霜深く、雁は帰らず

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霜深く、雁は帰らず

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藤村朝陽(ふじむら あさひ)は帝都のプレイボーイの御曹司で、数え切れないほどの彼女がいた。しかし、高橋柚葉(たかはし ゆずは)と出会った...

Chương (1)

第1章

藤村朝陽(ふじむら あさひ)は帝都のプレイボーイの御曹司で、数え切れないほどの彼女がいた。しかし、高橋柚葉(たかはし ゆずは)と出会った瞬間、彼は他の女との関係をすべて断ち切った。柚葉は、運命の愛に出会ったと思い込み、両親の反対を押し切って彼に嫁いだ。 七年が過ぎ、柚葉は自分の決断が正しかったと思った。しかし、朝陽は彼女の両親を拉致し、彼らを人質にして別の女に心臓を捧げるように柚葉に迫った。その女は、朝陽が莫大な金を注ぎ込んでも手に入らなかったある女子大生だった。 実は、朝陽が言っていた「一生愛する」という言葉の期限は、たったの七年だった。 第1話 藤村朝陽(ふじむら あさひ)と結婚して七年目、高橋柚葉(たかはし ゆずは)が結婚記念日に彼から受け取ったプレゼントは、心臓の臓器提供契約書だった。 そしてその心臓移植の相手は、朝陽が莫大な金を注ぎ込んでも手に入らなかったある女子大生だった。 その人の名前を見た瞬間、柚葉は迷いもなく契約書をビリビリに破り捨てた。 「朝陽、あんた頭おかしいの?私がそんなこと、同意するわけないでしょ!」 舞い散る紙片を眺めながらも、朝陽は少しも驚かなかった。彼は冷静に床を掃除しながら、静かに言い放った。 「柚葉、君は絶対に同意するよ」 朝陽が本気でやろうと決めたことは、これまで一度も失敗したことがなかった。 その夜、朝陽は柚葉の家族を拉致した。彼女に臓器提供の契約書をサインさせるため。 朝陽はリクライニングチェアに腰掛け、再び契約書を柚葉の目の前に差し出した。 「この臓器提供の契約書にサインすれば、彼らを解放してやる」 彼の声が穏やかだったが、指先の動きがふと止まり、その静寂が柚葉に告げていた。 彼の我慢が限界に近いことを。 柚葉の全身の血は凍りつき、ペンを持つ手は恐怖で震えていた。 まさか朝陽が、あの女のためにここまで狂えるなんて。 崖の先端に一本のロープがピンと張られた。 そのロープには、柚葉の両親、親友、そして八十歳を超えた祖父母まで縛り付けられていた。 結婚七周年の日、最も親しい夫が、彼女の愛するすべての人たちを拉致した。 どれだけ皮肉で、どれだけ滑稽か。 朝陽の我慢は、ついに尽きた。 彼は立ち上がって契約書を手にして、無言のまま柚葉を見つめた。その目には、あからさまな脅しの色だった。 最初、親友の河村楓(かわむら かえで)が「サインしないで!」と声を張り上げた。だが柚葉が反応する暇もなく、朝陽は指鳴らして、ロープが切られた。 二度目、責め苦で見る影もなくなった両親の姿を見て、柚葉は震える手でペンを添えた。 けれど次の瞬間、柚葉の両親が目を真っ赤にして叫んだ。「藤村朝陽、お前は人間じゃない!」朝陽はにこりと笑い、静かに首を振った。次の瞬間、二人は容赦なく波に呑まれた。 三度目、朝陽はハサミを持って柚葉の祖父母の隣に立ち、顔色一つ変えなかった。 柚葉の頬は涙で濡れた。彼女の声は震え、心からの悲鳴だった。 「藤村朝陽、彼らは私の家族なの、おじいさんとおばあさんはもう八十歳だよ!どうしてそんなことできるの?」 それでも朝陽は怒らなかった。彼はただ柚葉に歩み寄ってきた。 「柚葉、俺はこんなことしたくなかったよ。君が俺の言うことを聞かないからじゃないか」 柚葉は怒りで笑った。「じゃあ、私がサインしなかったら?!」 朝陽の顔が一瞬冷たくなり、そしてふっと笑みを浮かべた。彼は優しく警告した。 「そうしたら、彼らも君の両親と同じ運命になるだけだ」 その言葉に、柚葉は思わず数歩後退した。 彼女は目の前のかつて自分を命懸けで愛してくれた人を、信じられない目で見つめた。 七年前、金と女しか頭にないと噂されていた帝都の御曹司、藤村朝陽は、彼女に一目惚れした。 彼女を妻にするために、朝陽は他の女との関係をすべて断ち切り、彼女の名前を胸に刺青した。 周囲の人たちも朝陽の変化を列挙し、口を揃えて彼を褒め称え、柚葉に結婚を勧めた。 