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彼女が愛したとき、春は遠く
七年間、白川凛花(しらかわりんか)は神谷黎真(かみやれいま)の秘書兼愛人だった。 なのに、彼は別の女性と婚約するつもりだった。 心が粉...
Chương (1)
第1章
七年間、白川凛花(しらかわりんか)は神谷黎真(かみやれいま)の秘書兼愛人だった。
なのに、彼は別の女性と婚約するつもりだった。
心が粉々に砕けた凛花は、辞職を決意する。
けれどその矢先、黎真は突然、婚約を公の場で否定したのだ。
あるオークションの日、誰もが「今こそ彼が凛花にプロポーズするのだ」と思い込んでいたその瞬間、現れたのは、彼の初恋だった。
会場の視線が、静かに凛花へと集まる。
黎真の初恋と瓜二つのその顔を見て、人々は囁き合う。
その時、凛花はようやく気づいた。
自分がただの影だったことに。
第1話
「凛花、あんたもう三十歳でしょ?若くはないんだから、まさか一生あの会社にいるつもり?まだ結婚しないつもりなら、こっちに戻ってお見合いしなさい。
おばさんが紹介してくれた男の子、来月海外から帰ってくるんだけど、すごくいい子よ。一度会ってみたら?」
退勤間際、白川凛花(しらかわりんか)のスマホが鳴った。
母親からの電話だった。
また結婚の催促——もう何度目だろう。
これまではいつも曖昧に流してきた彼女だったが、今回は違った。
「わかった。仕事を辞めたら、帰るよ」
電話の向こうが一瞬、静まり返る。
「本当に帰ってくるの?」
「うん、帰る」
通話を終えた凛花は、黙ってバッグを手に取り、退勤の準備をした。
その時、デスクの内線が鳴り響く。
「入って」
扉を開けた瞬間、彼女の視線は窓辺に立つ男に吸い寄せられた。
すらりとした背の高いシルエット。
ただそこにいるだけで、場の空気を掌握してしまうような存在感。
彼女が近づくと、神谷黎真(かみやれいま)はゆっくりと振り返り、耳元で囁いた。
「今夜、お前のところに行く」
「今夜は無理」
凛花が一歩引くと、彼はその手首を逃さず掴んだ。
「お前の生理は、あと十日ある」
「クライアントと会う予定があるの」
再び、凛花は拒絶した。
神谷は黙って、彼女の首元のスカーフを引き剥がす。
そこには紅く滲むキスマーク——
まるで花が咲いたように、いくつもいくつも刻まれていた。
「俺は、言うこと聞かない女が嫌いだ」
その言葉と同時に、彼の唇が容赦なく彼女を奪った。
凛花は手を上げて彼を押し返そうとしたが、力は及ばなかった。
ただ、されるがままに唇を奪われながらも、胸の奥は凍てつくように冷えていた。
昨日の夜のことだった。
黎真に資料を届けにバーへ行った時、偶然、彼と友人たちの会話を聞いてしまった。
「黎真、ばあさまがまた縁談の話してるってな。じゃあ、あの愛人はどうすんだよ?白川凛花だっけ?」
「どうもこうもないだろ。所詮はセフレだぞ。お前ならそんな女と結婚するか?」
その瞬間、全身が冷たくなった。
誰もが知っていた。
凛花が黎真をどれだけ愛していたか。
彼に呼ばれれば、どこにいても駆けつけるほどに。
だが、自分にとって彼はすべてでも、彼にとって自分はただのセフレだった。
その瞬間、凛花はようやく真実に気づいた。
その夜、黎真は凛花を家まで送った。
玄関を開けた途端、壁に押しつけられ、容赦なく貪られた。
身体は熱くても、心は痛むばかりだった。
行為のあと、彼は凛花を抱き寄せ、ベッドの縁で囁いた。
「俺、婚約することになった」
「うん」
凛花は淡々と返す。
驚きも怒りもない——そんなもの、とっくに知っていた。
「怒らないのか?」
黎真はむしろ当然のように問うが、彼女の表情に変化はなかった。
出会った日からずっと、彼女は冷静だった。
誰にも感情を見せないその姿は、まるでプログラムされたロボットのよう。
節度をわきまえ、決して距離を踏み外さず、そして——何よりも、あの人に少し似ていた。
それが、彼が彼女を選んだ最大の理由だった。
「怒らない。寝ましょう、今日は疲れた」
凛花はそっと背を向けた。
少しでも、彼との距離を離したくて。
だが次の瞬間、黎真はその背を抱き寄せる。
凛花の体は強張ったまま、目を閉じた。
眠れるはずもなかった——その夜、彼女はただ目を閉じて、夜明けを待った。
翌朝。
目が覚めた時、ベッドに凛花の姿はなかった。
階下に降りても、彼のための朝食は用意されていなかった。
いつもなら、彼がここに泊まった翌朝は、完璧にアイロンされたシャツとネクタイが準備され、凛花が市場で選び抜いた新鮮なステーキを焼いて待っていた。
彼は味にうるさく、少しでも妥協は許されなかった。
けれど——今朝は違った。
