君への三通目の手紙は、遺書だった

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君への三通目の手紙は、遺書だった

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久遠和人(くおん かずと)と篠原佳凜(しのはら かりん)は、幼い頃から犬猿の仲だった。 なのに運命のいたずらか、あの年、名家同士の政略結...

Chương (1)

第1章

久遠和人(くおん かずと)と篠原佳凜(しのはら かりん)は、幼い頃から犬猿の仲だった。 なのに運命のいたずらか、あの年、名家同士の政略結婚の適齢者は、この二人しか残っていなかった。 「俺は死んでも、お前なんかと結婚しない」和人は堂々とそう宣言した。 すると佳凜は、にやりと笑って言い放った。「へぇ、じゃあ私、絶対にあなたと結婚するわ。さっさと死んでちょうだい」 そして迎えた結婚式当日。 和人は、なんと式場に数十羽のニワトリを放ち、佳凜に恥をかかせようとした。 けれど佳凜は無表情のまま、その中の一羽をつかみ上げて、さらりと「ねぇ、あなた」と呼びかける。 その瞬間、和人は、いたずら心がすっと引いていった。 彼女がどうしても自分と結婚しようとする姿を見て、和人は嘲るように言った。 「お前、後悔するぞ」 結婚して三年。佳凜は、これで99回目、和人の不倫現場を押さえた。 そのとき、初めて本当に理解した。 和人の言う「後悔」とは、いったい何だったのかを。 第1話 久遠和人(くおん かずと)と篠原佳凜(しのはら かりん)は、幼い頃から犬猿の仲だった。 なのに運命のいたずらか、あの年、名家同士の政略結婚の適齢者は、この二人しか残っていなかった。 「俺は死んでも、お前なんかと結婚しない」和人は堂々とそう宣言した。 すると佳凜は、にやりと笑って言い放った。「へぇ、じゃあ私、絶対にあなたと結婚するわ。さっさと死んでちょうだい」 そして迎えた結婚式当日。 和人は、なんと式場に数十羽のニワトリを放ち、佳凜に恥をかかせようとした。 けれど佳凜は無表情のまま、その中の一羽をつかみ上げて、さらりと「ねぇ、あなた」と呼びかける。 その瞬間、和人は、いたずら心がすっと引いていった。 彼女がどうしても自分と結婚しようとする姿を見て、和人は嘲るように言った。 「お前、後悔するぞ」 結婚して三年。佳凜はだんだん分かってきた。 和人の言う「後悔」とは、いったい何だったのかを—— これで99回目、和人の不倫現場を押さえた。 佳凜は顔色も悪く、部屋中に散らばった衣類を呆然と見つめていた。 鼻を突くような生臭い空気が漂い、胃がきりきりと痛みだす。 ベッドでは、上半身裸の和人がくつろいでいた。その腕の中の女は、なんと佳凜のシルクのパジャマを着ている。 男の大きな手が、女の体を好き放題に撫でまわしていた。 和人の目尻には、ますます濃い笑みが浮かぶ。 彼は眉をひそめ、わざとらしくいたずらっぽく佳凜を見やった。 「どうだ?お前より、彼女の方がそのパジャマ似合うだろ? もう99回目だっけ?ここまでされて、まだ離婚する気はないのか?」 佳凜は無感動な仕草で自分の胃を押さえた。 初めてだった。彼女が和人の酷さに言い返さなかったのは。 「服を着て。話があるから、外で待ってる」 和人は彼女の背中を見て、鼻で笑った。 「話?俺と何を話すつもりだ?」 佳凜は足を止めたが、振り返らなかった。 「離婚の話よ」 和人は一瞬、唖然とした。 「やっとその気になったのかよ。おいおい、これは夢じゃないだろうな?」 佳凜が書斎に座って待つこと五分。和人はすっかり着替えを済ませて、そそくさとドアを開けた。 待ちきれない様子で、彼女と離婚したがっているのが見て取れる。 「お前、まさか冗談じゃないだろうな?」 彼の瞳に浮かぶ軽蔑を、佳凜ははっきりと見て取った。 彼女は何も返さず、机の上の離婚協議書を彼の目の前に滑らせた。 「内容を確認して。問題なきゃ、サインして」 和人は疑わしげに離婚協議書を手に取り、じっと彼女の様子を窺っていた。佳凜が本当に離婚に応じるとは、彼は信じていなかった。 今や篠原家は昔の栄華を失って久しい。