霧に沈み、あなたを忘れる

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霧に沈み、あなたを忘れる

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「おばさん、もう決めたの。私、京極家を出て、おばさんと一緒に海外で暮らしたい」 電話の向こうから返ってきた叔母の声には、喜びがあふれて...

Chương (1)

第1章

「おばさん、もう決めたの。私、京極家を出て、おばさんと一緒に海外で暮らしたい」 電話の向こうから返ってきた叔母の声には、喜びがあふれていた。優しく語りかけるような口調で言った。 「わかったわ、絵蓮。すぐにビザの手配をするけど、たぶん一ヶ月くらいはかかると思うの。 その間に、友だちやクラスメートにはなるべく会っておきなさい。新洲島に引っ越したら、もう簡単には会えなくなるかもしれないから、きちんと話して、お別れを言っておくのよ。 特に、おじさんには、ちゃんと感謝しないとね。あの人は、あなたを小さい頃から育ててくれたでしょう。その恩は、絶対に忘れちゃだめ。しっかりお礼を言いなさい」 森清絵蓮(もりきよ えれん)は、低い声で返事をした。 電話を切ったあと、彼女は立ち上がり、ベランダからリビングへと戻った。そして、ふとテーブルの上に飾られた一枚の写真に視線を向けた。 第1話 「おばさん、もう決めたの。私は、京極家を出て、おばさんと一緒に海外で暮らしたい」 電話の向こうから返ってきた叔母の声には、喜びがあふれていた。優しく語りかけるような口調で言った。 「わかったわ、絵蓮。すぐにビザの手配をするけど、たぶん一ヶ月くらいはかかると思うの。 その間に、友だちやクラスメートにはなるべく会っておきなさい。新洲島に引っ越したら、もう簡単には会えなくなるかもしれないから、きちんと話して、お別れを言っておくのよ。 特に、おじさんには、ちゃんと感謝しないとね。あの人は、あなたを小さい頃から育ててくれたでしょう。その恩は、絶対に忘れちゃだめ。しっかりお礼を言いなさい」 森清絵蓮(もりきよ えれん)は、低い声で返事をした。 電話を切ったあと、彼女は立ち上がり、ベランダからリビングへと戻った。そして、ふとテーブルの上に飾られた一枚の写真に視線を向けた。 そこには、夕焼けに染まった空と、温かな光に包まれた二人の姿が写っていた。 十七歳の京極衡稀(きょうごく こうき)がブランコのそばに立ち、笑顔で七歳の絵蓮を背中から押している。 風に揺れる彼女のスカートが、庭のチューリップをかすめていた。 あの日のことを、絵蓮は今でもはっきりと覚えている。とても、とても幸せな一日だった。 けれど、時は流れた。もう彼と自分は、あの頃には戻れなかった。 そう思った瞬間、絵蓮の瞳にふと切なさが浮かび、彼女は写真から視線を外して、遠くを見つめた。もっと遠くの、過去を思い返すように…… 森清家と京極家は、代々親しく付き合ってきた。衡稀は彼女より十歳年上で、彼女は小さい頃から彼のことを「おじさん」と呼んでいた。 絵蓮が七歳のとき、両親は飛行機事故で亡くなった。そのとき、衡稀が彼女を引き取り、京極家で育ててくれた。 両親を失った彼女を不憫に思ったのか、彼はいつもそばにいて、何から何まで世話を焼いてくれた。 毎晩おとぎ話を読んで眠らせ、雨の日も風の日も送り迎えを欠かさず、面白いものを見つけると必ず買ってきてくれた。 少年だった衡稀は、そうやって日々少しずつ、小さな子供を立派な少女へと育て上げていった。 その優しさに、絵蓮は幼いころから彼に深く懐いていた。 そして思春期を迎えるころには、自然な流れで、どうしようもなく彼に恋をしてしまっていた。 十七歳の誕生日、衡稀はいつも通り盛大なパーティーを開いてくれた。 その夜、彼は酒に酔っていた。絵蓮は彼を部屋まで送り届けた。 好きな人が目の前にいるから、その想いを抑えきれず、彼女はそっと顔を近づけ、キスをした。 すると、衡稀はすぐに目を開け、彼女をソファの反対側へと突き飛ばした。 驚きながらも、絵蓮はこれがチャンスだと思った。そして思いきって、胸に秘めていた気持ちを打ち明けた。 だが彼の目には、それは道を踏み外した、決して許されない感情だけだった。 彼は顔を真っ赤にして怒鳴った。 「絵蓮!自分が何を言ってるかわかってるのか?俺はお前の叔父なんだぞ!」 「叔父って言ってるけど、私は森清で、あなたは京極。血はつながってないでしょう?」 彼女が引き下がらないのを見て、彼の顔には険しさが浮かんだ。 「俺はお前より十歳も年上だ。お前はまだ十七で、家族愛と恋愛の違いもわかってないし、好きの本当の意味も知らない!」 