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愛の最果て
結婚3周年の記念日。夫に3年間、公然と想いを寄せ続けた女が、SNSで惚気た。
Chương (1)
第1章
結婚3周年の記念日。夫に3年間、公然と想いを寄せ続けた女が、SNSで惚気た。
第1話
私たちが結婚して3周年を迎えた、その日のことだった。
夫への3年間の片思いを公言してはばからない桑島優子(クワシマ ユウコ)が、SNSに一枚の写真を投稿した。
【世界がこれほどまでに私を喜ばせてくれるなんて、あなたが現れるまで知らなかった】
添えられたライブフォト。その中で彼女は一人の男性の胸に寄りかかり、男の手が彼女の手に重ねられ、その心臓の上に置かれていた。
男の顔は映っていない。けれど、再生された音声は、紛れもなく真田俊(サナダ シュン)のものだった。
【ずっと、そばにいてくれたらいいのに】
【ああ。ずっとそばにいるよ】
私は、たった一言だけコメントした。【どうぞ、お幸せに】と。
間もなく、優子から電話が入り、猫なで声が言い訳を紡ぎ始めた。
「雨宮先輩、俊先輩が記念日をすっぽかしたのは、決してわざとじゃないんです。だから、どうか怒らないでください。ええ、すべて私が悪いんです。罵るなら、この私を罵ってください」
私が一言も返せずにいると、俊がスマホをひったくり、私を怒鳴りつけた。
「雨宮美桜(アマミヤ ミオウ)!なぜそんなに冷血で横暴なんだ。優子がどれだけ物分かりのいい子か、分からないのか。ここで無茶を言うな!」
以前の私なら、すぐにその場へ乗り込んで、彼が誰の所有物であるかを満天下に知らしめただろう。
だが、今の私は、心の底からこの二人の幸せを祈っていた。さっさと結ばれて、永遠に離れないでほしい。
なにせ私はもう、この場所から逃げ出すのだったから。
……
俊が帰宅したとき、私は庭でパーティーの片付けをしていた。
3周年の記念日に、彼の教え子たちが早く家に来て、私たちのためにパーティーを開いてくれていたのだ。それなのに、主役であるはずの彼は、深夜3時になってようやく姿を現した。
私は、傍らで罪悪感を滲ませ、気まずそうに佇む俊を意にも介さず、黙々と後片付けを続けた。
だが、その沈黙の態度が、どういうわけか彼を苛立たせたらしい。
「俺にそんなツンケンした態度を取るな。たかが記念日と人の命、どっちが重要なんだ。お前は昔から苦労知らずで、もう30にもなって、まだそんなに度量が小さいのか」
「俊、私……」
か細い声が漏れた。自分でも気づかぬほどの震えが、声に混じった。
もう疲れた。体だけじゃなく、心もだ。
その時、手の中にあった風船が、ふとした拍子にパンッと甲高い音を立てて破裂した。
俊は眉根を寄せ、今まで聞いたこともない冷え冷えとした口調で私をなじった。
「夜更けだぞ。八つ当たりするにしてもやり方があるだろう。そんな乱暴な音を立てて、近所迷惑だと考えていないのか?」
優子は、記念日より大事。彼の面子は、私より大事。
それが真実だと分かっていても、胸に言いようのない喪失感が込み上げてくるのを止められなかった。
私と俊は幼馴染だった。
静の彼に、動の私が寄り添い、文の彼に、武の私が力を添えていた。二人合わされば、完璧な私たちだった。
優子が現れるまで、私たちはが互いのすべてだった。
かつて彼は、私の率直で太陽みたいなところが好きだと言った。
「小さな太陽だ」と、私を呼んていた。その彼が今、私のことを「乱暴」の一言で片付けた。
もはや、言い争う気力など残っていなかった。楽しかった時間の雰囲気がが漂っているこの庭を片付けるだけで、私の気力も体力も尽きかけていた。
私が黙々とバーベキューコンロを片付けていると、俊もさすがに自身の失言に気づいたのか、手伝おうと手を伸ばしてくた。
その瞬間、彼のスマホが鳴った。響いたのは、【ダーリン!奥様からお電話ですよぉ】という、ふざけきった甘ったるい声の非情な着信音だった。
「おい、またヤキモチか。これは優子を元気づけるため、あいつがおふざけで設定しただけなんだ」
俊が狼狽しながらそう言った途端、バーベキューコンロから灼熱の炭火が崩れ落ち、私の足の甲に降り注いだ。
足の甲を焼く激痛に耐えながら顔を上げると、俊の顔に一瞬、焦りと罪悪感がよぎった。
