朝夕、別れを語る

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朝夕、別れを語る

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【九条奥さん、十日後に放火で偽装死をご計画の件、弊社への正式なご依頼ということで、よろしいでしょうか?】 このメッセージに、清水梨花(...

Chương (1)

第1章

【九条奥さん、十日後に放火で偽装死をご計画の件、弊社への正式なご依頼ということで、よろしいでしょうか?】 このメッセージに、清水梨花(しみず りか)はしばらく言葉を失い、返答しようとしたその時、急にビデオ通話がかかってきた。 「梨花さん、見て!辰昭さんがまたあなたのために大奮発してるよ!」 画面に映し出されたのは、今まさに進行中のオークション会場だった。 前列に座る、気品と見栄えを兼ね備えた一人の貴公子が、何のためらいもなく、次々と数億の骨董品を落札している。 会場内は早くも沸き立っていた。 「九条家の御曹司、奥さんに本当に尽くしてるな。笑顔が見たいだけで、こんなに骨董を買うなんて」 「八十億なんて、彼にとっちゃ端金さね。聞いた話だと、九条さんは奥さんのために梨花荘って邸宅まで建てたらしいぞ。名前だけで、どれだけ奥さんを愛してるか、伝わってくるよな」 その隣で、一人の富豪が鼻で笑った。 「見せかけだけだよ。どうせ裏じゃ、女遊びしてるんだろう」 その一言に、すぐに非難の声が飛び交った。 誰もが九条家の御曹司の溺愛ぶりを語っている。 その囁きに耳を傾けながら、梨花はふっと苦笑した。 第1話 【九条奥さん、十日後に放火で偽装死をご計画の件、弊社への正式なご依頼ということで、よろしいでしょうか?】 このメッセージに、清水梨花(しみず りか)はしばらく言葉を失い、返答しようとしたその時、急にビデオ通話がかかってきた。 「梨花さん、見て!辰昭さんがまたあなたのために大奮発してるよ!」 画面に映し出されたのは、今まさに進行中のオークション会場だった。 前列に座る、気品と見栄えを兼ね備えた一人の貴公子が、何のためらいもなく、次々と数億の骨董品を落札している。 会場内は早くも沸き立っていた。 「九条家の御曹司、奥さんに本当に尽くしてるな。笑顔が見たいだけで、こんなに骨董を買うなんて」 「八十億なんて、彼にとっちゃ端金さね。聞いた話だと、九条さんは奥さんのために梨花荘って邸宅まで建てたらしいぞ。名前だけで、どれだけ奥さんを愛してるか、伝わってくるよな」 その隣で、一人の富豪が鼻で笑った。 「見せかけだけだよ。どうせ裏じゃ、女遊びしてるんだろう」 その一言に、すぐに非難の声が飛び交った。 誰もが九条家の御曹司の溺愛ぶりを語っている。 「この世界で、まだ愛が存在すると信じられるカップルがいるとしたら、それはあの二人だけだよ」 「九条さんって、若くして名を馳せた天才画家だろ。でも一躍有名になったのは、あの『梨花』って作品だったよな。あれ、九条奥さんをモデルに描いたんだって。 彼は奥さんを全てのインスピレーションの源だと言った。彼の絵から、奥さんに対しての想いが伝わってくるよ」 その囁きに耳を傾けながら、梨花はふっと苦笑した。 彼女と九条辰昭(くじょう たつあき)の結婚は、典型的な政略結婚だった。 初めて会ったのは、婚姻届を提出した日だった。 実家で十分な愛情を受けられなかった彼女は、結婚生活に何一つも期待していなかった。 だが意外にも、辰昭から特別な優しさをもらってしまった。 彼は、彼女がピーナッツアレルギーであることを覚えてくれていた。 乳糖不耐症のことも、気遣ってくれていた。 誕生日には、高価で美しいプレゼントを用意してくれた。 梨花の心は、少しずつ、彼の方へ傾いていった。 彼を亡き母の墓まで連れて行った。 その場で辰昭は、厳かにこう誓ったのだ。 「お義母さん、どうかご安心ください。