この想いは風月にあらず

Đang tải thông tin quảng bá...

この想いは風月にあらず

GoodNovel Hoàn thành

「結城さん、本当によろしいのですか?催眠が始まれば、あなたは眠りにつき、身体は副人格に支配され、二度と目覚めることはありませんよ」 電...

Chương (1)

第1章

「結城さん、本当によろしいのですか?催眠が始まれば、あなたは眠りにつき、身体は副人格に支配され、二度と目覚めることはありませんよ」 電話の向こうで、医師が重々しい口調で問いかけた。 「はい、もう決めました」南は静かに答えた。 第1話 「結城さん、本当によろしいのですか?催眠が始まれば、あなたは眠りにつき、身体は副人格に支配され、二度と目覚めることはありませんよ」 電話の向こうで、医師が重々しい口調で問いかけた。 「はい、もう決めました」結城南(ゆうき みなみ)は静かに答えた。 電話がまだ繋がったままのとき、玄関から物音がした。開人が帰ってきたのだ。 南は電話を切り、無言でリビングへ向かった。 食卓の上には、手つかずの料理が並んでいる。 ただ、時間が経ちすぎて冷めきっていた。 「南、ごめん。会社の用事でずっと残業してて、誕生日を祝う時間が取れなかった」 島岡開人(しまおか かいと)は申し訳なさそうな顔で言った。 「でもプレゼントは買ってあるんだ。ほら、開けてみて」 そう言って、彼は丁寧にラッピングされた小さなギフトボックスを差し出した。 だが、南はすぐには手を伸ばさなかった。 彼女の視線は、開人のシャツの襟元に落ちた。 真っ白な襟に、鮮やかな紅いリップの跡が、ひどく目を引いた。 南は目頭が熱くなり、心臓を鋭く刺されたような痛みを感じた。 彼女は時々どうしても思ってしまう。 これはわざとなのか? あれだけ大きなビジネス帝国を隅々まで管理できる男が、家に帰る前に、襟に口紅がついていないか確認しないなんて。 「どうしたの?もしかして......怒ってる?」 南がプレゼントを受け取らないのを見て、開人が優しく宥めるように近づいた。 「会社のことだから仕方なかったんだって。もう怒らないでよ。明日ちゃんと埋め合わせするから」 彼が近づいた瞬間、南の鼻に強烈な香水の匂いが漂った。 TFの「ローズプリック」、俗に「男を落とす香り」とも呼ばれるその香水の匂いだった。 今夜、彼が付き合っていたのは、どうやらセクシーな女だったらしい。 「怒ってないよ」 南はようやく手を伸ばし、彼からギフトを受け取った。 中に入っていたのは、ブルーダイヤが埋め込まれた星空のピアス。 見た目には高級感がある。 だが。 南はファッション雑誌の編集長。 今月発売の最新号で、ちょうどこの「星空」シリーズを特集していた。 これはセット商品で、ネックレス、ブレスレット、リング、そしてピアスの四点がある。 前の三点を買えば、ピアスは「おまけ」でついてくる。 南は何食わぬ顔でギフトボックスの底を指でなぞった。 すると、やはり印刷されていた。 「おまけ」の三文字。 彼女は呆れて笑った。 「開人、私たち結婚して五年になるけど、私がどんな仕事してるか知ってる?」 「もちろん知ってるよ。ファッション雑誌の編集者だろ?」 開人は笑いながら言った。 「君んとこの雑誌、毎号ちゃんと読んでるよ」 南はそれ以上何も言わなかった。 彼は毎号読んでいるはずの雑誌で紹介された「おまけ」を、彼女の誕生日にプレゼントしたのだ。 沈黙が流れる中、不意に開人のスマホが鳴った。 彼はわざと南から離れて、ベランダで電話を取った。 その際、わざとらしく声のトーンを上げて話し始めた。 「もしもし?宮田君?......どうした?」 「なに?入札資料に問題が?あの書類、この前一緒に直したばかりじゃないか......」 白々しい。 南は疲れたように目を閉じた。 演技なんて必要ない。 電話が鳴った瞬間、彼のスマホ画面に表示された文字を彼女は見ていた。 「子猫ちゃん」と、はっきりと。 「宮田君」だの、「入札資料」だの、全部彼女に聞かせるための言い訳。 