日没の頃、愛は消える

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日没の頃、愛は消える

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「篠原さん、この結婚証明書は偽物です……」 窓口の職員は、篠原綾音(しのはら あやね)を見つめながら、どこか同情の色を浮かべていた。 「...

Chương (1)

第1章

「篠原さん、この結婚証明書は偽物です……」 窓口の職員は、篠原綾音(しのはら あやね)を見つめながら、どこか同情の色を浮かべていた。 「それに、システムによると、一ノ瀬智也(いちのせ ともや)さんは半月前に朝倉澪(あさくら みお)という女性とすでに婚姻届を提出しています」 6年間付き合ってきた恋人が、彼女に何も告げず、ずっと好きな初恋の子とひそかに結婚していた―― その事実を聞いても、綾音はさほど驚かなかった。 「わかりました。お手数をおかけしました」 第1話 「篠原さん、この結婚証明書は偽物です……」 窓口の職員は、篠原綾音(しのはら あやね)を見つめながら、どこか同情の色を浮かべていた。 「それに、システムによると、一ノ瀬智也(いちのせ ともや)さんは半月前に朝倉澪(あさくら みお)という女性とすでに婚姻届を提出しています」 六年間付き合ってきた恋人が、彼女に何も告げず、ずっと好きな初恋の子とひそかに結婚していた―― その事実を聞いても、綾音はさほど驚かなかった。 「わかりました。お手数をおかけしました」 そう言うと、彼女は偽造の結婚証明書をカバンにしまい、サングラスをかけてその場を立ち去った。 市役所の前で、彼女は先輩にメッセージを送った。 【先輩、私も一緒に海羽市へ行って起業します】 あちらは忙しいのか、すぐには返信が来なかった。 綾音はスマートフォンをポケットにしまい、通りかかったタクシーに乗り、運転手に一つの住所を伝えた―― 日が暮れる頃になって、ようやく疲れ切った身体で家へ戻った彼女が鍵を取り出した瞬間、背後から「ピン」というエレベーターの音がした。 智也がエレベーターから現れ、笑顔で声をかけてきた。 「綾音、どこ行ってたの?」 彼の笑顔を見て、綾音は一瞬、言葉を失った。 「私たちが婚姻届を出した場所に行ったわ。記念写真を撮り直そうと思ったけど、そこは更地になってたの。理由、知ってる?」 そう言いながら、彼女は一瞬たりとも目をそらさず、彼の顔に罪悪感の色が浮かぶのを探した。 だが、智也は一瞬だけ動揺したものの、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。 「きっと場所を間違えたんだよ。結婚証明書はちゃんと手元にあるし、写真ならまた今度でもいいだろ?君の好きなマカロンを買ってきたんだ。新作みたい。あとで食べてみて、気に入ると思うよ」 そう言いながら、彼は手にした紙袋を彼女に渡し、ドアを開けてバスルームに向かっていった。 綾音は視線を落とし、力なく口元を歪めた。 「一ノ瀬智也、私たちに『これから』なんて、もうないわ」 彼女は黙って書斎へ入り、偽の結婚証明書を金庫に戻した。 三日前、結婚証明書を受け取った時、智也は彼女にちらっと見せただけで、すぐ金庫にしまい込んだ。 当時の彼女は、彼が結婚を大切に思ってくれているのだと、甘く考えていた。 だが、昨夜―― 水を飲みに起きた彼女は、偶然ベランダで電話している彼の声を耳にした。 「智也、お前また朝倉と付き合ってんのか?あの女のこと三年も追いかけたくせに、ようやく付き合えたと思ったら、すぐに他の男と駆け落ちして海外に逃げたんだぞ?あの女に散々弄ばれたのに、まさかまだ好きだなんて言うなよ?」 