梨花は僕にとって、何よりも尊い大切な存在です。今生をかけて、梨花を必ず幸せにします。もし僕が梨花を裏切るようなことがあったら、一生、愛する人を失う罰を受けよう」 昔のシーンを思い出すと、梨花は自嘲するようにもう一度笑った。 いつから、すべてが変わってしまったのだろう。 おそらく、辰昭はもうあの世に去った初恋の妹・望月唯稚子(もちづき いちこ)を家に迎え入れ、大切にしていた時から。 あるいは、唯稚子が帰国した日、唯稚子が彼の胸に飛び込んだ……しかし彼がそれを止めなかった、あの瞬間から。 または、彼のシャツについた口紅の痕、鎖骨の下に残るかすかな歯形を見た、あの時からかもしれない。 梨花はもう、自分をごまかし続けることはできなかった。 「九条さん、これらすべて、奥さんへのお誕生日プレゼントですか?」 ビデオの声に、意識を引き戻された。 画面の中で、辰昭の澄んだ声が響いた。 「違います。ただのちょっとした物です。妻の誕生日には、もっと良いものを用意してます」 その一言に、またしても令嬢たちの羨望のため息が漏れた。 梨花が通話を切ろうとしたその時、かすかにこんな声が聞こえた。 「辰昭さん、本当に十日後、梨花さんに盛大な結婚式をやり直すつもり?」 「もちろんだ。梨花のことは最優先だ、しっかり準備しろよ」 「了解。じゃあ……明日の夜、唯稚子の打ち上げパーティー、梨花さんも誘う?」 「いや、彼女には知らせるな」 辰昭がまだ何か言っているが、梨花にはもう、それが聞こえなかった。 彼女は、静かに通話を切った。 そして、先ほど届いた最終確認のメッセージをじっと見つめながら……ゆっくりと、けど確かな動きで文字を打った。 【承知しました。お願いいたします】 第2話 まもなくして、辰昭が外から慌ただしく帰宅した。 一日中何も口にしていなかったのか、梨花は立ち上がった拍子にふらつき、辰昭にしっかりと支えられた。 「今日も、ちゃんと食べてなかったの?」 辰昭の目には、深い心配の色が宿っていた。彼はそっと彼女を抱き上げた。 ふたりの距離が近づいた瞬間、ふわりと甘い果物の香りが鼻をかすめた。 梨花は香水を使わない。ならばこの香りの持ち主は、言うまでもなかった。 「何考えてるんだ、梨花ちゃん?」 辰昭は甘えるように彼女の頭を撫でた。 その時、梨花はふと、彼の手にうっすらとついた紅い唇の跡に気づいた。 結婚の翌日、辰昭はこっそりと腕に梨の花のタトゥーを入れていた。 「君を心臓とつながる血管の上に刻むことで、僕たちの心は通じ合うんだ」 彼はそう言っていた。 しかし今、そこには、彼女以外の女の痕跡があった。 胸がまた痛み出した。重く、鋭く、心臓を貫くような痛みだった。 「もしかして、空腹すぎて頭がぼーっとしてる?」 辰昭は面白そうに笑い、梨花の額にキスを落とした。 そして使用人に、温めていた料理を運ぶように指示を出した。 かつては毎日、辰昭自身が彼女のために料理を作っていた。 だがいつからか、仕事が忙しくなり、その役目は自然と使用人へと移っていった。 「僕も一緒に食べよう、食生活が乱れると胃を壊すからね」 そう言いながら、辰昭は梨花をそっとダイニングチェアに座らせ、食器を揃え、手を洗ってから魚の骨を丁寧に取り除いてくれた。 「……うん」 梨花は、胸の奥に広がる苦さを押し込めながら、彼がよそってくれた料理を小さく口に運んだ。 食べ始めて間もなく、辰昭の携帯が執拗に鳴り出した。 彼は発信者の名前を一瞥し、わずかに眉をひそめた。 梨花が気にしていないことを確認すると、手を拭き、立ち上がって別室へと向かって電話に出た。 戻ってきた彼の顔には、どこか落ち着かない影が走っていた。 「梨花、アトリエに急用ができた。行かなきゃ。今夜は待たなくていい、早めに休んで」 そう言って、辰昭は今日のオークションで手に入れた骨董品をテーブルに置き、「もっといいものを改めて買うから」とだけ言い残し、慌ただしく家を出ていった。 