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チャンスは3回しかない
夫は、私を愛していない。娘のことも、もっと愛していない。 娘が生まれてから、もう六年が経つ。それなのに、夫は一度も娘を抱きしめたことが...
Chương (1)
第1章
夫は、私を愛していない。娘のことも、もっと愛していない。
娘が生まれてから、もう六年が経つ。それなのに、夫は一度も娘を抱きしめたことがない。
医者は言った。彼は「感情障害」だと。ただ、人並みに愛し方を知らないだけだと。
けれど、あの人——彼の初恋の人が戻ってきた日、夫は珍しく、私たちに微笑みかけたのだった。
そして、信じられないことに、娘にプレゼントまで買って帰ってきた。
私は、やっと心を開いてくれたのだと思った。これから少しずつ、父親になってくれるのだと。
そう思っていた。
でも——
その夜、娘と一緒に見てしまった。夫のスマホのロック画面に設定された写真を。
画面に映っていたのは、満面の笑みを浮かべた夫。片腕には前歯の抜けた女の子を抱え、もう片方の手では、彼の初恋の手をしっかりと握っていた。
娘は、そっと私の手を握りしめた。潤んだ瞳が、何かを訴えるように震えていた。
「ママ……もう、出て行こうか?でも……パパに、あと三回だけチャンスをあげてもいい?」
「その三回で、パパがやっぱり私たちを選んでくれなかったら……そしたら、一緒に行こうね」
第1話
夫は、私を愛していない。娘のことも、もっと愛していない。
娘が生まれてから、もう六年が経つ。それなのに、夫は一度も娘を抱きしめたことがない。
医者は言った。彼は「感情障害」だと。ただ、人並みに愛し方を知らないだけだと。
けれど、あの人——彼の初恋の人が戻ってきた日、夫は珍しく、私たちに微笑みかけたのだった。
そして、信じられないことに、娘にプレゼントまで買って帰ってきた。
私は、やっと心を開いてくれたのだと思った。これから少しずつ、父親になってくれるのだと。
そう思っていた。
でも——
その夜、娘と一緒に見てしまった。夫のスマホのロック画面に設定された写真を。
画面に映っていたのは、満面の笑みを浮かべた夫。片腕には前歯の抜けた女の子を抱え、もう片方の手では、彼の初恋の手をしっかりと握っていた。
娘は、そっと私の手を握りしめた。潤んだ瞳が、何かを訴えるように震えていた。
「ママ……もう、出て行こうか?でも……パパに、あと三回だけチャンスをあげてもいい?」
「その三回で、パパがやっぱり私たちを選んでくれなかったら……そしたら、一緒に行こうね」
私は娘の頭をそっと撫でて、静かにうなずいた。
スマホを元の場所に戻して、何事もなかったふりをしたけれど——
胸の奥に広がる、ひりつくような痛みまでは、どうしても隠せなかった。
小さくため息をついて、私は娘を寝室へ連れて行った。
だって、娘と約束したから。
御堂奕真(みどうえいま)に、あと三回だけチャンスをあげるって。
だから娘は、まるで以前のように彼をパパと呼び続けていた。
父の日が近づいたある日、娘は幼稚園で作った石膏人形を大事そうに持ち帰ってきた。
「パパ、これ……よろこんでくれるかな?」
娘は少し不安そうに私を見上げた。
私は、その細い指のすき間に入り込んだ泥を丁寧に洗い落としながら、白くて柔らかい手にできた小さな傷を見つけて、胸が締めつけられる。
そっと頭をなでながら言った。
「きっと、パパよろこんでくれるよ」
そのひと言で、娘はぱっと笑顔を見せた。
本当は、娘は粘土細工があまり得意じゃない。
でも、以前奕真の書斎で見つけた粘土の人形を見て——
それがパパのお気に入りだと思い込んで、ずっと幼稚園で練習していたのだ。
いくつもいくつも壊しては作り直し、ようやくできた一体だった。
その夜、娘はソファに座って、パパの帰りをずっと待っていた。
私は娘を寝室に連れて行こうと抱き上げた瞬間、彼女は目を覚ました。
「パパ、帰ってきたの……?」
私は首を横に振った。
「ママが抱っこしてお部屋に戻るよ。パパが帰ってきたら、すぐ起こしてあげるから」
「やだ。ここでパパを待つの」