智也は数秒沈黙し、それから静かに言った。 「半月前に澪と入籍したんだ。彼女の両親がかなり年上の男との結婚を強要してきて……彼女をそんな目に遭わせたくなくてさ」 綾音はその場に立ち尽くし、氷の中に落ちたような感覚を覚えた。 電話の相手も、彼女も知っていた。 智也の気持ちは単なる「可哀想」なんかじゃないんだ。 彼は彼女に対する想いを今も捨てきれていないのだ。 六年もの歳月をかけて、ようやく願いが叶い、愛する人と末永く一緒になれると思っていたのに。 だが結局、彼女は智也の心の中に、最初から存在していなかった。 市役所も偽物、結婚証明書も偽物―― 六年間の愛も、すべてが偽物だったのだ。 なんと哀れで、なんと滑稽なのだろう。 智也が既に朝倉澪と結婚しているのなら、彼女がここにいて恥をかく必要もない。 彼女のこれからの人生に、智也の姿は存在しないのだ。 第2話 智也のスマートフォンが、リビングのテーブルの上で突然鳴り出した。 静まり返った部屋に、彼が特別に設定した専用着信音がひときわ響いた。 綾音は一瞬ためらったが、やはりテーブルへと足を運ぶことにした。 しかし、テーブルにたどり着く前に、蒸気をまとった人影が突然彼女にぶつかってきた。 鋭くとがったテーブルの角にすねを思いきりぶつけ、激しい痛みに目頭が熱くなった。 だが、すべての元凶である智也は、それにまったく気づいていなかった。 彼はスマートフォンをつかむと、さっさと浴室へと戻っていった。 綾音は痛みに耐えながら、足を引きずるようにしてソファへと向かった。 ようやく腰を下ろしたそのとき、浴室の中から聞こえてきたのは、緊張を隠せず、それでも無理に落ち着いた優しい口調で、誰かを宥めている声だった。 「怖がらないで、部屋の中に隠れてて。今すぐそっちに行くから」 綾音の胸の奥に、じわじわと苦しさが込み上げてきた。 六年間付き合ってきた彼は、彼女の前では常に冷静で理性的だった。 でも、たった一本の電話でこれほど慌てふためく姿を見たのは、初めてだった。 結局、彼は冷めた性格なんかじゃないわ。ただ、私には愛がなかっただけ。 智也は焦った様子で浴室から出てきた。 彼女の横を通り過ぎる時も足を止めることなく、ただ「会社で急用ができた。待たなくていいよ」と一言だけを言い残した。 でもそんな彼は気づかなかった。以前なら、彼が出かけるたびにコートを手渡し、「早く帰ってきてね」と声をかけていた綾音が、今日は何も言わず、ただうつむいたままだったことに。 綾音はソファに座ったまま、じっと時を過ごした。 やがて脚の痛みが和らいできた頃、ようやく立ち上がって寝室へ向かい、荷物の整理を始めた。 ずっと前に買ったのに、智也が一度も使わなかったペアマグ。 自作したが、まだ渡せていなかったペアリング。 二人の結婚式のために編んだ同心結。 丁寧に一筆一筆描いた二人の似顔絵。 それらすべてを、彼女は一切の迷いもなくゴミ袋に詰め込んだ。 まる二時間かけて、部屋は半分が空っぽになった。 綾音がほっと一息ついたその時、スマホが鳴り響いた。先輩の興奮した声が電話越しに飛び込んできた。 「綾音ちゃん!今海外出張中なんだけど、起きたら君からのメッセージを見て本当に嬉しかったわ!君が仲間になるなんて心強いよ。一週間後に帰国するから、その時一緒に海羽市へ行こう。でも……結婚準備してるって言ってなかったっけ?彼、君の出発に納得してくれるの?」 その言葉を聞いて、綾音は少しの間だけ沈黙した。 六年付き合ってきたのに、智也が「派手なことが嫌い」だという理由で、二人の関係を知っている人はほとんどいなかった。 三日前、先輩が海羽市に新設するスタジオへの参加を打診してきた時、綾音はようやく「結婚する予定」だと告げたばかりだった。 だが、そのわずか数日で、すべてが変わってしまった。 