絵蓮は、いつだって衡稀の言うことに素直に従ってきた。けど、この想いだけは、どうしても譲れなかった。 「じゃあ、子どもだからダメなんでしょう?でも大丈夫。私は大人になる。ちゃんと証明してみせる。恋愛が何か、本当に好きってどういうことか、ちゃんとわかってるって!」 あの夜、ふたりの口論がどう終わったのか、彼女はもう覚えていない。 しかし、それから毎年、誕生日には一度、必ず衡稀に告白した。 彼はいつも断った。それでも、彼女は諦めることなく想い続けた。 そして今、一ヶ月後には彼女の二十一歳の誕生日が来る。 だが今年、彼女はもう告白しないと決めていた。 一ヶ月前……衡稀が、恋人を連れて帰ってきたからだ。 絵蓮の心に、冷たい風が吹き抜けた。 それでも彼女は、涙をこらえて問いかけた。 「私を諦めさせるために、その人を連れてきたの?」 彼は彼女を一瞥し、冷たく答えた。 「勘違いするな。俺ももういい歳なんだ。恋人がいるのもおかしくないんだろう」 その穏やかな言いぶりが、何より彼女の胸に突き刺さった。 その夜、彼女は泣き続けた。頭の中はぐちゃぐちゃで、これまでのことが何度もよみがえった。 夜が明けるころ、海外に住む叔母からメッセージが届いた。 【絵蓮、こっちに来て一緒に暮らさない? 実は森清家の事故のとき、本当はすぐ迎えに行きたかった。でもあの頃、私は産後うつで、仕事も安定してなくて、動けなかったの。 今はもう落ち着いてるし、あなたも大人になった。京極家にいるのも都合が悪いでしょう、私のところにおいで?】 彼女は、すぐには返事を出せなかった。 だって、まだ衡稀のそばにいたかった。もう少しだけ、頑張ってみたかった。 しかし、この半月の間に、彼はまるで見せつけるように、丹羽梓(にわ あずさ)という恋人を何度も彼女の前に連れてきた。 手をつなぎ、抱き合い、キスを交わし、恋人としての親密な姿を隠すこともなかった。 そして昨夜……彼は梓を家に泊めた。二人は部屋に入った。 絵蓮は階下で、ただひとり、静かに座っていた。午前三時、ようやく明かりが消えたころ、部屋の奥から微かにかすかな音が聞こえた。 彼女は手で口を覆い、声を殺して泣いた。涙は静かに、ソファを濡らしていった。 そのとき、ようやく決心がついた。 衡稀への思いを……もうやめよう、と。 第2話 扉の外から突然足音が聞こえ、絵蓮の思考は途切れた。 顔を上げると、ちょうど衡稀の視線とぶつかった。 彼は、ひとりで食卓に座る彼女を見て、無意識に壁の時計へと目をやった。時刻はまもなく十一時。 わずかに眉をひそめたものの、何も言わず、そのまま階段を上がっていった。 挨拶ひとつもなく、まるで赤の他人のような冷たさだった。 絵蓮の胸に、じんわりとした痛みが広がってきた。それでも、思わず声をかけていた。 「おじさん……夕飯は……」 彼は立ち止まることなく、冷たい声だけを返した。 「梓と食べた。何度も言ってるだろ?待たなくていいって」 言葉の終わりは、扉が閉まる音にかき消された。 絵蓮の胸がきゅっと締めつけられ、目の奥がじんと熱くなった。 昔は、衡稀がこんなふうに話すなんて、考えもしなかった。 彼は、両親を亡くしてから一人になるのを怖がる彼女の気持ちを、誰よりもよく理解していた。 どんなに忙しくても、必ず食事には付き合ってくれた。 海外出張のときも、できるだけ早く戻ってきてくれた。 食欲が落ちる彼女の体を気づかい、いつも寄り添ってくれた。 十数年間、その優しさは一度たりとも例外がなかった。 けど……彼女が初めて想いを伝えた日を境に、すべてが変わった。 彼は意識的に距離をとりはじめ、残業や出張を理由に、顔を合わせようとしなくなった。 誕生日のサプライズも消え、彼女だけに向けられていた特別な扱いも、すべて取り上げられた。 そして梓が現れてからは、彼の視線さえも冷たくなり、まるで他人を見るような目つきになった。 理由はわかっていた。でも、どうすることもできなかった。 絵蓮はただ、冷めた料理に箸をつけ、味のしない食事を喉に流し込むしかなかった。 どんなに品数が多くても、口の中はひたすら苦く感じた。 腹七分目ほど食べたところで食器を片づけ、彼女は静かに彼の部屋の前へ向かった。 軽くドアをノックした。 衡稀がやや不機嫌そうに眉をひそめながらドアを開けた。口調も冷たかった。 「何度言わせるんだ。用がないなら来るなって」 絵蓮は唇をきゅっと噛み、両手を握りしめて言った。 「おじさん……部屋を変えたいの」 一瞬、衡稀の顔に驚きの色が浮かんだが、すぐに無関心そうな様子で答えた。 「変えたければ変えればいい」 彼女は黙ってうなずき、自分の部屋へ戻っていった。 大きな掃き出し窓、センス良く揃えられた家具、そして服や靴やバッグで埋め尽くされたウォークインクローゼットを見渡すと、胸の奥にかすかな虚しさがよぎった。 