君が白髪になるその日を待ち、愛が燃え尽きるまで

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君が白髪になるその日を待ち、愛が燃え尽きるまで

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帝都では誰もが知っている――雨宮涼介(あまみや りょうすけ)が妻の雨宮澪(あまみや みお)を心の底から憎んでいることを。 結婚にしがみつ...

Chương (1)

第1章

帝都では誰もが知っている――雨宮涼介(あまみや りょうすけ)が妻の雨宮澪(あまみや みお)を心の底から憎んでいることを。 結婚にしがみつく澪が煩わしく、束縛されることに嫌気が差していた。 だから涼介は、これまでに九十九回も離婚を切り出してきた。 そして迎えた百回目。今回も拒まれると思いきや、澪の声は氷のように冷たかった。 「分かった。離婚する」 第1話 帝都では誰もが知っている――雨宮涼介(あまみや りょうすけ)が妻の雨宮澪(あまみや みお)を心の底から憎んでいることを。 結婚にしがみつく澪が煩わしく、束縛されることに嫌気が差していた。 だから涼介は、これまでに九十九回も離婚を切り出してきた。 そして迎えた百回目。今回も拒まれると思いきや、澪の声は氷のように冷たかった。 「分かった。離婚する」 「本気なのか?」 「涼介、おめでとう!ついに自由の身だな!」 個室では数人の友人たちが冗談を飛ばしていた。目には驚きが浮かび、まだ信じられない様子だった。 そんな中、涼介自身も「離婚する」という言葉を聞いた瞬間、一瞬だけ目を瞬かせた。 だが、それ以上に心に広がったのは解放感だった。 涼介は勢いよく腕を上げ、今夜の会計をすべて引き受けた。騒がしい空気の中、薄暗い照明の下で澪だけが背を向けて静かに立っており、その姿に思わず目を奪われた。 「さて、今度はどれくらいで泣きついてくるかな?」 「一週間?それとも二週間?」 笑いながら、彼は手元のチップを七日後にすべて賭けた。 「七日後、俺は琴音と式を挙げる。お前ら、ちゃんと祝ってくれよ」 友人たちはさらに盛り上がった。 澪はすでに個室を後にしていた。外の陽射しが眩しくて、ようやく深く息を吐いた。 涙をこらえるのに必死で、心はどこか麻痺していた。車に乗り込み、家路につく。 スマホには、涼介のプロポーズ動画がインスタで拡散されている通知が次々と届いていた。見てはいけないと分かっていながら、ふとした衝動で再生してしまった。 画面の中の南条琴音(なんじょう ことね)は高級ブランドのドレスを纏い、頬を染めながら突然のプロポーズに驚きと喜びを隠せずにいた。 澪は琴音のことをよく知っていた。 涼介のそばに一番長くいた琴音に、彼は三百六十平米の高級マンションを用意し、世界に一つだけのランゲの指輪を贈っていた。 涼介はよく話していた。琴音がどれほど我儘で、彼が何かをしようとすればすぐに子どものように拗ねて、強気な顔でこう言うのだと。 「雨宮涼介、私は愛人なんかじゃない!」 だからこそ、涼介は澪に離婚を求め続けた。 二人でゼロから築き上げた会社が成功したとき、涼介は夫という立場を利用して澪の事業をすべて奪った。澪は彼を憎みながらも、結婚にすがるしかなかった。 最初に離婚を迫られたのは、澪が難産で大量出血したときだった。ベッドサイドに立った涼介は、冷たく告げた。 「離婚に同意するなら、手術同意書にサインしてやる」 二度目は、澪が交通事故に遭ったとき。涼介はスマホ片手に言い放った。 「離婚に同意するなら、救急車を呼んでやる」 …… 九十九回目は、澪が誘拐されて心臓を撃たれたときだった。電話越しの涼介の声は、やはり冷たかった。 「離婚に同意するなら、身代金を払ってやる」 そして百回目――澪は、もう限界だった。 プライドを捨てたくはなかったが、主治医の林紀行(はやし のりゆき)先生に告げられたのだ。澪の心臓はもう持たず、余命は七日。 澪は薄暗い別荘へと向かった。絶望に心を覆われ、涙すら流せなかった。 そもそも、最初に涼介に想いを寄せ、積極的にアプローチしたのは澪のほうだった。 雨宮涼介は帝都で名を馳せる御曹司で、人と距離を置くタイプだった。幼い頃から彼の後をついて回るのが好きだった澪にとって、冷たい態度は日常だった。 けれどそんな彼が、燃えさかる火災の中を何度も往復し、命がけで澪を助けてくれた。 火災で両親を亡くした澪は、長く言葉を失っていた。 涼介は根気強く言葉の練習に付き合い、澪の訛りを笑う者がいれば真っ先に飛び出して殴り、肋骨を三本も折ったこともあった。 夜が怖いと泣けば、昔話をしながら朝まで側にいてくれた。 澪は、本当に愛されていると信じていた。 だからこそ、どこにでもあるような素朴な指輪でのプロポーズにも、迷わず頷いたのだ。 だが結婚後、気づけば実家の事業はすべて乗っ取られていた。問い詰めようとオフィスの扉を開けたとき、 目に飛び込んできたのは――琴音を抱きしめ、キスする涼介の姿だった。 