佳凜が必死で自分にすがりつき、最後の一滴まで搾り取ろうとするはずだと、彼は思っていた。 だが、協議書を読み終えた和人は、完全に固まった。 佳凜は財産を一切要求せず、この新婚の家さえも自ら放棄すると書いてあった。 彼は眉をひそめた。「本気か?まさか離婚したら、実家で暴れるつもりじゃないだろうな?」 佳凜は終始、静かなままだった。 「本気よ。暴れたりしないから、安心して」 和人はもう躊躇わず、さっさと自分の名前をサインした。 最後の一画を書き終えたとき、彼の唇には微かな笑みが浮かび、心の重石が一気に消えた。 「じゃあ、もうさっさと役所に行って手続きしようぜ。一日たりともお前と過ごしたくないからな!」 「今から?」 佳凜は眉をひそめた。 「は、やっぱり、ここでやっぱりやめるとか言い出す気か?」 佳凜の胃は痛むばかりだったが、和人のあざける顔を見て、黙ってうなずいた。 「行こう」 そのまま、二人は役所に行った。 窓口の職員が書類を手渡しながら言った。 「手続きのため、一ヶ月後、離婚証明書を取りに来てください。二人揃ってね。その間、取り下げもできますので……」 「取り下げ?ありえない」 和人はペンを机に投げ、さらに大きな笑みを浮かべた。 佳凜が後から出てきたとき、和人の車はまだその場にあった。 彼は路肩に車を止め、クラクションを鳴らす。 窓を半分下ろし、サングラスを外して、余裕たっぷりに彼女をからかう。 「まあ、一応夫婦だったし、情ってもんが多少はある。お前も次の相手が見つかるか心配するなよ。ほら、こいつなんて悪くないんじゃないか?」 彼は名刺を差し出し、彼女が恥をかくのを期待していた。 だが、佳凜は何のためらいもなく、それをすっと受け取る。 「ありがとう。ちょっと考えてみるわ」 そう言うと、彼女は静かに背を向けて歩き去った。 和人は、その場で呆然と立ち尽くすしかなかった。 彼はまだ知らない。 一ヶ月。 それはただの離婚証明書を待つ時間ではなかった。 佳凜にとっては、命のカウントダウンでもあったのだ。 第2話 佳凜は、ふらふらと大通りを歩いていた。 手には、病院から渡された「死の宣告書」を握りしめている。 「つまり……つまり、私に残された時間は、一ヶ月もないってこと?」 「申し訳ありません、篠原さん……」 青天の霹靂。いや、こんな衝撃、初めてではなかった。 篠原家は今や風前の灯火、全ての重荷が彼女ひとりにのしかかっている。 あの時、彼女は本当にどうしようもなかった。 誰にも頼れず、彼女は思わず和人に電話をかけた。 せめて、くだらない口喧嘩でもできたなら。 少しは、気が紛れる気がした。 だが、和人は彼女の全ての着信を無視した。やがて面倒くさくなったのか、ついには電源を切って着信拒否までした。 そして、再び現れた彼は、若いモデルを連れて、彼女との新婚のベッドで裸で横たわっていた。 佳凜の孤独と絶望に、彼は気づきもしない。 彼が見ていたのは、ただただ自分の嫌悪と反感を掻き立てる彼女の顔だけだった。 彼はわざと、彼女の目の前でモデルと濃厚なキスをした。唇の端から垂れる銀糸が、佳凜の目を刺す。 「なあ、そろそろ離婚、するか?」 佳凜は平静を装い、その部屋を逃げ出した。 大江市(おおえし)では、誰もが子供の頃から佳凜と和人が犬猿の仲だと知っている。顔を合わせれば喧嘩ばかり。 そして皆、佳凜が和人を嫌っていると思い込んでいた。和人が彼女を嫌っているのと同じように。 佳凜は自分の薬指の指輪をそっと撫でる。それは、結婚後に無理やり渡された和人からの指輪。 彼が持ってきたとき、指輪の箱は彼女の顔に投げつけられた。 最初、佳凜は自分の想いを必死に隠していた。 けれど、和人が彼女に妻の義務を強要したあの日。 その最中、彼の指が彼女の薬指の指輪に触れた。 和人は、急に吹き出して笑った。 「お前、まさか俺のこと好きで、離婚したくないってわけじゃないだろうな? だったらやめとけよ。俺は絶対にお前を好きにならない。てか、むしろ大嫌いだからな!」 彼の嫌悪には、理由がある。 久遠家と篠原家は、早くから政略結婚で縛られていた。そのせいで、和人の初恋の人は海外に追いやられたのだ。 その夜、佳凜は眠れずに夜明けまで目を開けていた。 