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永遠の毒薬
9年前、久遠乃亜は初めて蓮見凌央に出会った。その瞬間、彼女の心は彼に永遠を捧げられた。 3年前、乃亜は蓮見家に嫁ぎ、凌央の妻となった。彼...
Chương (1)
第1章
9年前、久遠乃亜は初めて蓮見凌央に出会った。その瞬間、彼女の心は彼に永遠を捧げられた。
3年前、乃亜は蓮見家に嫁ぎ、凌央の妻となった。彼女は、これで一生に一度の愛が手に入ると信じていた。
3年間、彼女は彼を宝物のように大切にし、自分を犠牲にしながらも、彼の心を温めようと必死に努力した。彼が最愛の人だと認めてくれる日を夢見ていた。
しかし......
ある人の心は、どれだけ努力しても温まらない。ある人の目には、いつまでも初恋しか映らないのだ。
3年後、乃亜は妊娠が発覚。同じ日に、彼の初恋の相手である高橋美咲が妊娠を派手に発表した。
乃亜は凌央に尋ねた。
「もし私が妊娠したら、どうするの?」
凌央は冷たく答えた。
「堕ろせ」
乃亜はさらに聞いた。
「じゃあ、美咲さんが妊娠したら?」
凌央は迷いなく言った。
「彼女が産む子供は蓮見家の長男だ」
失望と絶望に打ちひしがれた乃亜は、離婚を決意した。
しかし、彼は離婚届を引き裂き、乃亜をドアの前に押し付け、一語一語強調するように言い放った。
「お前は俺の女だ。一生俺だけのものだ」
乃亜は訴状を手に、彼を裁判所に告訴した。しかし、離婚判決を待つ前に、彼女は誰かに車で轢かれそうになり、流産の危機に直面する。
子供を守るため、彼女は妊娠を隠して遠くに逃げた。
数年後、彼女が桜華市に戻ると、男が彼女を追い詰めた。
「乃亜。俺の息子を盗んだ件、きっちり清算しようじゃないか」
第1話
「乃亜さん、私、妊娠したの。だから早く凌央さんと離婚して。子供が生まれて、父親がいないなんて可哀想でしょう?」
電話越しに聞こえる涙声。乃亜は眉間を押さえ、冷たく答えた。
「姉さん、他に言いたいことは?早く話して。このまま録音しておくから、離婚裁判で財産分与の時に役立てるわ」
「乃亜、このクソ女!録音なんてしてたの?」
相手はそう叫ぶと、電話を切った。
受話器越しのツーツー音を聞きながら、乃亜は手元の妊娠検査表を見つめた。「妊娠4週目」の文字がまるで自分を突き刺すように感じた。
本当は今夜、凌央に妊娠を知らせるつもりだったが、もうそんな必要はない。
この子供は、不意にやってきた。
しかし、乃亜にとっては唯一の救いだった。
仕事を終えて帰宅すると、小林が出迎えた。
「奥様、朝おっしゃったメニューに従って料理の準備をしました。お着替えになったら調理をお願いします」
乃亜は靴を履き替えながら、家の中に入った。
「作っておいて。私はお風呂に入りたい」
小林は驚いた様子で「え、ええ、わかりました!」とうなずいた。
奥様は以前、病気の時でさえ料理を自分で作るほどだったのに。今日は一体どうしたのかしら?少し心配だ。
疲れ切った体で浴槽に浸かる乃亜。気づけば、いつの間にか眠ってしまっていた。
ふと、体が浮くような感覚で目を覚ました。
目の前には、凌央の深い瞳があった。
「小林さんが、お前が具合悪そうだと言っていた。病気か?」
彼の表情はいつも通り冷たく、何の感情も読めなかった。
その瞳を見つめながら、乃亜はふいに美咲からの電話を思い出し、微笑んだ。
「あなたの義姉さんが妊娠したらしい。産ませるつもり?」
「……ああ」
乃亜は彼の顔から何かを読み取ろうとしたが、落胆するばかりだった。
彼女は彼を押しのけ、床に降り立つと、バスタオルで乃亜の体を包み込んだ。
「その子供を産ませるなんて、私は許さない」
どんな女性も、結婚生活に割り込む第三者を好むわけがない。ましてや、その女性の子供など認めるはずがない。
美咲の子供と乃亜自身の子供――どちらか一つしか選べない。
凌央がどうしても美咲の子供を守ると言うのなら、乃亜は迷わず離婚を切り出す。
その言葉を聞いた瞬間、凌央の鋭い目つきが乃亜に向けられた。
「その子に手を出すな、と警告したはずだ!」
3年間ともに過ごしてきた夫が、まるで彼女を引き裂こうとするかのように、凄まじい形相で睨みつけている。
乃亜の心は、刃物で深く刺されたように痛み、血まみれになる思いだった。
彼がこれほどまでにあの子供を庇うとは――
だから美咲は、あんなにも堂々と電話をして、離婚を迫ったのか。
初めて出会った時の衝撃。再会の時のときめき。そして、長年続けてきた一方的な愛。
この物語は、ようやく終焉を迎えたのだと乃亜は悟った。
暗く深呼吸をし、胸に押し寄せる激しい痛みを抑えながら、乃亜はゆっくりと口を開いた。
「凌央、私たち、離婚しましょう」
美咲の子供が生まれたら、自分も身を引かなければならない。どうせ追い出されるのなら、今のうちに離婚した方がいい。
美咲の妊娠は、凌央の浮気の証拠だ。離婚の時には少しでも多く財産をもらえるだろう。
凌央は「離婚」という言葉を聞いた瞬間、顔の表情が一気に暗くなった。
「お前が俺と離婚したい?それはお前が本当に愛している田中拓海が戻ってきたからか?」
乃亜は少し驚いたが、冷たく笑って答えた。
「そうよ。私が拓海を愛していると分かっているなら、さっさと離婚届にサインして。そうすれば、私たちは本当に結ばれることができるから」
結婚して3年間、乃亜はずっと良い妻であろうと努力してきた。実家ではあまり大切にされなかった彼女だったが、それでも箱入り娘として何もかも整った生活をしていた。それに、凌央のために仕事の合間を縫って料理を学び、パン作りやフラワーアレンジメントまで習った。
凌央の胃が弱かったため、彼女は3年間毎日栄養を考えた食事を作り、彼の胃の元気に戻した。
それほど努力しても、彼は乃亜が他の男を愛していると信じている。
それがどれほど乃亜を傷けたことか。
凌央は怒りで歯ぎしりしながら、突然乃亜の目の前に迫り、圧迫感たっぷりに言い放った。
「お前は俺の女だ。離婚したとしても俺のものだ!他の男と一緒になるなんて、夢見るな!」
乃亜は彼の視線をまっすぐ見つめ、恐れることなく答えた。
「サインしないなら、婚内不貞で告訴するわよ。その時は桜華市の誰もが美咲が浮気相手だと知ることになるでしょうね。あの人のことをあれほど大切にしているあなたなら、彼女の名声が地に落ちるのは嫌でしょう?」
以前なら、美咲が目の前に現れても無視することができた。しかし今、彼女は妊娠している。しかも、自分の子供と同じ父親の子供だ。これ以上見て見ぬふりを続けることなどできない。
凌央は長い指で乃亜の顎を掴み、冷たい視線を浴びせた。
「久遠グループを倒産させたくなければ、大人しくしていろ。美咲には手を出すな!」
彼の言葉一つ一つが、心に重く響き、まるで槌で打たれるようだった。
乃亜は背筋に冷たいものを感じた。
凌央は彼女を放して、服を整えた。その姿は再び上流社会のエリートのようだった。
彼が去った後、乃亜は自分の惨めな姿を見下ろし、自嘲の笑みを浮かべた。
「これでも桜華法律事務所の看板弁護士、桜華市のトップ弁護士なのに。外では堂々とした姿を見せても、凌央の前ではこんなに惨めになるなんて」
すぐに気持ちを切り替え、乃亜は部屋着に着替えて階下へ向かった。
ダイニングに入ると、耳に優しい男性の声が入った。
「泣かないで。すぐに行くから」
その後、凌央は慌ただしく部屋を出て行った。
テーブルに並べられた4品1汁を見ても、乃亜の食欲は湧かなかった。
お腹の中の子供を思い出し、無理やり食べ物を口に運んだが、味が全く分からなかった。
部屋に戻ると、依頼人からの電話が鳴った。酔った様子の依頼人は延々と夫との過去を語り始めた。
「結婚した頃は何もなかったけど、一緒に頑張って幸せだった。でも今ではお金を手にして、夫は浮気を繰り返すようになったの」
乃亜は自分の結婚生活を思い出さずにはいられなかった。
結婚して3年、彼女たちが夫婦であることを知るのは身近な数人だけ。外では誰も彼らが夫婦だとは知らない。
少なくとも依頼人には、かつて幸せな時間があった。
その事実に、なぜか胸が苦しくなった。
かつては、愛する人と一緒にいられるなら、どれほど卑屈な思いをしても幸せだと思っていた。今ではそれがただの愚かさだったと気づいた。
結局、依頼人は電話の途中で眠ってしまい、乃亜はスマホを置き、目を閉じた。
「目を覚ませば、新しい人生が始まる」
深夜、携帯電話の音で目を覚ました。ぼんやりする中で耳に届いたのは、
「乃亜さん、すみませんが夢幻館まで来て兄さんを迎えに来てくれませんか?酔っ払っているんです」
言葉を聞き終える前に電話は切れた。
乃亜は深く息を吸い込み、明日の朝に市役所で離婚手続きをする予定があるのを思い出した。今迎えに行かないと、凌央が二日酔いで手続きに遅れる可能性がある。
仕方なく、布団を跳ね除けて立ち上がった。
「明日離婚すれば、凌央が会所で酔い潰れていようが、もう私には関係ない」
結婚して3年、夢幻館に凌央を迎えに行くのは一度や二度ではなかった。乃亜は慣れた足取りで個室を探した。
その部屋には、美咲がいた。彼女の存在に乃亜は驚かなかった。
美咲はこのグループの富裕層たちと親しくしており、凌央の正妻である乃亜は、彼らにとっては異物のような存在だった。
「乃亜さん、こんな夜遅くに呼び出してしまって、本当に申し訳ないです!」
電話をかけてきた田中裕樹は、彼らの中で最年少で、凌央を心から尊敬しているようだった。
「いいえ、大丈夫です」
乃亜は微笑みながら、柔らかな声で答えた。
凌央の周りの富裕層たちは彼女を見下し、名前で呼び捨てにするのが常だった。そんな中、唯一彼女を「乃亜さん」と呼んでくれるのが裕樹だった。
裕樹が拓海の弟であることもあり、乃亜は彼に良い印象を持っていた。
その時、冷たく鋭い声が響いた。
「美咲さんが来たからには、凌央の面倒は彼女に任せればいい。あなたがここにいる必要はない。帰れ」
第2話
乃亜は話している男性にちらりと視線を向けた。凌央の幼なじみである安藤裕之だ。安藤家は桜華市でも由緒ある名家で、その跡取り息子である彼は、乃亜のような没落した家庭出身の人間を見下している。だが、そんな彼も美咲の手駒でしかない。美咲が指示をすれば、彼は何も疑わず従う。ただの道具だ。そしてその矛先はいつも乃亜に向けられる。
そう思うと、乃亜は淡々と微笑み、赤い唇を軽く開いた。優雅で落ち着いた声が響く。
「あなたが言う『美咲さん』って、凌央のお兄さんの奥さんのことですよね?今の発言、他の人に聞かれたら、あの二人の間に不適切な関係があるって誤解されるかもしれませんよ」
裕之がわざと嫌味を言ってきた以上、乃亜に気を使う理由はなかった。
乃亜は凌央を深く愛しているが、彼の友人たちにまで侮辱されるほど卑屈ではない。
美咲は、最初は上機嫌だったが、乃亜の言葉を聞くと、拳をきつく握りしめ、顔に怒りが浮かんだ。
この女、乃亜......
