雨に霞む春、陽射しに咲く夏

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愛する男、黒瀬玲司の命を救うために献身の果てに、白石紬は聴力を失った。だが、その代償として与えられたのは、感謝ではなく、彼の友人たち...

Chương (1)

第1章

愛する男、黒瀬玲司の命を救うために献身の果てに、白石紬は聴力を失った。だが、その代償として与えられたのは、感謝ではなく、彼の友人たちからの心無い嘲笑だった。 彼女は脳死の危険すら覚悟して手術に臨み、聴力を取り戻した。 しかし、その奇跡の喜びを分かち合うはずの夜、婚約者の唇が紡いだのは、彼女の名ではなく、彼の心に棲みつく「初恋」の名だった。 彼の心に、自分の居場所はどこにもなかった。 その残酷な真実を突きつけられた彼女は、すべてを捨てる決意をする。 愛した男も、過去も、すべてを置き去りにして、彼女は新たな人生を求め、海を渡る。 第1話 「お祖父様、私、決めました。やはり留学します」 電話の向こう側から、黒瀬宗厳(くろせ むねよし)の沈んだ声が聞こえた。 「では、玲司(れいじ)との結婚式は……」 「取りやめることにしました」 白石紬(しらいし つむぎ)はきっぱりと答えた。 電話の向こうで宗厳は無念そうにため息をついた。 「黒瀬の家として、君には本当に済まないことをした。この数年、君の貴重な時間を縛り付けてしまった……玲司から改めて埋め合わせをさせよう」 今となっては、埋め合わせなどどうでもよかった。これで、黒瀬家に対する紬の役目は終わったはずだ。 一番良い終わり方は、お互いに何の貸し借りもない、白紙に戻ることだ。 「いいえ、お気持ちだけで十分です」 紬は言った。 「このことは、まだ彼には内密にお願いします」 宗厳は静かにうなずいた。 かつてのように、耳が聞こえないことで卑屈になっていた紬はもういない。聴力を取り戻した彼女には、もっと明るい未来が待っているはずだ。 彼女は目を閉じ、数日前の出来事を思い出していた。 …… 数日前、紬は宗厳にこう告げていた。 「私、鼓室形成術を受けようと決めました」 怖くないわけではなかったが、その声には揺るぎない決意が宿っていた。 医師の警告が、今も耳にこだまする。 「手術が万が一失敗すれば、顔面神経に麻痺が残ったり、最悪の場合、聴力を完全に失ったりする可能性もあります。白石さん、それでも受ける覚悟はありますか?」 紬が手術を決意したのは、黒瀬玲司(くろせ れいじ)が二人きりになるたび、苛立たしげに彼女の補聴器を外すからだった。 そして、彼の友人たちが「まさか聴覚障害のある女性と結婚するのか」と彼をからかっているのを知ってしまったから。 もし自分の耳が普通に聞こえるようになったら、玲司も喜んでくれるはず。 そう信じて、彼女は大きなリスクを冒して手術に臨んだ。 手術室に運ばれる直前、最後に見たスマートフォンの画面に、彼からのメッセージはなかった。とはいえ、玲司の気まぐれな態度には慣れていた。 幸いにも、運命は彼女に味方した。 手術を終えた紬は、玲司の帰りを心待ちにしていた。聴力を取り戻し、もう健常者と何も変わらない自分を、一刻も早く彼に伝えたかった。 彼を驚かせようと、紬はあえて補聴器をつけたまま、彼が自分の手で外してくれるのを待った。 しかし、帰ってきたのは泥酔した玲司だった。 玄関を開けるなり、彼は彼女を壁に押し付けた。 強く肩を掴まれ、有無を言わさず唇を塞がれる。 こんなに性急で、強引な玲司は初めてだった。 ソファに押し倒されると、キスは首筋から耳元へと執拗に落ちてくる。 そして彼は、いつもの癖で補聴器を外した。 きっと邪魔なのだろうと、紬はずっとそう思っていた。 自分を組み敷く男を見つめながら、聴力が戻ったと知った時の彼の反応を期待して口を開こうとした、その瞬間。 彼の吐息が、ある名前を囁いた。 「むつみ……むつみ……」 回復したばかりの聴覚は、どんな些細な音も拾ってしまう。その囁きに、紬の全身は凍りついた。だが、欲望に我を忘れた玲司が、彼女の変化に気づくはずもなかった。 彼が呼んでいたのは、紬ではない。橘睦(たちばな むつみ)だったのだ。 結局、彼は睦のことを忘れられずにいた。 二人きりになるたびに補聴器を外したのは、邪魔だったからじゃない。彼女の名前を、心置きなく呼ぶためだったのだ。 睦は彼の心身をずたずたにし、破滅寸前にまで追い込んだというのに。それでもなお、彼は彼女を心の底から求めている。 なんて滑稽なのだろう。じゃあ、自分はいったい何? 都合のいい時にそばに置いて、飽きたら捨てられる愛玩動物? 