「子猫ちゃん」と会うための前振りにすぎなかった。 案の定、しばらくして開人がベランダから戻ってきた。 「南、ごめん。会社の連中がまた入札資料をミスってさ、俺、戻らなきゃならない」 「先に寝てて。明日またちゃんとお祝いするから」 そう言って、彼は慌ただしく出て行った。 その直後、南のスマホが振動した。 セクシーなダンスと挑発的な歌詞で人気を博している女性歌手・羽彌(うみ)が、SNSに投稿していた。 写っているのは自分の手元のアップ。そして添えられた文章は。 【プロポーズの指輪、ちゃんと受け取ったよ。今夜は、新婚初夜?】 写真では、彼女の左手の薬指に、あの「星空」シリーズのブルーダイヤのリングが光っていた。 第2話 南には、なぜすべてがこんなふうになってしまったのか、理解できなかった。 最初にアプローチしてきたのは、明らかに開人の方だった。 他のようにすぐ冷める追求者とは違って、彼の愛はすべてを焼き尽くすほどに熱く、まるまる二年間、彼は彼女を求め続けた。 その間、南はほぼ毎日のように彼を拒み続けたが、それでも彼の情熱は消えることはなかった。 彼は毎日花を贈り、南の好物である有名なエッグタルトを買うために何時間も並び、彼女の行動すべてに気を配っていた。 街を歩いていて彼女が一瞬でも目を止めたものがあれば、翌日には綺麗にラッピングされて彼女のデスクに置かれていた。 二人の間には、激しい愛憎のドラマこそなかったが、穏やかな時の流れに溶け込むようなその優しさは、南の心を大いに揺さぶった。 告白の日、開人は大金をはたいてディズニーランドを貸し切り、夜になると南だけのための花火ショーを用意した。 空を埋め尽くすほどの華やかな花火に、南は感動して涙を流した。 そしてそのとき、開人は彼女にキスをし、耳元で情熱的に囁いた。 「約束するよ、君への気持ちは、この空いっぱいの花火みたいに、いつまでも鮮やかだ」 でも、花火は永遠に輝いていられない。 あっという間に消えてしまう。 南は自嘲気味に笑った。 思えば最初から、彼女と開人の恋は、結末が決まっていたのかもしれない。 花火のように華やかで、花火のように儚かった。 開人は、その夜まるごと帰ってこなかった。 翌朝ようやく再会した彼は、変わらずスーツをびしっと着こなし、ハンサムでスマートな姿だった。 けれど南は一目で気づいた。 彼が違うスーツを着ていることに。 昨晩の「戦い」があまりにも激しかったせいで、昨日のスーツは破れてもう着られなかったのだろう。 「もう怒るなよ、愛しい人」 開人はそう言いながら近づき、南のくびれた細い腰に手を回し、彼女にキスしようと顔を寄せた。 「今日は埋め合わせをするために、とっておきのサプライズを用意したんだ」 南は顔を背けて、そのキスを避けた。 「......先にシャワーでも浴びてきて」 「もう浴び......」 と言いかけて、開人の表情が一瞬ぎこちなくなった。 だがすぐに笑顔を取り戻し、軽く弁解する。 「ホテルで浴びてきたんだ。昨日は仕事が終わったのが夜中で......それから君へのサプライズを準備してたから、家に戻れなかったんだよ」 南は視線を落とし、ぽつりと言った。 「もう一度、浴びてきて。ホテルのじゃ......落ちないから」 言外の意味を含んだ言葉だったが、開人は気づかなかったようで、彼女の鼻先を軽くつつきながら甘えるように言った。 「はいはい、奥さまの言うとおりにします」 シャワーを済ませた後、開人は南を連れて車でディズニーランドへ向かった。 かつて彼が彼女に告白した、あの思い出の場所。 そして今回もまた、彼は園全体を貸し切っていた。 南の心は少しだけ揺れた。 けれど、その感情は訪れるにはあまりにも早すぎた。 というのも、入園して間もなく始まったのは、ディズニーのフロートパレードだった。 そのフロートの上で、羽彌が「アナと雪の女王」のエルサに扮して、最も目立つ場所に立ち、マイクを手に熱唱していた。 「南は、羽彌の歌好きだったよね?」 開人は言った。 「それに、エルサも好きだったじゃない?だから、彼女に頼んでエルサになってもらって、歌ってもらってるんだ......