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私の誕生日に、夫がドイツ語で浮気を認めた
結婚して六年目、夫は、もう三ヶ月もの間、私に触れていない。 理由を訊けば、「仕事が忙しいし、疲れてるんだぞ」と。 何年も愛し合ってきた...
Chương (1)
第1章
結婚して六年目、夫は、もう三ヶ月もの間、私に触れていない。
理由を訊けば、「仕事が忙しいし、疲れてるんだぞ」と。
何年も愛し合ってきた私は、疑うこともなく、その言葉を信じた。
だけど、私の誕生日の夜、ふとした拍子に、夫の友人がドイツ語で話しているのを耳にしてしまった。
「外で囲ってる女とは、もう切れたのか?毎日通ってたけど、体は大丈夫か?
それにしても、お前の奥さん、何も言わないのか?」
夫は煙草の煙をゆっくり吐き出し、何でもないような顔で答えた。
「もう何ヶ月も触ってないな。雪乃はテクもいいし、まだ飽きてない。でも妊娠しちゃってさ。
うちの嫁は子ども嫌いだから、雪乃には金渡して、しばらくしたら海外で産んでもらうつもりなんだ」
私は拳をぎゅっと握りしめ、黙って涙をこぼした。
夫は少し慌てた様子で「どうしたんだ?」と聞いてくる。
私は首を横に振った。
「あなたの手作りのケーキ、とっても美味しい、感動しちゃったの」
ケーキの甘さが、心の苦さを余計に際立たせていた。私は、ドイツ語が分かることを、夫は知らない。
第1話
結婚して六年目。
夫の久堂風間(くどうかざま)が、浮気をした。
もう三ヶ月も、私に触れてこない。
「家で夫が役目を果たさないのは、たいてい外に女がいるからだよ」
そんな噂話を、最初は信じていなかった。だけど、あの夜、一本の電話がかかってくるまでは。
そのとき、風間はバスルームでシャワーを浴びていた。
彼のスマホが鳴った。
画面を見ると、地元の番号。でも、名前の登録はない。
妙な胸騒ぎがして、私は電話に出た。
「どちら様ですか?」
しかし、向こうは何も言わなかった。
数秒の沈黙の後、ぶつっと切られる。
明らかに、私のことを知っている相手だった。
その瞬間、胸の奥がじわっと冷たくなった。
大切なものが、音もなく崩れていくような、そんな感覚。
無駄な妄想をしないために、私は風間のスマホを開いた。
パスワードは、私たちの記念日。
ロック画面は、二人で笑っている写真。
アイコンも、私たちが手を繋いでいる後ろ姿。
SNSの投稿も、全部私との日常ばかりだった。
何もやましいことはない。
そう思いかけたとき、私はふと、あの番号を検索してみた。
その番号の持ち主は、風間の秘書――芦田雪乃(あしだゆきの)だった。
恐る恐る、二人のトーク履歴を開いた。
一見、やましいやりとりはなかった。
全部、仕事の内容ばかり。
でも、女の勘は、そんな簡単にはごまかされない。
私は続けて、彼の送金履歴を開いた。
見つけてしまった。
彼は、雪乃に何度もお金を振込んでいた。クリスマスの日も、バレンタインの日も……
心臓がぎゅっと縮む。
間違いない、風間は浮気している。
手の中のスマホ画面には、幸せそうに笑う私たち。
だけどその幸せが、今はひどく皮肉に見えた。
あれほど私を深く愛してくれた風間さえ、裏切るのか……
私が風間と出会ったのは、十七歳のとき。
両親を病気で亡くし、南の田舎から親戚に連れられ、東海市(とうかいし)に来た。
何も持たず、何も知らない都会で私は、沈黙と内向で自分を守っていた。
そのせいか、学校では馴染めず、いじめられた。
誰にも助けてもらえず、毎日が辛かった。
そんな私を救ってくれたのが、風間だった。
彼は私をいじめていた生徒たちを追い払い、太陽の香りがするジャケットで、私を包み込んでくれた。
「バカだな、お前。なんで黙っていじめられてるんだよ」
ぽかんとする私に、彼は笑った。
そこから、私たちの絆が始まった。