彼の気まぐれ一つで愛玩され、そして用済みとばかりに捨てられる。自分は彼の心に届いたのだと、本気で信じていたのに。 すべては、最初から自分の思い上がりに過ぎなかった。 隣で眠りこける玲司を見つめる。 その時、枕元で光ったスマートフォンの通知が、紬の目に留まった。 「兄さん、睦ちゃんが海外で離婚して帰国したらしいぞ!このチャンス、絶対にものにしろよ!」 なるほど。彼が待ち焦がれていた人が帰ってきたのだ。今日の彼が、あれほど荒れていた理由がわかった。 そして、紬は宗厳にあの電話をかけたのだ。 黒瀬家には恩があった。もともと当主である宗厳から学費を援助してもらっていたし、失恋した玲司の世話を頼まれた時も、断る理由などなかった。 ましてや、ずっと前から玲司に想いを寄せていた彼女にとって、それは願ってもない申し出だったのだから。 当時、睦に一方的に別れを告げられて海外に去られ、玲司は自暴自棄になっていた。 だが彼の堕落は、酒や煙草ではなかった。スキー、深海ダイビング、スカイダイビング、カーレース、ロッククライミング。命知らずの極限スポーツに次々とのめり込んでいったのだ。 わずか数ヶ月で、彼は命を落としかけていた。 急遽、玲司の世話を任された紬に、何ができるというのか。彼女が選んだのは、一番愚直な方法だった。彼がすることに、ただひたすらついて行く。 最初、玲司は紬をまるでいないかのように扱った。あの深海ダイビングの事故が起きるまでは。 玲司が海中で酸素ボンベをサンゴに引っかけて破損させてしまった時、死の淵にいた彼に、紬は迷わず自分の酸素を分け与えた。 その代償に、彼女は水圧による損傷で聴神経を傷つけ、聴力を失った。 命の危機から生還した玲司は正気を取り戻し、仕事に打ち込むようになった。そして彼を救った紬は、彼のそばにいることを許された。 玲司は宗厳の言いつけ通りに彼女と婚約し、こう約束してくれた。 「これからは君を大切にする。愛せるように、努力するから」 あの時の彼女は、幸福の頂点にいた。 けれど、人の心は欲深い。かつては彼のそばにいられるだけで幸せだったのに、いつからか、彼の心の中で特別な場所が欲しいと願うようになっていた。 睦の帰国は、その淡い夢を打ち砕き、紬に現実を突きつけた。ここを去る時が来たのだ。 悲しみに暮れる暇さえなく、紬は冷静にスマートフォンを開いた。画面に映るのは、未完了のレッスンが山積みになった語学アプリ。 紬は涙を拭いもせず、単語を覚えていた。 ただ、その耳に、もう補聴器は必要なかった。 第2話 翌朝、玲司が目を覚ますと、昨夜の深酒で喉がカラカラに渇いていた。 枕元のサイドテーブルに手を伸ばしたが、いつもなら置いてあるはずの温かい生姜湯は見当たらなかった。ベッドの反対側も、とっくに冷え切っている。 紬の姿がないことに違和感を覚えたが、玲司が深く考え始める前に、妹の玲奈(れいな)から「友人たちを連れて遊びに行く」と電話が入った。 一方、紬は徹夜で語学の勉強に打ち込み、赤く泣き腫らした目のまま隣の部屋でようやく深い眠りについていた。 やがて、階下の騒がしさに彼女は目を覚ます。 「紬様」 家政婦が声をかけた。 「先ほど玲奈様が、お目覚めになったら着替えて、皆様のところへいらっしゃるように、と」 黒瀬家の別荘のプールサイド。露出度の高い水着を身に着けさせられ、紬は戸惑いを隠せなかった。 紬が現れると、さっそく男たちの軽薄な声が彼女に向けて飛んでくる。 「玲司、お前の奥さん、なかなかイケてるじゃないか」 「本当だな。まさに宝の持ち腐れってやつだ」 以前の自分なら、こんな言葉を聞いて、玲司に釣り合う点が一つでもあってよかったと、虚しい安堵を覚えたかもしれない。 だが今は、自分が彼らの嘲笑の的でしかないことをはっきりと理解していた。 玲司は無表情で、その心中は窺い知れない。ただ、彼の視線は時折、睦のいる方へと流れていた。 友人の中の一人が、見かねたように言った。 「お前ら、言い過ぎだぞ。よく紬さんの前でそんなこと言えるな」 すると玲奈は得意げに言い放った。 「大丈夫よ。さっき確認したけど、あの子、補聴器つけてないもの」 その言葉を合図にしたかのように、周りから哄笑が巻き起こった。 黒瀬玲奈(くろせ れいな)――玲司の妹。 紬が玲司と婚約して以来、彼女は紬を目の敵にしてきた。 大学時代、朝食の牛乳に塩を入れられたり、寝ている間に髪をめちゃくちゃに切り刻まれたり、陰湿ないじめの主犯はいつも彼女だった。 紬は引きつった顔を笑顔で隠し、聞こえないふりを続けた。 そこへ睦が姿を現すと、皆の視線が彼女一人に注がれる。玲奈は待っていましたとばかりに駆け寄った。 「睦ちゃん!帰国されていたのに、どうして遊びに誘ってくださらなかったの?」 