遠ざかる月と星、遠く過ぎた恋

Đang tải thông tin quảng bá...

遠ざかる月と星、遠く過ぎた恋

GoodNovel Hoàn thành

神谷晴佳が刑務所を出たその日、外は冷たい雨が降っていた。 風に乗って雨粒が肌を刺し、刑務所の門前には報道陣が押し寄せていた。 「神谷さ...

Chương (1)

第1章

神谷晴佳が刑務所を出たその日、外は冷たい雨が降っていた。 風に乗って雨粒が肌を刺し、刑務所の門前には報道陣が押し寄せていた。 「神谷さん、水月ノ庭事件であなたの依頼人が敗訴し、半年前に飛び降り自殺しました。遺族の方があなたに責任を問うてますが、どうお考えですか?」 「神谷さん、弁護士連合会から除名され、あなたの恩師も引退に追い込まれました。この件について一言お願いします!」 記者たちがどれだけ問いかけようとも、晴佳はただ黙ってうつむいたまま前へ進み、人混みをかき分けるようにして出口へ向かった。 道端には黒いゲレンデが停まっていて、夫・神谷誠司が車にもたれながら煙草を吸っていた。 その隣で、宇佐見美月が彼の腕を軽く引っ張り、誠司が視線を門の方に向ける。 そこで、現した姿は…… 第1話 神谷晴佳(かみや はるか)が刑務所を出たその日、外は冷たい雨が降っていた。 風に乗って雨粒が肌を刺し、刑務所の門前には報道陣が押し寄せていた。 「神谷さん、水月ノ庭事件であなたの依頼人が敗訴し、半年前に飛び降り自殺しました。遺族の方があなたに責任を問うてますが、どうお考えですか?」 「神谷さん、弁護士連合会から除名され、あなたの恩師も引退に追い込まれました。この件について一言お願いします!」 記者たちがどれだけ問いかけようとも、晴佳はただ黙ってうつむいたまま前へ進み、人混みをかき分けるようにして出口へ向かった。 道端には黒いゲレンデが停まっていて、夫・神谷誠司(かみや せいじ)が車にもたれながら煙草を吸っていた。 その隣で、宇佐見美月(うさみ みづき)が彼の腕を軽く引っ張り、誠司が視線を門の方に向ける。 二人は並んで晴佳の前へと歩み寄った。 美月は晴佳の額にある傷痕を指差し、顔をしかめて言った。 「お姉さん、それどうしたの?うわっ、すっごい目立つ……ていうか、めっちゃグロくない?ほぼ顔そのものが崩壊したみたいじゃないか〜」 晴佳はさっと前髪をかき下ろして傷を隠そうとしたが、広すぎてまったく隠れなかった。 その傷は、刑務所の中で受けた暴力の痕だった。 誠司は一言も口を開かなかった。ただ、彼女を見る目は冷たく、どこか他人事だった。 美月はにこにこと笑いながら、小さな箱を差し出した。 「お姉さん、これ、私と誠司さんからのプレゼントだよ。新しい靴。これ履いて、もう二度と道を踏み外さないでね?」 道を踏み外す、か。 晴佳は、何とも言えない皮肉を感じた。 一年前、なぜ自分が逮捕され、刑務所に入る羽目になったのか、この二人が誰よりもよく知っているはずだった。 晴佳は弁護士として、五年間無敗を誇った実力者。業界でも名の知れた敏腕弁護士だった。 一方、美月は晴佳の父・宇佐見忠弘(うさみ ただひろ)の私生児で、二年前に忠弘に連れられて家に来た。 彼女も弁護士ではあるが、三年の間、一度も勝訴したことがなく、業界でも最底辺と見なされていた。 すべては一年前、「水月ノ庭事件」で変わってしまった。 その案件では、晴佳は被害者である少女の代理人として、資産家・鎌田源次郎(かまた げんじろう)を訴えた。 そして、美月は鎌田側の弁護人だった。 証拠は十分、勝訴はほぼ確実と思われていた。 ところが、開廷の前夜、晴佳のパソコンに保存されていた証拠データがすべて消失した。 結果、敗訴。 事件は世間に大きく報道され、被害者の少女は「売春婦」として晒し者になった。 晴佳は「証拠捏造」の疑いで告発され、弁護士連合会から除名、懲役一年の判決を受けた。 美月のほうは、この事件で「勝った側」として一躍有名人になった。 晴佳は、当初はその理由がわからなかった。 だが、ある日、誠司のスマホの中に見つけたグループチャットで、すべてが繋がった。 誠司、美月、そして父・忠弘の三人グループだ。 【お姉さんって、世間の評価も実力も全部あるくせに、法廷で私を本気で潰そうとしたよね?あれ、絶対わざとだと思う】 【晴佳が悪いよ。美月、お父さんはお前の味方だからな】 【誠司さん、どう思う?】 【言ってごらん。見られたくない証拠や資料って、どれ?】 …… 車は宇佐見家へ向かって走る。車窓から外を見つめながら、晴佳は思う。 一年という時間は、長いようで短い。だけど、すべてが変わるには十分すぎる長さだった。 宇佐見家の邸宅は、外装も内装もまるで別の家のようにリフォームされていた。そして、門のそばにあった大きな桃の木が、姿を消していた。 