この世、すべては夢

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「今回の出張、私は一緒に行きたくないの」 西江綺音(にしえ あやね)がそう言ったのは、夕食の席でのことだった。 その声は驚くほど穏やかで...

Chương (1)

第1章

「今回の出張、私は一緒に行きたくないの」 西江綺音(にしえ あやね)がそう言ったのは、夕食の席でのことだった。 その声は驚くほど穏やかで、そこに異変が潜んでいるなど、誰にも気づかれなかった。 西江賢人(にしえ けんと)の今回の出張は、ちょうど五月五日。 それは二人の結婚記念日でもなければ、誰かの誕生日でもない。 ただの、ごく平凡な「子供の日」にすぎない。 三日前、綺音は偶然にも、賢人の携帯に保存されていた音声メッセージを見つけた。 そこには幼い子どもの声が録音されていた。 甘えたような口調で、こう言っていた。 【パパ、今年の子供の日、西都の水族館に行って熱帯魚を見たいな!】 第1話 「今回の出張、私は一緒に行きたくないの」 西江綺音(にしえ あやね)がそう言ったのは、夕食の席でのことだった。 その声は驚くほど穏やかで、そこに異変が潜んでいるなど、誰にも気づかれなかった。 西江賢人(にしえ けんと)の今回の出張は、ちょうど五月五日。 それは二人の結婚記念日でもなければ、誰かの誕生日でもない。 ただの、ごく平凡な「子供の日」にすぎない。 三日前、綺音は偶然にも、賢人の携帯に保存されていた音声メッセージを見つけた。 そこには幼い子どもの声が録音されていた。 甘えたような口調で、こう言っていた。 【パパ、今年の子供の日、西都の水族館に行って熱帯魚を見たいな!】 その瞬間、綺音はしばらく呆然と立ち尽くした。 賢人と恋に落ちて十年、結婚して六年。 誰もが口をそろえて、彼は綺音を骨の髄まで愛していると言った。 実際、彼は出張ですら彼女を一人にせず、常に連れて行っていた。 綺音自身も、それを信じて疑わなかった。 だが、その子どもの声が、愛されていたという幻想を音を立てて打ち砕いた。 その声の主は、推定で四、五歳ほどに思えた。 つまり、結婚して間もなく、賢人は別の女性に子を孕ませていたのだ。 この五年間、彼は優しい夫を演じる一方で、外では二児の父親としての顔を持っていた。 綺音は、愚かだったのか、それとも彼の演技が巧妙すぎたのか――五年もの間、まったく気づかなかった自分に、愕然とするばかりだった。 賢人は、彼女の好物である筍を碗に取り分けながら、優しく問いかけた。 「いつも一緒に出張に来てくれてたじゃないか。どうして今回は急にやめたいなんて?」 「別に。ただ西都はちょっと遠いし、長時間のフライトは気が進まないの」 賢人の母である幸子(さちこ)がすかさず口を挟んだ。 「綺音が行きたくないなら無理に連れて行かなくていいわ。家でゆっくり休ませてあげなさい」 綺音は淡々と頷いた。 そして、碗にある筍を箸でつまみ、そのままゴミ箱へと放り投げた。 賢人は彼女の様子に異変を感じ、更に問い詰めようとしたが、幸子に腕を軽く叩かれ、無言のうちに制止された。 彼はすぐに察し、頷いた。 「わかった。じゃあ君は家でゆっくりしてて。出張が終わったら、すぐに戻ってくるから」 食後、綺音は気分が晴れず、庭をぶらぶらと歩いていた。 家に戻る途中、ちょうど幸子と賢人の会話が耳に入ってきた。 「麻理亜と和彦ももう五歳でしょ。いつまでも外に隠して育てるわけにはいかないわよ。早く正式に家に迎えなきゃ」 賢人は苛立った表情を浮かべた。 「母さん、もうその話はやめて。二人のことはちゃんと手配するよ。でも俺にとって綺音が一番大事な人なんだ。彼女だけは絶対に失いたくない」 「もう六年も嫁に来てるのに、一度も子供を産もうとしないんでしょ? あなたが外で子供を作るのも無理はないじゃない」 「それに、麻理亜と和彦は私にとって大事な孫よ。いつもこっそり会いに行かなきゃならないなんて、こんなのおかしいわ」 賢人は短く答えた。 「何とかするよ」 「もう五歳よ!何とかするなら、とっくにしてるはずじゃない。しっかりしなさい。子供と女、どっちが大事か、自分でよく考えなさい!」 そう話している最中、賢人の携帯が鳴った。 彼は眉をひそめて通話に出た。 「また何?……」 だがすぐに、口調は一変した。 「麻理亜、いい子だな。パパも会いたいよ」 幸子がにっこりして尋ねた。 「うちの可愛い孫ちゃんかしら?」 賢人は通話をスピーカーモードに切り替えた。すると、受話口から高く澄んだ声が響いた。 「おばあちゃん!」 幸子は顔を綻ばせた。 「ええ、はいはい、おばあちゃんはここにいるわよ〜」 それ以上の会話は、綺音にとって耳にしたくもなかった。 彼女は背を向け、花園へと足を向けた。一人で、長いことそこに立ち尽くしていた。 西江家の庭には、賢人が彼女のために植えたバラが咲き誇っていた。 