心の中では乃亜を憎んで仕方なかったが、表面上は優雅な笑みを保ちながら、こう言った。
「私と凌央は子供の頃から一緒に育ってきたの。だから彼の世話をしても、誰も何も思わないわ。それに比べて、あなたはどう?凌央のお世話が全然できてないみたいね。先月の健康診断で彼の胃の病気が見つかったって知ってる?」
口調には少し悲しげなトーンを含ませつつも、明らかに乃亜を責める意図が隠れていた。
だが乃亜は全く動じず、むしろ笑みをさらに明るくしながら答えた。
「それなら、凌央のお兄さんが亡くなったのも、奥さんが『夫を不幸にする女』だったせいだって言いたいのかしら?」
彼女は3年かけて凌央の胃をしっかりと改善してきた。胃の病気なんてあり得ない。
美咲が嘘を言うなら、乃亜も容赦はしない。
「夫を不幸にする」という言葉を聞いた瞬間、美咲の感情は爆発し、思わず手を振り上げて乃亜を叩こうとした。
義母に「夫を不幸にする女」と罵られたことがあった美咲にとって、その言葉は耐え難いものだった。
乃亜にまで同じことを言われるなんて......
夫が短命だったのは自分のせいじゃないのに!
乃亜はすかさずその手首を掴み、その目には鋭い光が宿していた。
「言い返せないとすぐ手を出すなんて、誰に甘やかされてきたの?」
乃亜は決して誰からも好き放題される弱い女ではなかった。
「痛い、放して!」美咲は顔をしかめ、小さな声で痛がった。
その様子を見た裕之は焦って、乃亜を止めようと飛びかかったが、裕樹が必死に彼を引き留めた。
「裕之さん、落ち着いてください!」
だが裕之はどうしても振りほどけず、苛立ったまま乃亜に怒鳴った。
「乃亜、今すぐ手を放せ!」
騒ぎで目を覚ました凌央が、眉を寄せてゆっくりと目を開け、上体を起こした。
美咲は凌央が目を覚ましたのを見ると、一瞬目に計算高い光を浮かべた。そして両手で乃亜の腕を掴んで胸を押すように力を入れると、その反動で自分の足を引き、尻餅をついた。
そのままお腹を押さえ、苦しそうに叫んだ。
「裕之さん、お腹が痛い......」
その場にいた裕樹は一瞬唖然とした。
その隙を突いて裕之は手を振り解き、美咲の方に駆け寄ろうとしたが、凌央がそれより早く動き、彼女を抱き上げた。そして振り返り、乃亜を冷たく睨みつけた。
「もし美咲に何かあったら、お前を絶対許さない!」
乃亜は胸が刺されるような痛みを感じた。
「凌央、私が転んだだけなの。乃亜さんには関係ないわ」美咲は凌央の服を掴みながら、柔らかい声で嗔るように言った。
「お前が彼女を突き飛ばしたのを見た!」凌央の目は冷たく鋭かった。
「見間違いよ!本当に乃亜さんのせいじゃないわ。私が勝手に転んだの!」美咲は慌てて弁解したが、その態度はむしろ怪しかった。
凌央の立ち位置から見れば、確かに乃亜が彼女を突き飛ばしたように見えただろう。
美咲が芝居をしているのを見て、乃亜は目をわずかに細め、冷笑を浮かべた。
「自分で転んだって言ってるわ。私は突き飛ばしてないって聞こえたでしょ?」
美咲が責任を押し付けようとするも、乃亜はそれを跳ね返した。
美咲の顔が一瞬ひきつったが、すぐに泣きそうな声で言った。
「凌央、お腹が痛い......」
乃亜の言葉に勝てないと悟った美咲は、急いで凌央の注意をそらした。
「我慢して。病院に行くぞ!」凌央は優しい声で言うと、美咲を抱え、大股でその場を去っていった。
彼は乃亜に一度も目を向けなかった。
薄明かりの中、凌央の背中がだんだん遠ざかっていくのを見て、乃亜は胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
彼はここまで冷たく、彼女に無関心なのだ。
9年間の想いが、滑稽で哀れに思えた。
「乃亜さん、大丈夫ですか?家まで送りましょうか?」裕樹が近づき、心配そうに声をかけた。どこか申し訳なさそうな顔だった。
彼は乃亜に電話をしなければよかったと後悔していた。
「大丈夫。ありがとう」乃亜は思考を切り替え、顔を上げて彼を見つめると、ふわりと微笑んだ。
「聞いたんだけど、あなたのお兄さんが帰ってきたって本当?」
ただ、それが本当かどうか確認したかっただけだった。
「はい、昨日帰ってきたばかりです」
「わかった。遅いし、早く家に帰りなさい」乃亜は軽く手を振り、その場を後にした。
車が高架道路に入ると、彼女は後ろからナンバープレートのない車がついてきているのに気づいた。胸がドキリとした彼女は、すぐに緊急連絡先に電話をかけた。
すぐに電話が繋がったが、受話器越しに聞こえてきたのは、泣きそうな女性の声だった。
「凌央......痛い......もう無理......」
「泣くな。すぐに終わるから」凌央が優しく彼女をなだめている。
その声を聞いて、乃亜の胸は締め付けられるように痛んだ。息が詰まるほど苦しく、それでも彼女は歯を食いしばり、必死に叫んだ。
「凌央!誰かが私を殺そうとしているの!助けて!」
「凌央、早く乃亜さんを助けに行って!私は大丈夫だから!」美咲は焦ったように言いながら、激しく咳き込んでいた。
「こんな咳き込みながら、何が大丈夫だ?お前は寝てろ。余計なことは気にしなくていい」凌央の冷たい声が響き、言葉の一つ一つが乃亜の胸に突き刺さる。
乃亜は胸が引き裂かれるような痛みを感じたが、なんとか涙を飲み込み、掠れた声で訴え続けた。
「凌央......私は桜華市の高架道路にいるの。後ろの車が追ってきてる。殺されそうなの。お願い、助けて!」
凌央だけが、彼女にとって最後の頼りの綱だった。
「何度も嘘をつかれたら、誰も信じなくなるんだよ。俺も、お前自身ですら信じてないんじゃないか?乃亜、いい加減にしろ」
「本当なの!追われてるの!お願いだから助けて!」
「死んだら連絡しろ。そのときは蓮見家の嫁として、立派な葬式をしてやるよ。それと、もう電話してくるな」
冷たい男の声とともに電話が切られた。
耳に残る通話終了音を聞きながら、乃亜の心は絶望に打ちひしがれていた。
そのとき――
「ガンッ!」という音が車内に響いた。
遠くなっていた乃亜の意識が現実に引き戻される。車がガードレールに突っ込もうとしているのを見て、彼女は慌ててハンドルを切った。だが、後ろの車はさらに彼女の車にぶつかってきた。
車体が激しく揺れる。
混乱の中、乃亜は誰かに電話をかけたが、誰にかけたのかさえ覚えていなかった。
次の瞬間、受話器越しに親友の小林紗希の焦った声が聞こえてきた。
「乃亜!どこにいるの?返事して!」
乃亜は涙をこぼしながら、唇を噛みしめてなんとか意識を保とうとした。
「桜華市の......高架道路......」
そう言い切ると、彼女の視界は暗くなり、そのまま意識を失った。
乃亜は、長い夢を見ていた。
14歳のあの日、初めて凌央に出会った瞬間が、鮮明に蘇ってきた。
ただ一目で、彼女の世界は変わったのだった。
それからずっと、乃亜は深い闇に落ちていった。
目を覚ますと、彼女は病院のベッドに横たわっていた。隣には、心配そうに彼女を見つめる紗希が座っていた。
「乃亜!やっと目を覚ました!」紗希は嬉しそうに叫んだ。そしてすぐに、驚くべきニュースを告げた。
「それとね、乃亜!なんとあなた妊娠してるんだって!男の子だよ!」
乃亜はお腹に手を当て、少し黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「紗希、私は凌央と離婚することに決めた。でも、この子は産むつもり」
妊娠を知ったその瞬間から、この子を諦めるつもりはなかった。
紗希は驚き、信じられないという表情で声を上げた。
「離婚するって......本気?」
この世で、乃亜がどれだけ凌央を愛しているかを知るのは紗希だけだった。
それなのに、彼女が離婚を決意するなんて。
「美咲も妊娠してるのよ。凌央は彼女にその子を産ませるつもりらしい」乃亜は苦笑を浮かべ、静かに涙を飲み込むように言った。
凌央の兄は1年前に交通事故で亡くなった。美咲のお腹の子が兄の子であるはずがない。
紗希はその言葉を聞くと、顔を真っ赤にして怒り、体を震わせた。
「凌央のやつ、普段からあの女とベタベタしてたのもムカつくけど、今度は子供まで作ったなんて......あの二人をぶっ殺してやりたい!」
乃亜は胸が締め付けられるような気持ちだったが、紗希の手を握り、小さな声で優しくなだめた。