晴佳は走って庭へ行き、使用人に尋ねた。 「母が植えた桃の木はどこ?」 使用人は無表情で言った。 「美月様がジャスミン茶がお好きでして。『庭で育てたジャスミンのお花で淹れたお茶が一番安心』とおっしゃって、旦那様がご命令で、あの桃の木を伐採してジャスミンに植え替えました」 こころが、ぐっと痛んだ。 あの桃の木は二十年前、母・常磐綾乃(ときわ あやの)が生前に自ら植えたもの。母が残してくれた、唯一の思い出だった。 それが、ただの茶葉のために切り倒されたというのか。 晴佳は踵を返し、父に文句を言おうと玄関に向かった。しかしその途中、突如現れた女に腕を掴まれ、次の瞬間―― パシンッ! 頬に鋭い痛みが走る。 女は泣きながら叫んだ。 「みんな見て!この人が、私の娘を殺したんです!この悪徳弁護士が!!」 第2話 女は「水月ノ庭事件」の被害者の母親だった。 その後ろには、またしても記者の群れ。フラッシュの光が容赦なく目に突き刺さり、晴佳の頭がくらりと揺れる。 女は晴佳を何度も突き飛ばし、叩いてきた。 「娘には訴えるなって言ったんだよ。私たちみたいな庶民が金持ち相手に勝てるわけないって。でも、この女が『勝てます』って自信満々だったのよ! 結局うちの娘は売春婦呼ばわりされて、自殺したの。で、この人は?今日、出所?ふざけんなよ! 何でこいつが生きてるの?死ぬべきはあんたよ!うちの娘の命を返してよ!」 女の両手が飛び、晴佳はバランスを崩して地面に倒れ込みそうになる。 そのとき、美月が彼女を支え、無理やり顔を持ち上げた。そして、額の傷跡をわざとカメラの前に晒すようにして、にっこり笑いながら言った。 「水月ノ庭事件は、確かにお姉さんのミスでしたが、ちゃんと償ってるんですよ。見てください、この傷…… 被害者って言っても、ただのウェイトレスでしょ?うちの姉は別荘に住んでるお嬢様なんですよ。そんな子と比べるなんて、お姉さんが可哀想じゃないですか?」 …… その日の夜、晴佳はゴールデンタイムのニュースに取り上げられた。 映像の中で、美月は「お姉さん」と親しげに呼びながら、まるで姉の代弁者のように語っていた。 当然、世間はそれを晴佳の言葉として受け取った。 ニュースが流れた直後、ネットは荒れに荒れた。 【弁護士の恥よ。たった一年で済んだのが不思議。無期懲役が妥当でしょ】 【刑務所でいじめてくれた人たちに感謝!お嬢様から醜女へ、最高のエンタメ】 【このクズ弁護士の住所、誰か知らない?プレゼント送りたい】 誹謗中傷だけでなく、命の危険すら感じるレベルになっていた。 このままでは危ない。そう判断した晴佳は、真実を伝えるための動画を撮り、メディアへ送ろうとした。 と、そのとき。 誠司が部屋に怒鳴り込んできて、スマホを奪い取った。 「何してるんだ!」 「説明するわ」 「説明?そんなのしたら、美月が傷つくだろうが!」 晴佳は、結婚して五年になるこの男を見つめ、その瞳の輝きが少しずつ薄れていった。 それはかつて彼女の手を握り、固く誓って、一生守ると言った男だった。 今、その男が、別の女のために、自分にすべての汚名をかぶらせようとしている。 「じゃあ、私は?私はどうでもいいの?あなたは誰の夫なの?」 「俺はお前の夫であり、美月の義兄でもある。正しい方に立っているんだ」 誠司はあくまで「正義の顔」で言い放った。 「美月は、お前を守るために必死なんだぞ。なのに、今度はお前が彼女を裏切るのか?」 可笑しくて、声が出そうになった。 「裏切る?ここまで貶めたのは誰?美月が本当に私のためを思ってる?あなた、目だけじゃなく心まで腐ってるの?」 「……お前って、本当に理屈が通じないな」 「理屈が通じないのはあなたの方でしょ!スマホ返して!」 晴佳が背伸びしてスマホを奪い返そうとすると、誠司はスマホを高く掲げたまま、直接動画を削除した。 手がぴたりと止まった。 「なんで勝手に!」 誠司の表情は、冷たかった。 「現実見ろ。お前、もう引き返せないんだよ。 この屋敷でトップ女性弁護士は一人いれば十分。お前はこれから、家庭に収まってればいいんだ」 目の前の男を見つめながら、晴佳の目から最後の光が消えた。 もう泣くつもりはなかった。涙なんか流す価値もない男だ。そう思ってた。だが、涙は勝手に頬を伝っていた。 「弘明大学法学部を首席で卒業したのよ。五年間、無敗で戦ってきた。誰もが、才能を認めてくれた…… なのに、あなたは、私に『家庭に収まれ』って?それも、美月のために?」 第3話 たぶん誠司自身はもう忘れてるだろう。でも晴佳は、忘れたことなんて一度もなかった。 あの頃、彼女は弘明大学法学部一番人気のある美人だった。 誠司はただ経済学部の貧乏学生。 学費だって、晴佳の母・綾乃が援助していたくらいだった。 晴佳のまわりには、たくさんの男が群がっていた。