視界が真っ白になり、雷に打たれたような衝撃が走った。 「澪、見てしまったのか」 「俺と離婚してくれ。琴音にはちゃんとした立場が必要なんだ」 胸が締めつけられるような痛みに襲われた。なぜ、と問いかけた澪に向けられたのは、冷酷な眼差しだった。 「本気で俺がお前を愛していたと思ってるのか?澪、お前の母親が昔、俺の母を死に追いやった。あのとき母も、今のお前のように絶望していたんだろうな」 その言葉で澪は悟った。 涼介は、十年もの間、自分を憎み続けていたのだ。 だから澪は、自分の最後の砦を何としても守ろうとした。離婚だけはしたくなかった。 プライドを捨てたくなかった。 でも、もうすぐ死ぬ。自分でも惨めだと思った。 彼女は頑固な性格で、誰にも醜い姿を見せたくなかった。死に際でさえも…… 涼介には、自分の亡骸を見せたくなかった。 どれだけ時間が経ったのか分からない。澪はふと夢から目覚めた。夢の中で、涼介は優しく澪を抱きしめ、赤いバラが世界を覆っていた。 彼は静かに祈りを捧げ、優しい眼差しで言った。 「澪、俺たちはずっと一緒にいよう」 けれど目を開けると、そこには暗闇しか残っていなかった。 澪のスマホには、涼介が突然インスタに投稿した写真が表示されていた。 一筋の血痕、皺の寄ったシーツ。 キャプション――【ついに人生で最も愛しい人を手に入れた】 第2話 澪は呆れたように目を閉じ、思いきって涼介のLINEを削除した。 翌日、澪は手元に残った全財産を使って墓地を購入し、連絡先の欄に涼介の名前を記入した。 暗記しているその番号を見つめながら、澪は自分がどれほど惨めな存在なのかを痛感した。 葬儀の手配をすべて終えた澪は、静かに別荘へと戻った。 だが玄関先では、自分の私物がまるでゴミのように無造作に散乱していた。状況を飲み込む間もなく、甘ったるい声が耳に入る。 「ねえ涼介、ここの全部、本当に私のものなの?」 涼介は穏やかな笑みを浮かべ、琴音の唇に何度もキスを落とした。 「全部、君のものだ。君がこの家の女主人だよ」 二人は、玄関先で立ち尽くしている澪の存在に気づかなかった。 澪は拳を握りしめ、これ以上惨めに見えないよう努めようとしたが、抑えきれずに一気に駆け寄った。 地面に散らばったかつての思い出の写真は、すでに粉々に破かれていた。その中で澪が最も目を背けたくなるのは、両親の位牌が汚水の中に落ち、泥まみれになっていた光景だった。 「誰がやった!?」 拳を震わせながら、澪は怒りをにじませた視線を向ける。琴音は怯えた素振りで涼介の背に隠れ、か細い声で訴える。 「涼介、彼女、怖い……私のこと殴ったりしないよね?」 涼介の顔には無表情が張りついていたが、その手はしっかりと琴音を庇い、口調にはわずかな怒気がにじんでいた。 「俺がやった。何か文句あるか?」 「ここは俺の家だ。お前はもう離婚協議書にサインした。嫌なら出ていけ」 澪の胸に鋭い痛みが走ったが、顔からは感情が抜け落ちていた。 「まだ離婚届は提出してないわ。ここは、私の家でもある」 「後ろのその人、何の立場?警察に通報して身元を確認してもらった方がいいかしら?」 その一言が、涼介の怒りに火をつけた。彼は眉間に皺を寄せ、露骨な嫌悪を滲ませながら冷笑を浮かべた。 「澪……お前、プライドはどこに捨てた?自尊心はどうした?」 澪は汚れた位牌を拾い上げ、無言で階段を上がると、琴音の荷物をすべて引きずってきて、涼介の目の前で床に叩きつけた。 琴音の目はたちまち真っ赤になり、泣き叫びながら家を出て行こうとした。だが、澪はすでに部屋のドアを閉め、すべてを締め出していた。 疲れた。本当に、心の底から疲れた。 目を閉じると、頬を一筋の涙が静かに伝った。この家は、両親が亡くなる前に遺した最後の財産だった。 涼介は知っているはずだ。澪がなぜ、この家を必死に守り続けてきたのかを。 ここは澪にとっての、帰る場所だったのだ。 けれど今、握った手に力はなく、心の奥にあった最後の気力さえも、静かに消えていくようだった。限界はすぐそこにあった。 それでも澪は立ち上がり、涼介との思い出の品々を探し集めた。 涼介が誕生日に贈ってくれた赤いドレスは、琴音にオートクチュールを購入した際のおまけだった。 束になった数百枚のお守りの裏には、びっしりと琴音の生年月日が書き込まれていた。 そして、あの結婚指輪。 十年間、大切に身につけてきたその指輪は、いつも少し大きいと感じていた。あらためて見てみると、内側には琴音の名前のイニシャルが刻まれていた。 澪は静かに目を閉じた。胸の奥に鋭い痛みが広がる。 自分は、なんて愚かだったのだろう。今になってようやく気づいた。 涼介は一度だって、彼女を愛したことなどなかったのだ。 もうこれ以上、思考を支える余力はなかった。涼介が家を空けている間に、澪はそれらすべてを庭で丁寧に処分した。 ようやく目を閉じ、静かに休もうとしたとき、突然、涼介専用の着信音がスマホから鳴り響いた。 反射的に電話に出たら、冷たい声が耳を刺す。 「澪、星那に何かあった。すぐに来い」 その一言で、澪の中の何かが目を覚ました。