洋服も、朝食も、何一つ、用意されていなかった。
第2話
階下に降りると、凛花は中庭で水やりをしていた。
黒のスーツに身を包み、ジョウロを傾けながら、口元には珍しく穏やかな笑みが浮かんでいた。
凛花がこんなにきちんとした服装をしているのは、黎真にとっても珍しい光景だった。
彼は彼女にワンピースを着せるのが好きだった。
ゆるやかに揺れる長い髪、柔らかな布地の揺らめき——
それは、あの人の面影を呼び起こすから。
もちろん、凛花はそんな理由など知る由もなかった。
黎真が近づき、問いかけた。
「朝食は?」
声を聞いた凛花は、水やりの手を止め、ふと笑みを消した。
「作ってないわ」
「なんでだ?俺が一番楽しみにしてるのは、お前の朝食だって知ってるだろ」
眉をひそめる黎真。
彼は、今朝の凛花がどこかいつもと違うと感じ始めていた。
「もうすぐクライアントと会うの。時間がないから、執事にでも頼んで」
そう言って、凛花は踵を返し、家を出ようとする。
「その服で行くのか?」
黎真が腕を掴んで引き留めた。
「何か問題ある?」
振り向いた凛花の瞳は、冷ややかだった。
彼がこの格好を嫌っていることなど、とうに分かっていた。
でも、もう気にするつもりはなかった。
自分の好きな格好をする。それだけ。
スカートは好きじゃない。仕事には、きちんとした服装がふさわしい。
それだけのことだ。
でも黎真は、彼女にスカートを着せたがった。
完璧なメイク、まるでガラス細工のような装い。
彼の理想はいつも人形のような女。
もう、彼の好みに合わせる気なんて、これっぽっちもなかった。
「どうしたんだ、お前」
ようやく違和感を確信した黎真が、声を和らげた。
「婚約のこと、気にしてるのか?あれは家の都合だ。俺だってまだ同意してない」
「誤解しないで、神谷社長」
凛花の声音は冷たく、そして淡々としていた。
「あなたが誰と結婚しようと、私には関係ありません。最初からはっきり言われてましたよね——私たちの関係は愛じゃなくて、ただの体の関係って」
彼の手を振り払い、彼女は一度も振り返らずに出ていった。
会社に戻ると、自分のデスクにプレゼントの箱が置かれていた。
「白川さん、また誰かからプレゼント?モテモテですね〜」
同僚が冗談交じりに話しかける。
凛花は無言で箱を開けた。
中には限定版の高級バッグが入っていた。
もう三つ目——誰からの贈り物か、分かりきっている。
神谷黎真だ。
彼は、行為の後に必ず贈り物を用意していた。
最初の頃、彼女が「バッグが好き」と一言漏らしたことを覚えていたのだろう。
以来、彼からの贈り物は、すべてバッグになった。
同じブランドの色違い、同じシリーズの形違い——
あるいは、全く同じバッグを何度も。
以前なら、それでも嬉しかった。
気持ちがこもっていないと分かっていても、笑顔になれた。
でも、今は違う。
そんなもの、もういらない。
「欲しい?あげる」
凛花はバッグを同僚に手渡した。
「えっ、マジで!?これ限定のやつですよね?白川さん、太っ腹すぎ!」
彼女はバッグを肩にかけ、あちこち見せびらかしながら歩いていった。
その時、ちょうど黎真がエレベーターから降りてきた。
贈ったバッグが他人に渡っているのを見て、顔色が変わる。
すぐに凛花を呼び出し、執務室に引きずり込む。
「凛花、お前一体何が気に入らないんだ?前にも言っただろ。将来俺が結婚するのは、お前じゃないって」
「分かってる」
凛花はあっさり答えた。
「神谷社長、最初から全部分かってます」
「じゃあ、何がしたいんだ?」
「別に。ただ、まったく同じバッグを三つももらったら、さすがに飽きただけです」
黎真は言葉を失った。
自分が、同じバッグを三度も贈っていたとは。
どれも新作の限定品で、金には糸目をつけなかった。
彼女ならきっと喜ぶと思っていた。
「じゃあ、次は別のを選ぶ」
「いいえ。もう次はありません」
凛花は時計に目をやる。
「九時です。会議に遅れますよ、神谷社長」
そして部屋を出て行った。
その背中を見つめながら、黎真は深く沈黙した。
第3話
会議用の資料を整えている最中、凛花は腹部に鈍い痛みを覚えた。
以前の彼女なら我慢していただろう。
けれど今日の凛花は、ためらいなくスマホを取り出し、病院の予約アプリを開いた。
今日は休む。診てもらおう。
一方その頃、会議の席にいた黎真は、心ここにあらずといった様子だった。
視線はずっと凛花に向けられていたが、彼女は一度たりとも、彼に目を向けなかった。
会議が終わり、昼休みに入ると、黎真は声をかけようとしたが、彼女の姿はすでになかった。
「白川は?」
「神谷社長、白川さん……午後はお休みって。何も聞いてませんか?」
「どこに行ったんだ?」
彼女が休む?