「でも、私は妊娠してるから、離婚した後に他の男と結婚して、その人に凌央の子供を『パパ』って呼ばせるほうがスッキリするんじゃない?」
この世界で、どんなときでも彼女を支えてくれるのは紗希だけだった。
紗希はその言葉に思わず笑い、涙を拭った。
そのとき、スマホが鳴った。乃亜が見ると、それは凌央からの着信だった。
乃亜は無言で電話を切った。
だが、またすぐに電話が鳴る。
乃亜は眉をひそめながら、電話に出て冷たく言った。
「何の用?」
第3話
「誰かが君を殺そうとしてるって言ったよな?生きてるかどうか確認しようと思ってさ」
男の声には皮肉がたっぷり込められていた。
乃亜は無意識にスマホをぎゅっと握りしめ、一語ずつ吐き出すように言った。
「私、運がいいのよ。死ぬもんですか」
そう言うと、電話を切り、そのまま相手の番号をブロックした。動作には一切の迷いがなかった。
その頃、創世グループ傘下の病院、高級VIP病室では、美咲がベッドに横たわっていた。顔色は異常なほど青白く、まるで風に吹かれるだけで倒れてしまいそうなほど弱々しい。
凌央はスマホを手に持ち、表情には何か複雑な感情が読み取れた。
美咲は心の中で不安に駆られながら、恐る恐る口を開いた。
「凌央......乃亜さん、大丈夫だった?」
凌央はスマホをポケットにしまいながら、短く答えた。
「無事だ」
美咲は心の中で乃亜を何度も呪いながら、わざと優しい声で言った。
「だったら、あなたは乃亜さんのところに戻ってあげて。私ならお医者さんや看護師さんがいるし、平気よ」
しかし、凌央は淡々とした表情で返した。
「寝ろ。今日は俺がここにいる」
美咲は心の中で歓喜を覚えながらも、困ったような表情を作り、「でも......今夜帰らなかったら、明日乃亜さんがきっとおじいさまに文句を言いに行くわ。おじいさまの体に負担がかかるといけないから......」と消え入りそうな声で言った。
「余計なこと言わずに、さっさと寝ろ」
美咲は唇を噛みしめながら、じっと凌央を見つめた。
「本当に、今夜は私のそばにいてくれるの?」
「ああ。だから早く寝ろ」
翌朝、乃亜が目を覚ますと、目の前には紗希の怒りに満ちた顔があった。
「朝から何よ?なんでそんなに怒ってるの?」
紗希はスマホを乃亜の目の前に差し出し、声を荒げた。
「見て!美咲って、本当に性格悪い女よ!今度はまたトレンドを買って自分を話題にしてる!」
乃亜がスマホを受け取ると、そこには「衝撃!有名ダンサーが妊娠か?婚約者が夢幻館に現れる」というタイトルの記事が表示されていた。
記事を開くと、エコー写真と共に、凌央が美咲を抱きかかえながら夢幻館を出てくる写真が載っていた。
その腕に見えるパテックフィリップの時計――桜華市であの時計を持っているのは凌央だけだった。
乃亜は目頭が熱くなり、胸の奥に鈍い痛みが広がるのを感じた。心臓がまるで鈍い刃物でじわじわと抉られていくような痛み――呼吸すら苦しくなるほどの辛さだった。
たとえ離婚を決意したとはいえ、9年間も愛してきた人だ。この感情を簡単に断ち切れるわけがない。
紗希は彼女が苦しんでいる様子に気づくと、自分の腕を叩きながら悔しそうに叫んだ。
「ごめん、乃亜!妊娠してるのに、こんなこと言うべきじゃなかった!」
乃亜が何か言おうとしたその時、スマホが鳴り出した。
画面に表示されたのは見知らぬ番号。彼女は出るべきか迷ったが、もしかすると依頼人かもしれないと思い、しぶしぶ電話に出た。
すると、受話器越しから凌央の怒鳴り声が聞こえてきた。
「乃亜!昨日の夜、俺は病院で美咲を看病してただけなのに、お前はわざわざトレンドを買って美咲を叩いたのか?いい加減にしろよ!」
乃亜は胸の奥で沸き上がる怒りを必死で抑えながら、冷たい声で言い返した。
「私じゃない」
そんな卑劣な手段で美咲を陥れるつもりなんて、毛頭なかった。
「だったら、今すぐ訂正しろ!お前が俺と揉めて腹いせにやったって公表するんだ。それが終わったら、離婚に同意してやる」
凌央の言葉は刃のように冷たく、彼女の心を深く傷つけた。
乃亜は目に涙が溢れそうになるのを感じたが、必死に感情を抑え、声を張り上げた。
「凌央......あなた、頭おかしいんじゃないの?何も確かめずに私に訂正しろなんて、私の人生を潰す気?」
もし乃亜がこの記事が自分の仕業だと認めれば、桜華法律事務所から追い出されるどころか、美咲から虚偽の罪で訴えられるのは間違いなかった。
今日一日が終わる前に、彼女は完全に「叩かれる存在」になり、世間から見放されるだろう。
桜華市で名を馳せたトップの離婚専門弁護士は、ただの笑いものに成り下がる。
凌央、なんて非情な人なの......
「美咲が妊娠していることを知っているのはお前だけだ。なのに、今朝になって彼女のエコー写真が流出したんだぞ。お前以外、誰がこんなことをやるんだ?」凌央は冷たい笑みを浮かべ、問い詰めるように言った。
乃亜は胸の痛みを堪えながら、冷たく言い返した。
「彼女が妊娠していることを知っている人間がどれだけいるかなんて、本人にしか分からないことでしょう?凌央、この件は私の仕業じゃない。私に罪を着せようなんて、無駄よ」
昨日の夜の車の事故、そして今朝のトレンド報道――どちらも美咲自身が仕組んだものだと乃亜は確信していた。
自分に罪を押し付けるなんて、冗談じゃない!
「乃亜。俺の言う通りにしなかったらどうなるか、分かってるだろうな。お前の親友のデザイン事務所なんて、すぐに潰されるだろうし、おばあさんの治療費だって止まるかもしれないぞ」凌央の声は冷酷そのものだった。
乃亜の胸はまるで刃物で抉られるような痛みでいっぱいだった。
心をえぐるような言葉――凌央は、それを平然と言い放つ男だった。
「午前中のうちに答えを出せ」凌央はそれだけ言うと、電話を切った。
乃亜は震える手でスマホを握りしめ、目に涙を浮かべていた。
そんな彼女を見た紗希は、胸が締め付けられるような思いになり、黙って乃亜を抱きしめた。そして泣き笑いしながらも、心の中で一つの決意を固めた。
一呼吸置いて、紗希は感情を抑え、彼女をそっと抱きから離した。真剣な表情で言った。
「乃亜、先に顔を洗ってきて。私はちょっと仕事場に戻らなきゃ」
乃亜は彼女に軽く頷いて、「行ってきて。忙しいなら無理して来なくていいよ」と答えた。
紗希はジュエリーデザインの仕事をしており、最近いくつか大きな依頼を受けていた。乃亜は彼女の邪魔をしたくなかった。
「じゃあ、行ってくるね」紗希は再び彼女を抱きしめてから、部屋を出て行った。
朝食を終えたばかりの乃亜のスマホが鳴り響いた。
画面に表示されたのは山本祐史の名前だった。
なんとなく胸騒ぎを覚えながら電話に出ると、すぐに紗希の怒りの声が飛び込んできた。
「凌央、この最低男!殺したいなら私を狙いなさいよ!どうして乃亜にちょっかい出すの!?乃亜は昨日、あんな目に遭ったばかりなのに......」
乃亜は焦って彼女の声を遮り、「凌央に電話を代わって!」と叫んだ。
「少々お待ちください」祐史がそう答えた直後、冷たい男の声が電話越しに響いてきた。
「妻が親友を使って美咲に危害を加えようとした。すでに警察に通報済みだ。何か言い分があるなら、警察でどうぞ」
警察に通報したという凌央の言葉を聞いて、乃亜の心は凍りついた。
それでも、なんとか平静を装いながら言った。
「もし私が指示したというのなら、紗希を解放して。代わりに私が警察に行く」
凌央が本気で動けば、親友の小さなデザイン事務所などあっという間に潰されてしまう。紗希の夢が詰まった事務所を守るためなら、乃亜は何でもする覚悟だった。
凌央は冷たく笑いながら答えた。
「いいだろう。乃亜の言う通りにしてやる」
そう言うと、スマホを祐史に投げ渡した。
「彼女を解放しろ。そして、乃亜を警察に連れて行け」
電話越しにその言葉を聞いた紗希は慌てて言った。
「乃亜は昨日事故に遭って、まだ病院で横になっているのよ!警察に連れて行くなんて無理!」
本当なら、乃亜が妊娠していることを凌央に伝えるつもりだった。だが、今はそんな気すら失せていた。
こんな最低な男に乃亜の妊娠を知られたら、きっと無理やり子供を堕ろさせようとするに違いない。
第4話
凌央は唇を軽く引き結び、深い黒い瞳で紗希を見つめた。
「彼女、本当に事故に遭ったのか?」
ふと、昨日の夜に乃亜からかかってきた電話を思い出した。
もしそれが本当だったら......