母は早く亡くなり、愛する人をどうやって繋ぎ止めればいいのか、誰にも教わらなかった。幼い彼女は、意地悪な言葉や皮肉でしか、和人に自分を見てもらう方法を知らなかった。けれど、それからどうすればよかったのか。 佳凜は乾いた目を瞬かせた。 スマホの振動音が、彼女の思考を乱す。 画面を見ると、和人がラインのグループチャットでスタンプを連投していた。 【なになに?どうしたんだよ?】 和人は黙ったまま、離婚協議書のサイン済み写真を放り投げる。 ただ一枚の写真が、まるで爆弾のようにグループの静寂を破った。 【マジ?離婚したの?あの女が同意したのか?】 【神すぎるニュース!和人、ついに厄介な女を切り捨てたか!】 【これはめでたいぞ!お前、前に言ってたじゃん、毎晩あの女の顔見るたびに吐き気してたって。これでやっと自由!モデルもアイドルもよりどりみどりだな!】 【でもさ、不思議じゃねえ?和人って今まで何人も女抱いてたのに、あいつは黙ってたよな。今回だけなんで急に同意したんだ?冗談じゃねえ?離婚証明書を取る日、すっぽかされるパターンじゃねえよな?】 その言葉が落ちると、グループは静まり返った。 直後、佳凜のスマホが鳴った。 「お前、まさか俺をからかってるんじゃないだろうな?離婚証明書ができたら、役所に来ないんじゃねぇだろうな?」 佳凜は蒼白な顔で、かすかに笑みを浮かべた。 そっと、電話口にささやく。 「ああ、そうよ。からかってるだけ。 あなた、どうするつもり?」 第3話 電話の向こうからは、荒い呼吸音が聞こえてくる。 佳凜は思った。もし今、自分が和人の目の前に立っていたら、一ヶ月も待つまでもなく、きっと彼にその場で絞め殺されていただろう。 和人が口を開いて罵るよりも早く、佳凜はまたくすっと笑い声をこぼした。 「今回はからかったりしない。でも、一つだけ条件があるの」 和人は何も答えない。 佳凜は気にした様子もなく、勝手に話し始めた。 「私がしたいこと、十個だけ付き合って。その十個が終わったら、私はちゃんと一緒に離婚証明書を取りに行くわ。そして、きちんとあなたの世界から姿を消してあげる。二度と、邪魔しないって約束する」 その言葉は、まるで甘い毒のように和人の心を揺らした。 彼は眉をひそめて言った。 「十個は多すぎる。五個にしろ」 佳凜は軽く笑って、「いいわ」と答えた。 一つ目の願い、佳凜は和人に、チャリティーのパーティーへの同行を頼んだ。 彼女はドレスアップして待っていたが、迎えに来た和人は、スマホを弄る手を止めることもなく、彼女を一瞥すらしない。 佳凜は気にも留めない。どうせ彼の口から優しい言葉なんて出てこないことは、百も承知だった。 けれど、車に乗り込んだ和人は、ふと彼女を一瞥し、眉をひそめて言った。 「ダイエット?顔色も悪いし、見てて気分悪いんだけど」 佳凜は拳を握り、何も言わず前を向いたまま。 車を降りるとき、和人は彼女の手をぐいと引いた。 佳凜が一瞬戸惑うと、彼は鼻で笑って言った。 「何だよ、手を繋ぐくらい初めてじゃないだろ。キスも、それ以上もやってんのに、今さら何を気取ってるんだ?」 和人の熱い掌に包まれる、佳凜の冷たい手。 確かに、彼に手を引かれたのは初めてじゃない。でも、自分からじゃなく、彼から手を握ってくれたのは……初めてだった。 周囲の人々は、二人の微妙な空気に目を見張っていた。 やがてオークションが始まり、佳凜は目当ての品を見つけた。 思わず札を上げようとしたその時、隣の男に先を越された。 それは、既に亡くなった海外の画家の遺作。多くの人が欲しがり、次々と値段が吊り上がっていく。 だが、最終的にその絵を競り落としたのは、和人だった。 佳凜の胸に、ほんのりと温かいものが流れた。 「和人……」 「この絵、南城市(なんじょうし)の春瀬家に送っておいてくれ」 差し出しかけた佳凜の手は、空中で凍り付いた。 この絵は、彼女のためじゃなかったんだ。 強い苦味が、彼女の心を溺れさせる。 立ち上がり、そのまま出口へと向かった。 和人は眉をひそめ、大股で追いかけて彼女の腕を掴んだ。 「まだ終わってないのに、どこへ行くんだ?」 佳凜は力を込めて振り払おうとしたが、彼の手からは逃れられなかった。 