高く輝く明月は、ただ私を照らさず

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高く輝く明月は、ただ私を照らさず

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病院の入り口。 夏目末依(なつめ まい)は足元はふらついていた。腎臓を売って得た一千万円を握りしめ、青白い顔に満足げな笑みを浮かべてい...

Chương (1)

第1章

病院の入り口。 夏目末依(なつめ まい)は足元はふらついていた。腎臓を売って得た一千万円を握りしめ、青白い顔に満足げな笑みを浮かべていた。 「これで……昭安の病気はきっと治せる」 自分の腎臓一つで昭安の命が救えるのなら、それで十分だ。 術後の弱りきった体に鞭打つように、よろよろとしながらも小走りで病室の前までたどり着いた。 ベッドに横たわる弱々しい男の姿を見て、末依の目にさらに痛々しい色が浮かんだ。 「昭安さん、その貧乏彼女はいないんだから、誰に見せるつもりで演技してんの?」 「うるせえな!これは演技の練習だ。こうでもしなきゃ、あの女を騙せねえだろ?」 病室から聞き慣れた声が聞こえてきた。末依はドアを開けようとした手を止めた。 ……騙す?どういうこと? 部屋の中から、さらに騒ぎ声が聞こえてきた。 「さすが昭安さん!偽の診断書で、あの女はまんまと騙されるなんて。マジでガンになったと思い込んでるみたいだよ!」 「聞いたけどさ、あの女、全財産を差し出したって。いくらだっけ?あー!たったの120万円だってよ!?」 「ははっ!120万円なんて、昭安さんがバーでちょっと酒を買うだけで消えちまう金じゃねえか。よくもそんなはした金持ってきやがったよ!」 第1話 病院の入り口。 夏目末依(なつめ まい)は足元はふらついていた。腎臓を売って得た一千万円を握りしめ、青白い顔に満足げな笑みを浮かべていた。 「これで……昭安の病気はきっと治せる」 自分の腎臓一つで昭安の命が救えるのなら、それで十分だ。 術後の弱りきった体に鞭打つように、よろよろとしながらも小走りで病室の前までたどり着いた。 ベッドに横たわる弱々しい男の姿を見て、末依の目にさらに痛々しい色が浮かんだ。 「昭安さん、その貧乏彼女はいないんだから、誰に見せるつもりで演技してんの?」 「うるせえな!これは演技の練習だ。こうでもしなきゃ、あの女を騙せねえだろ?」 病室から聞き慣れた声が聞こえてきた。末依はドアを開けようとした手を止めた。 ……騙す?どういうこと? 部屋の中から、さらに騒ぎ声が聞こえてきた。 「さすが昭安さん!偽の診断書で、あの女はまんまと騙されるなんて。マジでガンになったと思い込んでるみたいだよ!」 「聞いたけどさ、あの女、全財産を差し出したって。いくらだっけ?あー!たったの120万円だってよ!?」 「ははっ!120万円なんて、昭安さんがバーでちょっと酒を買うだけで消えちまう金じゃねえか。よくもそんなはした金持ってきやがったよ!」 その一言一句が末依の耳に突き刺さった。手足が痺れるほどの衝撃が全身を駆け巡った。 ……一条昭安(いちじょう あきやす)のガンは……全部嘘だったのか? 病室の中では、さっきまで弱々しいふりをしていた昭安が、すっと布団を蹴り飛ばし、ベッドから軽やかに跳び降りた。 側にいた男が慣れた手つきでタバコを差し出した。 タバコをくわえた昭安の顔は、記憶の中の優しい笑顔とはまるで別人のように、煙に包まれて霞んで見えた。 「まあ、あいつも金ないんだから、120万全部出せただけでも予想外だったよ」 部屋の中から嘲笑の声が上がった。 「おいおい、昭安さんまさかあの女を本気で気にしてるんじゃないだろうな?嘉鈴さんに知れたら大変だぞ」 「馬鹿言うなよ。昭安さんの本命は嘉鈴さんだけだ。気にしてるって、せいぜい同情に過ぎないさ。 もともと一条家の御曹司ってのを隠してあの貧乏女と付き合ったのも、嘉鈴さんの気を晴らさせたいだけだ。嘉鈴さんのためなら2年間もスラムみたいなとこで我慢したんだぜ」 「あの女、嘉鈴さんに感謝しろよな。嘉鈴さんがいなかったら、昭安さんみたいな上流階級の人間と一生関わらなかっただろうし。ハハッ!」 病室の外で、末依の体は震えが止まらなかった。頭の中がぐちゃぐちゃに渦巻いている。 