彼は、学校で一番の友達になり、やがて恋人になった。
最初、彼の両親は私のことを気に入らなかった。「親もいない、体も弱そう」と、反対された。
それでも風間は、私の手を強く握って、両親の前で言った。
「母さん、父さん、俺が結婚したいのはこの人だけだ。彼女じゃなきゃダメなんだ」
息子の強い意志に、久堂家の両親はついに私を認めてくれた。
風間のおかげで、孤独だった私の人生に、初めて光が差した。
彼がドイツに留学したときも、私たちの絆は揺るがなかった。
毎日ビデオ通話で、彼は日常を分け合ってくれた。
二年後、留学を終えた彼はすぐに帰国し、私の元へ戻った。一緒に暮らし、働き、家のこともきちんとしてくれた。
多忙でも家を綺麗にし、私を大切にしてくれた。
少年のころから、風間は変わらず誠実で、その全ての想いを私にくれた。
私は理由もなく彼を愛して、彼なしでは生きていけなかった。
なのに、今、彼は浮気している。
第2話
ほどなくして、風間がバスルームから出てきた。
彼はタオルで髪を拭きながら、私の隣に座る。
「何、ぼーっとしてる?」
我に返って、私は風間を見上げる。
三十歳を過ぎて、彼の顔立ちはさらに深みを増していた。
風間と結婚して、もう六年余り。誰もが私たち夫婦の仲睦まじさを羨ましがった。
「遥香(はるか)、どれほど恵まれての、風間みたいな男を捕まえるなんて」
そう言われるたびに、私も思っていた。自分は、本当に恵まれているって。こんなにも私を愛してくれる人に出会えるなんて。
けれど、今になってようやく気づく。
風間がいつも私を一番に考えてくれて、会社の株を何のためらいもなく私の名義にしてくれていたとしても。
それでも、裏切ることはできるのだと。
「さっきね、誰かから電話かかってきたよ。代わりに出たんだけど、向こうは何も言わないですぐ切っちゃった。
地元の番号だったし、あなたの友達かな?ほら、携帯見てみて」
わざと風間にスマホを差し出し、彼の反応をじっと観察する。
「多分、間違い電話だろ。気にしなくていいさ」
風間はごく自然にスマホを受け取った。
でも、私は見逃さなかった。彼が着信の番号を見たとき、無意識に指先でスマホを二度擦ったことを。
長い付き合いの中で、私は知っている。
それは風間が嘘をつく時の癖だ。
「遥香、先に部屋に戻って休んでて。急ぎの仕事、思い出したんだ。会社の資料がまだ仕上がってなくて」
「今、この時間に?」
「うん、ちょっと急ぎのやつ」
そこまで言われては、私も頷くしかなかった。
「気をつけてね」とだけ伝えて、風間はソファの上の上着を掴み、慌ただしく部屋を出ていった。
彼の背中が見えなくなった後、私はソファに沈み込む。
社長である彼が今さら自分で処理しなきゃいけない書類なんて、あるわけがないのに。言い訳を考える暇すら惜しいのか。
私は思わず苦笑してしまう。
きっと彼は、私が彼をこんなに愛しているから、何も気づかないと思っているのだろう。
唇を噛みしめて、私は探偵をしている友人に連絡を取った。風間のことを調べてほしい、と。
そして、その夜、私の予想通り風間は帰ってこなかった。
翌朝、頭痛をこらえながら起き上がると、探偵の友人から何件ものメッセージが届いていた。
【遥香、自分の目で確かめた方がいいよ】
【もし勘違いじゃなかったら、この証拠はしっかり持っておいたほうがいい】
胸がぎゅっと痛くなる。
メッセージの下には一本の動画ファイル。
私は息を呑み、震える手で動画を再生した。
画面の中、風間の車が道端に停まっている。しばらくして、一人の若い女性が助手席に乗り込んだ。
彼の秘書、芦田雪乃だ。
動画はゆっくりと車に近づいていく。
車内の二人は、夢中で絡み合っていて、周りに気づく様子もない。
キスの音、荒い息遣い。それが映像越しにも聞こえてくる。
私の心は、まるで刃物で切り裂かれるようだった。
どれくらい時間が経ったのだろう。二人は名残惜しそうに車から降りる。