この部屋は、別荘の中で最も広く、陽当たりも一番良い部屋だった。かつては衡稀の寝室だった。 彼女が京極家に来た日、彼はこの部屋をまるごと譲ってくれた。 「うちの絵蓮はお姫様だ。お姫様には、一番いい部屋が似合うだろ」 そう言って、彼は優しく彼女の髪を撫でた。 でも今、彼女はこの家を出ていこうとしている。 いずれこの部屋には、梓が入ることになるのだろう。 ……自分は、ただの居候にすぎない。 主寝室に住む資格なんて、最初からなかったのだ。 だから彼女は、部屋を変えたいと言った。 場所を譲るため、そして、荷物を整理するために。 翌日昼すぎ、彼女はすべての荷物を廊下の突き当たりの小さな部屋へ運び終えた。 そこはもともと、衡稀の書斎だった。 片づけを終えると、彼女はパスポートなどの書類を手にして階下へ向かった。ビザの手続きに出かけるつもりだった。 リビングを通り過ぎるとき、彼女は軽く頭を下げただけで、以前のように明るく声をかけたりはしなかった。 衡稀は、彼女のそんな静かな様子にどこか違和感を覚えていた。 うつむき加減でおとなしく、何も言わずに部屋を出ていこうとする姿を見ていると、以前とはどこか違って見え、つい声をかけてしまった。 「こんなに雪が降ってるのに、どこ行くんだ?送っていこうか?」 あまりにも久しぶりに聞く「送る」という言葉に、絵蓮は一瞬、立ち止まった。 「……今日はクリスマスでしょ。デートの予定、あるんじゃないの?」 その小さなつぶやきは彼の耳には届かなかったようで、彼は聞き返した。 「なんだって?」 彼女は視線を落とし、拳をぎゅっと握りしめた。 「昨日、ニュースで見たの。おじさん、オークションで何億もするダイヤのネックレスを落札してた……たぶん今日、梓さんに渡すんでしょ」 その言葉に、衡稀はその場で動きを止め、思わず何か言いかけた。 「それは俺が……」 だがそのとき、玄関のチャイムが鳴った。 間もなく、ニットのツイード地のワンピースをまとい、腰まで届く巻き髪を揺らしながら梓が現れた。 完璧なメイクの彼女は、自然に衡稀の腕に絡みつき、甘えた声を響かせた。 「衡稀、クリスマスプレゼント用意したの。何だと思う?」 ……やっぱり、思った通りだった。 絵蓮はそっと目を伏せ、寂しげな微笑みを浮かべた。 もう離れると決めたせいか、以前のように胸が張り裂けるような痛みはなかった。 ただ、少しだけ後ろに下がって、二人の通り道を空けた。 衡稀は何も言わずに梓の手を取り、出かけようとした。だがそのとき、彼女にも声をかけた。 「一人で出かけるな。どこに行くなら、俺が送っていく」 絵蓮は思わず立ち止まり、そっと言葉を返した。 「……ありがとう、おじさん」 それは、心からの「ありがとう」だった。 そして、心からの「おじさん」だった。 第3話 絵蓮は普段あまり外出せず、ほとんどの時間をアトリエで過ごしていた。 そんな彼女が、雪の降る日に出かけると聞いて、梓は少し意外そうに首をかしげた。 「絵蓮、彼氏もいないのに、こんな天気なのに、どこ行くの?」 この家を離れるつもりだとは言えず、彼女はとっさに言葉を濁した。 「ちょっと……用事があるの」 どうせ大使館に着けば、そのうちふたりにもわかることだ。 梓はそれ以上は深く聞かず、すぐに今日のデートの予定を衡稀と話しはじめた。 二人の会話は楽しげで、まるで後部座席に彼女がいることなど忘れてしまったかのようだった。 赤信号で車が止まったとき、梓はリップを取り出して、メイクを直してほしいと甘えた。 衡稀は断りもせず、丁寧にリップを塗った。 顔と顔が近づくその様子を見て、絵蓮は黙って視線をそらし、窓の外に舞う雪を見つめた。 目的地まであと少しというところで、梓が突然「上着を忘れたから取りに戻りたい」と言い出した。 ナビには残り2キロと表示されていたが、衡稀は一切迷わず絵蓮に言った。 「自分でタクシー拾って行け」 絵蓮は苦笑し、何も言わず静かに車を降りた。 黒いカイエンが雪煙を巻き上げながら走り去っていった。 道には人影も車の気配もなく、絵蓮は雪を踏みしめ、2キロ先の大使館を目指して歩き出した。 必要書類を提出し、手続きを済ませた。 外へ出ると、偶然、高校時代の担任の先生と出くわした。 ふたりはしばし近況を交わし、彼女が海外に移住するつもりだと話すと、先生は目を丸くした。 「外国に行ったきり、もう戻ってこないの?京極さんは、それを許してくれたの?」 どうして突然叔父さんが出てきたのかわからず、絵蓮は少し戸惑いながらも、平静を装って答えた。 「ええ、許してくれました。私たちには血のつながりもありませんし、もう大人ですから、これ以上ご迷惑をおかけするわけにもいきません。