慌てて家を飛び出した。道中、ただひたすらに祈り続けていた。 雨宮星那(あまみや せな)は、澪が難産の後に引き取った白血病の子どもだった。涼介との関係が完全に破綻したあと、やむを得ず児童養護施設に預け、澪は毎週のように会いに行っていた。 星那は、驚くほどお利口で、どんなに痛くても澪の手をそっと握るだけだった。 「お母さん、いたくないよ」 澪はもう、二度と自分の子を持つことはできない。この子は、澪にとって実の子どもも同然だった。その一言で、澪はアクセルを踏み込み、施設まで車を走らせた。 だが、息を切らしながら施設の扉を開けたその瞬間、 人だかりの中から、琴音の笑い声が響いた。 「ハハハ!涼介、やっぱり言った通りだったわ。彼女って本当、犬みたい。一言で飛んでくるのね」 嘲笑に満ちた周囲の視線を感じて、澪はすべてを理解した。 彼女は静かに踵を返そうとした。だがその腕を、琴音が強引に掴んだ。逃れようとしたその瞬間、澪の身体は力強く押され、湖へと突き飛ばされた。 汚れた水が口と鼻から肺に流れ込み、必死にもがく中、琴音の顔にはこれまで見たことのない勝ち誇った笑みが浮かんでいた。 「あんたなんかに、私を愛人呼ばわりする資格があると思ってるの?」 湖の中を一時間も漂っていた澪が、ようやく岸に辿り着いたとき、まず向かったのは琴音のもとだった。 全身を震わせながら、腕を振り上げ、渾身の力を込めて琴音の頬に、全力の平手打ちを叩きつけた…… 第3話 再び目を開けると、視界に映ったのは、病院の真っ白な天井だけだった。 鼻をつく消毒液の匂いに、澪は思わず身を起こしかけた。けれどその瞬間、顔や体のあちこちに鋭い痛みが走った。 「澪さん!」 林先生は、澪が顔の傷に手を伸ばそうとするのを見て、すぐさま駆け寄ってその手を掴んだ。 「動いちゃダメです。植皮手術を終えたばかりで、今がいちばんデリケートな時期なんですから……」 植皮? 澪は一瞬呆然とし、次の瞬間、洗面台へと駆け出していた。鏡に映る自分の顔には、大小さまざまな傷がにじみ出た血で覆われ、無数の痕が刻まれていた。澪はその姿に目を閉じるしかなかった。 背後から林先生の必死な声が追いかけてくる。 「やっぱり、動かないほうがいいです。今は辛いかもしれませんが、ちゃんと治療を続ければ、元の姿に戻れる可能性だってあるんです」 澪の頬を、涙が一筋、音もなく滑り落ちた。傷に染みて、ひりひりとした痛みが募った。 「でも……もう私には、未来なんてない……」 そのとき、病室の入口に涼介が立っていた。彼の目には、深い影のような暗さが宿っていた。 「今回の件は、お前が琴音に迷惑をかけたんだ」 「琴音の肌は繊細なんだ。お前の平手打ちで顔に傷が残って、顔まで台無しになった。だから、お前が責任を取るべきだ」 「昼間の件は琴音が先に手を出した。でも、もう十分に痛い目を見た」 澪は呆れて笑った。笑った拍子に顔じゅうに鋭い痛みが走り、血がまた滲んだ。 「どんな罰を受けたっていうわけ?」 涼介は眉をひそめ、不満そうに答える。 「琴音は痛みに弱い。植皮手術の痛み、それだけでも十分だ」 涼介が琴音に甘いことくらい、澪だって知っている。でもその言葉を聞いた瞬間、もう感情が抑えきれなかった。限界だった。 「……つまり、私の顔についた三十以上の傷と引き換えに、琴音が感じた痛みが罰だって言いたいわけ?」 涼介のまとう空気が一気に冷たくなったが、表情は相変わらず氷のように無機質だった。 「澪、お前は何をそんなに抗っている?」 「素直に謝れば、お互いにとって悪くない選択になる」 澪は拳を握りしめ、爪が掌に食い込んだ。彼女は勢いよくスマホを掴み、警察に通報しようとした。だが、涼介は冷たく一瞥を送るだけだった。 「お前、昼間言ってただろ。俺たちはまだ離婚していないって」 「だから、お前の手術には俺がサインした。通報したいならすればいい。帝都で、この件を引き受ける警察官がいるなら、な」 そう言い残し、涼介は完全に興味を失ったように背を向け、病室を出ていった。 澪はひとり、乱れた髪のまま、スマホのぼやけた「110」を見つめていた。悔しくて、悔しくてたまらなかった。どうして、あんな男を愛してしまったんだろう。 澪はもう、治療に時間をかける気もなく、そのまま自宅へ戻った。 家にはすでに琴音が居座っていた。リビングでは、インスタに投稿するための写真を撮っていた。 澪は琴音と関わりたくなかった。ただ階段を上って、不動産登記証明書を探すつもりだった。この家を売る。絶対に涼介の手に渡すわけにはいかない。 そんな澪の背中に、琴音の声が飛んだ。 「ちょっと、待ちなさいよ!」 澪は振り返らずに歩き続けた。だが、突然腕を乱暴に引かれた。抵抗しようにも、病み上がりの体には力が入らず、琴音が彼女の前に座り込むのをただ見ているしかなかった。 澪は見逃さなかった。琴音の顔には、うっすらと傷が残っていた。 「澪、このネックレス、涼介が私に買ってくれたの」 「世界に一つだけのものよ」 琴音は満面の笑みで勝ち誇ったように言った。澪にはわかっていた。