それでも彼女は頷かなかった。だがある日、柚葉が危険に陥った時、朝陽は迷いなく飛び出し、彼女の代わりに刃物を受けた。 だから柚葉は、両親の反対を押し切って、朝陽と結婚した。 付き合ってから、朝陽は柚葉をまるで宝物のように扱った。 柚葉が欲しいものなら、たとえ数十億円かかろうと、彼は即座に買い与えた。 誰も柚葉を感心した。彼女は遊び人の御曹司に改悟させたからだ。 だがある日、朝陽がひとりの少女を柚葉の前に連れてきた。 「彼女は小林奈々(こばやし なな)。今日から俺が彼女を囲う」 柚葉が反対する前に、奈々は泣きながら別荘を飛び出した。 「私は貧乏だけど、誇りはある。他人の愛情に割り込むなんて、絶対しないわ!」 その言葉に、朝陽は迷いもなく彼女を追った。 それが、朝陽が初めて柚葉ではない方を選んだ瞬間だった。 その日から、朝陽は早朝に出て深夜に帰る日々が続き、口数も極端に減った。 柚葉が彼の近況を知る手段は、奈々のSNSだけになっていた。 朝陽が奈々に豪邸を贈り、ヨットを贈り、世界で最高のすべてのものを贈ったが、彼女はすべてを拒否した。 「藤村さん、どうかご自粛しなさい」 その拒否が、朝陽の執着心にさらに火をつけた。 柚葉は傷つき、泣きながら問い詰め、ついには離婚届を彼の前に出した。 だが彼は、まるで他人事のように軽く答えた。 「柚葉、平凡な毎日なんて退屈だろ?ちょっとした刺激が欲しかっただけさ。 好きと愛は、ちゃんと区別してる。藤村奥様は一人だけ、それは君だ。 もう離婚の話はやめろ。君を、手放すつもりはない」 彼はさらに柚葉を軟禁し、美味しい食事でメイドたちに世話をさせた。 彼の唯一の要求は待つことだった。彼が奈々に飽きると家庭に戻って、その時柚葉を全身全霊に愛するつもりだった。 朝陽が家に帰ってくる回数はどんどん減り、柚葉は逃げ出す方法を考え続けていたが、 彼は突然戻ってきて、臓器提供契約書を手にして彼女にサインを強要してきたのだ。 奈々は先天性の心不全を患って、突如として発作を起こした。今心臓移植が必要だった。 そして、唯一の適合した人は柚葉だった。 柚葉は、朝陽が契約書を持ち出すことは予想していた。 だが、彼が奈々のため、柚葉の家族を拉致して、彼女の一番愛する人たちの命で脅してくるなんて、思いもしなかった。 「サインする」柚葉の声は震えを帯びた。 柚葉はペンを手にし、迷いなく契約書にサインした。 柚葉がサインすると、朝陽はサインの真実性を確認するように紙を丁寧に摩った。 確認した後、朝陽はすぐに車に乗り込んだ。残されたのは、車の排ガスだけだった。 柚葉は排ガスにむせながらその場に立ち尽くし、胸を刺されたような痛みで、息を吸うことさえ苦痛だった。 そして、底知れぬ海を見つめながら、柚葉は死亡を選ぼうとした。 崖の奥へ歩き出したそのとき、背後から母の声が聞こえた。 「柚葉」 …… 母の話を聞いた後、柚葉はすべてを悟った。朝陽は最初から、海の下に救助隊を待機させていた。 この茶番劇のすべては、彼女にサインさせるための計画だったのだ。 その瞬間、柚葉の目尻がじわりと赤く染まった。 これが、かつて「愛してる」と何度も囁いてくれて、七年もの間、同じ枕で眠ってきた夫の正体だった! 柚葉は両親と楓を見て、静かに言った。「おとうさん、おかあさん、航空券は取ってある。おじいさんとおばあさんを連れて、先に行って。楓、空港までお願いね」 柚葉の母は心配そうな目で尋ねた。「柚葉、あんたは?」 「離婚の手続きが済んだら、すぐに追いかけるから」 翌日、朝陽は「補償として何が欲しいか」と柚葉に尋ねた。 柚葉は彼に一枚の不動産譲渡契約書を差し出した。契約書の下に、離婚届があった。 朝陽はタイトルを見た後、何も疑わないでサインした。 「柚葉、海が好きだったよな?未来で君が子供をはらんだら、家族で海辺に引っ越そう」 柚葉は、すでにサインされた離婚届を見つめながら、無表情のままうなずいた。 だが、彼女の心の奥では「藤村朝陽、私たちに未来なんて、もうない」と呟いていた。 第2話 柚葉が書類を手にして立ち上がろうとしたその時、朝陽の話が彼女の足をその場に釘付けにした。 「そうだ、言い忘れてた。義父母の体調が良くないから、うちの療養所に迎えておいたよ。 君も、義父母が海外旅行を希望してたって言えばいいのに。なら、婿として孝行するのが当然だろ?」 