ちょうどその時、病室の扉が開き、冷ややかな雰囲気をまとった乃亜が中に入ってきた。
美咲は彼女の姿を見ると、ほんの一瞬、冷たい光を目に浮かべたが、すぐに柔らかな表情に切り替え、慌てた様子で声をかけた。
「乃亜さん、事故に遭ったって聞いたけど、大丈夫なの?どこか怪我してない?ひどくない?」
まるで本当に心配しているかのような口調だった。
凌央の視線が鋭くなった。
どうやら彼女と紗希が組んで、自分を騙そうとしているらしい。
乃亜は一歩前に進み、紗希を背中に隠すようにして立つと、静かな声で言った。
「ここは私に任せて。先に帰って」
紗希は慌てて反論するように言った。
「本当に何もしてない!彼女が自分で自分を叩いただけなの!」
しかし乃亜はそれを遮るように、「分かってるから、先に帰って」と冷静に答えた。
凌央が何を考えているのかまだ掴めない以上、ここに紗希がいるのは危険だった。
紗希は唇を噛みしめ、涙を浮かべながらも病室を出て行った。
祐史も凌央を一瞥してから病室を後にした。
病室にはすぐに3人だけが残された。
乃亜はベッドのそばに歩み寄り、美咲を見下ろすと、冷たい声で言った。
「叩かれたって聞いたけど、怪我はどれくらいひどいの?ちゃんと診断は受けた?」
美咲の顔にはうっすらと指の跡が残っていたが、診断書を取るほどではなかった。
美咲は唇を噛みしめ、困ったような表情を浮かべながら、弱々しい声で答えた。
「見えないところを叩かれたから、診断なんてできないの。乃亜が信じてくれないなら、それでいいわ......」
「お前、バカなのか?叩かれたなら叩かれたって言え!万が一、何かあったらどうするんだ!」凌央は声を荒げて美咲を叱った。
美咲の目に涙が浮かび、すぐにぽろぽろとこぼれそうになった。
「だって、私のことであなたと乃亜が喧嘩するのが嫌だったの。それに、特に体に異常がなかったから言わなかっただけよ」
凌央の顔がさらに険しくなった。
「自分のこともちゃんと把握できないくせに、人のことに口を挟むな。お前、本当にどうかしてる」
言葉は冷たかったが、どこか親しげなニュアンスがあった。
乃亜はその場に立ち尽くしたままだった。
本来なら自分が彼と最も近い存在であるはずなのに、この瞬間、自分がただの傍観者でしかないように感じられた。
まるで、彼女がかつて久遠家で感じた疎外感と同じだった。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
美咲は凌央を軽く睨むと、ふてくされたように言った。
「あなたと乃亜の仲が悪いから、私だって気分が悪くなるのよ!あなたが機嫌悪そうにしてたら、こっちだって気分悪くなる!だから私が気にするのは当然でしょ?」
「相変わらず屁理屈ばっかりだな」凌央は不機嫌そうに顔をしかめ、「俺のことはもう放っておけ」と低い声で言い放った。
「誰が放っておくもんですか!」美咲はぷいっと顔を背け、そっぽを向いた。
凌央は彼女を一瞥すると、「医者を呼んで診てもらえ」と言い、呼び出しボタンを押した。
乃亜は心の中で深呼吸し、胸に押し寄せる痛みを必死で押し殺した。
彼女は今年の初め、重い病気を患い、半月も入院していたが、その間、凌央が一度も見舞いに来ることはなかった。
その時は彼が仕事で忙しいからだと、自分に言い聞かせていた。
しかし、今目の前にあるこの光景を見て、もはや自分を騙すことなどできなかった。
凌央に時間がなかったわけではない。ただ、相手が美咲でなければ、彼は気にも留めないだけだったのだ。
医者が美咲の診察を始めた頃、凌央は乃亜の手を掴み、病室の外へと連れ出した。
美咲は彼らの背中を見つめながら、布団の下で拳を固く握りしめていた。
病室の外に出たところで、乃亜は凌央の手を振り払い、正面から彼を睨むように立ち、「凌央、話がある」と言った。
「いいだろう。じゃあ、まずは昨日の夜のトレンド報道についてだ」凌央の視線には冷たい光しか宿っていなかった。
3年前に乃亜と結婚したのは仕方なくのことだった。
3年間同じベッドで眠ったとしても、彼女に対して何の感情も芽生えなかった。
乃亜が嫉妬するのは構わない。だが、嫉妬心から美咲を中傷するためにトレンド報道を仕掛けるなど、絶対に許せなかった。
乃亜は美しい眉をきつく寄せ、冷たい声で言い放った。
「何度も言ったよね。あのトレンド報道は私じゃない!やってもいないことを認めるなんて、絶対にできない!」
トレンド報道はすでに抑え込まれ、今ではネットで関連キーワードを検索しても何も出てこない。
それなのに、凌央はまだその話を蒸し返している。
いくらなんでも理不尽じゃないだろうか。
「俺が決めたことは絶対に変えない。お前に半日やる。今日の仕事が終わるまでに、答えを出せ」
凌央の口調は冷たく断固としていた。同時に、その言葉には「お前が従わなかったとしても、結果は同じだ」という無言の圧力が込められていた。
乃亜は彼の冷たい視線を見つめ返しながら、体中が冷え切るような感覚を覚えた。
「証拠もないのに、私に罪を着せるなんて、さすがにひどすぎない?」
一言一言、乃亜は冷たく言い放ち、その表情は鋭く凍りついていた。
凌央は、なんて冷酷な人なんだろう――そう思わずにはいられなかった。
「美咲はつい最近賞を取ったばかりだ。どんな悪いニュースでも彼女にとっては致命的だ。この件はもう決まった」
乃亜は突然笑みを浮かべた。
「美咲を守るために、私を犠牲にするのね。凌央、あなたは私がどうなるか考えたことはある?」
彼がそんなことを考えたことなど、一度もないに違いない。
そうでなければ、こんなことを口にするはずがない。
凌央は唇をきつく引き結び、「毎月200万円の小遣いを渡してるのに、それでも足りないのか?それなのに外で働きたがる理由は何だ。この機会に仕事を辞めて、家で俺の世話をしてくれ」
その言葉に、乃亜の顔が少し青ざめた。しかし、すぐにしっかりとした声で言い返した。
「あなたがくれる200万円は、全て家の出費に使っている。私自身はあなたのお金を使ったことなんてない。それに、私は今の仕事が好きで、辞めるつもりなんて全くない。もし、私の仕事のせいであなたの世話が足りないと感じるなら、家政婦をもっと雇えばいいだけ」
凌央が毎月渡してくる200万円。それがあるのは確かだ。だが、家の維持費は高額で、その額では到底足りない。
さらに、彼女の給料の大半は祖母の入院費に消えている。
もし仕事を辞めてしまえば、月200万円の家計費では祖母の治療費すら支払えなくなる。
そんな状況で、どうして仕事を辞めるなんて選択肢があるだろうか。
凌央は彼女を壁際に追い詰め、顔を近づけながら冷たく言い放った。
「俺が結婚したのは、全力で俺の世話をしてもらうためだ。家政婦に任せるくらいなら、お前を嫁に迎えたりしない。小遣いが足りないなら、今月もう200万円渡してやる」
その言葉は、乃亜にとって、まるで施しのように聞こえた。
彼女の心には、言いようのない悲しみが広がった。
結婚して3年。凌央は一度たりとも彼女を妻として見てくれたことがなかったのではないだろうか。
彼女はこの家の一員ではなく、ただの付属品。
彼にとって、単なるストレス発散の相手でしかないのだろう。
「仕事を辞めたら、暇な時間に他の奥様たちとお茶でもして、仲良くなればいい。それで今後の付き合いも楽になるだろう」
凌央の中では、上流階級の奥様たちは皆そんな風に時間を過ごしているというイメージがあった。
だから乃亜もその輪に加わるべきだと、彼は考えているのだろう。
乃亜は深く息を吸い込み、ゆっくりとした声で問いかけた。
「どうして美咲には、蓮見家の兄嫁として家でじっとしていろと言わないの?」
美咲は凌央の兄と結婚している。それでも彼女は外で活動を続け、いろいろな大会に出場している。
目立つのがいけないなら、美咲の方がその典型ではないのか。
「お前と美咲は違う」
凌央は彼女をじっと見つめ、冷たく言葉を続けた。
「美咲には彼女だけの舞台がある。彼女はステージで輝ける人間だ。でも、お前の仕事なんてただの仕事だ。やってもやらなくても、何も変わらない。だから、お前は蓮見家の妻としての役割に専念するべきだ」
彼は乃亜の顎を掴み、少し持ち上げると、彼女の瞳をまっすぐに見据えた。
第5話
乃亜は凌央の目をじっと見つめ、しばらく黙ったままだった。そして、笑みを浮かべながら静かに言った。
「私を犠牲にして美咲を守る?そんなこと、絶対にさせない。それと、凌央、私はもう離婚を決めたわ。都合がつく時に市役所へ行きましょう。手続きなんてすぐ終わるはずだから」
その笑顔がどれほど明るく見えようとも、心の中は張り裂けそうなほど痛んでいた。
彼女はずっと知っていた。凌央が美咲をひいきしていることを。
ただ、ここまで露骨だとは思っていなかった。
美咲に自分を踏み台にさせる?そんなこと、絶対に許さない。
「離婚したいなら、まず美咲のトレンド報道の件を片付けてもらう。それが終われば、俺は喜んで離婚してやる。でも、もし俺が動くことになったら、ただの釈明で済むと思うなよ」
凌央は苛立ちを隠すことなく冷たい声で言い放った。
彼にとって、乃亜が離婚を言い出したのは、ただの注目を引くための手段に過ぎないと考えていた。
本気で彼女が離婚を望んでいるとは、到底信じられなかった。
そもそも、当時彼と結婚するためにあれだけ手段を尽くしたのは乃亜自身だった。
さらに、この3年間、彼女はひたすら自分を低く見せて、彼に尽くしてきた。
そんな人間が簡単に「出て行く」なんてできるはずがない――そう思っていた。
乃亜は心の中で何かを諦めたように小さく頷き、「分かった。約束する。でも、さっき言った通り、紗希の件も、ここで一旦終わりにして」と落ち着いた声で答えた。
どうせ自分がどうしようと結果が変わらないのなら、せめて自分の手で少しでも被害を軽くしたかった。
凌央は乃亜の感情のない瞳と向き合うと、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。
だが、その感覚をすぐに振り払って、平然とした表情に戻った。
