あなたと永遠の別れを

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あなたと永遠の別れを

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婚約者に人前で結婚を破棄された翌日、私は飛行機に乗って江松市へ向かった。 彼は恋人を慰めながらこう言った―― 「早乙女清枝(そおとめ き...

Chương (1)

第1章

婚約者に人前で結婚を破棄された翌日、私は飛行機に乗って江松市へ向かった。 彼は恋人を慰めながらこう言った―― 「早乙女清枝(そおとめ きよえ)は小さい頃から甘やかされて育った。少し騒げば自分で戻ってくるさ。君が気に病むことはないよ」 友人たちは、私がなおも墨谷基成(すみや もとなり)に未練を抱き、また何か騒動を起こすのではと恐れていた。 だが、私はすでに、別の人の求婚を受け入れていたことを彼らは知らなかった。 今回の江松行きは、嫁ぐための旅だったのだ。 結婚式が近づく中、私は基成からこれまで贈られた物を一つ残らず箱に詰めて送り返した。 かつて宝物のように大切にしていた、あの想い出のネックレスさえも。 これからは、時だけが流れ、あなたとは二度と交わらない。 第1話 墨谷基成(すみや もとなり)が人前で婚約破棄したあの光景を、私は今でも思い出すたびに顔が熱くなる。 宴会場は満席だったにもかかわらず、静寂に包まれていた。 まるで空気が凍りついたかのように、呼吸の音さえはっきりと聞こえた。 基成にしっかりと手を握られていた白河月美(しらから つきみ)が、しばらくしてからおそるおそる口を開いた。 「基成くん、やめて……清枝はまだ若いんだから……」 「若い?もうすぐ二十六だろ?」 会場の隅から皮肉な声が聞こえた。 ひそひそと交わされるささやきが、場の空気をさらに重苦しくする。 私は意地になって基成の服の裾を掴んだ。現実を受け入れたくなかった。 けれど、彼を見上げたときには、すでに目が潤んでいた。 「清枝、俺にそんな酷いことを言わせたいのか?」 基成はシャンパンを置き、ゆっくりと立ち上がった。 「何度言ったら分かる?俺たちは家同士の政略結婚に過ぎない。俺は君を愛していないし、これからも愛することはない」 「じゃあ、どうして私が恋愛することを許してくれなかったの?」 私は涙交じりに抗議した。 「君は俺の『名目上』の婚約者だからだ。くだらない真似をされて恥をかくのは、早乙女家と墨谷家なんだよ」 「じゃあ、卒業式の夜、どうしてキスしたの?」 基成の目に、一瞬だけ嫌悪の色が浮かんだ。 「酔っぱらって絡んできたのは君のほうだろう」 私は思わず笑った。でも、涙は止まらなかった。 「でも、この数年、あなたのそばに他の女の人は一人もいなかった。本当に、私に対して何の感情もなかったの?」 「それは、まだ本気で好きになれる女と出会っていなかっただけだ」 基成は月美の肩を抱いた。 「これが最後だ。よく聞け。 俺が好きなのは月美で、彼女と結婚する。 今までの君の小細工なんて、今回は全部通用しない」 月美は基成の胸に身を寄せて言った。 「基成くん……」 基成は彼女に顔を近づけて、キスをした。 月美も彼の首に腕を回し、情熱的に応えた。 私の婚約披露宴の場で、彼は何の遠慮もなく他の女と人前で愛し合っていた。 その瞬間、私は卒業式の夜の、あのキスを思い出した。 同じように情熱的で、同じように甘くて、私はあの夜の夢に、四年間も酔いしれていた。 彼の心には私がいると、信じて疑わなかった。 基成は墨谷家の本宅を出て行き、月美と共に、川沿いの高級マンションに引っ越した。 引っ越しの日、彼はわざわざ友人たちに私へ知らせないよう口止めしていた。 