その言葉を聞いた柚葉は、足元から力が抜け、数歩も後退した。 しばらくしてこの情報を飲み込むと、彼女は目が真っ赤になり、声を震わせて問いかけた。「どうすれば、両親を解放してくれるの?」 朝陽は手元のタバコを静かに揉み消し、その手のひらを柚葉の頭にぽんと置いた。 「いい子にしてて。手術が終わったら、俺が責任持って義父母の世話をするよ」 その声はやけに優しいけど、脅しの色も帯びた。 柚葉は思わず自嘲して笑った。最初から心臓移植を逃げるつもりなんてなかったのに、どうしてここまで手間をかけるの? 朝陽は続けた。「柚葉、もうひとつ頼みたいことがあるんだ」 柚葉は問いかけようとした瞬間、グツグツと煮えたぎるすき焼きが目の前に置かれた。 朝陽は説明した。「奈々、なかなか頑固でね。何度誘っても別荘に来てくれない。だからさ、ちょっとだけ、君の手に火傷してもらって、俺が彼女を誘って食事作りを頼む。 だって、君は彼女の命の恩人だ。恩返しのために、来てくれるに違いない」 柚葉はその言葉を聞いて、信じられない表情を浮かべた。 朝陽がこんなことを言うなんて、どうしても思いもしなかった。 以前、彼女がたった一本の髪が抜けただけで心配してくれた彼が、今は別の女のために、彼女の手を火傷させようとしていた。 柚葉は煮えたぎるすき焼きを見て、全力で叫びなからもがいた。 だが朝陽は、ボディーガードたちに命じて柚葉の手を鍋に押さえた。 彼は柚葉の焼け爛れた手を見つめて、彼女の魂を切り裂くような絶叫を聞いたが、ただ傍観していた。 彼女の手がすっかり原形を失ってから、ようやくボディーガードたちは手を止めた。 その瞬間、柚葉の朝陽のために鼓動していた心が、静かに止まった。 家庭医が包帯を巻く中、朝陽は関心の一言も言わず、スマホで彼女の火傷した手の写真を撮ると、奈々へ電話をかけ始めた。 「奈々、嘘じゃないよ、柚葉がほんとに怪我したんだ。俺、今から病院迎えに行く」 そして彼が去ると同時に、ボディーガードたちが柚葉の周囲を囲んだ。 「奥様、旦那様のご命令で、これから病院で人工心臓の適合検査と身体検査を受けてください」 柚葉は苦笑した。自分を傷つけたのは彼だが、今、優しく取り繕うのも彼だった。 拒否権なんてあるはずもなかった。彼女は傷だらけの手を抱えながら、病院へ連れていかれた。 病院から戻った頃には、別荘にいたのは奈々一人だった。 奈々は白いワンピースに病弱な肌色で、誰が見ても守ってあげたくなった。 彼女は柚葉を見るなり、淡々と口を開いた。 「高橋さん、あなたが心臓をくれるからって、あたしは愛人になるつもりはない。ちゃんと藤村さんを監督していただかないと、あたしはすぐ離れる」 心臓をもらう相手に、まさか自分の夫の監督をしろと言われるとは。 彼女はこの婚姻がこんなにも失敗で、滑稽だと初めて痛感した。 だが柚葉は言葉を返さず、ただ自室に戻ってそのまま眠りについた。今日一日疲れ切っていたので、彼女はただ休みたいだけだった。 だが、次に目を開けた時、柚葉は頭がうつらうつらしていた。 ドアを開くと、別荘につんと鼻を突く匂いが立ちこめていた。 柚葉はすぐに口と鼻を押さえ、台所へ駆け込んだ。そこには、誰もいないのに、ガスの元栓が開いたままになっていた。 彼女の心は一瞬で冷たくなった。もし途中で目を覚まさなかったら、結果は想像もつかないほど恐ろしいものになっただろう。最悪の場合、この部屋で命を落としていたかもしれない。 柚葉は違和を我慢してガスを止めたその直後、奈々がのんびりと帰ってきた。 柚葉は奈々を見て、怒りに震えながら台所を指差した。 「常識がないの?料理しながら、ガスを止めずに外出するなんて、気づかなかったら、本当に死んでたかもしれないのよ?!」 奈々は、すぐに悔しくて涙を浮かべようとした。「ただ、食材を買いに出ただけなのに、そんなにひどいわけないでしょ? あたしのことが嫌いなら、あたしが出て行けばいいのに、なんでこんな口実で辱めたの?」 そう言って彼女はバッグを掴み、別荘を飛び出したが、その直後、ちょうど帰ってきた朝陽の胸に飛び込んだ。 「どうした?誰にいじめられたの?」 奈々は目が赤くなった。「ちょっと出かけてただけなのに、高橋さんに殺人犯扱いされて、人格まで否定されたわ!」 朝陽の目には、奈々への深い憐れみが浮かんだ。彼は優しく言った。「どうしたら気が済む?」 