つき、ペラペラと止まらないその口、さらにうっすらと見える胸の谷間に、智哉の喉仏が無意識に上下する。
彼は彼女を一気に膝の上に抱え込み、顎を彼女の肩に乗せながら、低く掠れた声で言った。
「なら、しっかり教えてくれよ。どうやって俺を支えてきたのかを」
その低くて魅力的な声が佳奈の頭皮をざわつかせる。
同時に、彼の大きな手が彼女の服の中に忍び込んでくる。
佳奈は必死に抵抗するが、智哉の力強い腕にしっかりと捕まえられて逃げ出せない。
焦った彼女はそのまま彼の肩に噛みついた。
自分の中に溜まったすべての不満と悲しみを、その噛み痕に込めたかのように強く。
血の味が口の中に広がるまで噛み続けた彼女は、やっとのことで噛むのをやめる。
佳奈の瞳には涙が浮かび、震えた声で警告した。
「智哉、本当に私を怒らせないで。ウサギだって追い詰められたら噛むんだから」
そう言い終えると、彼女は彼を強く突き飛ばし、哀しげな表情を浮かべながらその場を後にした。
高木が車に戻ってきた時、ちょうど社長がスマホを手に肩の写真を撮っているところだった。
バックミラー越しに、高木はその肩に残った噛み痕を見た。血が滲んでいる。
またやらかしましたね、社長.....
高木は同情しつつ、軽く尋ねた。
「高橋社長、お薬塗りましょうか?」
智哉は冷ややかに高木を睨みつけた。
「俺がそんなヤワに見えるか?」
高木の心の声:いや、ヤワじゃないけど、その証拠を残して藤崎秘書に藤崎秘書に仕返しするつもりだろうね。
智哉は数枚の写真を撮り終えると、やっと服を整えた。
そして、冷たく命じるように言った。
「藤崎家のプロジェクトを止めたのは誰だ?」
高木は頭を垂れ、しばらくためらった後、ポツリと言った。
「夫人です」
「なぜ俺に報告がなかった?」
「夫人が黙っていろと言ったんです」
「高木、お前は俺の秘書なのか、それとも夫人の秘書か?」
高木は慌てて答えた。
「もちろん高橋社長の秘書です。でも、夫人は、社長と藤崎秘書の関係を知ってしまったみたいです。
それで、藤崎秘書の過去3年間の行動を調べさせたうえで、藤崎家と高橋グループの契約を調査したようです。
どうも、かなり厳しい態度で臨んでいるように見えます」
智哉は長い指で、力を込めてネクタイを引っ張り下ろした。
智哉の目に冷ややかな光が浮かび上がった。
彼はスマートフォンを取り出し、母親に電話をかけた。
通話がつながると、受話器越しに女性の冷たい声が聞こえてきた。
「藤崎家のために情状酌量を頼むなら、無駄よ。私は手を引かないから」
智哉の顔色は見る見るうちに険しくなった。
「彼女は俺の女だ。あなたに彼女をどうこうする権利はない」
高橋夫人は冷笑を漏らした。
「だからこそ、私は彼女を排除するのよ。あなた、知らないの?昔、あの子の母親があなたの父親を誘惑したことがあったのよ。そんな手段で男を手に入れる女の娘が、まともなわけがないでしょう」
智哉は鼻で笑いながら言った。
「それは彼女の母親のことだろう。彼女とは関係ない」
「智哉、高橋家はそんな女を絶対に受け入れない。彼女と一緒になっても幸せにはなれないわ」
「じゃあ、あなたと父さんは幸せなのか?俺が幼いころから何度も喧嘩を繰り返して、別れたり寄り戻したりを何十年も続けてきた。そのせいで俺は結婚が怖くなり、姉さんは愛を信じなくなった。30を超えても独り身のままだ。そんな状況を見て、まだ反省しないのか?俺たちを追い詰めて何が楽しいんだ!」
智哉の声は怒りで震えていた。
頭の中には、両親が日々喧嘩を繰り返していた場面が次々と浮かんできた。
姉が彼を抱き寄せ、小さな暗い部屋でじっと泣いている姿。
もし祖母が丁寧に面倒を見てくれなければ、きっと健やかに成長することなど叶わなかっただろう。
智哉は椅子にもたれ、指先で軽くこめかみを押さえた。
こうしたことを思い出すたびに、彼の頭痛は酷くなった。
しかし、高橋夫人は息子の苦しみなど露ほども気にかけることなく、冷徹な口調を崩さなかった。