きっと、また私が騒ぎを起こすのを恐れていたのだろう。 けれど今回は、私はもう取り乱したりしなかった。 彼の会社のビルの前で泣きながら待ち伏せするようなこともなかった。 ただ、胸の奥がひりつくような痛みに襲われたあと、私は無理やり自分に言い聞かせた。 ――もう忘れよう、と。 夜、数人の友人と近くの店で食事をしていたときのこと。 会計のタイミングで、偶然月美に出くわした。 「清枝、基成くんもここにいるの。挨拶していかない?」 私は穏やかに首を振った。 「ごめんなさい、友人と約束があるので……行かないわ」 すると月美の目に、ふいに涙がにじんだ。 「清枝、私、自分の家柄があなたほど立派じゃないことは分かってる。 でもね、お願いだから、目上の人の前で私の悪口を言わないでくれない?」 私は驚いて彼女を見つめた。 「白河さん、私はあなたについて、目上の人の前で何も言ったことはない」 月美は涙を浮かべて続けた。 「分かってるの。あなたは基成くんの許嫁だったし、彼のことをずっと愛していた。 急に私たちの関係を受け入れろと言われても、戸惑うのは当たり前だと思う。 でも、清枝、同じ女性として、譲り合う心を持ってほしいの」 私は昔から、思ったことをそのまま口にしてしまう性格だった。 この言葉を聞いた瞬間、思わず声を荒げた。 「白河、お願いだから適当なことを言わないで……」 言い終わらないうちに、月美の身体がふらりと揺れ、ひざまずいて崩れ落ちた。 「清枝、本当にお願い……」 私は驚いて、とっさに彼女を支えようとした。 けれど、手が触れる前に、彼女は全身の力を失ったかのように後ろへ倒れ込んだ。 「清枝、何をしているんだ!」 背後から基成の怒声が響いた。 次の瞬間、ものすごい力で私は突き飛ばされた。 腕が鉄の手すりに激しくぶつかり、鋭い痛みが体中を駆け巡った。 「基成、違うの、これはただの誤解で……」 「まだ言い訳するつもりか!こんな手口、いつまで続ける気だ!」 基成は月美を抱きしめ、私を睨みつけた。 その視線は、私の全てを否定するように冷たかった。 第2話 「清枝、早く彼女に謝って」 「基成……」 「黙れ。今すぐ謝れ!」 月美は彼の胸の中で小さく震え、音もなく涙をこぼしていた。その姿は、見る者の同情を誘うほどに哀れだった。 私の腕はすでに青黒く腫れ上がり、皮膚の下には内出血が広がっていた。 目を背けたくなるような傷。 けれど、基成は一瞥すらしなかった。 彼の目に映る私は、まるで罪深き犯罪者のようだった。 私は口元に苦笑を浮かべ、それ以上言葉を発さなかった。 「ごめんなさい」 基成はわずかに驚いたように目を見開いた。 だがすぐに、その視線はより冷たく鋭くなった。 「謝罪の気持ちが足りない」 私は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。 「これで……満足?」 月美は私を見つめ、唇の端をわずかに持ち上げた。 そしてすぐに泣き出しながら基成に訴えた。 「もういいの、基成くん…… こんな謝罪、受け取れるはずないわ」 基成の表情は一変し、優しさを帯びた。 「清枝、前にも言っただろう。月美は他の女とは違う。 君が彼女を傷つけるほど、俺は君を嫌いになる。 そして彼女を、もっと愛するようになる」 そう言い残し、彼は月美を抱いたまま背を向けた。 私はその場にひとり立ち尽くした。どれほどの時間が経ったのかも分からない。 腕の痛みは針で刺されるように鋭かったが、心は驚くほど静かだった。 やっと分かった。 この瞬間、長年抱き続けてきた淡い夢想が、音もなく崩れ去った。 すべてが幻だった。煙のように、あとかたもなく。 その夜、基成はSNSにいくつも投稿をしていた。 