さよならの後に降る雨

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さよならの後に降る雨

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ガスコンロが爆発した。 深津志保(ふかつ しほ)は深い傷を負い、命の灯が今にも消えそうだった。 その時、そばにいてくれたのは、まだ五歳の...

Chương (1)

第1章

ガスコンロが爆発した。 深津志保(ふかつ しほ)は深い傷を負い、命の灯が今にも消えそうだった。 その時、そばにいてくれたのは、まだ五歳の息子――深津陽向(ふかつ ひなた)だけだった。 魂となった志保は、泣きじゃくる陽向の傍らでただ立ち尽くしていた。 陽向は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、深津翔太(ふかつ しょうた)に必死に電話をかけていた。 「パパ、ママがいっぱい血を流してるよ、もう死んじゃいそうだよ。ママを助けて……」 けれども翔太は、「ママの嘘ばかり真似するな」と冷たく言い放ち、電話を切ってしまう。 陽向は必死に涙をぬぐい、どうにか救急車を呼び寄せたが、その救急車さえも翔太に奪われてしまう。 「パパ、お願い、ママの救急車を奪わないで!ママは本当にもうダメなんだ!」 「嘘つきめ、ママに変なことばかり教えられて。どけ、由紀(ゆき)はもうすぐ子どもが生まれるんだ。ママより由紀のほうが救急車が必要だ!」 翔太は、目を真っ赤にした陽向を突き飛ばし、振り返りもせず、由紀を抱えて救急車に乗り込む。 「パパ……パパ!ママを助けてよ!」 陽向は泣き叫びながら救急車を追いかけたが、背後から大型トラックが猛スピードで近づいていることに気づかなかった。 志保は必死で陽向の名前を叫び、どうにかして彼を守ろうとした。 けれど何もできず、ただその光景を見ていることしかできなかった。 陽向がトラックの車輪に巻き込まれていく、その瞬間―― 視界が真っ赤に染まった。 志保は、何もかもが壊れていく音を聞いた気がした。 ――これまで何度も、翔太は由紀とその娘のために、自分と陽向を置き去りにしてきた。 志保が抗議するたび、「由紀の父親には命を救われた恩がある」と、翔太は決まってそう言い訳をした。 ただの優柔不断な人だと、志保は自分に言い聞かせてきた。 まさか、ふたりの命をも、あっさり切り捨てる人だったなんて。 ――私が、陽向を不幸にしてしまったんだ。 胸を引き裂かれるような痛みの中、志保の命は静かに尽きていった。 もし来世があるのなら、もう二度と翔太とは関わりたくない―― 第1話 ガスコンロが爆発した。 深津志保(ふかつ しほ)は深い傷を負い、命の灯が今にも消えそうだった。 その時、そばにいてくれたのは、まだ五歳の息子――深津陽向(ふかつ ひなた)だけだった。 魂となった志保は、泣きじゃくる陽向の傍らでただ立ち尽くしていた。 陽向は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、深津翔太(ふかつ しょうた)に必死に電話をかけていた。 「パパ、ママがいっぱい血を流してるよ、もう死んじゃいそうだよ。ママを助けて……」 けれども翔太は、「ママの嘘ばかり真似するな」と冷たく言い放ち、電話を切ってしまう。 陽向は必死に涙をぬぐい、どうにか救急車を呼び寄せたが、その救急車さえも翔太に奪われてしまう。 「パパ、お願い、ママの救急車を奪わないで!ママは本当にもうダメなんだ!」 「嘘つきめ、ママに変なことばかり教えられて。どけ、由紀(ゆき)はもうすぐ子どもが生まれるんだ。ママより由紀のほうが救急車が必要だ!」 翔太は、目を真っ赤にした陽向を突き飛ばし、振り返りもせず、由紀を抱えて救急車に乗り込む。 「パパ……パパ!ママを助けてよ!」 陽向は泣き叫びながら救急車を追いかけたが、背後から大型トラックが猛スピードで近づいていることに気づかなかった。 志保は必死で陽向の名前を叫び、どうにかして彼を守ろうとした。 けれど何もできず、ただその光景を見ていることしかできなかった。 陽向がトラックの車輪に巻き込まれていく、その瞬間―― 視界が真っ赤に染まった。 志保は、何もかもが壊れていく音を聞いた気がした。 ――これまで何度も、翔太は由紀とその娘のために、自分と陽向を置き去りにしてきた。 志保が抗議するたび、「由紀の父親には命を救われた恩がある」と、翔太は決まってそう言い訳をした。 ただの優柔不断な人だと、志保は自分に言い聞かせてきた。 まさか、ふたりの命をも、あっさり切り捨てる人だったなんて。 ――私が、陽向を不幸にしてしまったんだ。 胸を引き裂かれるような痛みの中、志保の命は静かに尽きていった。 もし来世があるのなら、もう二度と翔太とは関わりたくない―― …… 涙で目を腫らしたまま、志保は陽向を寝かしつけてからソファに座り込み、そのとき初めて、自分が生き返ったのだと気づいた。 消えない痛みが身体の奥を這いまわり、指先まで震えが止まらない。 志保はスマートフォンを手に取る。 SNSを開けば、由紀が頻繁に投稿を重ねていた。 最新の投稿は、少しふくらんだお腹を撫でながら、男の手を握って微笑む由紀の写真だった。そこには、こんな言葉が添えられていた。 【二十八歳の誕生日にプロポーズされました。私と子どもに家族をくれるって(照)】 写真の男の右手薬指に、小さな黒子がある。 それを見て、志保は凍りついた。 ――翔太だった。 こんな光景、前にも一度見たはずなのに。 もう一度、現実として突きつけられると、胸の奥がずきんと痛む。 翔太が由紀にプロポーズをしたその時、志保という妻、そして陽向のことを一度でも思い出しただろうか。 