愛を尽くした、その果てに

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愛を尽くした、その果てに

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「みのり……ずっと愛しているよ」 深夜の寝室、佐原景斗はベッドの上で抑えきれない呻き声を漏らしていた。 絶頂に達しかけたその刹那―― ...

Chương (1)

第1章

「みのり……ずっと愛しているよ」 深夜の寝室、佐原景斗はベッドの上で抑えきれない呻き声を漏らしていた。 絶頂に達しかけたその刹那―― 枕元に置いたスマホが不意に振動し始めた。 普段の彼なら無視するはずだった。 だが、画面が灯り、表示された名前を見た瞬間、景斗の動きは止まった。 橘みのりは、荒い息を整えながら、その様子を黙って見つめていた。 「……もしもし?」 静まり返った夜気の中で、電話の向こうから男の声が響いた。 「景斗!詩織のこと、覚えてるか?!」 景斗は低く声を抑え、アラビア語で遮った。 「声を抑えろ、今は都合が悪い」 相手もすぐにアラビア語に切り替えたが、声は依然として大きいままだった。 「病院の診断が出た!詩織は末期がんだそうだ!余命一ヶ月だって!彼女は死ぬ前にお前と一緒にいたいと言っている。それが彼女の最後の願いなんだ!」 その瞬間、景斗の顔色が一変した。 「……何だと!?すぐ行く!」 電話を切ると、景斗は振り返りもせずに言った。 「みのり、急用ができた。家で待っててくれ。すぐ戻る」 彼女が答える間もなく、彼は身を起こし、シャワーを浴びて服を着替え、玄関のドアを閉めて去っていった。 部屋には再び静寂が落ちた。 振動音が響き、みのりのスマホ画面が明るく光った。 そこには沢木詩織からのメッセージが表示されていた。 【橘みのり、あなたの負けよ。言ったでしょ?景斗は私のものだって】 その上には、三日前に届いたメッセージがあった。 【もし私が癌になったら、彼はどうすると思う?あなたを捨てて、私のもとへ来るに違いないわ】 みのりはゆっくりとスマホを伏せ、開け放たれた寝室の扉を見つめた。 景斗は知らなかった。 彼女がとっくにアラビア語を習得し、さっきの通話内容をすべて理解していたことを。 静かな沈黙の中で、みのりはうっすらと苦笑を浮かべた。 「そうね……私の負けよ……」 そう呟く声は、夜の静寂の中に消えていった。 第1話 「みのり……ずっと愛しているよ」 深夜の寝室、佐原景斗(さはら けいと)はベッドの上で抑えきれない呻き声を漏らしていた。 絶頂に達しかけたその刹那―― 枕元に置いたスマホが不意に振動し始めた。 普段の彼なら無視するはずだった。 だが、画面が灯り、表示された名前を見た瞬間、景斗の動きは止まった。 橘みのり(たちばな みのり)は、荒い息を整えながら、その様子を黙って見つめていた。 「……もしもし?」 静まり返った夜気の中で、電話の向こうから男の声が響いた。 「景斗!詩織のこと、覚えてるか?!」 景斗は低く声を抑え、アラビア語で遮った。 「声を抑えろ、今は都合が悪い」 相手もすぐにアラビア語に切り替えたが、声は依然として大きいままだった。 「病院の診断が出た!詩織は末期がんだそうだ!余命一ヶ月だって!彼女は死ぬ前にお前と一緒にいたいと言っている。それが彼女の最後の願いなんだ!」 その瞬間、景斗の顔色が一変した。 「……何だと!?すぐ行く!」 電話を切ると、景斗は振り返りもせずに言った。 「みのり、急用ができた。家で待っててくれ。すぐ戻る」 彼女が答える間もなく、彼は身を起こし、シャワーを浴びて服を着替え、玄関のドアを閉めて去っていった。 部屋には再び静寂が落ちた。 振動音が響き、みのりのスマホ画面が明るく光った。 そこには沢木詩織(さわき しおり)からのメッセージが表示されていた。 【橘みのり、あなたの負けよ。言ったでしょ?景斗は私のものだって】 その上には、三日前に届いたメッセージがあった。 【もし私が癌になったら、彼はどうすると思う?