嬉しい?」 まるで鈍いナイフで、心臓をゆっくり、少しずつ切り裂かれていくような感覚だった。 南は、息ができないほどの苦しみを感じた。 ......どうして。 ......どうしてこんなことするの? たとえどれほど深い因縁があったとしても、ここまで人を傷つけることはできないはずだ。 それでも開人は、それをやってのけた。 彼は南自身だけでなく、すでに亡くなった彼女の姉までも、踏みにじったのだった。 第3話 南がいちばん好きな場所はディズニーランドだった。 それは、彼女の幼少期があまりにも不幸だったから。 ディズニーの世界にはおとぎ話とお菓子しかない。 けれど、彼女の子ども時代は、暴力と涙で塗り潰されていた。 今でも、古びた新聞には当時の事件が記録されている。 【妻、夫の家庭内暴力に耐えかねガスコンロに火をつけ無理心中を図る。逃げ遅れた2人の娘、1名死亡・1名重傷】 その「重傷」を負ったのが南で、2歳年上の姉は、命を落とした。 南が「アナと雪の女王」のエルサを好きな理由も、姉がいちばん好きだったキャラクターだからだった。 そして、エルサには心から愛していた妹がいた。 まるで、南の姉のように。 いつも黙って見守り、彼女を守ろうとしてくれていた、優しいお姉ちゃんのように。 だからこそ、エルサという存在は南にとって特別な意味があった。 彼女にとって、エルサは亡き姉の象徴でもあったのだ。 それなのに今、開人は自分が外で囲っている愛人にエルサの格好をさせて、南に向けて歌わせ、誕生日を祝わせたのだ! 「前に言ってたよね。子どもの頃は不幸だったから、ディズニーが好きなんだって。ここはまるでおとぎ話の世界で、すべての傷を癒してくれるって」 南の異変に気づくこともなく、開人は彼女の手を取り、手の甲にそっとキスを落とした。 そして、情熱的に囁いた。 「過去に戻って、君の子ども時代を変えることはできない。でも、これからの毎日、君を子どものように甘やかして、毎日が童話みたいな日々になるようにしてあげたいんだ」 もう、限界だった。 南はたまらず、開人の頬を思いきり平手で打った。 そして顔を手で覆い、その場から駆け出した。 開人は、何が起きたのかわからず呆然とし、少し遅れてからあわてて追いかけた。 「南!」 二人はしばらくの間、追いかけっこをした。 だが最終的に、長い脚の利を活かした開人が南に追いついた。 「南!」 彼は南の腕を掴み、無理やり抱きしめた。 「いったい何があった?突然泣き出すなんて......どうしたんだよ?」 見ての通り、彼はいつだって完璧な演技者だった。 あれほどの告白の最中に平手打ちを食らっても怒ることなく、まずは彼女の情緒を気遣い、「なぜ泣いてるのか」と問いかける。 でも南は、もう何もかも誤魔化したくなかった。 「何があった、だって?あんた、本当に分かってないの?」 「南......何の話だ?俺には何も......」 開人は眉をひそめながら言った。 「もういい加減にして!とぼけるのもやめて!」 南は今にも崩れそうな声で叫んだ。 「羽彌とのこと、もう知ってるよ。彼女、昨日あんたが送ったブルーダイヤの指輪を指にはめてた......なんでこんな気持ち悪いことをするの?」 もう、十分だった。 本当に、もう限界だった。 すべてが終わってしまえばいいと思った。 彼女はこれ以上、際限のない嘘や、惨めな自己欺瞞の中に生きていたくなかった。 そんな南の怒りと悲しみを、開人は静かに受け止め、 やがてポケットから青いベルベットの小箱を取り出した。 「......ねぇ、南の言ってる『ブルーダイヤの指輪』って、これのことかい?」 彼は小箱を開いた。 そこには、あの星空シリーズのブルーダイヤのリングが、しっかりと収められていた。 「実は、このシリーズは全部買ったんだ。でも昨日は君の誕生日に一緒に過ごせなかったから、全部まとめて渡すのは味気ない気がしてさ」 開人は苦笑しながら続けた。 「だから昨日はイヤリングだけにして、ネックレスとブレスレットと指輪は、今夜の花火のときに贈るつもりだったんだよ」 「なのに、花火もまだ始まってないのに、俺はもう浮気した最低男扱いされちゃうなんて......」 