昭安はふわりと煙を吐きながら、冷たく言い放った。 「ただ、あいつがあっさり全財産使い切るとは思わなかったってだけだ。もっと早く病気のフリすればよかったな。これで嘉鈴も満足するだろう」 その冷たい言葉が、末依の心に残った最後の希望を粉々に砕いた。 もともと青白かった顔から、さらに血の気が引いていく。体がふらつき、今にも倒れそうだった。 通りかかった看護師が心配そうに声をかけた。 「お嬢さん、大丈夫ですか?顔色がとても悪いですよ」 ハッと我に返った末依は、病室から誰かが出てきそうな気配に、慌てて看護師に軽く礼を言い、よろよろとした足取りで近くのトイレに駆け込んだ。 鏡に映った自分の顔は、紙のように白くいた。 耳に刺さった言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けている。 まさか、自分と同じ貧乏学生だと思っていた昭安が、一条家の御曹司だなんて…… 二人の関係も、全部嘘だったなんて…… 甘かった記憶と残酷な現実が、頭の中で激しく交錯した。 末依と昭安の出会いは、偶然だった。 2年前、彼女は焼き鳥屋でアルバイトをしていた。 酔っ払った客にセクハラされて、店主に助けを求めたが、無視された。 客の行為がエスカレートする中、彼女は覚悟を決め、ビンで頭を殴ろうとした。 その時、温かい大きな手が彼女をかばい、セクハラから守ってくれた。 あの瞬間、男の背中を見て、末依の心は一瞬止まった。 陳腐な展開かもしれないが、孤児として育った彼女にとって、その守りはかけがえのないものだった。 後で知ったのだが、昭安も彼女と同じ孤児で、二人とも一日に3つのアルバイトを掛け持ちしていた。それに、昭安は学費が払えず高校卒業後すぐに働いていたという。 同じ境遇の二人は自然と距離を縮め、恋愛を始めた。 将来のためにお金を貯めようと、彼女は学生寮を引き払い、昭安と郊外の6畳の格安賃貸アパートに引っ越した。 生活は苦しかったが、末依は一度も文句を言わず、未来に希望を抱いていた。 しかし1ヶ月前、昭安は自分がガンだと告げ、多額の治療費が必要だと言った。 末依にとって、2年間の付き合いで昭安はもう家族同然だった。彼を見殺しにはできなかった。 治療費のために、大学4年間で必死に貯めた120万円を全て出した。 だが昭安は「この病気は1000万円ないと治らない」と言った。 ベッドで弱りきった昭安を見て、途方に暮れた末依は、必死に恐怖を押し殺し、闇市場で自分の腎臓を売り、1000万円を手にした。 その1000万さえあれば、昭安は治り、二人の生活も元通りになると信じていた。 だが、全部嘘だった! 昭安の身分も、ガンも、全部嘘だった! そして2年前の出会いさえ、全部嘘かもしれない。 気づけば、顔中が涙で濡れていた。リュックの中の重い1000万円が、自分の愚かさを嘲笑っているようだった。 嘘つきのために、腎臓を一つ失った。 彼らが言う「嘉鈴さん」とは、末依が思い浮かべられる人物と言えば、一つ下の学年の伊集院嘉鈴(いしゅういん かりん)しかいなかった。 大学2年生の時、学校のスピーチコンテストで1位になれば十万円の賞金がもらえた。 末依は学費のために必死に練習し、見事に1位を取った。 2位は嘉鈴だった。 表彰式で、嘉鈴は彼女の耳元で「私の邪魔をするなんて、絶対に許さないわ」と囁いた。 その時は、負けず嫌いの女の子の捨て台詞だと思っていた。 まさか、こんなに酷い仕返しをされるとは…… 末依は涙を拭い、スマホを取り出して寺田教授に電話した。 2週間前、寺田教授は海外留学の推薦枠があると教えてくれ、末依を推薦したいと考えていた。 だがその時、彼女は昭安の治療費のことで頭がいっぱいで、即座に断っていた。 今、真実を知った以上、昭安のために自分の未来を犠牲にする必要はない。 上流階級のつまらない遊びには、もう付き合いたくない。 「先生……私は、留学に行きたいです」 第2話 電話の向こうで、寺田教授は驚きと喜びの声を上げた。 「末依くん、やっと決心がついたんだね!心配しないで、君の事情もわかってるから、学費は学校で奨学金を申請しておくよ。彼氏さんの治療費も何とかしよう、学校で募金を……」 「結構です、先生」 末依は静かに、しかし断固とした口調で寺田教授の言葉を遮った。 「学費は自分で何とかします。奨学金はもっと必要な方に回してください。