「私だけの責任だと言いたいの?あなたの父親があちこちで浮気をしなければ、私が怒ることなんてなかったわ!」
「智哉、はっきり言っておくわ。佳奈の件は私が責任を持って対処する。彼女をあなたのそばに置くことは絶対に許さない。たとえ愛人であっても駄目よ!」
そう言い放つと、高橋夫人は一方的に電話を切った。
智哉は怒りでこめかみの血管が跳ね上がるのを感じ、煙草の箱から一本取り出して火をつけた。
彼は椅子にもたれかかり、深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
——
数日後
佳奈は父親の昼食を手伝い終えると、突然、病院の産婦人科からの電話を受けた。
先日、流産後に行った婦人科の総合検査の結果が出たらしい。
彼女は携帯を手に持ちながら病室を出て、電話に応答した。
「藤崎さん、検査結果に少し問題が見つかりました。できればすぐにお越しください」
嫌な予感がした佳奈は、電話を切ると父親に簡単な言葉をかけ、適当な理由をつけて病院を出た。
診察室に入ると、医師はデータを見つめながら佳奈を一瞥し、尋ねた。
「事後避妊薬を頻繁に服用していますね?」
佳奈は静かにうなずいた。
智哉はいつでもどこでも彼女を求め、ゴムの準備が間に合わないときは仕方なく薬を服用していた。
流産に至った妊娠も、智哉の激しい行為が原因で高熱を出し、薬を飲むのを忘れたことから始まったものだった。
医師は佳奈を少し気の毒そうに見つめ、言葉を続けた。
「あなたの子宮は後屈していて、内膜も薄い。それに頻繁な事後避妊薬の服用が影響し、卵巣に早期老化の兆候があります。
妊娠するのが非常に困難な状態です。今回の流産と大量出血で、さらに身体に大きなダメージを与えました。
再び妊娠できる確率は、現在の段階では20%を下回るでしょう」
その言葉を聞いた佳奈は、胸の中に鋭い刃が突き刺さったような感覚を覚えた。
息が詰まるほどの激痛に襲われ、小さな手で服の裾をしっかりと握りしめる。
彼女は親戚に、妊娠確率が40%の女性がいたことを思い出した。
その親戚は結婚して5年が経つが、いまだに子供を授かれていない。
「私のこの20%の確率では、この先一生母親になれないかもしれない......」
佳奈は声を絞り出すように尋ねた。
「先生、何か方法はありませんか?」
医師は無力感を漂わせて首を横に振った。
「漢方薬を処方して調整してみますが、劇的に改善される保証はありません。
ただし、事後避妊薬の使用は今後一切禁止です。女性が母親になる力を失うことの重大さは計り知れません。
本当にあなたを愛している男なら、避妊方法はいくらでもあるはずです。自分だけが快楽を得ることを優先し、あなたの身体を犠牲にするような人間ではないはずですよ」
佳奈は苦笑いを浮かべた。
「本当にそうですね......」
智哉が彼女を愛していたなら、彼女にこんな負担を負わせることはなかっただろう。
診察結果の用紙を手にした佳奈は、ふらつきながら診察室を後にした。
ドアを開けた瞬間、次の患者が中に入ってくる。
佳奈は相手の顔を確認する余裕もなく、すれ違いざまに廊下に出る。
だが数歩進んだところで、耳に飛び込んできたのはよく知る声だった。
「先生、妊活のための検査をお願いします。結婚後すぐに子供が欲しいんです」
佳奈はその場で立ち止まり、動けなくなった。
しばらくして振り返ると、そこには幸福そうな笑顔を浮かべる美桜の姿があった。
智哉は彼女と結婚も子供も望まなかった。
それどころか、妊娠しないよう彼女に避妊薬を強要し、その結果、彼女の身体は取り返しのつかない状態になった。
しかし、今の彼は美桜と結婚するつもりで、さらに子供まで望んでいる。
この差は、彼女の心を引き裂くには十分だった。
佳奈は心身が凍りつくような痛みを覚えながら、外へと歩き出した。
数歩進んだところで、突然、誰かの腕の中に倒れ込む。
驚いて顔を上げると、そこには智哉の冷静な表情があった。
彼の冷ややかな声が頭上から降りてきた。
「妊娠しているのか?」