第4話 本当は、開人のことを信じたかった。 でも......どうやって信じろというのだろう。 彼の身体にはまだ、あの女の香水の匂いが残っていた。 シャワーを浴びたというのに、洗い流しきれていない。 そして、シャツの襟元には、かすかに見えるキスマークが...... 開人、お願いだから教えて。 一体どうすれば、信じられるの? 南は眉を寄せて開人を見つめた。 目には深い悲しみが宿っていた。 だが、開人はそんな彼女に微笑み、親しげに鼻先を指先でつついた。 そして、ブルーダイヤの指輪を彼女の指にはめながら、ふざけるように言った。 「悪い子だな。人を疑っておいて、自分が泣きそうになってどうするの?」 彼はそっと彼女の頬に伝う涙を拭ってやった。 「ほら、もう泣くなって」 「まずは指輪を先に。ネックレスとブレスレットは、夜の花火のときに渡すから」 そんな優しさに満ちた開人の顔を見ていたら、南はふと、真実を暴くこと自体がどうでもよく思えてきた。 彼女はもう、限界だった。 泣きすぎて目が赤く腫れ上がり、心はぐちゃぐちゃに崩れていたというのに、開人は終始、完璧な振る舞いを崩さなかった。 どこにも隙がなかった。 ......負けた。 完敗だった。 「最初に好きになった方が負ける」なんて言葉があるけれど、後から好きになった自分だって、惨めなくらい負けてしまった。 その後、開人は「世界一の夫」としての役を、完璧に演じ続けた。 彼女が少しでも喉を潤したそうにすれば、すぐに水を差し出し、果物もフォークに刺して、手が汚れないように口元へ運んでくれる。 太陽が強く照りつければ、彼女に日傘をさし、その角度すらも彼女の方へ傾けて...... そんな至れり尽くせりの優しさに包まれながら、南の胸には虚しさだけが広がっていった。 ふと、彼女は思わず問いかけてしまった。 「どうしてそこまで、私に優しくするの?」 愛してないのなら、そう言って離婚すればいい。 まだ愛しているのなら、どうしてこんなに残酷なことをするの? 「だって、君は俺の妻だよ? 君に優しくしないで、誰に優しくするの?」 開人は当然のように言った。 「それに、約束するよ。今だけじゃない。これからも、もっともっと君を大切にする。 君がおばあちゃんになっても、俺は君をこの世界で一番幸せなおばあちゃんにしてあげる」 南は、それ以上なにも言わなかった。 心の中で、ただひとこと思った。 開人、自分たちに『これから』なんて、もうないよ。 そのとき、南のスマホが震えた。 画面を見ると、弁護士からのメッセージだった。 【結城さん、離婚協議書が完成しました。今すぐお届けできますが、ご自宅にいらっしゃいますか?】 同時に、開人のスマホも震えた。 彼は画面を見て、一瞬の間に喉がごくりと鳴り、瞳が少しずつ深く濁っていく。 この表情を、南はよく知っている。 それは、彼が欲望に支配されたときの顔。 南は、つい彼のスマホに視線を落とした。 画面には、黒いストッキングに包まれた脚が写っていた。 そして、次のメッセージが続けて届いた。 【お城のトイレ、3番目の個室。5分以内に来て。過ぎたら知らないよ♡】 開人ははっきりと呼吸を乱し、画面を素早く消した。 「南、ちょっとトイレ行ってくる。すぐ戻るから」 そう言い残して、彼は急ぎ足でその場を離れた。 その目には、黒ストッキングの羽彌しか見えていなかった。 そして、彼は気づかなかった。 南がずっと彼のスマホを見ていたことに。 見に行こう。 南は思った。 今度こそ、完全に諦めるために。 目で見たことだけが真実。 彼の言い訳にも、もう耳を貸さない。 自分をごまかすのも、これで最後にする。 そう決意して、南は彼のあとを追った。 そして彼女が目にしたのは、トイレにたどり着く前、開人が羽彌を抱きしめていた光景だった。 羽彌は「アナと雪の女王」のエルサの衣装を着ていた。 二人は、トイレの前で激しく唇を重ねていた。 持ち上げられた羽彌のプリンセスドレスの下には、黒いストッキングが覗いていた。 