治療費も……もう必要ありません」 寺田教授は深く考え込むこともなく、彼女に資金が入ったのだと思い込み、心から喜んでいた。 「それは良かった!これで海外留学に集中できるね。出発まであと半月だし、この期間で国内の用事を片付けておきなさい」 「はい、ありがとうございます」 末依は詳しく説明せず、電話を切るとリュックの紐を強く握りしめた。 病院を後にした彼女は、お金を全額カードに入れて学費に充て、半月後の海外行きの航空券を購入した。1000万円は残りわずか4万円になった。 まだ疼く傷口を押さえながら、残高を見て末依は自嘲的に笑った。 今となっては、1000万円をあの嘘つきに渡す前に真実を知ることができて、むしろ幸運だったと思えた。 病室に戻ると、昭安が一人でベッドに寝ていた。 末依は唇を噛みしめ、ドアノブに手をかけた。 昭安はすでにふざけた態度を捨てて、元の優しい彼氏の顔に戻っていた。 「末依、今日は遅かったね」 末依は指先を震わせ、目を伏せた。 「学校の用事で……」 昭安は疑う様子もなく、興奮を抑えきれない様子で彼女の手を握った。 「いい知らせがあるんだ」 「……どんな?」 「医者がさっき来て、ガンは誤診だったって。僕は病気じゃないんだ!」 やはり。 末依は瞬き、ちらりと見えた彼のスマホ画面を思い出した。 「嘉鈴」という名前の人がはチャットグループでメッセージを送ってきた。 【昭安、早くあの貧乏女に誤診だと伝えてよ。せっかく貯めた金を無駄にした顔が見たいわ!絶対ウケる!】 他の人たちも面白がって騒いだ。 【あいつ、きっと昭安さんに怒鳴り込んでくるよ】 【マジで最高のドッキリじゃん】 彼女が昭安に当たり散らすかどうかまで賭けていた。 最後は昭安の返信だった。 【了解です!お嬢様】 この2年間、昭安は末依の言いなりだった。完璧な彼氏だと思っていた。 だがそれは全て、嘉鈴の命令があったからこそだった。 自分はただの遊び道具でしかない。 「無事で良かった」 末依は笑い、心からそう言った。 予想外の平静さに昭安は一瞬躊躇い、後悔混じりに続けた。 「他の病院でも検査すればよかった。末依の貯金を無駄にさせて……」 「あなたのためなら無駄じゃない」 その金は2年間の彼との思い出の代金だと思えばいい。 120万円で一条家の御曹司と2年間同居できたのだから、むしろ貧乏学生の彼女が儲けものだ。 この言葉は昭安の胸に重く響いた。 一条家の御曹司として、これまで周囲の媚びや偽りの関心に慣れていたが、末依は違った。 彼の素性を知らず、本心から全てを捧げてくれた。 それどころか、四年かけて貯めた全財産を彼のために使おうとした。 無駄になっても、一言の不満も言わなかった。 昭安の目には複雑な感情が渦巻いていた。末依をぎゅっと抱きしめた。 「末依、ありがとう」 末依は目を伏せ、嘲笑を隠した。 郊外のアパートに戻り、狭いベッドに寝ている昭安が呟いた。 「やっぱり家のベッドが一番だ」 「お疲れさま」 大邸宅の高級ベッドに慣れた御曹司が、2年間もこの狭さに耐えてくれたなんて。 でも大丈夫、もうすぐ、私たちは解放される。 第3話 昭安は、彼女が自分の入院生活を気遣ってくれているのだと思い込み、そっと腰を抱き締めながら首筋に顔を埋めた。 「末依、君と出会えて本当によかった……」 香水など使わない末依の身には、シャンプーのさわやかな香りしかなかったが、昭安にはそれがたまらなく魅力的に感じられた。 思わず呼吸が荒くなり、腰を抱く手にも自然と力が入った。 朝方に手術を終えたばかりの傷口を急に圧迫され、末依は顔色を失い、息を詰まらせた。 昭安は慌てて手を離し、心配そうに覗き込んだ。 「どうした?顔色が悪いぞ」 末依は無理に笑顔を作った。 「……大丈夫。生理痛で少しつらいだけ」 昭安は温かい掌を彼女のお腹に当て、もう一方の手で優しく抱き寄せた。 「温めてあげるから」 末依は抵抗せず、目を閉じた。 だが、このぬくもりでは、すでに凍りついた心までは温められない。 昭安との出会いは、彼女にとって最大の不幸だった。 翌朝、末依は早くから荷造りを始めていた。 ガサガサという音で目を覚ました昭安は、ぼんやりとした視界の中、クローゼットから服をスーツケースに詰める彼女の姿に飛び起きた。 「荷物をまとめて……どこかへ行くのか?」 「孤児院に院長先生を訪ねるつもり。