でも―― 彼は、志保と陽向親子の命すら大事に思わなかった人だ。何を期待したって無駄だ。 馬鹿なのは、自分が「恩返しのため」という嘘を信じ、息子と一緒に死んだことだ―― 志保は、前世で自分と陽向が死んだときの光景を思い出し、涙が枯れるほど泣いた。 翔太が帰ってきたら、このバカげた結婚生活にはっきり終止符を打とう――それだけを心から願っていた。 そうして、夜が明けるまでじっと待ち続けた。 …… 午前三時。 ようやく帰ってきた翔太は、志保の腫れた目を見て、うんざりしたようにワイシャツの口紅を拭った。 「口紅は由紀がうっかりつけたんだよ。結婚指輪も、ただ一時的に外しただけだ。いちいち気にするな」 ここ何年も、翔太は由紀と腕を組んで歩いたり、ホテルの同じ部屋から出てきたりした。 そのたびに、「気にしすぎだ」と言うのが決まり文句だった。 その言葉に、志保は思わず生理的な嫌悪感がこみ上げる。 志保は、涙にくぐもった声で翔太に問いかけた。 「いつも『気にするな』って言うけど……じゃあ、もし私が智也(ともや)の家に行って、夜中の三時に帰ってきたら、あなたはどう思うの?」 翔太は、志保が由紀に嫉妬することに、もううんざりしていた。 「志保、お前、もういい加減にしてくれよ。あいつはお前に気があるんだぞ。俺は由紀に恩があるだけで、それとは全然違うだろ?」 ――何が違うっていうの。 言いかけた言葉を飲み込み、志保はふっと苦笑した。 「もういい……私、決めたの。翔太、あなたと離婚する」 第2話 三日前、翔太が由紀の妊婦健診に付き添う動画が、ネットで大きな話題になった。 【今話題の由紀って、実は略奪愛だったらしいよ】 【不倫でしょ、最低】 そんな声がネットを駆けめぐり、由紀へのバッシングは止まらなかった。 由紀は追い詰められ、自殺未遂まで起こしてしまった。 ネットの中傷を目の当たりにし、翔太は胸を締めつけられる思いだった。 「せめて誤解だけでも解きたい」――そんな想いで、志保に「形だけの離婚」を持ちかけた。 志保はあまりの理不尽さに呆れ、ずっと首を縦に振らなかった。 でも、もう彼のことは必要ないと決めた。 翔太は、志保の態度を「器が小さい」と内心で決めつけ、不機嫌な様子を隠そうともしなかった。 だが、彼女が「離婚する」と言った瞬間、その顔にぱっと明るい色がさし、さっきまでの苛立ちはどこへやら、まるで子どものように上機嫌になった。 「やっと決心したのか。じゃあ今すぐ離婚届を取ってくる!」 「待って。離婚はいいけど、条件は変えて。私は財産分与なしのまま家を出るつもりはない。夫婦の財産は半分ずつよ」 「ただの形だけの離婚なのに、そんなに本気にならなくてもいいだろ?」 翔太は交際初期の志保を思い出していた。あの頃の彼女はいつも優しく、おおらかだった。 一体いつから、こんなに細かくなったんだろう…… 志保は彼の冷たい視線に傷つき、かすれ声で言う。 「嫌なの? じゃあもういい」 それを聞いた翔太は焦ったように食い下がる。 「駄目だ、ちゃんと分かったよ!全部お前の言う通りにするから、もうこれでいいだろ?」 彼は志保が心変わりしないか心配で、午前六時にまで及んで弁護士を呼びつけ、離婚協議書を書き直させた。 翔太も「形だけの離婚」が志保に申し訳ないとは思っている。 でも由紀の父親は、かつて自分の命の恩人だった。 由紀が世間の非難に晒されないようにするためには、どうしても志保に犠牲になってもらうしかないのだ。 新しい離婚協議書がようやくプリントされると、翔太はそれをペンと一緒に志保に手渡した。 「さあ、早くサインして!」 翔太が急かす声を聞きながら、志保は二人がまだ愛し合っていた頃のことを思い出す。 悲しみと共に、呟くように言った。 「翔太、あなたは他の女のために、こんなにも私を追い詰めて。私が本当にあなたの前からいなくなっても平気なの?」 翔太は意に介さず答える。 「これは、ただの形式的な離婚だから。俺は由紀と籍を入れて結婚式を挙げるけど、世間が落ち着いたら、またすぐお前とやり直せばいい。二人の仲には何の影響もないんだ」 仲? その言葉を聞いた瞬間、志保はただ笑うしかなかった。 彼への想いなど、前世で息子が死んだ時にすべて消えてしまった。 志保が離婚協議書にサインを終えると、翔太はそれを待ちきれない様子で、すぐに手から奪い取った。 「これで取り消しはなしだ。財産分与の手続きが終わったら、一緒に離婚届を出しに行くぞ!」 「……分かった」 翔太の嬉しそうな様子を見て、志保は過去に彼を全身全霊で愛していた自分を思い出し、哀れな気持ちになった。 翔太はそんな志保の変化にも気付かず、離婚協議書の写真を撮ると、浮かれた様子で由紀にメッセージを送る。 部屋を出る前、志保が彼を呼び止めた。 「翔太、陽向が今日高い熱を出していたの、知ってる?」 「うん、薬は飲ませたよ。寝たのを見計らって出かけたんだ、また騒がれても困るからな。 お前も由紀から子育てを学んだ方がいい。心美(ここみ)なんて、陽向よりずっと手がかからない子だぞ」 熱で苦しむ五歳の子どもを、家に一人残しておいて、その上でよくそんなことが言えるものだ―― そう思いながら、志保は口をつぐんだ。 胸に溜まっていたはずの非難の言葉も、もう何も出てこなかった。ただひたすら、深い失望感だけが残る。 愛していた頃は、彼のどんな行動も美化していた。 でも、愛が冷めてしまえば―― もう、彼のことは軽蔑しか感じなかった。 ―― 翌朝、役所が開く前から翔太に引っ張られ、志保は手続きの列に並ばされる。 昔、二人で結婚届を出そうとした時、翔太は由紀のさまざまな「都合」で十回も約束を破っていた。 それなのに、離婚申請になると、誰よりも張り切っている。 