海外で少し視野を広げるのも、悪くないと思いまして」 先生はしみじみと頷き、感慨深げに言った。 「血のつながりがなくても、京極さんは本当に君を大切にしてたわよね。昔、君がコンクールで他校の生徒に盗作だと非難されたとき、彼、盲腸の手術を終えたばかりなのに、現場に駆けつけて庇ってくれたでしょう? それに、学校で転んだときも、数億円の契約を断って病院に連れて行ってたし、チンピラに絡まれたときも、真っ先に駆けつけてくれたじゃない」 先生が語る一つ一つの出来事に、絵蓮の記憶も自然と過去へ引き戻されていった。 最後に、先生は彼女の手をそっと握り、優しく語りかけた。 「京極さんの恩は、決して忘れちゃだめよ。ちゃんと感謝して、報いてあげなさいね」 絵蓮は静かに頷いた。 彼女はもう決めていた。出発する前に、彼への長年の恩を返すと。 彼にとって何よりの恩返しは……自分がこの家を出ることだろう。 そうすれば、彼はもう彼女に縛られることなく、自由に、新しい人生を歩いていける。 家に戻ると、絵蓮は濡れた服を着替え、机に向かって計算をはじめた。 京極家で暮らした年月のなかで、彼女は毎月の支出をある程度把握していたため、すぐにおおよその金額を見積もることができた。 目に見える費用だけでなく、見えない心配や気遣いも含めて、その三倍もの額を返すつもりでいた。 午前中にはすでに、彼からもらったすべてのプレゼントを整理し、フリマサイトに出品していた。 さらに、不動産会社にも連絡を取り、森清家の旧宅を売りに出した。 すべてが終わると、彼女は小さくため息をつきながら、ベッドへと身を投げ出した。 そのとき、スマートフォンが数回震えた。 画面を開くと、梓から十数枚の写真と一つのメッセージが届いていた。 【絵蓮、私と京極さんはハワイに遊びに行くの。絵蓮はお留守番、いい子にしててね♡】 写真は見なくても、内容は想像がついた……衡稀と梓が仲睦まじく写っているのだろう。 彼らの交際を公にしてから、梓はデートのたびにこうして大量の写真を送りつけてきていた。 かつての彼女なら、そのたびに胸が張り裂けそうになり、涙を流していたかもしれない。 でも……今は違った。 彼女はもう、衡稀を家族として心の中で整理していた。 梓の挑発に、いちいち心を乱されることもない。 それが故意か無意識かすら、もはやどうでもよかった。 絵蓮は淡々と、一言だけ返信した。 【うん、楽しんで】 第4話 五日後、衡稀は梓を連れて帰ってきた。 家に入るなり、絵蓮の視線は梓の首元にきらめくネックレスに吸い寄せられた。 ひと目見ただけで、彼女はすぐに視線を落とした。 ……やっぱり。 あのネックレスは、梓へのプレゼントだったのだ。 それなら、あのとき衡稀が言いかけてやめた言葉は、一体何だったのだろう? 彼の前では、梓はいつものように愛想よくふるまい、笑顔で絵蓮の手を取った。 「絵蓮、この数日ひとりで退屈だったでしょ?お土産たくさん買ってきたの。欲しいのがあれば、持って行って?」 そう言いながらコートを脱ぎ、山のように積まれた箱の前へ彼女を引っ張っていった。 絵蓮は首を振って何度も断ったが、梓は少し怒ったように彼女をちらりと見て、どこか含みのある口調で言った。 「どうしてそんなに遠慮してるの?未来の義理のおばさんからのプレゼントだと思えばいいじゃない?」 「おばさん」という言葉を聞いた瞬間、絵蓮は思わず顔を上げた。 そしてその視線は、梓の肩から首筋にかけて点々とついた、いくつものキスマークに留まった。 ……思い出した。 彼女が以前送りつけてきた写真の中に、ホテルのベッドを真正面から撮ったものがあった。 あのときは意味がわからなかった。 けれど今になって、ようやくその意図を理解した。 絵蓮は何も言わず、静かに目を伏せた。 梓はお土産の箱を開けながら、今夜のパーティーについて話し始めた。 「衡稀、今夜は神宮寺さんの成人式なの。絵蓮も一緒に行こうよ。同い年くらいだし、話も合うと思うの」 ……成人式。 その言葉を聞いた瞬間、絵蓮は少し驚いた。 京極家に来て以来、衡稀が彼女を社交の場に連れて行くことは一度もなかった。 理由は簡単……一部の人間が、彼女のことを寄生虫だと陰口を叩いていたからだ。 今回も、衡稀は迷うことなく首を横に振り、彼女を連れて行く気はなかった。 しかし、梓がその腕に甘えるようにすがり、「一人じゃつまんない」と甘えた。 そして結局、衡稀は小さく苦笑しながら、その願いを聞き入れた。 二人の親しげな様子を見つめながら、絵蓮は黙ってうつむいた。 その唇に、かすかな笑みが浮かんでいた。 衡稀の世界の中で、梓は特別な存在なのだ。 彼女のためなら、自分のこれまでの信念さえも曲げる。 そう思ったとき、絵蓮は心の底から悟った。おじさんは、本当に梓を愛しているのだと。 