曲を作ってくれる人、花束を抱えてくる人。 でも、毎日、女子寮の前で待っていたのは、誠司だけだった。 夏は冷たい飲み物を、冬はホットミルクティーを持って、わざわざ図書館まで送ってくれた。 けど、晴佳は一度も彼に話しかけたことがなかった。 同じ寮の子たちも彼を馬鹿にしていた。 「見てよ、あれ。マジで高嶺の花狙ってるカエルがいる!身の程知らずね、おとぎ話と現実の区別もつかないのかね!」 そんなふうに、みんなが笑ったあの日。 晴佳だけは、立ち止まり、彼に向かってこう言った。 「自転車……私、一回も乗ったことないの。教えて」 それからほどなくして、二人が付き合っているという噂が大学中に広まった。 上級生の中には、「まだ恋してもないのに、もう失恋した気分だ」と落ち込む者もいた。 掲示板には「何ヶ月で別れるか」なんてスレッドまで立っていた。 何といっても、二人の差は明らかだった。 誠司は普通以下。晴佳は外見・成績・家柄すべてが完璧。 でも、誰もが驚いたのは、二人が卒業と同時に、結婚したことだった。 プロポーズを受けたとき、晴佳は誠司の目を見て、こう言った。 「誠司は優しい人。こんなに優しくされたら、断るのが申し訳なくなる…… もし断ったら、きっと後悔する。だから……ねえ、これからもずっと、今みたいにいてくれる?」 誠司は、即答だった。 彼女を抱きしめて、まるで心臓まで差し出すように言った。 「君のおかげで俺は人生をやり直せたんだ。人間らしく生きられるようになった。俺は、この先の人生、君だけに尽くして生きていく」 ああ、本当に、バカみたいだった。 結婚して、まだ五年。今、振り返ってみると、それがまるで前世の記憶みたいに感じる。 永遠なんて、どこにもなかった。 男の誓いなんて、裏切るためにあるものだ。 結婚して三年が過ぎた頃、美月が忠弘に連れられて戻ってきた。 それ以来、晴佳は父と夫を、少しずつ失っていった。 父は、彼女にはぶっきらぼうなくせに、美月が裁判に負けた日は何時間も寄り添って慰めた。 誠司は、晴佳の趣味すら知らないのに、美月の好きなドラマに付き合って徹夜までするようになった。 一年前の「水月ノ庭事件」。それは、晴佳と美月の人生を大きく分ける決定的な出来事になった。 …… その晩、晴佳は朝まで眠れなかった。目が覚めたのは、次の日の昼。 階下からは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。美月、忠弘、そして誠司。 美月の冗談に、忠弘は顔をくしゃくしゃにして笑い、誠司もにやけながら、美月の鼻を指でつついた。 だが、晴佳がリビングに入った瞬間、全員の笑いが止まった。 まるで彼女だけが、「他人の家」に迷い込んだ侵入者のようだった。 ……ここは、本来、彼女の家なのに。 この別荘だって、母が遺してくれた財産なのに。 美月は誠司の腕に凭れながら言った。 「お姉さん、さすがに寝過ぎでしょ。もうお昼ごはん終わっちゃったよ?」 忠弘は無関心に返す。 「台所に言って、お茶漬けでも出してやれ」 美月が「ありゃー」と声を上げる。 「さっき料理人が私用で外出って言ってた。だから、お姉さんのごはんは……無し、かな?」 忠弘はまったく気にせず答える。 「じゃあ、インスタントラーメンでも食っとけ。若い子はそういうの好きだろ」 そして、満面の笑みで美月に向き直った。 「美月、お前こっそりインスタントラーメン食べてただろ?父さん知ってるんだぞ。あんなの体に悪いから、もうやめときな?」 美月は舌を出して、おちゃめにウィンク。 晴佳は何も言わず、その場から背を向けて出て行こうとした。 誠司が立ち上がった。 「……俺が、ごはん作るよ」 「誠司さん!?」 美月は不満そうに声を上げたが、誠司はそのままキッチンへ。 彼女は睨むように晴佳を見て、ぷいと顔を背ける。 ちょうどそのとき、使用人が現れて、手に何かを抱えていた。 「晴佳様、お荷物が届いております」 晴佳は立ち止まった。 「私に?」 使用人は荷物をテーブルに置きながら言った。 「はい、宛名は神谷晴佳様です」 晴佳は少し首をかしげた。 帰ってきたばかりで、ネットで何かを買った覚えなんてまるでない。 美月が横からスッと入って、段ボールを奪った。 「なになに?お姉さん、何買ったの?」 箱を開けながら、美月は皮肉っぽく言う。 「出所早々ネットショッピングとか、さすが気持ちの切り替え早いねぇ」 だが、その次の瞬間。 「――きゃあっ!!」 彼女の口から、鋭い悲鳴が響き渡った。 第4話 美月は、箱を悲鳴と共に数メートル先に放り投げた。 中から血塗れの何かが転がり出て、カーペットに血の跡を引いた。 使用人は膝から崩れ落ちそうな勢いで震えている。 「し、死んだネズミ……なんで……死んだネズミなんか……!」 