志保は自分の気持ちがどうなのか、もはや分からない。 署名しようとした瞬間、涙がこぼれそうになり、思わず手が震えた。 署名が終わると、翔太は心底嬉しそうな顔をした。 「自分でタクシーで帰れよ。俺は由紀と一ヵ月後の結婚式について相談しないといけないんだ!」 そう言い捨てて、翔太は振り返りもせずに去っていった。 志保は少し離れた場所から、翔太の乗った車が走り去るのを見届ける。 どうしようもない虚しさに、自然と苦笑いが浮かぶ。 付き合い始めの二年間、翔太はとても優しかった。 どんな望みも叶えてくれた。 でも、由紀が現れてからは、志保と陽向は常に後回しにされるようになった。 一度、志保は離婚を切り出したことがある。 その時翔太はこう言った―― 「俺が由紀に優しくするのは、彼女の父親が俺を助けてくれたからだ。でも、志保、お前に優しくするのは、本当にお前を愛してるからなんだ」 志保は優柔不断な性格で、毎回翔太に傷つけられ、「もう離れよう」と決意したのに、引き止められると言葉にできず、そのまま戻ってしまっていた。 そうして三人の関係は抜け出せないまま続き、最後には志保と息子が哀れな死を迎えたのだった―― でも、やり直せるチャンスを得た今度こそ、絶対に同じ過ちは繰り返さない。 志保は結婚指輪を外し、静かに質屋へ持っていった。 この結婚指輪は、翔太が自分でデザインし、手間ひまかけて作ってくれた思い出の品だった。かつては「この指輪にすべての愛を込めた」と言っていた。 でも今となっては、彼が膝をついてプロポーズしてくれたあの光景も、ただただ滑稽に思える。 買い取りが済むと、志保は家に戻り、自分と陽向の荷物をまとめはじめた。 まずはホテル暮らしに移り、離婚届が正式に受理されたら、この街を出て二度と戻らないつもりだ。 だが、まだ荷物をまとめ終わらないうちに、陽向が泣きながら駆け寄ってきた。 「ママ、先生から電話があったの。パパが江口(えぐち)先生のレッスンを、心美ちゃんにあげちゃったって……どうしよう?」 第3話 パリーン―― 志保の手から、トロフィーが床に落ちて粉々になった。 陽向はまだ五歳なのに、ピアノが大好きだった。とくに江口隼人(えぐち はやと)の演奏に胸をときめかせていた。 江口は気難しいことで有名で、めったに生徒を取らない。 志保は彼の奥さんに近づくため、手作りのお菓子を贈ったり、一緒に買い物に付き合ったり、美容院にも付き合ったり…… この二年間、あらゆる努力を重ねてきた。 やっとの思いで江口に心を開かせ、生徒の枠を一つもらうことができたのだ。 前世、志保がなかなか離婚に応じなかったせいで、由紀は長いこと「不倫相手」と責められ続けた。 結局、翔太は陽向のために取っておいた生徒枠を、由紀の娘――心美に譲ってしまった。「由紀への償い」と言って。 でも、この人生では迷わず離婚に応じたはずなのに―― どうして、また同じことを繰り返されるのだろう? 志保の胸は、鉛のように重たく沈んだ。 彼女はしゃがみ込んで、陽向の涙をそっと拭ってやると、スマホを手に取り、翔太に電話をかけた。 ……しかし、何度かけても出ない。 その間に、由紀のSNSが更新される。 【うちの可愛い心美が、江口先生の唯一の生徒になりました!】 【心美の才能と努力が、ついに認められた瞬間――本当に嬉しい!】 そこには、心美と江口が一緒に写った写真が添えられている。 コメント欄は賞賛の声で埋め尽くされていた。 【心美ちゃん、ほんとすごい!ママに似て美人で優秀!】 【江口先生が生徒を取るなんて、この子よっぽど天才なんでしょうね】 【羨ましい……由紀さんだからこそ、こんなに素敵な娘さんが生まれるのでしょうね!】 写真の中の心美が笑っている分だけ、陽向は涙で目を腫らしていた。 志保は胸に苦しさを抱えたまま、陽向の手を取って歩き出す。 ……そして、江口家の前まで来たところで、翔太に行く手を阻まれた。 翔太は眉間にしわを寄せて、二人を睨みつける。 「やっぱり来たな。どうせまた騒ぎを起こす気だろ?」 陽向は必死で首を振る。 「ぼく、騒いだりなんかしてない。これは、もともとぼくのだったんだよ」 翔太は膝をつき、陽向の頭を軽く撫でた。 「でもな、心美も江口先生が大好きなんだ。だから、今度は彼女に譲ってあげられないか?」 「いやだ、ぼくも江口先生が大好きなんだ!」 陽向が必死に訴えた瞬間、翔太の顔色が一変する。 彼は立ち上がり、上から見下ろして言った。 「いい加減にしろ。お前はお兄さんだろ?心美は年下なんだから、譲るのが当然だ。たかがレッスン枠一つで争うなんて、お前は母親に何を教わったんだ?」 陽向には、なぜパパが自分の大事なものを取り上げておいて、なおかつ叱るのかが分からない。 その場に立ち尽くし、涙がぽろぽろとこぼれる。 そんな陽向を見て、志保は胸が張り裂けそうだった。 前の人生では、強く抗議しても、レッスン枠は取り戻せなかった。 だから今回は、どんなに怒りが込み上げても、冷静に気持ちを抑えることにした。 「翔太、私、この二年間、本当に必死で陽向のために頑張ってきた。このレッスンだけは、どうか陽向に返してあげて。お願いだから」 こんなふうに彼に頭を下げるのは、初めてだった。 翔太は一瞬ためらったものの、「もう心美に約束しちゃったからな」と言って顔を曇らせる。 「でも、ただ譲るんじゃない。陽向には大好きなレゴを用意してあるから、それで我慢してくれ」 ――その瞬間、志保はようやく気づいた。 どれだけ努力しても、結局この人は、何度だって私たち親子から大切なものを奪い取って、あの親子に与えるのだと。 心の底から絶望したとき、人はもう何も言えなくなるものだ。 志保は翔太を避けるようにして、江口家のドアに向かった。 この家の奥さんとは親しくしてきたのだ。