和人は苛立ったように言った。「連れて来てって言ったのはお前だろ?なのに今さら何なんだよ、まったく、病気かよ!」 その「病気」という一言が、佳凜の胸を鋭く刺した。 「そうよ、私は病気なの」 彼女は全力で和人言の手を振り払い、振り返りもせずに会場を後にした。 その後、佳凜は一週間、和人に連絡を取らなかった。 新婚の家を出て行き、最初は和人も気にしていなかった。 だが、残り四つの願いが頭をよぎるたび、落ち着かなくなる。 さっさと終わらせないと、また彼女が自分にしがみついてくる気がしてならない。 我慢できずに、佳凜に電話をかけた。 その時、佳凜はちょうど放射線治療を終えたばかりだった。 病状は悪化し、全身が骨の奥まで痛んでいた。 「あと四つだぞ、お前、変なこと考えるなよ」 佳凜はしばし沈黙した。 「高野島(たかのじま)に行きたい」 和人は眉をひそめた。「今?」 「うん、今すぐ」 和人は心の中で、こいつやっぱり頭がおかしいと思った。 だが、離婚のため、彼女から解放されるため、彼は即座に高野島行きのフライトを手配した。 佳凜はすっかり厚着をして現れた。和人はイライラしながら待っていた。 「何やってたんだ。迎えに行くって言ったのに断るし、自分で来るにしたって遅い」 彼の小言を流し聞きながら、佳凜は無言で荷物を差し出した。 「うるさい」 和人は鼻で笑いながら、手慣れた様子で荷物を受け取った。 その自然な仕草に、本人は気付いていない。 飛行機の搭乗が始まる頃、和人の携帯が突然鳴った。 佳凜は搭乗口の前で、遠くから彼を見つめる。 和人は携帯を握りしめ、全身がこわばっていく。 「悪いけど、やっぱり、高野島には付き合えない」 第4話 そう言い残して、和人は空港から駆け出していった。 佳凜はぼんやりとしたままスマホを取り出す。 予想通り、SNSのタイムラインの一番上には、春瀬真夏(はるせ まなつ)による投稿だった。 コメントはない。ただ、一枚の絵がアップされていた。 和人は、迷うことなく彼女と自分の約束を放り出し、背を向けて去っていったのだ。 「あのう、そろそろ時間ですが……」 係員の言葉で佳凜は我に返る。彼女はもう、彼の背中に未練を残さず、逆方向へと歩き出した。 高野島に到着したその日、佳凜のもとに和人からメールが届いた。 【二日ほど遅れる。お前は先に楽しんでくれ】 まさか「行けなくなった」ではなく、「遅れる」だなんて。 やっぱり和人は、早く自分と縁を切りたくて仕方ないんだろう。 佳凜は、彼を待つのはやめて、現地でガイドを雇い、ツアーグループに混じって旅をした。 体力がついていかず、ほとんどの時間を部屋で一人寝転がって過ごした。 和人がようやく来たとき、佳凜はすでに荷物をまとめて、チェックアウトの準備をしていた。 「俺、お前のために仕事も全部放り出して来たんだぞ?お前、俺をからかってんのか?」 怒りに任せて、和人は彼女のスーツケースを蹴り倒した。 服が散らばるのを見て、佳凜は苦笑いを浮かべた。 「本当に私のためなの?真夏はすぐ隣の部屋にいるじゃない」 和人の顔が一瞬で引きつる。声に自信がないまま、言い訳を口にする。 「真夏はスケッチに来ただけだ。お前もいちいち彼女に突っかかるなよ!」 佳凜は指先をきゅっと握りしめ、もう何も言わず、ただ黙って散らばった服を拾い集め始めた。 「あら、邪魔しちゃった?」 突然、真夏がドアの前に現れた。 その瞬間、和人の怒りはすっと消え失せ、代わりに気遣いと焦りがあらわれる。 「具合悪いんじゃなかったのか?無理するなよ」 「いやぁ、ずっと横になってるのも退屈で。それに、あなたと佳凜さん、なんだか声が大きかったから、何かあったのかと思って」 そう言われて、和人はようやく佳凜に視線を向けた。 「何でもない。お腹空いてない?なにか食べるか?」 真夏は少し恥ずかしそうにうなずいた。 和人は部屋を出ようとしたが、ふと立ち止まる。 面倒そうに佳凜へ呼びかけた。 「お前は?何か食うのか?」 佳凜は最後の服を詰め終えたところだった。ただそれだけで汗びっしょりになるほど、彼女の体力は落ちていた。 彼の声色の変化に気づきつつも、淡々と答える。「いらない」 彼女の拒絶に、和人は途端に不機嫌になる。 