ちょうどそのとき、誠司がお皿を持ってキッチンから出てきた。 目の前の光景を見た瞬間、手に持っていた器を投げ出し、慌てて美月のもとへ駆け寄る。 「美月、大丈夫か!?」 彼はしゃがみ込み、美月の手を優しく取り、まるで壊れ物を扱うように確認した。 美月はにっこりと笑い、あざといほどの愛らしさを振りまいた。 「大丈夫、心配かけてごめんね、誠司さん」 そして、わざとらしく口を尖らせ、美月は晴佳を指差す。 「お姉さんが、死んだネズミなんて送ってきて……わたしを脅かしたの。ほんと、ひどいよ……」 誠司の顔に険しいしわが寄る。 「お前……刑務所で性格歪んだのか?」 忠弘も声を荒げた。 「お前はどこまで性悪なんだ!美月に謝れ!」 晴佳は、どこか遠い目をしながら顔を上げた。 「……そのネズミ、私が送ったって証拠は?」 美月はすぐさま声を張り上げた。 「名前書いてあったじゃん!宛名、あんたのよ!」 晴佳は無表情のまま、反論していた。 「宛名が私だからって、私が注文したとは限らないでしょ?あんた、誰かから荷物受け取ったことない?」 美月は一瞬言葉を詰まらせ、すぐに不機嫌そうに返す。 「は?あんたみたいな犯罪者に荷物なんて誰が送るっての?ありえないでしょ!」 晴佳の顔に皮肉な笑みが浮かんでいた。 「そうさせたのはあんたの発言でしょ?あんたがああいうこと言わなきゃ、誰もそんな嫌がらせしないわよ」 美月の顔がみるみる赤くなる。 「なにそれ!じゃああんたが買ってないって証拠出しなさいよ!」 「私は証明する必要ない」 晴佳は、ほんの僅かに顎を上げて言い返す。 「『無罪推定の原則』って知ってる?私に罪があるって言うなら、証明するのはそっちの義務。 あんた、弁護士のくせにそんな基本も知らないの?」 その言葉と共に、朝の光に包まれた彼女のシルエットが、不思議と神聖で荘厳なものに見えた。 その一瞬、誠司はかつての無敗の敏腕弁護士・神谷晴佳を思い出した。 言葉は鋭く、筋道もはっきりしていて、まさに理詰め。 彼女が一度口を開けば、相手は反論の余地すら与えられない。 パッ! 忠弘が新聞をテーブルに叩きつけて立ち上がった。 「ここは法廷じゃない!お前はもう弁護士除名されたんだぞ!何様のつもりだ!」 ピシッと背筋を伸ばしていた晴佳の肩が、わずかに沈む。 彼女は、このどうしようもないほど身内びいきの父を見つめながら、胸の奥がずきりと痛んだ。 そうだ、自分はもう二度と弁護士には戻れない。 けれど、こんな結末になったのも、結局はあの人たちのせいじゃないか。 使用人が震えながら、箱に指を差した。 「中に……紙が……入ってます、何か書いてあるみたいで……」 誠司がさっと歩いていき、紙を拾い上げた。その顔が、一瞬引きつった。 美月の声がせがむように響く。 「誠司さん?なんて書いてあるの?読んでよ」 誠司は唇を噛みしめながら読み上げた。 「悪徳弁護士・神谷晴佳へ。お前はもう、世間から嫌われたネズミ同然だ。次はお前が死ぬ番だ」 誠司は紙をそっと置くと、少し離れたところにいる晴佳の方へ視線を向けた。 彼女はじっと俯いていて、顔色は紙のように青白い。まるで、次の瞬間にでも光に溶けて消えてしまいそうだった。 誠司の胸に、奇妙なざわめきが走った。 忠弘が鼻を鳴らした。 「だから言ったろ、弁護士なんかやるなって。自業自得だ」 美月も続けた。 「ほんと、人騒がせなんだから……」 晴佳は無言のまま階段を上がっていった。その背中は、かつての威厳も余裕もなく、どこか痛々しかった。 誠司は思わずその背を追いかけようと足を動かした。 「ちょっと見てくる」 美月が甘えるように文句を言った。 「誠司さんっ、さっきほんとに怖かったんだから……」 だが、誠司は彼女の言葉に振り返ることもせず、その姿はすぐに角の向こうへと消えていった。 残された美月は、唇を噛み、近くのクッションを思い切り床に叩きつけた。 第5話 晴佳は静かに部屋の中に座っていた。 背後でドアが開き、誠司が入ってくる。 「今日の件……俺たちが勘違いしてた。ごめん」 晴佳は答えなかった。 聞こえなかったわけじゃない。ただ、どうでもよかった。 彼ら三人に誤解されても、謝られても、もうどうでもいい。 誠司の胸に空虚な痛みが広がる。 「晴佳……」 彼が呼びかけても、晴佳は背を向けたまま言った。 「私のマットレスは?」 誠司の動きが止まった。 晴佳の使っていたマットレスは、かなりの高級品で特注だった。 弁護士という職業は一日中座って資料を読むことも多く、腰への負担も大きい。 彼女は元々腰を痛めていて、夜も痛みで目が覚めるほどだった。 だから医者のすすめで、矯正機能付きのマットレスを特注で作ったのだ。 誠司は黙っていた。 晴佳は、それを予想していたように、淡々とした口調で言う。 「美月の部屋に運んだんでしょ」 その声はあまりにも静かで、まるで干からびた井戸の底から響いてくるようだった。 