すぐに、彼の投稿がスクリーンショットで私の元に届いた。 特にキャプション部分には赤線が引かれていた。 皆が私に何を伝えたいのか、私はすぐに理解した。 これまでなら、私はすぐに基成のもとへ駆けつけ、声を荒げて責め立てていた。 彼はいつも嫌そうな顔をしていたけれど、最後には私に折れてくれた。 だから私は、彼も私を気にかけているのだと錯覚していた。 そしてその錯覚が、私の歯止めを失わせていた。 だが今回は、私は沈黙を選んだ。 代わりに、一週間前の不在着信にかけ直した。 「陸田さん、私です。清枝です。 以前お話しされていた件、もう考えがまとまりました」 十三歳のとき、両親が事故で亡くなった。 墨谷家とは昔から親しい付き合いがあり、家も近かったことから、私はそのまま墨谷家に引き取られることになった。 しばらくして、陸田理恵(りくだ りえ)さんから電話があった。 彼女は母の若い頃からの親友だった。 だが、恋を追って遠方に移り住んだことで長年連絡が絶えていた。 彼女が江松で落ち着いた頃には、私の両親はすでにこの世を去っていた。 理恵さんは、私を江松市に迎えたいと言った。 そして、母と交わした若き日の約束を果たしたいと。 ――私を自分の息子と結婚させ、陸田家の嫁に迎えること。 一週間前、私はすぐに返事をせず、「少し考えさせてください」と答えた。 だが今夜、私ははっきりと悟った。 これまでの片想いが、どれほど愚かだったか。 他人の話のネタになるような恋など、もう沢山だ。 半年前、基成は婚約を解消したいと言った。 私は泣きわめいて拒んだ。何度も。 だが、彼の意思が変わることはなかった。 今にして思えば、それが最良の決断だったのかもしれない。 運命というものは、きっとあるのだ。 電話越しに理恵さんが嬉しそうに言った。 「清枝ちゃん、周吾はずっとあなたの返事を待っていたのよ。 彼、もうすぐ江松に戻ってきて、あなたにプロポーズするつもりらしいわ」 スマホを握る手が熱くなり、頬もほんのり火照っていた。 けれど、耳元で響く彼女の笑い声は、なぜか遠く感じられた。 十年も想い続けた人。 でも、たった七日で忘れられるなんて。 基成と月美は、私が江松へ向かう日に婚約発表をした。 だから、私を見送ってくれる人はほとんどいなかった。 飛行機が着き、スマホの電源を入れると、通知音が鳴り止まなかった。 どれも、基成と月美の婚約に関する話題ばかりだった。 私は小さく笑って、すべての連絡先をブロックした。 江松に来る前に、私は陸田周吾(りくだ しゅうご)と会った。 目立つことも、噂になることも避けたかった。 彼は、そんな私の気持ちを理解してくれた。 そして、静かにプロポーズしてくれた。 指輪を交換し、簡素ながらも婚約を交わした。 口座には一億の結納金が振り込まれ、左手には控えめなダイヤの指輪が輝いていた。 陸田家の車に乗ろうとしたとき、携帯が鳴った。 発信者は基成の従妹、墨谷安芸(すみや あき)だった。 「清枝、お兄さんの婚約式、もうすぐ始まるよ!今どこにいるの?」 「ちょうど江松に着いたところ」 「早く戻ってきて!まだ間に合うから!」 「戻って何をするの?」 私は淡々と答えた。 安芸は言葉に詰まった。 「まさか、本当に諦めたの? このまま何もしなかったら、お兄さん、ほんとに他人のものになっちゃうよ!」 「それはあなたの兄の問題でしょ?私には関係ないわ」 「清枝?」 安芸の声が一段と大きくなった。 「まさかとは思うけど、本気で頭おかしくなったんじゃないでしょうね!?」 電話を切ろうとしたその時――受話器の向こうから、月美の声が聞こえてきた。 第3話 「清枝、私と基成くんの婚約式には来てくれないの?」 