彼が幸せなら、自分は彼のそばにいられなくなっても構わないのだと、絵蓮は思った。 宴会場には、グラスが触れ合う音と笑い声が満ちていた。 絵蓮は独り隅に立ち、梓の代わりに何杯も酒を飲んでいる衡稀の姿をじっと見つめながら、黙って手元のジュースを口に運んでいた。 数人の女の子たちが笑いながら近づいてきて、うっかり彼女の服にワインをこぼしてしまった。彼女たちは驚いて、慌てて何度も謝った。 彼女は気にすることもなく、自分で洗いに行こうとその場を離れた。 立ち去る前、スマホとバッグを衡稀に預けた。 十分ほどして戻ると、衡稀はわずかに眉をひそめ、少し不思議そうに彼女を見つめた。 「さっき、お前のおばさんから電話があった。今話せる?って聞かれて、お前が忙しいって答えたら、後でかけ直すってさ」 ……おばさん。 その言葉を聞いた瞬間、絵蓮の体が一瞬ぴくりと震えた。 でも幸い、渡航の話までは聞かれていなかったようだった。 彼女の表情はすぐに平静を取り戻した。 その変化に気づいた衡稀は、さらに尋ねた。 「絵蓮、おばさんと連絡取ってたのか?」 「二週間くらい前。祖父母の写真がほしいって」 絵蓮は何気ない口調で答えた。 衡稀はそれを聞いて納得したように頷き、隣にいた梓の乱れた髪を整えてやった。 絵蓮もバッグとスマホを受け取り、その場を離れようとした。 そのとき。 高く積まれていたシャンパンタワーが誰かにぶつかり、ぐらりと傾いた。 ……ちょうどその前に、絵蓮と梓が立っていた。 「危ない!」 一番近くにいた衡稀が、反射的に梓を抱きかかえ、安全な場所へと引き寄せた。 ……ガシャン!! 轟音とともに、シャンパンタワーは崩れ落ち、絵蓮の体に降りかかった。 砕けたガラスが四方に飛び散り、彼女はその場に倒れ込んだ。 純白のドレスに流れ出た血が、じわりと広がっていった。 会場は、水を打ったような静寂に包まれた。 梓は無傷だったが、恐怖に震えて泣き出した。 床に倒れた血まみれの絵蓮と、腕の中で泣きじゃくる梓を見て、衡稀はほんの一瞬、逡巡した。 だがすぐに、決断した。 「彼女を病院に連れて行け」 そうボディーガードに命じると、梓を抱きしめたまま、会場を後にした。 二人の姿が完全に消えたあと、絵蓮は周囲の同情に満ちた視線の中、よろめきながら立ち上がった。 帰宅したのは、深夜1時を回ったころだった。 医師には十数針縫われ、入院を勧められたが、彼女は薬だけを受け取って帰ってきた。 衡稀は、まだ戻っていなかった。 部屋の明かりを落とし、彼女はベッドに横たわった。 見上げた天井は、真っ暗だった。 全身を焼くような痛みが、眠気を追い払っていった。 ようやく浅い眠りについたのは、午前3時を過ぎたころだった。 そのとき……リビングの灯りがついた。 酒気を帯びた衡稀が、ふらふらと階段を上がってきた。 彼は自分の部屋には戻らず、家の一番奥、かつての書斎へと向かい、そっとドアを開けた。 寝返りを打った絵蓮は、傷口に触れ、うっすらと夢の中で呻いた。 その小さな声を、彼は聞き逃さなかった。 そっと近づき、ベッドのそばに膝をついた。 そして、そのまま彼女を腕に抱き上げた。 衡稀は片手でパジャマの裾を捲くり上げ、柔らかな腰に触れた。 もう一方の手で顎を軽く持ち上げ、彼女の唇に、自分の唇を重ねた…… 第5話 絵蓮は浅い眠りしかできず、すぐに目を覚ました。 男の襟元から匂うあの懐かしいコロンの香りが、彼の正体を告げた。 おじさん……? どうして突然部屋に飛び込んできて、彼女にキスをするの? 体が震え、まだ状況を飲み込めないまま、衡稀が嗄れた声で、熱っぽい息を交えて囁いた。 「梓……」 その瞬間、彼女の体は氷のように硬直した。 そして漂う酒の匂いが、この状況をはっきりと告げていた。 衡稀は酔って、彼女を梓と取り違えたのだ。 その一瞬の隙を突かれ、彼の両手はだんだんと腰へと滑り降りてきた。 動揺した絵蓮は、腰に触れる手を押さえつけ、慌てて彼を突き放そうとした。 声には焦りが混じっていた。 「おじさん、違う、私は絵蓮だ!」 酔いが回っているのか、あるいは彼女の抵抗がかえって彼の支配欲を煽ったのか、キスはより激しくなり、柔らかな唇を深く含み、優しく噛み付いた。 絵蓮は息が詰まるほど苦しく、涙があふれてガーゼを濡らし、さらに傷口に沁みて激しい痛みを呼び起こした。 「おじさん、痛い……傷がすごく痛むのよ……」 彼女の叫びが効いたのか、衡稀はわずかに体を硬直させ、ようやく彼女の手を離した。 絵蓮はすぐに体を横に向けて逃げ、靴も履かずに慌ててリビングへ走った。 毛布にくるまり、夜明けまでどうにか眠りについた。 翌日の午後、目を開けると目の前に衡稀が、不気味な表情で座っていた。 昨夜の出来事が脳裏をよぎり、彼女は恐怖でソファの隅に縮こまった。 