誠司の胸が、綿でぎゅうぎゅうに詰められたように苦しい。 「晴佳……」 実は、晴佳は出所した日の夜に、すでに気づいていた。自分のベッドの感触が明らかに違うことに。 そのとき、彼女は何気なく誠司に聞いた。 「このマットレス、なんか寝心地違うね」 誠司は答えなかった。晴佳もそれ以上聞かなかった。 翌日、美月の部屋の前を通りかかったとき、部屋の中から男女の会話が聞こえてきた。 「美月、マットレス返せよ。お姉さん、気づいたみたいだ」 「気づいたからって何?お姉さん、刑務所で一年間も硬いベッドで寝てたんでしょ?あんな高級マットレスなんて、身の丈に合ってないよ」 それに対して、誠司は何も言わなかった。 沈黙は、同意と同じだった。 刑務所に入った人間に、高級マットレスを使う資格さえ失くした。 服役していた過去が、消えない汚点になることはわかっていた。 でもそれが、最も信じていた人たちから、心臓にナイフを突き刺す理由になるなんて、想像もしていなかった。 しかもそのナイフは、刺したあとで、何度も何度も中をかき回してくる。とことん、血が流れるまで。 …… 出所して半月後、美月の誕生日がやって来た。 朝早くから、使用人たちが走り回り、パーティーの準備で大忙しだった。 晴佳は階下の慌ただしい光景を見下ろしながら、目を伏せ、苦く笑った。 実は、出所して三日目が、晴佳の誕生日だった。 獄中にいたころ、彼女は何度も夢見ていた。今年の誕生日は、ようやく家族そろって、祝ってもらえるかもしれないって。 けれど、実際にその日が来ても、誰一人として彼女の誕生日を思い出さなかった。 結局、晴佳は自分で最小サイズのケーキを買って、真っ暗な部屋で、ひとりぼっちで歌を歌った。 「晴佳、お誕生日おめでとう……」 蝋燭の光が、彼女の笑顔を照らす。震える唇で無理やり笑っていた。 蝋燭を吹き消す瞬間、涙は止められなかった。 そして今夜は、美月の誕生日。晴佳の寂しい誕生日と比べ、まったく違う光景だった。 開宴前から、屋敷にはすでに客が集まり始めていた。 美月はピンクのドレスに身を包み、ダイヤモンドのティアラをつけ、まるでプリンセスのように人々の中心にいた。 「宇佐見家の次女は優秀な弁護士だ」、「若手のホープだ」と、彼女が褒め称えられていた。 その賑やかな会場の片隅に、晴佳はただひとり、誰にも気づかれず立っていた。 宴もたけなわの頃、見知らぬ若い女性が話しかけてきた。 「私、美月さんとは最近知り合ったばかりなんですけど……あなたもお友達?お名前は?」 「神谷晴佳です」 その瞬間、相手の笑顔がサッと消えた。 彼女は軽蔑するように目を細め、鼻で笑った。 「なーんだ、あなたか……最初に言ってくれればよかったのに」 そう言って、踵を返して去っていく。 周囲の視線が、一斉に晴佳へと集中した。冷たい目、蔑む目、噂を囁く唇。 そのときだった。見知らぬ男が歩み寄ってきて、サービストレイにあった赤ワインを手に取った。 そして、ワインの入ったグラスを、彼女の頭上から容赦なくぶちまけた。 第6話 人混みの中から小さな騒ぎが上がり、続いてざわめきとくすくす笑いが広がった。 男は手に持っていたワイングラスを床に叩きつけた。ガラスの割れる音が耳に刺さる。 「お前のせいで、俺たち弁護士全員が罵られてるんだぞ! 業界の恥さらし、腐ったミカンがひとつあるだけで全部台無しだ!」 誠司と美月も騒ぎに気づいてこちらへ来た。二人ともその光景を目にして固まった。 その混乱に乗じて、誰かが後ろから晴佳を突き飛ばした。 彼女は尻もちをつき、見上げた先には嘲笑を浮かべる視線が並んでいた。 美月は心底楽しそうな声で話した。 「お姉さん、どうしたの?ワイン頭からかぶっちゃって、しかも転んじゃって。 やっぱりお姉さんっていつもドジだもんね。水月ノ庭の件であれだけやらかしたのも納得だわ」 誠司が軽く咳払いしてたしなめる。 「美月、人前だぞ。晴佳にも少しは顔を立ててやれ」 「だって、私つい本当のこと言っちゃうんだもん」 美月は口を尖らせ、誠司はその姿に慈しみの笑みを浮かべた。 「美月は素直な子だ」 そのやりとりを見ていた晴佳の胸に、もはや痛みはなかった。 感情はすでに麻痺して、ただ潮のように心を満たす虚しさだけが残っていた。 その闇のとき、横から長くすっとした指が、彼女の目の前に差し出された。 低く落ち着いた男性の声が、頭の上から降ってきた。 「手を、貸して」 晴佳が見上げると、そこには記憶に焼き付くほど整った顔立ちがあった。 シャープな輪郭に冷ややかな瞳、端正な顔。 長瀬悠貴(ながせ ゆうき)。 その名前が自然と脳裏に浮かぶ。 彼は弘明大学法学部の先輩で、「伝説の存在」だった。 二年で四年分の単位を修了し、誰もが法律家の道を行くと思っていた矢先、突如商学部へ転科した。 