先ほどまで紬をからかっていた男たちも、打って変わって親しげに睦へ挨拶している。 無理もない。彼らこそが同じ世界の住人なのだ。紬はただ、玲司の威光によって、その世界を垣間見ているに過ぎない。 ふと、玲司の書斎で見た、無数の睦のデッサンを思い出した。すべて玲司が描いたもので、一枚一枚の裏には、同じ言葉が記されていた。 ――ただ君と、共に白髪の生えるまで。 睦本人に会うのは、これが初めてだった。気だるげなロングヘアは妖艶に揺れ、体にフィットした水着が完璧な曲線を描いている。 口元に浮かんだかすかな笑み。玲司がこれほどまでに彼女を忘れられない理由が、分かった気がした。 これ以上、自分が惨めになるのはごめんだった。紬は部屋に戻って語学の続きをしようとその場を去りかけたが、背後で上がった歓声に思わず振り返った。 人だかりの中心で、睦が同じように肌を露わにしている。だが、玲司は彼女の体に素早くバスタオルを巻きつけ、優しく諭していた。 「身体が弱いのに、風邪をひいたらどうする」 睦は好機とばかりに、恥じらうように彼の胸に顔をうずめる。 そうだ。本当に愛しているのなら、その人の美しさを衆目に晒したりはしない。誰にも見せず、自分だけのものとして大切に隠すはずだ。 紬は部屋に戻ると、エージェントにメッセージを送り、ビザの進捗を尋ねた。 天涯孤独の彼女にとって、この街に未練はもうなかった。 ただ、Y国への留学には莫大な費用がかかる。この数年、玲司が経済的に不自由をさせたことはなかったが、それでも万一に備えて現金は少しでも多く持っておきたい。 特にY国の大学は卒業が難しいと聞く。紬は、玲司から贈られた宝飾品の数々に目をやった。 これは感傷や意地ではない。玲司のために諦めた学業と、これからを生きる自分への、正当な対価だ。 その時、彼女の思考を遮るように、玲奈の甲高い声が響いた。 「白石さん!あなたが作る生姜湯はどうしたのよ!」 人を見下した、いつもの命令口調だった。 紬は言葉に詰まった。生姜湯は、もう何日も作っていない。 玲司がこの翠ヶ丘のヴィラにいつ帰るか、連絡が来ることはない。だから以前の紬は、彼がいつ帰ってきても温かいものを飲めるようにと、毎日欠かさず準備していた。 生姜湯だけではない。分厚い薬膳の本を紐解き、彼の体に良いものなら何でも手間を惜しまず学んだ。 実際に玲司が口にしたのはほんの数品だったとしても、それだけで満たされていたのだ。 だが、あの手術の日を境に、もう何も準備しなくなった。 「……玲奈さんが、飲みたいのですか?」 紬が静かに尋ねた。 「さっき睦ちゃんがプールで冷えたのよ。早く作ってきなさい。 睦ちゃんが風邪でもひいたら、兄さんが悲しむでしょ!」 玲奈の言葉を裏付けるように、ソファに座る睦が小さく咳をした。 「それなら、家政婦にお願いします」 「あなたに作ってほしいのよ」 玲奈は不快感を露わにした。 「へえ、つまり兄さんのためじゃなかったら、作ってもらえないんだ。 睦ちゃんは、兄さんにとって一番大切な人なのよ。彼女が不快になれば、兄さんも不機嫌になるわ。 お祖父様から言われたでしょう?兄さんの世話をするのが、あなたの役目だって」 玲司の世話は役目でも、黒瀬家の召使いになることではない。そして今、彼女にはもう何の遠慮もなかった。 その時、睦が割って入った。 「玲司から、あなたのお料理はとても上手だと聞いているわ。 私にも、ぜひ一度味わわせてほしいのだけれど、駄目かしら?」 その猫なで声に、紬はうつむき、従順な女性を演じるかのように見えた。だが、口から出たのは、きっぱりとした拒絶だった。 「お断りします」 自分を召使い扱いして、女主人の地位を見せつけたいのだろう。 睦は、はっとしたように口調を変えた。 「ごめんなさい、私ったら。あなたの生姜湯を飲みたいなんて、図々しかったわね。 それが玲司のためだけの、特別なものだとは知らなかったの」 階段の上から様子を見ていた玲司は、いつも従順な紬の今日の態度を訝しんだ。 階下に降りてきて、なだめるように言う。 「大したことじゃないだろう。紬、作ってあげなさい」 「玲司、もういいの」 睦は慌てて彼を制した。 「紬さんは私のことがお嫌いみたい。またの機会にするわ。 ……ただ、少しめまいがするの。ここで休ませていただいても? 紬さん、ご迷惑じゃないかしら?」 その、わざとらしいセリフに、紬は呆れて笑いそうになった。具合が悪いなら病院へ行けばいい。ここにいて治るものか。 しかし、言葉には出さず、紬は完璧な思いやりを装って言った。 「では、睦さん、どうぞごゆっくり。