ついでに古着も寄付しようと思って」 彼女は顔を上げず、淡々と服をたたみ続けた。 半月後、彼女が去れば、昭安がこれらの安物の服を持っていくはずもない。 高貴な御曹司にとって、この部屋の全てを合わせても靴一足の値打ちにもならないだろう。 捨てるより、孤児院の子供たちにあげた方がましだ。 昭安は安堵の息をついた。 彼女が孤児院を気にかけ、月に一度は物資を届けに行くことは知っていた。 「僕も一緒に行こうか」 付き合ってから、昭安が孤児院に同行するのは珍しくなかった。 だが今日末依は彼と一緒に行きたくなかった。 出国前の最後に、院長先生や子供たちとだけ静かに別れを告げたかった。 断ろうとしたその時、昭安のスマホが鳴った。 画面に表示された名前を見て、彼は慌てて電話を握りしめ、緊張した様子で言った。 「店長からの電話だ。ちょっと出る」 そう言うと急いでベッドから出て、トイレに駆け込んでドアを閉めた。 でもこの6畳ほどの部屋では会話が筒抜けだった。 「昭安~早く来てよ。ショッピングに付き合って。今日は機嫌が悪いの!必ず来てよね」 昭安は即座に承諾した。 出てきた彼はいつものように申し訳なさそうに笑った。 「悪い、入院で長期休暇の埋め合わせで、今日は出勤しろって言われて……一緒に行けなくなっちゃった」 末依は嘘を突かず、ただ静かに頷いた。 「いいよ、仕事頑張って」 その後、昭安は急いで服を着て出て行った。 彼が急いで出て行く後ろ姿を見ながら、末依は思い返した。 この2年間、深夜やデート中に何度も「店長の電話」で立ち去っていったこと。 彼を気遣い、転職を勧めたこともあった。 その時昭安は後ろから抱きしめ、顎を頭に乗せながら囁いた。 「苦労なんて平気だ。ただ、結婚資金がなくて、君を幸せにできないのが怖いだけさ」 その言葉に、彼女は感動し、さらに働き詰めた。 それ以来、3つのアルバイトに加え、学内の雑用も引き受けるようになった。少しでも多く稼ごうと。 昭安が二人の未来のために頑張っているなら、自分も足を引っ張るわけにはいかない。 今思えば、本当に馬鹿だった。 前回孤児院を訪れた時、子供たちにお菓子を持ってくると約束していたため、服を全て詰め終えると、彼女はデパートへ向かった。 残高は少なかったが、子供たちの笑顔を買うには十分だった。 スーパーでお菓子をたっぷり買い込み、重い袋を提げて地下鉄に向かう途中、高級化粧品店の前で聞き覚えのある声が耳に入った。 「全部買えばいいじゃない、いちいち試すの面倒くさいよ」 振り返ると、昭安が困りながらも甘やかすような笑顔で、目の前の少女を見つめていた。 面倒と言いながらも、腕を差し出して口紅を塗らせている。 2年前の記憶は曖昧だが、全身から上品さがにじむこの少女が、伊集院嘉鈴に違いない。 今までの「店長の電話」っは、このお嬢様からの呼び出しだったのだ。 嘉鈴は不機嫌そうに唇を尖らせた。 「あの下層民のところには喜んでいて、私とのショッピングは嫌なの?」 昭安は彼女の頭を撫で、目いっぱいの愛情を込めて答えた。 「そんなことないよ。嘉鈴のご機嫌を取るために、あの女と付き合ってたんだ。ほら、これ全部買って、次は服屋さんだね。今日は一日中付き合うから」 彼は気前よく、店員に口紅のフルセットを包むよう指示した。 店員は明らかに彼らのことを知っているようで、手際よく包み、昭安のブラックカードを受け取った。 「一条様、本日のお買い上げは200万円です。またのご来店をお待ちしております」 200万?! その数字に末依は足元がふらついた。 交際2年間、彼女がもらった贈り物と言えば、60円のヘアクリップや、100円のキーホルダーばかり。 一番高価なプレゼントは、二千円弱のシルバーブレスレットだった。 それさえも、大切にして箱にしまったままだった。 だが今200万円など、昭安にとっては女を喜ばせるための普通の手段でしかない。 金に糸目をつけないのが、本当の昭安なのだ。 末依はこれ以上、御曹司とお嬢様の甘いやり取りを見ていられず、背を向けようとした。 その時、重さに耐えかねた袋が破れ、お菓子が床に散らばった。 大きな物音に、昭安が振り返った。 視線が合った瞬間、昭安の瞳が一瞬で縮んだ。 狼狽と動揺、それらの感情が彼の目に浮かび上がった。 第4話 「末依、孤……孤児院に行くんじゃなかったの?」 末依は床に散らばったお菓子を指さした。 