あなたを捨てて、私のもとへ来るに違いないわ】 みのりはゆっくりとスマホを伏せ、開け放たれた寝室の扉を見つめた。 景斗は知らなかった。 彼女がとっくにアラビア語を習得し、さっきの通話内容をすべて理解していたことを。 静かな沈黙の中で、みのりはうっすらと苦笑を浮かべた。 「そうね……私の負けよ……」 その呟く声は、夜の静寂の中に消えていった。 彼と過ごした日々のひとつひとつが、囁きとともに脳裏に蘇る。 景斗は南城市随一の財閥、佐原家の御曹司にして、「天才」と謳われた青年だった。 一方の私、みのりは、山奥の桐ノ里育ちの田舎娘に過ぎなかった。 十七歳の夏、崖から転落した彼と出会った。 あれほど整った顔立ちの人を、私はそれまで見たことがなかった。 私は必死で彼を家まで背負い、懸命に看病した。 目を覚ましたとき、景斗は視力を失い、記憶すら失くしていた。 それから一年以上、彼は私の家で暮らした。 記憶を取り戻した彼は、ようやく私の助けで佐原家へ連絡を取ることができた。 その夜、景斗は私に告げた。 「一緒に南城市へ戻ってほしい。一生、君だけを愛している」 私は泣きながら頷き、迷いなく南城市へついて行った。 そして、後になって知った。 あの日、彼が崖から落ちたのは事故ではなかったことを。 当時、彼には詩織という恋人がいて、彼女と山道を散策していたとき、詩織を庇って転落したのだと。 だが、沢木詩織は何も語らず、そのまま海外へ去っていった。 南城市に戻った頃、景斗の視力はまだ回復してなかった。 佐原家は後継者の交代を検討し始めていた。 私は彼がその現実に耐えられるのか不安だったが、彼は私の手を握りしめ、微笑んで言ってくれた。 「俺にはみのりがいてくれれば、それで十分だ」 その言葉を信じて、私は大学で寝食を忘れて勉学に励み、人体実験に近い危険な治療法すら試した。 そして、ようやく――彼の目は光を取り戻した。 彼の視力が戻ったとき、「一生、君を裏切らない」と言って、私を抱きしめてくれた。 そして、彼は再び佐原家の後継者となった。 「佐原家の跡取りが、訛りの残る田舎娘なんかと一緒にいるはずがない」と陰で笑う人もいた。 それでも彼は私を宝物のように大切に扱い、誰かが私を侮辱すれば、その場で怒りをあらわにした。 佐原景斗の最愛の人は橘みのりであると、彼は態度で示し続けた。 周囲も次第に信じるようになり、私自身も信じて疑わなかった。 ――三ヶ月前、沢木詩織が戻ってくるまでは。 彼女は帰国後、私にLINE登録をして、彼との思い出話を毎日のように送ってきた。 でも、私は気にしなかった。 過去のことだし、今の景斗は私一筋だと信じていたから。 でも――彼は一本の電話で、何の躊躇もなく私を置いて、彼女の元へ行った。 詩織が「癌で余命わずか」と告げてきた電話一本で。 三日前、沢木詩織から届いたメッセージを景斗に見せたとき、「気にするな、あれは君の気を引きたいだけだ」と彼は笑っていた。 その言葉を信じていたのに……。 私は部屋の片隅で身体を丸め、息を殺していた。 どれくらい時間が経ったのだろう。 スマホが震え、見知らぬ番号から動画が送られてきた。 震える指で再生ボタンを押すと、聞き慣れた景斗の声が耳に刺さった。 「詩織……」 沢木詩織が彼の胸に飛び込み、顔を上げてキスを求めていた。 「景斗、私はもうすぐ死んじゃうの……お願い、突き放さないで……」 景斗は目を閉じ、そのキスを受け入れた。 画面は途切れ、残されたのは二人の荒い呼吸だけだった。 その声は骨の髄まで染み付いていて、聞き間違えるはずもなかった。 頬に、音もなく涙がつたった。 私はスマホを握りしめ、一通のメッセージを打ち込んだ。 【教授、海外研修の件はお受けします】 景斗は私たちの誓いを裏切った。 だから私は――彼のもとを去る決心をした。 第2話 景斗は、一晩中帰ってこなかった。 翌日の早朝、白川和馬(しらかわ かずま)教授から電話がかかってきた。 「……橘君、本当に一緒に海外へ行く気になったのか?」 白川教授の声は、わずかに息が上がっていた。 