そんなこと、一度もなかった。
高熱で倒れかけても、凛花は仕事を手放さなかった。
何があっても、彼のそばにいた。
なのに、今日に限って何の断りもなく、休みを取った?
「分かりませんが……」
「どこに行ったか、調べてくれ」
凛花が訪れたのは病院だった。
医師の診断はこうだった。
「食事が不規則すぎて、胃に負担がかかっていますね」
そうだ、思い返せばずっとそうだった。
黎真の秘書になってから、必死で走り続けてきた。
ごはんをきちんと食べる余裕さえ、どこかに置き去りにして。
診察を終えた凛花は、すぐに会社へ戻らず、街中のカフェに立ち寄った。
午後の陽射しは、暑さの中にもどこか心地よさがあった。
窓際の席に座り、カップを傾けながら、ゆっくりと時間を味わう。
こんな風に静かに景色を眺め、コーヒーを飲むなんて、何年ぶりだろう。
あの人の後ろをただ追いかけていた日々——
気づけば、自分をすり減らすことに慣れてしまっていた。
それなのに、彼にとって自分の存在は「当然」でしかなかった。
ならば、もういい。
これからは、自分のために生きよう。
そんなことを思いながら、スマホが震えた。
画面には「神谷黎真」の名前。
凛花はちらりと見ただけで、出なかった。
続けざまに何度もかかってくる着信。
煩わしくなって、ついに電源を切った。
「電話を切るなんて……白川凛花、お前、いい度胸だな!」
オフィスで彼女の電源が切れていると知った黎真は、怒りに震え、携帯を今にも叩きつけそうだった。
七年間、凛花のスマホが電源オフになったことなど、一度もなかった。
いったい、何が起きているというのか。
凛花はカフェに残ったまま、時間をゆっくりと味わった。
誰にも邪魔されず、ただ自分の時間に身を委ねる午後。
こんなにも、自由だったのか。
日が落ちる頃、ようやくスマホの電源を入れると、未読メッセージと不在着信が山のように届いていた。
【どこに行った?】
【お前の家で待ってる。すぐ戻ってこい】
【白川凛花、あと30分だ。今すぐ戻らないと、分かってるよな?】
最後のメッセージは午後三時。今はもう六時を回っていた。
画面を眺めながら、凛花は小さく笑った。
こんな文字だけで、彼がどれほど怒っているか、手に取るようにわかる。
少し街を歩いて、好きなものを食べた。
心が落ち着いた頃、ようやく家に帰る。
鍵を開け、靴を脱ぎ、部屋の明かりをつける。
すると、ソファに腰かけた男の姿が、ライトに照らされた。
「どこに行ってた?俺がどれだけ待ってたか分かってるのか?」
怒りに満ちた声。
誰かが黎真をこんなにも待たせたのは、これは初めてだった。
凛花は黙って、カウンターに向かい、水を一杯注ぐ。
そう、以前はいつも待っていたのは自分だった。
黎真が来ると一言でも言えば、どんなに夜が更けようと、彼女はソファに腰かけたまま、ひたすら彼を待っていた。
「十時に行く」と言われれば、六時からそわそわし、「明日行く」と言われれば、朝から掃除して、シーツも新しくして。
布団も天日干しして、準備万端で彼を待った。
でももう、そんなことはしない。
疲れ果てた。
ただ、それだけ。
第4話
「白川凛花、俺が話してるの聞こえないのか?」
黎真が彼女の手首を掴み、その目に宿るのは、抑えきれない怒りだった。
けれど、凛花の返答はあくまで冷静だった。
「私は用があるんです。待ちたくないなら、お帰りください」
「お前、今日は一日中おかしいぞ」
「別に」
凛花は彼を避けるように、階段へ向かおうとする。
限界まで押し殺してきた感情が、ついに黎真の中で弾け飛んだ。