料理がすっかり冷えきる頃、梨花はようやく席を立ち、階上へ向かった。 ベッドに横たわると、ちょうど唯稚子のSNSの投稿が目に入った。 【ほんの微熱なのに、彼氏が看病したいって押しかけてきた。ごはんまで作ってくれたよ。彼の手作り料理、最高!】 添えられていたのは、エプロン姿で料理をする男性の手元の写真だった。 唯稚子は美術界である程度の知名度があり、十数万のフォロワーを抱えている。 この投稿が出るや否や、コメント欄は大きな騒ぎとなった。 【これって、唯稚子が前に言ってた、右手には億単位の保険がかけられている先輩でしょ?】 【こんな先輩、どこにいるの?私も欲しい!】 梨花はその手元の写真を見つめながら、かつて辰昭が自分に言ってくれた言葉を思い出した。 心臓が、巨大な拳にぎゅっと握り潰されるような痛みに襲われた。 【そんなのどうでもいいでしょ?うちの九条若様こそ、本物の愛妻家だぞ!】 誰かが今日のオークションの動画をアップすると、たちまちコメントの潮流は覆った。 【うわああ、これぞ真の愛のかたちだよな!?八十億円だぞ!?私なら、何百年も稼げないんだわ!】 【凄い!九条若様のラブラブぶりを知らない人がいるの?妻が事故で擦り傷ができた時、意識が戻った瞬間に最初に自分が見えるように、命がけで車を飛ばして駆けつけたって!】 【うちの九条若様、もう愛の神なんだよ!奥さんが贈った数珠、もう何年も経ったのに、今も肌身離さず持ってるよ!】 その動画の下では、唯稚子のファンたちは沈黙した。 辰昭の八十億と比べれば、ただの手料理では到底太刀打ちできなかった。 だが、突然……新規登録されたばかりのアカウントから、三枚の写真が投稿された。 一枚目は、アローラ島のワイナリーの名義変更の書類。 二枚目は、四十億円の価値を持つ海の心と呼ばれる宝石。 三枚目は、フェラーリのボンネットに腰掛け、鍵を手にした唯稚子の姿。 その投稿には、こう記されていた。 【他人が持ってるものは、うちの唯稚子にもあるんだ】 再びコメント欄は沸き上がり、【先輩すごすぎ!九条若様に負けてないね!】と称賛の声が続いた。 その時、梨花の携帯に、不明な差出人からのメッセージが届いた。 開いてみると、こう書かれていた。 【梨花さん、明日の夜は先輩が私のために開いてくれる打ち上げパーティーなの。絶対に来てね!】 音はなかったはずなのに、そこには明らかに唯稚子の得意げな声が滲んでいた。 メッセージの末尾には、レストランの住所が添えられていた。 東海通り1丁目7番42号、東洋亭。 そこは、梨花が辰昭と初めて食事をした場所だった。 そして彼が、「この店は君と僕だけの場所だ、他の人は入れない」と言ってくれた、特別な思い出の場所。 その文字を見つめるうちに、梨花の目にじわりと涙がにじんだ。 手を滑らせて、携帯が顔に落ちた。 鋭い痛みとともに、抑えきれなかった涙が、静かな闇に滲んでいった。 第3話 辰昭はその夜、徹夜で帰らなかった。 梨花は広いリビングにひとりきりで座り、夜明けから真昼過ぎまで、ただじっと待ち続けていた。 そのとき、SNSの通知音が鳴った。 【人気画家・九条辰昭、妹弟子のイベントにサプライズ参戦!師弟愛にファン感涙!】 梨花は自嘲気味に薄く笑った。 やっぱりね。 もうこれ以上待っても意味がないと悟った彼女は、ひとりで母の墓へ向かった。 道中でリシアンサスの花束をひとつ買い、墓前では丁寧に墓石の埃を拭き、花を供え、そっと身を寄せるように座り込んだ。 まるで、こうしていれば、母の温かな腕に抱かれているような気がした。 夜になってようやく辰昭が帰宅した。 梨花がまだ起きていたのを見て、声をかけようとしたそのとき、彼女のカバンの中から線香がはみ出しているのに気づいた。 その瞬間、ようやく今日が梨花の母親の命日であったことを思い出し、辰昭の目の色が変わった。 「梨花ちゃん、ごめん……今日はどうしても抜けられなくて……すべて僕が悪い」 取り乱したように彼は彼女の頬に触れ、慣れた動作で梨花の涙ぼくろを撫でた。 