夏の夜風に運ばれるバラの香りは、本来であれば心地よく感じられるはずだった。だが綺音の体は、まるで氷のように冷え切っていた。 彼女は最も信頼する友人、呉島薫(ごじま かおり)に電話をかけた。 「薫ちゃん、海に転落する事故を仕立ててくれない?」 「何があったの? どうしてそんなことを……?」 綺音はしばらく言葉を見つけられなかった。 そして、ようやくすべてを話し終えたとき、薫は沈黙した。 「私はずっと、彼は誠実な男だと思ってたのに……まさか、そんな奴だったなんて!」 「もういいの、そんなこと言っても仕方ない。薫ちゃん、私はもう彼の人生から完全に消えたい」 薫はついに頷いた。 「わかった、協力する。いつにする?」 綺音は少し考えてから、こう答えた。 「半月後。ちょうど結婚記念日なの。その日にして」 賢人には、すでに新しい家庭がある。ならば、自分が去るべきだ。 離婚を切り出せば、彼はきっと執拗に縋ってくるだろう。 その終わりなき泥沼には、もううんざりしていた。 だからこそ、彼女はこの世界から、何もかもきれいさっぱり消え去ることを選んだ。 賢人の人生から、永遠に。 第2話 綺音は電話を切った後、もうしばらくバラの庭で佇んでから家へと戻った。 玄関を入った瞬間、賢人が慌ただしく階段を下りてくるのが目に入った。彼は彼女のコートを手に持っていた。 彼女の姿を見つけるなり、賢人は急ぎ足で近づき、そのコートを彼女の肩にそっと掛けた。 「どうしてそんなに長く外にいたの? 夏とはいえ、夜は風が冷えるから」 綺音はかすかに微笑んだ。 「大丈夫、寒くなんてないわ」 「女の子は身体を冷やしちゃだめだよ」 その言葉に、綺音の足がふと止まる。 彼女の脳裏に、賢人と初めて出会った日のことがよみがえった。 あの頃、彼女は大学一年生になったばかりで、アルバイトのために一日中冷たい風にさらされていた。 通りかかった賢人が、何のためらいもなく自分の上着を差し出してくれたのだ。 断ろうとした彼女に向かって、彼はこう言った。 「女の子は、身体を冷やしちゃだめだよ」 その後、彼女はきれいに洗濯してコートを返し、自然と言葉を交わすようになった。 やがて恋に落ちた。 賢人は後に告白した。 彼はずっと前から彼女に想いを寄せており、陰から見守っていたのだと。 あの日、寒さに震える彼女の姿を見て、どうしても放っておけず、声をかけたのだと。 それから二人は自然と交際を始めた。賢人は彼女を本当によく愛してくれた。 あまりにも献身的なその愛に、周囲の誰もが「西江賢人は究極の愛妻家」だと噂するほどだった。 二人が結婚した時、賢人の親友までもがこう言った。 「彼の中では、綺音さんが一番、賢人自分は二番だ」 綺音はそれを冗談として笑い流していた。 だが、ある時二人が旅行中に地震に遭遇した際、彼の言葉が決して誇張ではなかったと知る。 瓦礫が崩れ落ちる中、賢人は自らの身体で彼女を庇い、三日三晩、空間を作って彼女を守り抜いたのだ。 救助隊に発見されたとき、彼女は無傷だったが、賢人の背中は血に染まり、肉が裂けていた。 それでも彼は気絶する直前、微笑みながら彼女の頬に手を添え、こう言った。 「泣かないで、大丈夫だから」 あの瞬間、綺音は心に誓った。 この人と、ずっと一緒にいよう――一生離れずに。 けれど、今となっては彼がその誓いをとうに忘れてしまったことを、痛いほど思い知らされている。 賢人は彼女を抱いて部屋に戻り、ソファに座らせ、自らは膝をついて彼女の手を握った。 「綺音、目が赤いけど、泣いたの?」 綺音は首を振った。 「ううん、泣いてない」 「嘘だよ。君はきっと泣いたはずだ。何があったのか、話してくれないか?」 彼の焦ったような瞳と向き合った瞬間、綺音の胸に鋭い痛みが走った。 「賢人、あなた……私のこと、愛してる?」 「もちろんさ」 賢人は優しく手を伸ばし、彼女の髪を耳にかけてやった。 「どうして急にそんなこと聞くの?」 「ただ……最近見た映画で『七年目の浮気』っていう話があって。私たち、もう結婚六年で、来年が七年目でしょ」 賢人は笑みを浮かべた。 「なるほど、それで不安になったんだね」 彼は彼女の手を取り、自分の胸に当てて、ひとことずつ言葉を置いた。 「この西江賢人はこの一生、綺音だけを愛する。永遠に、何があっても、その想いは変わらない」 綺音は静かに問う。 「じゃあ、もしあなたが心変わりしたら?」 「そんなことない」 「仮に、もし、って言ってるの」 賢人はしばし考え、重々しく言った。 「その時は、天罰が下って、ひどい死に方をしてもかまわない」 綺音の胸に、またも痛みが走る。 今この瞬間でさえ、彼はなお彼女を騙そうとしている。 そんな重い誓いを口にしてまでも、真実を隠し続けるなんて。 「綺音、元気出して。明日は気分転換に外出しようよ」 綺音は本当は行きたくなかった。 だが賢人に押し切られ、翌朝、彼は車で彼女を連れ出した。 車はショッピングモールの前で停まった。 