その様子を見た衡稀の瞳に、一瞬だけ冷たい光が走った。 「昨夜、お前が俺を自分の部屋に連れて行ったのか?」 質問に戸惑い、説明しようとした絵蓮に、彼は眉をひそめて続けた。 「二度とそんな真似をするな。さもなければ、出て行きなさい」 彼の揺るがぬ態度を前に、絵蓮は「おじさんが酔ってたんだ」という言葉を飲み込んだ。 以前、彼にこっそりキスをした過去があるから、今となっては、どんなに説明を尽くしても、彼が信じてくれるはずがない。 そう悟った彼女は、黙るしかなかった。 床に映った二人の影のうち、絵蓮は向かいの影が手を上げるのを見て、思わず顔を上げた。 衡稀の手は彼女の頭上でそっと止まり、撫でようとするようだった。 絵蓮は体が固まり、信じられない表情で瞳を見開いた。 幼い頃、家族のことで泣きじゃくり、どうしようもなく寂しいとき、衡稀はいつも優しく頭を撫でて慰めてくれた。 それは二人だけの暗黙の合図のようなものだった。 しかし、十七歳を過ぎてからは、ほとんど体の接触はなかった。 緊張で呼吸が止まりそうになった次の瞬間、衡稀は手を数センチ上げ、後ろの棚から赤ワインを取り出した。 どうやら、彼女の勘違いだったらしい。 絵蓮は苦笑した。 急いで売却したため、この前に出品した物や実家の古宅は、市場価格よりかなり安く売れてしまい、合計で十九億円余りだった。 目標額にはなお数千万円不足していた。 間もなく渡航する予定で、残された時間も少ない。 足りない分をすぐに用意するのは難しく、彼女は新人ながらも、数々の賞を受け、画家として知られていた。 そこで、個展を開いて作品を売ることにした。 一人で開催するのは難しく、衡稀に助けを求めた。 すると梓がそれを聞いて驚いた顔をし、にっこり笑いながら近づいてきた。 「私も個展の準備をしてるの。一緒にやらない?」 絵蓮は衡稀の顔を窺うと、彼が反対しなかったので承諾した。 五日後、二人の個展が同じ美術館で同時開催された。 梓は十年以上絵を学んでおり、大規模な個展は初めてだったため、衡稀は力を入れていた。 彼は数百平方メートルのメインホールを梓に割り当て、内装に細心の注意を払い、様々な宣伝を用意した。 その結果、初日の来場者数は美術館史上最高を記録し、社会的名士や著名な文化人が押し寄せた。 一方で、十数平方メートルの狭い部屋に百点近い作品をぎっしり詰め込まれた絵蓮の展示は不運だった。 人が動けないほどの混雑で、来場者はほとんどいなかった。 ましてや作品の販売なんて、夢のまた夢だった。 彼女は入口に立ち、遠くの賑やかな個展を見つめて、失望の色を隠せなかった。 数人の友人が慰めようとしたそのとき、部屋の中で突然叫び声が響いた。 「絵蓮、大変!」 第6話 ネット上で誰かが盗作事件を告発した。 その当事者は、まさに今日個展を開催した絵蓮と梓だった。 スマホに映し出されたネット民の分析によると、二つの絵は内容も構図も色彩もほぼ同一だった。 瞬く間に「#新人画家森清絵蓮盗作疑惑」というタグがトップに躍り出て、大きな騒動を巻き起こした。 数人の友人が彼女の周りに集まり、居っても立ってもいられず、うろうろするばかりだった。 「絵蓮が盗作なんてありえないよ!あの制服、うちの高校のものだし、目が節穴なんじゃないの?」 「そうそう、この子は間違いなく絵蓮本人だよ。私たちが証言できるから!」 「盗作したのは間違いなく丹羽梓だよね。よくもそんな顔できるよね」 絵蓮はまだ冷静さを保ちながら、急いで家に戻り、証拠となる原画を探そうとした。 道すがら、頭の中は混乱し、制作時の記憶が蘇った。 あの年、彼女は18歳で、衡稀はもう学校へ迎えに来てくれなかった。 彼女は学年トップのテスト用紙を持ち帰り、すぐに書斎に駆け込み、彼に見せて喜ばせようとした。 部屋は静まり返っていて、衡稀は机に伏せて眠っていた。 彼女はそっと彼のそばに歩み寄り、夕日の残光が彼の眉と目元を照らし、その輝きの中で彼は神聖な存在のように見えた。 絵蓮はその神聖な彼を現実に引き戻そうとして、試験用紙を彼の顔にかぶせ、そっとキスをした。 衡稀は驚いて目を覚まし、彼女を叱った。 だが彼女は叱責など気に留めず、その場面をすぐ絵に描き、大切に保管していた。 今では彼への未練を断ち切り、急な資金が必要だったため、その絵を展示作品に加えていた。 しかし、まさかそれが彼女にとって汚点になるとは思わなかった。 家に帰り、思いつく限りの場所を探したが、原画の影すら見つからなかった。 その時、慌ててまだ探していない場所を必死に思い返した。 スマホが鳴り、友人から盗作疑惑のニュース記事へのリンクが送られてきて、急いで確認するように促された。 そっとタップすると、画面に梓の顔が映し出された。 背景には「記者会見」の文字があり、彼女の心は一気に沈んだ。 