だが、電話の向こうから聞こえてくる優子の途切れがちな泣き声に伴って、その僅かな罪悪感さえも掻き消した。
私はかぶりを振り、支えようと伸びてきた彼の手を、強く振り払った。
「俊先輩……私、うつ病が再発したみたいなんです……。このまま死んでしまいたい……。でも、死ぬ前に、もう一度だけ先輩の声が、聞きたくて……」
電話の向こうで、優子の声が泣きじゃくりながら震えていた。
俊の顔色が一変した。彼は即座に踵を返し、玄関へと駆け出した。
「優子、馬鹿なことを考えるな。今すぐ行くからな!」
玄関のドアの前で、彼は一瞬だけ動きを止め、その体が微かに震えるのが見えた。
彼は今、選択を出した。この場で、火傷を負った私に付き添うのか。それとも、彼を求めるあの声の元へ駆けつけるのか。
結局、彼は去っていった。私を一人、この庭に置き去りにした。
全身から力が抜け、私は芝生の上に崩れ落ちた。車のエンジン音が、夜の闇に吸い込まれるように消えていった。
足の痛みは、もう慣れたようだった。それなのに、心の痛みだけが、ますます鮮明に抉ってきた。
分かっていた。
私たち、二度と元には戻れなくなった。
第2話
身体から最後の一滴まで力が抜き取られたようで、ふっと、心が軽くなるのを感じた。
もう決めた以上、自分で自分を苦しめる必要がどこにある。
彼が潔癖症でも、私は違う。
手にしていた掃除道具を、その場に放り出した。
足の痛みを堪え、簡単に顔を洗って歯を磨くと、柔らかなベッドに倒れ込んだ。足の痛みか、それとも別の何かが原因か、その夜はよく眠れなかった。
目の下に濃い隈を作って目を覚ましたとき、俊はまだ帰っていなかった。
仕方なく、まずは自分自身のことを解決しようとした。
足の怪我は化膿し始めていた。赤く腫れ上がった甲を見て、病院へ行かざるを得なかった。
冷たいプラスチックの椅子に腰掛け、看護師が薬を塗ってくれるのを待っていた。
一枚の薄いカーテンを隔てた向こう側で、私は見てしまった。俊が、優子を甲斐甲斐しく看病している姿を。
彼女の左手首には包帯が巻かれ、リストカットの痕のようだった。
俊はスプーンでお粥を一口、また一口と彼女の口元へ運び、その手つきは優しく、丁寧そのものだった。
優子が甘ったるい声で言った。
「お粥、熱い……」
俊は、フーフーと優しく息を吹きかけて冷ましてやった。
優しくて、丁寧で。かつての、私たちとそっくりそのままだった。
彼が潔癖症で、屋台の食べ物など決して口にしなかったのに、私には付き合ってくれた。
あの日、出来立てのたこ焼きを頬張った私が、あまりの熱さに飛び上がると、彼のほうが、まるで自分が火傷したかのように顔を歪めていた。
彼は片手で私のたこ焼きをしっかりと持ち、もう一方の手で、手慣れた様子で鞄から用意していた牛乳を取り出した。
そしてストローを差し、そっと私の口元へ運んでくれた。
冷たい牛乳が、口の中の灼けるような熱さを瞬時に和らげてくれた。
彼の瞳は心配の色に満ち、私の苦痛が和らぐのを見て、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
今この瞬間まで、彼の愛を疑ったことはなかった。ただ、あれほど真実だと信じていた愛も目まぐるしいものだった。
そして今、その優しさは、別の女性に向けられた。
その時、場違いにも、私のお腹がくぅっと鳴った。
優子が顔を上げ、私に気づく。彼女の視線が包帯の巻かれた私の足元に落ち、意味ありげな笑みを浮かべた。
「俊先輩、私のこと、迷惑だって思いませんか?私、雨宮先輩みたいに体が丈夫なわけでもないし、家柄がいいわけでもないですし」
俊はすぐに彼女を慰める。
「あいつのどこがいい?ただの乱暴な田舎者じゃないか。優子、お前が一番だよ。優しくて、人の気持ちもよく分かる。そんなこと考えるな。今は体を治すことだけ考えろ」
彼の声は、どこまでも甘やかすような響きを持っていた。
優子は、勝利宣言でもするかのように、挑発的な視線を私に送った。
「俊先輩、雨宮先輩のこと、そんなふうに言っちゃだめですよ。雨宮先輩が怒っちゃいます」
「あいつにお前を怒る資格なんてあるもんか。もしあいつがまたお前に何か言ってきたら、俺が懲らしめてやる」