「子供たちにお菓子を買いに来たの」 昭安は無意識に買い物袋を隠そうとしたが、両手がいっぱいに物を持っていてどうしようもなかった。 「これは……店長の娘の買い物に付き合ってるだけなんだ!店長が仕事で、代わりに買い物を頼まれたんだ。これは……全部店長の娘のものだよ」 弁明すればするほど、心の動揺が露わになる。 最後の一言は、余計に不自然に響いた。 末依の視線は、買い物袋の眩いほどのブランドロゴに自然と向かった。 ブランドに詳しくなくても、口紅セットで200万円なら、他の品物の値段も想像に難くない。 「店長さん、随分とお金持ちなのね」 昭安はこれ以上話すのを恐れたように、買い物袋を下ろしてお菓子を拾おうとした。 だが嘉鈴がにっこり笑いながら近づき、細長い指で優雅に彼の肩を押さえ、動きを止めた。 「夏目先輩、今日の彼氏さんは私専用なの、残念ながらあなたを助けられないよ、お仕事だから」 昭安は踏み出しかけた足を止め、末依を不安そうに見つめた。 「末依、これは店長の命令で……」 「わかってる。自分でできるから、買い物楽しんで」 末依は彼の言葉を遮った。 御曹司とお嬢様の芝居など、見ているだけでもうんざりだ。 早く立ち去ってほしいだけだった。 そう言うと、一人でしゃがんで拾い始めた。 昭安は指を動かしたが、結局嘉鈴に引きずられるように去っていった。 孤児院では、お菓子をもらった子供たちが末依の周りで賑やかに笑っていた。 その無邪気な笑顔に、彼女の心は久しぶりにほんのり温かくなった。 院長は一人で来た彼女を見て、不思議そうに聞いた。 「一条くんは?一緒じゃないのかい?」 末依は唇を噛み、言葉に詰まった。 院長は彼女の様子を見て、喧嘩だと勘違いし、そっと背中を撫でながら諭した。 「私、末依が大きくなるのを見守ってきた。あなたがずっと家族を欲しがってるのはわかってる。 一条くんは三つのバイトをして結婚資金を貯め、危ない時にはあなたを守り、孤児院に来ればいつも子供たちともよく遊んでくれた。 そんな良い男性はめったにいない。一時の感情で決めつけず、ちゃんと話し合いなさいね」 末依の胸が締め付けられるようだった。 末依は院長に昭安のガンも、自分が腎臓を売ったことも話していなかった。 だから院長もすべてが嘘だったことも知らなかった…… 2年間の生活で、昭安の優しさは本物だと信じていた。 だが彼女だって同じだけ捧げてきた。 だからこそ、真実を知った時、心がズタズタに引き裂かれるほど痛んだのだ。 家に戻ると、昭安が料理を作って待っていた。 「末依、店長の娘の相手は仕事だった。一人にさせてごめん。もっと稼いだら、二度と君を置いていかない」 謝罪の表情は本物のように見えた。 こんな嘘は何度も聞き飽きて、末依はもう何も感じなかった。ただ「うん」とだけ返し、黙って食事を始めた。 今日の出来事が気にかかっていたのか、食事は異様に静かだった。 箸を置いた途端、昭安は何か秘めた様子で箱を差し出した。 「末依、この前の入院でずっと世話をかけただろう?今日店長の娘がご機嫌で、チップをくれたんだ。これは君に特別に買ったプレゼントだ。開けてみて」 箱を開けると、口紅が入っていた。 箱のロゴは、今日嘉鈴に買ったセットと同じものだ。 しかし…… 箱の底のベタつきに触れ、末依は嘲るように唇を歪めた。 ラベルを剥がした跡だ。 高級ブランドに詳しくなくても、おまけだけがそういうラベルが貼られるんだとわかっている。 彼女にはおまけ、嘉鈴には200万円のセット。 昭安の心中では、孤児の彼女には無料品が相応しいと思っているのだろう。 無表情な彼女に、昭安は困惑した。 今まではプレゼントを宝物のように喜んでくれたのに。 「どうした?色が気に入らない?女性の口紅はわからなくて、店員に選んでもらったんだけど……」 末依は箱を脇に置き、首を振った。 「私にお金を使わなくていい」 もうすぐ別れるのだから、金銭の絡みはごめんだった。 昭安は安堵した。 お金を気にしているのか。 彼の顔にはいつもの甘やかす笑顔が戻った。 「君に使うのは当然だよ。君だって貯金全部を僕に使ってくれたんだからら、僕だって当然だろ」 末依は唇を歪めただけで、それ以上は何も言わなかった。 孤児院との往復で疲れ切っていた彼女は、早々に寝床についた。 翌朝、末依がまだ眠っていると、電話の音で目が覚めた。 朦朧としながら受話器を取ると、寺田教授の焦った声が響いた。 