「凛花、自分の立場を分かってるのか?俺をこんなに待たせた人間は、今まで一人もいなかった。お前はただの——」
「ただの何ですか?」
彼女が彼の言葉を遮った。
「セフレですか?」
その一言に、黎真は固まった。
「あの夜、俺が話してたこと、全部聞いてたのか」
彼女が変わった理由、ようやく理解した。
「あれは、ただの冗談だった。他意はなかった」
「じゃあ、はっきり言ってください」
凛花がゆっくりと顔を上げる。黒く深い瞳が黎真を射抜く。
「私は、あなたにとって何なんですか?」
答えられなかった。
彼は、言葉を失っていた。
「もう疲れた。帰って」
そう言って、彼女は彼を拒絶し、自室へと戻った。
熱いシャワーを浴び、着替えを済ませ、ベッドに身を沈める。
窓の外では、車にもたれた男が、タバコをくゆらせていた。
凛花はカーテンを閉め、電気を消した。
そのまま、何事もなかったように眠りについた。
翌朝。
まだ薄暗い中、スマホの着信音で目が覚めた。
「凛花!ニュース見た!?神谷黎真、記者会見で婚約破棄したって!あれ、あなたのためでしょ!?」
慌ててテレビをつけると、画面には黎真の記者会見の様子が映し出されていた。
「本日の婚約は、取りやめにさせていただきます。私には、すでに心に決めた女性がいます」
画面越しでも伝わるほど、彼の瞳は真っ直ぐだった。
胸がどくんと高鳴る。
「凛花、よかったね。やっと彼の心を手に入れたんだね!」
電話を切っても、凛花の胸は高鳴り続けた。
彼が自分のために、婚約をやめた?
あの言葉、本気だったの……?
電話をかけようとしたその時、LINEの通知が届いた。
【今夜8時、モールホテル。パーティーがある。おめかしして来い】
その一文を見て、凛花の唇に自然と笑みが浮かぶ。
これまで、社交の場に彼が彼女を同伴させることは、ほとんどなかった。
けれど、今回は違った。
彼が——彼女を、公に連れて行く。
すぐさま親友に連絡を入れると、興奮気味の返信が返ってきた。
【もしかしてプロポーズ!?凛花、ついに報われるんだね!】
凛花は、そっと唇を噛んだ。
これが最後。
黎真と自分にとって、これが最後のチャンス。
クローゼットを開けても、ドレスは数えるほどしかなかった。
彼女は百貨店に向かい、迷わず何十万円もするドレスをカードで購入した。
さらにプロのヘアメイクに予約を入れ、丁寧に化粧を施し、完璧な姿でモールホテルへと向かった。
今夜のパーティーは、上流社会でも有名なオークション。
政財界や文化人、名士たちが一堂に会する、煌びやかな場。
凛花は大きく深呼吸をして、重厚な扉をくぐった。
シャンデリアの輝く宴会場には、すでに多くの人々が集まっていた。
煌びやかなドレス、笑い声、ワインのグラス。
そんな中、彼女の視線は、すぐにあの男を捉える。
思わず笑みがこぼれる。
彼に向かって一歩踏み出した、その瞬間——
「神谷さん、今日は彼女連れてきたんだってね!」
「噂の本命……やっと海外から戻ってきたらしいわよ」
「道理で朝の会見で婚約破棄なんて言い出すわけよ……やっぱり初恋が戻ってきたからね」
耳慣れないその言葉に、凛花の笑みが凍りつく。
初恋?誰それ?
第5話
男が振り返った。
その隣にいた女も同じように振り返る。
凛花の視線が、女の顔に吸い寄せられた。
まるで、自分の鏡像のようだった。
柔らかく微笑みながら、女は黎真の腕にそっと手を添えていた。
その瞬間、凛花の身体から血の気が引いた。
誰……?
あの女は誰なの……?
黎真の初恋?