賢人は彼女の手を引き、宝飾店へと向かう。 店員はすぐに駆け寄ってきた。 「西江社長、奥さま、どんなジュエリーをお探しですか?」 賢人は答えた。 「妻への結婚記念日のプレゼントとして、ペアリングをオーダーしたいんです」 「かしこまりました。こちらへどうぞ」 店員に案内されてVIPルームに入ると、すぐに数冊のカタログが運ばれてきた。 「こちらが最新デザインになります。奥さま、お気に召すものがあれば」 もう一人の店員が小声で囁いた。 「西江社長、ペアリングなら、ご自身の好みも聞かれたほうが……」 すると別の女性店員が笑顔で言った。 「でも西江社長はきっと奥さまのご意見に従うでしょうね。奥さまが好きだと言えば、西江社長が逆らうはずがないでしょう」 賢人は唇を軽く上げて微笑んだ。 「わかってるね」 女性店員はさらに嬉しそうに笑った。 「H市で、奥さまを一番大事にしてるって評判の西江社長ですもん。インタビューでも、必ず奥さまの話が出ますよね!」 もう一人も続けた。 「そうそう、確か一度、奥さまのためにドーナツを買いに行くって、インタビュー中断して出ていかれたとか!」 「いや~、甘すぎて羨ましい~」 綺音は黙って聞いていた。顔には奇妙なほど静かな笑み。 「私のこと、羨ましいですか?」 店員たちは一斉に頷いた。 「もちろんです! H市の女性で西江奥さまを羨ましく思わない人なんていませんよ!」 ――けれど、あなたたちが知ったらどう思うだろう。 今、こうして私を大切に扱っているこの人には、外にもう一つの家庭があって、すでに子供も二人いると知ったら。 それでも、まだ私を羨ましいと思えるのだろうか? と、綺音そう考えた。 そのとき、VIPルームのドアがノックされた。 「奥さま、お選びはお済みですか? 外にいらっしゃるお客様もVIPでして、カタログをご覧になりたいそうです」 賢人は眉をひそめた。 「まだ選んでない。もう少し待ってもらって」 「ですが西江社長……あの方は……」 女性店員は言いよどみ、はっきり口にできなかった。 賢人の表情が一変し、何かを悟ったように低く呟いた。 そして立ち上がり、慌てて言った。 「綺音、他の店を見に行こう」 綺音が反応する間もなく、VIPルームのドアが開いた。 一人の女性が微笑みながら入ってくる。 その隣には、男女二人の子どもが手をつないで立っていた。 どちらも、五歳ほどに見える。 第3話 「大丈夫ですわ、わざわざカタログを持っていったり戻したりする必要はありません。西江奥さんとご一緒に拝見します」 そう言って、彼女は子どもたちの手を引きながら部屋に入ってきた。 にこやかに綺音に向かって微笑んでいる。 「奥さん、気にされませんよね?」 止めようとした女性店員もいたが、結局は何もできず、ただ彼女が部屋に入ってくるのを見ているしかなかった。そして彼女は堂々と、賢人の隣に腰を下ろした。 年上の男の子が目を輝かせて叫んだ。 「パパ!」 年下の女の子もすぐに認識し、勢いよく賢人の胸に飛び込んできた。 「パパ!麻理亜、会いたかったよぉ……!」 賢人は顔をしかめ、なんとか女の子を避けようとしたが、柔らかく小さな身体を前にして、ついに手を引くことができなかった。そして、子どもたちの母親に向かって怒鳴った。 「どうやって育てたらこうなるんだ?誰にでもパパなんて呼ばせるのか?」 だがその女性は怒る様子も見せず、むしろ口元に微笑を浮かべたままだった。 彼女はゆっくりと麻理亜を抱き上げ、優しく言い聞かせる。 「麻理亜、間違えちゃったね。彼はパパじゃないのよ」 幼女はしゃくり上げながらも言い張る。 「間違えてないもん、パパだもん、絶対パパだもん!」 「似てるけどね、彼はただパパにそっくりなおじさんなの。ね、見てごらん、隣にいるあのお姉さん。あの人がこのおじさんの奥さんなのよ」 麻理亜は賢人を見つめ、それから綺音に目をやった。 まだ完全には理解していない様子だった。 男の子のほうは少し勇気があり、賢人の目の前まで歩み寄って、真剣な面持ちで尋ねた。 「本当に、あなたは僕のパパじゃないの?」 「いや……」 賢人は答えられなかった。 子どもたちの目を見つめたまま、長い沈黙の後も否定の言葉を口にできなかった。 「和彦、そんな無礼なこと言っちゃだめよ」 彼女は息子を引き戻し、笑みをたたえながら綺音に向き直った。 「申し訳ありません、子どもたちはお父さんに甘やかされすぎて、ちょっと礼儀知らずになってしまって」 和彦、麻理亜。 この二人が、賢人の隠し子。 母子三人が入ってきた瞬間から、綺音はどこかでこの子たちに見覚えがあると感じていた。 特に男の子は、眉や目元が賢人に似ている。 女の子は、むしろ母親の顔立ちによく似ている。 初めは、もしかしたら賢人が騙されて子どもを持ったのではないかと考えた。 よくある「仕組まれた妊娠」かもしれないと。 だからこそ、怒らせたくなくて彼は何も言わなかったのではないかと。 