お邪魔のようですので、私は部屋に戻ります」 第3話 紬の不機嫌な様子に対し、玲司は秘書にピンクダイヤモンドを一粒と、大きな花束を注文させた。 女性の機嫌を取るには贈り物が効果的だと、彼は経験から知っていた。これまで紬が拗ねた時も、いつもこの方法で丸め込んできたのだ。 いつもと違ったのは、今回、プレゼントを受け取った紬から甘えたお礼も、機嫌を直した素振りも見られなかったことだ。 秘書に彼女の反応を尋ねても、「特に何も」という素っ気ない返事だったという。 その意味を深く考える前に、会社の会議が彼の思考を遮った。 紬は大学に論文のテーマを提出済で、あとはこれを完成させれば卒業が認められる段階にあった。 論文執筆そのものは、彼女にとって難事ではない。決められた期日までに口頭試問をパスすればいいだけだ。 問題は、思うように上達しない語学の発音だった。 耳が聞こえなかった数年間で鈍った言語機能はまだ回復途上で、特に会話は拙かった。 彼女は親友の相沢萌(あいざわ もえ)に電話をかけた。電話の向こうで、萌がためらいがちに名乗る。 「もしもし?どなたですか?」 「番号は変えてないけど、登録してなかった?」 「うそ、紬!?あなたからの電話なんて何年ぶり!?まさか、耳が……聞こえるようになったの!?」 話せば長くなる。二人はカフェで会う約束をした。 萌を待っていると、玲司から電話がかかってきた。ひどく焦った声だった。 「黒糖の割合って、どれくらいだったっけ?」 「……何のことですか?」 紬が戸惑っていると、受話器の向こうから家政婦の慌てた声が聞こえた。 「弱火ですよ、弱火!そんなに火を強くしたら焦げ付きます!坊ちゃま、やはり私にやらせてください!」 「いや、自分でやる……紬、君が作る例の生姜湯だ。あれに入っている黒糖の割合はどれくらいだったか? どうして二回作っても、君が作るあの味にならないんだ? 睦が38度の熱を出して、ぐったりしているんだ。薬もあまり効いていないようで……」 受話器越しにも、向こうの混乱ぶりが目に浮かぶ。いつも冷静沈着な玲司が、あれほど我を忘れるのは睦のことだけだ。 彼自身、厨房に立つどころか、食事の好き嫌いが激しく、味には人一倍うるさいというのに。 大学を中退して以来、紬は玲司の世話に専念し、彼の衣食住のすべてを一人で切り盛りしてきた。日々の食事も、わざわざ薬膳を学び、彼のためだけに作り続けた。 そんな玲司を厨房に向かわせる力があるのは、世界でただ一人、睦だけなのだ。 紬は、かつて玲司とスキーに行った時のことを思い出した。あの時、自分は40度の高熱を出し、意識が朦朧としていた。 だが、当時の玲司はまだ彼女を心からは受け入れておらず、大げさに騒いでいるとしか思っていなかった。 異国の地で、すぐに医療も受けられず、紬は独りで耐え抜いた。 それが今や、睦がたった38度の熱を出しただけで、あれほど取り乱すなんて。 ……本当に、「初恋」の力は絶大なのだと思い知らされる。 砂糖の入っていないコーヒーを飲んでも、不思議と苦さは感じなかった。 電話を切って間もなく、萌が息を切らして駆け込んできた。 堰を切ったように、萌はまくし立てる。 「あなたから番号を聞いたか何か知らないけど、あの黒瀬玲司って男、マジで最悪よ! 真夜中にいきなり電話してきて、最高級の翡翠の宝飾品一式を探せって言うの! 大金はたくからって!金持ちだからって何様よ、人使いが荒すぎるわ! 『急ぎだ、死ぬほど急いでる』ですって。こっちの都合も考えずに、一人で大騒ぎしちゃって。本当に何様のつもりかしら! まあ、この私が仕事のできる女で顔も広かったから、何とかなったけどね!」 そう言って、その宝飾品の写真を紬に見せた。 聴力が戻って本当に良かったと、紬は思った。どんなに騒がしい音も、今は心地よい音楽に聞こえる。世界に触れ、世界を愛するための扉が、また一つ開かれた気がした。 萌が話し終えるのを待って、紬は海外へ行きたいが会話に自信がないという悩みを打ち明けた。 萌は真顔でアドバイスした。 「あなたねえ、本当に浦島太郎なんだから。今の世の中、めちゃくちゃ進んでるのよ。 それこそ、お金を積めば、外国語を教えてくれて、夜はベッドの温め方まで教えてくれる、シックスパックのイケメン家庭教師だっているんだから!」 ふと、萌は真剣な顔に戻った。 「……本気なのね?海外へ行くって。玲司さんのもとを、本当に離れるの?」 紬は頷いた。 「それと、もう一つ。あなたは宝飾品に詳しいから見てほしいんだけど、これ、大体いくらくらいになると思う?」 「あなたのそのダイヤ、私にはあまり良い販売ルートがないのよね……でも、これがあるわ」 萌が差し出した宝飾オークションの招待状を見て、紬は彼女の有能さを再認識した。