涼介の無条件の甘やかしがなければ、琴音がここまで傲慢になることはなかったと。 それでも澪は顔を伏せ、琴音の言葉には一切反応せず、呼吸を整えて体力を温存しながら階段を上ろうとした。 琴音は、そんな澪の無反応に苛立ち、無理やり彼女の顎を持ち上げた。 「ねえ、何を気丈なフリしてるの?心の中じゃ怒ってるんでしょ?長いこと愛した男に、愛されなかったのよ!」 澪は静かに顔を上げ、まるで世の中で一番くだらないことを聞いたかのように、鼻で笑った。 「じゃあ、あなたは?他人の結婚に割り込んで、やっとその男を手に入れたとして……また誰かに取られるかもって、怖くないの?」 「哀れね」 琴音の過大な自尊心が大きく傷ついたのか、その瞳に一瞬、凶暴な光が宿った。 「澪、覚えておきなさい。私はあなたの一番大切なものを、すべて奪ってやるから!」 澪は琴音の言う「大切なもの」が涼介の愛だと思っていた。けれど、その夜、思いもしなかった出来事が起きた。別荘全体が、突然、大火に包まれたのだ。 もうもうと煙が立ち込めるなか、澪は誰かに強く引き上げられ、後ろでは消防士が必死に彼女を守りながら外へと連れ出していた。 安全な場所へ運ばれた澪は、呆然とつぶやいた。 「……だめ、だめ……」 すべてを悟った澪は、両親の位牌を取りに戻ろうとした。だが消防士が必死にその体を押さえつけた。 琴音はすでに涼介に救い出されており、彼の腕に抱きかかえられながらも、不満そうな顔をしていた。 「私、悪くない!何が悪いのよ?あの女が私のことを愛人呼ばわりしたのよ!私を傷つけたの!だから、私が罰を与えたのよ!」 涼介は、初めて琴音を庇わず、厳しい声音で黙らせた。 けれど、澪の耳にはもう何も届いていなかった。ただ、目の前で燃え盛る炎がすべてを焼き尽くしていく光景だけがあった。澪の最後の拠り所だった家。その記憶も、炎とともに煙となって消えていった。 澪は絶叫しながら苦しみに耐えきれず、血を吐いてその場に崩れ落ちた。 第4話 意識がぼんやりとしていく。今日は目覚めて二日目だったが、澪はまだ嗄れた声のまま、一言も口をきかなかった。 琴音は、まるで理不尽な仕打ちを受けたかのように目を赤くし、もじもじと立っていた。 「ご……ごめんなさい!」 「でも、最初にいじめてきたのはあなたのほうよ!」 涼介が琴音の背後に立ち、口を開いた。 「今回のことは、琴音にも分別が足りなかった」 それでも澪は無反応で、呼吸さえ浅くなっていた。 「琴音は若くて血の気が多いから、多少の過ちは仕方ない。家は離婚協議の中でお前に譲渡する」 澪はベッドに座ったまま、虚ろな目で泣き笑いを浮かべ、手に届くものを次々と叩きつけた。かすれた声で叫ぶ。 「出て行って!出て行け!」 涼介は無理に抑えつけようとはせず、反射的に琴音を背後に庇った。 その後、一日中、涼介は澪のそばにいた。殴られて青あざだらけになり、どれだけ罵倒されても、彼は昔のように澪の発音練習に付き合い、夜になるとベッドサイドにランプを灯して、眠ることなく昔話を語り聞かせた。 まるで、かつての時間が戻ってきたかのようだった。だが澪は知っている。涼介という男は、誰よりも「迷惑をかけられること」を嫌う人間なのだということを。 つまり、今の彼は「罪悪感」で動いている。琴音のために。 涼介は点滴のボトルを懐で温め、苦い薬のあとにはそっと飴を添える。その気遣いは細部にまで行き届いていて、澪は思わず錯覚しそうになる。 もしかして、涼介はまた私を――愛してくれているんじゃないか、と。 しかしその夜。喉の痛みで目を覚ました澪は、水を探して立ち上がった。部屋は真っ暗で、微かな光が漏れているドアのほうへ、反射的に足を向けた。 けれど、次に聞こえてきた賑やかな声に、澪はその場で立ち止まった。友人たちの笑い声のなか、涼介の低い声が混じっていた。 「騒ぐのは構わないけど、彼女を起こすな」 気を利かせた友人たちは頷き、動きを控えたが、琴音は唇を尖らせ、不満げに言った。 「ねえ涼介、あんなに長く彼女に付き添ってるのに、いつになったら私のそばにもいてくれるの?」 涼介は答えず、代わりに琴音の小さな顔を優しくつまんだ。友人たちはそれを羨ましそうに見て、冷やかしの声を上げた。 王様ゲームのルーレットが涼介の番で止まり、友人たちは顔を見合わせながら、ずっと聞きたかった質問をぶつけた。 「ねえ涼介、発話練習を最初から手伝わなくても、復讐の計画って成立したでしょ?なんでわざわざあんなことを?」 涼介の表情は変わらず、琴音を見つめる目にはただ優しさが宿っていた。 「だって、しゃべれなかったらベッドの上で声も出せない。そんなの、つまらないじゃないか」 その瞬間、友人たちは沸き立ち、部屋の空気が弾けるように盛り上がった。 涼介は勝者のようにその中心に座っていたが、彼の目の届かない場所に、一つの震える影があった。 澪はドアの向こうで、必死に自分の口を押さえていた。そんな姿だけは、見せたくなかった。 涼介が自分を愛していないことなんて、とうに分かっていた。もう、好きになってはいけないと分かっていたのに。