しかし、そうであれば、二人の子供は双子で、一回の出産で生まれたはずだ。 ところが目の前の二人は、明らかに年が違う。 長男は五歳ほど、娘はまだ四歳にも満たないように見える。 つまり、二回妊娠したということだ。 明らかに、これは故意だ。 賢人は、別の女性と正真正銘の不倫関係を続け、二人の子どもをもうけていたのだ。 綺音は、静かに口を開いた。 「子どもたち、本当にお父さんのことが大好きなんですね。きっと、お父さんがすごく可愛がっているんでしょうね」 女性は嬉しそうに笑った。 「ええ、すごく。上の子が生まれたときは、彼、子育てに不慣れでね。少しずつ覚えていったんです。下の子ができた頃には、もう立派なイクメンでしたよ」 「そうですか」 「ええ、普通はどの家庭でも娘さんはお父さんに可愛がられるでしょう?うちの子もそうで、パパを見るとすぐに抱きついて離れないんです」 綺音の頭に、ある記憶が蘇った。 結婚して半年ほど経ったある日、賢人が「急な出張」でその晩に海外へ行くと言い出した。 あとから考えれば、その日がちょうど、長男の生まれた日なのだろう。 そして結婚から一年あまり経った頃、また一度だけ「アフリカへ自分で行かないといけない」と出張に行った。 またしても一ヶ月。 恐らく、その日は目の前の女が娘を産んだ日だ。 この二回の出張だけ、綺音は彼に同行しなかった。 今となって思えば、どうしてその二回だけぴったり一ヶ月だったのか、理由がすべて明らかになった。 ――あの女が、産後の静養をしていたのだ。 綺音は微笑んで言った。 「お子さんたち、本当に可愛らしいですね」 女はさらに嬉しそうに頷いた。 「そうなんです、皆さんにパパにそっくりって言われます。だって彼、本当にハンサムですもの」 綺音は視線を逸らし、俯いて目元を隠した。 「ええ、子どもたちのお父さんが私の夫とそっくりって言ってましたよね?きっとハンサムなんでしょうね」 女は意味深な笑みを浮かべた。 「ええ、そっくりですから。だから子どもたちも間違えてしまったんでしょうね……」 「それに、きっとお父さんはあなたのこともとても愛してるのでしょう?じゃなければ、二人も子どもを授かるはずありませんし」 すると、和彦が口を挟んだ。 「パパはママのこと大好きだよ!このお店だって、いつもパパがママを連れて来てくれるんだ。ママのピアスも、指輪も、ネックレスも、ぜーんぶここのお店の!それに、ぼくと妹のネックレスもここで買ったんだ!」 その言葉を聞いた綺音は、思わずその女の左手を見つめた。 そして、その薬指には一粒のダイヤモンドリングがきらめいていた。 若い店員が突然思い出したように声を上げた。 「そう、この指輪、うちの特注品ですよ!」 その瞬間、店長がその店員の口をふさぎ、鋭い視線で「それ以上言うな」と黙らせた。 だが、綺音にはもう、すべてが見えていた。 この女がVIP扱いを受けていた理由も――賢人が、彼女と子どもたちをしょっちゅうこの店に連れてきていたからだ。 あの若い店員は新しく入ったばかりで事情を知らなかったのだろうが、店長は確実に知っていた。 綺音は苦笑した。 賢人の不倫は、彼の妻である自分よりも、店のスタッフの方が早く気づいていたのだ。 第4話 女性は笑顔のまま立ち上がると、「奥さんが先にいらしたんですもの、どうぞ先にお選びください。私は外で待っていますわ」と言って、そっと声をかけた。 「和彦、麻理亜、行くわよ。外に出ましょう」 年上の息子はまだ賢人を見つめたまま、戸惑いの表情を浮かべていた。 幼い娘は涙で目を潤ませ、何度も振り返りながら、最後は母親に抱きかかえられて去っていった。 VIPルームの中には、沈黙だけが残された。 ついさっきまであれほど賑やかだった店員たちも、今は声ひとつ発せず、誰も口を開こうとしない。 綺音は微笑みながら、その静寂を破った。 「みんな、急に黙っちゃって。そんなに私って怖いかしら?」 店長は気まずそうに笑った。 「いえいえ、そういうことではなくて、奥さまに気に入っていただけるデザインがなかったら…と思いまして」 「気に入ったわ。これにしましょう。サイズ確認用のシンプルなリングはあるかしら?」 「ございます。すぐにお持ちいたします!」 店員たちは一斉に部屋を出て行った。 VIPルームには、賢人と綺音のふたりだけが残された。 針の落ちる音すら聞こえそうなほどの静けさ。 ブーーー…… 賢人のスマートフォンが震えた。 だが彼は動かない。 しばらくして、今度は着信音が鳴り響いた。 綺音は無造作にカタログをめくりながら言った。 「どうして出ないの? 会社の用事だったらどうするの? ちゃんと仕事に支障を出さないようにしないと」 数秒間の逡巡ののち、賢人は立ち上がり、スマホを手に取って言った。 「ちょっと外で電話に出てくる。すぐ戻るから」 「うん」 彼はそそくさと部屋を出て行った。 その直後―― 綺音のスマホが鳴った。 表示されたのは見知らぬ番号からのSMS。 【奥さん、地下駐車場に来てください。