萌の専門は翡翠だ。 この手のダイヤモンドを彼女のルートで売れば、きっと買い叩かれる。だが、専門家が集まるオークションなら話は別だ。人脈さえ作れれば、不当に安く売らずに済むだろう。 数日後、紬は翠ヶ丘のヴィラを出る決心をした。 最後に一言だけ連絡しておこうと電話をかけると、意外にも玲奈が出た。 「兄さんは今、睦ちゃんとウェディングドレスを選んでるの。まさか、黒瀬家のお嫁さん気取りで探りを入れに来たわけ?邪魔しないでくれる!」 一方的に切れた電話の音を聞きながら、紬は自嘲の笑みを浮かべた。まあいい。どうせ私がいてもいなくても、彼は気にも留めないのだから。 夕方、紬はこの宝飾オークションがこれほど大規模なものとは知らず、普段着のワンピース一枚で急いで駆けつけた。 会場に入って初めて、誰もが豪奢なドレスやタキシードで着飾っていることに気づく。 だが、自分がこれから手にする資産を思えば、ここで気後れする必要などなかった。 やがて人々がざわめき、会場中央のステージへと集まり始めた。 そして舞台の上、スポットライトの下に現れたのは玲司だった。その隣には、睦が寄り添っている。 睦が身に着けているのは、数日前に萌が写真で見せてくれた、あの最高級の翡翠の宝飾品だった。 大切にされ、心を尽くされている。 ふと、玲司が自分に贈ってくれたプレゼントは、いつも秘書がデパートで適当に選んだものだったことを思い出す。 心のこもらない、おざなりだった。 第4話 以前の彼女なら、いつも玲司のために言い訳を探していた。だが今となっては、彼がただ自分に無関心だっただけなのだと、痛いほどに理解していた。 「黒瀬グループの、当オークションへのご協賛に心より感謝申し上げます。これより、オークションを正式に開始いたします」 睦が玲司の腕に絡みつき、優雅に席に着いた。 最初の出品物は、色鮮やかな翡翠の腕輪。睦が玲司に何か囁くと、玲司はためらうことなく手を挙げ、価格を百万円から一気に一千万円まで吊り上げた。 「気前がいいわね、さすが黒瀬社長!」 「橘さんって社長の初恋の相手なんでしょ?実らなかった恋だって。見てなさいよ、彼を取り戻すために帰国したに決まってるわ!」 「でも、社長には婚約者がいるんじゃ?じゃあ、橘さんって愛人?」 「愛人なわけないでしょ、初恋の相手よ。彼女こそが本命に決まってるじゃない! それに私、内情を知ってるけど、社長は家の都合で婚約させられただけ。相手の女は耳が聞こえないっていうし、黒瀬社長に釣り合うわけないわよ!」 周囲の人々は、まるで自分たちも同じ世界の住人であるかのように、二人の恋の行方を囃し立てる。 その一言一句が針となって紬の胸を刺し、彼女はそれ以上聞いていることに耐えられず、展示ホールへと逃げ込んだ。 オークション形式の夜会ではあったが、一部の宝飾品はホールに値札付きで陳列され、その場で購入することも可能だった。 会場に顔見知りは多くても、紬自身の知人と言える者はいない。ことごとく冷たい対応をされ、彼女は落ち込んでいた。 あるピンクダイヤモンドの指輪の前で、紬は足を止めた。 値札を見ながら、玲司から贈られたピンクダイヤモンドのブローチを思い出す。あれはこれよりも高品質だ。もっと高値がつくかもしれない。 「お嬢さん、こちらのピンクダイヤモンドが、お気に召しましたか?」 声をかけられ、紬は慌てて首を横に振った。 「いいえ、違います」 否定の言葉を聞くと、その紳士はスタッフを呼び、この品を買い取りたいと告げた。 「お嬢さんが大変お気に召しているご様子でしたので、危うく無粋なことをしてしまうところでした」 一瞬のうちに考えを巡らせた紬は、笑みを返した。 「いえいえ、とんでもないです。 ……あ、でも、これほどのものをお求めになる、その審美眼をお持ちの方にこそ、ぜひご覧いただきたいものがあるのですが。 実は、私が持っているピンクダイヤモンドのブローチ、お目に留まりませんか?」 二人はすぐに連絡先を交換し、後日、品物を見る約束を取り付けた。 後になって、紬は親友の萌から、その男性が篠崎翼(しのざき つばさ)という高名な収集家であることを知った。 紬は自分の服装が、展示品の前で長居するのにふさわしくないことを自覚していた。 飲食エリアで休憩しながら、次の買い手候補を探すことにする。巨大なシャンパンタワーが、これみよがしに豪華さを誇っていた。 「紬さん。いくら玲司があなたを愛していないからって、そんなみすぼらしい格好はないんじゃない?まるで田舎者よ」 振り返ると、睦が自分を値踏みするように見下ろしていた。 「あなたには関係のないことでしょう」 「ええ、私にはね。ただ、忠告しておいてあげる。