自分の口から事情を話せば、まだ陽向にチャンスがあるかもしれない――そう思って。 だが、玄関にたどり着く前に、翔太に無理やり抱きかかえられて、車に押し込まれてしまう。 「翔太、お願い、放して……こんなことしないで!」 志保は崩れ落ちるように泣き叫んだ。 「殴るなり怒るなり、好きにしていい。何か埋め合わせもできる。でも、今日は心美の大事な日なんだ。お前には絶対、邪魔はさせない」 翔太も、志保と陽向には悪いと思っていた。 けれど、心美にその枠を渡すしかなかった。 あの時、由紀の告白を受け入れずに志保と一緒になる道を選んだのだから、せめて別のかたちで恩返しをしなければと思っていた。二度と、由紀に涙は流させたくなかった。 志保がどれだけ抵抗しても、結局翔太には敵わなかった。 ようやく解放されたとき、お披露目の会はすっかり終わっていた。 車を降り、志保は江口家の奥さんを見つけ、必死に事情を説明する。 奥さんは申し訳なさそうに頭を下げる。 「ごめんなさい、志保さん。もうお披露目の会は終わってしまったし、今さら誰にも事情を説明できないわ。今はもう、みんな心美ちゃんがうちの生徒だって知ってるの。今から生徒を替えたら、さすがに誰の顔も立たないの」 それを聞いて、志保は全身から力が抜けた。 どれだけ悔しくても、もうどうしようもなかった。 奥さんも、もうこれ以上はどうにもできない―― それだけが伝わってきた。 奥さんは短く頭を下げて帰っていった。 すると、由紀が心美を連れて、落ち込む志保の前に現れた。 「志保さん、おかげさまで心美に素敵な先生がつきました。昔あなたがネットに私が不倫女ってデマを流した件、もう水に流すことにします」 その横で、翔太は優しい声で言う。 「ありがとう。志保も、もう少し由紀みたいに大らかになれれば、俺も嬉しいんだけど」 二人の言葉を聞きながら、志保の胸は怒りで焼けつきそうだった。 「でも翔太、あのデマは私じゃないから!」 第4話 「証拠を全部突きつけられても、まだ認めないなんて……本当にがっかりだよ。 陽向まで、嘘つきに育ててしまうなんて、全部お前のせいだ」 翔太は失望を隠そうともせず、心美を連れて部屋を出ていった。 玄関先で、由紀が静かに言うのが聞こえた。 「翔太、私はもう何も言わないから……だから奥さんのこと、そんなに責めないであげて。私のせいで、夫婦喧嘩してほしくない」 「由紀、お前は本当に優しいな。でもな、優しすぎるのも考えものだぞ。世の中には、優しい人ほど損をすることもあるんだ」 こんなふうに罪をなすりつけられるのは、志保にとって初めてじゃなかった。 翔太はいつも由紀の味方で、悪者にされるのはいつも自分だった。 志保が離婚を口にすると、翔太は決まってこう言った。 「お前も片親で育っただろう?陽向にも同じ思いをさせたいのか?そんなに自分勝手でいいのか?」 ――だから、志保はずっと我慢してきた。 けれど、前の人生で陽向を失ったあの日、激しく後悔した。 もっと早く、陽向を連れて家を出ていればよかった。 今度こそ、あとひと月で離婚手続きは終わる。 もう二度と翔太と関わることもない―― そう思うだけで、少しだけ心が軽くなった。 志保は抜け殻のような気持ちで、陽向と家へ戻った。 帰り道、陽向がぽつりとつぶやく。 「ママ、ぼく、もうピアノやらなくていいよ。江口先生もいらない。だから、泣かないで」 自分の目が真っ赤に腫れているのに、陽向は逆に志保を慰めようとした。 志保は、こみあげるものを必死でこらえて、そっと涙をぬぐった。 「ママは泣いてないよ」 「でも、ママの目が『かなしい』って言ってる」 その一言に、堪えきれず涙がこぼれた。 「ごめんね、陽向……全部、ママが悪いんだ」 自分が弱かったせいで、何も守れなかった。 陽向にまで、こんな思いをさせてしまった。 陽向は小さな手で、志保の背中をそっとたたく。 「大丈夫だよ。ママは、ぼくの一番大好きなママだから」 志保は陽向をぎゅっと抱きしめ、しばらくふたりで泣いた。 涙をぬぐいながら家に戻ると、もう翔太と由紀、心美が先に荷物を運び込んでいた。 由紀が勝ち誇ったような笑みで言う。 「志保さん、翔太はもうみんなの前で私にプロポーズしてくれたんですよ。だから一緒に住むのは当然ですよね?分かってくれますよね?」 その視線の先で、翔太が「余計なことは言うな」と言いたげに目配せをした。 志保はうつむき、淡々と答える。 「どうぞ、好きに住めばいいわ。もう私には関係ないから」 どうせもうすぐ離婚できる――それだけが心の支えだった。 けれど、由紀はその態度が気に入らないらしい。 「その言い方、私に怒ってるんですか?それとも八つ当たりですか?」 翔太がすかさず由紀の前に立ち、かばうように言う。 「志保、お前が『由紀を不倫女だ』なんて噂を広めなければ、俺だって彼女と形だけの結婚なんてしなくて済んだ。全部お前のせいだ。人のせいにするな」 志保はもう、争う気力もなかった。 「……そうね」 その返事に翔太は満足げにうなずく。 「分かればいい。由紀は妊婦なんだから、寝室を使わせてやれ。あの部屋は陽当たりがいいしな。 心美は陽向の子ども部屋が気に入ったらしい。しばらくは、お前たち親子は客間を使ってくれ」 昔から、彼女たちが欲しいと言えば、志保と陽向が譲るのが決まりだった。 以前はそのたびに悔しさと憤りを感じて、なんとか抵抗しようとした。 でも今は、心がどこか遠くに浮いてしまったようだった。 「……分かったわ」 本当はきちんと荷造りをしたかったのに、今はもう何もしたくない。 もし時間が早くて、陽向も熱を出していなければ、今すぐにでも家を出ていた。 翔太が何か言いかけていた。 けれど、志保はもう何も聞きたくなかった。陽向を抱きしめ、まっすぐ小さい部屋へ向かった。 