ライブ映像の中、梓は厳しい表情で盗作問題について説明し、制作過程を詳細に語った。 続いて原画を取り出し、多くの記者やカメラに見せた。 「私は盗作疑惑の新人画家・森清絵蓮の親しい友人です。彼女はまだ若く、悪意はなかったと思います。ただ一時的に道を誤っただけで、責めるつもりはありません」 この会見が開かれるや否や、ネット上の世論は一気に一方的になった。 大量のネットユーザーが絵蓮のアカウントに殺到し、誹謗中傷のコメントはすぐに十万件を超えた。 同時に、別のトレンドも徐々に上昇した。 「#丹羽家令嬢と京極グループ社長の甘いキス、結婚間近か?」 そのタグの下で、動画が自動再生された。 衡稀はスポーツカーを運転して記者会見に現れ、梓は笑顔で彼に駆け寄り、抱きしめられた。 恋人同士は後部座席に乗り込み、車窓が上がる前にカメラは二人の熱いキスを捉えた。 二人の交際はずっと前から明るみに出ており、多くのファンがその動画の下に狂ったようにコメントを書き込んでいた。 【すごく甘い!とろけちゃう〜】 【なんで車窓が上がるの?もっと見たいのよ】 【京極社長は森清絵蓮のおじさんで、今彼女と梓さんが盗作騒動に巻き込まれてるけど、京極社長が真っ先に梓さんを擁護してるんだから、やっぱ盗作したのは絵蓮って確定だよね?】 絵蓮は茫然とページを閉じ、増え続けるコメント通知を見てみると、みんなが自分を罵っていた。 【どうせ小さい頃からまともに勉強なんてしてこなかったんだろ】 【モラルがない】 【画力が低い】 中には彼女の家族まで批判し、【育ちが悪い】、【両親がないからそうするだろう】などとまで書かれていた。 彼女の指はそのコメントで止まり、体が震え始めた。 ぱたぱた…… 涙が画面に落ち、文字をぼやかしたが、心の痛みは隠せなかった。 彼女は衡稀に電話をかけた。 第7話 最初の電話には出なかった。 二度目も同じだった。 彼女は何度もかけ続け、九回目にようやくつながった。 向こうの落ち着いた呼吸を聞きながら、彼女は高校時代、盗作の汚名を着せられて孤立無援だった時期に、何度も彼に電話をかけていたことを思い出した。 あのとき、彼はただ一言だけ言った。 「怖がるな、おじさんがいる」 だが今、彼女は震えながら尋ねた。 「あの絵の原画、おじさんが彼女に渡したの?」 衡稀は一瞬も迷わず素直に認めた。 「そうだ」 電話の向こうで長いため息が漏れ、声が震えた。 「なんでそんなことを?」 数秒の沈黙の後、衡稀が口を開いた。 「その絵は本来、世に出るべきものじゃなかった。ましてお前の名前がつくなんて、知らなかったのか?」 やはり彼はバレることを恐れていた。 そして、彼女が彼に分不相応な望みを抱くことを怖れていたのだ。 絵蓮は苦笑いし、血走った目を閉じた。 「でも盗作したのは私じゃない、梓よ。おじさんが原画を渡したせいで、もう私の盗作の汚名は晴れない。私のキャリアは全部台無しよ!」 「梓の過ちは一時のことだ。故意じゃない。お前が一度くらい彼女の代わりに罪をかぶってもいいだろう? 最初にお前に絵を習わせたのは、単に趣味を見つけて気を紛らわせるためだった。そんなに真剣に考えるな。俺は一生お前を養う。お前は残りの人生、生活に困らない」 そう言い残し、彼は電話を切った。 絵蓮はスマホを握りしめたまま動けず、鏡に映った自分を見つめた。 涙で腫れて疲れた顔を見て、彼女は戸惑った。 これが本当に自分なのだろうか? そして衡稀のこともわからなくなった。 彼女のために全世界でも敵に回せるあのおじさんは、もういないのかもしれない。 彼女はもはや何もかも分からなくなった。 個展がうまくいかなかったあと、絵蓮は衡稀にお金をすべて返す決意をいっそう固めた。 数人の友人が稼げるバイトを紹介してくれた。ゴルフ場のキャディや高級クラブのウェイトレスなど。 一刻も早くお金を集めたくて、彼女は稼げるなら何でもやった。 毎日早朝から夜遅くまで姿を見せなかった。 出国まで残り一週間。ようやく最後の数千万円を工面した。 彼女はウェイトレスの制服に着替え、個室のドアを開けて最後の仕事を全うした。 しかし、最終日なのに知り合いに出会った。 男も女も大勢集まり、何かゲームをしているようだった。 最初のラウンドで衡稀が負けた。 ゲームの司会者が彼の罰ゲームを大声で読み上げた。 「好きな異性と3分間キスすること!」 場内は一気に沸き、顔が真っ赤になった梓に一斉に視線が注がれた。 しかし衡稀は立ち上がり、その場を離れて外へ出た。 一歩一歩、絵蓮の前まで歩み寄ってきた。 個室の全員が驚き、誰も状況を理解できなかった。 やがて衡稀は懐からスマホを取り出し、彼女に差し出した。 「これを持って、全部録画しろ」 絵蓮は何かを察し、胸が少し震えた。 