なのに、なぜ――こんなに痛い? 心を抉られるような痛み。涙が止まらない。 かつての美しい記憶は今や刃となって澪を貫き、麻痺したまま、ベッドへと引き返した。 ――結局、最後まで騙されていたのは、私だけだった。涼介は最初から、復讐のために近づいてきたのだ。 その夜、澪はベッドの上で、ずっと座ったまま朝を迎えた。翌日、涼介が部屋に入ってきたとき、その顔色の悪さにさすがの彼も微かに目を揺らした。 澪はもう、かつて記憶の中にあった少年ではない涼介を見て、ゆっくりと口を開いた。その瞳には静かな嫌悪が宿り、彼に触れられるだけで吐き気を催した。 「涼介。もう、私のために何かしようとしなくていい。気持ち悪い」 涼介は動きを止めた。澪の流暢な言葉に何か言おうとしたが、その次のひとことは、まるで決別の宣告だった。 「四日後、私たちは離婚する」 「星那の養子手続きに付き合って。あんたのような父親を持つなんて、あの子が気持ち悪いと思うだけよ」 第5話 涼介の視線が澪に向けられ、どこか複雑な表情を浮かべたものの、やがて静かに頷いて了承した。 ただひとつ、涼介には条件があった。琴音を、かつて涼介と澪が結婚した時、澪のために購入した別荘に住まわせるというものだった。 その日の午後には、琴音はもう引っ越してきた。外は雨。琴音は涼介に抱きかかえられたまま、両足を地につけず、顔を赤らめながら口を開いた。 「ばか。こんなに人がいるなんて、ちゃんと教えてよ……早く下ろして」 涼介は無表情のままだったが、口元にだけわずかな笑みを浮かべ、どこか愛しげに、そして脅すように言った。 「そんなふうに俺を呼び続けるなら、お前の舌、切り落とすぞ」 澪は一瞬、呆然とした。その言葉。かつて涼介が澪にもまったく同じことを言ったのを、思い出した。「もうわがまま言うなら、お前の舌、切るよ」 涼介は、自分が好きな相手にだけ、いつも口では逆のことを言う。 その瞬間、澪は確信した。涼介は、本当に琴音を好きになったのかもしれない。 心はとうに麻痺していた。それでも、澪の手は止まらなかった。星那は児童養護施設にいる間に、以前よりもますます口数が少なくなっていた。あの子は「お母さん」と呼んで手を握ってくるたびに、澪の胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。 でも彼女は、もうすぐ死ぬ。この先、星那を守ってやることはできない。せめて少しでも多くお金を残して、服を買って、温かい家庭を見つけてやりたい。 澪は、ずっと苦労ばかりの人生だった。だから、自分の子供まで巻き込むわけにはいかない。 なのに涼介は、澪を待たせ続けた。「琴音が住み始めたら、連れて行く」そう言われて、澪は待った。 「琴音が落ち着いたら、連れて行く」そう言われて、澪はまた一晩待った。 そして今度は、「琴音が部屋を片付けたら」と言われたとき、澪は、自分の体が限界に近づいていることをわかって、もう待てない。 だから澪は、涼介の前で初めて怒りを爆発させた。澪の冷たい瞳に、涼介の心が揺れ、最終的にようやく彼は、澪を連れて行った。 だが、そこにいたのは、生きている星那ではなく、冷たい墓石だった。 涼介は澪の背後から、淡々と、けれど少しだけ同情をにじませて言った。 「星那の白血病、移植できる骨髄がなかった。助からなかった」 「澪、もうこれ以上、馬鹿な真似はやめろ」 でも澪は、忘れていなかった。あの日、澪が流産したとき。涼介が自ら星那を引き取り、「ここが、あの子の家になるんだ」そう言った。 全身の血が凍るようだった。ただ呆然と、無名の墓石を何度も見上げ、長い時間その場から動けずにいた。 どうやって帰ってきたのか覚えていない。ただ帰宅してからは、一言も話さず、未完成のマフラーを黙々と編み続けていた。 涼介は何も言わず彼女を見続けた。六時に現れては、澪にお粥を差し出した。 「少しは口にしろ。身体がもたないぞ」 でも澪は、何の反応も示さなかった。無表情のまま、深夜までマフラーを編み続けた。 涼介は苛立ちを抑えきれず、目を閉じて、思わず澪の手に触れた瞬間――その冷たさに、はっと息をのんだ。 「薬を買ってくる」 「死ぬにしても、ここで死ぬな。縁起でもない」 そう吐き捨てて部屋を出ていった涼介。その背中を見送りながら、澪はようやく、顔を上げた。窓の外には月明かりが差し込んでいて、澪は溺れるように目を閉じた。 だが、髪を掴まれる激痛に、澪は反射的に目を開いた。いつの間にかそこにいた琴音が、少女のような嫉妬を露わにしながら、澪の髪を乱暴に掴み上げていた。 「またそんな可哀想なふりして、澪、たかが子供が一人死んだだけでしょ?」 「何、白々しくしてるのよ!?」 琴音の叫び声が鋭く響き、澪の頭の中に耳鳴りのように残り、彼女は反射的に目を閉じた。 「澪、あんたのその偽善的な態度、心底ムカつくのよ!」 「死んで当然よ。あの子が生きてたって、私が継母になった時点でどうせ殺してたわ。凍え死ぬか、燃え死ぬか、事故で溺れ死ぬか――方法なんていくらでもある。