だが梨花の目には、彼の耳の後ろ、髪の下にうっすらと残るキスマークが映っていた。 彼女は静かに彼を押しのけ、「大丈夫」とだけ口にした。 辰昭は機嫌を取るように、翌日、ふたりの肖像画を描かせようと言い出した。 「完成したら写真に撮って、お義母さんの墓前に供えよう。安心してもらえるように」 断ろうとした梨花は、彼の押し切るような視線に負け、しぶしぶ頷いた。 翌朝十時、約束していた画家がやってきた。 「梨花さん、初めまして。唯稚子です、辰昭さんの……妹弟子です」 辰昭の顔にわずかな動揺が走った。手配した画家は彼女ではないはずだった。 「山本先生が今日は都合が悪くて、代わりに私が来ます」 唯稚子は梨花をじっと見つめながら、意味ありげに笑った。 「梨花さん、誰かに言われたことありますか?梨花さんは、私の姉とそっくりだって。 姉も、ここに涙ぼくろがありますよ。 でも違うのはね……姉のは本物で、梨花さんのは……描いたものですよね?」 その言葉を聞いた瞬間、辰昭の表情が険しくなった。 「唯稚子、言いすぎだ。僕の心の中で、誰よりも大事なのは梨花だ」 一瞬、唯稚子の動きが止まった。だがすぐに辰昭に舌を出し、変顔をした。 「も~う、冗談だってば」 そう言って、片腕を梨花の腕に絡め、そのまま画室へと行った。 だがもう一方の手は背中に回され、辰昭の手のひらをなぞるように指で円を描きながら、色っぽい視線を送っていた。 「辰昭さん、このポーズじゃダメだよ~」 描き始めて間もなく、唯稚子は突然筆を置き、辰昭の元へ近寄った。 片手で彼の頬を撫で、もう片手で胸から喉仏、そして肩へと這わせていった。 辰昭の耳元に口を寄せ、ふうっと熱い息を吹きかけた。 「辰昭さん、なんでそんなに固くなってるの?」 辰昭の目つきが一瞬で鋭くなった。 その様子を目の端で捉えた梨花は、心の奥がじくじくと痛み出し、視線を逸らすことしかできなかった。 わずか数分後、唯稚子は再び「梨花さんがもっと愛情込めて」と言ってきた。 「梨花さん、見ててね、お手本を見せます」 そう言って彼女は梨花を押しのけ、辰昭のネクタイを掴んでぐっと引き寄せた。 豊かな胸が辰昭の体に密着し、指先で彼の唇の端をなぞるように触れたかと思えば、挑発するようにキスを落とした。 そして梨花の方を振り返り、挑発的に首を傾けた。 「梨花さん、分りましたか?」 辰昭は梨花の様子を窺いながら、言い訳のように口を開いた。 「芸術をやってる人って、ちょっと距離感が甘くなるんだよ……」 梨花は何も言わず、震える手を懸命に抑えながら、「…失礼します」とだけ囁くように言うと、その場を離れた。 しばらくして戻ってくると、画室から女の吐息まじりの声が漏れ聞こえてきた。 「辰昭さん、ダメぇ……もう壊れちゃうよ……」 女性の片脚が男の引き締まった腰に絡みつき、背中は窓際のカウンターに押し付けられ、彼の動きに合わせて身体が揺れていた。 辰昭の目は血走り、まるで獣のようにその唇を貪っていた。 「わざわざ家まで来て……こうされたいんだろ?」 第4話 梨花は、画室の扉の前に崩れ落ち、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。 自分はもう、十分に強くなったと思っていた。 だが、この光景を目の当たりにした瞬間、彼女の心は音を立てて砕け散った。 どれほどの時間が経ったのか。 中から衣擦れの音が聞こえてきた。 しばらくすると、辰昭が洗面所まで彼女を探しに来て、彼女の真っ赤な目を見てぎょっとした。 「梨花ちゃん、どうして泣いてるの?」 梨花は首を横に振りながら、静かに答えた。 「手を洗ってたとき、洗剤が目に入っちゃって……」 彼はようやく安心したように、ふっと笑って彼女の頬を軽くつまんだ。 「まったく、子どもみたいだな」 絵がほぼ完成した頃、辰昭はマネージャーに呼び出され、その場を離れた。 すると、唯稚子はついに仮面を外した。 