そして卒業後は家業を引き継ぎ、実業家としても悠貴の才覚は際立っていた。 わずか数年で、長瀬グループの業績を一段と押し上げたのだった。 ビジネス誌では「次世代のリーダー」と称されている。 人々のざわめきがざっと広がる。 「えっ……長瀬悠貴?」 「めったに公の場に姿を見せないのに、まさか美月の誕生日パーティーに来るなんて……」 晴佳はその中でまばたきもせず、ただ見つめていた。 悠貴はしゃがんで彼女の手首を取り、軽々と立たせた。 そして胸ポケットからハンカチを取り出し、髪に垂れたワインを拭おうとする。 晴佳が顔をそむける。 「……自分でしますから」 悠貴は無理に触れず手を引いた。 「そうか。じゃあ、任せる」 そこへ美月が割って入ってきた。 「長瀬さん、今日は来てくださって本当に光栄です!」 実のところ、美月にはまだ信じられなかった。どうして悠貴が、わざわざ来てくれたのか。 以前、彼女の所属していた事務所が長瀬グループと提携していたとき、彼女はこれでもかというほど着飾って、会議に出席した。 けれど、悠貴の姿を見ることさえ叶わなかった。 世間では、悠貴は冷静沈着で、人付き合いも淡白だと言われている。 美月も、それは間違いじゃないと感じていた。 だからこそ、今夜彼が自分の誕生日パーティーに現れるなんて、夢にも思わなかったのだ。 だが悠貴は彼女をちらりと一瞥しただけで、すぐに美月の隣に立っている誠司へ視線を移した。 その視線の冷たさに、誠司は居住まいを正して口を開いた。 「長瀬さん……」 しかし、悠貴は一言も返さなかった。 ちょうどそのとき、彼の秘書がスマホを差し出す。 「長瀬さん、大事なお電話です」 悠貴は晴佳をもう一度だけ見つめてから、静かに背を向けて去っていった。 野次馬たちも、そのあとを追うように散っていく。 「晴佳、大丈夫か……?」 誠司が心配そうに声をかける。 晴佳は無言のまま、その場を立ち去った。 誠司があとを追おうとした瞬間、美月が腕にしがみつく。 「誠司さん、どこ行くの?開場ダンス、みんな待ってるよ」 誠司は一瞬迷ったが、頷いた。 「ああ、分かった。一緒に行こう」 美月は満足そうに微笑んだ。 第7話 晴佳は部屋に戻ると、シャワーを浴びて一階へ戻らなかった。 階下の賑やかな声も、やがて遠ざかっていった。どうやら宴は終わったらしい。 眠りにつこうとしたその時、スマホが鳴った。美月からのメッセージだ。 【お姉さん、部屋に来て。プレゼントがあるんだ】 晴佳は部屋を出て美月の部屋へと向かう。だが、ドアの前で、部屋の中から聞こえてきたのは、男女の低く甘い声。 「美月……やめろよ。お姉さんすぐ隣だぞ」 「大丈夫だって。どうせ寝てるよ。お姉さんが帰ってきてから、ずっと我慢してたんだから……誠司さん、あれ、ほしいのよ」 「万が一聞かれたら――」 「誠司さんって、そんなにお姉さんが怖いの?」 泣き出したような声。鼻声混じりの哀願。 「ね、教えて……お姉さんが帰ってきてから、もう彼女としたの?誠司さんの側に、私一人しかいないと、その約束忘れたの?」 「……してないよ」 誠司の声は、どこか申し訳なさそうで、それでいて優しかった。 「だから、泣くな。な、美月…… だってさ、晴佳の額の傷、見てたら気が萎えるじゃん?」 やっと美月は笑い出した。 「やっぱり、誠司さんは私のこと、ちゃんと好きなんだ。じゃあ、お返しさせてね…… じっとしてて、私がするから」 「美月、そんなことまでして……」 「いいの。だって男には欲求ってものがあるんでしょ?私は、喜んで応えてあげる」 それからしばらく、くぐもった息づかいと、湿った声が断続的に聞こえてきた。 「ねえ……私とお姉さん、どっちが可愛い?」 「お前だよ」 「私とお姉さん、どっちが気持ちいい?」 「お前に決まってる」 「じゃあ……どっちが好き?」 「お前だ、美月……もっと……」 耳が、じんじんと痛む。 晴佳の全身から力が抜けていった。血が止まり、呼吸すら忘れるような衝撃だった。 フラフラと部屋に戻り、窓の外を見ながらただぼんやりと座っていた。 どれだけ誠司がどうしようもない男になっても、最後の一線くらいは守ると。 でも、それすらも彼を買いかぶっていたに過ぎなかった。 深夜。ようやく眠りについた晴佳だったが、再びスマホのバイブ音で目を覚ました。 【お姉さん、聞こえてた?マットレスも、男も、もう私が使ってるの】 【正直に言うとね、お姉さんが刑務所での一年間、誠司さんと私はほとんど毎晩一緒だったの】 【お姉さんは誠司さんを満足させられなかったんだね、だって私のベッドであんなに私に夢中になるなんて】 【父親も、仕事も、男も、今は全部私のもの。お姉さんに劣ってたのなんて、お金持ちの母親がいなかったってだけよ。世間にはっきり見せてあげる。