あんたに、本当に守れると思ってるの?」 琴音は澪に目を合わせさせ、その瞳に潜む悪意に、澪の体が震えた。痛くて、心の奥底が、焼けるように痛んだ。 澪の目が、真っ赤に染まっていく。毒蛇のように琴音を見据えたその目に、琴音はあきれたように鼻で笑った。そして、手を振り上げると、澪の頬を強く打ちつけた。 「まだ睨む余裕があるんだ?本当に調子に乗った女ね」 「涼介にあのクソガキの薬を止めさせたって、あんたに何ができるっていうの?」 その瞬間、澪の中で何かがはっきりと目を覚ました。真っ黒な憎しみが、胸の奥から込み上げる。彼女は弱かった自分を憎んだ。真実を見抜けなかった自分を憎んだ…… でも、どれだけ憎んでも、澪が一番憎んだのは自分が、涼介を愛してしまったという「事実」だった。 澪の手が、床を這うように動いた。鋭く尖った編み針が指先に触れた瞬間――澪は、それを握りしめ、そのまま琴音の体めがけて突き刺した…… 第6話 しかし澪はやはり一歩遅く、刺すことはできなかった。 涼介は錯乱したままの澪を見て、怯えて泣いている琴音の体を念入りに調べ、異常がないことを確認してから、澪を睨みつけた。その目には、冷たさがより一層深く宿っていた。 「澪、お前、正気か!」 澪は涼介の顔を真っ直ぐに見つめ、震える声で言葉を絞り出した。瞳は真っ赤に染まっていた。 「悪いのは琴音」 「あいつが、私の子に手を出した」 涼介は琴音を抱き上げ、庇い続けた。 「琴音は口にしただけだ。薬を止めたのは俺だ。なら、なぜ俺を狙わない!?」 その言葉に、澪は目を見開き、赤く染まった瞳のまま、乾いた笑いを漏らした。 琴音が口にしただけで、涼介は薬を止めた。 琴音が間接的に星那を殺したというのに、琴音は無罪。 涼介、あなたは琴音のことを、どこまで愛しているの? 澪は突然涼介の目の前に詰め寄り、憎しみに燃える瞳で彼を睨みつけた。 「琴音が憎い。涼介、そんなに守りたいっていうなら、一生あの女を私の前に出すな!」 「顔を見るたび、本気で殺してやる」 涼介の目にも、深く黒い憎悪が渦巻いていた。泣き続ける琴音を一瞥すると、彼は黙ってその場を去った。広々とした別荘には、澪だけが取り残された。そして涼介の冷え切った声が響く。 「澪、お前はお前のクソ母親そっくりだ。毒親に育てられたら、娘もやっぱり毒になるんだ!」 「琴音に何かあれば、お前も一緒に地獄へ落ちろ」 二十六年の付き合い、十年の結婚生活。涼介はこれまで一度も、澪の母について口にしたことはなかった。 どれだけ激しい喧嘩をしても、その名前を出すことはなかったのに。今、涼介は他の女のために、その刃を澪に向けた。 澪はその場に崩れ落ち、両腕で自分を抱きしめるようにして座り込んだ。 絶望の中、ぽたりと落ちた涙が床を濡らす。口を開いたときの声には、静かな決意が滲んでいた。 「涼介、私は琴音のために命も捨てた。それでも足りないっていうの?どうして子どもの命まで奪った?」 「わかってるのに、この子のために全部捧げた私に、どうしてそこまで残酷になれるの?」 澪の問いに、涼介は一度も振り返ることなく去っていった。代わりに返ってきたのは、ボディーガードの無機質な声だった。 「涼介さんのご命令です。あなたはわざと琴音さんを害そうとし、ひどく驚かせました。家の決まりにより、冷凍庫で反省してもらいます」 その言葉と同時に、数人のボディーガードが勢いよく近づき、無理やり彼女を引きずって冷凍庫へ向かった。 澪は未完成のマフラーをしっかりと抱きしめ、真っ赤で虚ろな目をしていた。 冷気が骨の芯まで染み渡り、全身が激しい痛みに襲われる。 澪は寒さに震え、白い息を吐きながら、 一秒一秒と心拍が遅くなっていくのを感じていた。そして、意識は闇に沈んだ。 次に目を覚ましたとき、澪は病院のベッドの上にいた。涼介が血のように赤い目で澪の襟元を掴み、低く囁いた。 「澪……お前を、そう簡単には死なせない」 「お前には、一生苦しんでもらう……」 だが澪は、ただ静かに微笑み、目を伏せた。涼介に教えてやりたかった。 そんなこと、言わなくてもいい。 もう、長くはないのだから。 第7話 翌日になって、ようやく澪は涼介の言葉の意味を理解した。まだ反応する暇もなく、何人かのボディーガードに無理やり輸血室へと押し込まれた。 青あざだらけの腕に、太い採血管が容赦なく突き刺さる。その様子に、採血していた林先生でさえ目をそらし、思わず口を開いた。 「涼介さん、澪さんはついさっき命の危機を脱したばかりなんですよ。今また採血したら、おそらく……」 涼介は黙ったまま背を向けている澪に冷たい目を向けて、力を込めて言った。 「構わない。琴音とお腹の子が無事なら、それでいい。他のことは気にするな」 その時、澪は初めて琴音が妊娠していることを知った。 琴音は普通のA型なのに、それでも涼介は無理やり澪に輸血させた。 澪の腕からは、すでに血液パック一袋分くらいの血が抜かれ、まぶたはどんどん重くなる。二人の会話のひと言ひと言が、小さな針みたいに澪の胸を刺してくる。 琴音のためなら、私の命だって差し出すつもりなの、涼介? 