知りたいことがすべて分かりますよ】 綺音はエレベーターを使わず、階段で地下1階へ降りた。 遠くからでも聞こえてきたのは、賢人の怒鳴り声だった。 「……何度言えばわかるんだ?綺音の前に現れるなって言っただろ、わからないのか?」 女性の泣き声がそれに応えた。 「わかってる……でも子どもたちは分からないのよ。特に麻理亜、あなたに会いたがって泣きじゃくって、声が枯れるほどよ。あなたにはその母親の気持ちが分かる?」 小さな娘は、大人の事情など分かるはずもなかった。 ただ、パパとママがケンカしていると感じて―― 「パパ、ママとケンカしないで……悪いのは麻理亜、麻理亜が悪いの……」 娘の泣き声は、まるで雨のように賢人の怒りを洗い流した。 彼はしゃがみ込み、そっと娘を抱きしめた。 シャツの裏地でそっと涙を拭きながら、優しく言う。 「麻理亜は悪くないよ。泣かないで」 年上の息子は少し冷静だった。 「パパ、どうしてさっき、僕たちのことを否定したの?さっきの女の人のせい?あの人、誰?」 賢人は深呼吸し、ようやく口を開いた。 「パパには、パパなりの事情があるんだ」 だが和彦は引き下がらなかった。 「パパがママと僕たちをほとんど構わないのは、その人と一緒にいるから?あの人って愛人なの?」 「違うよ!」 賢人は即座に否定し、女性に向かって怒気を含んだ声をぶつけた。 「子どもに『愛人』なんて言葉、誰が教えたんだ?君だろう?」 女性は口を覆って涙をこらえるようにして言った。 「和彦と麻理亜には、父親の存在が欠けてたの。だからこそ他の子よりも敏感になるの。おかしいこと?」 その話を聞いて、麻理亜はまたわっと泣き出した。 「パパ、幼稚園のお友達にパパがいないって言われたよ。パパがいるって言っても、誰も信じてくれないの、ひどいよぉ……」 和彦も泣きはしなかったが、声が震えていた。 「僕はドラマで知ったんだ。お友達のパパが別の女性と一緒にいて、だから愛人って言われてた」 二人の言葉を聞いて、賢人の表情がみるみる変わった。 怒りは薄れ、代わりに後悔と自責の念が浮かぶ。 その一部始終を、綺音は遠くから黙って見つめていた。 あの女性に対して愛情があろうとなかろうと――子どもたちは、彼の血を引いた実の子なのだ。 そして今、彼は跪くように腰を下ろし、両腕で子どもたちを抱きしめ、優しく宥めた。 「パパは仕事で忙しくて、なかなか一緒にいられなかったんだ。でも次の幼稚園の親子活動には、絶対に行くよ。いいかな?」 「ほんと?」 「本当だ。パパがちゃんと、君たちにはパパがいるって、みんなに証明してあげる」 麻理亜はパパの首に抱きつき、揺らしながら甘える。 「パパ、ママも一緒に来てね。ほかの子たちのパパとママも、一緒に来るんだよ。パパ、ママを抱っこして一緒にゲームするの!」 綺音は思わず息を呑んだ。 賢人はどう答えるのか。 彼は、ほとんど間髪を入れずに答えた。 「うん。パパもママも一緒に行くよ」 「ママを抱っこしてね!」 「うん、ママを抱っこして行こう」 もう限界だ。 綺音はその場を背にし、早足で立ち去った。 VIPルームに戻ると、他の店員たちは皆、表の仕事に出ていた。 部屋は空っぽ。 彼女はバッグを手に取り、そのまま店を出た。 店長が気づいて追いかけてきた。 「西江奥さま、選ばれたペアリングのデザインはいかがでしたか?」 綺音は笑った。 「もう西江奥さまって呼ばないで」 店長は気まずそうに笑った。 「でも、奥さまは西江奥さまじゃないですか……」 ブーーー…… スマートフォンが再び震えた。 さっきと同じ、あの知らない番号。 【さっき選んだあのペアリング、賢人が私にくれるって】 【デザイナーに頼んで、指輪の内側に私たちのイニシャルを彫ってもらうの。永遠の証として。女の指輪には、私の名前を入れてもらうわ】 【私たちにはもう二人の子どもがいるのよ。賢人は遅かれ早かれ、あなたを捨てて、私たち家族のもとへ来るわ】 綺音は、たった八文字で返信した。 【もう彼が要らない】 第5話 六年間住み慣れたこの家に戻ってきたとき、綺音はまるで過去の夢の中に迷い込んだかのような気持ちになった。 けれども、感傷に浸っている時間はなかった。 薫が手配してくれた「事故」の計画まで、残りわずか半月――やらなければならないことは山ほどある。 まずは、出国の航空券。 綺音の本名で購入すれば、きっと賢人に探知されるに違いない。 そこで彼女は身分証明書と戸籍謄本を持って家を出た。 リビングを通りかかった時、幸子はソファでスマートフォンを操作していた。 その画面には、子ども向けのおもちゃが映っていた。 きっと、麻理亜と和彦の「こどもの日」のプレゼントでも選んでいたのだろう。 彼女の姿に気づいた幸子は、慌ててスマホの画面を消した。 「綺音、出かけるの?」 綺音は軽くうなずいた。 「ちょっと用事があって」 「だったら賢人くんに送ってもらえば?帰ってきたらお願いして……」 「いいえ。