「梨花さん、さっきの見てたでしょ。どうしよう?辰昭さん、やっぱり私のことの方が好きみたいよ」 そう言いながら、彼女はシャツのボタンを一つ外し、肌に刻まれた青あざを見せつけた。 「彼と最後にしたのは、いつ?私たちみたいに激しかった?あなた、本当に彼を満足させられてる?」 唯稚子はゆっくりと梨花に詰め寄り、軽蔑の眼差しで梨花を見下ろした。 彼女は梨花の顔に、苦しみや激情の色が浮かぶことを望んでいた。 しかし梨花は、何の表情も見せなかった。 たとえ心はすでに砕け散り、息をするのもやっとだったとしても…… 唯稚子が去った後、梨花は茫然としたまま、画室へと足を運んだ。 無性に……昔の絵が見たくなった。 電気を点けず、暗闇の中を手探りで三階へ上がっていくと、誤って足をくじいてしまった。 足首から鋭い痛みが走ったが、それは心の痛みには遠く及ばなかった。 「理想のカップル」と称賛される数々の絵に、描かれていたすべての涙ぼくろが、今では嘲笑が滲んでいる。 梨花はペンスタンドからカッターナイフを取り出し、絵に描かれた涙ぼくろを一つずつ、削り落としていった。 それとともに、辰昭との美しい記憶も、少しずつ……強引に、断ち切っていった。 辰昭が帰宅した頃、梨花はすでに寝支度を終えて、ベッドに入る準備を整えていた。 辰昭は梨花がよく食べていた料理店の出前を持って、寝室へと駆け込んできた。 彼は出前をテーブルに置き、正座で反省した。 「ごめん、今日のは気分悪かったよね……唯稚子のことは、もうちゃんと叱った。 彼女は……ただの妹分だ。まだ子どもで、分別もない。僕と彼女の姉とのことなんて、もう過去の話だし、何より本人ももうこの世にいなかった。 梨花が嫌なら、もう二度と会わない。どんなに怒ってても、ちゃんと食べて。体に気を付けて」 白昼、唯稚子と情熱を交わしていたはずの男が、今はこうして跪いて、まるで彼女がいなければ生きていけないかのように見えている。 梨花にはもう、どちらが本当の彼なのか分からなくなっていた。 もし、本当に彼がそれほどまでに自分を愛しているのなら…… どうして誓いを忘れてしまったのか。 どうして、彼女を裏切ったのか。 辰昭が料理を差し出した拍子に、ベッド脇に置かれていた本のページが折れてしまった。 彼女がそちらを見ると、彼は気にも留めず、ページを撫でて本を閉じた。 「ちゃんと元に戻したよ。ほら、早く食べて」 懐かしい香りが出前から立ちのぼった。梨花は料理を少し口にしてから、ぽつりとつぶやいた。 「でも、一度折れたページは、もう元には戻らないよね」 今日は特に敏感になっていた辰昭は、この意味深な言葉にさらに緊張した。 「だったら、新しいのを買えばいい。そしたら元通りだ」 彼の瞳はきらきらと光り、まるで梨花しか見えていないようだった。 「梨花のためなら、空の星だって取ってきてやる」 梨花はそのまま口をつぐんだ。言いかけた言葉を、飲み込んだ。 ……新しい本を買っても、あくまで代用品で、元の本ではない。 彼は知っているはずだ。 その夜、ふたりは何も語らなかった。 その後数日間、罪悪感からか、辰昭はすべての仕事をキャンセルし、ひたすら梨花に付き添った。 彼女に付き合って骨董品修復へ行って、ついでに数億円の骨董も買い付けたり、デパートへ連れ出し、新作限定品を一通り買い揃えたり、どこから調達してきたのかピンクのカリナンを手に入れ、それを都心の梨花荘の前に停めて派手に愛をアピールしたりしていた。 その様子はSNSで拡散され、ネット民から【九条若様、孔雀みたいに羽を広げてる】と揶揄される始末。 辰昭本人も、SNSに正座して反省する写真付きで投稿した。 【妻を怒らせてしまい、どうしても許してもらえない……】 その投稿で、ようやく事情を知った人々が、梨花に向けて「許してあげて」とコメントし始めた。 梨花の誕生日まで、あと2日。 出発前に済ませておきたいことがあった梨花は、このタイミングで機嫌を直したふりをした。 