「勝手にしろ。飢え死にでもすればいい。顔色なんて死人みたいじゃないか!」 ドアがバタンと閉まり、部屋には佳凜と真夏だけが残された。 これが、佳凜にとって初めての対面ではなかった。 春瀬家は南城市で成り上がり、久遠家からは見下されていた。 真夏はプライドが高く、久遠家が人を見下すのが気に食わなかった。 昔、腹を立てて海外へ飛び出し、一旗揚げてやろうとした。 だが、今やすごすごと帰国し、最初にしたことは、かつての初恋の人に再び連絡することだった。 他人事ながら、なんとも滑稽に見える話だ。 和人がいなくなると、真夏はもう演技すらやめた。 「佳凜さん、久しぶりね」 そう言うや否や、佳凜が苦労してまとめたスーツケースを蹴り倒した。 せっかくきれいに畳んだ荷物が、簡単に台無しにされる。 怒りが、喉元までせり上がる。 真夏がわざと怒らせようとしているのは明白だった。 佳凜は、遠慮なくその挑発に乗った。 そのまま、彼女の頬をぱしんと平手打ち。 和人が戻ってきた時、真夏の頬には赤い手形、目には涙が浮かんでいた。 彼が手にしていた、佳凜のために作ったうどんは、床に叩きつけられるように落ち、割れた。 理由も聞かず、和人は大股で近づき、佳凜の頬を力任せに叩いた。 「お前、いい加減にしろ!」 真夏はすすり泣きながら、和人を見上げる。 「私が悪かったの。佳凜さんの荷物をうっかり倒しちゃって、嫌われてるのは分かってるし、もう出ていくわ!」 そう言って、彼女は走り去った。 和人もすぐに後を追おうとする。 佳凜は、思わず彼を呼び止めた。 「和人!三つ目のお願い、ここに残って」 第5話 和人はぎゅっと拳を握りしめ、怒りのこもった目で佳凜を睨みつけた。 彼が何を言いたいのか、佳凜にはもう分かっていた。 息を荒く吐きながら、力が抜けたようにその場に座り込む。 耳がジンジンと痛む。先ほど彼に殴られたせいだろう。 散らばった衣服を前にして、黙々と折りたたみ直しながら、彼女は呟く。 「どうせ、私と離婚して、真夏と結婚するつもりなんでしょ? これが終われば、残りはあと二つよ。今さら全部無駄にする気?正直、前の二つ、全然満足してないんだけど……もしかして、あなた、もう私と離婚する気なくなったの?」 そう言って、佳凜は顔を上げ、和人の目を真っ直ぐに見た。 彼の深く黒い瞳には、何重にも嘲りの色が浮かぶ。 「人には分をわきまえるってことが必要だ。お前には、それがない。 三つ目のことはやってやるよ。でも覚えておけ、篠原家はもうお前を守れない。次に真夏に何かしてみたら、俺が、お前をこの世から消すからな」 佳凜はうつむいて、苦く笑った。 そんな脅し文句、誰だって言えるでしょ? 昔、二人が一番激しく喧嘩していた頃、和人なんて彼女の相手にならなかった。 それに……そんなことをする必要すら、もうすぐなくなるのだ。彼の望みは、自然と叶う。 その後、和人は真夏に電話をかけて優しくあやし、すぐに帰国の手配までしてやった。 その様子を見ていた佳凜は、心の中に濃い苦味が広がっていくのを感じていた。 和人は、愛せない人間じゃない。 ただ、その愛が、自分に向いていないだけ。 数時間後、和人が戻ってきたとき、佳凜はまだ荷造りを終えていなかった。 彼はついに我慢できず、佳凜を無理やり立ち上がらせ、自分でしゃがみ込んで荷物をまとめ始める。 「ほんとに使えないな。これっぽっちの荷物、いつまで経っても終わらない。知らない奴が見たら、もうすぐ死ぬんじゃないかって思うぞ?そんなに力ないのか?」 佳凜は、ふいに茶化したくなった。 「そうよ、もうすぐ死ぬの。どう?私が死んだら、生きてる間にこんなふうにされたこと、後悔する?」 和人は一瞬だけ動きを止め、すぐに顔を上げる。そこには、あからさまな嘲笑しかなかった。 「後悔?あるわけないだろ。むしろ祝杯をあげるね。三日三晩、大江市中の人間を呼んで大宴会だ」 佳凜は涙が滲むほど笑い、下腹を押さえた。 「ほんっと口悪いよね。一応、体の関係もあったのに」 佳凜はそれ以上、そこに留まることはしなかった。 もう、自分の体が限界なのは、痛いほど分かっていたから。 大江市に戻ると、また一週間、ベッドから起き上がれなかった。 