「大変だ!末依くんの卒論がデータ偽造で実名告発された!学校が調査に入るそうだ!」 第5話 末依はハッと目を覚ました。 データの偽造は研究者にとって致命的な不正だ。 こんな汚名を着せられれば、卒業どころか留学の資格まで失ってしまう。 しかし彼女には理解できなかった。卒論のデータは彼女が一ヶ月徹夜で取り組んだ成果なのだ。 いったい誰が、なぜこんな告発を? 「先生、私のデータはすべて実験で得たものです。絶対に偽造なんてしていません」 寺田教授は深くため息をついた。 「私が信じたところで意味はない。立証しなければならない。 卒業まであと半月だ。今から実験記録を提出しても審査に間に合わない。 唯一の方法は、告発者に説明して撤回してもらうことしかない」 末依は息を詰めて聞いた。 「告発者は誰ですか?」 「伊集院嘉鈴だ」 その名前を聞いた瞬間、末依は全身の力が抜けるのを感じた。 なぜこのお嬢様は、ここまで執拗に彼女を追い詰めるのか? 昭安に彼女の感情を弄ばせただけでは飽き足らず、学術的な生命まで潰そうというのか。 ベッドの横はすでに冷め切っており、昭安の姿はなかった。 嘉鈴の連絡先も知らず、どこに行けば会えるかもわからない。 途方に暮れた彼女はネットで伊集院グループの住所を調べ、急いで向かった。もしかしたら嘉鈴に会えるかもしれない。 午前9時から午後1時まで、4時間も立ち続けた。一滴の水も口にせずに。 腎を摘出したばかりで、体はまだ完全に回復しておらず、長時間の立ちっぱなしと空腹に耐えられるはずがない。 限界が近づいた時、玄関から見覚えのある二人の姿が見えた。 嘉鈴と昭安だ。 末依はは歯を食いしばり、傷口を押さえながら二人の前に立ち塞がった。 昭安は彼女を見て、驚いた様子で慌てた声を出した。 「末依?どうしてここに?」 彼女の頭には告発撤回のことしかなかった。 「伊集院さん、私のデータはすべて実験で得たものです。偽造なんてしていません。どうか告発を撤回してください」 昭安はこの件を知らないようだった。 「どういう……」 嘉鈴は笑って遮った。 「夏目先輩、でも私、疑ってるのよ、真偽は学校が調べればわかるでしょう」 調査には最低半月かかる。時間が足りない。 「どうしたら撤回してくれますか?」 末依は嘉鈴がわざとやっているとわかっていた。遠回しにするより、直接核心を突いた。 嘉鈴は長い爪を弄びながら、彼女を見ようともせず言った。 「昨日あなた、私のショッピングの邪魔をしたわね。そうね、ここで大声で謝罪して、私が許すまで続ければ、告発を取り下げてあげる。どう?」 昭安は微かに眉をひそめ、両手が微かに動いたが、結局何も言わなかった。 末依は深く息を吸い、胸中に渦巻く感情を押し殺した。 人通りの多い会社の前で、一言一言声を張り上げた。 「申し訳ありませんでした。どうかお許しください」 周囲から好奇の目線が集まった。 末依ははこれほど恥ずかしい思いをしたことがなかった。まるで服を剥がされ、通りで嘲笑されているようだった。 しかし他に選択肢はなかった。 「申し訳ありませんでした。どうかお許しください」 嘉鈴は薄く笑った。 「声が小さすぎるわ」 末依は目を閉じ、腹部の痛みに耐えながら声を張り上げ機械的に繰り返した。 「申し訳ありませんでした。どうかお許しください」 嘉鈴の冷笑と周囲の嘲るような視線の中、末依は何度繰り返したかわからない。 しかし嘉鈴は満足する気配すら見せない。 腹部の痛みが激しくなり、末依はついに耐えきれず崩れ落ちた。 意識を失う直前、昭安が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。 第6話 意識が戻ったとき、目に映ったのは真っ白な天井だった。 昭安は彼女が目を覚ましたのを見ると、慌てて手を握りしめた。 「末依、今のは本当に怖かったんだ」 末依は静かに手を引き抜いた。もはや心に揺らぎはなかった。 2年間共に過ごした昭安が、自分の人柄を知らないはずがない。 嘉鈴に意地悪されても一言もかばってくれず、ただ傍観していた時、末依は悟った。 2年前、自分を守ってくれたあの人は、もうどこにもいないのだと。 心に残っていた最後の未練も、跡形も灰のように散った。 「どうして突然倒れたんだ?」 その言葉と同時に、医師が検査結果を持って入ってきた。