「最初の滞在先は国境なき医師団だ。危険な現場にも入るし、国内とは長く連絡が取れなくなるかもしれないぞ」 私は小さく息を吐くも、はっきりと言った。 「はい。もう決めました」 しばらく沈黙が落ちた。 「……ついこの前まで、『婚約者と結婚するから』って断ってただろ?急にどうしたんだ?」 「別れるつもりです」 その一言で、察してくれたのだろう。 「……わかった。覚悟はできてるんだな?」 「はい、できてます」 「じゃあこの二日間で履歴書と必要書類をまとめて提出してくれ。俺が手続きを進める。出発は一か月後だ」 電話が切れると同時に、景斗からメッセージが届いていることに気づいた。 【みのり、急な仕事で出張になった。南城に戻ったら連絡するから、大人しく待っててくれ】 その文字を見つめ、私は苦笑いした。 スマホを伏せて机に置き、留学手続き用の書類を広げた。 私の実家は山間の小さな集落で、十数軒の家がぽつぽつと並ぶだけの場所だった。 祖母は村でただ一人、薬草を使える村医者だった。 私は三歳の頃から祖母の背中について山を歩き、薬草や鉱石の効能を学びながら育った。 私が医大への進学を決めたのは、ただ景斗の目を治したかったからだ。 景斗も、本気で私を支えてくれた。 佐原家の人脈を使って全国の医療ネットワークを動かし、トップ専門医に弟子入りできるよう、私を推薦してくれた。 私は医術の才に恵まれ、腕は飛躍的に向上していった。 彼の目を治したとき、私の恩師となったのが白川教授だった。 半年前、白川教授が数名の医学生を連れ、海外の医療支援活動を行う計画を立てたとき、私は結婚を理由に断った。 でも、今は違う。 私は国境なき医師団と行動をともにし、より多くの命を救うと決意した。 そうすれば――景斗は、もう私を見つけることはできない。 書類をまとめ終えた頃、また見知らぬ番号から動画が届いていた。 再生すると、沢木詩織が景斗の胸に寄りかかっていた。 「景斗……私、一ヶ月だけ、あなたの妻になりたいの。一か月後に私が死んだら、みのりさんのところへ戻ればいいわ。これが、私の最後の願いなの……」 景斗は目を伏せ、悲しげに彼女を見つめた。 「……わかった。約束するよ」 その瞬間、詩織の目が潤み、笑顔がこぼれ落ちた。 「ありがとう!やっぱり信じてたわ!」 そのそばで、誰かが小声で尋ねていた。 「景斗……もし、みのりさんにバレたらどうする?」 景斗はためらわず答えた。 「大丈夫だよ。詩織がいなくなったら、俺はまたみのりのもとに戻るから」 添付されていたのは、婚姻届の受理証明書の写真だった。 真っ赤な印影が、私の心臓から流れる血の色と重なった。 大学卒業後、私は衝動的に景斗にプロポーズしたことがある。 そのとき彼は笑って言った。 「そういうのは俺から言わせてくれ。結婚も入籍も、ちゃんと準備して記念日にしよう」 あのときは、本気だと思っていた。 でも、相手が私じゃなければ――彼はすぐに婚姻届を出せるのだと、今さら気づいた。 三日後、私は病院に退職届を出し、白川教授に書類を託した。 家に戻ると、また例の番号から動画が届いた。 再生すると、沢木詩織が景斗の胸に顔を埋めて泣いていた。 「景斗、お願い……私に、あなたの子どもを授けて……そうすれば、私があの世に逝っても、この子と一緒だから寂しくないわ……」 景斗は彼女の髪を撫で、優しく答えた。 「……わかったよ、詩織」 動画を閉じると、私はしばらくその場に呆然と立ち尽くした。 そして、思わず苦笑いが漏れた。 私は家の中にある景斗とのペアグッズをすべて集め、ゴミ袋に詰め、階下のゴミ箱へ捨てた。 「何してるんだ?」 振り返ると、景斗が立っていた。 「……不用品を処分しただけよ」 彼は部屋に入るなり、異変に気づいた。 「みのり……ペアの電動歯ブラシ、買ったばかりだったのに……もう捨てたのか?」 私は少し間を置いて答えた。 「メーカーが問題を起こしたって聞いたの。使いたくなくなっただけ」 景斗は呆れたように笑い、いつものように私の頭に手を伸ばした。 「みのりは、相変わらず真面目だな」 思わずその手を避け、私は景斗の目を見つめて言った。 