「ディズニーのプリンセス衣装の中に、黒ストッキング仕込んでるのかよ?」 開人は苦笑しながら、彼女の頬をつまんでからかうように言った。 「ほんと悪魔だな。純粋なおとぎ話まで汚しやがって」 羽彌は色っぽく目を細めながら、囁いた。 「ふふ、気に入らなかった?」 「気に入ったさ」 開人はふたたび彼女にキスを落としながら言った。 「......行こうぜ、中で......もっと汚してやるよ」 第5話 まるで、その瞬間に氷の牢に閉じ込められたようだった。 寒い。 とても寒い。 真夏のはずなのに、南は全身が震えるほど冷え切っていた。 自分はもう十分強くなったと思っていた。 どんな現実でも受け止められると思っていた。 でも、目の前に突きつけられたその光景は、想像以上に残酷だった。 吐き気を抑えきれず、南はトイレに駆け込んで、嘔吐した。 その背後、三番目の個室からは、壁を揺らすような激しい衝撃音と、抑えた喘ぎ声が漏れ聞こえてきた。 今日は開人がディズニーランドを貸し切っている。 つまり、他の来場者はいない。 だから彼は、誰に遠慮することもなく、あの場所で欲望をぶつけていた。 南は、もう一秒たりともその場にいたくなかった。 吐き終わるとすぐに踵を返し、そのままディズニーランドを後にした。 タクシーに乗って自宅に戻る途中、弁護士からのメッセージに返信した。 【今家にいます。今すぐ離婚協議書を届けてもらえますか?】 一時間後、弁護士が協議書を持って自宅まで来てくれた。 ちょうどその頃、開人も車を飛ばして帰ってきた。 「南、なんで何も言わずに先に帰ったんだ?」 彼の整った顔には、心配そうな表情が浮かんでいた。 「もしかして......俺が何か気に障ることした?」 南は彼を見つめ、少し沈黙してから口を開いた。 「......ずっと待ってたけど、戻ってこなかったから。羽彌とこっそり会ってるのかと思って、先に帰ったの」 開人の表情が、一瞬だけ固まった。 けれど、それはほんの一瞬のことで、すぐに柔らかな笑みに戻った。 「奥さま、俺のことどれだけ疑えば気がすむんだ?」 その声には呆れたような甘さが混じっていた。 「羽彌を呼んだのは、ほんとに偶然なんだ。君のプレイリストに彼女の曲があって、それで......」 そこまで話して、開人は言葉を切った。 まるで迷っているかのように、言い淀んだ表情を浮かべた。 南の瞳が、ゆっくりと冷たく細まった。 「『それで』?」 「はあ......」 開人は長いため息をついてから言った。 「本当は言いたくなかったんだけど......でも君を疑わせるくらいなら仕方ない。兄弟より妻が大事だからね、俺も腹をくくったよ」 そう言うと、彼は車のドアを開けた。 「乗って。真実を話すよ」 今度はどんな嘘を用意してるの? 南は少し眉をひそめたが、何も言わず、離婚協議書を手にして車に乗った。 「それ、何?」 開人は彼女の持つ封筒をちらりと見て、軽く尋ねた。 南は目を伏せ、淡々と答えた。 「夜になったら見せてあげる」 しばらくして、車はある高級クラブの前で止まった。 開人は南を連れて中へ入った。 クラブのVIPルームでは、開人の親友・津田輝明(つだ てるあき)が、 スタイル抜群の美女と抱き合っていた。 開人たちが入ってくるのを見ると、彼は酔っ払ったような目で顔を上げた。 「おお、島岡さん、ちょうどよかった。今あんたのこと呼ぼうと思ってたとこだよ」 「今日、うちのミンミンがアニメのプリンセスの格好して、結城さんの誕生日を祝うって話だったじゃん?なのにさっき、ミンミンが先に帰ってきたんだよ」 「しかも『結城さん怒らせちゃった』とか言ってたけど......どうしたんだ?うちのミンミンの歌、そんなにヘタだった?」 南は、そのときやっと気づいた。 輝明の腕に抱かれている女は、服を着替えた羽彌だった。 「南は潔癖なとこあるから、こんな汚い話は本当は聞かせたくなかったんだよ」 開人は苦笑しながら言った。 「でも、もう黙ってたら俺が『有罪』になっちゃうからな。正直に言うよ、羽彌は、津田さんが囲ってる女なんだ。俺はあいつの顔を立てて、無理やり彼女を呼んだだけだよ」 第6話 南は時々、ふと思ってしまう。 