あの人は別のことで忙しいから」 今ごろは、きっと「愛妻と愛する子どもたち」と一緒に、幸せな家庭ごっこに興じていることだろう。 男女の双子、まさに理想の円満な家庭。 家庭裁判所の許可を得た後、彼女は役所に到着し、戸籍係の窓口に書類を提出した。 「こんにちは。名前を変更したいのですが」 一人で来た綺音を見て、職員は親切に言葉をかけてきた。 「西江さん、本当に変更されるんですか?改名すると、銀行口座、携帯番号、運転免許証などすべて手続きが必要になりますよ。なにより、今のお名前、とても素敵だと思いますけど……」 綺音は穏やかに微笑んだ。 「お願いします」 その強い意志を感じた職員は、諦めたようにうなずいた。 「では、こちらの変更届にご記入ください」 一項目ずつ記入していくなか、【変更後】の欄で、手が止まった。 深呼吸おいてから、彼女は丁寧にこう書き込んだ。 【遠野花恋(とおの はなれん)】 名前の音は、「遠く離れる」とそっくりだ。 これからは、賢人とも、その記憶のすべてとも、完全に決別する。 改名手続きを終えたその足で、彼女は新しい名前でパスポートを申請し、そのパスポートで、アイスランド行きの航空券を購入した。 スマートフォンに「購入完了」の表示が浮かんだ瞬間、綺音は心の奥にかすかな安堵を感じた。 ようやく、終わるのだ。 死ぬほど想っていた相手への執着も、終わらせることができるのかもしれない。 家に戻ると、屋内には賢人の怒声が響いていた。 「見つからなければ、引き続き探せ!もし綺音に何かあったら、お前たち全員責任を取らせるからな!」 邸内は、まるで空気が凍りついたような静寂に包まれていた。 彼の怒気は一向に収まらず、さらに怒鳴る。 「何をボサッとしてる? 早く探しに行け!」 幸子が宥めるように言った。 「そんなに焦ったって仕方ないでしょ。今の社会は安定だし、何かあるはずがないわ」 「でも俺は心配なんだ、綺音が無事かどうか……俺も探しに行ってくる!」 使用人たちが慌ただしく出ていくところに、綺音が出くわした。 先頭を歩いていたのは、賢人の秘書だった。 彼は彼女を見つけた瞬間、まるで神に救われたかのような表情を浮かべた。 「奥様!どこにいらしたんですか?西江社長、心配で気が狂いそうでしたよ!」 他の使用人たちも声を揃えた。 「そうですよ奥様!あと少し遅れていたら、西江社長、H市中を掘り返す勢いでした!」 綺音が何も答えぬうちに、突然、がっしりとした腕が彼女を抱き締めた。 賢人だった。 あまりの力強さに、肋骨が痛むほどだった。 「綺音、どこに行ってたんだ?店に戻ってもいない、家に帰ってもいない、母さんも知らないって言うし……心配で死にそうだったんだぞ!」 綺音は彼を押しやった。 「ちょっと、離して」 「嫌だ!」 賢人はまるで駄々をこねる子どものように言い張った。 「綺音、最近ずっと様子が変だ。どうしたんだ?」 「……生理前で情緒不安定なだけ」 「でも君の生理は月末じゃなかった?」 「今回は早まったの」 賢人はようやく安堵したように、少し力を緩めた。 「綺音、次からは出かける時ちゃんと言ってくれ。一緒に行くから。もうこんなに心配させないでくれ」 彼女は目を合わせずにそっと顔を背けた。 「ただ気分転換に外を歩いていただけよ。何でもない」 そのやり取りを聞いていた幸子が、皮肉めいた口調で口を挟んだ。 「ほんと、ただの外出じゃない。生きてりゃ何の問題もないわよ。あんたも綺音にばかり構わず、他にも面倒見る人がいるんじゃない?」 「母さん、やめてください……」賢人が小声でたしなめる。 綺音は笑みを浮かべて言った。 「そうですね。お義母さんの言う通りです。大切な方が他にもいらっしゃるものね」 「でも俺は、君を一生大切にすると誓ったんだ」 「なら、五月五日の出張には私も同行しようかな?」 賢人は一瞬、動きを止めた。 ぎこちなく笑いながら言った。 「君は行かないって言ってたじゃないか?」 「気が変わったの。西都で熱帯魚でも見に行こうかなと思って」 賢人の表情はどこか引きつっていた。 「綺音、あの……」 「冗談よ」 綺音は微笑む。 「行かないって言ったじゃない。仕事頑張ってね」 そう言いながら彼の腕をすり抜け、部屋に入っていった。 その背後から、彼の安堵の吐息が聞こえた。 「綺音!」 すぐに追いかけてきた賢人が言った。 「あと半月で、結婚記念日だね。何が欲しい? 君を喜ばせたい」 「何もいらないわ」 「ダメだよ。あの日は、俺たちにとって一番大事な日なんだから」 「でも、あなたはもうプレゼントを用意してくれたじゃない。ペアリング。あれ、買ったんでしょう? 見せてくれる?」 彼は、沈黙した。 買った。 だがその指輪は、別の「彼女」に渡してしまった。 ――リンリンリン。 電話が鳴った。 綺音が出ると、薫の声が響いた。 「綺音、救難艇の手配、全部済ませたよ。安全面は万全だから、心配いらない」 距離が近かったため、その会話は賢人にも聞こえてしまった。 