表情は硬かった。 「夏目さん、検査結果によりますと……」 「先生、私の体のことはわかってます。もう結構です」 末依は素早く医者の言葉を遮った。 医者は二人を見回し、ため息をついて病室を出ていった。 昭安の胸に、突然不安が湧き上がった。 「体に何か問題が?病気なのか?」 声には、本人も気づかないほどの震えが混じっていた。 末依はかすかに笑った。 「大丈夫。ただの低血糖よ。昔からの持病だ」 昭安は彼女の低血糖を知っていたので、少し安心した様子だった。 病床の青白い顔を見つめ、苦渋に満ちた声で言った。 「末依、今日は助けられなくてごめん。あの子は店長の娘だから……仕事を失うわけにはいかなくて」 そう言いながら、彼の目はどこか別の方を見つめ、末依の冷静な瞳をまともに見られなかった。 この告発を知っていたかどうかは別として、今日彼女の味方にならなかったのは事実だ。 末依は胸の痛みを押し殺し、布団を頭までかぶった。 「わかってる。仕事があるんでしょ?早く行きなさい」 こんなに弱っているのにまだ自分のことを気遣ってくれる彼女に、昭安は急に罪悪感を覚えた。 じっと見つめた後、温かい掌で布団越しに彼女の頭を撫でた。 「末依、二度と君を悲しませない」 なんと美しい約束だろう。 残念ながら、また噓が一つ増えただけだった。 データ偽造事件が解決すると、卒業証書と留学手続きも無事完了した。 医者に「もう少し入院を続けた方がいい」と勧められても、彼女は頑なに退院を主張した。 アパートに戻ると、部屋は出かけた時とまったく同じ状態だった。昭安はこの数日家に帰っていないらしい。 スマホに表示されたニュースを見て、思わずタップしてしまった。 【速報!一条グループと伊集院グループが提携、7日後に披露宴開催!】 彼女は一瞬、息が止まった。 この数日、昭安は婚約の準備で忙しかったのだ。 航空券を確認すると、出国まであと6日。 深いため息をつき、部屋中のペアグッズをまとめ始めた。 ペアのコップ、タオル、キーホルダー……もう必要のないものばかりだ。 段ボールに詰め終え、捨てようと外に出た瞬間、昭安とばったり出くわした。 箱の中の、二人で選び抜いた品々を見て、彼の声はかすかに震えた。 「どうして……捨てるんだ?」 第7話 「もういらないよ。後で買えばいいから」 彼と嘉鈴が結婚すれば、新しいものを揃えることになるのだろう。 箱を捨てて階上に戻ると、部屋から昭安の抑え気味な声が聞こえてきた。 「心配するな嘉鈴、彼女を必ず俺たちの披露宴に出席させるから」 電話の向こうから甘えた女の声が響いた。 「ふん、2年間付き合った男が私の婚約者になるのを、あの女がどんな顔するか見物だわ。目立ちたがりなら、存分に目立たせてあげる!」 末依は無意識に爪が掌に食い込み、しばらくしてようやく力を抜いた。 こわばった笑みを浮かべた。 おそらく、彼らの計画は水泡に帰すことになるだろう。 案の定、再びドアを開けて入ってきた昭安が招待状を差し出した。 「末依、7日後にイベントがあるんだ。一緒に来てくれないか?必ず来てほしい」 末依はしばらく彼を見つめた後、招待状を受け取り、静かに答えた。 「うん」 たとえ自分が出席できなくても、彼らには婚約祝いの贈り物をしようと思っていた。 その後数日間、昭安は仕事が忙しいと言って姿を見せなかった。 末依はその間に黙々と荷物の整理を進めた。 出国の前々日、学校の卒業パーティーが開催された。 末依は早くに寮を出ていたが、ルームメイトやクラスメイトとは良い関係を保っていた。 国外に行けば少なくとも2年間は帰れないため、彼女は卒業パーティーで別れを告げようと思った。 しかし会場で、嘉鈴と昭安の姿を目にするとは思ってもみなかった。 嘉鈴は昭安の腕を組んで、無邪気な笑顔を浮かべている。 「夏目先輩、今日が卒業式だと聞いて、わざわざ彼氏さんに休みを取らせてお祝いに来たんだよ」 末依は、この一見無邪気な外見の下に潜む悪意をよく知っていた。そっと後ずさりして距離を取ろうとした。 しかし嘉鈴は気づかないふりをして近づいて来た。 末依は背後にシャンパンタワーがあることに気づかなかった。 嘉鈴それを見ると、突然叫び声を上げて彼女に倒れ込んできた。 末依は反射的に避けようとした。背中がシャンパンタワーにぶつかり、何段にも積まれたグラスがシャンパンと共に二人に向かって崩れ落ちた。 