結婚した男たちって、もしかしてみんな役者なんじゃないかと。 じゃなければ、どうして開人と輝明は、あんなに自然に演技ができるの? 「へへへ、結城さん、もう怒るなって。俺だって、自分の愛人に少しでも稼がせたかっただけだよ」 輝明は本気みたいに演じていた。 「島岡さんが金を使って結城さんを喜ばせるなら、赤の他人に払うより、うちのミンミンに渡した方がいいと思ってさ」 「うるせぇ」 開人はそう言って輝明に蹴りを入れる。 「いいか、今日俺の南が怒ったのは全部お前のせいだ!お前が外で女囲ってるから、俺が代わりに疑われたんだぞ!」 ......ほんと、よくできた芝居だった。 南は心の中で、結婚してるこの二人の男に静かに拍手を送った。 もし数時間前に、彼がトイレの前で羽彌と熱くキスしてるところを自分の目で見てなければ、今のこの演技、信じてしまっていたかもしれない。 「え?結城さんが島岡さんを愛人囲ってるって疑った?」 輝明は目を大きく見開き、信じられないといった顔をした。 「冗談でしょ、結城さん。俺たちの仲間内じゃ、誰でも知ってるよ。島岡さんが結城さんにどれだけ入れ込んでるかって。仕事以外はいつも結城さんのことばっか考えてるし......俺らの誘いもずっと断ってる」 「飲み会のたびに声かけても、毎回来ない。たまに来ても、酒は飲まないし、タバコは吸わないし、女にも手出さない......まるで出家した坊主みたいで、つまんないから、もう誰も誘ってないんだよ」 やっぱり男って、みんなこうなのか? 南は思った。 男同士で庇い合って、嘘を隠し合う。 妻にバレそうになったら、愛人の存在を「友人の女」ってことにして、自分は潔白を装う。 きっと輝明の奥さんが浮気現場に踏み込んだ時も、開人は平然と愛人を抱えたまま、毅然とした顔でこう言うのだろう。 「考えすぎだよ。津田さんがどんな男か、あんたが一番わかってるだろ?浮気したい気持ちはあっても、行動に移せるほどの度胸はないんだよ。俺がちゃんと見張ってるから安心しろ。もしあいつが遊び歩くようなことがあったら、あんたの代わりに俺があいつの足を折ってやる!」 「結城さん、もしかして信じてない?」 南が沈黙を続けると、輝明がついに本気を出した。 「よし!じゃあ証明してやるよ!今日この場で、この小悪魔を俺が抱いてみせる!それで結城さんも納得するだろ?」 そう言って、彼は羽彌をソファに投げ倒し、そのまま覆いかぶさった。 開人の顔が明らかに強張る。 慌てて動こうとしたが、すぐに踏みとどまり、代わりに口だけで咎めた。 「おい津田さん!何やってんだ、節操なさすぎだろ!」 そう言いながら、今度は南を抱き寄せ、ドアの方へ連れて行く。 「さあ、行こう。こいつらは汚すぎる。南の目が汚れてしまうよ」 さすがに頭が回る男だ。 この場面で止めに入るんじゃなく、南をその場から連れ出す。 南さえ見ていなければ、輝明は芝居を続けなくて済む。 二人でクラブを後にすると、南は思った。 家に着いたら、きっと開人は何かしら理由をつけてすぐまた出ていくだろう。 羽彌を慰めに戻るために。 そして予想通り、車が停まったそのタイミングで、開人のスマホが鳴った。 彼は電話を取って、毎度おなじみの「仕事ネタ」を展開する。 「......は?北城の案件でトラブル?まったく、お前ら何やってるんだよ!」 南は目を閉じた。 もう、これ以上嘘を聞きたくなかった。 「行ってきて」 彼が電話を切る前に、彼女は先に車を降りた。 「夜、ちゃんと帰ってね......サインしてもらいたい書類があるから」 今夜で終わりにしよう。 離婚届にサインしてもらって、すべてを終わらせる。 互いに自由になろう。 恩も、義理も、もう必要ない。 第7話 開人が出て行った後、間もなくして南のもとに一本の動画が届いた。 送り主は羽彌だった。 南は一瞬ためらったが、最終的にその動画を再生した。 再生と同時に、羽彌の甘ったるい声がスマホから流れてきた。 「うううう、ご主人ってひどいんだから......かわいそうな子猫ちゃんを他の人に押しつけて、もうちょっとで無理やりされちゃうところだったんだから......」 