「ママ、この部屋って、お客さんの部屋でしょ?どうしてぼくたちがここに住むの?」 「……これからは、私たちが『お客さん』になるのよ」 志保は陽向に冷えピタを貼り、早めに寝かせた。 しばらくして、翔太がノックしてくる。 「何か用?」 かつては翔太に会うのが楽しみだったのに、今は顔を見るだけで心がざわつく。 翔太は志保の態度に不満げだ。 「お前は俺の妻なんだから、理由もなく会いに来たっていいだろ?」 以前なら冗談交じりに言い返していただろう。 けれど今は、返す言葉も浮かばない。 沈黙する志保に、翔太は気まずさを隠すように言い訳を始めた。 「今回、陽向のレッスン枠を心美にあげてしまったのは俺が悪かった。でも、由紀の父親には命の恩があるんだ。彼女の頼みは断れなかった」 志保は静かに問いかける。 「恩返しのために、私と陽向を犠牲にしてもいいの?」 第5話 「たかが一つのレッスン枠ぐらいで、そこまで大騒ぎする必要あるか? この家の財産は全部息子のものになるんだぞ。欲しいものなんていくらでも手に入るのに。 まったく、お前たち親子は揃いも揃って心が狭いんだ」 翔太は自分がレッスン枠を取り上げたことを悪いと思い、レゴとネックレスを持って志保と陽向に謝ろうとしていた。 けれど、志保が何もかも由紀親子と張り合おうとするのが鬱陶しかった。 自分のすべても、この家も全部与えているのだから、たまには由紀親子に譲ってやることぐらい、できないものか――そう思っていた。 翔太はそれ以上口論する気になれず、冷たい顔のまま部屋を出ていった。 志保は翔太の後ろ姿を見つめながら、昔のように追いかけて謝ったりもしなかった。 ただ、眉間を押さえて扉を閉め、ベッドに横たわる。 けれど、頭の中がざわついて、なかなか眠れない。 ようやく朝方にうとうとし始めた頃、子どもの泣き声で目を覚ました。 「陽向!」 はっとして、素足のまま廊下へ駆け出す。 リビングでは、翔太が心美を抱き上げて、由紀とふたりで大事そうになだめている。 その前で、陽向は顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。頬には真っ赤な手形がついている。翔太は、まるで他人事のように、陽向の様子を無視していた。 志保の胸が締め付けられる。 彼女は陽向のそばにしゃがみ、涙をぬぐってやった。 「もう泣かないで。どうしたのか、ママに教えて?」 陽向が答える前に、由紀が怒ったように口を挟む。 「私が叩いたのよ!志保さん、あなたはいつも心が狭くて、私と翔太にいちいち嫉妬して、いろんな手で私たちを困らせてきました。私は大人だから我慢してきたけど―― でも、あなたの息子まで心美をいじめるなんて、どうかしてます」 志保は顔をこわばらせて言い返す。 「陽向が理由もなく人をいじめたりしない!あなたが叩いたなら、きちんと謝るべきよ!」 言い終わらぬうちに、翔太が冷たい声で割り込んだ。 「もういい加減にしろよ。息子が心美のおもちゃを取り上げて、押したから由紀が叩いたんだ。 お前が息子を甘やかしてるから、こんな子になったんだぞ。由紀は俺たちの代わりに教育してくれてるだけだ」 陽向は泣きながら首を振る。 「パパ、ぼくはおもちゃを取ってないよ。心美ちゃんがぼくのぬいぐるみを取ったんだ!」 翔太は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに言い聞かせるように続ける。 「お前はお兄ちゃんなんだから、譲ってやれよ」 陽向はしゃくりあげながら訴えた。 「でも、心美ちゃんはハサミでぼくのぬいぐるみを切っちゃったんだよ。あれはおばあちゃんが手縫いしてくれた大事なぬいぐるみなんだ!」 志保が慌てて足元を見ると、床にはぬいぐるみの綿や布きれが散らばっていた。 細かく切り刻まれていて、もう直すこともできない。 これで全ての事情が分かった。翔太も誤解に気付いて、謝ってくれると思った。 けれど、由紀が翔太の袖を引っ張って言う。 「心美はまだ五歳なんです。何も分かってません。ぬいぐるみを切れば遊べると思っただけです」 翔太は一瞬ためらったが、うなずいて陽向に言う。 「もういいだろ。お前は男の子なんだから、そんなことで怒るなよ」 その言葉に、志保は思わず涙がこぼれそうになった。 「翔太、どうしてそんなことが言えるの?このぬいぐるみは、私のお母さんが生前、陽向のために手縫いしてくれた大切なものなのよ!」 心美はわっと泣き出した。 「ママ、志保さんがこわい!」 翔太は心美の涙を拭きながら、志保を叱りつける。 「心美が泣いてるだろ。子どものやったことにそこまで目くじら立てるなよ。 もうこの話は終わりだ。まだ文句があるなら、お前たち親子はこの家を出て行ってくれ!」 そう言い放つと、翔太は心美を抱えて、由紀と一緒に部屋を出ていった。 志保は悔しさと苦しさで胸がいっぱいになった。 昔なら、翔太を追いかけて言い争いをしていただろう。 けれど、もう心はとっくに冷え切っていた。 志保は陽向をなだめ、床のぬいぐるみの残骸を拾い集めて直そうとした。 けれど、手は傷だらけになり、結局ぬいぐるみは元に戻らなかった。 その傷口を見つめながら、志保は亡き母が最期に言っていた言葉を思い出した。 「死ぬのは怖くない。でも、私がいなくなったら、誰があんたと陽向を守ってくれることとやら…… 翔太は情に厚いけど、何が本当に大事か分からない人だよ。 あの由紀さんは、計算高いし…… 翔太はいつもあの母娘の味方をするけど……あんたと陽向は、これからどうなるんだろうね」 あの頃の自分は信じていた。 「大丈夫だよ、お母さん。翔太が由紀に優しくするのは、恩返しのためだもん。 私たち親子を傷つけるようなことはしないよ」――そう、強く思い込んでいた。 