彼にとって、乃亜の「離婚したい」という言葉など、ただの虚勢に過ぎないと思っていた。
どうせすぐに彼の元へ戻り、頭を下げてくるだろう――そう確信していた。
「じゃあ、結果を待っている」
その一言を残して凌央は病室のドアを開け、中へと入って行った。
その圧迫感がようやく消え、乃亜は全身の力が抜けるのを感じた。
壁に両手をついて、何度も深呼吸を繰り返す。
凌央が離婚を承諾した――本来なら喜ぶべきことのはずだった。
だが、心臓が痛むばかりで、喜びなど一切湧いてこなかった。
ようやく気持ちを落ち着けた乃亜は、服を整え、その場を後にしようとした。
だが、何気なく目をやった病室の扉の隙間から、凌央が美咲に身を屈めてキスをしているのが見えた。
その光景は、まるで映画の一場面のように温かく、ロマンチックだった。
乃亜の目には、瞬く間に涙が浮かび、手を強く握りしめた。
9年愛した男だった。
たとえ離婚を言い出したとしても、その愛を簡単に切り捨てられるわけがなかった。
その時、スマホの着信音が鳴り響いた。
乃亜は気持ちを切り替えるように息を整え、画面を見ると、それは彼女のアシスタントである石川咲良からの電話だった。
「乃亜さん、今日の午前10時に離婚裁判の予定があります。念のためお伝えしておきます」
「分かったわ。すぐに法律事務所に向かう」
電話を切った乃亜は、一度も振り返ることなくその場を立ち去った。
この業界の男たちは大抵、外に愛人を何人も囲っているものだ。だが、凌央にはその気はなかった。
彼が求めているのはただ一人、乃亜だけ。
それは、乃亜が美しいだけでなく、柔らかい身体と人を魅了させる何かを持っていたからだろう。
さらに、2人の相性は抜群で、彼女との夜はいつも彼を満足させるものだった。
他の女に目を向ける必要など、一度も感じたことはなかった。
美咲は瞬間的に目を赤くし、泣きそうな顔で訴えた。
「私、乃亜さんにちょっかいなんて出してないのに......」
一体あの女が凌央に何を言ったのか。美咲の胸には焦りと怒りが渦巻いていた。
凌央は眉間に皺を寄せたまま、何も言わずに黙り込む。
彼が信じたのか信じていないのか、美咲には分からない。胸の中で不安が膨らむばかりだった。
その頃、乃亜は法律事務所で一日中、忙しく働いていた。
午後、そろそろ退勤時間に近づいた頃、蓮見家の祖父から電話がかかってきた。
乃亜は手を止めて電話を取った。
「乃亜、今夜家に帰っておいで。お前の好きな料理を台所に用意させたからな」
祖父の力強い声が電話越しに伝わり、乃亜の胸にじんわりと温かさが広がった。
蓮見家の中で、唯一彼女を家族として心から受け入れ、可愛がってくれるのは祖父だけだった。
もし離婚してしまえば、もう二度とこんな風に話すこともなくなるだろう。
「おじいさま、すみません。今夜は裁判資料を整理しないといけなくて、明日の法廷で使うんです。それで、今日は帰れそうにありません......」
離婚を決めた以上、祖父とも徐々に距離を置かなければならない。
「そんな理由は聞きたくない。ドライバーを迎えに行かせるから、必ず来い!」
祖父は怒ったふりをして声を荒げた。
「まさか、私が年寄りだから嫌なのか?一緒に食事をするのがそんなに嫌なのか?」
慌てて乃亜は答えた。
「すぐ準備して向かいます」
祖父は年を取ってから、一人で食事をすることが多くなった。周りにどれだけ使用人がいても、それは変わらない孤独なのだ。
乃亜はこれまで、時間が許す限り祖父と一緒に食事をし、話し相手にもなってきた。
たとえ離婚することが決まっていても、祖父を傷つけるようなことはしたくなかった。
「よし、ではドライバーを向かわせる。今夜は一緒に一杯飲もうじゃないか」
祖父は満足そうな声を残し、電話を切った。
乃亜は眉間を押さえ、再び仕事に集中した。
迎えが来るなら、慌てて出る必要もない。
30分ほど経った頃、再び祖父から電話がかかってきた。
「おじいさま?」
「乃亜、早く下に降りて来なさい。ドライバーはもう着いてるぞ!」
電話を切った乃亜は、急いでデスクを片付け、バッグを持って外に出た。
法律事務所の玄関を出ると、目に飛び込んできたのは凌央のベンテイガだった。
一瞬、乃亜は足を止めた。
今朝、病院で彼と険悪な雰囲気になったことを思い出し、同じ車に乗るのは気が引けた。
断ろうと口を開きかけた瞬間、凌央の苛立った声が飛んできた。
「じいさんが迎えに行けって言ったんだ。さっさと乗れ」
言葉には苛立ちが滲んでいた。
元々、乃亜に対して忍耐などほとんどない彼だが、祖父に言われて仕方なく迎えに来たという不満がさらに加わっていた。
乃亜は唇を軽く噛み、気持ちを抑えながら車のドアを開け、急いで乗り込んだ。
その動きはとても素早く、まるで誰かに見られるのを恐れているかのようだった。
事務所の人たちは噂好きで、彼女が高級車に乗るところを見られたら、何を言われるか分からない。
普段なら気にしないが、避けられる噂なら避けたかった。
凌央は目を細め、なぜか胸の奥に苛立ちを覚えた。
そんなに自分との関係を隠したいのか?
車に乗った乃亜は、窓側に体を寄せ、凌央からできる限り距離を取るように座った。
凌央の眉間がわずかに動いた。
いつもなら彼を見ると嬉しそうに寄り添ってくる彼女が、今日はやけに遠い。
乃亜は考え事に夢中で、凌央の様子には全く気付かなかった。
その時、車が急カーブを切った。
不意の動きに、乃亜は身を支えきれず、凌央の方へ倒れ込んだ。
柔らかな身体が彼の胸に当たり、彼女から漂う甘い香りが鼻をくすぐる。
その瞬間、凌央の身体は反応してしまい、思わず低い声を漏らした。
第6話
祐史はその声を聞くなり、素早く車内の仕切り板を上げた。
凌央は腕の中の女性をじっと見つめ、まるで何かに取り憑かれたように、彼女の唇にそっと口づけをした。
だが、乃亜の脳裏には、今日病院で見た、凌央が美咲にキスをしていた光景がフラッシュバックした。
胸の奥からムカムカするものがこみ上げ、彼女は思わず凌央を押し返し、口を押さえてえずき始めた。
その音を聞いた瞬間、凌央の表情がみるみる険しくなった。
「乃亜、お前、どういうつもりだ!」
俺がキスしたのに、吐き気を催すなんてどういう意味だ?
乃亜は急いでティッシュを取り出し、口元を拭いながら顔を上げた。
その瞳は赤く潤んでいて、涙を堪えているようにも見える。
「私たち、もう離婚するのよ。こんなこと、もうやめましょう」
彼女の声は静かだったが、その言葉には微かな痛みが滲んでいた。
凌央は彼女の顎を掴み、顔を無理やり上げさせると、冷たい声で言い放った。
「お前が約束したことをまだ果たせていないだろう?離婚の話はそれからだ」
乃亜は目の前にいる凌央の完璧な顔立ちをじっと見つめ、小さく笑った。
「明日の朝までには、ちゃんと片付けるわ」
凌央がこんなにも美咲の名誉回復にこだわるのは、彼女に受賞歴があり、ステージで輝く存在だからだろう。
それに比べて、自分はどうだろうか。
桜華市で名の知れたトップ離婚弁護士であったとしても、凌央の目には、ただの生活費を稼ぐための『仕事』としか映らない。
だからこそ、彼は自分の状況など一切気にかけないのだ。
「言ったことは、必ず守れよ」
凌央の声には不機嫌さが滲んでいた。この女がここまで強気でいられるのが、なんだか気に障る。
どうせすぐに自分に泣きついてくるだろう――彼はそう確信していた。
「もちろん。私が守らなければ、あなたが手を下すでしょう?それで私に逃げ場なんてある?」
乃亜の胸には、静かな悲しみが広がっていた。それでも、彼女は顔に明るい笑顔を浮かべていた。
結婚して3年――
彼女はずっと凌央に尽くしてきた。
普通なら、どんなに冷たい石でも、ここまで温めればぬくもりを感じるはずだ。
それなのに、彼の心は、いまだに凍りついたままだった。
「分かってるならいい。とにかく、俺の前で余計な真似をするな」
凌央は彼女の笑顔に、なぜか胸の奥で言い知れぬ嫌悪感を抱き、さらに声を荒げた。
「私が蓮見社長と駆け引きするなんて、そんな度胸があると思う?」
乃亜は柔らかく笑いながら返した。
彼女の顔は笑っていたが、その心は血を流していた。
これ以上はもう無理だ――彼女はそう、自分に言い聞かせた。
「それが分かっているならいい」
凌央は鼻を鳴らしながら目を逸らしたが、乃亜の態度には何かしら不快なものを感じていた。
乃亜はそっと顔を窓の外に向けた。窓ガラスに映った凌央の顔が目に入った。
この男は本当に端正な顔立ちをしている――それは誰もが認めるところだろう。
だからこそ、桜華市の多くの女性が彼に夢中になるのも当然のことだ。
だが、どれだけ多くの女性が彼を追いかけても、彼の心には誰一人入り込むことができない。
そんな彼の心を掴んだ美咲を、乃亜は少しだけ羨ましいと思うことがあった。
その時、突然、スマホの着信音が静寂を破った。
凌央がスマホを取り出すと、画面には「美咲」の名前が表示されていた。
背景には、笑顔で映る美咲の写真。
その画面を見た乃亜の胸には、じわりと不快感が広がった。
「どうした?」
凌央は柔らかい声で電話に出た。
「凌央!今夜、一緒にご飯を食べるって約束したでしょ?どうしてまだ来ないの?」
美咲の声は甘く、彼を包み込むような響きを持っていた。
スマホの音量が高かったため、乃亜の耳にもその声がはっきりと聞こえた。
胸の奥に重い棉を詰め込まれたような苦しさを感じ、彼女は視線を窓の外に移した。
道沿いに立ち並ぶ街路樹をぼんやりと見つめながら、乃亜は幼い頃の記憶を思い出した。
6歳まで、彼女もまた両親からたっぷりの愛情を注がれ、幸せに育っていた。
だが、6歳のある日、5歳の妹と一緒に買い物に出かけた際、妹が行方不明になってしまった。
家族総出で探し回ったものの、妹は見つからなかった。
その日を境に、彼女の家庭は地獄と化した。
どれだけ良い成績を取っても、賞状を持ち帰っても、両親は彼女を見ようともしなかった。
彼らの目には、彼女への失望と憎しみしか映っていなかった。
両親が溺愛していた妹を失った責任を、すべて彼女に押し付けていたからだ。
そして、彼女が17歳の時、両親はとうとう妹を探し出したのだった。