彼は疑問の声を上げた。 「救難艇……? 何の救難艇だって?」 第6話 「薫ちゃんが、公園でボートに乗ろうって誘ってきたの。けど、私が水が怖いって言ったら、わざわざ救難艇まで手配してくれて」 賢人は笑いながら言った。 「公園のボートなんて退屈だよ。今度は旦那の俺が、ヨットで海に連れてってやるよ」 綺音はただ淡々と「うん」と返事をした。 ――そんな今度なんて、もう訪れない。 十年の情も、今年の結婚記念日で終わりにするつもりだ。 「疲れたから、寝るね」 「俺も一緒に……」 「いいえ。最近は眠りが浅いから、一人で客間で寝る」 去っていく綺音の後ろ姿を見つめながら、賢人の心に、説明のつかない不安がじわじわと広がっていった。 この数日の彼女は、どこかいつもと違う。 何に対しても淡白で、彼にさえも関心がないように見えた。 たとえ生理中だったとしても、こんな態度を取られたことはなかった。 まさか、あの子どもたちの突然の登場が原因で、何かに気づいたのか? 賢人は電話をかけた。 すぐに出た女性の声がした。 「賢人……」 「馬場秘書、呼び方に気をつけろ」 彼の冷たい声に、女はしぶしぶ訂正した。 「西江社長」 賢人は冷たく言い放った。 「今後は外での行動に気をつけろ。君と子どもたちの存在は、今はまだ明かせない」 電話の向こうで馬場美慧(ばば みさと)が涙混じりに言い返した。 「この五年間、ずっと身を隠してきたのよ。私だって、誰かに知られたいなんて思ってない」 「ならどうして、今日子どもたちを連れて綺音の前に現れた?俺は何度も忠告しただろう。彼女に、君たちの存在を知られるなと!」 「私じゃないの、子どもたちなのよ。パパに会いたいって泣き叫んで……特に麻理亜、喉が枯れるまで泣いてたのよ。あなた、自分の子どもが苦しんでるのを放っておけるの?」 子どもの話になると、賢人も反論できなくなる。 「もう一度言う。綺音に、君たちのことを知られるな。それ以外のことなら、できる限り面倒を見る」 「わかったわ」 美慧は悲しげに尋ねた。 「でも、あなた、もう少しだけでいいから私に会ってくれる? 無名の存在で、子どもたちと一緒に生きてるのよ……寂しくて仕方がないの」 「できるだけ時間を作る」 賢人はため息をつきながら言った。 「子どもたちの荷物をちゃんと準備しておけ。西都は風が強い。体を冷やすなよ」 「大丈夫。全部準備済みよ。子どもたちもすっごく喜んでるわ。パパが一緒にこどもの日を過ごしてくれるって!」 その頃。主寝室で荷物を整理していた綺音のスマートフォンに、新たなメッセージが届いた。 送り主は美慧。 今回は音声ファイルだった。 再生ボタンを押した瞬間、耳に飛び込んできたのは、賢人の声。 彼は柔らかい声で、子どもたちの荷物をしっかり準備するよう美慧に頼んでいた。 風が強いから体を冷やさないように、と――まさに父の愛が滲む口調で。 綺音は無言でスマホを置き、作業を続けた。 だが、美慧からのメッセージは止まらなかった。 【賢人は、これから毎年、こどもの日を子どもたちと過ごすって言ったの】 【これからは、私たち家族四人で西都に旅行よ】 【あなたはまだ無駄な抵抗を続けるつもり?形式だけの西江奥さんという肩書きにしがみついて、老いていくつもり?】 【あなたがいるせいで、子どもたちは「父親のいない」だと園児たちにからかわれてるのよ。それでも、心が痛まない?】 スマートフォンがひっきりなしに振動する。 綺音は黙って、電源を切った。 賢人が寝室に入ってきたとき、部屋の隅にはすでにきれいにまとめられた衣類の山ができていた。 「綺音、荷物……どうして?」 「ちょうどよかった。あなたに渡したいものがあるの」 彼女は小さな、可愛らしい箱を賢人に差し出した。 リボンのかかった上品なギフトボックスだった。 賢人は思わず笑顔になった。 「俺へのプレゼント?」 「そう、私たちの結婚記念日に、開けて」 彼は箱を軽く振った。 「ジュエリーかな?」 「ええ」 それは結婚指輪だった。 賢人は彼女に指輪を贈らなかった。 だが、綺音は自分の愛と共に、指輪を彼に返すのだ。 この数年の思い、尽くしてきた誠意、すべてを詰め込んで――最後のプレゼントに。 賢人はその意図に気づかず、ただ満面の笑みを浮かべた。 「ありがとう、綺音。出張が終わったら、ちょうど記念日だね。あの日は、絶対に一緒に過ごそう」 綺音は微笑み返したが、心の中では静かに思った。 あなたと過ごす記念日は、私の死亡通知日になるでしょうね。 第7話 五月五日、賢人は出発した。 彼は事前に綺音へ伝えていた――今回の出張は非常に忙しく、もしかしたら連絡が滞るかもしれないと。 しかし、彼に関する情報は、むしろ以前より頻繁に届いた。 送り主は、美慧。 写真に動画まで、何もかも揃っていた。 賢人が和彦とダイビングを楽しんでいる様子。 麻理亜を肩車して花火を見せている姿。 二人の子どもを腕に抱いて寝かしつける光景。 