娘は頑として動かず、ソファの隅で目をこすりながら待ち続けた。
そして、ようやく玄関のドアが開いた。
奕真が帰ってきた。
娘は勢いよくソファから飛び出し、石膏人形を高く掲げた。
「パパ!父の日おめでとう!」
奕真は一瞬、目に見えて動きを止めた。
そしてぎこちなく人形を受け取り、「ありがとう」と、ただそれだけを言った。
娘の目がぱっと輝く。
「パパ、気に入ってくれた?」
しかし——
奕真は答えず、そのまま書斎へと入っていった。
娘も後を追おうとしたが、振り返った奕真が冷たく言い放った。
「何度言ったらわかる、書斎に入るなって」
娘はビクッと肩をすくめ、小さな声で「わかった、ごめんなさい、パパ」とつぶやいた。
それでも、彼の顔色をうかがおうとそっと顔を上げたとき、見てしまった。
自分が一生懸命作った石膏人形は、机の隅に無造作に放り出されていた。
なのに、傍らにはぐにゃぐにゃに編まれた赤いミサンガがあり、それを奕真はまるで宝物のように、棚の一番目立つ場所に掛けていた。
娘の目が赤く染まり、ぽつりと漏らした。
「それ……日和お姉ちゃんがくれたの?」
奕真の手が止まった。表情が、ほんのわずかに揺れた。
娘は、何かを悟ったように、すぐにくるりと踵を返して書斎を出て行った。
「ごめんなさい、パパ。もう二度と書斎に入らないから」
第2話
その様子を見ているだけで、胸が張り裂けそうだった。
まだ六歳の娘が——
ただ「パパ」という存在を引きとめるためだけに、相手の顔色を伺って生きているなんて。
奕真、あなたにはあと二回しかチャンスは残されていない。
その夜、娘は泣かなかった。ただ一つ、私に質問をしてきた。
「ママ……パパは感情の病気で、私たちのことをどう愛していいかわからないんでしょ?
でも、なんで……日和お姉ちゃんのことは、あんなに好きなの?
パパ、いつか私のことも、日和お姉ちゃんみたいに好きになってくれるの?」
娘の潤んだ瞳を前に、私は何も答えられなかった。
まさか——
朝比奈詩乃(あさひなしの)とその娘の日和は、奕真にとって特別なんだよ——なんて、言えるはずもない。
詩乃は彼の初恋、日和はその娘。
あの母娘は、ただそこにいるだけで、奕真の愛を受けられる。
でも私と娘は、どれだけ努力しても、どれだけ手を伸ばしても——彼の心には、触れることすらできない。
奕真の書斎には、私と娘が贈ったプレゼントが山のように積まれている。
それなのに、彼は一度も手に取ったことがない。
棚の隅で、ただ埃をかぶっていくだけ。
その一方で、日和からもらったものは、どれも大切に保管されている。
私は娘に嘘をつきたくなかった。
でも、どう言えば彼女を傷つけずに済むのか、言葉が見つからなかった。
そのとき——
娘がふいに私をぎゅっと抱きしめてきた。
まるで全部、わかっているかのように。
私は心の中で、そっと線を引いた。
——奕真、あと二回。
それ以降、娘は一歩も書斎に入ることはなかった。
表面上は、まるで父親の存在など気にしていないように振る舞っていたけれど——彼が帰ってくるたびに、その視線は自然と彼の後ろ姿を追っていた。
けれど、いざ彼が話しかけようとすると、娘は小さく肩をすくめ、怯えた目で身を引いてしまう。
その様子を見た奕真は、それ以上何も言わず、背を向けて部屋に戻っていった。
——そして、娘の誕生日がやってきた。
娘は、意を決したように、奕真に尋ねた。
「パパ……一緒にお誕生日、過ごしてくれる?」
彼は例のミサンガを指でいじっていた。
娘の言葉に気づくと、少し眉をひそめた。
「お前の誕生日って、いつだっけ?」
娘の誕生日を覚えていなかった。
それでも娘は落ち込むことなく、真っ直ぐに答えた。
「明後日だよ。パパ、来られる?」
奕真はしばらく考えたあと、首を横に振った。
「その日は用事がある」
その返事を聞いた娘は、泣きもせず、怒りもせず、ただ小さくうつむいて——
「パパ、お仕事忙しいもんね。私、もっとパパのことわかってあげなきゃだめだね」
そう言って、私の方を見て微笑んだ。
「ママ、じゃあ……おばあちゃんと一緒にお誕生日、しよう?」
その健気な姿に、私は胸を締めつけられながら、娘をそっと抱きしめた。