彼女は、両親が妹を見つけたことで、自分の人生が少しでも楽になるのではと期待していた。
だが、現実は残酷だった。
両親は、この十数年の埋め合わせをするように、妹をまるで宝石のように扱い、どんな小さな要望でも叶えてあげた。
一方で彼女は、妹の前で罪を償わされる存在にされた。
3年前、あるパーティーに参加した後、彼女はなぜか凌央と同じベッドで目を覚ました。
その後、彼女は彼と結婚することになった。
結婚当初、彼女はこの新しい人生に多くの希望を抱き、凌央のために何ができるかを一生懸命考えた。
しかし、今になって気づいたのだ。
彼との関係は、自分の家族との関係と同じだと――
どんなに自分が優秀であろうと、どれほど努力をしようと、彼らは決して彼女に振り向くことはない。
ましてや、愛されることなどあり得ないのだ。
「じいさんが夕食に戻るように電話してきた。一緒に帰りたいなら迎えを行かせる」
凌央の声は穏やかだった。
「あなたが迎えに来て、一緒に帰ってほしい!」
美咲は電話越しに甘えるように言った。
乃亜は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
愛される人は、こんなにも自信たっぷりでいられるものなのだ。
「迎えを行かせるから、いい子で待っていろ」
凌央の声には、無意識に優しさが滲んでいた。
乃亜は車の窓を開け、風の音を耳に入れた。
風の冷たさと音が、凌央の声を遮り、胸の痛みも少し和らぐような気がした。
凌央は電話を切り、横目で乃亜の横顔を見つめた。
「乃亜、お前、何をしてるんだ!」
こんな寒い日に窓を開けるなんて、顔が冷たくなるだろう――彼は眉をひそめた。
乃亜は窓を閉めると、彼を見つめて静かに言った。
「おじいさまは美咲を嫌っているの。彼女が家に来たら、血圧が上がるかもしれないわ」
彼女には美咲を家に戻るのを阻止する権利などなかった。
ただ、こうして凌央に注意を促すしか方法がなかった。
「それはお前が美咲に会いたくないだけだろう。じいさんを口実に使うな。乃亜、嫉妬もほどほどにしろ」
凌央は冷たく言い放ちながら、再び電話をかけた。
乃亜はそれ以上何も言わず、黙り込んだ。
彼女はただ良かれと思って注意しただけなのに、凌央には嫉妬だと受け取られた。
もう、どうでもいい――そんな気持ちになった。
車内が静まり返る中、凌央は仕事のビデオ会議を始めた。
乃亜は彼に興味を失い、シートに身を預けて目を閉じた。
気づけば、彼女は眠りに落ちていた。
車が蓮見家の本宅に到着した頃、凌央はノートパソコンを閉じ、眉間を揉んでいた。
その時、彼は乃亜が寝ていることに気づき、唇を引き結んだ。
眠る彼女の顔は無防備で、どこか安らかな表情だった。
凌央はふと思い出した。
結婚して3年――彼は一度も彼女の寝顔を見たことがなかったのだ。
夜、どれだけ遅くなり疲れて帰宅しても、彼女は必ずシャワーを浴び、ボディクリームを塗り、顔の手入れを済ませてからベッドに入る。
時には、翌日の裁判資料を整理するために書斎にこもることもあった。
彼が寝たる頃に彼女がベッドに入ることはなく、朝は彼女が早く起きて朝食を用意し、当日の服を準備してアイロンをかけ、ベッドのそばに整えてある。
彼が目を覚ました時には、彼女の寝ていた痕跡はもうないのだ。
凌央は眉間にシワを寄せた。
1日を計算すると、彼女の睡眠時間はたった5時間程度しかない。
あんなにも忙しくしているのに、彼女が専業主婦になることを嫌がった理由が、彼には理解できなかった。
その時、車のドアが外から開き、美咲の甘えた声が耳に飛び込んできた。
「凌央!早く降りてきて、一緒に行きましょう。おじいさまに叱られるのが怖いの!」
そう言いながら彼の腕をつかもうとする。
「ちょっと待て」
凌央は我に返り、彼女の手を振り払うと、自分のジャケットを脱ぎ、乃亜にそっとかけた。
それから車を降りた。
美咲はその様子を見て、目に一瞬、嫉妬の色を浮かべた。
運転手の祐史は、2人の背中を見送りながら心の中で呟いた。
この3年間、凌央は出張やイベントのたびに、乃亜のためにプレゼントを用意するよう指示してきた。
だから、彼にとって乃亜は特別な存在だと思っていた。
だが今、少しだけ疑い始めている。
自分の目が悪くなったのだろうか?
眼科で検査を受けた方がいいかもしれない――祐史はそう考えた。
凌央は乃亜に対して、外の人間と同じくらい冷たい。
一体、どこが違うのだろうか?
その時、執事が慌てた様子で走ってきて、大声で叫んだ。
「奥様!早く降りてきてください!ご主人様が倒れました!」
第7話
「兄嫁と弟がこんなに親密にして、他人の目が気にならないのか?」
祐史は心の中で毒づきながらも、執事を止めようとした。しかし、後部座席を見ると、すでに乃亜がドアを開けて車から降りていた。
執事の言葉から、乃亜はすぐに察した。
おそらく、美咲の登場が原因で、おじいさまが怒りで倒れたのだろうと。
先ほど、凌央に注意を促したのに、彼は彼女の言葉を信じなかった。
そしてこの結果――おじいさまが倒れた今、凌央はどんな気持ちでいるのだろうか。
いや、きっと何も感じていないのだろう。
彼にとって、美咲以外の存在は、どうでもいいのだから。
執事は乃亜の姿を見つけると、慌てた様子で声を張り上げた。
「奥様!早くこちらへ!」
乃亜は足を速めながら、歩きながら執事に質問した。
「家庭医には連絡したの?」
「はい、すでに電話しました。ただ、到着まであと20分ほどかかるそうです」
「窓は開けてある?」
「すべて開けてあります」
乃亜は短く「分かった」と返すと、さらに歩みを速めた。
玄関に入ると、耳に飛び込んできたのは、美咲の小さくか細い泣き声だった。
眉間にわずかに皺を寄せた乃亜は、小声で執事に言った。
「高木さん、高橋さんを部屋に戻して休ませてあげて。おじいさまを邪魔させるわけにはいかないから」
おじいさまが倒れた原因が美咲であることは、明らかだった。
それなのに、彼女がここで泣き崩れている様子は、わざとらしく見え、乃亜の胸には苛立ちが募った。
「承知しました」
執事の高木は足早に奥へと進んでいった。
乃亜は玄関でスリッパに履き替えると、そのままリビングへ向かった。
その頃、高木はすでに美咲のそばに立ち、小声で促していた。
「美咲さん、お疲れでしょう?お部屋で少しお休みになられてはいかがですか」
高木は昔からこの美咲を好ましく思ったことがなかった。
話し方がいちいち甘えたようで、何かと泣きつき、周囲に迷惑をかける存在にしか思えなかったからだ。
美咲は、玄関からゆっくり歩いてくる乃亜の姿に気づくと、無意識に顔を曇らせた。
彼女の凛とした美しさは、どこか嫉妬心を煽るものがあった。
そして、ふと凌央を見ると、彼もまた乃亜をじっと見つめていることに気づき、胸に嫉妬の炎が灯った。
彼女は唇を噛みしめながら、声を震わせるようにして言った。
「すべて私のせいです......おじいさまが倒れたのは、私のせい......本当に申し訳ありません」
そう言いながらも、席を立とうとはしない。
高木は内心呆れながらも、表情には出さず、促すことをためらっていた。
凌央は眉を寄せると、優しい口調で言った。
「とりあえず部屋で休んでおけ。じいさんが目を覚ましたら、また来ればいい」
美咲はようやく席を立ち上がった。
しかし、次の瞬間、彼女の体がふらつき、後ろに倒れそうになった。
「凌央!助けて!」
驚いた声で彼を呼ぶ美咲。
凌央はすぐに駆け寄り、彼女を抱きとめた。その眉間には、険しい皺が深く刻まれている。
「どうしてそんなに不注意なんだ!」
美咲は彼の首に腕を回しながら、小さく言い訳をした。
「ずっと座っていたから、足が痺れて......」
凌央はため息をつきながら、彼女を抱えたまま言った。
「部屋まで運んでいく」
そう言って振り返ると、いつの間にか乃亜が背後に立っていたことに気づいた。
その瞬間、彼の表情は一気に冷たくなり、声を荒げて言った。
「なんだ、歩く音も立てないのか」
乃亜は一歩横に寄り、彼の進む道を譲った。
「あなたが心ここにあらずだったから、私の足音が聞こえなかったのよ」
以前なら、この光景を目にした乃亜は、きっと怒りで爆発していただろう。
凌央に向かって彼女を降ろすように頼んだかもしれない。
だが、今は違う。
離婚を決意した今、どれほど胸が痛もうと、彼女には凌央の行動を止める資格がないのだ。
「乃亜さん、違うの。さっき私ね、足が痺れて転びそうになっただけ。凌央が助けてくれただけなの」
美咲は焦ったように弁解した。まるで乃亜が怒るのを恐れているかのようだった。
乃亜の大きな瞳がわずかに細められ、唇には淡い微笑が浮かんだ。
「誤解なんてしていないわ。あなたたちのこと、私に説明する必要はないの」
その声は穏やかで柔らかく、まるで「今日はいい天気ですね」とでも言うかのようだった。
美咲はその様子に一瞬、戸惑った表情を浮かべた。
乃亜が怒るだろうと予想していたのに、思いもよらず冷静だったからだ。
どういうこと?急に性格でも変わったのかしら?
それとも――おじいさまが目を覚ました時に備えて、わざと芝居をしているのだろうか?
「凌央、私を降ろして。乃亜さん、本当に誤解してるみたいだから......」
美咲は控えめな声でそう言いながら、どこか殊勝な態度を見せた。
凌央は少し眉をひそめ、冷たく言い放った。
「乃亜、お前、いちいち嫌味っぽいことを言うな」
そのまま、美咲を抱えたまま歩き出した。
乃亜は――
いったい何を言ったというのだろう?嫌味と言われるほど、ひどいことを言った覚えはない。
執事の高木はそんな乃亜の様子を見て少し気の毒になり、優しく声をかけた。
「奥様、あまりお気になさらず。さ、ご主人様のご様子を見に行きましょう」
乃亜は小さく頷き、ソファーの方へ向かった。
しかし、ソファーに近づいたその瞬間、それまで意識を失っていたかのように横たわっていたおじいさまが、突然、身を起こしたのだ。
「おじいさま?」
乃亜は思わず驚きの声を上げた。
確かに気を失ったと聞いていた。これはどういうことだろう?