「何言ってるの」 開人の声が続き、桃のように丸く張った羽彌のお尻を軽く叩きながら、笑い交じりに叱った。 「お前がディズニーでエルサの格好なんてするから、今日みたいなことになったんだろ?」 「だって、会いたかったんだもん」 羽彌が甘ったるい声で返す。 「ご主人様は子猫ちゃんに会いたくなかったの?」 「誤魔化してる?」 開人は冷たく言った。 「今後二度と南の前に姿を見せるな。もしまた現れたら、容赦しないぞ」 「きゃあ......ご主人......そんな冷たくしないで......そうやって乱暴にされるの、大好き......」 そして、そこから先は、目を覆いたくなるような卑猥なシーンが続いた。 南は耐えきれず、動画を閉じた。 しかし羽彌はそれでは満足しなかったのか、さらに何本も動画を送りつけてきた。 どれもこれも、目を背けたくなるような内容ばかりだった。 【ふふ、今日は得意げだったわね?開人が自分のことを死ぬほど愛してるとでも思ってるんでしょ?友人に私を抱かせるまでして、あなたを喜ばせようとしたって、本気で信じてるの?】 【でもね、あなたの夫は、毎日毎日、私と絡み合ってるの。 残業?あれは全部私との「夜の残業」。 会議?あれは私の上で開かれる「会議」。 出張?もちろん、私を連れて行く出張よ】 【動画を見てごらん?彼のオフィスで、愛車の中で......果ては飛行機の中、クルーズ船の上......彼があなたに対してそんな情熱を見せたこと、ある?どうせ、もうとっくに「その気」すらなくなってるんでしょ?】 ...... 挑発に満ちたメッセージを眺めながら、南は静かに目を閉じた。 そのとき、頭の中に、自分のものではない声が響いた。 「情けないわね、南!私が命を捨ててあんたを守ったのは、こんなふうに惨めに生きてほしかったからじゃない」 「その動画、開人に送りなさい。もしくはネットに晒しなさい。あの女の恥を世間に晒してやりなさい」 「全部暴いてやるのよ。やつらを地獄に落としてやれ!これ以上、情けをかけるな!」 ......久しぶりに「お姉ちゃん」の声を聞いた。 南は微笑んだ。 姉は自分とは違って、強くて勇敢な人だった。 父親が母親に暴力を振るっていた時、自分はタンスの中に隠れて泣いていたけれど、 姉は勇敢に立ち向かい、母親を守ろうとしていた。 そして母と姉は血まみれになるまで殴られ、タンスの中に隠れていた自分だけが、無傷のまま生き延びた。 「ううう......お母さん、お姉ちゃん......痛かったよね......」 「ごめんなさい、南がダメだから......臆病だから......」 こんな臆病で情けない自分なんて、大嫌いだ。 なのに、どうしてあの火事で自分だけが生き残った? あんなに優しかった母と、あんなに強かった姉が命を落としたのに、自分のような弱虫が生き残るなんて、不公平だ。 たぶん、心のどこかでずっとその事実を受け入れられなかった。 だから退院後、南の脳内に「もう一つの声」が生まれた。 それが「姉の声」。 死んだはずの姉が、別の形で自分の中に甦ったのだ。 医者はそれを「解離性障害」と診断したけれど...... 違う、そんなものじゃない。 あれは紛れもなく、お姉ちゃんの声。 あの声を、自分は知っている。 お姉ちゃんは、自分をひとりにしたくなかったんだ。 だから、自分の中に残ってくれたんだ。 彼女の魂は、自分の体に宿っている。 お姉ちゃんと自分は、ひとつの体を共有している。 もう、決して分かれることはない。 第8話 夜になり、南は離婚協議書を手にして、開人の書斎の扉を開けた。 開人はイヤホンをつけて何かを聞いていたが、彼女が入ってくると軽く言った。 「南、今ネット会議中なんだ。後にして?」 会議?南の視線は彼の下半身に移った。 ベルトは外され、ズボンはだらしなく腰にかかっていた。 会議なんて嘘だ。 明らかに、羽彌とリモートでいちゃついていた。 彼女が入ってきたのが早すぎて、彼はズボンを上げるのがやっとで、ファスナーを閉める暇すらなかったのだ。 