彼女は落ち着いた口調で言った。「大丈夫です。結婚式は中止になったのですから」 ちょうどその言葉を、帰宅した智也が寝室のドアを開けた瞬間に耳にしてしまった。 彼の目に、ほんの一瞬の動揺が走った。 「結婚式が中止って、どういう意味?」 背後から突然聞こえた声に、綾音はびくっと身体を震わせた。 気持ちを落ち着け、適当に理由をつけた。 「友達が急用で、式を延期したみたいよ」 智也も、それ以上深くは追及しなかった。 「この前、誕生日の時にカップルフォト撮りたいって言ってただろう?今日、カメラマンから電話が来て、明日行けるってさ」 綾音は、咄嗟に「行かない」と言いかけたが―― その前に、智也の目が部屋の中を見渡し、テーブルの上がやけにすっきりしていることに気づいた。 「綾音、片付けしてたの?なんか、いろいろなくなってる気がするんだけど……」 綾音は、あくまで自然な表情で頷いた。 「うん、どうせ使わないから。家にあっても場所取るだけだし」 なぜか、その言葉を聞いた智也の胸の中に、奇妙な違和感がじわじわと広がっていった。 第3話 智也の視線が、ずっとテーブルの上に留まっているのを見て、綾音は口にしかけた拒絶の言葉をそっと飲み込んだ。 彼女はただ、静かにこの家を去りたかった。このタイミングで波風を立てるつもりはなかった。 だから、彼女は何事もなかったかのように穏やかに言った。「早く休んで。明日は写真を撮りに行くんでしょ?」 普段と変わらない綾音の表情を見て、智也もそれ以上は深く考えなかった。 二人はそれぞれの想いを抱えたまま、背中合わせに眠りについた。 翌朝、綾音は重たいゴミ袋を引きずるように持ち出し、階下のゴミ置き場に捨てようとしていた。 すると、智也が自らそれを受け取り、不思議そうに聞いてきた。 「なんでこんなに重いの?何が入ってる?」 そう言いながら、彼は片手で袋の口をいじり、開けようとする仕草を見せた。 綾音は思わずその手を押さえた。 「いらないものばかりよ」 ちょうどそのとき、エレベーターが到着した。その一瞬のやり取りで興味を失ったのか、智也はそれ以上追及することもなく、袋をそのままゴミ箱に投げ入れた。 そんな彼を見て、綾音の心は少し軽くなった気がした。 写真スタジオに到着すると、スタッフが撮影用の衣装を選ぶよう案内してくれた。 目の前に並ぶさまざまなウエディングドレスを見て、綾音は「他にもっと普通の服はないか」と尋ねようとしたそのとき、智也はある一着のドレスの前で足を止めた。 「綾音、これにしよう。前にこういうデザインが好きだって言ってたよね?」 彼の言う華麗なドレスに、綾音は一瞬驚いた。 半月前、彼女は確かに似たようなデザインのドレスを彼にシェアしたことがあった。 もし――もし彼女がまだ朝倉澪の存在を知らなかったら、今ごろきっとその「覚えていてくれたこと」に、涙が出るほど感動していたはずだ。 でも今は、何の感情も湧いてこなかった。 選び直す気力もなく、彼に合わせる形でそのドレスを選んだ。 数分後、スタッフが彼女の長い裾を整えながら、にこやかに話しかけてきた。 「篠原さん、きっとお二人はとても仲が良いんですね。彼氏さんが選んだこのドレス、本当にお似合いですし、きっと写真の仕上がりも素敵になりますよ!」 その言葉が終わらないうちに、別のスタッフが気まずそうに部屋へ入ってきた。 「一ノ瀬様からお伝えがありまして……会社の急な用件で、今日は篠原様の個人撮影のみとなります。後日、改めてカップル撮影を予定しております……」 そのスタッフの表情には微妙な緊張が浮かんでいて、数歩離れた場所に立ったまま様子を伺っていた。 感情が爆発する女性客に巻き込まれたくない――そんな不安が見て取れた。 