雪乃は風間の手を引き、甘えたように言う。
「社長、やっと会いに来てくれたね。家で満たされなかったの?そんなに待ちきれなくて」
風間はしゃがれた声で、目に欲望をたたえて答える。
「遥香には手を出してない」
彼は雪乃の首筋を掴んで、低く囁く。
「俺の妻なんか、お前には到底敵わないよ。こんなに淫らなんだから」
雪乃はまるで侮辱されたことなど気にも留めず、むしろ誇らしげに風間の胸に身を寄せる。
「いいよ、社長は全部私のものだから」
「今夜、泣いても知らないからね」
そのまま二人は連れ立ってマンションの中へ消えていく。
動画はそこで終わっていた。
何を感じているのか、自分でも分からなかった。
悲しいのか、虚しいのか。
私は無感動にキャビネットの上の酒を取り、グッと一口飲み干す。
強いアルコールが喉を焼き、涙があふれてくる。
床に座り込み、私は考える。
どうして風間は、私にこんな仕打ちをするのだろう。
けれど、はっきり分かった。この夫婦関係を続ける意味は、もうどこにもないのだと。
第3話
午後、ようやく頭がはっきりしてきた頃。
私は弁護士に離婚協議書の作成を頼みに行った。
幸いなことに、私たちにはまだ子供がいない。財産を除けば、関係を断ち切るのはそれほど難しいことじゃない。
離婚協議書を手に家に戻った時、風間から電話がかかってきた。「出張に行くことになった」と、いつもの淡々とした声。
でも、夜になって、私は匿名のメッセージを受け取った。
そこには、雪乃と風間が並んで写る写真が何枚も送られてきた。
誰が送ってきたかなんて考えるまでもない。きっと雪乃だ。
スマホの画面を眺める。風間と雪乃、二人で温泉に行ったり、スキーに行ったり。
私の心は、何の波風も立たなかった。
だって、そんなこと、私たちも付き合い始めてから十年の間に何度もやってきた。
毎年、どこかに旅行に行くのが恒例だった。ロンドン、パリ、アイスランドのオーロラも見た。
「世界を見に行くときは、遥香がそばにいてくれたら、それでいい」そう言ってくれたのは、風間だった。
でも今、雪乃が現れてからは、彼のそばには別の女がいる。
思い返せば、私と風間は一緒にいる時間が長すぎたのかもしれない。
若いころから数えて、もう十年。
彼が飽きるのも、普通のことなんじゃないかって、自分に言い聞かせた。
それでも、胸がきゅうっと痛くなる。
苦しくないはずがない。私は、最初から最後まで、彼だけを愛してきたのに。
風間が帰ってきたのは、三日後のことだった。
彼は私にプレゼントをくれた。
昔と同じ、高価なダイヤのネックレス。
風間は出張や仕事で家を空けるたび、こうやって必ずプレゼントを用意してくれた。名目は「償い」
「お前のそばにいられなくて、夫としての責任を果たせなかった分、ちゃんと機嫌を取らないといけないから」って、優しい顔で言ってくれた。
前は、そんなプレゼントをもらうたびに、素直に嬉しくて、笑顔で受け取っていた。
でも今は、笑顔すら作れなくて、ただ口先だけで言った。
「ありがとう。うれしいよ」
風間は、私の様子には気づかなかった。
それとも、ここ数日雪乃に付きっきりで、私のことを気にする余裕もなかったのかもしれない。
「気に入ったなら良かった。先にシャワー浴びてくるね」
そう言って、風間はバスルームへ。
彼が出てきたとき、私はもうベッドに入って、彼に背を向けて横になっていた。
会話は、なかった。
風間は私を抱きしめた。でも、心はどこか遠くを見ているようだった。
そして、私の誕生日がやってきた。
風間は例年通り、私のために誕生日パーティーを準備してくれた。
サプライズも、ケーキも、とても素敵だった。
友人たちも、変わらず笑顔で私たちを祝福してくれた。
でも、ケーキを食べる頃だった。
風間の友人が、ドイツ語で彼に話しかけているのが聞こえた。
「外で囲ってる女とは、もう切れたのか?毎日通ってたけど、体は大丈夫か?