しかし今の彼女は、昔ほどの痛みを感じなかった。 たぶん、本当に諦めたのだろう。 だからもう、誰にも傷つけられないのだ。 彼女は平静な顔でスマホを受け取り、カメラを起動して録画ボタンを押した。 彼のスマホはカメラ性能が高くて、暗い照明でも画面の中の様子ははっきり見えた。 衡稀は席に戻り、梓を抱き寄せ、身をかがめてキスをした。 画面の上部には時間が表示されている。 3分間、180秒、1秒の狂いもなく。 だが動画はそこで終わらなかった。 キスが終わると、衡稀は片膝をつき、ポケットから指輪を取り出し、優しい声で言った。 「梓、俺と結婚してくれるか?」 彼は梓にプロポーズした。 梓の返事は絵蓮には聞き取れなかった。 画面の二人は群衆に隠れ、周囲からは驚きの叫び声や歓声が鳴り響いていた。 彼女は手を下し、録画を止めた。 ちょうどその時、マネージャーがやって来て、隣の個室に新しい客が来たので手伝いに行ってくれと頼んだ。 彼女はスマホを隣の同僚に渡し、そのまま個室を出た。 一度も立ち止まることなく。 第8話 すべての仕事を終え、絵蓮は疲れ切った体を引きずって帰宅した。 衡稀はすでに家にいて、リビングのソファに腰掛けていた。 彼女の帰宅を見て、声をかける。 「止まれ! どうしてあんなところで働くんだ?お前に金を渡してるんだろう?」 絵蓮は玄関で靴を履き替えながら、淡々と答えた。 「家にいても退屈だったし、何か人生の経験を増やしたくて」 衡稀の怒りは少し和らいだが、声は冷たかった。 「今後はあんなところには行くな」 絵蓮は本当にもう行くつもりはなかった。 「うん」と短く返事をし、うつむきながら階段を上がった。 それから数日、衡稀はほとんど家に帰ってこなかった。 代わりに梓から毎日大量の写真が送られてきた。 指輪やウェディングドレス、結婚式場やブーケの写真、幸せと喜びがあふれていた。 絵蓮は返信せず、荷造りに追われていた。 出国まであと三日、朝。 階段の踊り場で、ちょうど外出しようとしていた衡稀に声をかけた。 「おじさん、三日後の私の誕生日、たった一時間だけでいいから一緒にいてくれない?」 彼に長い年月育てられてきた。 絵蓮はきちんと別れを告げたかった。 だが衡稀の目には、その言葉が挑発しかなかった。 なぜなら、ここ数年、彼女の誕生日が来るたびに、彼女は何度も無理な告白を繰り返していたからだ。 彼は考えずに断った。 「何度も言っただろう、あんなことを言うなって!」 怒りの表情に、絵蓮は慌てて説明した。 「今回はおじさんを怒らせないし、昔みたいに告白もしない。ただ……」 きちんと別れたいだけだ。 二人の間に距離があった。 彼女の最後の言葉はかすかで、衡稀は聞き取れなかった。 普通の言葉だとわかると、彼はようやく安心し、うなずいた。 誕生日当日、絵蓮は朝から晩まで待ったが、衡稀は現れなかった。 出発の時間が迫り、彼女は電話をかけた。 十秒鳴った後、梓の声が耳に届いた。 「もしもし?衡稀はシャワー中で電話に出られない」 その口調には含みがあり、絵蓮の心臓が一瞬止まった。 時計を見て、彼女は固い決意で言った。 「あとどのくらいで終わる?出てくるまで待てる」 電話の向こうから嘲笑が漏れた。 「絵蓮、そんなことして何になるの?今彼はシャワーを浴びてるわ。正直に言うけど、今私たちはホテルにいるの。大人ならシャワーの後に何をするかわかるでしょ?見学したいの? 彼はあなたのおじさんよ。好きならいいけど、彼はもうすぐ結婚するってのにまだ出て行かないで、毎日まとわりつくなんて、恥知らずにも程があるわ……」 その侮辱の言葉が針のように絵蓮の胸を刺した。 彼女は唇を噛みしめ、涙をこらえた。 感情を吐き出すと、梓は電話を切った。 画面に「通話終了」と表示され、絵蓮は力なくスマホを置いた。 どれだけ時間が経ったかわからなかった。 ようやく箱から蠟燭を取り出した。 ケーキのクリームは暖房で少し溶けていた。 「21」の蠟燭は曲がって刺さっている。 蠟燭に火を灯し、彼女は身をかがめて吹き消した。 心の中で願った。 絵蓮の21歳の誕生日の願いは、もはや「おじさんとずっと一緒にいる」ではなく、「彼が長生きし、無事でいる、そしてこれからの人生で自分が彼のそばにいない」だった。 願いを言い終えると、彼女は蠟燭を吹き消した。 最後に、自分の存在の痕跡をすべて片付け、十数年住んだこの家には三つだけ残した。 一つは二十億の入った銀行カード。彼への育ての恩返しとして。 もう一つは新婚の贈り物。彼と愛する人の末永い幸せを祈って。 そして一つは最後の別れの言葉だった。 【おじさん、私は諦めた。幸せになってね】 書き終えると、彼女はスーツケースを持ち、最後にこの家を一瞥した。 振り返らず、背を向けて去っていった。