七年もの間、彼のそばにいたのに。
凛花はそんな存在がいたことなど、一度も知らされていなかった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、思わずその場を離れようとしたとき——
「凛花、来てたのか」
男の声が彼女の背を止めた。
「凛花?ああ、神谷さんの秘書か」
「うわ、めちゃくちゃ似てない?あの人と……神谷瑠璃(かみやるり)」
「知らないの?代わりに決まってんじゃん。神谷瑠璃がいなかったこの七年、神谷さんが似た女を側に置いてたって有名な話だよ」
人々の視線が一斉に集まり、ざわざわと囁きが飛び交う。
その声が、凛花の耳を容赦なく刺した。
首を絞められているような息苦しさ。
呼吸ができない——
「初めまして、白川さん」
その女が歩み寄ってくる。
上から下までじっくりと凛花を見つめて、愛想よく微笑んだ。
「ごめんなさいね、黎真さんからこういう場が苦手って聞いてたんだけど、どうしてもあなたに会いたくて、お願いして連れてきてもらったの」
その目の奥に隠された挑発に、凛花の手が知らず震える。
「あなたが……会いたかったから?」
そうか。
婚約破棄も、今夜の招待も——
全部、彼女のためだったんだ。
凛花に「おめかしして来い」と言ったのも、彼女という代わりを、あの女に見せるため。
粉々に砕けるような痛みが、心臓を締めつける。
足元がふらつき、今にも崩れ落ちそうだった。
「ねえ、黎真さん。私と白川さんって、やっぱり似てる?」
瑠璃は愛らしく首をかしげながら、彼にすり寄る。
黎真はふっと笑い、「偶然さ。彼女は君には敵わない」と、冷たく言い放った。
凛花の心は音を立てて崩れ、思わず一歩、また一歩と後退する。
踵を返そうとした瞬間、瑠璃が前に立ちはだかる。
「白川さん、まだ一杯ご挨拶していませんね。黎真さんをここまで支えてくれて、ありがとうございます。あの人、けっこううるさい性格でしょう?きっといろいろと大変だったでしょうね」
グラスを差し出し、まるで正妻のような振る舞い。
それに比べて、私はまるで愛人みたいじゃないか。
凛花の肩には、あちこちから注がれる視線。
その眼差しは、まるで彼女を可哀想な女と笑っているかのようだった。
凛花はなんとか笑みを作った。
「私は、ただの社員です。お金をもらって、仕事をしていただけですから」
「仕事以外のお世話も、いろいろあったでしょう?」
瑠璃は声のトーンを上げて、大らかに笑った。
「でも、もう大丈夫です。私、ちゃんと戻ってきましたから。これからは、あなたが代わりにやる必要なんて、もうありませんよ」
凛花の視線が、黎真へと向かう。
無表情のまま、彼はそこに立っていた。
彼女の方を見ることさえしない。
まるで今起きているすべての出来事が、自分には一切関係ないかのように。
ああ、そうか。
これが、彼の答えなのだ。
「分かりました」
凛花は静かに頭を下げ、踵を返す。
その時、通りかかったウェイターとぶつかり、ワイングラスが傾いた。
赤ワインがドレスに降り注ぎ、何十万円もしたドレスが、一瞬で台無しになる。
「白川さん、大丈夫ですか!?服が……もう!すぐ着替えを持ってきてもらいますね!」
瑠璃が驚いたように叫ぶ。
けれど、どこか勝ち誇ったその声が、痛かった。
「いいえ、大丈夫です」
瑠璃の気遣いの横で、凛花は惨めに濡れたまま立ち尽くす。
彼女の姿は、まるで行き場を失った野良猫のようだった。
黎真が動こうとする。
けれど、瑠璃が彼の腕をとって引き留める。
「白川さん、私の助けはいらないみたい。黎真、もうすぐオークションが始まるよ」
黎真は一瞬だけ躊躇したものの、凛花に背を向け、言った。
「早く帰って着替えろ。風邪引くぞ」
そのまま、振り返ることもなく、瑠璃と共に去っていった。
人々が徐々に散っていくなか、凛花はただ、そこに立ち尽くしていた。
この瞬間、凛花は——
黎真への想いを、完全に捨て去った。
第6話
凛花は、自分が代わりだったなんて、これまで夢にも思わなかった。
けれど瑠璃の姿を見た瞬間、それまで曖昧だったすべての疑問が、鮮やかに繋がった。
黎真が白いワンピースを好んだ理由。
それは、瑠璃が白を愛していたから。
彼が彼女に髪を伸ばすように言った理由。
それは、瑠璃が長い黒髪だったから。
染髪を禁じたのも、彼が贈り続けたバッグも——
すべて、瑠璃の影だった。
今夜、瑠璃が持っていたあのバッグ。
それは黎真が、凛花に三度も贈ってきた、あの定番。
全部、彼女のためだったんだ。