それにしても、お前の奥さん、何も言わないのか?」
風間は煙草の煙をゆっくり吐き出し、何でもないような顔で答えた。
「もう何ヶ月も触ってないな。雪乃はテクもいいし、まだ飽きてない。でも妊娠しちゃってさ。
うちの嫁は子ども嫌いだから、雪乃には金渡して、しばらくしたら海外で産んでもらうつもりなんだ」
私は拳をぎゅっと握りしめ、黙って涙をこぼした。
風間は少し慌てた様子で「どうしたんだ?」と聞いてくる。
私は首を横に振った。
「あなたの手作りのケーキ、とっても美味しい、感動しちゃったの」
このときほど、自分がドイツ語が分かることを、憎んだことはなかった。
第4話
風間は、そんな私を見て目を細めて笑った。
彼は私を抱きしめ、顔にキスしようと身をかがめてきたけど、私はさっと身をかわして避けた。
もう彼と別れる覚悟はできていたけど、こんな人目のある場所で揉め事を起こすつもりはなかった。
大人なんだから、せめて自分のプライドくらいは守りたい。
だから私は、何気なく理由を作ってその場を離れようとした。
「病院の患者さんが呼んでるの。ちょっと行かなきゃ」
風間は眉をひそめて、ほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
「でも今日はお前の誕生日だろ?少しくらい休んだっていいじゃないか」
私は昔のように、彼の眉を優しくなぞってみせて、穏やかにあやした。
「大丈夫よ。あ、そうだ、あなたに用意したプレゼント、病院の引き出しに置きっぱなしだったの。すぐ取ってくるね」
私たちが恋人になった日、それは私の誕生日だった。
だから私たちは約束した。私の誕生日には毎年、お互いにプレゼントを贈り合おうって。
私は毎年、彼のためだけにスーツをデザインしていた。
今年も、その例外じゃなかった。
彼が浮気していたことを知る前には、もうデザインも済んでいたし、この三ヶ月で仕上げる時間も十分にあった。
私が強く言うと、風間は溜息をついて、けれども優しい顔で私を見つめた。
「参ったな……じゃあ、せめてロウソクを吹き消してから行ってよ。お前のために作ったアイスケーキ、もうすぐ溶けちゃうからさ」
私は小さく頷いた。
風間は笑いながら私の手を引いて、ケーキの前へ連れていき、ロウソクを吹き消した。
そして大きな声で宣言した。
「俺は遥香と、ずっとずっと一緒にいる!一生、彼女のそばを離れない!」
それを聞いた周りの人たちが、一斉に盛り上がった。
「もう、風間、イチャイチャしすぎ!」
「いやでもさ、もう十年も付き合ってるよね?それでこのラブラブっぷり、羨ましすぎるんだけど!」
その言葉に、私は思わず心が揺れた。
本当は十一年――今年で、私たちは十一年目だった。
でも、彼は、私を裏切った。
私は感情を押し殺し、風間を淡々と見つめながら、彼に握られていた手をそっと引いた。
「じゃあ、プレゼント取ってくるね。遅くなったら帰らないかもしれないから、みんなと楽しんでて」
私は背を向けて、その場を離れた。
病院で患者のことを済ませてから、私はスーツを持って会場に戻った。
十一年目。始まりがあれば、終わりもある。
きっと、この結末もまた、私たちらしい完全な終わりなのだろうと思った。
だけど、ちょうど階段を上がったところで、雪乃が個室のドアを開けて入っていくのを見てしまった。
スーツの袋を手に、私の胸は複雑な思いでいっぱいになった。
風間、そんなに待てなかったの?
ほんの少しの間でも、雪乃を呼び寄せて一緒にいたいなんて。
胸の奥が痛くて、息もできないほどだった。
私は壁にもたれて、目に涙がにじんだ。
そして、親友に電話をかけることにした。
「悠里(ゆうり)、前に言ってた研究所の件……受けることにした」
私の病院では最近、西北地方の特別研究プロジェクトがあった。脳腫瘍の研究で、腕の立つ医者を選抜して派遣するという極秘計画だった。
私の父も脳腫瘍で亡くなり、母もそのショックから鬱になってすぐにこの世を去った。
だから私は、医者になった。そして、いつか、脳腫瘍を克服したい──それが私の夢だった。
けれどその研究に参加すれば、外との接触は制限される。
短くても数年、長ければ十年以上。
風間とそんなに長く離れてしまうかもしれないと思うと、迷いがあった。
悠里は同僚で、同じプロジェクトメンバーでもある。私の悩みを知ったら、「もう、完全に恋愛体質じゃないの!」と呆れていた。
そんな彼女が、今の私の返答に、珍しく驚いた声をあげた。
「本気?あなた、あの久堂さんがいないと生きていけないんじゃなかった?」