「私はね、誤魔化しができない人間なの。知ってるでしょ?」 でも、彼はその言葉に秘められた意味に気づかず、私を抱きしめた。 「はいはい、俺は真面目なみのりが大好きだよ」 その瞬間、あの動画の光景が脳裏をよぎった。 吐き気が込み上げ、思わず口を覆って彼を押しのけた。 「みのり……お前、まさか妊娠したのか?」 私は顔を上げ、景斗を見つめた。 「もしそうだとしたら?」 景斗は一瞬の躊躇もなく言った。 「堕ろしてくれ。今はタイミングじゃない」 ――沢木詩織とは、子どもを作る約束をしたくせに。 あの女が病気を装ってるということを、彼はまだ知らない。 私は笑った。 「冗談よ。最近ちゃんと食べてなかっただけ」 「なんだ、心配させるなよ」 景斗は安堵の笑みを浮かべ、胃薬を私に差し出した。 夕食は景斗が作った。 私の好物ばかりを並べ、優しい声で取り分けてくれた。 もし自分の目で真相を確かめていなければ、この優しさを信じていたかもしれない。 この男が、他の女と婚姻届を出し、その相手と子どもを作ろうとしているなんて。 その夜、同じベッドで横になったとき、景斗が私を抱き寄せ、服のボタンに手をかけた瞬間――全身の毛が逆立った。 私は思わず身を翻し、ベッドの端へ避けた。 「……今日は、無理」 彼は驚き、一瞬だけ黙ったが、すぐに笑顔を作って私の頭を撫でた。 「わかったわかった、無理しなくていい。おやすみ」 私は顔を彼の胸に埋めたまま、目を閉じて寝たふりをした。 そして、景斗はスマホを手に取り、小声で私に呼びかけた。 「みのり……?」 私は答えなかった。 やがて、ドアの鍵が閉まる音がした。 スマホのバイブ音が耳に残る。 どこへ行ったのかなんて、聞かなくても分かる。 ふと涙が止めどなく流れた。 朝になり、目を開けるとスマホの通知が並んでいた。 ひとつは知らない番号からの、景斗と詩織の深夜の写真。 そして、もうひとつは景斗からのメッセージだった。 【みのり、今日はおばあちゃんの命日だろ?夜中に仕事を片付けたから、九時に迎えに行く。一緒に墓参りに行こう】 あまりにも残酷で、滑稽だった。 私は黙って立ち上がり、冷やしたタオルを取り出して、そっと瞼に当てた。 腫れが、少しでも引くようにと。 第3話 午前九時、景斗から電話がかかってきた。 「マンションの地下駐車場で待ってる。降りておいで」 あらかじめ用意しておいた供物を抱え、私は彼の車に乗り込んだ。 祖母が亡くなったのは、私が大学二年のときだった。 本当は、故郷の山の上に眠らせてあげるつもりだった。 でも景斗は、「おばあさんをひとり田舎に置いていけない」と言って、南城の霊園に祖母を埋葬した。 でも、今になって思う。 私はこの街を去るつもりだし、どのみち祖母はひとりこの街に取り残される。 あのとき、彼の約束なんて信じるべきじゃなかった。 祖母のことを思うと、涙が止まらなかった。 車の中で肩を震わせる私を見て、景斗は慌てて車を脇に寄せ、私を抱きしめた。 「みのり、泣かないで……おばあさんが天国で心配しちゃうだろ」 私の涙の理由なんて知らずに、彼は偽善的な態度を取り繕っている。 この男は、最後まで私を騙し通すつもりなのだ。 「……そうね。心配させちゃいけないわね。もう行きましょう」 景斗は、私の顔を覗き込みながら言った。 「みのり……何かあったのか?おばあさんが亡くなってもう随分経つのに、今日の君の様子はおかしいよ」 私は首を振った。 「ううん。ただ、急に恋しくなっただけ」 彼に何度か問いかけられたけど、私は何も答えなかった。 「……もう泣かないで。さもないと、おばあさんに『みのりは弱虫だ』って言いつけるよ?」 私は黙ったまま、視線を落とした。 墓地に着くと、供物を手に車を降りた。 景斗が手伝おうとするも、私は避けた。 「自分で、おばあちゃんに渡したいの」 二人で並んで墓地の階段を登った。 祖母の名前が刻まれた墓碑が目に入り、胸が張り裂けそうになった。 私はゆっくりと膝をつき、墓碑に手を添えた。 景斗も隣で膝をつき、手を合わせた。 「おばあさん、安心してください。