この世には厳然たる階級が存在するの。 シンデレラにでもなったつもり?ガラスの靴は、日付が変わる前に脱げてしまうものよ」 しかし、なぜか睦はふと声色を変えた。 「あら、紬さん。こんな夜会にいらっしゃるなら、どうして私に一声かけてくださらなかったの?」 紬には分かっていた。間違いなく、玲司が近くにいる。 でなければ、睦がこんな風に態度を変えるはずがない。彼女は何も言わず、静かに睦の茶番劇を眺めていた。 紬が乗ってこないのを見ると、睦は紬に近づき、その体に覆いかぶさるように、わざとらしく倒れ込んだ。 大きく広がったドレスの裾がそばのテーブルクロスを巻き込み、けたたましい音と共に、シャンパンタワーが床に崩れ落ちる。 シャンパングラスの割れる音と共に、二人は降り注ぐ液体とガラス片の中に倒れ込んだ。 睦の白いドレスについた酒染みはひどく目立ったが、紬の濃色のドレスではそれほどでもない。 しかし、膝の下に突き刺さるガラス片の痛みは、本物だった。 一方、睦は腕にかすり傷を負っただけだ。 遠くで異変に気づいた玲司が、冷静さを失って駆け寄ってくる。そして、ウェイターを怒鳴りつけた。 「何をやっているんだ!こんな危険なものを、なぜこんな薄暗い場所に置いた!」 彼は睦のそばに駆け寄り、心配そうに囁いた。 「痛むかい?」 睦は目に涙を浮かべ、一層か弱く見せた。玲司の服の裾を掴み、叱責されたウェイターを庇うように言う。 「私は大丈夫よ……」 誰もが、睦を心優しい女性だと褒め称えるだろう。紬だけが、激痛に耐えながら、乾いた笑いを浮かべていた。 玲司が振り返った時、ようやく紬もそばで倒れていることに気づき、訝しげに尋ねた。 「君は、どうしてここにいるんだ?」 そうだ。このオークションは明らかに玲司が睦の歓心を買うために催したもの。紬がいること自体が、場違いなのだ。 紬が答えるより先に、睦が「痛い……」と呻いた。 玲司は即座に睦に向き直り、その体を抱きかかえると、床に転がり、血に濡れた紬を冷たく一瞥し、先ほど叱責したウェイターに命じた。 「あちらの女性を病院へ」 そして、二度と振り返ることなく視界から消えていった。ただ、玲司の肩に寄りかかった睦が、挑発的な笑みを浮かべているのが見えた。 紬は、玲司がためらいなく選択を下すのを見つめていた。ここを去るという決意が、さらに固まる。 ウェイターへの指示は、彼の外面の良い紳士としての振る舞い。睦に対してこそが、本当の心配。 愛とは、その重さによってこうも差が生まれるものなのか。そして紬は、いつだって軽んじられる側だった。 その時、一枚の上着が、紬の体にふわりと掛けられた。 第5話 玲司よりも、見知らぬ他人の方がよほど優しい。 たった今知り合ったばかりの翼が手を差し伸べ、自分の上着を紬の肩にかけ、病院へ連れて行こうとしてくれたのだ。 翼は車をかなりの速度で走らせながらも、その運転は紬を気遣うように穏やかだった。 「もう少しの辛抱ですよ、すぐに着きますから」 紬は車の隅で震え、高価な内装を血で汚すまいと必死に身を縮こませた。 その気遣いを見透かしたように、翼は冗談めかして言った。 「白石さん、どうやらあのピンクダイヤモンドは、持ち主に災いをもたらす呪いでもかかっていたようですね。僕が買わなくて正解でしたか」 思わず笑みがこぼれ、紬は心からの礼を言った。 病院に着いても、紬は「一人で大丈夫です」と言い張った。 翼もそれ以上は強く出られず、心配そうに彼女を見送った。 病院の入り口に立ち、吹きつける冷たい風に、紬は身震いした。 彼女にとって病院は、トラウマが蘇る場所だった。かつて交通事故で血まみれになった両親が、ここで息を引き取ったのだ。 幼い彼女は床にひざまずき、何度も、何度も、神に両親の無事を祈った。 だが、その声は届かず、待っていたのは氷のように冷たくなった亡骸だけだった。 それ以来、どんな大病を患っても、彼女は二度と病院に足を踏み入れなかった。 前回、その禁忌を破って手術を受けたのは、すべて玲司のためだった。自分の耳のせいで、彼がこれ以上笑いものにされることに耐えられなかったからだ。 まさかこんなに早く、再びここを訪れることになるとは。紬は恐怖を押し殺し、一歩、また一歩と、重い足を進めた。 医師は眉をひそめながら膝のガラス片を抜き取り、傷が深く感染症の恐れがあるため、抗生物質の点滴を受けるよう勧めた。 一刻も早く立ち去りたかったが、医師の強い勧めに逆らうことはできなかった。 病室のベッドの上で、紬の顔色は土気色をしていた。丸一日何も口にしていない体は衰弱し、この騒動で熱まで帯び始めていた。 点滴を受けていると、親友の萌からSNSのリンクが届く。ネットニュースの見出しが、目に飛び込んできた。 