凛花は目を伏せた。
気づけば、瞳がじんわりと赤く滲んでいた。
ボロボロになったドレスのまま帰宅した彼女は、冷たい床に身を寄せて、ただ窓の外の月を眺めていた。
七年前のあの日が、ふと脳裏に浮かぶ。
初めて黎真と出会ったのは、あるバーだった。
お金がなくて、バイトを始めたその場所で——彼に出会った。
彼は一目で彼女を選び、秘書として雇った。
いつしか、感情が芽生え、彼の愛人になった。
公にはできない関係だったけれど、「そのうちきっと正式に」と信じていた。
だけど、違った。
どれだけ時間を費やしても、彼にとって自分は本命ではなかった。
この夜、凛花はようやく決意した。
彼のもとを、離れよう。
翌朝、凛花はいつもより早く目を覚ました。
辞表を出すと決めていた。
階下に降りると、そこには黎真の姿があった。
彼女を起こさないように、ずっと待っていたのだろう。
そして、彼女が大好きだった駅前の焼き鮭定食。
わざわざ長蛇の列に並び、買ってきたという。
彼の姿を見ても、凛花は特にこれといった反応を見せなかった。
「起きたか?」
彼が微笑む。
「お前の好きな駅前の焼き鮭定食だよ。ずっと並んで買ったんだ、食えよ」
「お腹すいてない」
凛花は靴を履き替え、出かける準備をする。
彼女の素っ気ない態度に、黎真の顔が曇る。
「なんだその態度は?どれだけ並んだと思ってるんだ!」
「神谷社長。私はそんなもの、頼んでません。今出かけるので、口論してる時間はありません」
彼が腕を掴んだ。
「瑠璃のことで怒ってるのか?」
凛花は唇を引き結んだまま、何も言わない。
黎真は冷たく笑った。
「どうせお前は俺と結婚できない。『代わり』かどうかなんて、関係あるのか?」
その言葉は、鋭く心に突き刺さった。
凛花は静かにうなずいた。
「関係ありません。神谷社長、もう時間です。私、出社しないといけませんので、手を離してください」
会社へ向かう前、彼女は美容院に寄った。
七年もの間、彼に命じられて伸ばしてきた髪。
本当は、肩につくくらいの長さが一番好きだった。
迷わずハサミを入れ、軽やかなショートヘアに生まれ変わった。
髪を切り終えた時、胸の奥に風が吹いたように、心が軽くなった。
会社に着いたのは、すでに始業時間を過ぎていた。
けれど、不思議と罪悪感はなかった。
すれ違った社員たちが、驚いたように声をかける。
「白川さん、髪切ったんですね!?すごく似合ってます!」
「うんうん、ショートの方が素敵ですよ!清潔感あるし、キリッとしてて!」
凛花は微笑んだ。
「そう?私も気に入ってるの」
自席に戻り、パソコンを立ち上げる。
すぐに辞表を書き上げ、プリントアウト。
それを黎真に手渡すため、執務室へ向かうと、彼の姿はなかった。
代わりに、彼の運転手が書類を取りに来ていた。
凛花は辞表を渡した。
「これを、神谷社長にお願いします」
その辞表を受け取った黎真は、一瞬、驚きで目を見開いたが、すぐにふっと笑った。
「俺がいなきゃ、生きていけないくせに。瑠璃が戻ってきたからって、拗ねてるだけだ。ほっとけ。そのうち戻ってくる」
会社をあとにした凛花は、タクシーで自宅へ戻った。
いや、かつての自宅だった。
この部屋は黎真が与えたもの。
愛人として囲うための部屋。
すべてを断ち切ると決めた今、この部屋にも、もう未練はなかった。
扉を開けると、ふわりと香水の香りが鼻を掠めた。
あの香水。
黎真が贈ってくれた、世界に一つだけのオーダーメイド。
もったいなくて滅多に使わなかった。
彼が来る時だけ、特別に纏っていた。
足取りを速めてリビングへ入ると——
そこには、見覚えのある女が、ソファに座っていた。
第7話
「神谷瑠璃」
「こんにちは、白川さん」
瑠璃は、当然のように凛花の家のソファに腰を下ろしていた。
彼女の目の前のテーブルには——凛花の香水が置かれている。
「ここ、私の家です。勝手に入ってくるなんて、どういうつもりですか?」
凛花は冷ややかな声で言い放った。
彼女は、招かれざる訪問者が何より嫌いだった。
「あなたの家?ふふっ……」
瑠璃は笑みを浮かべ、手にした鍵を揺らす。
「もしここが本当にあなたの家なら、私がこの鍵を持ってるはずないでしょ?」
ゆっくりと立ち上がると、彼女は凛花の前まで歩み寄る。
「知らなかったの?この部屋はもともと黎真が私にあげたものよ。でも私は要らなかったから、彼があなたに譲ったの」
呼吸が止まりそうになる。
目の前の女を睨みつけ、凛花は拳をぎゅっと握りしめた。
この部屋も、彼女のお下がりだったの?