「うん……おばあちゃんと一緒に、素敵なお誕生日にしようね」
誕生日当日——
娘は、いつも通り明るく振る舞おうとしていたけれど、義母はすぐに異変に気づいた。
「どうしたの、心羽(こはね)?なんだか元気がないわね。誰かにいじめられたの?おばあちゃんに教えて」
娘は首を横にぶんぶんと振った。
「ちがうよ、わたし、ぜんぜん元気だよ!」
義母は娘の頭をなでながら、優しく微笑んだ。
「もしかして、パパが来なかったから、寂しくなっちゃったのね?」
その言葉に、娘は口をもごもごさせて、うまく言い返せなかった。
「パパは、ほんとうに忙しいから来られなかったの。おばあちゃん、パパのこと怒らないでね」
「こんなに可愛い心羽の誕生日を、パパが来ないなんてありえないわ。おばあちゃんが電話してあげる。私の言うことなら、きっとパパも断れないはずよ」
義母がそう言うと、娘の目に希望の光が戻ってきた。
「ほんとに?パパ、来てくれるの?」
義母はスマホを耳に当てて、誰かと話しているふりをしながら、奕真の名前を口にしていた。
でも、実際には電話はつながっていなかった。
そんなこととは知らずに、娘は——
小さな頬を、久しぶりにほんのり赤らめていた。
第3話
「心配しないで。パパ、すぐ来るって言ってたわよ」
私は娘を安心させたくて、義母の言葉に乗った。
今日だけは、心羽にとって、笑顔で終わる誕生日にしたかったから。
「来週、心羽の絵のコンクールがあるのよ。きっとまた優勝間違いなしね」
義母が目を細めて褒めてくれる。
「心羽は本当にすごい子。奕真の会社にも絵の才能ある子が欲しいって話だし、うちの心羽を連れて行ったらどうかしら?」
今まで一度も奕真に褒められたことがない心羽は、不安そうに私を見つめた。
「ママ、わたし、ほんとにできるかな?」
私は力強く微笑んだ。
「心羽なら、きっとできるよ」
食事のあと、心羽がトイレに行くと言ったので、義母が付き添った。
けれど、数分後——
「わたしがパパの娘だもん!あなたなんかじゃない!」
という悲鳴が廊下に響き渡った。
私は急いで駆け出した。
その目に映ったのは、日和が心羽を突き飛ばす瞬間だった。
私はとっさに娘を抱きとめた。
「なにしてるの?どうしてうちの子を突き飛ばしたの?」
振り返ると、日和は目をこすり、涙を一筋流しながら指を差して叫んだ。
「心羽ちゃんがいじわる言ったの!だから、ちょっとだけ押しただけだもん。奕真パパ、助けてよぉ……!」
「あなた、まだ小さいのにもう嘘をつくの?心羽はいじわるなんて言ってないわよ!」
私は日和の指を下ろそうとして手を伸ばした。
三歳のころ、奕真が娘を連れてスーパーに行ったとき、紙おむつの替えが間に合わず、娘はたくさんの人に囲まれながら大泣きした。
それ以来、彼女は「人に指を差される」ことがとても苦手になっていた。
私の腕の中で小さく震えている心羽を見て、私は日和にきっぱり言った。
「やめなさい。心羽を指で差さないで」
日和は聞こえているはずなのに、逆に得意げに指を高く上げた。
私が一歩踏み出したそのとき——
奕真が私の横を通り過ぎ、日和の前に立ちふさがった。
「結城心咲(ゆうきこさき)、お前、何をしてる?」
日和は彼の服の裾を掴んで、すすり泣きながら訴えた。
「奕真パパ、わたし、なにもしてないのに……心羽ちゃんが私生児って……」
奕真の目に怒りの炎が灯った。
彼は日和を優しく抱き上げ、まるで別人のような柔らかい声で囁いた。
「日和は私生児なんかじゃない。奕真パパはずっと、君のパパだよ。
ママは海外でひとりで君を産んで育ててくれた。俺がそばにいてやれなかったのが悪い」
そうだったのか。
詩乃が海外でひとりで産んだ子どもだとばかり思ってたけど、まさか実の父親が奕真だったなんて——
だから、あんなに日和を可愛がってたのか。
初恋が異国で耐え抜いて産んだ子供。
そりゃあ、心底大事にするだろう。
心羽は、その言葉を聞いた瞬間、私の腕の中から抜け出して奕真を見上げた。声が震えていた。
「パパ、あなたは私のパパでしょ?ねえ、日和お姉ちゃんのパパにはならないで……」
奕真は、ほんの一瞬だけ沈黙した。
心羽の涙に、少しだけ心が揺らいだのかもしれない。