全身全霊で翔太を信じ、愛していたあの自分が、今はただただ哀れだった。 志保はぬいぐるみの残骸をしまい、陽向を連れて近くのホテルへ向かった。 「もうこの家で、あんなふうにないがしろにされていたくなかった」 ホテルに着いて間もなく、翔太が追いかけてきた。 「さっき、由紀がお前たちを見かけたって言うから、まさかと思ったけど……本当にここにいたんだな。 どうして家にいないんだ?わざわざホテルなんかに来て」 陽向は、翔太の顔を見ても「パパ」とも言わず、志保の背中に隠れてしまった。 その怯えた様子を見て、志保は胸が締め付けられる。 「私たちが自分から出てきたの。もう、追い出されなくてもいいから」 第6話 「お前たちに出て行けと言ったのは、ただの怒りにまかせた言葉だったんだ。 あの家は、いつだってお前と陽向の家だよ」 ――違う、それは翔太の家だ。 私と陽向の家じゃない。 志保はもう、その話題を続けたくなかった。 「何か用なの?」 「うん。今朝のぬいぐるみのことは、俺が悪かった。お前たちに謝りたくて来たんだ。 でもあの人たちも苦労してるし、しかも俺の恩人の娘だ。厳しく言うわけにもいかないんだよ」 こんな言い訳、志保はもう何度も聞いた。 恩返しのために、私と陽向がずっと我慢しなきゃいけないの? でも、私たちは何も由紀親子に借りなんてないのに―― 志保が黙っていると、翔太はしゃがみ込んで、背中から新しいぬいぐるみを取り出し、陽向に差し出した。 「もう泣くな、陽向。パパが新しいぬいぐるみを買ってきたぞ。どう?」 陽向はまだ目が腫れていた。 「いらない。ぼく、おばあちゃんが作ってくれたぬいぐるみがいい」 翔太はうんざりした顔で、「どれもぬいぐるみだろ。何が違うんだよ」と言った。 その態度に、志保は堪えきれず口を開いた。 「翔太、息子に謝りに来たんじゃなかったの?」 翔太は立ち上がって言い返す。 「別に叱りたいわけじゃない。 でも男の子をこんなに甘やかして育てて――志保、お前も少し由紀から子育てを学んだほうがいい。 心美なんて、ぜんぜん手がかからないのに」 「陽向はまだ熱があるし、薬も飲ませたばかりよ。用事がないなら、もう帰って」 志保は堪えきれず、ドアを閉めようとした。 だが、翔太が手でドアを押さえて止めた。 少し咳払いして、バツが悪そうに言う。 「由紀が、お前の結婚式プランが本当に好きで、初めての結婚だし、すごく大事にしてるから、ぜひお願いしたいって」 その言葉に、志保は自分の耳を疑った。 ――どうして、こんな無神経なことを頼めるの? 志保は拳をぎゅっと握りしめる。 「翔太、自分がどれだけひどいことを言ってるかわかってる?」 翔太は一瞬、目をそらしたあと、必死に続ける。 「三倍……いや、十倍の報酬を出す。由紀に悪気はない。お前のプランが本当に気に入っただけなんだ」 「ごめんなさい。無理」 志保は二歩、後ろへ下がり、歯を食いしばって力いっぱいドアを閉めた。 翔太はしばらくノックを続けたが、志保はもう開けなかった。ただドアにもたれかかり、荒い息をつく。 ――翔太は、どれだけ自分がひどいことをしているかわかっているくせに、それでも志保を苦しめる。 彼は、志保がまだ自分を愛していると思っているからだ。 けれど、志保はもう彼を必要としていなかった。 これでようやくすべてが終わった――志保は、そう思っていた。 けれど、まさか翔太が、志保の勤めるウェディング会社を売ると脅してくるなんて、夢にも思わなかった。 担当者から電話がかかってきた。 「社長が言っています。もしあなたが由紀さんと彼の結婚式のプランナーを引き受けないなら、このウェディング会社は売却するそうです!」 この会社は、もともと志保の父が作ったものだった。 父が重い病に倒れ、母が付き添い、会社経営が難しくなって、やむなく売却した。 後になって、翔太が「志保を喜ばせたい」と言って、わざわざ買い戻してくれたのだった。 けれど今は、由紀と自分の結婚式を担当させるための「人質」に使われている―― 志保は、直接翔太に会って話そうとしたが、断られた。 【今日は由紀とウェディングフォトを撮りに行くんだ】 【翔太、どうしてもそこまでやるの? 私がこの会社をどれだけ大切にしてるか、知ってるはずなのに】 彼が離婚を言い出したときも、すぐに受け入れた。 婚姻届から家まで、彼が望むものは何もかも譲った。 どうして、何度も私を追い詰めるの? 翔太から電話がかかってきた。 声には、どこか諦めた響きがあった。 「志保、誰も君を困らせたいわけじゃない。ただ、仕事として式のプランをお願いしたいだけなんだ。由紀を『お客様』だと思えばいいじゃないか」 志保はかすかな声で答える。 「私にはできない」 「どうしてできない?お前が俺と由紀の関係を気にしているのは分かる。でも、彼女は俺の命の恩人の娘なんだ。無視はできない」 そのとき、電話口で由紀が甘えるように翔太を呼ぶ声がした。 「ほら、ウェディングフォトの時間だよ」 翔太は最後に一言だけ、脅すように言い残した。 「志保、お前がプランナーを引き受けないなら、この会社を売るしかない」 スマホ越しに、カメラマンの声が遠くで響く。 「新郎は新婦の腰に手を回して、もっと情熱的にキスしてくださーい!」 「そう、それでOK!」 志保は震える手でスマホを握りしめ、ただ虚ろに天井を見つめていた。 もう十分、翔太には失望したはずなのに。 どうしてこの人は、私を何度も何度も絶望させるのだろう。 夜になって、由紀からメッセージが届いた。 まず、何枚もの写真。 【あなたとあの子の荷物、邪魔だから全部捨てちゃった。翔太も同意してくれたの(笑)】 【そういえば、レッスン枠もわざとなの。心美はピアノなんて嫌いなのに】 【あのぬいぐるみも、私が心美に切らせた。