「この香水もそう」
瑠璃は香水を手に取り、空中にひと吹き。
「他人の物を勝手に使うのが趣味ですか?」
凛花が手を伸ばして香水を取り返そうとしたが、瑠璃はすっと身をかわした。
「それ、本当にあなたの物って言えるの?」
彼女は香水を握りながら、にっこりと笑う。
「この香水、名前は『瑠璃ノ記憶』。黎真が調香師に頼んで、私のためだけに調合してくれた世界で一つの香りなの。白川さん、夢を見るのは勝手だけど、そろそろ目を覚ました方がいいんじゃない?」
それだけ言い残して、瑠璃は去っていった。
残された凛花は、静まり返った部屋の中で、呆然と立ち尽くしていた。
牢獄のようだった。
そして、自分は飛ぶことも知らずに、美しい檻の中でただ鳴くだけの鳥だった。
目を覚まさなければ。
凛花は、黎真からもらった全てのプレゼントを処分した。
ただし、バッグだけは処分しなかった。
代わりに、新しい部屋を探し始め、いつでも引っ越せるよう準備を整えた。
会社の同僚たちは彼女の退職を惜しみ、送別会を開いてくれることになった。
夜の八時、凛花は予定通り会場に到着した。
扉を開けた瞬間、彼女の視線は一人の男に吸い寄せられた。
——黎真。そして、隣には瑠璃。
「白川さん、来たわね!」
その姿を見た瞬間、帰ろうとした。
だが、既に遅かった。
同僚に腕を引かれ、強引に部屋へと連れていかれる。
「せっかく来たんだから。ほら、社長まで来てくれたんだよ」
凛花は眉をひそめた。彼が来ると分かっていたら、最初から来なかったのに。
「神谷社長、隣の方は誰?紹介してくれないの?」
誰かが茶化すように問いかけたその時、黎真は瑠璃の手を取り、穏やかに語った。
「紹介が遅れたね。彼女は瑠璃、俺の恋人だ。最近、海外から戻ってきた」
その一言で、凛花の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
七年。
ただ、たった一言「彼女だ」と言ってもらえる日を、ずっと待っていた。
けれど今、彼は自分ではない別の女性を、堂々と彼女と紹介した。
重たい沈黙が包み込む。
誰もが凛花に視線を向けていた。
この数年、いつも黎真の隣にいたのは彼女だった。
彼に尽くしてきたことは、誰の目にも明らかだ。
いつか、きっと彼と結ばれるものだと——
皆が、そう思っていた。
彼女自身でさえ、疑わなかった。
「さ、社長の奥さんに一杯!」
誰かが冗談混じりに言うと、黎真は凛花に目をやる。
「お前も、もう辞めるんだろ?一杯くらいどうだ?」
彼女は、医者から酒を止められていた。
彼の無茶なスケジュールで、体を壊したからだ。
「私は、飲めません」
凛花は視線を落とし、グラスの白湯を手に取った。
「代わりに水で、社長の奥さんに敬意を」
「社長の奥さん」を、凛花は噛み締めるように言った。
そして一気に飲み干す。
だが、黎真の表情は晴れない。
「なんだよ、辞めたら、酒も飲めないのか。凛花、お前、俺に恥をかかせる気か?」
彼女の辞表は、まだ車の中に置きっぱなしだ。
あいつが腹いせに辞めるなんて——そう思うだけで、黎真の胸は妙にざわついた。
第8話
「黎真、そんな言い方しないで。今日は白川さんの送別会でしょ?ねえ、白川さん、一杯だけ一緒にどう?これまで黎真と会社を支えてくれて、本当にありがとう」
瑠璃がグラスを手にしたその瞬間、黎真が素早く止めた。
「お前、酒はダメだろ。胃の調子、悪かったんじゃなかったか?飲んだら夜また寝られなくなるぞ」
「そんなの、もう七年前の話よ。まだ覚えててくれたんだね」
瑠璃が甘えるように微笑むと、黎真は彼女の鼻先を指で軽くつついた。
「いい子だ。白川ですら飲まないんだから、お前が飲む必要はない」
その言葉が、鋭利な刃のように凛花の心を何度も切り裂いた。
凛花に胃の病があることを、彼は知らなかった。
でも、七年前の瑠璃の胃の不調は、今も鮮明に覚えている。
もうこれ以上、見ていられなかった。
凛花はテーブルのビールを取り、黙々と飲み始めた。
何本も、何本も。
胃が焼けるように痛む。けれど、心の痛みには遠く及ばない。
「なんだよ、飲めるくせに、瑠璃に一杯も注げないのか?白川凛花、お前、いつからそんなに了見が狭くなった?」
黎真の冷笑。
その直後、激しい吐き気に襲われた凛花は席を立ち、洗面所へと駆け込んだ。
吐いても、吐いても、胃の中は空っぽなのに、まだ止まらなかった。
やっとのことで顔を上げたその時、数人の男たちが通路を塞いでいた。
「おっ、こんな美人がいたとはな」