「乃亜、早く座れ。お前と少し話をしたいのだよ!」
おじいさまの声は朗々としており、倒れた人間のそれとは思えないほど元気だった。
「高木、台所へ行って、早く食事の準備を進めさせろ!乃亜も私も腹が減ったからな!」
おじいさまの元気な様子を見て、高木もようやくほっと胸を撫で下ろした。
先ほどは本当に、何か大事になったのではと心配していたのだ。
「会いたくない奴が来たから、仕方なく気絶したふりをしたんだ」
おじいさまは少しも隠そうとせず、淡々と真実を語った。
彼は美咲が嫌いだと、これまでも何度も言葉や態度に表してきた。
この歳まで生きてきて、人を見る目には自信がある彼にとって、美咲のような浅はかな芝居など、通用するわけがなかった。
「どうしても彼女には会いたくなかった。それだけだ」
その言葉に、乃亜は思わず笑ってしまった。
「おじいさま、もうこんなことをしないでくださいよ。心配するじゃないですか!」
胸の奥にあった重いものが少しだけ和らいだ気がした。
おじいさまが無事でよかった――それが乃亜の本音だった。
高木が台所へ急いで行き、すぐに戻ってきた。
「ご主人様、奥様、食事の準備が整いました」
おじいさまは立ち上がると、乃亜の手を取って笑顔で言った。
「乃亜、行こうじゃないか。さっさと食事にしよう!」
乃亜はおじいさまに寄り添いながら、優しい声で尋ねた。
「最近、体調はどうですか?高血圧のお薬はきちんと飲んでいますか?」
おじいさまは笑顔を浮かべながら答えた。
「乃亜、安心しなさい。お前と凌央の子供が生まれるまでは、死ぬわけにはいかないからな!」
乃亜は少し眉を寄せ、不機嫌そうに言った。
「おじいさま、そんなことを言わないでください。長生きしてくださいね」
その様子に、おじいさまもまた微笑みながら冗談めかして言った。
「お前と凌央の子供が生まれる日まで生きていれば、それで十分だ。それ以上長生きしても、鬱陶しいだけだろう?」
乃亜はおじいさまの手を優しく握りしめながら、柔らかい声で言った。
「もしおじいさまがいなくなったら、私を大切にしてくれる人が、この世からいなくなってしまいます」
その言葉に、おじいさまは一瞬、胸が締め付けられるような気持ちを抱いた。
「分かったよ。じゃあ、長生きしてやろう」
「それなら、ちゃんと薬を飲んで、しっかりご飯も食べて、絶対に怒らないでくださいね!」
乃亜は一気にそう言うと、おじいさまの手を引いて立ち上がらせた。
「さ、まずはご飯にしましょう!」
二人がテーブルについたその時、蓮見凌央が部屋に入ってきた。
楽しそうに話している二人の姿を見て、凌央は眉を少し寄せた。
「おじいさま、そんな歳になって気絶したふりなんて......」
おじいさまの体調を心配していた凌央にとって、これは少々気に食わない展開だった。
おじいさまは、そんな凌央をじろりと睨み、冷たく言い放った。
「会いたくないと言っているのに、なぜあの女を連れてきたんだ?見ているだけでイライラする!」
凌央は軽く肩をすくめて反論した。
「美咲だって、おじいさまの孫嫁です。乃亜が来られるなら、彼女にもその資格があるでしょう」
第8話
おじいさまは、その場で倒れそうなほど怒りを露わにしていた。
凌央は、商界では切れ者として知られ、手腕も評価されている人物だ。
だが、美咲の話題になると、まるで知性を家に置いてきたかのような態度を取る。
乃亜は淡々とした表情を崩さず、おじいさまのためにそっとスープをよそい、静かに目の前に差し出した。
「おじいさま、スープをどうぞ」
その柔らかい声に促され、おじいさまはスープを手に取り、一口飲んだ。
怒りに燃えていた心が少しずつ落ち着いていくようだった。
スープを置いたおじいさまは、鋭い眼差しを凌央に向け、重々しい声で口を開いた。
「お前がそう聞くなら、はっきり言ってやろう」
「乃亜はな、ここへ来るたび、私のために料理をしてくれるんだ。私が何を好むかもよく知っていてな。魚を出すときには、骨を一つ残さず取ってくれる。乃亜の気配りは、実に見事なものだ」
「だが、あの女はどうだ?毎回ソファーにどっかり座り込んで、まるで奥様としての威厳を見せつけるかのように振る舞い、家の召使いを使い放題だ。召使いがみんな彼女の世話をしていたら、私の面倒を見てくれる人がいなくなるじゃないか!」
おじいさまの声は怒りに震え、表情も険しさを増していった。
同じ名家で育った娘でも、こうも違うものか――その落胆が表れていた。
「家には専属の料理人がいるんだから、わざわざ自分で料理をする必要なんてない。それに、召使いは主人の世話をするためにいるんです。美咲は昔から繊細な性格だから、どうしても人に助けてもらわないといけないんですよ」
凌央は、淡々と反論しながら、ちらりと乃亜に目を向けた。
彼女はいつも隙がない。
仕事へ行く時にはきっちりとしたスーツ姿、帰宅後も端正なセットアップに身を包み、どんな時でも「蓮見家の妻」としての体裁を守っている。
だが、それがどこか無味乾燥で、彼にとって物足りなさを感じさせるのだ。
3年前、おじいさまの強い勧めで結婚することになった彼女。
だが、その生活には、どこか「熱」が欠けていた。
乃亜は視線を落としながらスープを飲む。
彼女の手は、微かに震えていた。
凌央の目には、彼女がどれだけ努力しても、それが「無意味」なものに映っているのだろう。
仕事をすれば「ただの仕事だ」と言われ、料理をすれば「料理人がいる」と片付けられる。
それでも、凌央は3年間、乃亜の手料理を食べ続けてきた――
これ以上ないほどの皮肉だった。
おじいさまの声が、再び部屋に響いた。
「お前の兄が亡くなった時、彼女は再婚せず、そのまま残った。今の立場では、お前の兄嫁だ。お前が守るべきは、自分の妻であって、兄嫁じゃない!」
おじいさまの声には苛立ちがこもっており、その熱量が空気を震わせた。
「彼女は妊娠している」
凌央は静かな声で答えた。
兄が亡くなった今、自分には彼女を守る義務がある。
幼い頃、美咲は凌央の命の恩人でもあった。
だからこそ、彼女とその子供を守らなければならない――それが彼の中の「責任感」だった。
「凌央......」
おじいさまはその言葉に詰まり、突然、激しく咳き込んだ。
「おじいさま、大丈夫ですか?」
乃亜はすぐに立ち上がり、おじいさまの背中を優しくさすりながら言った。
「あまり怒らないでください。体によくありませんよ」
彼女のその穏やかな声は、まるで先ほどの会話が彼女の心に響いていないかのようだった。
おじいさまは涙を浮かべながら、彼女の手をぎゅっと握った。
「乃亜......お前には、本当に申し訳ないことをした......」
3年前、もし自分が二人を無理やり結婚させなければ、乃亜は今、もっと幸せな生活を送っていただろう――そう思うと、胸が締め付けられた。
凌央は何も言わず、険しい顔をしていた。
その表情からは、「不満」の二文字が読み取れる。
乃亜は静かに微笑みながら、優しい声で答えた。
「おじいさまは私を本当の孫のように大切にしてくださっています。それだけで十分です。さ、もうこの話はやめて、ご飯を食べましょう」
以前なら、凌央の言葉に深く傷つき、泣いていたかもしれない。
だが、離婚を決意してから、彼女は自分の心と向き合い、感情の波を抑える術を少しずつ学んでいた。
おじいさまは彼女の微笑みを見つめながら、どこか不安を覚えた。
「乃亜、さ、席について食事を始めよう。私はもう大丈夫だ」
だが、その心の中では決めていた。
美咲の妊娠の件は、乃亜にとって間違いなく辛いものだ。
だからこそ、この問題をきちんと解決しなければならない――
乃亜は言われるがまま席に座り、静かに食事を続けていた。所作は終始優雅で、まさに大家の令嬢といった雰囲気だった。
しかし凌央には、それがどうしても物足りなく感じられた。
目の前の彼女はまるで白湯――味も香りもない、ただの水のようだ。
食事を終えると、おじいさまが二人を散歩に誘った。
庭園を歩きながら、おじいさまは乃亜の手を凌央の手にそっと重ね、真剣な表情で語りかけた。
「私の願いは、お前たちが手を取り合い、一生添い遂げることだ。ここで私に約束しなさい。どんなことがあっても決して離れない、離婚なんてもってのほかだぞ」
凌央は眉をわずかに上げ、乃亜を見つめると、唇の端に薄い笑みを浮かべた。
――結局、おじいさまを味方につけようとしたか。
自分の前では強気に離婚を宣言していたくせに、どうせ本音では離婚なんて望んでいないのだろう。
一方、乃亜は凌央をちらりと見たが、何も言わなかった。
彼女は既に離婚を決意しており、おじいさまの前で嘘の約束をすることだけは避けたかった。
彼を騙すような真似はしたくなかったのだ。
二人が揃って黙り込む様子に、おじいさまはますます苛立ち、声を荒げた。
「お前たち、もしかして本当に離婚の話をしているのか!」
最近、凌央がネットや雑誌で騒がれていることを、おじいさまも知っていた。
彼は心の中で思う。
もし自分が乃亜の立場だったとしても、離婚を考えるだろう、と。
だがそれでも、おじいさまはわがままにも、乃亜にここに留まってほしいと願っていた。
「約束します。一生乃亜と共に生きる。離婚なんて、絶対にしません」
おじいさまが怒り始めたことで、凌央はすぐに誓いを立てた。
たとえ彼女がどれほど味気なく感じられようとも、妻を替えるつもりなどなかった。それは習慣のようなものだったのだ。
その言葉を聞いて、乃亜はふと彼を見上げた。
ぼんやりとした街灯の光に照らされる彼の瞳は、どこか優しさを湛えているように見えた。
その瞬間、彼女の心の中に、もう一度彼とやり直してみようかという思いが湧き上がった。
もしそれでもうまくいかなかったとしても、後悔することはないだろう――そう思えたのだ。
彼女はそっと小さく頷いた。
おじいさまはその様子を見て、安堵の表情を浮かべた。
「凌央、お前は今、約束をしたんだ。その言葉を必ず守るんだぞ!外は寒いから、私は部屋に戻るとする。お前たちは手を繋いだまま、もう少し歩いてこい」
おじいさまは執事の助けを借りながら、部屋へと戻っていった。
庭園には二人だけが残された。
乃亜は首を少し傾け、凌央を見上げた。