辰昭は大喜びし、彼女を抱き上げて何度もグルグル回った。 「君だけが僕のすべてだ!ずっと愛してる!」 食事に向かう途中、辰昭の携帯に何度も着信が入った。 その番号は、梨花にも見覚えがあった……唯稚子のだった。 辰昭は四回ほど着信を切ったあと、ついに一通のメッセージを受信した。 ちらりと見ただけで、彼は動揺を隠せなかった。 「梨花ちゃん、マネージャーから連絡があって、新しい作品の契約にちょっと問題が出たみたいで……すぐ行かないと」 彼は申し訳なさそうに言った。 梨花は、その噓を暴くことなく、静かに頷いた。 彼を見送った後、彼女は道端の店でキャップとマスクを買い、タクシーで彼のあとをつけた。 彼女が辿り着いたのは、かつて最も気に入ったウェディングドレスショップだった。 試着室のカーテンが開いた。 そこに立っていたのは、梨花が一番好きなウエディングドレスを身にまとった唯稚子だった。 「先輩、私、きれい?」 唯稚子の手が辰昭の肩に絡み、指先が彼の喉仏をなぞるように上へと進み、唇の端でエロっぽく撫で回した。 辰昭の目が陰りを帯び、彼女の顔を両手で包み込み、その唇を深くキスをした。 唇が離れたとき、ふたりの呼吸は乱れていた。 唯稚子は辰昭の胸元に身を預け、指先でくるくると円を描きながら言った。 「先輩、このドレスを私が着たこと、梨花さんにバレたら……彼女はきっと怒って狂っちゃうよね」 辰昭の呼吸が荒くなり、彼女の手を引き、試着室の中へ連れ込んで、カーテンをぴしゃりと閉めた。 「バレるわけがない。もともと君には、ちゃんと結婚式をしてやるって約束してた。今日はちゃんと埋め合わせするぞ。 今日は、君が一番きれいな花嫁だ」 その言葉とともに、試着室の中から、艶めかしい音が響き始めた。 第5話 梨花は少し離れた隅に立ち、試着室のカーテンの隙間から、二人の絡み合う姿を見つめていた。 心臓を握り潰されるような痛みに襲われ、胃の奥が激しくかき乱される感覚に包まれた。 込み上げる吐き気をどうしても抑えきれず、彼女はオエッという声が漏れ、身体が小刻みに震えた。 涙が頬を伝い、あとからあとからあふれ出し、全身の力が抜け、梨花はその場に崩れ落ちた。 その背後で、カーテンの奥の唯稚子が、得意げに微笑んでいたことに、彼女は気づかなかった。 家に戻った梨花は、異様なほどの静けさに不安を覚えた。 気を紛らわせようとテレビをつけると、画面には辰昭の新作展が映し出された。 そこには、明るい黄色のドレスを身にまとう少女が、草原を自由に駆け回る絵があった。 専門家の解説によれば、この作品はこれまでの彼の画風とはまったく異なるものだという。 以前の静かで柔らかなタッチとは異なり、生き生きとしたエネルギーに満ちあふれていた。 少女は後ろ姿のみで、顔は描かれていない。 それでも、彼女に注がれた愛情は、画面から強く伝わってくる。 【跳ねる髪の一本一本が、まるで風さえも彼女を偏愛しているように描かれてる】 ネットでは、皆が冗談交じりに【九条若様がまた恋に落ちた】【梨花さんとの結婚が第二段階に入ったのだ」と話題にしていた。 だが、梨花だけは知っていた。あの絵のモデルは自分ではないことを。 あれは唯稚子……あるいは、辰昭が夢にまで見続けて、亡くなった初恋・望月唯稚葉(もちづき いちは)だった。 梨花は深く息を吸い込み、胸の奥に渦巻く痛みを無理やり押し込めて、親友の咲希(さき)に電話をかけた。 咲希が来るのを待ちながら、梨花はこの数年間、辰昭から贈られた品々をひとつひとつ整理し始めた。 結婚一年目、不安でいっぱいだった彼女のために贈られたブレスレット。 「この世で君を繋ぎとめた。君はもう僕のもの。どこにも行かせない」 結婚二年目、亡き母を想って涙した彼女のために、彼は一緒に願い事を書いたラッキースターをいっぱい折り、瓶に詰めてくれた。 「母さんが恋しくなったら、ひとつ開けて。いつでもどこでも、すぐに君のそばに戻ってくる。