奈々は唇をきゅっと噛み締めながら訴えた。「せっかく彼女のために料理したのに、あんな濡れ衣がかけられて、もう、数日は彼女の顔も見たくないわ」 「分かったよ」朝陽は、甘やかすような声で答えた。 柚葉はその言葉を聞いた後、抑えきれず声を張った。「朝陽、違うの!小林奈々がガスを止めずに外出したの!もう少しで私は……」 だが彼は、冷たく一言で遮った。「奈々がガスを止め忘れた?それで?君は無事だったじゃないか? それに、奈々は病気の身体でわざわざ君のために料理してくれたんだ。少しは感謝したらどうなんだ?」 彼はそう言った後、ボディーガードを呼びつけた。 「奥様を地下室に閉じ込めろ。藤村家の女子守則を十回書き写すまで、外に出すな!」 次の瞬間、柚葉は強行で地下室に押し込まれ、扉もぴったりと閉じられた。 彼女は閉じられた扉を見て、力抜けでその背後にもたれた。 その瞬間、彼女を守るために刃物の前に立ちはだかった朝陽の姿が、彼女の脳裏にふと浮かんだ。 あの頃、瞳を輝かせて「君だけを愛する」と言ってくれた彼は、もうどこにもいなかった。 かつて彼の改悟を信じた自分こそが、一番滑稽な存在だった。 第3話 一日一夜、柚葉は頑なに一文字も書かなかった。 このことが朝陽の耳に入ると、彼は怒り狂って柚葉の食事をすべて停止した。 柚葉はこのまま餓死するかもしれないと覚悟したが、ある日、地下室の扉が開いた。 現れたのはボディーガードで、彼は少しばかり同情を含んだ声で、柚葉の心に重くのしかかった言葉を言った。 「奥様、旦那様からの命令です。ご祖父母の葬儀へご案内いたします」 …… 葬儀へ向かう車の中で、柚葉は祖父母の死因を知った。 彼らはもともと年老いていたうえに、長時間にわたる高所での吊り下げによって、脳への血流が著しく不足した。 救急搬送されてから二日間、ついに、二人とも亡くなった。 すべてを知った瞬間、柚葉の胸は大きな手に掴まれたような痛みで、呼吸さえできなかった。 彼女は後部座席で身を縮め、肩を抱きながら、ついに声をあげて泣き出した。 「ごめんなさい、おじいさん、おばあさん、私、間違ってた。藤村朝陽なんかと結婚しなければよかった……」 柚葉が喪服に身を包み、葬儀会場に足を踏み入れた瞬間、周囲のひそひそ話が耳に飛び込んできた。 「聞いた?高橋さんの祖父母が亡くなったのって、藤村さんが追いかけてるあの女子大生のせいらしいよ。まったく、あの高橋さんってホント役立たずよね。夫ひとりまともに手綱握れないなんてさ」 「えっ、マジで?藤村さんの愛人、面の皮厚すぎでしょ。つーか、金持ちの愛って本当信用ならないよね。一秒前はお姫様扱い、次の瞬間に親の命が奪われるんだもん」 「まあ、自業自得でしょ?玉の輿に乗ったときから、こうなる運命だったのよ」 そんな言葉の数々が、柚葉の心に鋭く突き刺さった。無視して通り過ぎようとしたそのとき、背後から朝陽の鋭い声が響き渡った。 「奈々の悪口を言う奴がいたら、その口を引き裂いてやるぞ!」 柚葉が振り返ると、彼の隣には真っ赤なドレスを着た奈々の姿があった。 その手はしっかりと朝陽の裾を掴み、子猫のように寄り添っていた。 それを見ると、柚葉の口元に皮肉げな笑みが浮かんだ。 彼女も笑われているのに、彼は見向きもせず、奈々だけを庇った。 柚葉は冷たい目で朝陽に言った。「これは私の祖父母の葬儀よ。他人に来てほしくないの」 「他人」という言葉に強く力を込めた。 だが朝陽は眉をひそめ、奈々を背に庇いながら言った。「柚葉、奈々は本気で参加したくて来たんだ。君の気持ちは分かるけど、彼女に八つ当たりするのは違うだろう」 「本気で?葬儀会場に真っ赤なドレスで現れるのが、本気なの?」 柚葉は思わず笑ってしまった。 朝陽がすぐ庇うように口を開いた。「柚葉、それは言い過ぎだ。どうして彼女の真心をそこまで踏みにじれるんだ? 奈々は純粋なんだよ。赤は祝福の色ってだけで、君は考えすぎだ」 柚葉はその言葉を聞くと、ふっと自嘲気味に笑った。その瞳に残っていたのは、ただ深い失望だけだった。 今の自分がどれだけ言葉を尽くしたとしても、奈々の一言には到底敵わなかった。その現実を思い知らされ、柚葉は黙るしかなかった。 ふと、周囲を見渡してみると、両親の姿がどこにも見えなかった。柚葉は眉をひそめて口を開いた。 「朝陽、私の両親は?」 彼の顔に一瞬の不自然が浮かんだ。「療養院にいる」 柚葉は目を大きく見開いた。