【緊急速報 黒瀬グループ御曹司、謎の婚約者の正体は「あの令嬢」だった!】 記事には、玲司が睦を抱きかかえて人混みから現れる写真が添えられ、その心配そうな表情が二人のただならぬ関係を物語っていた。 とどめに、黒瀬グループの公式アカウントが、その記事に「いいね!」を付けていた。 このあからさまな愛情表現に、コメント欄は「美男美女でお似合い!」「結婚おめでとう!」など、二人を祝福する声で溢れかえっていた。 玲司の指示がなければ、公式アカウントがこのような行動を取るはずがない。 しばらく呆然としていたが、ようやく萌への返信をしようと思い至る。 だが、手の震えが止まらない。片手で文字を打とうとした拍子に、スマートフォンが床に滑り落ちた。点滴の針が抜けるのを恐れ、紬は慎重に身をかがめてそれを拾い上げる。 顔を上げた、その時だった。入り口から、聞き慣れた声がした。 「とりあえずこの狭い病室で我慢してくれ。すぐに個室が空くよう手配してあるから」 「そんなに気を使わなくてもいいのに」 続いて、見覚えのある二つの影が病室に入ってきた。 玲司が、まるで壊れ物を扱うかのように、細心の注意を払って睦を支えている。 睦は彼の肩に寄りかかり、玲司は愛おしげに彼女の頬を撫でた。 三人の視線が交錯し、気まずそうに目を逸らしたのは玲司だった。 「紬も……ここにいたのか?」 胸に、焼け付くような苦いものがこみ上げる。彼の婚約者は自分のはずなのに、今の自分は、まるで二人の仲を引き裂こうとする悪役のようだった。 「睦の怪我がひどいんで、仕方なくここに連れてきたんだ」 その言い訳を聞いた瞬間、紬の心にあったわだかまりが、ふっと消えた。微笑みさえ浮かんでくる。 なんという皮肉な偶然だろう。 紬は返事をせず、残りわずかとなった点滴の袋を見つめ、目を閉じて眠るふりをした。 すると睦が近づき、紬の手を取った。 「紬ちゃん、怒らないでくれる……? 私がわがままを言って、玲司に付いてきてもらったの……」 紬がその手を振り払った瞬間、睦は待ってましたとばかりに大げさにバランスを崩し、自ら床に崩れ落ちた。 そばにいた玲司が、即座に声を荒らげた。 「紬!いい加減にしろ!彼女は腕の骨にヒビでも入ったらどうするんだ!少しは思いやりというものがないのか!」 その怒声に、通りすがりの人々も何事かと振り返る。 玲司も自分の失態に気づいたのか、口ごもったが、謝罪の言葉はなかった。 彼は睦をベッドに抱き上げると、枕を快適な位置に直しながら、一般病室の環境の悪さに不満を漏らした。 紬はもう、この茶番に付き合う気力もなかった。自ら点滴の針を引き抜く。 そして、一言も発せずに部屋を出ると、玲司が追いかけてきた。 「お前は、大丈夫なのか」 紬は取り合わず、冷たく言い放った。 「もう処置は済んだわ」 玲司が何か言いたげに口ごもるのを見て、まだ用があるのだと悟った。 「……薬膳スープを作って持ってきてくれ。睦がかなり衰弱している。できるだけ早く頼む。病院で待っているから」 深夜の冷気が肌を刺しても、もはや寒さすら感じない。全身が麻痺していた。 薬膳スープ?睦のあの程度の傷で? 彼女の傷が実際どの程度か、紬は誰よりもよく知っていた。 「……玲司。あなたに、人の心は無いの?」 紬の反抗的な態度に、玲司の怒りが頂点に達した。 「睦が離婚したばかりで、精神的に不安定なのは知っているだろう。 友人として気かけているだけだ。お前こそ、いい加減にしろ! 今日倒れた一件だって、元はと言えばお前がわざとやったことだろう。俺はそれを黙って見過ごしてやったのに、一体何が不満なんだ!」 「私が、不満?」 どちらが真実かは、防犯カメラを見れば一目瞭然のはず。なのに、彼は睦の言葉だけを信じるのだ。 身に覚えのない非難に、紬は胸が押し潰され、息もできない。 処置したはずの膝の傷から、再びじわじわと血が滲み、スカートを赤黒く染めていく。だが、玲司は気づかない。 彼は通りかかった看護師を捕まえ、睦のために一刻も早く個室を用意しろと病院に催促するのに夢中だった。 その時、紬の中で、張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと音を立てて切れてしまった。 すべての悔しさも、やるせなさも、この瞬間、霧のように消え去っていった。 紬はただ、この茶番を一刻も早く終わらせたいと、それだけを願った。 第6話 萌の助言に従い、紬は自分のために家庭教師を雇った。 萌の提案は突拍子もなかったが、確かに効果は絶大だった。 紹介されたのは、語学専攻でアルバイトを探しているという男子大学生。