「あなたは基成くんの元婚約者だけど、彼はずっとあなたを妹のように思っていたわ。私はその義姉になる身として、あなたの祝福が欲しいの」 私は遠くの姿に目をやった。 彼は高級車のそばに寄りかかり、穏やかなまなざしを浮かべていた。 その瞬間、胸の中に不思議と静かな感情が広がっていった。 「ええ、二人が末永く添い遂げますように。心からお祝いするわ」 基成は数人の友人とテラスで酒を飲んでいた。 彼の視線はたびたび安芸たちのほうへ向けられる。 彼女たちがまた清枝に何かを伝えに行ったことくらい、彼には手に取るように分かった。 昔からそうだった。 彼のそばに他の女性が現れれば、すぐに彼女たちは清枝に報せる。 すると清枝は怒って駆けつけ、騒ぎを起こす。 彼はそういう面倒が何より嫌いだった。 そのうち、他の女性との関係も全て断つようになった。 今回も、どうせ同じ結末になると思っていた。 だからこそ、清枝が江松へ行く日を選んで婚約式を開いたのだ。 ただ、少しばかりタイミングが悪かった。 婚約式の開始は午後七時。 基成は額を押さえ、少しばかり頭を痛めていた。 清枝が情報を聞いてすぐに飛行機を取れば、ちょうど式に間に合ってしまうのだ。 「基成、もし清枝が乗り込んできたらどうする?」 「そうだよ、お前の元婚約者だし、他の女と婚約するって知ったら、間違いなく発狂するだろ」 「でも最近、あいつやけにおとなしくないか?」 「お前、白河のために婚約破棄までしたのに、あの子全然騒がなかったもんな」 「前なら泣き叫んでたはずだろ」 基成の手にあったワイングラスが空中で止まった。 口に運ぶのを忘れていた。 頭の中で、友人たちの最後の一言が繰り返されていた。 ――清枝は、確かに最近静かすぎる。あの子らしくない。 彼はよく知っていた。あの子はそんな性格ではない。 何度拒絶しても、決して諦めなかった。何度倒れても立ち上がる子だった。 年齢を重ねて、少しは落ち着いたのかもしれないが―― 基成はふと何かを思い出し、微かに笑った。ワイングラスを置きながら言った。 「見てろ。あいつが大人しく済ませるような子じゃないって、俺が一番よく知ってる」 「基成、お前……清枝が騒ぎに戻ってくるってことか?」 基成は何も答えなかった。 だが、心の中では確信していた。 あの子は昔から感情で動くタイプだ。 思春期の頃は恋愛ドラマに夢中になって、くだらない恋愛ごっこを真剣にやっていた。 その手の子どもじみた「駆け引き」を、彼は何度も体験してきた。 今の静けさも、どうせ「引いて見せて押す」だけの駆け引きだ。 賭けてもいい。 式が始まるまでには、必ず現れる。 「警備を強化しろ」 基成は腕時計を見ながら命じた。 「関係ない奴は中に入れるな。騒ぎを起こさせるな」 言い終わらぬうちに、安芸が慌てて駆け寄ってきた。 「お兄さん!清枝が来たって!車がもう正門に着いた……!」 基成は胸の奥にざわめきを覚え、すぐに険しい顔つきになった。 「まったく、反省って言葉を知らないのか。まだ騒ぎに来るなんて……!」 「お兄さん、どうするの?彼女が暴れたら、うちの顔が丸潰れになるよ……」 基成は顔を曇らせ、無言で大股に歩き出した。 「行って、どんな芝居をするつもりか見てやる!」 人々が彼の後を追うように、ぞろぞろと外へ向かう。 テラスを出ようとしたそのとき―― 「基成くん」 月美の柔らかな声が、彼を呼び止めた。 彼女はシャンパン色のドレスを纏い、上品にまとめた髪に、淡く清楚なメイクを施していた。 婚約式は夜七時。あと数時間ある。 心の内では不安を抱えながらも、その表情は穏やかだった。 「どうしてこっちに?」 基成は足を止め、彼女の顔に視線を落とした。 月美は――やはり美しい。 守ってあげたくなるような、繊細で優しい美しさを持つ人だった。 