俺が、みのりを一生守ります」 どうしてこの男は、祖母の前で平気でそんな嘘がつけるのだろう。 私は袋の中から、赤い組紐を取り出した。 祖母の墓前に置こうとしたそのとき、景斗が私の手首を掴んだ。 「みのり……それって、俺たち二人のために編んだ組紐だろ?」 私は小さく頷いた。 「結婚式で交換するって約束したものだよな?」 景斗は眉をひそめた。 「式の日まで大事に取っておくって、言ってたじゃないか?」 「また、新しいのを用意するから」 私がそう言うと、彼はしぶしぶ手を離した。 組紐を墓前に置いたとき、彼の目にかすかな不安が浮かんだ。 「みのり……君は――」 その言葉を遮って、澄んだ声が墓地の静寂を破った。 「……景斗さん!」 振り返ると、白いワンピースを着た沢木詩織が立っていた。 黒髪が風に揺れ、儚げに見える。 景斗は顔を強張らせ、詩織へ歩み寄る。 「……どうしてここに?」 私は聞こえなかったふりをして、袋の中から故郷の小屋をかたどった石彫を取り出した。 「おばあちゃん、もうすぐ私はここを出て行くの。今日はこれを置いていくね」 そう心の中で呟きながら、墓前に置こうとしたとき、横から伸びた手が石彫を奪い去った。 驚いて顔を上げると、沢木詩織が石彫を胸に抱き、涙をこぼしていた。 「橘さん……この石彫、私の祖父母の家にそっくりなの。譲ってもらえないかしら?」 私は即座に首を振った。 「……ごめんなさい。それは私が祖母のために彫ったものです。返してください」 詩織は返さず、泣きながら景斗に助けを求めるような目で見つめた。 「景斗……知ってるでしょ。私の祖父母は生前、ずっと故郷を恋しがっていたの。これにそっくりなのよ……お願いだから、私に譲ってくれない?」 景斗は私に視線を向けた。 「みのり……詩織に譲ってくれないか?おばあさんには、また新しいのを作ればいいだろ?」 その瞬間、血の気が引いた。 彫刻を習い始めた頃、血だらけになった私の指を見て、彼は泣きそうな顔で、「君の手は、患者を救うための手だ」と言っていた。 それでも彫り続ける私に、「完成したら、もう二度と彫刻はしないでくれ」と、彼は念を押していた。 それなのに今、彼女に譲れと言う。 私はうつむき、小声で告げた。 「……それは、おばあちゃんのために作ったものよ」 景斗は腰をかがめ、耳元で囁いた。 「詩織は……もう長くないんだ。頼むよ、みのり」 「もし、私が嫌だと言ったら?」 その言葉に、景斗は口をつぐんだ。 墓地の空気が一気に張り詰めた。 詩織が胸を押さえ、泣き声をあげる。 「景斗さん……」 景斗は振り返り、「……持ってっていいよ、詩織」と言った。 その瞬間、詩織は笑顔を見せると、私の石彫を抱えたまま彼女の祖父母の墓前へと駆け去った。 私は祖母の墓碑を見つめ、口元をひきつらせながら目尻を赤くした。 景斗が隣で何か言っていたけど、耳に入ってこなかった。 ただただ思った。 あの石彫は、私が手を血まみれにして、何度も失敗を重ね彫り上げた祖母への形見だったのに、彼は一瞬で差し出したのだ。 この人は、私のものを、私の想いを、いつだって簡単に他人に譲れてしまう。 ――おばあちゃん、ごめんね。私には、人を見る目がなかった。 でも、まだ間に合う。 私は、この男を捨てる覚悟を決めた。 第4話 心の中で祖母に別れを告げると、私は墓地の階段を降りようと背を向けた。 景斗はその場に残り、墓前の線香が完全に消えるのを待ってから後を追ってきた。 その瞬間だった。 背後で沢木詩織の悲鳴が響き、階段から転がり落ちていくのが見えた。 「詩織!」 景斗は雷に打たれたかのように私を押しのけ、その拍子に石段へ叩きつけられた私に振り返りもせず、詩織のもとへ駆け寄った。 「大丈夫か?骨折してないか?病院へ行こう!」 彼は詩織を抱き上げ、その場を走り去った。 その場に取り残された私は、さきほどの衝撃で右腕の袖が破れ、骨が覗くほどの深い傷を負っていた。 血が溢れ、石畳を赤く染めていく。 冷たい風が血の匂いを漂わせ、痛みで全身が震えた。 それでも私は必死に立ち上がり、ふらつきながら霊園の門へ向かった。 