死人の持ち物なんて縁起悪いから!】 【怒ってる?そのうちあの子と一緒にショック死しちゃったりしないでね……そうなったら、遊ぶ相手がいなくなっちゃう】 【翔太は今夜、私の横にいるよ。まさか、彼が恩返しのために、私に優しくしてると思ってないね?】 【もう赤ちゃんができてるのに、毎日あんなふうにきつくされて、ほんと参っちゃう】 さらに、もう一枚の写真。 ――そこには、上半身裸の翔太がベッドの端でベルトを外そうとしている姿が写っていた。 大人なら、次に何が起こるかなんて、説明する必要もなかった。 第7話 由紀からメッセージが届くたびに、志保の心はどんどん冷え込んでいった。 送られてきたメッセージは、すぐに削除され、スクリーンショットを撮る間もない。 けれど、今回は画面録画でしっかり保存しておいた。 志保はその動画を端末に残し、胸の中に渦巻く負の感情を押し殺して、陽向と一緒に静かに食事をした。 結局、志保は結婚式のプランナーを引き受けなかった。 そして翔太は本当にウェディング会社を売却した。 その後、翔太からメッセージが届く。 【お前を困らせたかったわけじゃない。 ただ、由紀がお前のせいで泣いたから、何かけじめが必要だった。怒らないでくれ。 由紀の機嫌が直ったら、また会社は買い戻すつもりだから】 その言葉に、志保は皮肉な笑みを浮かべるしかなかった。 翔太も自分が間違っていることはわかっている。それでも、いつも志保にだけ我慢を強いる。 以前は、翔太を由紀と自分の間で悩ませたくなくて、できるだけ彼の気持ちを思いやってきた。 けれど――彼は一度たりとも、志保を本当に思いやったことはなかった。 その夜、志保は翔太の異母弟・仁(じん)に会うことにした。 「翔太の持ち株、安く譲ってもいいわ。ただし、取引は25日後にして」 仁はいたずらっぽい笑みを浮かべて答える。 「兄貴は俺のこと大嫌いだけど……そんなことして本当に恨まれてもいいのか?」 「関係ないわ。あなたがいらないなら、他の人に売るだけよ」 「待って待って、お義姉さん、その話、俺がもらうよ」 取引の話を終えた仁は、鼻歌まじりにその場を去った。 帰り道、仁は偶然、翔太と出くわす。 ふたりは血のつながった兄弟だが、顔を合わせれば喧嘩腰になるほど仲が悪い。 だが、今日は珍しく仁が先に声をかけた。 「兄貴、ちょっと気になることがあってさ。持ち株の半分はお義姉さんが持ってるんだろ? もし兄貴が愛人のためにお義姉さんを傷つけ続けたら、全部俺に売っちゃうかもよ?」 翔太は鼻で笑って、冷たく言い放つ。 「そんな夢みたいなこと、やめとけ。志保は絶対に俺を裏切らない」 志保がどれだけ傷ついているか、翔太にも分かっていた。 でも、少し優しくすればすぐに許してもらえる―― 志保が自分をどれだけ愛しているか、翔太は自信があった。 彼女が本気で自分を裏切ることなんて、あるはずがない――そう信じていた。 志保は、仁が何を言ったのか知らなかったし、知るつもりもなかった。 ここ数日、陽向はずっと浮かない顔をしていた。 ようやく熱が下がったので、志保は陽向を連れて星を見にキャンプへ出かけた。 もうすぐテントが張り終わるというとき―― 突然、陽向の泣き叫ぶ声が響いた。 志保が駆け寄ると、そこには由紀と心美がいた。 心美は陽向の望遠鏡も、ソーセージも、光るスニーカーも、光るジャケットも奪っていた。 由紀は口汚く罵りながら、なおも地面に倒れた陽向を蹴ろうとしている。 「由紀、いい加減にして!うちの子をこれ以上いじめたら許さないから!」 志保は陽向をかばって立ちふさがり、由紀を睨みつける。 「なんでうちの子の物を勝手に取るの?なんで暴力まで振るうのよ!」 由紀は勝ち誇ったように言い返す。 「この子の物なんて、私が目をつけてあげただけでも感謝すべきよ。 私が欲しいって言えば、翔太が全部私のために取り上げてくれるのよ」 その傲慢さに、志保はめまいを覚えるほどだった。 「いい加減にして!あなた、どこまでもひどいことをするつもりなの!?」 「好き放題するわ。あなたみたいな役立たず、どうせ何もできないでしょ?」 そう言うなり、由紀は志保を山の斜面へ突き飛ばし、自分はわざとらしく地面に座り込んで泣き叫びはじめた。 「翔太、大変!志保さんが私を妬んで、突き飛ばそうとしたの。 私が避けたから、志保さんが転がり落ちちゃった……どうしよう……!」 志保は転げ落ちて頭を打ち、しばらく動けなかった。 痛みを堪えながら見上げると、翔太が駆け寄ってきた。 けれど、彼が最初に発したのは非難の言葉だった。 「志保、お前はなんてひどい女なんだ! 前も由紀を『不倫女』だって言いふらしただろう?今度は彼女を突き落とそうとするなんて……どうかしてるよ!」 陽向が翔太の服を掴んで必死に訴える。 「違う!おばさんがぼくの物を奪って、ママを山から突き落としたんだ!ママは悪くない!」 その瞬間、由紀は心美を小突き、心美は泣き叫びながら志保と陽向を指さす。 「おじさん、助けて!ママとあたし、いじめられたの! あの人たちが、死んじゃえばいいって言った!」 心美の泣き声に、翔太の怒りはさらに膨れ上がる。 彼は陽向の襟首をつかんで怒鳴った。 「お前は母親に似て、嘘ばかりつく子に育ったな。 これからは俺が直接お前をしつける!」 「ぼく、嘘なんかついてないのに……うわぁぁん……」 陽向は大声で泣き出した。 翔太はそんな陽向に見向きもせず、そのまま陽向を車へ連れていこうとする。 「ママ!ママ助けて!パパと一緒に行きたくない!」 頭がくらくらし、吐き気と怒りで立ち上がるのもやっとの志保は、必死に陽向を呼びながら追いかける。 「陽向、大丈夫だからね!ママがいるから!翔太、息子を返して!」 けれど、志保が近づくより先に、車は走り去ってしまった。 