「ただのサインだから、すぐ終わるわ」 南は離婚協議書を取り出し、サインのページを開いて彼に差し出した。 開人はイヤホンを外さず、羽彌に誘惑されて心ここにあらずだったのか、何も確認せずにそのまま署名した。 南は思わず笑ってしまった。 書類をしまいながら、笑顔で尋ねた。 「中身も見ずにサインするの?」 「見る必要なんてない。君が差し出したものなら、何でもサインするよ」 開人は情熱的に言った。 「たとえそれがナイフでも、君が望むなら命だって差し出すよ」 彼は羽彌とリモートでいちゃつきながらも、南に深く愛を告白していた。 南の目には涙が浮かんだ。 どうして人間は、ここまで恥知らずになれるのか。 もう関わりたくなかった。 彼女は涙がこぼれる前にそっと背を向け、書斎を後にした。 おそらく一時間後、用を済ませた開人が寝室に戻ってきて、南の隣に横になり、背後から抱きしめてきた。 「南、最近仕事が忙しくて、なかなか一緒に過ごせなかったね」 開人は優しく言った。 「明日の夜、ディナーに行かない?ちゃんと埋め合わせしたいんだ」 奇しくも、明日は南が予約していた催眠療法の当日だった。 ちょうどいいわ。 催眠を受ける前に、離婚届を渡して、きれいに終わらせましょう。 翌日も、羽彌からの電話攻撃は止まらなかった。 彼女は延々と、開人との情事を映した動画を送りつけてきて、言葉でも挑発してくる。 【ねえ、見た?私たち、あなたたちの寝室でもやったのよ。あなたのパジャマ、私も着たよ】 南はクローゼットの服をすべて取り出し、庭に放り出して火をつけた。 【見覚えある?開人の書斎よ。私、あの机にうつ伏せになって、後ろから彼が入ったの】 今度は、書斎に火を放った。 【ふふふ、ここはあなたたちのガレージよね?どの車でもやったの、車の中で】 車が多すぎて一台一台焼くのは面倒。 なら、いっそ、家ごと全部、燃やしてしまおう。 どうせ去るなら、跡形もなく。 郊外にある家だったので、燃やしても他人に迷惑はかからない。 火を放ったあと、南は自ら消防に通報した。 計算では、消防車が到着するのは1時間後。 それまでにすべて燃え尽きれば、近隣の草木に延焼する心配もない。 通報後、南はタクシーでレストランへ向かった。 開人はまだ到着していなかった。 だが、彼を待つ気はなかった。 テーブルの上に離婚協議書を置き、彼女はそのまま席を立った。 そのとき、スマホが震えた。 羽彌からの最新メッセージだった。 【ふふっ、あなた今日、開人とキャンドルディナーの予定?やめた方がいいわよ。だって彼、今『私を食べてる』最中だから】 そして、またしても卑猥な動画が添付されていた。 動画を開く前に、今度は開人から電話がかかってきた。 「南、ごめん、遅れた。もうすぐ着くから......あと――」 男の息遣いは荒く、何をしていたのか想像に難くなかった。 「もう来なくていい」 南は彼の言葉をさえぎり、電話を切った。 そして、そのままスマホをゴミ箱に投げ捨てた。 スマホも、車も、もういらない。 汚れてしまったから。 その後、彼女はタクシーで病院へ向かった。 医師の指示に従い、フロイト式のリクライニングチェアに身を預ける。 医師が特製のアロマを焚き、照明を落とした。 「結城さん、こちらの懐中時計を見つめながら、私の声に従ってください」 「1」 「2」 「3」 「催眠、開始します」 薄暗い光の中、南は医師の手の中の懐中時計を見つめながら、静かに涙をこぼした。 ごめんね、お姉ちゃん。 命を懸けて妹を守ってくれたのに、妹は相変わらず臆病なまま。 この世界は広くて、人の心はあまりにも複雑。 精一杯頑張ったけど、自分はやっぱりついていけなかった。 ねえ、もしあのとき、生き残ったのが自分じゃなくて、お姉ちゃんだったら、 どれほど良かっただろう。 でも、もう大丈夫。 この身体、お姉ちゃんに譲るね。 きっとお姉ちゃんなら、自分より何倍も強く、美しく生きられるから。 南は静かに目を閉じた。 そして、医師の言葉に導かれるまま、意識は深い闇へと沈んでいった。 そして再び目を開けたとき、その優しい瞳に、もう温かさは残っていなかった。