これからの人生は、ずっと僕が一緒だから」 梨花は、ラッキースターを一つずつ、丁寧に開いていった。 「小さな木を植える」 「コーギーを飼う」 「一緒にゆっくり老いていく」 …… 彼女はその中の一つを写真に撮り、辰昭にメッセージで送った。 だが、画面が再び光ることはなかった。 約30分後、梨花のもとにひとつの宅配便が届いた。 中に入っていたのは、あの日唯稚子が描いた二人の肖像画はずだった。 だがそこに描かれていたのは、梨花と辰昭が並んで座る姿ではなく……ベッドの上で激しく交わる、辰昭と唯稚子の裸の姿だった。 冷たいものが頬を伝い落ちた。 梨花は反射的に手でぬぐった。 いつの間にか、涙はすでに顔が濡れていた。 無表情のまま、彼女はその絵を、辰昭の作品が並ぶ画室にそっと置いた。 そして、今まで受け取った贈り物すべてを段ボールに詰め、庭に運び出し、火をつけた。 しばらく、咲希がきて、彼女は何も聞かず、ただ彼女の肩をそっと抱きしめ、黙って寄り添った。 十数年後の咲希はそう語った。 「その日、梨花の姿をひと目見た瞬間、今にも崩れ落ちそうだと感じた、怖かったよ」 しばらくして気持ちが落ち着いた梨花は、ひとつの願いを口にした。 「お願い、私の葬式を開いて。でも、絶対に九条辰昭を出席させないで。式が終わったら、偽装死の真相を伝えて」 彼女は封筒を咲希に手渡した。 中には、この数ヶ月間、唯稚子から受け続けた挑発の証拠が詰まっていた。 咲希は中身に目を通すと、すぐに表情を曇らせ、怒りを飲み込んでてうなずいた。 すべての準備が整ったころには、すでに夜が更けていた。 深夜2時、辰昭はそっと家に戻ってきた。 梨花がまだ起きているのを見ても、彼は驚くことなく、まるで宝物でも見せるような笑顔で彼女の前に現れた。 「やっぱりまだ寝てないと思ったよ。昼間は忙しくてメッセージ見られなかったけど……ほら、願いを叶えに帰ってきたよ」 彼は窓際の小さなテーブルをベッドの前に運び、買ってきたおでんを二つの器に分けて差し出した。 ラッキースターに書かれていた願いの一つは……「梨花の好きな食べ物を一緒に食べること」だった。 梨花はふと、彼と初めてそのおでんの店に行ったときのことを思い出した。 たしか、辰昭にとってはあれが初めての庶民的な食事だった。 彼はテーブルの油汚れをティッシュで何度も拭きながら、少し嫌そうな顔をしていたのに、彼女が振り返ったときには、甘えるような顔でこう言った。 「梨花、食べさせて。 君が好きなものなら、僕も全部受け入れるよ」 「……九条辰昭」 梨花は、まっすぐに彼の顔を見つめた。 「もし……もう一度最初からやり直せるとしたら、あなたはまた同じ道を選ぶ?」 辰昭は深く考えることもせず、彼女がまた不安になっているだけだと思い、優しくその黒髪を撫でながら、迷いなく答えた。 「やり直せたとしても、僕は同じ道を選ぶよ。 梨花を愛して、甘やかして、一生変わらない」 第6話 翌朝、目が覚めると、辰昭は珍しく早く出かけずにいた。 彼は梨花のために歯磨き粉を絞り、彼女が顔を洗うのをじっと見守った。 「外の風は冷たい。だから、うちの梨花ちゃんの顔は傷つけさせないよ」 そう言いながら、明日すごく大きなサプライズを用意していると、神秘的に話し始めた。 話し終わらないうちに、親友の灰原碧(はいばら あお)から電話が立て続けにかかってきて、何か決められないことがあるから急いで出かけてと言った。 辰昭は申し訳なさそうに梨花を見ると、彼女が許しているのを確認してから家を出た。 彼が出かけたのを確かめてから、梨花は依頼していた偽装死のチームと連絡を取り、翌日の細かい点をすべて確認し、車で梨花荘へ向かった。 何日も来ていなかったせいか、すべてがとても見知らぬ場所のように感じられた。 電話で海都市博物館と連絡を取り、一時間後に館長自らが訪れた。 「梨花、これらをすべて国に無償で寄付すること、本当にいいのか?」 