第8話 志保が家に駆け戻ると、すでに玄関の暗証番号が変えられていて、中に入ることもできなかった。 警察に通報しても「家庭内の問題」とされ、警察官が間に入っても、ただの調停で終わるだけだった。 警官が帰った後、翔太は冷たい目で志保を見下ろす。 「お前なんかに子どもを預けるんじゃなかった! この間は由紀に子育てを任せてる。お前が結婚式のプランを仕上げるまで、子どもは返さない!」 「やめて、お願い、陽向を返して!翔太、こんなことしないで!」 志保は今にも崩れそうなほど追い詰められていた。 翔太も、志保の真っ赤な目や、額と体に刻まれた傷跡を見ると、胸が痛んだ。 けれど、由紀が「子どもはまだ小さいから、今ならやり直せる」と言ったことを思い出し、結局、志保を突き放して玄関の外に締め出してしまう。 志保は気が狂いそうになったが、どうすることもできなかった。 その後の一か月近く、由紀は毎日のように陽向の動画を志保に送りつけてきた。 動画の中で、心美は陽向を馬のようにまたがって遊び、翔太は陽向を叱りつけ、罰として立たせていた。 志保は1日2~3時間しか眠れず、心も体も限界に追い詰められていた。 その一方で、ネット上では毎日「翔太と由紀の仲睦まじいニュース」が流れ続けた。 #翔太・由紀、家族三人で仲良くお出かけ #翔太、由紀のために100億円!伝説のウエディング準備中 #翔太が海外の島を押さえて由紀とのハネムーンを計画 #翔太コメント『志保は家政婦であり、男の子は家政婦の息子』 由紀は結婚式のプランについて、何度も何度も無理難題を押し付けてきた。 志保がようやくすべてを修正し、子どもを迎えに行こうとしたそのとき―― ひとりの過激なファンがナイフで陽向の心臓を刺す事件が起きた。 現場の動画はネットで拡散された。 動画には、翔太が陽向のすぐ隣にいながら、最初に守ったのは由紀と心美だった――その光景が、克明に映し出されていた。 #危機一髪!翔太が由紀を救う、まさに本物の愛 という話題がSNSのトレンド一位になった。 志保は救急室の前でただひたすら待ち続け、陽向は生死の境をさまよっていた。 それでも翔太は、傍らで一方的に志保を責め続ける。 「お前が過激なファンを焚きつけて由紀を傷つけようとしたせいで、結局一番傷ついたのは俺たちの息子だって、考えたことはあるのか? 何度も言ってるだろう。俺が由紀に優しくするのは、ただ恩返しのためなんだ。どうしてそこまで彼女と敵対しなきゃいけないんだ?」 志保は「自分じゃない」と叫びたかった。 「なぜすぐそばにいながら、陽向を守ろうとしなかったの?」と問い詰めたかった。 でも、何も言えなかった。涙だけが止まらなかった。 前の人生でも今の人生でも、志保と息子はいつだって翔太に捨てられる側だった―― 由紀は芝居がかった口調で言う。 「もういいわ、翔太。私は大丈夫だし、もう気にしないから。 彼女が悪いことをしたんだから、みんなに責められても当然でしょ。 警察に突き出されなかっただけでも感謝すべきだわ。 もし陽向に何かあったら、志保さんはこの先ずっと悪夢の中で生きていくことになるのよ!」 翔太は、息子がいまだ生死の淵にいると思うと胸が押しつぶされそうだった。 このまま何も言わずにいたら、自分まで狂いそうだった。 志保は、ただ無言で救急室の前を見つめていた。 志保は、これまで神様なんて信じたことはなかった。 けれど今は、どんな神様でもいいから、どうか陽向を助けてほしいと、ただただ祈るしかなかった。 「陽向が無事なら、私の命を差し出してもいい――」 医師が手術室のドアを開けて告げた。 「ナイフがあとわずかでもずれていれば心臓に刺さっていましたが、命に別状はありません」 その瞬間、志保はその場にうずくまり、声をあげて泣いた。 由紀が翔太の腕を引く。 「翔太、三日後はいよいよ私たちの結婚式ね。あなたと志保さんの財産分与の手続きも終わるし、離婚届も出せるわ。 でも、今は彼女も相当落ち込んでるみたいだし、離婚はもう少し先延ばしにしてもいいんじゃない?私、『不倫女』って何度も言われても別に気にしないから」 由紀がそう言うまで、翔太はすっかり離婚のことを忘れていた。 「いや、今日中に離婚届を出す!」 もっとも、翔太が言い出さなくても、志保は一刻も早く縁を切りたかった。 志保は陽向が一般病棟に移るとすぐ、翔太と一緒に役所へ向かい、離婚届を提出した。 その足で、翔太は由紀と結婚届を提出した。 「三日後の結婚式、お前と陽向には絶対に近づかせない。警備も手配したからな!」 志保は、離婚届を握りしめたまま顔を上げずに答えた。 「……わかった」 翔太が何を言おうと、もう二度と彼に未練はなかった。 翔太は、志保の顔色があまりに青白いのを見て、さすがに良心が咎めたのか声をかける。 「家に戻って、少し反省したらいい。俺が愛してるのはお前だ。 この騒ぎが落ち着いたら由紀とは別れて、またお前とやり直すつもりだ」 「いや……」 志保が言い終わらないうちに、由紀が翔太を呼んだ。 「翔太、早く来て!今から『幸せな結婚届』の記念写真を撮るの!」 「今行く」 翔太は笑顔で由紀の元へ駆け寄っていった。 三日間、翔太はずっと由紀の結婚式準備に付きっきりで、陽向の病院には一度も顔を出さなかった。 結婚式当日、町中が二人の結婚の話題で持ちきりになった。 その日の朝、翔太から志保にメッセージが届く。 【陽向はもうよくなったか?今はちょっと時間が取れないけど、いずれ様子を見に行くからな】 志保は返事をせず、翔太と由紀の不倫の証拠をまとめて、報道機関に送信した。 そして、手持ちの深津グループの株式をすべて仁に譲渡し、弱りきった陽向を連れて新幹線に乗った。 ――翔太、これからはもう、私たちとあなたは何の関わりもない。