けれど——
日和がその首に顔を埋め、甘えるようにしがみついたとたん、彼の瞳はまた冷たくなった。
「心羽、わがまま言うな。帰りなさい」
その瞬間、私ははっきりと見た。
心羽の瞳から、光がすうっと消えていくのを。
そのとき、義母が中から出てきた。
彼女の腕には詩乃が寄り添い、まるで仲睦まじい嫁姑のように見えた。
詩乃は日和が泣いているのを見ても、彼女を奕真の腕から離そうとはせず、代わりにそっと頭をなでた。
奕真も、詩乃と一緒に穏やかな声で日和をあやしていた。
そして、詩乃が手にしていたバースデーハットを受け取ると、奕真は日和の頭にそれを、優しくかぶせてあげたのだった。
第4話
三人が並んで立っている姿は、まるで本物の家族のようだった。
だけど——
この六年間、奕真は一度も心羽の誕生日を祝ってくれたことなんてなかった。
バースデーハットすら、かぶせてくれたことがない。
私は娘の目を覆おうとしたけれど、心羽は私の手をそっと払い、その光景を目に焼きつけるように、じっと見つめていた。
そんな娘の視線に気づいた義母は、すぐに場を取り繕おうとした。
「日和も心羽も、家族なのよ。これからは仲良し姉妹になってちょうだいね」
すると、心羽がふいに問いかけた。
「おばあちゃん……これから、日和も『おばあちゃん』って呼ぶの?」
義母は軽くうなずいた。
「そうね、これからは心羽が妹で、日和がお姉ちゃんってことで、どう?」
まだ六歳の子どもに、何がわかるというのだろう。
大人たちは、ただ心羽が何も知らないうちに、日和をこの家に自然に馴染ませようとしているだけだった。
けれど、心羽は幼い頭で、何かを感じ取っていた。
それ以上何も聞かず、私の手を握ってこう言った。
「ママ、誕生日、もう終わったし……帰ろ?」
——これが、二回目。
奕真、あなたに残されたチャンスは、あと一度きり。
私は彼を一瞥し、娘の手を引いてその場を後にした。
誰一人として、後を追ってきて心羽を慰めてくれる人はいなかった。
私たち母娘のことなど、誰も気にも留めていない。
心羽は、それ以来、急に口数が減った。
胸の中に、言葉にならない思いをいっぱいに詰め込んでいた。
私には、どうやって慰めればいいのかわからなかった。
ただ一つ確かなのは——
心羽の心の中には、まだかすかな希望の欠片が残っているということ。
もし奕真がほんの少しでも優しい顔を見せてくれたなら、心羽は今でも、彼のことを「大好きなパパ」として受け入れるだろう。
数日後、心羽の絵画コンクールがあった。
彼女は、その日、奕真が来てくれることを、ずっと楽しみにしていた。
だから私は、自分から奕真にメッセージを送ることにした。
そのとき、心羽は何か言いたげに顔を上げたが、すぐに視線を落とし、か細い声でたずねてきた。
「パパ、ほんとに来てくれるのかな」
「聞いてみなきゃ、わからないよ」
私はその朝、奕真にメッセージを送った。
けれど、夜になっても返事はなかった。
心羽の期待は、時間が経つにつれて少しずつ失望に変わっていった。
「やっぱり、パパって、私のこと好きじゃないのかも」
そう呟いたその瞬間——
スマホに新着メッセージが届いた。
【明日は空いてる。行けると思う】
奕真からの返信だった。
それを見た心羽は、全身から悲しみが抜けて、ぱっと笑顔になった。
「ね、やっぱり……パパは私のこと、ちゃんと好きなんだよ!」
翌日——
絵画コンクールの会場前で、私と心羽は奕真をずっと待っていた。
けれど、彼の姿はいつまで経っても見えなかった。
司会者に促され、仕方なく中へ入った。
でも、心羽の目は絶えず入口を気にしていた。
期待と不安が入り混じる視線だった。
いよいよ出番となり、舞台に立った心羽は、どこか元気がなかった。
司会者が作品の意味を尋ねたとき——
彼女は顔を上げ、審査員席を見て、目を丸くした。
そこには、奕真がいたのだ。審査員として。
心羽はそれだけで、約束を守ってくれたのだと思ったのだろう。
ぱっと笑顔になり、明るい声で作品の解説を始めた。
「この絵の意味は、パパと遊園地に行けたらいいなっていう、願いです」
けれど——
奕真は、彼女の絵には票を入れなかった。