門にたどり着いたときには、景斗の車はもうどこにもなかった。 その場にいた職員の方が血だらけの私を見て驚き、すぐにタクシーを呼んでくれた。 「その女性を、すぐに病院までお願いします!」と、運転手に頼み込む声が聞こえた。 赤の他人でさえ、こんなに気遣ってくれる。 なのに、景斗は―― 病院で傷口を洗浄され、縫合される間、私は冷や汗を流しながらも、一度も声を上げなかった。 「痛くないの?こんなに我慢強い人は初めてだよ」と、医師は驚いた顔で言った。 私は答えず、ただ窓の外を見つめた。 祖母が亡くなったあと、景斗が私の支えになると信じていた。 でも今や、彼を私の人生から切り捨てるしかない。 泣き言を言える相手なんて、もうどこにもいない。 だから――強くならなきゃいけないのだ。 会計を済ませて病院を出ようとしたとき、詩織を抱きかかえた景斗と鉢合わせた。 私を見るなり、彼の表情が険しくなる。 「みのり!詩織は癌で余命わずかだと言ったのに、どうして彼女を突き飛ばしたんだ!? 君のせいで何かあったら、どう責任を取るつもりだ!」 胸の奥で、何かがひび割れる音がした。 「私が突き飛ばしたって、彼女がそう言ったの?私はそんなことなんてしてないわ!」 景斗の目が冷えた色を帯びた。 「みのり!あの石彫は、俺が彼女にあげると決めたんだ。文句があるなら俺に言えよ!病人に当たるなんて、君の優しさはどこに行ったんだ?」 胸の奥が冷たくなり、言葉が自然に口をついた。 「私の優しさは、病気を装って人を追い詰めるような人間には使わないの」 詩織は景斗の胸に顔をうずめ、涙を流す。 「景斗さん……私はこの先、もう長くはないのに……」 「詩織は病気を装ってなんかいない!」 私はもう、説得するつもりはなかった。 「……そう、あなたがそう思うなら、それでいいわ」 「みのり……!」 そのとき、背後から声がかかった。 「橘君?」 振り返ると、白髪の白川教授が数人の医師を引き連れて立っていた。 私は思わず顔がほころんだ。 「白川教授、どうしてここに?」 「この病院に珍しい症例の患者が運ばれたと聞いて、会診に来たんだ。橘君こそ、君はもうここを辞め――」 私は慌てて言葉を遮った。 「腕を怪我してしまって、治療に来ただけです」 景斗が白川教授へ歩み寄り、頭を下げた。 「白川教授、お願いします!彼女は余命一ヶ月だと言われているんです。どうか助けてください!」 周囲の医師が止めようとしたが、教授は手を挙げて制した。 私を一瞥すると、沢木詩織に触診し、カルテに目を通した。 数分後、白川教授は少し眉をひそめて言った。 「余命一ヶ月?誰がそんなことを言ったんだ。彼女は至って健康だ」 詩織は顔を背け、咳き込みながら血を吐いた。 「教授、いくらみのりが白川教授の教え子だからって、一緒になって芝居じみたことはやめてください」 私の中で、最後に残った小さな期待が砕けた。 私は一歩、前へ出た。 「景斗、まさか白川教授の診断を疑ってるの?」 景斗は言葉を詰まらせながら言い直した。 「いや……言葉が悪かった。つまり、検査をし直した方がいいと思って……」 これ以上、この男に構う必要はない。 「教授、もう行きましょう」 白川教授は黙って頷き、私たちはその場を離れた。 景斗は私に伸ばしかけた手を止め、詩織を抱き直して病室へと向かった。 エレベーターの中で、白川教授は小さく息をついた。 「……なるほど。別れる決意をしたんだな」 私は何も言えず、俯いた。 「大丈夫。人生は、死ぬこと以外なんとでもなる」 そう言って、教授は私の肩を軽く叩いた。 私は小さく頷き、ふと思い出した。 あの夜、動画を見て胸が千切れそうに痛んだあの瞬間も、私は死ななかった。 死ぬほど泣いたけど、それでもまだ生きている。 案外人間は、痛みに慣れるものだ。 そして私は、二度とあの男を信用しないと誓った。 第5話 病院を出て間もなく、景斗から何度も電話がかかってきた。 でも私は、出る気にはなれなかった。 しつこく鳴り続ける着信音がようやく止むと、今度はメッセージが届いた。 【みのり、白川教授を疑ったわけじゃないんだ。