私は唇を噛みしめて答えた。
「でも、もう分かったの。人生って、自分のために生きるべきだって」
風間の裏切りのことは、悠里には言いたくなかった。あの人の気性だと、何をしでかすかわからないから。
電話を切って、私は壁にもたれたまま、静かに自分の気持ちを整えた。
第5話
家に戻った私は、持っていくものと捨てるものを淡々と仕分けし始めた。
荷物の整理が終わると、クローゼットの奥にしまってあった、かつては何よりも大切にしていたアルバムを手に取る。
ゆっくりとページを開けば、そこには私と風間の十一年の思い出が詰まっていた。
あの頃の彼は、本当に私のことを愛してくれていた。
若気の至り、無鉄砲だったあの日。暴走してきた車が私に向かって突っ込んできたとき、迷いもせずに私を突き飛ばし、彼自身が何メートルも吹き飛ばされた。
一週間も昏睡状態が続いた。彼が目を覚ましたとき、私は誰よりも泣いていた。
「これから何があっても、私はずっとあなたのそばにいるよ」と、私はそう誓った。
でも、世の中の気持ちなんてあっという間に変わるものだ。
裏切り――それだけは、私には絶対に許せないことだった。
私は写真をすべて破り、ゴミ箱に投げ捨てた。
「何してるんだ!」
いつ帰ってきたのか、風間が立っていた。
ゴミ箱の中の写真を見て、彼の目が赤くなる。
「遥香、どうして写真を破ったの?もしかして、何か不満でもあるの?」
彼が浮気していることに私が気づいたなんて、絶対に知られたくない。だから、適当にごまかした。
「新しいアルバムを作ったから、古いのは捨てようと思って。どうせそのうち黄ばんじゃうし」
その言葉に、彼は少しだけ安心した様子で、私を抱きしめてくる。
「そっか……遥香がそれでいいなら、俺も安心だよ」
悠里と出発の時間を決めて、私はすぐにチケットを買った。
出発は三日後。
残りの二日で、風間に関するすべてのもの――結婚指輪、写真、若い頃のラブレター、全部、跡形もなく処分した。
幸いなことに、風間は雪乃と逢瀬を重ねるのに忙しく、家に戻ることも少なくなった。私が家のものをどんどん減らしていることには気付いていない。
そして、出発の日。
家を出ようとキャリーを引きずった瞬間、風間が帰宅してきて、私を引き止めた。
「遥香、どこに行くの?どうして俺に何も言わないの?」
私は荷物を下ろし、嘘をついた。
「今言おうと思ってたの。病院で特別な患者さんの手術があって、現場に行かないといけないの。心配しないで、家出とかじゃないし、そんなに焦らなくていいよ」
その言葉に、彼はほっとした顔を見せ、私のそばにやってくる。
「じゃあ俺も一緒に行く。最近、全然俺に甘えてくれないし、もしもう俺のこと好きじゃなくなったらどうしようって……」
「なに言ってるの、バカね。そんなわけないじゃない」
私は優しく微笑みながら、カバンから離婚協議書を取り出し、表紙を隠して彼に差し出した。
「ねぇ、これにサインしてくれる?あなたへのサプライズだから」
以前、私は貯金をはたいて風間に星をプレゼントしたことがある。そのときも、こんなふうにして彼にサインをもらった。
懐かしい思い出がよぎったのか、風間は穏やかな顔で、すぐにサインをしてくれた。
「今度はどんなサプライズかな?見せてもらえる?」
彼が離婚協議書を開こうとしたそのとき、スマホが鳴る。
画面をちらりと見て、「ちょっと待ってね、電話出るから」と言い残してベランダへ行った。
私は何も言わず、黙って彼の背中を見送る。
彼がスマホを取り出した瞬間、私はすでに見ていた。発信者は雪乃だった。
風間は、嬉しそうに笑いながら電話に出ていた。
ああ、こんな彼の顔、いつから見てなかったんだろう……
そんなことをぼんやり考えてしまう。
五分ほどして電話が終わると、彼は私のもとに戻ってきた。
「遥香、気をつけてね。俺も会社で急な用事ができたから、先に行くよ」
返事も待たずに、彼は家を出て行った。
私は何も思わず、荷物を引いて家を出た。
そして、搭乗直前。雪乃からメッセージが届く。妊娠のエコー写真が添付されていた。
【青井(あおい)さん、私、もう久堂社長の子を身ごもっているよ。だから、身を引いてもらえる?】
私はそのメッセージには何も返さず、風間に転送した。そして、もう隠すつもりもなかった。
【あなたの愛人が、私のところまで来て騒いでるけど、ちゃんとケリつけたらどう?】
【あ、そうだ、離婚協議書、もうサイン済みだから。役所に行って、手続きよろしくね】
そう送って、私はスマホをゴミ箱に放り投げた。