「朝陽、あんた分かってるの?ここは祖父母の葬儀だよ?なんで両親が出られないの?祖父母は、彼らの両親なのに!」 朝陽は眉をひそめて言った。「柚葉、感情的になるな。移植が終わったら、ちゃんと会わせてあげるよ」 柚葉はその場に固まった。彼が両親を心臓移植の交換条件に使うつもりだとは予想していたが、葬式すら参加させないなんて、ここまで狂っているとは、思いもしなかった。 しかし彼女は、必死に感情を抑えながら言った。「逃げるつもりなんてない。彼らを解放して、せめて葬儀には参加させてあげて」 彼女の目に希望が満ちたが、次の瞬間、その全てが容赦なく断たれた。 「ダメだ。 俺が安心できない」 そう言うと、朝陽は電話を受けて会場を去った。 残された柚葉は、会場でぼんやりと立ち尽くしていた。 今すぐ泣き叫びたい気持ちだった。だが理性が囁いた。今は泣くわけにはいかないと。 ここは祖父母の葬式だった。ここには彼女の失態を待ち構える目がいくつもあった。だから、泣くわけにはいかなかった。 彼女は気持ちを整え、導師が棺を開いて祖父母を済度するのを見て、みんなと同じように目を閉じて祈りを捧げた。 だが次の瞬間、奈々の悲鳴が響いた。 彼女の足が火鉢を蹴り倒し、炎が棺へ広がっていった。 柚葉は目を見開き、何も考えずに素手で燃え上がる木材を取り払って炎を消し止めようとした。 だが炎は強く、消し止めた頃には彼女の手はひどく焼け爛れ、祖父母の顔も黒く焦げてしまっていた。 それを見た導師が、奈々を指差して厳しく言った。「遺体を冒涜するとは、失敬千万。この場で跪き、謝罪をしていただきます。それができなければ、儀式は進められません」 奈々は唇を尖らせて言った。「どのみち火葬するのに、そんな大騒ぎするほど?」 柚葉の目が血のように赤くなった。彼女は声を震わせながら、一語一語をかみしめるように言った。「小林さん、私のおじいさんとおばあさんに、跪いて謝罪してください」 周囲の参列者も声を上げた。「早く謝罪しろよ!済度が遅れたら、あんたが責任取れるの?」 奈々は涙目で朝陽を探したが、彼の姿はなかった。 仕方なく、彼女は人々の催促に屈服して、しぶしぶと跪いて地面に額を打ちつけた。 そのとき、朝陽が戻ってきた。奈々は泣きながら彼の胸に飛び込んで訴えた。 「藤村さん、葬儀に来いって言ったのはあなたでしょ?でも、どうしてみんながあたしを責めるの? 赤い服を着ただけで、死人に跪くなんて、ひどすぎるよ!」 朝陽は腕の中の奈々を見つめ、心が張り裂けそうになった。 彼は首の青筋が浮かび上がり、恐ろしい声で叫んだ。「誰だ!奈々に土下座なんてさせたのは誰だ!」 第4話 その場にいた人々は朝陽の怒声に息を呑み、誰もが沈黙した。この御曹司を怒らせたくなかったから。 柚葉は棺が封じられるのを見届けると、表情を変えずに冷たく口を開いた。「私だ」 朝陽は、目の腫れた柚葉を見つめ、怒りを抑え込むように歯を食いしばった。 「柚葉、説明してくれ」 すると、導師が口を挟んだ。「藤村さん、この方が亡き方の遺体を冒涜したのです。謝罪しないと……」 しかし柚葉は遮るように言った。「お気遣いなく。でも説明するつもりはない」 どうせ何を言っても、朝陽が信じるのは奈々の言葉だけだった。 だから、説明するなんて無意味だった。 朝陽はその態度に更に怒りを燃やそうとしたが、奈々が彼の手を握り、涙ながらに訴えた。 「藤村さん、あたしが悪かったんだ。高橋さんは最初からあたしを歓迎していなかったし、私、今すぐ消える。これ以上、迷惑かけないわ」 奈々が背を向けようとすると、朝陽がその腕を掴んで止めた。 そして、彼は奈々の手を引き、柚葉の髪を無理やり掴ませた。 「この社会は弱肉強食だ。君みたいに下手に出てばかりの人間は、どんどん踏み潰される。だから今日は教えてやる。自分がやったことは、自分に返ってくるってことを」 そして、彼は柚葉を見つめて、冷たく言った。「お前はさっき孝行で土下座させるって言ってるよな?じゃあ、その孝行ぶり、みんなに見せてやれ」 そう言うと、彼は柚葉の頭を地面に押さえつけ、そのまま地面に叩きつけた。 第一回、柚葉の額が赤くなって、朝陽は止めなかった。 第二回、柚葉の額から血が滲んで、朝陽は止めなかった。 第三回、第四回、第五回…… 柚葉はその場に倒れ、意識を失ったまで、朝陽はようやく止めた。 