あなたなんて、私より上じゃなかったって!】 スマホを投げつけそうになる手を、必死に抑えた。 深呼吸を何度もして、ようやく思考が戻ってくる。 美月の言う通り、彼女は金持ちの母親に恵まれた。 そして美月がまだ気づいていないのは、今の彼女の生活を支えているのが、働きもせず遊んでばかりの父を頼っているわけじゃない。 晴佳の母・綾乃が残した莫大な遺産があったからだ。 しかも、晴佳の母は娘の未来を案じ、遺言書に特別な「付帯条項」を入れていた。 その条件が、ついに満たされた。 晴佳はスマホの連絡先を開き、母が遺言を託していた弁護士・堀内直樹(ほりうち なおき)の番号をタップする。 電話はすぐに繋がった。相手は丁寧な口調で応えた。 「晴佳様、ご指示をどうぞ」 「堀内先生。母の遺言書に記載された『付帯条項』、今すぐ実行してください」 「本当によろしいのですか?」 「はい」 その言葉を言い終えると同時に、電話を切った。 第8話 真っ暗な部屋で、晴佳は天井を見つめていた。 ここ数年の出来事が、まるで映画のフィルムのように脳裏をよぎる。 もう父親なんて、とうにいなかったも同然だ。 そして今、夫さえ、もう要らないと思っていた。 …… その夜、晴佳は久しぶりにぐっすりと眠れた。 翌朝、太陽が高く昇ってからようやく目を覚まし、ゆっくりと洗面を終えて階下へ降りた。 すると、耳に飛び込んできたのは美月のヒステリックな叫び声だった。 「なんであんたたち来てんのよ!?なんで私のジャスミンを掘り起こしてんの!?お茶に使うのに!」 玄関先では、作業服の男たちがせっせと動いていた。 彼らの手際の良さで、繁茂していたジャスミンは一株残らず根こそぎ掘り返されていく。 「いやああああ!」と美月は絶叫するが、作業員たちはまるで聞こえていないかのように手を止めなかった。 晴佳はリビングのソファに腰掛け、使用人がいれたばかりのお茶を口にした。 「彼らを呼んだのは私よ」 美月は一瞬きょとんとし、それから怒り狂ったように晴佳の前まで詰め寄った。 「どういうつもり!?あれは私のジャスミンよ!」 晴佳は背もたれにくつろぎながら、笑顔で顔を上げた。 「つもりも何もないわ。ただ、あんたのジャスミンが目障りだっただけ」 美月は数秒ほど呆気に取られ、それから泣き声を上げた。 「あんた本気で私を敵に回すつもり!?わざとよね、完全に嫌がらせでしょ!」 晴佳は頷く。 「正解。あんたが嫌いなの。だから嫌がらせしてるの」 またも言葉を失った美月は、歯を食いしばって叫ぶ。 「あんたなんか……たかが前科持ちのくせに!調子に乗らないで!」 晴佳の笑顔はその瞬間、すっと消えた。ゆっくりと立ち上がり、無表情のまま睨みつける。 「刑務所の中は確かに辛かったわ。でも、名誉毀損って罪名、知ってる?その口の利き方、控えたほうがいいわよ」 美月の声が、喉でつかえて止まった。まるで別人を見ているようだった。 晴佳は変わった。 以前のような遠慮がちな様子は微塵もなく、代わりに放たれる鋭い威圧感に、思わず一歩後ずさった。 そんな美月の表情を、晴佳は見逃さなかった。そして、静かに笑んだ。 今日からは、もう自分を抑えるのはやめた。 これまで我慢してきたのは、気にかけていたからだ。 父のことも、誠司のことも。だからこそ、美月と無駄な衝突は避けてきた。 でも今は、もう何も気にしていない。 誰にも、自分を思い通りに扱わせたりはしない。 ふたりが睨み合っていると、背後から低く重い声が飛んできた。 「美月、どうした?なんで泣いてるんだ?」 聞くまでもなく、忠弘の声だ。 美月はさっと父親にしがみつく。 「お父さん、お姉さんが私のジャスミンを全部抜いちゃったの!あれ、お父さんが私のために植えてくれたのにぃ!」 忠弘は心底哀れむように娘を抱きしめた。 「よしよし、泣くな。ジャスミンならまた植えてあげるから、安心しなさい。お父さんが絶対、晴佳に謝らせるから!」 そして怒りを込めた顔で晴佳を睨みつける。 「また妹をいじめたのか! 今すぐ謝れ!そしてジャスミンも元通りに植えなさい!でなければ、ただじゃ済まさんぞ!」 晴佳は、その茶番劇のような「親子の愛情」を冷めた目で見つめる。 そして、父が自分に手のひらを返す様子を見て、そのあまりの速さに、まるで本をめくるよりも早いと思った。 胸の奥には、言葉にできないほどの虚しさと皮肉が広がっていた。 「謝る?ありえないわね。ジャスミンの件なら……」 意味深に言葉を止める。 忠弘と美月は、一斉に耳をそばだてた。 そして次の瞬間、晴佳はにっこりと笑い、淡々と告げた。 「まあ、戻しても構わないけど。ただし、お母さんが残してくれた桃の木を、元通りに戻してくれるなら、あんたのジャスミンも植え直してあげるわ」 忠弘の眉がぴくりと跳ねた。 「何を言ってるんだ。あの木ならとっくに捨てたぞ。