放射線治療の影響で、髪が目に見えて抜け落ちていく。 和人が、残り二つのことを催促する電話をかけてきた日、佳凜はトイレにこもって、午後いっぱい泣き続けた。 泣き終えて、何もなかったようにウィッグを買いに行く。 「髪、切ったのか?」 和人の問いには答えず、彼の車に乗り込む。 「行こう」 和人は眉をひそめ、つい佳凜のウィッグに手を伸ばしかけるが、彼女はすぐに身を引いた。 「急いでるの。行かないの?」 和人はしぶしぶ車に乗り込む。「一応忠告しておくけど、離婚証明書の日まで、あと七日もないんだぞ。残り二つ、早く決めろよ」 佳凜は窓の外を見つめたまま、何も答えなかった。 昔はいつも忙しかった。和人に怒るのに、彼の目に自分を映すのに必死で、大江市の美しさを忘れていた。 同じ高さに並べば、一緒に景色が見えると思っていた。 でも、愛されない人間は、どれだけ隣に立っても、視界にすら入れてもらえない。 愛する人のためなら、彼は高いプライドさえも、簡単に屈してみせるのに。 佳凜が望んだ四つ目のことは、和人と遊園地に行くことだった。 「子供かよ、お前」 和人は呆れたように、彼女を一瞥した。 第6話 佳凜は伏し目がちにまつげを落とした。彼女は覚えている。かつて、和人が真夏と一緒に遊園地へ行き、楽しそうに何枚も写真を撮っていた光景を。 別に、真夏と比べたかったわけじゃない。 ただ、和人と遊園地に行くのは、幼いころの佳凜の小さな夢だった。 この四つ目のお願いは、あの頃の佳凜の夢を叶えるためのものだった。 和人の体は彼女の隣にあるのに、心はとうにどこか遠くへ飛んでいってしまったようだった。 彼はずっとスマホから目を離さない。写真を撮ってって頼んでも、四度も五度も呼んだら、ようやくスマホから顔を上げてくれるだけ。 日が暮れ、和人が三度も「もう帰ろう」と言った時、佳凜は無言を貫いた。 そして遠くでライトアップされた観覧車に、そっと指を向ける。 「あれに乗ったら、帰るから」 彼女の瞳のわずかな輝きに、和人は一瞬だけ動きを止めた。 少しの沈黙の後、彼は唇を引き結び、冷たい声で言う。 「たとえ観覧車のてっぺんまで登っても……俺は、お前を好きにならないぞ」 時間が、静かに流れていく。 佳凜は目頭が熱くなり、慌てて顔をそらした。 「何言ってんの。別にそういうんじゃない。ただ、乗ったことなかっただけよ」 その時、電話のベルが静寂を破る。 電話の向こうで、真夏が何か慌ただしく話している。 電話を切ると、和人はまたも急いで立ち去った。 今度は、一言のお詫びさえも残さずに。 観覧車が頂上に昇ったとき、眼下に広がる無数の灯りを見下ろしながら、佳凜の涙が頬を伝って流れ落ちた。 彼女はそっと唇を開いた。 「佳凜、お誕生日おめでとう」 …… その日の夜、佳凜は高熱で病院に緊急搬送された。 医療機器の音が響く中、彼女の耳には、何ひとつ届いていないようだった。 夢の中、和人が見舞いに来たような気がした。 だが、その表情に優しさの欠片もなく、むしろ笑いながらこう言った。 「ざまあみろ、悪い奴は天罰が下るもんだ! さっさと死んでくれよ。そうすりゃ、くだらない最後のお願いもやらずに済むんだからな」 夢の中の佳凜は、悔しくて歯ぎしりした。でも、心の中はレモン水に漬け込まれたみたいに、ただただ苦かった。 彼女は必死で意識を引き寄せ、ようやく目を開けた。 けれど、会いたかった人はそこにはいなかった。 「よかった……本当によかった、やっと目を覚ました。どれだけ眠ってたか、知ってるの」 佳凜は負けず嫌いな性格で、彼女のいる世界は名声と利益がすべての世界だった。 篠原家は没落し、しかも和人とはもともと折り合いが悪かった。 篠原家が倒れれば、真っ先に冷やかしに来るのは和人だと、誰もが分かっていた。 だからこそ、みんなは早々に立場を明確にし、佳凜と距離を置いたのだった。 彼女のそばで唯一、口を利いてくれるのは、ずっと看病してくれている看護師の紀田穎子(きだ えいこ)だけだった。 その言葉に、佳凜は慌てて顔を上げる。 「今日、何日?」 穎子は、その問いにまた、彼女が自分の余命を気にしているのかと勘違いし、表情を隠しながらそっと答えた。 「28日だよ、佳凜……」 「私のウィッグは?」 