投票したのは、隣にいた日和の作品だった。
最終的に、心羽は優勝した。
けれど、奕真が日和に票を入れた瞬間、心羽の頬には、ぽろぽろと涙が流れた。
それでも彼女は、自分を慰めるように微笑んでこう言った。
「ママ、パパは感情障害なんだよね。きっと、公平に見たんだよ。ちゃんと、理由があるんだよね?」
私は何も言えず、ただ、心羽を抱きしめた。
私と奕真は、釣り合いの取れた家庭環境で、家の紹介で見合い結婚をした。
彼の心に、忘れられない初恋がいることは、最初からわかっていた。
それでも私は、自分から望んで彼の妻になった。
それが、間違いだったのかもしれない。
第5話
みんな言っていた——
奕真は頑固で、しかも感情表現に障害がある。
いったん誰かを心に決めたら、一生変わらない人だって。
それでも私は、自らその人を選んだ。
自ら、傷つく道を選んだ。
そして、娘にも父親からの愛情を奪ってしまった。
「ごめんね、心羽。ママが、間違えた人を選んだ」
娘はなぜ謝られたのかわからないまま、そっと私の涙を指で拭ってくれた。
「ママ、泣かないで」
そう言って、私たちは身を寄せ合いながら、互いの体温を分け合っていた。
そのとき——
詩乃が、日和の手を引いて突然現れた。
「心羽!あなた、どうして優勝したのよ!?あの絵、日和の真似でしょ!」
何が起きたのかわからず、私も娘も呆然とした。
詩乃の後ろには、審査員たちと野次馬のような観客が続いていた。
観客たちの視線が、心羽の姿にじわじわと集まっていく。
「朝比奈さんって、海外で有名な画家ENなんだって。そんな人が言うんだから、心羽ちゃんは絶対パクリだよ」
「ENの娘である日和ちゃんが負けるなんて、おかしいって。心羽ちゃんが盗作したに決まってる!」
EN——
その名義は、間違いなくこの私のものだった。
それなのに——
彼らは、ENが詩乃だと信じて疑っていなかった。
詩乃の得意げな顔を見た瞬間、私はすぐに理解した。
彼女が、私の名前と肩書きを勝手に名乗っていたのだ。
詩乃は心羽を指さして言った。
「今ここで日和に謝ってくれたら、これ以上のことはしないわ」
私はすぐに悟った。
彼女は——
心羽に盗作の濡れ衣を着せて、辱めたいだけなのだ。
たとえ無実が証明されても、世間の目は変わらない。
三歳のとき、スーパーでの一件のように、心に傷を残すだけ。
私は即座に娘の耳をふさぎ、詩乃に言い返した。
「心羽が盗作したって?その証拠はどこ?」
詩乃は、心羽の優勝作品と日和の準優勝作品を並べて見せた。
「これを見て。この線、このタッチ、明らかに似てるじゃないの」
数人の審査員が頷いた。
「御堂社長の奥さんの言うとおりですね。確かに、構図もタッチも酷似している」
御堂社長の奥さん?
つまり、御堂奕真の妻だというつもりでここに立っているのか。
だから、これだけの審査員を動かせたのね。
「何があったんだ?」
そのとき、奕真がやって来た。
私は思わず説明しようとしたが、詩乃の方が一枚上手だった。
彼女はすかさず作品を彼に差し出し、しおらしく俯いて言った。
「奕真、私、責めたいわけじゃないの。ただ、証拠がこれだけあったら……
もちろん、心羽ちゃんがわざとやったとは思わない。でも、きっと誰かに影響されたのよ。
だから、こういうことは小さいうちからちゃんと教えておかないと……」
詩乃は、私の名前を出さなかった。
でも、言外に「私が娘に盗作を教えた」と、遠回しに責めていた。
私は強く抗議した。
「奕真、私がそんなことすると思うの!?」
彼は眉間を揉みながら、うんざりした顔で私を見た。
「心咲、もうやめてくれ。どうしていつも詩乃を敵視するんだよ。
見てみろよ、心羽まであんなふうに育てて……!」
私は、彼の言葉を信じられない思いで聞いていた。
心羽が、たまらず声を上げた。
「パパ!私、人のをまねなんかしてないよ!どうして信じてくれないの!?」
けれど——
奕真はただ、深く溜息をついてこう言った。
「心羽、日和に謝りなさい」
たった一言だった。
でも、その一瞬で——
心羽の中の何かが、崩れた。
私は見た。
娘の瞳から、光が完全に消えていくのを。
奕真。
これで、あなたの最後のチャンスも、終わりよ。