第4話 清枝の奔放でわがままな性格とは正反対に、月美は貧しい家庭に育ったせいか、どこかおどおどしていた。 話すときも、常に相手の機嫌をうかがうような口ぶりだった。 あの頃――基成が最も苛立っていた時期、清枝にしつこく付きまとわれてうんざりしていた彼は、自然と月美の柔らかな物腰に心を惹かれていった。 それに、過去の「近づいてくる女たち」とは違っていた。 彼と月美の出会いは、偶然の「事件」から始まったのだ。 男というものは、誰しもヒーロー願望を持っている。 月美への想いは、それまでの気まぐれな関係とは一線を画していた。 「清枝が戻ってきたって……聞いたの」 月美はそう口にした途端、目元が赤く染まった。 「……ちょっと、不安なの」 唇を噛み、視線を落とす。 「基成くん、私たち……本当に今日、婚約できるのかな……?」 「余計なことは考えるな」 基成は彼女の肩をそっと抱き、優しくなだめた。 「俺がすぐに対処する」 けれど月美は、彼のスーツの袖を掴んで放さなかった。 「基成くん……怖いの。あなたが……彼女との婚約を解消したことを、後悔するんじゃないかって……」 月美の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。 華奢な身体で、今にも崩れ落ちそうなほど弱々しかった。 「安心して、月美さん。お兄さんは清枝に一度だって本気になったことないから」 安芸は目に得意げな色を宿し、冷ややかに言い放った。 「清枝なんて、ただのわがままなお嬢様でしょ。すぐヒステリー起こすし、お兄さんもずっと我慢してただけよ。もう諦めたほうがいいわ」 安芸の清枝に対する嫌悪感は、常に隠されていなかった。 あの娘が兄と婚約したとたん、それまで彼女を可愛がっていた両親までもが、まるで未来の嫁として甘やかし始めた。 表向きは「墨谷家の面子のため」と言っていたが、安芸はその態度が気に食わなかった。 ここ数年、彼女の最大の楽しみは、清枝が恥をかくところを見ることだった。 今、あの女は人前で婚約を破棄され、一人恥ずかしげに去った。 安芸は、こんなに愉快な気分になったのは久しぶりだった。 ――誰が兄の嫁になっても構わない、あの女さえ除けば。 だがその基成が、不意に安芸に視線を向けた。 「君、あいつと仲良くしてなかったか?」 「どうして仲良くできるっていうの?私は、早く二人が別れればいいってずっと思ってた」 ここまで来たら、安芸ももう隠す気などなかった。 これまでの猫なで声や愛想笑いは、清枝の警戒心を解くためのものだった。 思い通りに操って、嫌われるような行動をさせるため。 今は、そんなことをする必要もない。 正体を隠さずに済むのは、どれほど気楽なことか。 彼女は気づいていなかった――基成の顔色が徐々に曇っていくのを。 「兄さん、じゃあこうしましょ。あなたは月美さんと一緒にいて。私が清枝を追い払ってくるわ。大丈夫よ、恥をかかせて帰らせてやるから」 「どうやって?」 「警備員に命じて、門前払いにするの。 もうあんなの、亡くなったご両親も怒りで墓から起き上がりそうだわ」 その言葉が終わらぬうち―― パシッ! 乾いた音が広間に響き渡った。 誰もが、言葉を失って立ち尽くした。 とりわけ、月美の表情がわずかに変わる。 眉間を寄せながら、基成の顔をじっと見つめていた。 「お兄さん、どうして私を叩くの……!?」 安芸は頬を押さえ、しゃくりあげるように泣き出した。 「彼女は、名目上でも俺の婚約者だった。彼女を侮辱するべきじゃない」 基成の表情は、怒気を孕んだ冷厳なものだった。 「俺の婚約者として、何年も墨谷家の顔を立ててきた彼女に、そんな仕打ちをして……家の名誉はどうなる?」 