今さらどこから持ってこいって言うんだ!」 その一言で、晴佳の表情から笑みがゆっくりと消えていった。 あの木は、彼女が五歳のときに、母が自らの手で植えた桃の木だった。 晴佳は幼い頃から体が弱く、ちょっとした病気を繰り返していた。 桃の木には邪気を払う力があると聞いた母は、娘が無事に成長するよう願いを込めて、心を込めてその木を植えたのだ。 それは、妻としての想いであり、娘の健やかな人生を願う、母の深い祈りでもあった。 それらすべてが、この父親の手でただのゴミとして捨てられた。 晴佳の拳が、静かに、固く握りしめられた。 第9話 晴佳はくるりと父の方へ向き直り、無表情のまま淡々と告げた。 「じゃあ仕方ないわね。ジャスミンもゴミとして捨てたから、植え直せって言われても無理よ」 忠弘は怒りで胸を押さえた。 「親にそんなこと言うのか!わざと俺に逆らってるんだな!」 美月は泣きながら父にすがりついた。 「お父さん、姉さんがひどすぎるよ……!お父さんを殺す気なの……?」 忠弘は咳き込み、震える手で晴佳を指さす。 「……もういい、お前なんか……俺の娘だなんて思いたくもない!さっさと出ていけ!今すぐこの家から出て行け!!」 それを聞いた晴佳は、あっさりと肩をすくめた。 「娘として思いたくない?同感よ。ちょうど私も、あなたを父だなんて思いたくないわ。 でも、『この家から出ていけ』って言われても、それは無理な相談ね」 一歩、また一歩と近づき、真正面からふたりを見据えた。 「ねぇ、お父さん……もう歳には勝てないのね? この別荘、誰の名義か……ほんとに忘れた?私の名義よ。お母さんが遺してくれた財産。 出ていくべきなのは私じゃない。あんたたちよ」 そう言って、晴佳は迷いなく二人を指さした。 その瞬間、美月と忠弘は完全に固まった。 美月は動揺した声で父に尋ねた。 「お父さん……お姉さん、何言ってるの?どうせまた嘘でしょ?ね?」 彼女は所詮、愛人の子。宇佐見家のことなんて知るはずもなかった。 忠弘に連れられてこの家に来た日、美月は、まるで洋館のような広大な邸宅を前に、目を丸くした。 この贅沢な世界はすべて「お父さんのもの」だと、無意識に思い込んだのだ。 でも実際には、会社も、不動産も、すべては晴佳の母・綾乃のものだった。 晴佳の祖父・常盤正幸(ときわ まさゆき)は、地元でも名の知れた大企業の創業者。綾乃は、その一人娘として、愛情を一身に受けて育てられた箱入り娘だった。 忠弘は、その家に婿入りした身だった。 それでも、綾乃は夫を立てるため、娘に夫の姓を名乗らせた。 だが、すべての財産が、しっかりと自分名義にしてあった。 忠弘は鼻を鳴らして笑った。 「だからなんだって言うんだ?別荘があんた名義なら、こっちは別にまた買えばいいだけの話だ」 そして急に甘い笑みを浮かべて美月に向き直る。 「美月、こんな家なんてもう飽きたろ?新しい家、もっといいの買ってやるよ」 だが美月はまだ諦めきれず、未練たっぷりにリビングを見回した。 「……お父さん、本当にこの家、お姉さんのなの?」 忠弘は無言になった。 美月の顔が一気に青ざめる。本当に晴佳のものだったのか。 でも、すぐに虚勢を張るように、あごを上げて晴佳を見下ろした。 「いいわよ、すぐに新しい家を買うから。もっと大きくて、もっと豪華な家!あんたなんか、このボロ屋に一人で引きこもってなさいよ!」 晴佳はその言葉を聞いても、怒るどころかふっと笑った。 まるで「どうせすぐに泣きついてくるくせに」と、すべてを見通しているような冷ややかな笑みだった。 美月は、得体の知れない不安に胸を締め付けられた。焦るように父の腕を抱え込む。 「お父さん……ねぇ、本当に買ってくれるんだよね?」 忠弘は娘の頭を優しく撫でた。 「もちろんだとも。お父さんは、美月が欲しいものなら、なんだって買ってあげるさ」 そう言って、二人は晴佳に背を向けて玄関へ向かうと、玄関から現れた堀内弁護士とすれ違った。 彼は忠弘の前に立ちはだかり、厳格な声で言った。 「宇佐見さん、奥様の遺言書の『付帯条項』を執行するために、あなたご本人の立ち合いが必要です」 忠弘は怪訝な表情を浮かべた。 「……付帯条項?遺言の執行は、もうとっくに終わったはずだが?」 そう、綾乃の遺言は、確かに彼女が亡くなった後、すでに実行された。 全財産の80%は一人娘である晴佳に、残り20%は夫である忠弘に。 その20%だけでも、十分すぎるほどの金額だった。忠弘が一生遊んで暮らすには十分だった。 そして彼も遠慮することなく、その金で贅沢三昧の暮らしを送り、挙げ句の果てには莫大なギャンブルの借金まで作った。 だが、そんな生活がいつ終わってもおかしくないことを、彼はまったく想定していなかった。 しかも、その運命の主導権を握っているのは、長年彼が無視していた実の長女だったのだ。