今日は焦ってて、言葉を選べなかっただけだ。教授にも、君にも謝るよ。教授に一言伝えてくれないか?】 私は返事をしなかった。 しばらくして、またメッセージが届いた。 【詩織を連れて再検査した。彼女にはもう時間が残されていない。余命わずかの彼女に嫉妬しないでくれ。彼女を見送ったら、俺の残りの人生は君に捧げるよ。一ヶ月後、君を両親に紹介する。そしたら結婚式を挙げよう。これからはずっと一緒だ】 私はスマホを閉じ、心の中で静かに答えた。 ――佐原景斗、私たちに未来なんてない。 私のこれからの人生に、あなたはいらない。 その夜、SNSを開くと、沢木詩織の投稿が目に飛び込んできた。 景斗にスリッパを履かせてもらっている写真、マフラーを巻いてもらっている写真、スープを飲ませてもらっている写真…… そして最後の一枚は、肩を寄せ合って微笑む二人の写真だった。 画面越しの二人は、とても幸せそうだった。 私はしばらくその画面を見つめ、最後にそっと「いいね」を押した。 翌朝、私は帰郷の航空券を予約した。 直行便はなく、いくつか乗り継ぎを経て、夕暮れ前に小さな町の停留所で降りた。 荷物を抱えタクシーに乗り込み、舗装された山道を進んだ。 数年前、景斗と一緒にこの山を出たとき、彼が出した資金で村へ続くコンクリートの道路が整備された。 その道を通って、今では家の前まで車で行ける。 私は何日もかけて、荒れ果てていた実家を少しずつ片付けていった。 村の人たちは私が戻ったことに気づき、声をかけてくれた。 「おかえり、みのりちゃん」 「久しぶりだなあ、元気にしてたか?」 子どもたちも笑いながら駆け寄ってきて、私の手を握った。 私の故郷――桐ノ里は、資源も仕事もない貧しい村だ。 舗装路ができても、外の世界には遠く及ばない。 私は、ひび割れた手で私の服の裾を引く小さな女の子を見つめ、胸の中で決意を固めた。 ――ここを離れる前に、私にできることをしよう。 でもこの村には、寄付を受け取る仕組みすらなかった。 だから私は、自ら慈善団体に連絡し、何度も桐ノ里のことを伝えた。 景斗はすぐにそのことを聞きつけ、メッセージを送ってきた。 【みのり、手伝わせてくれないか?君に会いに行ってもいい?】 私はスマホの画面を見つめ、返事はしなかった。 代わりに、沢木詩織の最新投稿を目にした。 そこには、景斗が詩織との結婚式場を自ら飾り付けている様子が映っていた。 豪華な装飾に、明るい照明…… 誰が見ても幸せそうな二人だった。 不思議と胸はもう痛まなかった。 ただ静かに「いいね」を押し、スマホを閉じた。 景斗に返事はせず、目の前のことに集中した。 手続きや契約に奔走し、ようやく桐ノ里の子どもたちに教育支援金が届く仕組みを整えた。 その日、また景斗からメッセージが届いた。 【みのり、いつ帰ってくるんだ?しばらく会ってないし、君に会いたい。サプライズを用意したよ。絶対に気に入ると思うから、早く帰ってきて】 教授たちと海外へ出発するまで、あと三日。 同じく私は返事をしなかった。 そして翌日の午後、南城行きの航空券を購入した。 出発前に、友人と会う約束をしたのだ。 その夜―― またあの見知らぬ番号から、メッセージが届いた。 【橘みのり、このサイテー女。景斗はもう結婚したのに、まだ気を持たせるつもり?略奪愛がそんなに楽しいの?今に後悔させてやる】 私はそのくだらない内容を気にも留めなかった。 翌朝、友人からの電話で目を覚ました。 「みのり!佐原景斗が、あなたのおばあちゃんのお墓を動かそうとしてるわ!」 私は一気に血の気が引いた。 第6話 胸が張り裂けそうになり、目の前が真っ白になった。 震える手でスマホを握りしめ、連絡先を開いたが……誰にかければいいのかわからなかった。 ――佐原景斗? その名前が頭に浮かんだ瞬間、胸の奥が冷たくなった。 もう、あの人は信じるに値しない。 すぐに航空券を取ろうとしたが、直行便はなく、配車アプリでタクシーを呼び、夜行の高速鉄道に飛び乗った。 南城市に着いたのは夕暮れ直前だった。 空は重く垂れ込めた雲に覆われ、湿った風が頬を冷たく打った。 