俊の声には、鋭い棘があった。
私はこの修羅場から逃げ出そうとしたが、看護師に呼び止められた。
「雨宮美桜さん、まだお薬、塗ってませんよ」
第3話
俊はハッとして振り返り、ちょうど身をかがめていた私と目が合った。
私が気まずそうに微笑みかけると、彼は逆に眉をひそめた。
「どうしていつもそうやってしゃしゃり出てくるんだ。こんな所で盗み聞きとはな」
「盗み聞きなんてしてない!薬を塗りに来ただけ……」
私の言葉も終わらないうちに、優子が慌てて立ち上がり、こちらへ突進してきた。
「俊先輩、やめて……!」
彼女がそう言い終わるか終わらないかのうちに、熱いお粥の入ったお椀を持ったまま、私に突っかかってきた。
「あっつ!」
思わず痛みに声が漏れた。
お粥は容赦なく私の足にぶちまけられたというのに、彼女自身は俊の腕の中へと、計算されたかのように倒れ込んだ。
なんなの、この茶番劇……。
「ごめんなさい、美桜先輩。先輩のお顔を見たら、怖くなってしまって、つい……」
彼女はそう言いながら顔を覆い、空涙を流し始めた。
俊はさっと彼女を背後にかばい、その手首の傷を念入りに確認し始める。
火傷を負った私は、まるで存在しないかのように、彼の視界には入っていなかった。
服の上からじりじりと熱が伝わり、肌を刺すような痛みが走る。涙が、頬を伝った。
それが火傷の熱さのせいなのか、心の痛みのせいなのか、自分でも判然としなかった。
「被害者ぶるのはいい加減にしろ、美桜。優子がわざとやったわけじゃないだろう」
俊の声には、あからさまな不快感と非難の色が滲んでいた。
「全部、私のせいです……私が愚かで、何もできなくて……私なんて、死んだほうがましです……」
優子は泣きじゃくりながら、俊の胸に顔をうずめた。そのあまりにも儚げな姿は、誰しもの庇護欲を掻き立てるものだった。
寄り添い合う二人は、まるで幾多の困難を乗り越えてきた恋人のよう。それに引き換え私は、この場の調和を乱すだけの異物だった。
「ねえ、今日はもう帰りましょう?大事な話があるの」
私の声は、感情の波一つない、凪いだ水面のように平坦だった。
俊はその時になってようやく、赤く爛れた私の火傷に目を落とした。彼の瞳に、一瞬だけ複雑な光がよぎった。
彼は何かを言おうと口を開きかけたが、優子に「俊先輩、検査に行かなくちゃ」と腕を引かれ、言葉を飲み込んだ。
俊は一瞬ためらったが、すぐに彼女を支えてその場を去っていった。
視界の端に、優子の表情が映り込んだ。
俊の背後に立った彼女は、得意満面の笑みを浮かべていた。それは挑発と、勝利者の傲慢さに満ちた笑みだった。
その眼差しは、「ご覧なさい。結局、彼は私の味方なのよ」と、雄弁に物語っていた。
病院の照明は青白く目に突き刺さり、看護師が慌ただしく駆けつけてきた。それなのに、私はその喧騒の中で、奇妙なほどの静けさを感じていた。
「火傷の処置をしますね」
看護師の穏やかで手際の良い声に、私は物思いから引き戻された。
私はこくりと頷き、看護師に導かれるまま処置室へ向かった。
ツンとした消毒液の匂いが鼻をつく。不思議と、その匂いが今までのどんな瞬間よりも、ずっとリアルに感じられた。
大丈夫。10年間の恋だもの。終わらせるのが、一日や二日遅れたところで、もうどうでもいい。
第4話
家に着いたのは、午後2時近くだった。
強烈な空腹感が潮のように襲ってきて、私の胃は長いこと何も口にしていないと抗議しているかのようだった。
私は一切ためらわず、すぐにニンニクラーメンのデリバリーを注文した。
昔の私なら、彼の潔癖さのせいで、家でこんな出前を頼む勇気はなかった。あの匂いは、いつも彼に眉をひそめさせたからだ。
でも今となっては、彼の顔色なんて知ったことではない。私はどうしても、あれが食べたかったのだ。
デリバリーを待つ間、私は何気なく開いたSNSで、優子が更新したタイムラインを目にしてしまった。
それは一本の動画だった。画面には、俊の、すっきりとしたフェイスラインだけが映っている。彼がある女性を横抱きにして病院の廊下を走っていた。動画に女性の顔は映っていなかったが、それが優子であることは、私にはすぐに分かった。
動画に添えられた文章はこうだ。
【あなたに会った瞬間、心に津波が起きたの】
私はもう、こんな挑発を意に介さない。何度も繰り返されてきたことだから。