それでも彼は柚葉を見ようとせず、ただ奈々の手を優しく揉みながら聞いた。 「もう分かったか?」 奈々が頷くと、朝陽はその手を引いて、堂々と葬儀の場を後にした。 その後、柚葉は周囲から同情のささやき声が聞こえてきた。 「高橋さん、本当に可哀想だよね。前は藤村朝陽を改悟させたって羨ましがられてたけど、今となっては、自分が彼に選ばれなくて本当に良かったって思うわ」 「祖父母の葬儀でこんな仕打ちを受けるなんて、彼らはあの世でどうやって安らかに眠れるのかしら」 …… 柚葉が再び目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。 診断書にははっきりと、「軽度の脳震盪」と記されていた。 それを見て、柚葉は苦笑した。 七年も愛してきた相手が、他の女のために、自分をここまで傷つけたのだ。 彼があまりにもよく演じていたのか、それとも自分の目が節穴だったのか。 自分で退院の手続きを済ませた後、彼女は気づいた。 朝陽からは一本の電話も、たった一通のメッセージすらなかったことに。 そして数日後、彼の姿は奈々のSNS投稿に現れた。 写真には、朝陽が奈々の肩を抱いて、二人は幸せそうに微笑んでいた。 その投稿の位置情報はモルディブだった。 なるほど、連絡がなかったわけだ。奈々と旅行中だったのだ。 しかも投稿で奈々の親しげな呼び方からして、奈々はもう朝陽に対する抵抗を解いていたようだった。 二人の仲は旅行をきっかけに一気に進展した。 どうやら、朝陽はもうすぐ奈々を手に入れそうだった。 そして、彼から届いた一通のメッセージが、その全てを証明した。 【柚葉、俺が帰ったら時間作って離婚手続きしよう】 第5話 【奈々は他人の家庭を壊したくないって言ったから、仕方なく君と偽の離婚をするだけよ。 遊び飽きたら、君のところに戻るから】 柚葉はそのメッセージを見て指が真っ白になりながらも、【わかった】と返信した。 どのように離婚届を提出できるか悩んでいたが、彼が離婚を切り出したことで、むしろ願ったり叶ったりだった。 柚葉はスマホを握りしめて、嘲笑を漏らした。 藤村朝陽、あなたはなぜ戻ってきたら私が感謝して迎えると思ってるの? ごめん、今回はあなたの思い違いよ。 朝陽が離婚届を役所に提出するとき、わざと審査を止めるよう指示した。 しかし柚葉は最後の藤村家の奥様の名義を使い、審査を急がせた。 たった三日で、彼女は念願の離婚届受理証明書を手に入れた。 離婚届受理証明書を手に入れた後、柚葉は深く息を吸い込み、やっと自由になれた気がした。 二日後、朝陽は奈々に盛大な結婚式を挙げた。 奈々は柚葉の出席を指名した。 「あたしは人のものを奪うつもりはないの。高橋さんの祝福があってこそ、安心できるわ」 朝陽はまた柚葉の両親を人質に使い、柚葉は仕方なく出席した。 柚葉は表情を変えずに二人の甘ったるいやり取りを見つめ、心はもはや動かなかった。 ただ、満面の幸福をたたえた奈々を見ていると、七年前の自分を思い出してしまった。 あの頃の朝陽も、今日のように誓った。「一生君だけを愛し、裏切らない。 もし裏切れば、地獄の底に落ちる」と。 だが今となっては、あの誓いがどれだけ皮肉だった。 誓いは言葉にした瞬間だけ有効だったのだ。 そして彼女の間違いは、問題だらけの男の言葉を信じたことだった。 「新郎新婦、指輪の交換です」 司会者の声で彼女は現実に引き戻された。 朝陽の薬指に七年間はめていた指輪はもうなく、ただ赤く深い痕だけがその婚姻の証として残っていた。 次の瞬間、新しい指輪がその痕を覆い隠し、あの笑いものの婚姻を完全に消し去った。 数分で結婚式は終わり、柚葉は立ち上がって離れようとしたが、ある女性のうめく声が突然彼女の足を止めた。 スクリーンには、奈々が朝陽に押し倒され、裸のまま抑えきれなく喘ぐ姿が映し出されていた。 朝陽はすぐに反応し、「消せ!」と怒鳴った。 だが次の瞬間、画面は真っ暗になり、赤く大きな文字が浮かび上がった。 「泥棒猫、地獄に落ちろ!」 鮮やかな赤文字はまぶしく、会場の客はこぞってスマホを取り出し撮影した。 中には大声で話す者もいた。 「高橋さんと離婚したばかりなのに、すぐに再婚だって?これが泥棒猫じゃなきゃ何だよ!」 「こんな図々しい泥棒猫、初めて見たよ。横取りしたばかりで、すぐ派手な結婚式挙げて、まるで泥棒猫だってバレたいみたい!」 