体がどんどん冷えていくなかで、意識も遠のいていった。そんな中、ようやく涼介が林先生に軽く言った。 「鎮痛剤を打て。気絶はさせるな」 澪はうつむき、もう深呼吸すらできなかった。 林先生は部屋の外から駆けつけて、きっぱり言い放った。 「涼介さん、これ以上は本当に無理です」 しかし、澪は自ら腕を差し出し、虚ろな目で問いかけた。 「採血が終われば帰れる?」 涼介の目がわずかに揺らいだが、結局は澪の腕を無理やり掴み、林先生に渡した。「採血しろ。終わったら離婚しに行く」 もう話す力も残ってなくて、口の中は血の匂いでいっぱいだった。澪は頭を垂れたまま、まるで操り人形みたいに動かされていた。 どれくらい時間が経ったのかもわからない。ただ、すべてが終わったとき、澪はテーブルに崩れるように倒れ込んだ。涼介は鼻で冷たく笑って、ボディーガードに澪を抱えさせ、市役所へ向かった。 澪の口からは止めどなく血が溢れ、震える手でどうにか離婚届にサインした。 離婚証明書を手に取って立ち去ろうとした瞬間、涼介が澪の手首を掴んだ。顔には、相変わらずあの皮肉な笑みが浮かんでいる。 「どこ行くつもりだ?琴音はまだ体調戻ってない。お前には、保険の血袋として、もう少し働いてもらう」 澪はうつむいたまま、抵抗する気力もなく連れて行かれた。 結婚式の日、涼介は琴音の手を優しく取り、誰もが目を奪われるほど幸せそうに微笑んでいた。 ただし、二階の隅でぼんやりしている澪を除いて。 痛い……痛い……。終わりの見えない痛みが押し寄せてきて、澪は思わず大量の血を吐き、体が小刻みに震え始めた。 もう限界だった。自然と涙が流れたまま、それでも澪は無意識的に前へ進もうとした。 こんなところで、こんなみじめな最期を迎えるわけにはいかない。 だが、手すりに手をかけた瞬間、涼介に無理やり引き戻された。 「琴音が倒れた。急いで輸血しろ」 声も出せない。歯ぐきは腫れ、口の中は血の塊でいっぱい。それでも、澪は伝えたかった。 私は死にそう。でも、ここで死にたくない。 意識が闇に沈むなか、紫色に変わった腕に輸血管が刺さる――その瞬間、澪の耳に届いたのは、涼介の冷酷な声だった。 「死ぬのは勝手だが、その前に琴音の子のために贖え」 澪は何も抗わなかった。ただ、血が一滴ずつ抜かれていくのを感じていた。 窓の外では、来賓たちが乾杯していた。薄れる意識の中、まるであの日の結婚式に戻ったような錯覚に陥る。 酔っていたはずの涼介が、あの日――唯一、澪の手だけはずっと握っていた。 さまざまな声が遠ざかり、澪は疲れたようにそっとまぶたを閉じた。そして聞こえた気がした。 「澪、絶対に君を裏切らない」 「琴音、絶対に君を裏切らない!」 白い光が視界を裂いた刹那、澪は静かに、輸血台の上で息を引き取った。 第8話 涼介の胸にズキッとした痛みが走った。椅子にもたれながら、少し酔いが回っていた。 ふと、澪の顔が頭に浮かぶ。 決して諦めることを知らない、あの女のことが。 澪はいつも穏やかで、でも芯の強い女だった。涼介と喧嘩しても、いつだって黙って耐えていた。 最初に必死に懇願してきた姿。崩れ落ちて泣き叫んでいた姿。そして最後には、歯を食いしばって必死に耐えていた――その全部を、涼介はずっと見てきた。 何度も振り回して、一ヶ月まるまる無視して避けたこともあった。でも彼女は騒ぎもせず、ただ黙ってコーヒーを出してくれた。 この女は、一体何を守ろうとしてたんだ。涼介はわざと冷たく接して、必死で澪を突き放そうとしてきた。挙げ句には、琴音との間に子どもができたなんて、そんな嘘までついた。 でも、自分で一番わかってた。あれは全部、澪を愛してたからこその行動だったってことを。 震える手を抑えられず、頭の中は澪のことでいっぱいだった。 林先生から、澪が輸血を終えて休んでいると聞いて、涼介は少しだけホッとした。彼女に行くあてもないことくらい、分かってる。 なのに、どうしてだろう。胸のざわつきはまったく消えてくれない。 琴音がキッチンから温めたミルクを持ってやってきた。 「涼介、ミルクよ。これ飲めば、すぐ眠れるわ」 甘えるような笑顔が胸に突き刺さる。 三年前の澪と、そっくりだった。 そう、琴音は澪に似ている。顔も、しぐさも、性格までも。 婚約したのも、素直で扱いやすかったからだけじゃない。澪に似ていたからだ。 涼介は琴音の肩を引き寄せた。でも、心はますます沈んでいくばかりだった。 澪みたいな女、いくらでもいる。 澪一人くらい、忘れられないわけがない。 琴音の頬がほんのり赤くなり、うれしそうに涼介にもたれかかってきた。取引を始めてから、涼介のほうからこんなふうに近づいたのは初めてだった。 もしかしたら、今夜がその次のステップかもしれない。 琴音は唇をうっすら濡らし、甘い声で涼介の名前を囁くと、彼の腰にそっと腕を回す。 袖口に手をかけ、自分から唇を差し出す。けれど涼介の瞳は淡々としていて、どこまでも冷たかった。 涼介は、澪以外の女性を受け入れることができない。 「琴音、取引のこと、忘れたのか?」 