「どうして彼女の味方をするの?ずっとあの子のこと嫌いだったじゃない……!」 安芸は涙に濡れた顔で叫んだ。 「あなたがあの子を嫌うから、私たちも同じようにしてたのに……」 基成は黙り込んだまま、長く返事をしなかった。 果たして自分は、本当にあの子を疎ましく思っていたのだろうか?​ 第5話 基成の胸の内には、かつての記憶が鮮烈に甦る。 あの少女と出会った頃、二人の距離は誰より近かった。 彼女が転んだときは、彼が抱き上げて病院へ走った。 彼女がいじめられれば、真っ先に駆けつけて庇った。 初めての生理に戸惑った夜でさえ、彼は店を探して必需品を買い集めた。 彼女は幼い心で彼を絶対の拠り所とし、成長してからは、彼を世界のすべてだと信じた。 自分も、あの無垢な依存を好ましく思っていた。 いったい、いつから歯車が狂い始めたのか。 月美のすすり泣きが現実へ引き戻す。 そうだ、彼女が最初に変わったのだ。 大人になるにつれ、家族の溺愛を受けてわがままになり、支配的で強情になった。 自分が他の女性と接することを許さず、少しでも気に入らなければ声を荒げた。 だからこそ、彼は次第に疲れ、距離を置いた。 彼女の泣き叫ぶ引き留めも振り切り、あえて江松の学校へ送り出したのだ。​​ ​彼の願いはただ一つ―― ​彼女が成長し、分別を覚えてくれること。​​ ​あの怒りやすい性格さえ直れば、いつでも迎えに行くつもりでいた。​ 長年の情を、本気で手放すはずがない。 異郷で独り放り出しておくなど、到底できない。 なのに彼女は、よりにもよって今日という日に、再び好き放題に騒ぎを起こすつもりらしい。 本当に手に負えない。 基成は月美を抱き寄せ、柔らかく囁く。 「少しメイクを直してきて。メイクさんに仕切り直してもらおう。 こちらの手配が終わったら、すぐに迎えに行く。 式は予定どおり始めるから、心配するな」 彼女の涙を拭い、背を向けて歩き出した。 月美はその場に立ち尽くし、基成の後姿を見送る。​​ ​なぜか、彼女の胸には拭いきれない不安が募っていた。​ さっき安芸が言った通り――​ ​周りの誰もが、彼は本当にあの子を嫌っていると知っている。​​ ​なのに、たった数言のために、いとこを殴った。​​ ​​彼は本当に清枝を嫌っているの? ​​それとも……心のどこかで、やはり特別だと思ってくれているの? 館の正門へ向かった基成は、当の本人の姿を見つけられなかった。 目に入ったのは、ピンク色のBMW―― そして車の傍らに立つ、清枝の親友・林瑠奈(はやし るな)だけ。 そうだ。この車は清枝が岡北を発つ前に友人へ譲ったはず―― 胸の奥で重い痛みが跳ねた。 瑠奈は無表情のまま歩み寄り、赤い祝儀袋を差し出した。 「清枝が、あなたと月美さんに祝儀を届けてほしいと」 基成は手を伸ばさない。 瑠奈は眉をしかめ、さらに切り出した。 「もう一つ、頼みがあるの」 「なに」 「清枝が急いで旅立ったせいで、どうしても返してほしい物がある。 あなたの誕生日に渡した指輪を覚えている? あれは清枝の祖母が残した家宝。 彼女は将来の夫に贈るつもりで預けていたけれど、あなたの手元にあるままじゃ筋が通らない。 私が江松へ向かうときに渡したい。返してもらえる?」 基成はふと、自分の左手薬指を見下ろす。 艶を抑えた小さな指輪が、そこに嵌っている。 今朝、無意識に着替えながら嵌めた。 黒のスーツには似合わないと分かっていたのに、外さなかった。 だが今、その銀色の輝きは目を刺すほど痛い。 第6話 将来の夫に贈るつもり? その一言が胸に引っかかり、基成の心はざわついた。 清枝が誰か他の男と――朝も夜も共に過ごし、寄り添い、人生を歩む? 考えただけで、胸の奥から言いようのない不快感がこみ上げる。 