周囲の声がどんどんひどくなる中、奈々は崩れ落ちそうになりながら画面を指さし叫んだ。「消して、早く消して!」 柚葉はその場でまだ呆然としていたが、奈々の親友に顔を平手打ちされ、頭が横に振られた。 「あんた、なんて下品な女なの!奈々と藤村さんは普通に付き合って結婚してるのに、なんであんたは結婚式でそんな卑劣なことをするんだ!」 親友が怒鳴り終えると、奈々も涙ぐんで叫んだ。 「高橋さん、あなたがそんな人間なんて信じられない。あたしは善意で幸せを見届けにあなたを誘ったのに、あなたはあたしたちの結婚式を壊し、こんな言葉で人格まで侮辱して、どうしてそんなことをするの?」 朝陽はじっと柚葉を見つめ、その瞳は墨のように深くて感情が読めなかった。 柚葉は顔を覆い、怒りと震えでいっぱいだった。 「会場にいたみんなに聞いてみて。私はずっとここに座っていて、一度も動いてない。何か仕掛ける暇なんてなかった。 それに、そんなくだらないことに興味なんてない……」 「もういい!」 柚葉の言葉を遮って朝陽が鋭く叫んだ。 「こんな時にまだ言い訳をするなんて。 高橋柚葉、今まで奈々に何度も嫌がらせしてきたのは黙ってたが、今回は本当にやりすぎだ! 今から三秒数える。奈々に謝れば許してやる。 三」 「朝陽、本当に私じゃないよ!」 「二」 「私には非がない。謝らない!誰がやったか本当に知らない!」 「一」 「朝陽、私はあなたと七年も一緒にいた。ちょっと調べれば他に犯人がいるってわかるのに、どうして最後の信頼さえも私に与えないの?」 最後に、柚葉の声はほとんど嗚咽に変わっていた。 かつての朝陽は、一生愛し守り、何があっても彼女を信じると言った。 だが今の彼は冷酷な面持ちで、一言一言が彼女への死刑宣告のようだった。 「お前以外、そんなことをやった人がいない」 そう言い終えると、彼はスマホを取り出して電話をかけた。「もしもし、知行学園か?ある奴を行儀を教えに送る。 ああ、そうだ、いつ謝罪するか分からないが、それまで出すな」 柚葉は呆然と立ち尽くし、周囲の人たちは彼女に同情の声を漏らした。 「なんてところだ、弟が一度入ったけど出てから重度の憂鬱になって自殺した。あそこは人がいる場所じゃない」 「藤村朝陽、ひどすぎる。こんなの、愛してた人にすることじゃないでしょ。むしろ仇にすらしない仕打ちだよ!」 第6話 柚葉はその言葉を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。まさか、自分を知行学園に送ったのが朝陽だったなんて、想像もしていなかった。 彼は知っていたはずだ。知行学園がどういう場所か。 数年前、知行学園での生徒虐待事件が暴かれ、数々の惨劇が白日の下に晒された。 学園に、遺体が断片的に発見されたこともあり、その惨状に誰もが戦慄した。 しかし、事件はすぐに揉み消された。後ろ盾の力によって、学園は何の処分も受けず、逆に規模を拡大し続けていた。 当時、柚葉はそのニュースを見て激しい怒りを覚えた。 それを知った朝陽は、彼女をぎゅっと抱きしめた。 「柚葉、怖がらないで。俺がもっと力をつけたら、真っ先にこういう畜生を一掃する。あいつらは必ず法律の裁きを受ける日が来るから」 藤村朝陽、その時の自分の言葉、覚えてる? …… 知行学園での一週間は、柚葉の人生で最も暗い七日間だった。 昼間は明るいホールで女子守則を筆写させられ、刺繍の練習を強制された。 夜になると、彼女は冷たくて真っ暗な部屋で殴られ、服を脱がされて他人の視線の中を歩かされた。 七日が過ぎた頃、顔以外に、柚葉の体には傷のない場所などほとんどなかった。 竹篦を持った先生は、毎日「間違いを認めたか?」という一言だけを言った。 最初は意地っ張りに首を振っていた彼女も、七日目には感情をなくしたように頷いた。 けれど、彼女が間違いを認めたが、朝陽は迎えに来なかった。 新婚で新しい妻と甘い時間を過ごしていたのか。 それとも、彼はもう彼女を忘れてしまったのか。 半月が過ぎ、彼女がもう希望を持つことをやめた頃、朝陽が現れた。 彼の顔色は悪く、焦った様子で柚葉を見つめた。 だが、最初に話したのは慰めではなく、「柚葉、早く行こう。奈々が救急処置室にいたんだ。心臓移植、予定より早まった」という言葉だった。 その言葉を聞いて、柚葉はもう取り乱すこともなかった。ただ無言で、こくりと頷いた。 