こうしたトラブルで女性が泣き出したり怒り出すケースが、これまでにも何度かあったから。 だが意外なことに綾音はただ静かに頷いただけだった。何も言わず、何も責めず、すべてを受け入れるように、淡々と。 撮影を終えた綾音は、一人でタクシーに乗って帰宅した。 ドアを開ける前から、リビングから女性の甘ったるい笑い声が聞こえてきた。 「智也さん、まさか何年も経って、またあなたの手料理が食べられるなんて思わなかったわ」 食卓では、智也が自然な手つきで、剥いたエビを向かいに座る女性の器に入れていた。何かを話そうと口を開いた彼が、ふと玄関に立つ綾音の姿に気づき、言葉を止めた。 数秒間の沈黙のあと、ようやく口を開いた。 「綾音、紹介するよ。彼女は朝倉澪さん。最近ちょっと事情があって……数日だけ、うちに泊まることになってるんだ」 対面に座る澪は、綾音をちらりと見たあと、柔らかく微笑んで言った。「智也さんの彼女さんよね?話は聞いてるわ。この期間、いろいろお世話になると思うけど……あ、智也さんが私の好きな塩焼きエビを作ってくれたの。よかったら一緒にどう?」 そう言いながら、彼女は立ち上がって席を譲り、智也の隣に自然と腰を下ろした。その仕草はまるで、自分が最初からこの家の主であるかのように。 綾音は以前、智也が朝倉澪に片想いしていると思っていた。 でも今、よく分かった――この二人、両思いらしい。 「どうぞゆっくり。私は疲れたから、先に寝室に戻るわ」 そう言って背を向け、寝室へと向かった。しかし、ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、全身が凍りついた。 第4話 壁には、巨大なウェディングフォトが飾られていた。 ビスチェドレスを着た澪が、智也の胸元にぴったりと身を寄せていた。 二人の鼻先は触れ合い、まるで長年愛を育んできた恋人同士のように見つめ合っていた。 そのとき、リビングから智也が追いかけてきた。「綾音、客室で休んでくれないか。澪は体が弱くて、この部屋は日当たりもいいから……俺の判断でここに泊まってもらうことにしたんだ……」 言いかけたその瞬間、彼の視線が壁のウェディングフォトにとまった。一瞬動揺し、間を置いてようやく口を開いた。 「この写真は……彼女の家族の無理な結婚の押し付けに対処するために撮っただけだ」 結婚届は「助け」のため、ウェディングフォトは「対処」のため。 冷たい目で彼を見つめる綾音を前に、智也の心には妙な焦りが生まれ、思わず彼女の腕に手を伸ばした。 「綾音、誤解しないで。俺はただ……」 だが次の瞬間、綾音は彼の手をすっと避けた。「触らないで」 六年間付き合ってきて、彼女が初めて見せた拒絶の姿勢だった。 智也の胸が、ズキリと痛んだ。 何か言おうとしたそのとき、突然、澪が泣きそうな顔で部屋に駆け込んできた。 「篠原さん、智也さんと喧嘩しないでください。悪いのは私だわ……私が引っ越してきたせいでご迷惑をおかけして、本当にすみません……すぐに出ていくから……」 その言葉に、智也は慌てて彼女の前に立ちふさがった。 「君は関係ないよ……」 すると、澪の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。 「智也さんはもう十分すぎるほど私を助けてくれたよ。私のせいで篠原さんが不快な思いをするなら、それはきっと私の過去の過ちに対する罰なんだ。私はもう……運命を受け入れるわ……」 涙に濡れた彼女の目と、未練がましいまなざしが、智也の心を深く刺した。 彼は優しく彼女の肩を抱きながら言った。「心配するな。俺がいる限り、誰も無理やり結婚させたりしないさ。綾音だって怒ってるわけじゃない。どこにも行かなくていい。ここにいてくれ」 その様子を見ていた綾音は、かすかに口角を引き上げた。 「……そうね。