昭安は一瞬も迷わず嘉鈴を引き寄せ、自分の腕でしっかりと守り固めた。 一方、末依は床に叩きつけられ、無数のガラス片が肌に突き刺さった。血がシャンパンと混じり合い、全身がずぶ濡れだった。 まだ完全に癒えていなかった腹部の傷口はアルコールに刺激され、再び血を滲ませ始めた。 末依の顔色はますます青ざめていった。 彼女は昭安が嘉鈴の体をくまなく調べ、傷がないか確認しているのを、ぼんやりと見つめていた。 ふと、2年前のあの後ろ姿が思い出された。 血に染まった手を震わせながら伸ばし、最後の温もりに触れようとしたが、もはや力尽き、腕が重く床に落ちた。 第8話 再び目を開けると、末依は全身包帯に巻かれていることに気づいた。 医者は彼女が目を覚ましたのを見て、複雑な表情を浮かべた。 「ガラスの破片が体中に刺さっていたので、5時間かけて手術で取り除きました。 体の傷は比較的軽いので、時間が経てば治ります。ただ、顔に深い傷があり、病院に来る時には皮膚がめくれ上がっていました。縫合しましたが、瘢痕が残るでしょう。形成手術が必要です。 手術費用は二十万円で、支払いをお願いします」 前の四万円は、今や二万円以下に減っており、手術代には足りなかった。 末依はは苦しそうに口を開いた。 「先生、形成手術は……しません」 医者は眉をひそめた。 「よく考えた方がいい。その傷が顔に残ったら、もう消えませんよ」 自分の容貌を気にしない女性がいるだろうか? しかし、彼女には手術代を払う余裕などなかった。 一瞬沈黙した後、末依は静かにうなずいた。 「では退院手続きをお願いします。傷に水がつかないよう気をつけてください」 その時、スマホが鳴り、昭安からのメッセージだった。 【末依、店長の娘が怪我したから病院に付き添ってる。先に帰って】 どうやら彼は、彼女もあの破片の山の中に傷を負ったことに気づいていなかった。 まあ、あの時の昭安の目にも心にも、抱きかかえていた嘉鈴しか映っていなかったのだから。彼女に目を向ける余裕など、あるはずもなかった。 痛みをこらえながら退院手続きに向かう途中、階段口で泣きじゃくる嘉鈴の声が聞こえた。 「傷跡なんて嫌!私の顔に跡なんて絶対ダメ!明日は披露宴なのに!」 昭安が優しく慰めている。 「嘉鈴、心配するな。最高の薬と医者を手配する。絶対に跡を残させない」 そのとき医者が口を開いた。 「非常に効果的な傷跡消しクリームがあります。ただし1本16万円と高価ですが」 昭安は即座にブロックカードを取り出した。 「嘉鈴の顔が一番大事だ。金額は問題じゃない。まず10本買おう。傷跡は絶対に残すな!」 嘉鈴は笑って昭安に抱きついた。 「昭安、いてくれて幸せ」 その時、末依は嘉鈴の「大怪我」を見た。 ほんの少し血が滲む程度で、よく見なければわからない小さなものだった。 そんな小さな傷のために、昭安は160万円もする薬を買った。 末依は思わず自分の顔に手を触れた。 包帯の下で交差する縫い目の痛みが伝わってきた。 その傷の酷さが想像できた。 160万円……彼女の貯金120万円と手術代20万円を合わせても及ばない金額だった。 人と人とは、こんなにも違う世界に生きているのだ。 退院後、アパートに戻った。 出国の飛行機まであと4時間しかない。 部屋の荷物はほぼ整理済みだった。 そして、明日は昭安たちの披露宴だ。贈り物を準備しなければ。 昭安からもらったおまけの口紅。 カップル100日記念の60円ヘアクリップ。 21歳の誕生日の200円の造花。 付き合って1年記念日の220円の銀メッキの指輪。 …… そして最も高価な、2年記念日の二千円弱のシルバーブレスレット。 2年間の贈り物は箱いっぱいに詰まった。 総額は六千円にも満たなかった。 彼らにとって彼女は遊び道具に過ぎず、こんな安物しか値打ちがないのだ。 最後に、招待状の裏に一言書いた。 【お幸せに。二度と会いません】 招待状を箱の一番上に置き、市内の即配便を呼んで、翌日の昼までに届けるように頼んだ。 搭乗3時間前のアラームが鳴った。 末依はスーツケースを引き、かつて「家」と思った牢獄を最後に見つめると、振り返らず空港へ向かった。 飛行機が離陸すると、京栄市の全てが背後に消えた。 これからは、それぞれの人生が続く。 昭安は高貴な御曹司としての生活を続く。 彼女は海外で研究の道を歩む。 二人の間には、もう二度と交わらないだろう。