琴音は唇を噛んで、目に不満が浮かぶ。 「涼介、もう私たち、結婚したじゃない」 涼介は無言のまま立ち上がり、皮肉っぽくネクタイを締め直した。 「君も分かってるはずだろ。これは偽りの結婚だ」 「君は俺の芝居を演じ、俺は君に資金を出す。君のギャンブル狂いの父親さえいなければ、君がここにいることもなかった」 感情のない声で言い切ると、涼介は一度も振り返らずに階下へと降りていった。 琴音は拳を握りしめて、赤くなった目に憎しみが宿った。 自分がただの身代わりであることを、ようやく思い知らされたのだった。 …… 涼介はソファに横になってみたものの、 頭にこびりついているのは、さっきの澪との過酷なやり取りばかりで、全然眠れない。 ようやくベッドを出て、タバコに火をつけた。 けむりが漂っても、イライラは全く消えてくれない。 結局、涼介はスマホを手に取り、澪の番号を押した。 呼び出し音が響き渡るたび、心がざわついていく。 でも、通話は繋がらなかった。ただ虚しい沈黙だけが残った。 心が、ざわつく。 涼介は今度は林先生に電話をかけた。 「澪を探せ」 「無事なら、それでいい。もう連絡はしてくるな」 これまでにも、何度も同じことを言ってきた。でも林先生は、少し戸惑いながら口を開いた。 「涼介さん、離婚のとき、今後は澪さんのことを伝えるなと……」 涼介は目を閉じ、けむりを吐き出しながら、静かに別れの言葉を言い放った。 「彼女を探して、手配してくれ。海外に送って、二度と俺の前に現れないように伝えろ」 「もう彼女は、死んだことにする」 第9話 林先生は、すでに切れた電話をしばらく見つめたまま、静かにため息をついた。 涼介という男は、本当に素直じゃない。 明らかに澪のことを心配しているくせに、それを絶対に認めようとしないのだ。 林先生は、二十年以上にわたって涼介の背中を見守ってきた。その間、澪に対する態度は変わっていったけれど、ただ一つだけ変わらなかったのは――澪への想いだった。 まだ子どもだった涼介が、澪の母親が、自分の母を死に追いやった張本人だと知ったとき、一週間近く誰とも口をきかなかった。 林先生は昼間の涼介を見かけた。彼は向かいの澪の部屋が見える窓辺に座っていた。その窓の向こうには、澪がきれいなワンピースを着て立っていて、まるで今にも涼介のもとへ駆けてきそうな――そんな姿が映っていた。 「涼介、一緒に遊びに行きましょう」 涼介はずっとそこに座っていた。林先生が気づいたとき、彼の目は虚ろで、静かに涙を流していた。それは、林先生が初めて見た、深い悲しみと無力さに満ちた涼介の顔だった。 「林先生、俺は澪を愛さずにはいられないんだ」 涼介が憎しみと愛情の間で揺れながら、それでも澪と結婚する姿を、林先生はずっと見てきた。最初の数日、ふたりは確かに幸せそうだった。 澪の家に対する憎しみを胸に抱きながら、涼介はすべてを計算し尽くしていた。澪だけに幸福を与えるための壁を築いた。 けれど、澪はやがて財産の真相に気づき、資料を手に涼介を問い詰めた。澪の涙が涼介の腕にぽつりと落ちたとき、彼は崩れそうになっていた。 最終的に、涼介は自ら背を向けることを選び、心にもない言葉を吐き捨てた。 「俺はお前を憎んでる。本気で……死んでほしいほどに」 涙を流しながら、それでも信じようとしなかった澪は哀願し続けた。 誰もが信じられなかった。あれほどまでに澪を愛していた涼介が、彼女を憎むなんて。 澪は、何度も涼介のもとを訪ね続けた。でも、その想いは失望に変わり、やがて絶望へとたどり着いた。そして部屋で大量の睡眠薬を服用してしまったのだった。 それは、涼介が初めてあれほど取り乱し、澪を抱えて林先生に助けを求めた。「もう愛していない」と言いながら、涼介は、どうしても彼女に生きていてほしいと、必死に救いを求めたのだ。 「どうすれば澪を助けられる」そう尋ねる涼介に、林先生はため息をついて答えた。 「時に……憎しみの方が、愛よりも長く残ることがあるんです」 こうして二人は、愛と憎しみが入り混じる十年という時を、互いに傷つけ合いながら過ごすことになった。 林先生はもう一度、深く息を吐き、結婚披露宴の会場へと戻っていった。冷たい風がして、思わず体が震える。 会場の装飾はまだ片づけられていなかった。その華やかさの下に、澪の蒼白な顔が見えた。 駆け寄ろうとした瞬間、澪の死体が、ふらりと崩れるように倒れ込んだ。 その姿は、あまりにも痛々しかった。 顔中が血で染まり、何より恐ろしかったのは、口から止めどなく血が溢れていたことだった。林先生は思わず二歩後ずさり、その場の光景に息を呑んだ。 脳裏に浮かんだのは、たったひとつの思いだけだった。 澪が、死んだ? 異様な臭いに吐き気を覚え、林先生は反射的に立ち上がった。澪を運ぼうとしたが、彼女の体には無数の虫と傷で、顔色はとても生きているとは思えないほど蒼白だった。 そのすべてが、逃げ出したい衝動を湧かせた。彼は最初にかけた電話は病院ではなく、葬儀場だった。 そしてその場で、胸の奥からじわじわと湧き上がってきた思いがあった。 涼介が、壊れる。