「美咲の件、私がまだ解決しないといけないの?」
彼女の小さな手が、凌央の大きな掌に包み込まれている。
その柔らかな感触に、凌央は思わず彼女の美しい切れ長の艶やかな目を見つめ返していた。
彼女の視線が自分に絡みついた瞬間、理性とは別の部分が反応を始めていた。
力強く彼女の手を引き、自分の腕の中に引き寄せる。
そのまま彼女の顔に近づき、唇を重ねた。
「今解決するべきなのは、俺の問題だ」
彼の低い声は、甘い毒のように響く。
夜の静けさに溶け込み、彼女の心をかき乱す。
二人の体はぴたりと密着し、乃亜は彼の体温を感じながら、明らかな変化に気づいていた。
頬が熱を帯び、小さな声で抗議する。
「凌央、ここは庭園よ!」
その声には、彼女自身の不安や羞恥心がにじんでいた。
しかし、彼は耳元でささやいた。
「おじいさまがここには誰も来るなと命じている。だから、乃亜、誰にも見られない」
彼の唇が彼女の耳朶を甘く噛みながら、手が彼女の体を撫でる。
「ほら、もう濡れてるだろう。俺が欲しいんだ」
彼の低く引き伸ばされた声に、乃亜の体は彼に完全に支配されつつあった。
「凌央、ここでは......だめ......」
彼女はスカートの裾を懸命に掴み、彼の手を制しようとする。
どれだけ彼が「誰にも見られない」と言おうとも、ここは庭園だ――その理性だけが、彼女を何とか踏みとどまらせていた。
しかし、彼はさらに甘く囁く。
「乃亜、外でするのはどんな感じか、試したくないのか?」
その声の尾に込められた色香は、彼女の心をぐらつかせる。
乃亜の瞳は欲望に染まり、潤んだ視線を彼に向けた。
「凌央......そんな......」
その声はあまりにも甘く、彼女自身も気づかぬうちに彼を誘っているかのようだった。
第9話
凌央は乃亜の微かに震えた声に心を奪われ、両手で彼女の腰を引き寄せると、さらに自分の胸元へと押し込んだ。まるで彼女を自分の身体に閉じ込めたいかのようだった。
「乃亜、お前も俺を求めてるんだろ?ほら、『旦那様』って呼んでみろ」
二人は結婚してから三年。ほぼ一日おきに肌を重ねてきた。どうすれば乃亜が喜ぶのか、どうすれば彼女が最も快感を得られるのか――凌央はその全てを熟知している。
だからこそ、彼は短時間で彼女をその気にさせ、さらには自ら求めるよう仕向けることができる。
ここ数日はお預けを食らっていた凌央にとって、彼女への欲求は限界を超えていた。
ましてや目の前には柔らかな彼女がいる。この瞬間を逃すはずがない――いや、逃したくなかった。
乃亜は唇を噛み締め、羞恥心を必死に抑えていた。
冷たくて上品に見える凌央の裏の顔を知っているのは彼女だけ。特に、ベッドの上では彼がわざと彼女を焦らし、彼のことを呼ばせようとする意地悪な趣味があることも知っていた。
だが、ここは蓮見家の庭園だ。たとえ使用人がいなくても、万が一声が漏れたら――その想像だけで羞恥心に打ちのめされそうだった。
凌央は彼女を呼ばせたい一心で、彼女の敏感な部分を指先で優しく弄り始め、耳元で甘く囁いた。
「いい子だ。『旦那様』って言ってみろ」
「ほら、奥様、呼んでみなよ」
今この瞬間、凌央が欲するのはただ一つ――彼女を完全に征服すること。
目の前の妖精のような彼女を支配することで、彼自身も満たされていく。
彼女の体に走る熱を感じ取った瞬間、乃亜は震えながらも、ついに抵抗を諦めた。
「......旦那様......」
恥ずかしさに頬を染めながら発せられたその言葉は、彼の欲望をさらに煽り立てるものだった。
凌央の瞳に情欲が宿り、彼の手は彼女のスカートをまくり上げる。
次に起こること――二人の間には暗黙の了解があった。
乃亜は彼の熱い手に触れられるたびに、自らの体温が上がっていくのを感じた。顔を赤らめながら彼の胸元に顔を埋め、彼の存在を心から感じていた。
――もしかしたら、自分は凌央のことを誤解していたのかもしれない。
彼が美咲に特別な感情を抱いているのでは――そんな不安がふと消えたように思えた。
やはり、自分が妊娠していることを凌央に伝えるべきだろうか。
彼は子どもの父親なのだから、そのことを知る権利があるはず――
そんな思いに駆られていた、その時――
二階の窓から、美咲が庭園の二人をじっと見つめていた。
拳を握り締め、爪が肉に食い込むほどだった。
――凌央がどうして乃亜なんかを愛せるの?
憎しみが目に宿り、彼女は携帯を手に取り、凌央に電話をかけた。
突然、携帯電話の着信音が響き、二人の甘い空気を一瞬にして打ち壊した。
凌央は彼女のスカートで手を拭きながらポケットからスマートフォンを取り出した。
画面に映る名前――美咲。
それを見た乃亜は、思わず拳を握り締めた。
――また彼女?
「どうした?」
凌央の声が耳に届いた。低くかすれたその声は、さっきまでの情熱をそのままに、色気を漂わせていた。
もし以前の自分だったら、そんな彼に胸をときめかせていたことだろう。
だが今の彼女は――喉に刺さった棘のような苦しさしか感じなかった。
「わかった、すぐ行く。そこで待っていろ」
凌央は急いだ様子で通話を終えると、乃亜に冷静な表情を向けた。
「美咲が腹痛を訴えている。病院まで連れていくから、お前はもう部屋で休め」
そう言い残し、凌央は振り返ることなく立ち去った。
乃亜を見向きもせずに去る凌央の背中は、まるで彼女の存在など最初からなかったかのように遠ざかっていった。
彼女は全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
――美咲が腹痛を訴えただけで、彼は私を置き去りにするのね。
彼にとって一番大切なのは、やはり美咲――その事実が胸に突き刺さる。
木にもたれかかりながら、乃亜は深く息を吐いた。
――もう、やり直す気にはなれない。
妊娠の事実を彼に伝えるべきか悩んでいたが、もうその必要はない――そう心に決めた。
彼女は静かに立ち上がり、屋敷の中に戻るため、足を引きずるようにして歩き出した。
ちょうど玄関先に差し掛かった時、凌央が美咲を抱きかかえて急ぎ足で外に出るところだった――
乃亜は足を止め、凌央の腕に抱えられた美咲に視線を向けた。「彼女、どうしたの?」
美咲が何か言えば、凌央はすぐに駆けつける。それに比べて、あの夜、彼女が命がけで助けを求めた電話は、嘘だと一蹴された。
やはり、愛される者は何をしても特権を持っている。
「乃亜、余計なことを言うな!もし彼女に何かあったら、その責任を取れるのか!」
凌央の冷たい声には鋭い圧力が込められていた。
乃亜は考えた。凌央が美咲に話しかけるときは、いつも穏やかで優しい。だが、自分に向ける言葉には冷たさしかない。この差は一体何なのだろう。
「家には運転手がいるんだから、運転手に病院まで送らせればいいだろう。昨日はあれだけ騒いでトレンド入りしたばかりなのに、またニュースになるつもりか?凌央、お前は昨日、乃亜と一生添い遂げると約束したじゃないか。それはちゃんと守ってもらうぞ!」
おじいさま力強い声が響き、乃亜はその声を聞いてようやく気づいた。凌央のすぐ後ろにおじいさまが立ち、鋭い眼差しを浮かべていた。
美咲はその言葉を聞くと、ショックで目の前が暗くなる思いだった。
――凌央が老いぼれに、乃亜と一生添い遂げるなんて約束をしたですって?そんなのあり得ない!
凌央の冷たい視線が乃亜に向けられ、おじいさまの言葉には一切答えず、彼女にこう尋ねた。
「昨日のトレンド入りについて、説明はないのか?」
凌央は、乃亜がおじいさまに告げ口をしたのだと決めつけていた。
乃亜は胸が締めつけられるような痛みを感じ、皮肉めいた笑みを浮かべながら答えた。
「美咲に説明してもらえばいいでしょう」
トレンド入りを仕掛けたのは自分ではない。説明しろと言われても、事実を捻じ曲げるしかないではないか。
「乃亜、その言い方は何?まさか私がトレンド入りを仕組んだと思っているの?」
美咲は凌央の腕の中から顔をのぞかせ、涙で赤くなった目で乃亜を見つめた。その表情には驚きと悲しみが浮かんでいる。
「私がそんなこと言いました?でも、あなたがそう思うなら、それは私にはどうしようもないことね」
乃亜は淡々とした表情を崩さずに答えた。
自分がやったことを他人に押し付けて、まるで自分は何も知らないように装う――本当に演技派だ。こんな才能、俳優でも目指せばいいのに。きっと大きな賞をもらえるだろう。
「乃亜、お前、俺との約束を忘れたのか?」
凌央の鋭い視線が彼女に突き刺さる。その眼差しには威圧感すらあった。
「トレンド入りの件は私が何とかする!お前たちは黙っていろ!」
おじいさまが強い口調で言い放つと、凌央を厳しく睨みつけた。
「運転手に彼女を病院に送らせろ。そしてお前はすぐに書斎に来い!話がある!」
そう言いながら、おじいさまは乃亜の手を引き、家の中へと向かった。
凌央は唇を引き結んだ。
おじいさまが「トレンド入りの件は自分が解決する」と言った以上、もう誰も何も言えない。
――やっぱり乃亜は、いつもながら計算高くて、手際がいい女だ。
美咲は涙を浮かべながら、凌央の胸に顔を埋めて「凌央、もう下ろして。自分で病院に行くから。これ以上、おじいさまを怒らせたくないの」
その声には、彼女なりの狡猾さが潜んでいた。
彼女は以前から、おじいさまが仮病を使って凌央を追い払おうとしていることを知っていた。心の中でおじいさまを何度も罵りながら、表情には出さずに過ごしてきた。
――この老いぼれ、早く死んでくれればいいのに。
凌央は眉を寄せ、冷たい声で言った。
「お前は妊婦なんだ。感情を安定させて、泣き言を言うな」
凌央自身もおじいさまが美咲を嫌う理由が分からなかった。美咲を見るのが嫌すぎて、わざと倒れたフリをするほどとは――
「おじいさまはあまりにも偏見がひどいわ!悪いのは乃亜さんなのに、どうして彼女を庇うの?」
美咲は悔しそうに顔を歪めた。
凌央は美咲を見下ろし、静かに言った。
「そんなにしゃべれるなら、もう腹は痛くないんだろ?」
彼の言葉に美咲は慌てたように再び顔をしかめ、大声で言った。
「痛いわ、凌央!お腹が痛くて死にそうよ!早く病院に連れて行って!」
その演技のような様子に乃亜が口を開く。「凌央、おじいさまが早く来てって!」