タクシーから飛び降りると、私は霊園の中へ全力で駆け出した。 祖母の墓のそばで、沢木詩織が骨壷を抱え上げようとしているのが見えた。 「やめて!!」 私は声を張り上げ、息が詰まるほど必死に駆け寄った。 詩織が振り返り、不気味に笑うと、次の瞬間骨壷をわざと手から滑らせた。 パリンッ! 乾いた音が墓地に響き、骨壺は地面に叩きつけられ、粉々に砕け散った。 私は崩れ落ち、割れた破片の上で両手を広げ、必死に灰を集めようとした。 冷たい風が容赦なく私の腕をすり抜け、灰をさらっていく…… 「おばあちゃん……!おばあちゃん!!」 声が枯れるまで泣き叫んだ。 全部、私のせいだ。 佐原景斗なんかを愛し、信じた私が間違っていた。 どうして南城市へ来てしまったのだろう。 どうして、佐原景斗を信じてしまったのだろう。 私は立ち上がり、理性が吹き飛んだ頭で詩織を睨みつけ、そのまま突進した。 「沢木詩織!おばあちゃんを返して!!」 詩織は地面に尻もちをつきながらも、その唇にはまだ嘲笑の気配が残っていた。 私がその頬に手を振り下ろそうとした、その瞬間―― がっしりと腕を掴まれ、その一撃は宙で止められた。 「景斗さん!橘さんが急に来て……私はわざと骨壺を落とすつもりじゃなかったの、ごめんなさい……」 詩織が涙を流しながら縋るように言った。 そして景斗は迷うことなく、彼女を庇った。 「詩織、君のせいじゃない」 その瞬間、胸の奥が凍りついた。 張り裂けそうだった痛みさえ、すっと消えていった。 私は景斗に振り向き、冷え切った声で告げた。 「……手を離して」 「みのり、詩織はわざとじゃないんだ……」 その声には、不快感しか覚えなかった。 心の底から気持ち悪いと思うこの男に、一瞬たりとも触れられたくなかった。 渾身の力で腕を引いたが、景斗の手は私を掴んで離さなかった。 骨が折れそうなほど力を込めても、振りほどけなかった。 だから私は―― その腕に、思い切り噛みついた。 それでも彼は腕を引かず、顔をしかめながら言った。 「みのり……辛いのはわかる。でも詩織が謝ったじゃないか、これ以上どうしろと言うんだ?」 私はさらに強く噛みついた。 枯れ果てたと思っていた涙が、また頬を伝って落ちた。 景斗は地面に倒れ込む詩織を心配そうに見つめながら言った。 「おばあさんのために、もっと立派な墓地を用意したんだ。もうやめてくれ。残りの遺灰を一緒に集めて、ちゃんと弔おう」 私はしばらく彼を見つめ、噛んでいた口を離した。 大きく後退し、背を向けると、残された祖母の遺灰をかき集めた。 彼が近づいてきたとき、私は振り返って言った。 「触らないで」 ――今生も、来世も。 もう二度と、この男の顔なんか見たくない。 「みのり……」 その時、詩織が咳き込み、苦しげに血を吐くふりをしながら呟いた。 「景斗さん……私、もう死んじゃうのかな……」 「詩織を病院に送ったら、すぐ戻る」 景斗はそう言い残すと、振り返りもしないまま、詩織を抱きかかえて去っていった。 私は彼らのことなど気にも留めず、一人で残った祖母の灰を必死に集め、遺影も抱えて、墓地を後にした。 その夜のうちに、祖母の遺灰を桐ノ里へ持ち帰り、静かに埋葬した。 祖母の墓前で手を合わせ、赤く腫れた目で呟いた。 「おばあちゃん……もう大丈夫。景斗のことは忘れるから。これからは、自分の人生を全うするわ」 私は涙を拭き、立ち上がった。 そして再び南城市へ向かった。 白川教授の自宅前でタクシーを降り、家から出てきた教授と一緒に車へ乗り込んだ。 空港へ向かう道の途中、スマホが震えた。 景斗からのメッセージだった。 【みのり、今夜帰る。先日のことは俺が悪かった。でも理由があったんだ。今夜ちゃんと説明するよ。サプライズを用意したから、家で待っててくれ】 「誰からだい?」と、教授が尋ねてきた。 私はスマホを見つめ、薄く笑った。 「詐欺メールです」 その場で景斗の連絡先をすべて削除し、ブロックした。 スマホの電源を切ると、教授とともに車を降り、そのまま振り返らずに空港の保安検査場へ向かって歩き出した。