子どもたちに食事を与えるシーン。 【彼って、本当に素晴らしいパパよね。食事も着替えも全部自分でしてくれて、私は母親なのに出番がない】 【子どもたち、パパと一緒だとあんなに幸せそうなのに、あなたはこのまま二人に、パパのいない日々を続けさせられるの?】 【そうそう、賢人は子どもたちに島一周旅行を約束してくれたの。ただの西都旅行じゃないのよ〜】 【賢人が私に贈ってくれた新しい指輪、どう?綺麗でしょ?】 添えられた写真には、美慧の左手薬指に、例の女物のリングが光っていた。 それは綺音が宝飾店で選んだ、あのデザインだった。 綺音は画面をスワイプし、先ほどの「子どもたちに食事を与える写真」を見直した。 そこに映る賢人の右手薬指――そこにあったのは、彼らの結婚指輪ではなく、美慧とペアになっている男性用リングだった。 そのとき電話が鳴った。 発信者は、賢人。 「綺音、今さっき会議が終わったばかりなんだ。すぐに君に電話した。家では元気にしてるか?」 綺音は、スマホの画面に並ぶ画像を見つめながら、静かに答えた。 「ええ、元気よ」 「こっちは仕事が山積みで、すぐには帰れそうにないんだ」 島一周旅行があるものね。 綺音は、軽く「うん」と返した。 賢人は急いで言い添えた。 「でも、結婚記念日を忘れたわけじゃない!ちゃんと帰ってきて、君と一緒に過ごすつもりだよ。君がくれたプレゼントも、ちゃんと自分の手で開ける」 そう言っていたその電話口から、幼い声が聞こえてきた。 「パパ……」 賢人は即座に電話を切った。 「綺音、またあとで連絡する。食事はちゃんと摂って、戸締りも忘れずに。帰るまで、体に気をつけて」 ……ツーツーツー。 通話は終了した。 綺音は少しも驚かなかった。 なぜなら、「その後」を美慧がきっと送ってくるから。 果たして、数分後には新しい動画が届いた。 「パパ、僕の誕生日のお願いは、妹が欲しいこと!」 「妹!妹!」 麻理亜は手を叩きながら大はしゃぎ。 賢人は拒否することもなく、ただ微笑んで子どもたちを見つめていた。 「じゃあ、パパ頑張るよ」 そう言って、そっと美慧の方を見やった。 動画の中、賢人の目元には柔らかな笑みが浮かんでいた。 「なあ、ママ。君はどう思う?」 美慧は嬉しそうに笑いながら答えた。 「じゃあ、私も一緒に頑張る!」 一家四人の笑顔にあふれたその映像は、誰が見ても、幸せな家族そのものだった。 綺音はスマホを閉じ、彼からもらった贈り物や、かつて書かれた手紙を手に、屋上へと向かった。 それら全てを、火にくべた。 十年分の記憶と想いは、多すぎた。 燃やし尽くすまで、一晩かかった。 まるで天さえも味方してくれたかのように、夜明け前、H市には大粒の雨が降った。 地面の残り火を、跡形もなく洗い流してくれた。 綺音は倒れた。 一晩中の冷風に、さらに雨に濡れた身体は高熱を発し、昏々と意識を失った。 夢うつつの中、彼女は聞いた。 使用人たちの会話が耳元で交錯する。 「奥さま、こんなに熱があるんです。ご主人に連絡を……」 「ご主人はきっと心配なさるでしょう」 だが、それを遮る声があった。 「連絡なんてしなくていい!」 幸子が冷たく言い放った。 「賢人くんは今、子どもたちと過ごしている最中よ。誰も邪魔してはいけない!」 「でも……奥さまの病状が深刻すぎます。もし何かあったら……」 「もし死んでくれたらちょうどいいわ。そうすれば、私の二人の孫は堂々とこの家に住める」 言葉を返すこともできなかった。 ただ静かに、綺音の頬を一筋の涙が流れ落ちた。 十五日後。 病はある程度回復したものの、身体は依然として虚弱だった。 そんな彼女の元に、薫が現れた。 「綺音ちゃん、やっぱり海に落ちるなんてリスクが高すぎる。救難艇はちゃんと手配したけど、今のあなたの体力で本当に大丈夫?」 綺音は唇を噛み、冷静に言った。 「車を出して」 海岸に着くと、そこには一隻のヨットが停泊していた。 彼女が船に乗り込んだとき、夜空には三日月が美しく輝いていた。 薫は最後の忠告をした。 「指定の場所に着いたら、船は沈むように細工してある。その瞬間に救助船が向かうから」 「わかってる」 綺音は頷き、ヨットに乗った。 海風は強く、ふらつきそうになるほどだった。 「やっぱり、別の方法にしたほうがいいんじゃない?あなたの体調じゃ……」 「今日じゃなきゃダメなの」 綺音ははっきりと言った。 「今日、全部終わらせる。もう、これ以上待てない」 ヨットのエンジンがかかり、海原へと滑り出していく。 そのとき、電話が鳴った。 着信表示を見て、綺音は受話ボタンを押した。 「綺音、ごめん、遅くなった。今、空港に着いたばかりだ。君は今どこ?」 「私は……」 綺音は空を見上げ、月を見ながら静かに答えた。 「今、ヨットの上よ。月を見てる」 「ひとりで行ったのか?待ってて、今すぐ港に向かうから……!」 「来なくていいわ。賢人。さようなら」 その言葉とともに、綺音は手にしたスマホを、海へと放り投げた。