彼女はかつて、あれほどまでに自分を愛していたはずだ。 なのに、他の男と結婚だなんて。 姿を見せず、瑠奈に伝言を託した。 その選択にも苛立ちが募る。 まったく、彼女はこういうときだけ、妙に抜け目がない。 「墨谷さん?」 瑠奈の声に我へ返り、彼は冷ややかに言った。 「清枝に伝えてください。 一度渡したものは、俺のものだ。返すつもりはない。 ……だが、彼女が本当に望むなら、自分の口で言わせればいい」 そう告げると背を向けたが、瑠奈がすぐに呼び止める。 「待ってください。いま彼女に電話を繋ぐわ」 冗談じゃない――と、瑠奈は内心毒づいた。 清枝は間もなく新しい人生へ踏み出すというのに、その大切な指輪が元婚約者の手元にあるなんて、許せるはずがない。 あの指輪を、結婚式で夫の薬指にはめてやりたい。 それが彼女の願いであり、長年の想いの結晶でもある。 長年にわたり、瑠奈の基成への嫌悪は日に日に増していった。​ ​しかし清枝はあろうことか、まったく道理をわきまえないほどに彼に夢中だった。​​ ​若さというはずの時間を浪費して待ち続け、結局は冷たく捨てられたのだ。​​ ​瑠奈は思い出すたび、基成の頬を張り飛ばしたくなるほどだった。​​ ​幸い、今では清枝もようやく現実を見据えることができた。​​ ​それどころか、さらに良い縁に巡り会えた。​​ ​心から友人の幸せを喜ぶ瑠奈―​― ​今回の旅で、必ずや約束を果たそうと決意を新たにする。 …… 「瑠奈ちゃん、どうしたの?」 瑠奈からの電話を受けたとき、私はもうすぐ陸田家に到着するところだった。 「清枝、彼に会ってきたけど……指輪、返してくれないの。 あなたが本当に望むなら、本人が来いって」 私は思わず、隣に座る周吾をちらりと見やった。 胸の奥で小さな不安が騒ぐ。​​ ​ 私と彼はまだよそよそしい間柄だ。​​ ​穏やかで礼儀正しい風貌とは裏腹に、​彼の放つ気圧は圧倒的で、無視しようがない。​​ ​さきほど車内で仕事の電話に出た時のこと。​​三ヶ国語を自在に行き来し、​指示を下す様は潔かった。​​ ​生まれながらの指導者気質が、​私の未熟さをこれ以上なく際立たせる。​​ ​本来、私はこんなに静かな性格ではない。​​ ​だが周吾を前にすると、なぜか緊張してしまう。​​ ​瑠奈への返事も考えあぐねているうちに、​電話の向こうでは、もう基成の声に変わっていた。​ 「清枝、……その指輪が本当に欲しいのか? それとも、俺たちの式を壊したいだけか?」 私は呆れて、思わず笑ってしまった。 「もし結婚を壊す気なら、そんなまわりくどいことはしない。 指輪が欲しいのなら、くれたときと同じように、直接取りに来い。 それだけ特別な品なら、人に預けるべきじゃない」 彼の一方的な言葉に、私は深く息を吸って冷静を装う。 「瑠奈は私の一番の親友。彼女に渡して。責任なら、私が取る」 「……はっ」 基成は冷笑した。 「清枝、もっと露骨に言う必要があるのか? ​​あの時と同じ方法で取り戻せ!」​ 電話はそこで切れた。 私は怒りと恥ずかしさで頬を染めた。​​ ​あの指輪を彼に渡した時のことを思い出す――​ ​ 私の卒業式の日だった。​​ ​勇気を振り絞って、校庭の桜の木の下で彼に唇を重ねた。​​ ​人を自らキスしたのは、あの時が初めてだった。​​ ​彼は少し驚いたようだったが、私を拒むことはしなかった。​​ ​その瞬間、ようやく訪れたのだと思った。​​ ​待ち望んでいた正しい時が。​​ ​震える指でポケットから指輪を取り出し、​そっと彼の掌に載せた。​​ ​指輪に込めた想いを伝えると、​彼はしばし沈黙し、結局受け取ってくれた。​ 第7話 だからこそ、彼がその指輪を受け取ったとき、私はてっきり――この気持ちを、彼も受け入れてくれたのだと、そう思ってしまった。 