専門知識は確かで留学経験もあったが、家が没落し、今すぐにお金が必要な状況らしかった。 紬自身の懸命な努力も相まって、彼女の会話力は飛躍的に向上し、海外で生活する上で何ら問題ないレベルに達した。 この一ヶ月、紬は勉強に没頭し、親友の萌以外、誰からの連絡も絶った。 あのピンクダイヤモンドのブローチも、希望通りの価格で売却できた。 買い手である翼には満足していた。言い値で、即金だったからだ。 しかし、彼に別の下心があることを見抜いていた紬は、取引が終わって以降、彼からのメッセージに返信することはなかった。 一方、玲司は珍しく彼女に何度もメッセージを送ってきた。かつては紬が飽きるほど長文を送っても、返信が来ることはほとんどなかったというのに。 玲司が折れて、こう送ってきたことさえあった。 【紬、あの日は俺が悪かった。睦の怪我が治ったら、君に会いに行く】 会いに来る?本気ならとっくにそうしているはずだ。彼の権力をもってすれば、この街で人一人探すことなど容易い。 以前の自分なら、このメッセージだけで、尻尾を振って彼の元へ戻り仲直りしただろう。 だが、今の紬の心には、何のさざ波も立たなかった。 玲司は紬が拗ねていると分かっていたが、プライドを曲げてまで彼女をなだめようとは思わなかった。 紬は黒瀬家から、そして自分から離れられるはずがない――そう高を括っていた。 それに、最近は会社の仕事が山積みで、今すぐ機嫌を取ろうが後で取ろうが同じことだと考えていた。 ただ、今回の紬の態度は少し度が過ぎるのではないか?自分が甘やかしすぎたのか?以前の彼女なら、こんな風に自分に逆らうことなど決してなかった。 どこかおかしいとは感じつつも、睦からの電話を受けると、玲司はその違和感をまた頭の隅に追いやってしまった。 ビザが発給された日、紬は航空券を購入した。玲司の邸宅には戻らなかった。 あそこに彼女のものは何一つなく、彼女も欲深くはなかった。あのブローチを売ったお金だけで十分だった。 ごくシンプルな白いシャツとジーンズ姿で、一度だけ黒瀬家の本家を訪れた。かつて自分を援助してくれた黒瀬会長に、別れの挨拶をするためだった。 しかし運悪く、そこで玲奈に出くわしてしまった。 「ねえ、そこの耳つんぼさん。案外、察しはいいじゃない。兄さんと睦ちゃんの仲は、もう誰にも止められないの。さっさと婚約破棄したらどう?」 もうここを去る身だ。言葉を交わす必要すらなかった。相手にせず立ち去ろうとしたが、無視すればするほど調子に乗るのが玲奈だった。彼女は紬の腕を掴んで引き留めた。 「あんた、兄さんがどうしてあんたと婚約したか、本当の理由を知ってるの? 命を助けたから、お嫁にもらえるとでも思った?おめでたいわね! 睦ちゃんが別の男と結婚することになったからよ! 兄さんはただ、睦ちゃんへの当てつけにあんたを利用しただけ! その後も婚約を続けたのは、睦ちゃんと結ばれなかったから、心が空っぽになって、誰と結婚しても同じだと思ったからよ。分かった?」 紬は静かに微笑んで、玲奈に言った。 「ええ、知っていますわ」 すべて、知っていた。 彼女は婚約解消の合意書を玲奈の胸に投げつけた。 「これをあの人たちに渡して。私はもう、黒瀬家とは一切関わりません」 その時になって初めて玲奈は気づいた。紬が補聴器を全くつけていない。 なのに、自分の声がはっきりと聞こえていることに。 「あんた……耳が治ったの?いつから……?」 「あなたには関係ないことです」 あなたたち黒瀬家とは、もう何の関係もないのだから。 「芝居はやめなさいよ!得意でしょ、いい子ぶって、お祖父様を誑かして! 悲劇のヒロインを演じて、兄さんを縛り付ける!私にはそんな手は通用しないわ! 本気で出ていくって言うの?この黒瀬家の豊かな暮らしを、惜しいと思わないわけ?」 紬はもう、説明する気力もなかった。黒瀬家の重い門を抜けると、体がふわりと軽くなった気がした。 聴こえる。風が木の葉を揺らす音。それは、自由の音だった。 信じられないというように、玲奈だけがその場に呆然と立ち尽くしていた。あれほど憎み、傷つけても決して折れなかった女が、本当に、このまま行ってしまうというのか。 紬は空港で黒瀬会長に最後の電話をかけた後、もう誰からの着信にも応答しなかった。 これで、本当にもうおしまい。二度と、会うことはないだろう。 搭乗待合室に、出国便の最終案内が響き渡る。 ハンドバッグの中で、元婚約者の玲司からひっきりなしに電話が鳴り続けている。 紬はためらうことなく、スマートフォンのSIMカードを抜き取ってゴミ箱に捨てた。この街とのすべての繋がりを、自分の手で断ち切るために。 そして、スーツケースを引き、迷いのない足取りで搭乗ゲートへと向かった。