佳凜はその言葉で、彼女の話を遮る。 穎子は一瞬きょとんとした。 「ここにあるよ。ちゃんとしまっておいた」 佳凜は指を曲げ、穎子の手からウィッグを受け取る。 伏し目がちで、何を考えているのか誰にも分からない。 「穎子、私が倒れてる間……誰か、見舞いに来た?」 彼女はおそるおそる尋ね、ウィッグをぎゅっと握りしめる。 穎子は、そんな彼女が痛ましくて仕方なかった。 でも、嘘はつきたくなかった。 「佳凜……和人は、一度も来てないよ」 そう言いながら、穎子は涙で赤くなった目をそっとそらした。 来なかっただけじゃない。 電話も、彼女からの連絡も、一切無視だった。 「昏睡?冗談だろ。あいつが倒れるわけない。どうせまた何かの手かと。 忙しいんだよ、こっちは。遊んでる暇なんかない。最後の一件以外、俺は何もしない。あいつにそう伝えとけ」 第7話 佳凜は和人に電話をかけたが、三度も連続で切られ、ついに彼女の我慢も限界に達した。 仕方なく、彼女はメッセージを彼に送る。 案の定、二分も経たないうちに、向こうから電話がかかってきた。 ただ、その声には濃い疲れが滲んでいた。 「真夏が病気なんだ。そばにいてやらなきゃ。最後の件は、二日だけ待ってくれ」 そう言うなり、電話を切ろうとしたので、佳凜は慌てて叫んだ。 「ダメ!」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、和人は冷たく鼻で笑った。 「たった二日だろ?契約違反でもなんでもない。お前、もういい加減にしろよ」 佳凜の鼻の奥がツンとした。何とか喉の奥の苦しみを押し殺して飲み込む。 何でもないふうを装いながら、体中が痛くてたまらないのに、彼女は無理やり笑ってみせた。 「もう最後の一つだけなのよ。これが済んだら、あなたは自由よ。まさか、今さら後悔してるんじゃない?私とまだ夫婦でいたいとか?いいわよ、私は全然構わないけど?」 この挑発は、いつだって和人には効果てきめんだった。 彼女は電話を切ったあと、スマホを胸に抱えながら、声を押し殺して笑い続けた。 笑いながら、涙がぽろぽろとこぼれて、唇を伝って落ちていく。その苦さが心臓をナイフでかき回されるようだった。 彼女は和人に気づかれるのが怖かったし、死ぬ間際にまで彼に笑われるのも嫌だった。 だから、彼が来る前にわざわざ穎子に頼んで、メイクをしてもらった。 階段を下りるだけで五分もかからないはずなのに、佳凜は二十分近くかけてようやく和人の前に現れた。 「遅いな、最後の願いなんだろ?さっさと言えよ」 彼の不機嫌そうな顔を見ても、佳凜はまるで気にしない。 助手席に乗り込むと、自分でシートベルトを締める。 すべての動作を終えてから、ようやく和人の顔を見た。 「簡単よ。私に昼ご飯を作って」 和人は信じられないという顔をした。 「は?それだけ?」 佳凜は小さく頷いた。 「うん。ただの昼ご飯。それだけ」 和人の疑いのまなざしが、何度も彼女の顔を往復する。 前の四つのお願いは、どれも彼を困らせるものばかりだった。だからこそ最後の一件は、きっと天から星でも取って来いと言われるようなものだと思っていたのに。 まさか、ただの手料理? 彼は時間を確認し、スマホで何通かメッセージを送ると、車をスーパーへ向けた。 佳凜にとって、和人とスーパーに行くのはこれが初めてだった。 二人で、まるで普通の新婚夫婦みたいに。 和人がカートを押し、佳凜が横からあれこれ指示を出す。 レジで会計をしていると、近くで子供がはしゃいで走ってきた。 あと少しで佳凜にぶつかりそうになったその瞬間、和人は無意識に彼女を自分の背中にかばった。 そして、その手がしっかりと彼女の手を握る。 佳凜は、ふたりの手が固く結ばれているのを見下ろし、またしても目に涙が溜まった。 和人が自分の手を握ってくれたのは、これが二度目だった。 でも、その温もりを感じる間もなく、彼はすっと手を離した。 二人で新婚の家へ帰る。 この家にある二人の思い出は、ほんの僅かだった。 和人は無理やり結婚させられた後、ありとあらゆる方法で彼女に反発し続けてきた。 99回の不倫なんて、ほんの氷山の一角にすぎない。 和人は靴を履き替えると、すぐにキッチンへ向かった。 