あの数年間は、本当にひどい夢のようだった。 けれど今、その夢からようやく覚めた私は、せめて過去にけじめをつけたかっただけ。 だからきっと、彼は喜んで――まるでゴミを捨てるように、あの指輪を返してくるだろうと思っていた。 でも、まさか――あんなふうに言うなんて。 そのときようやく気づいた。 若さゆえの無謀な想いは、いつか必ず代償を払う日が来るのだと。 あの指輪に特別な意味がなければ、もう返してほしいなんて思わなかった。 けれど私はもうすぐ結婚する。 それなのに、今もまだ基成の手元にあるなんて――周吾に申し訳が立たない。 「何か困ってる?」 ふいに、隣から声がした。 私は驚いて顔を上げる。 深く澄んだ瞳が、じっと私を見つめていた。 胸の奥がざわめき、息が詰まりそうになる。 隠しごとなんてしたくない――でも、まだそこまでの関係でもない。 正直に話すには、少し距離がある気がして……。 「ううん、大丈夫」 私は首を振った。 それでも、なんとしても取り戻すと心に決めた。 最悪、墨谷おじさんに頼ることになっても。 「ちょっと、墨谷家の方で片づけないといけない細かいことがあって」 できるだけ軽い口調でそう言って、彼に笑いかけた。 「でも大丈夫、私一人で何とかなるから」 周吾はただ静かにうなずいた。 「そう。でも、どうしても解決できないときは、清枝ちゃん…… 遠慮しないで言ってくれ。 君はもうすぐ、僕の妻になる人だから」 あまりにも自然に、そう言った。 彼にそう呼ばれるのは、これが初めてではなかった。 なのに――「妻」という言葉を聞いた瞬間、耳だけでなく、首筋までじんわり熱を帯びていく。 私たちはもう婚約している。 あと半月で、私は彼の妻になる。 心の奥には複雑な想いが渦巻く。 けれどそれと同時に、少しの期待と、ほのかな甘さが、静かに胸を満たしていた。 彼の目を見ることができず、こっそり横目で見る。 「……うん」 私は小さく返事をした。 周吾はそれ以上何も言わなかった。​​ 車は陸田家の別荘前に静かに停まった。​​ 彼は先に降りると、​私の側まで回ってきてドアを開けてくれた。​​ ふと気づくと、彼の左手薬指のダイヤの指輪が微かに光を放っていた。​​ 婚約式の日に披露して以来、​ずっと外すことなく身につけているのだった。​​ 彼は優しく私の腕を取って車から降ろしてくれ、​私がしっかり立った後も、手を離そうとしなかった。​​ むしろ自然に、私の指と絡め合わせた。​​ 最初は少し居心地の悪さを感じたが、​彼の掌から伝わる温もりはなぜか安心感を与えてくれた。​​ 長い指が優しく私の手を包み込むように握り、​次第に私はリラックスしていった。​ まるで、これが当たり前のように。 遠くから、周吾の母親の姿が見えた。 私たちが手をつないでいるのを見て、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。 まだ距離があるのに、彼女は私をぎゅっと抱きしめ、泣き出してしまう。 「清枝……若い頃のお母さんにそっくり……」 その瞬間、私も涙が溢れた。 彼女の香り――どこか懐かしくて、私の心の奥にある母の面影を呼び覚ました。 横で周吾がそっと苦笑しながら、ポケットからハンカチを取り出して差し出す。 「お母さん、そんなに泣いたら、外の人が僕たちに何かされたと思っちゃったよ」 周吾の母親は笑いながら私の涙を拭き、ぎゅっと手を握って言った。 「清枝、さあ、うちに帰りましょう」 私は自然と周吾の方を見た。 彼もまた、私を見ていた。 濃い緑に囲まれた屋敷の前、彼の瞳がやさしく微笑む。 「清枝、帰ろうか」 時計を見ると、七時まで、あと二十分だった。