博物館長の土井航(どい わたる)は梨花の師匠の弟弟子で、いわば叔父のような存在だった。 彼女は迷わず頷いた。 「もし何か困ったことがあったら、私に相談しなさい。無理しちゃだめだよ」 梨花は何も答えず、中央に置かれた天女像を見つめていた。 天女は頭を垂れ、優雅な姿勢で微笑みを湛えている。苔に覆われ薄暗くなっていても、世の人々を憐れむ心がそこにあった。 梨花はもうここを去るけれど、これらの骨董品と一緒に葬られるべきではない。 「大丈夫です、土井おじさん、ご心配なく」 梨花が真実を言わないのを見て、航もそれ以上は尋ねず、助手に文物の搬出を指示した後、彼女の肩を軽く叩いて別れを告げた。 「お大事に」 梨花荘には彼女一人だけが残り、家はがらんとしていた。 その時、SNSの通知音がほ鳴った。唯稚子のイラスト集オンラインサイン会のニュースだった。 注目を集めるため、タイトルは【美女画家、かつて愛のために流産】とつけられていた。 梨花は思わずタップすると、画面にはちょうど唯稚子の腹の傷跡が映し出されていた。 「あの時、先輩は私がまだ若くて、妊娠が危険だったから、心配して手術に付き添ってくれたの」 唯稚子は幸せそうに微笑んだ。 「たぶん三年前くらいかな、彼はF国へ研修に行ってた…… 失った赤ちゃんにぴかちゃんという名前をつけてくれた。赤ちゃんがまた私たちのもとに戻ってきて、未来がピカピカに輝くようにと……」 その瞬間、梨花の携帯が手から落ち、画面は蜘蛛の巣のように割れた。 ぴかちゃん……それは彼女が辰昭と初めてやった後、彼が抱きしめながら二人の子のためにつけた名前だった。 唯稚子と彼は子どもがいたのか…… それじゃ、三ヶ月ではなく三年、辰昭は彼女を三年間も騙していた! 突然、唯稚子が誰かに肩を抱かれ、上半身は画面から消えた。 エロっぽいなキスの音が流れ、次に彼女が映ったときは、唇が腫れ、頬を紅潮させていた。 「皆さん、ごめんね。彼氏が嫉妬しちゃって、ぴかちゃんを早く迎えるために頑張るって」 ファンは興奮し歓声を上げ、同時に祝福も送った。イラスト集はよく売れ、彼らへのお祝い金になった。 サイン会がいつ終わったかは分からなかった。 日が暮れ、梨花荘の最後の光が消え、無限の闇が覆い尽くし、人を飲み込む獣のようだった。 梨花は椅子に呆然と座り、電気をつけなかった。 突然、まぶしい光が差し込み、唯稚子からの動画とメッセージだった。 【言ったでしょ、いつか必ず、あなたを踏みにじってやるって】 画面には裸の二人の脚が絡み合っていた。 梨花はすぐ削除しようと思ったが、突然目に入った。 彼女が辰昭のために、命を削って手に入れた数珠が、唯稚子の足首に巻かれているのが見えた。 珠は大きく、二重に巻かれた後、余った数珠がくるりと回り、拇趾で踏まれていた。 「ただの数珠だ。欲しいならあげるさ」 動画の中で辰昭は無関心そうに話していた。 梨花は辰昭があの時、数珠を受け取ったときに言った言葉を思い出した。 「梨花、この数珠はずっと身につけてる。死んでも外さない」 これを見た瞬間、梨花の顔から血の気が引いた。泣き叫びたいのに、目から涙が一滴もこぼれなかった。 彼女の瞳の光は完全に消え失せていた。 真夜中、みんなが眠っている間に、誰にも気づかれず、梨花荘は激しく燃え上がった。 翌朝、辰昭は早くから誕生日会の準備をしていた。 四海ホテルで身支度を終えたところへ、碧が真っ青な顔で携帯を持って飛び込んできた。 「辰昭さん!大変だ!」 その時ちょうど電話が鳴り、辰昭は「シー」と合図をしながら電話に出た。 視線は碧の携帯に注がれ、彼は突然目を見開いた。 あの見慣れたピンクのカリナンは煤で真っ黒になり、かつての優雅な庭は煙に包まれていた。隣には白布に包まれた遺体が担架に乗せられている。 電話の向こうから声が聞こえた。 「九条辰昭さんですか。こちらは海都市警察署です。非常に悲しいですが、奥さん所有の梨花荘は昨夜火災に遭い、奥さんも残念ながら亡くなりました。ご愁傷様です」