三年前、大学院に入学したばかりだった優子は、若き指導教官であった俊に一目惚れした。
その日、彼女は俊の後ろ姿の写真をタイムラインに投稿し、こんな文章を添えた。
【最も理性的な片思いとは、きっとこういうこと。愛してる、でもあなたは自由。深く想い、でも付きまとわない。あなたが好き、それは誰にも関係ないこと。あなたが幸せでありますように。たとえその未来に、私が全く存在しなくても】
その日から彼女は、学校から家まで俊を追いかける、一番熱心な求愛者となった。その執着ぶりは、誰もが知るところとなっていた。
一年前。両親に200万円の結納金のために嫁がされそうになった優子は、ビルの屋上に立った。
私達の二回目の結婚記念日を祝うはずだった、レストランの屋上だ。
彼女は屋上から真下を見下ろす写真を一枚撮り、ちょうど向かいのツインタワーが見えるアングルで、【来世で、また会いましょう】と書き込んだ。
俊は当然のように彼女を慰めに行き、一方の私は、レストランで一人、翌朝の日の出まで座り続けた。
俊が優子を優しく支えながら降りてきた時、私はテーブルをひっくり返し、グラスを叩き割った。
返ってきたのは、優子が走り去り、俊がそれを追うという、お決まりの茶番劇。彼は完全に彼女の術中にはまっていた。
その週、彼は家に帰ってこなかった。
そして私は、一ヶ月家に帰らなかった。
一ヶ月後、私達は示し合わせたようにその件には触れなかった。次の記念日こそ、必ず素敵な一日にしようと、そう約束した。
だが残念なことに、今回もまた台無しになった。そしてもう、やり直すチャンスは二度となかった。
以前は、彼女のタイムラインを見るのは俊を監視するようなものだった。何か目に余る投稿を見つけるたび、彼と大喧嘩になった。
俊は私が大袈裟だと非難し、私は彼が心変わりしたと疑った。
けれど今はもう、そんな小細工一つで私の心が波立つことは、決してない。
第5話
ドアのチャイムが鳴った。
私は心を躍らせた。待ちに待ったニンニクラーメンがようやく届いたのだと思ったからだ。
私は片足で体を支え、慎重に玄関まで跳んでいった。
けれどドアを開けて目に飛び込んできたのは、俊と優子の二人だった。
私のあからさまにがっかりした表情を、二人は見逃さなかった。
「昨日は急いで出たから、鍵を忘れてしまったんだ」
俊の声は平坦だった。彼はそう説明しながら、私がもったいなくてずっと履けずにいた亀の柄のスリッパを何でもないように手に取り、優子に差し出した。あのスリッパの亀の柄は、かつては私だけのものだったのに。それを彼は、いとも容易く他人に与えてしまったのだ。
「別に、私に説明する必要はないわ」
心の中では夕食のことばかり考えながら、私は片足でテーブルまで跳んでいき、スマホを手に取った。配達員がどこまで来ているか確認するためだ。
「美桜先輩、全部私のせいです。どうか俊先輩を責めないでください」
優子はすぐに目に涙をため、声を震わせた。
「また何を始めるつもりだ、美桜。優子は大学院を卒業したばかりで、両親に無理やり結婚させられそうになってる。行く当てのない女の子が数日泊まるくらい、何が問題なんだ」
俊の声には、あからさまな苛立ちが混じっていた。
そう思った途端、私は思わず笑ってしまった。自嘲と諦めが入り混じった笑いだった。しかしその笑い声を聞いた俊は、私が彼らを嘲笑していると勘違いしたらしい。
「君はどうしてそんなに思いやりがないんだ。こんな状況でよく笑えるな」彼は真顔でそう言った。
彼のその表情を見て、私はとうとう涙が出るほど笑ってしまった。
「少し、話しましょう、真田俊」私の声には、決然とした響きがあった。
「面倒なことを起こすな。優子は一睡もしてないんだ。休ませてやらないと」俊は苛立たしげに私を拒絶し、その目には私への不満が浮かんでいた。
「離婚しましょう」
これ以上、引き延ばしたくなかった。私は真剣に、自分の考えを告げた。
俊はそれを意に介さない様子だった。
「なぜ、もっと寛大になれないんだ。たかがスリッパを履かれただけじゃないか」
彼の視線がスリッパの亀の柄を掠め、その目に複雑な色がよぎる。何かから目を逸らすように。
「真田俊。私が言っているのは、離婚よ」
私は、もう一度はっきりと告げた。