彼らの囲い込みを抜けようとするも、がっちりと腕を掴まれる。
「何のつもり?」
「何のつもりって?さあ、俺たちが何したいか、分かるだろ?」
リーダー格の男が手を振ると、周囲の男たちが一斉に動き、彼女の両腕を押さえ込んだ。
凛花が声を上げたとき——
ちょうど瑠璃がそこを通りかかった。
「え……なに?」
彼女は茫然と凛花を見つめた。
声を発する間もなく、彼女もまた男たちに腕をつかまれた。
「また美人がもう一人来たぞ!今夜は当たり日だな!」
「いやっ、やめて!助けて!黎真、助けて!」瑠璃は取り乱したように叫んだ。
「瑠璃!」
助けを呼ぶ声に反応し、黎真が駆けつけた。
「俺の女に、何してる!!」
彼は怒りのままに、男の顔面を殴り、腹に蹴りを入れる。
男は地面に倒れ、震えながら命乞いをした。
瑠璃は彼の胸にしがみつき、震える声で囁いた。
「こわかった……黎真……」
「大丈夫だ。俺がついてる」
その時——
「おい!白川凛花!俺の仲間がケガしたんだ!話が違うぞ!」
彼女は呆然としながら、腕に残る赤い痕をさすっていた。
「話?何のこと?」
「おいおい、知らばっくれるなよ。お前があの女を誘拐しろって言ったんだろ?金出すって。約束が違うぞ」
「え?」
黎真が、その言葉に反応する。
「白川凛花!お前が瑠璃を襲わせたのか!?正気か!」
凛花は怒りに震えながら、男を睨みつけた。
「私も捕まってたのに、見えなかった?それに、私がそんなことするような人間に見えるの?」
「誘拐するかどうかは知らない。でも、瑠璃を狙うくらい、お前ならやりかねない」
「黎真、なんで……白川さんが……そんなひどいことを……」
瑠璃は涙を流しながら、黎真の胸で震える。
だが凛花だけは見逃さなかった——
その涙の裏に、一瞬覗いた——勝ち誇った笑み。
全部、仕組まれてたんだ。
「神谷瑠璃、なぜ、私を陥れようとするの?私はこの人たちなんて、全然知らない!」
「もういい!」
黎真が彼女の声を遮るように怒鳴った。
「白川凛花……お前、本当にもう終わりだ」
「頭が……痛い……」
次の瞬間、瑠璃が黎真の腕の中で崩れ落ちた。
「瑠璃!しっかりしろ!俺が病院に連れていく!」
彼は彼女を抱き上げ、凛花を一瞥もせず、そのまま去っていった。
「さあ、お前も中に入ってもらおうか。金はもらってるし、楽しませてもらうぜ。なにせ神谷のお嬢さんのお墨付きだからな」
神谷のお嬢さん……?
凛花は、つい笑いそうになった。
やっぱり。全部、瑠璃の仕業だった。
その稚拙な演技に、黎真は一度も気づかない。
数人の男たちが白川凛花の行く手をふさぎ、無理やり彼女を個室へ引きずり込もうとする。
凛花は、遠ざかっていく男の背中を見つめながら、必死に「助けて」と何度も声を上げた。
だが、彼は一度も振り返らなかった。
その背中が完全に消えた瞬間、彼女の中で最後の希望も音を立てて崩れ落ちた。
「脱がせちまえよ。これだけの美人、逃がす手はない!」
男たちが押し寄せ、服が乱暴に破かれていく。
視界が滲み、凛花の意識も揺らいでいく。
最後に彼女が見たのは、テーブルの上のビール瓶だった。
光が遠ざかる、その寸前だった。
病院のベッドで、瑠璃は夢の中で叫んでいた。
「やめて……お願い……」
その姿に、黎真は胸を締めつけられる思いで彼女を抱きしめた。
「もう大丈夫だよ。瑠璃、俺がついてる」
「でも、怖いよ。白川さんが、どうして私にこんなことを……やっぱり、私が戻ってきたのが嫌だったのかな……」
「大丈夫。あんな女に、何の権利があるって言うんだ。絶対に、謝らせてやる」
怒りに満ちたまま、黎真は凛花の家へと向かった。
しかし、部屋は空だった。
「どこだ、白川凛花!」
電話を取り、秘書に連絡を入れる。
「白川凛花の居場所を、今すぐ調べろ」
待つ間、怒りはますます燃え上がっていった。
「まさか、夜通し帰ってないのか?」
その時、秘書から連絡が入る。
「神谷社長、白川さんが……」
「彼女がどうした?すぐに戻って来させろ。昨日の件、ちゃんと説明してもらわないと気が済まない!」
「白川さんの持ち物が昨日のバーで見つかりました。ただ、本人の姿は確認できていません」
「は?」
「現場には血痕が残されており、警察が立ち入りを禁止しています。それに、死亡者が出たとの通報が……」
「……何だって……?」
黎真の身体が激しく震える。
「もう一度言え……誰が死んだって?」
「まだ身元は確定していませんが、状況からして……亡くなったのは、白川さんの可能性が高いそうです」