病院に向かう道中、朝陽は沈黙を続ける柚葉に申し訳なさそうに言った。 「柚葉、ごめんね。ここ数日忙しくて、来るのが遅れたんだ。 でも、教えの効果がいいね。あそこ、思ってたほどひどくなかっただろ?怪我もないみたいだし」 柚葉は笑ってしまった。彼女は心の中で言った。 すべての傷が服に隠されて、あなたに見えるわけがない。 だが彼女は窓の外をじっと見つめて、何も言わなかった。 彼女の頭の中には、ひとつの思いしか残っていなかった。それは去ることだった。心臓移植が終わると、彼女は自由になれた。 道中、朝陽は何度も柚葉に慰める言葉を口にした。 「柚葉、心臓移植が終わったら、俺は離婚届を取り下げる。俺たちは以前みたいに一緒にいる。 柚葉、君が俺を愛してること、知ってるよ。俺も君を愛してる。だからもう少しだけ、待ってくれ」 柚葉はそれを聞きながら、唇を強く噛みしめて黙っていた。彼を見つめたその目には、ただ憎しみが残っていた。 藤村朝陽、あなたは間違ってる。私はもう、あなたを愛してなんかいない。愛なんて、とうの昔に消え失せた。 あなたに対して残っている感情は、憎しみだけよ。 第7話 病院に到着すると、救急処置室のライトが消え、医師が手袋を外して朝陽を見た。 「藤村さん、ドナーは見つかりましたか?小林さんはすでに麻酔の準備が整っています。あとは移植を始めるだけです」 その言葉を聞くと、朝陽はすぐに柚葉の手を掴んで言った。 「先生、ドナーは彼女だ。お願い、すぐに手術を始める」 だがその直後、柚葉は鋭い悲鳴を漏らした。 朝陽は不思議な顔で柚葉を見つめた。自分は力を入れていないはずなのに、どうして彼女が痛いの? だが、医師に急かされ、彼は深く考えなかった。 医師の指示によって、柚葉は看護師に導かれて病衣に着替え、明るく照らされた手術室に入った。 真っ白なベッドに横たわりながら、彼女の心はこれまでにないほど静かだった。 この手術で生き残れるかどうかはわからなかった。 だが、生きても死んでも、これでようやくすべてが終わった。 あの知行学園で味わった地獄のような日々を思えば、何もかもどうでもいいことだった。 ただ、朝陽から遠く離れられるのなら、それだけでいい。たとえそれが死亡であったとしても。 「カチッ」 手術室のライトが点灯し、その眩しさに彼女は目が痛くなった。 彼女は運命を受けるように目を閉じ、麻酔の注射を受け入れた。 手術が半ばに差しかかった頃、焦れた医師の声が柚葉の耳にした。 「藤村さん、大変です!血液バンクの供給が足りません!高橋さんも小林さんも、大量の輸血が必要なんです!」 「俺はo型、献血できる!」朝陽は迷いなく言った。 さらに十数分後、医師の声が響いた。 「藤村さん、あなたの血液はお一人分しか確保できません……」 その瞬間、柚葉の心は深く沈んだ。そして次に聞こえたのは、迷いのない朝陽の声だった。 「奈々に使ってください。彼女の体は弱いから、何かあっては困る」 その言葉を耳にしたとたん、柚葉の目から涙が止めどなくこぼれ落ちた。 彼女は心の中で静かに呟いた。「藤村朝陽、私がこの人生で一番後悔しているのは、あなたを愛してしまったこと」 手術は十二時間にも及んだ。最後、柚葉の意識は次第に朦朧としていった。 医師の関心の声が耳に届いた。「高橋さん、高橋さん、聞こえますか?」 彼女は答えたいが、もう口が開けなかった。 しかし頭の中は不思議なほど冴えわたっていた。朝陽との思い出が走馬灯のように蘇った。 彼が初めて告白した場面。 彼が自分を庇うため刃物に刺されて倒れた場面。 彼が「君だけを愛する」と誓った場面。 しかし最後に残ったのは、数えきれない痛みと彼の裏切り、そして彼が重ね重ね彼女を傷つけた場面だった。 医師は異変に気づき、数分間で十数回の救命処置を行った。 だがモニターの心拍音はどんどん弱まり、やがて希望が尽きたことを悟った医師は、震えながら彼女の耳元で聞いた。 「高橋さん、藤村さんへの最期の言葉はありますか?代わりにお伝えします」 その言葉に、柚葉は最後の力を振り絞り、かすれた声で一言だけ残した。 「恨んでる」 「ピー……ピー」モニターの心拍音が止まった。 朝陽に裏切られた年に、柚葉は静かに息を引き取った。 そして死の瞬間、彼女の頭をよぎったのは、ようやく死ねたという思いだった。 藤村朝陽、もし来世があるのなら。 私は、絶対にあなたなんかに出会いたくない。