彼の背中が見えなくなった途端、佳凜はやっと張り詰めていた気持ちの糸が切れ、床に滑り落ちる。 やがて和人が料理を持ってきたときには、もう一度仮面をかぶり、何事もないふうで彼を見つめていた。 和人が料理できるなんて、今日初めて知った。 あんなにプライドの高い男が、女のために料理を学ぶなんて。 ああ、和人は本当に真夏のことが好きなんだな…… 「こんなにたくさん?私たち二人だけじゃ食べきれないよ」 佳凜は、次々と運ばれてくる料理を見て眉をひそめる。 今の彼女の体では、とても全部食べきれるはずがない。 少しでも無理をしたら、すぐにバレてしまう。 和人は最後の皿をテーブルに置くと、淡々とした表情で言った。 「誰が二人だけだって言った?」 第8話 佳凜は、呆然と彼を見つめていた。 その困惑が解ける間もなく、玄関のチャイムが鳴った。 次の瞬間、和人は微笑みを浮かべてドアの方へ歩いていった。 「和人、ごめん、遅れちゃって。今日、生徒たちが質問攻めで、なかなか帰れなかったの!」 真夏は、慣れた手つきで下駄箱から女性用のスリッパを取り出す。 佳凜は覚えている。あのスリッパは、つい最近自分が買ったものだった。けれど、履く暇もなく、この家を出て行ったのだ。 今こうして、真夏がこの家にどれほど馴染んでいるのかを目の当たりにしてしまい、彼女の体は小さく震えた。 「遅くないよ。ちょうどご飯の時間だし、手を洗っておいで」 和人の穏やかな声が、佳凜の耳を鋭く刺す。 「佳凜さん、ごめんなさい、遅れちゃって!」と笑いながら言った真夏は、佳凜の返事も待たず、当然のように食卓の椅子に腰かける。 「和人、本当に優しいよね。私の食器までちゃんと用意してくれて」 「真夏は潔癖症だから、何度も洗っておいたんだ。チェックしてみて?」 「ご褒美、欲しい?」 和人は彼女の頬を優しく摘まんだ。「ご褒美は、ちゃんとご飯を食べてもらうこと。最近、授業で大変だっただろ、病気までして、痩せちゃったじゃないか」 目の前で繰り広げられる二人のやり取りを、佳凜はただ黙って見つめていた。 死んだと思っていた心が、再び痛み出す。 耐えきれず、彼女は二人の会話を遮った。 「和人、これが……約束してくれた、私のためにする最後のことなの?」 体中が、鋭い棘で覆われているような感覚だった。 和人はその時になって初めて、佳凜がどれほど痩せたのかに気づいた。 後ろめたさを滲ませつつも、彼は平然とした態度を崩さずに言葉を返す。 「こんなに作って、どうせお前は食べきれないだろう。 真夏は最近病気で寝込んでたから、もともとずっと病院で看病してたんだ。お前が無理やり、今これをやれって言ったんだろ?彼女を放ってはおけない」 真夏は、彼女の正面に座っている。 その瞳の奥に浮かぶ勝ち誇った色は、佳凜の愚かさを嘲るようだった。 佳凜は、ふと疲れを感じた。 全身の力が抜け、かろうじて保っていた心が、誰かに殴られたように一気に崩れ落ちる。 苦しい。胸だけじゃない。体中の骨の一つ一つが、痛みを訴えている。 うつむいた彼女は、影のように痩せ細って見えた。 そして、次の瞬間。佳凜は、なんとか体を支え立ち上がった。 だが、その視線は床のままだった。 「私は、あなたに期待すべきじゃなかった」 その声はか細く、まるで針が床に落ちても音がしないような静けさだった。 彼女が立ち去ろうとした時、和人がわずかに動こうとした。 しかし、次の瞬間、真夏が先に彼女の前に出た。 彼女が佳凜を引き止めようと手を伸ばした時、不意に袖が佳凜のウィッグに引っかかった。 その瞬間、ウィッグが乱暴に引き剥がされた。 和人が、思わず息を呑む。 「お前……髪は?」 佳凜は背中を向けたまま、両手が止まらず激しく震えた。 頭が真っ白になる。真夏のその手つきは、彼女の最後の尊厳を無理やり剥ぎ取るようだった。 どう言い訳すべきかもわからず、このまま全部ぶちまけてしまいたい――そう感じた、その時。 真夏が、床に落ちたウィッグを拾い上げた。 彼女は真剣な顔で、非難するような口調で言い放った。 「佳凜さん、まさか、和人を引き留めたいからって、自分の髪を剃るなんて! 五つのお願いが終わったら、今度は出家して尼になるって和人を脅す気じゃないよね?」