私が怒る理由なんてないもの。どうせ、ここはもうあなたの家になるんでしょうから」 そう言い捨て、彼女は寝室を出て行った。 澪はすすり泣きながら、「篠原さん……まだ怒ってるんでしょうか……」と弱々しくつぶやいた。 だが、今度は智也が何も言わなかった。 綾音の言葉が、彼の胸に嵐のような衝撃をもたらしたのだ。彼は我を忘れて彼女を追いかけ、手首をつかんだ。 「今の言葉、どういう意味だ?ここは彼女の家になるってどういう?澪は家族に結婚を強いられ、見知らぬ男にも付きまとわれてるんだ。俺はただ、助けてやりたいだけだ。君も女だろ?彼女の気持ち、少しは理解できないのか?こんなときに嫉妬して喧嘩するなんて……」 言い終わらぬうちに―― 寝室から、ガラスが割れる音が響いた。 智也の表情が一変し、彼女の手を振り払って部屋へと飛び込んでいった。 「澪!何をしてるんだ!」 その声には、取り乱したような焦りがにじんでいた。 床に膝をつき、泣き崩れる澪。手首には血の滲む傷があり、涙で顔はくしゃくしゃになった。 「……もう放っておいて……この世に私を気にかけてくれる人なんて誰もいないの……もし私が死ぬことで篠原さんの怒りが静まるなら、それで十分よ……」 智也は急いで彼女の手からガラス片を奪い取り、傷口を必死に押さえながら、綾音の方へ怒鳴った。 「篠原綾音!澪のこの姿を見て満足か!?罪悪感は少しもないのか!?君が恩知らずって言われる理由がようやく分かったよ。自分の実の父親が死んだ時でさえ、一滴の涙も流さなかった。そんな冷血で自己中心的な人間が、他人を気遣えるわけがない!」 ――まるで、鋭い槌で綾音の心を打ち砕かれたようだった。 手足は震え、血の気が引いていった。 彼女が覚えている幼少期の記憶は、酒に溺れた父と、折れた棒で叩かれた痛みだけだった。 だから、父が事故で亡くなった時、彼女は一滴の涙も流さなかった。親戚たちは彼女を「恩知らずだ」と蔑んだ。 その言葉は、彼女の心に深く刺さった棘となっていた。 何度思い出しても、そのたびに血を流す傷だった。 その傷を、かつて智也だけが優しく包み込んでくれた。あのとき、彼の言葉に救われたと思っていた。 けれど今、同じ彼が、再びその棘を彼女の心に突き立てた。 彼女の中に残っていた、彼への最後の愛情が……音もなく崩れていった。 「智也、私は『彼女を家に入れるな』なんて一言も言ってない。喧嘩もしてない。あなたを避けたのは、私が甲殻類アレルギーだから」 ようやく、智也は気がついた。さっき自分が掴んだ綾音の手首に、赤い発疹が広がっていることに。 彼女の赤くなった目を見つめ、さっき自分が放った言葉を思い出すと、心の奥底に、ひどい後悔が渦巻いた。 「綾音、俺……」 だがそのとき、澪が苦しげに呻き、再び身をよじった。 「智也さん……もう止めないで……お願いだから、私を……このまま死なせて……」 彼女の傷口から、再び鮮血が流れ出した。 智也は、もう綾音に気を配る余裕すらなくなった。澪をひょいと抱き上げ、そのまま外へと駆け出していった。 「絶対に君を死なせない!今すぐ病院に連れて行く!」 綾音は、ただその場に立ち尽くしていた。二人の姿が完全に視界から消えるまで―― 第5話 寝室の床は、見るも無惨なほど散らかっていた。 薬を飲んだ綾音は、自分の荷物をまとめて客室に移った。 床に散らばったガラスの破片の横を通り過ぎたとき、彼女はふと足を止め、しゃがんで写真の一枚を拾い上げた。 それは彼女と智也が一緒に写った、唯一にして最後のツーショット写真だった。 前回荷物を整理していたときには、どう処分すべきか決めかねていたが、まさか澪が決めてくれたとは、思ってもみなかった。 綾音は唇の端をわずかに引き上げると、写真をビリビリに破ってそのままゴミ箱に投げ入れた。 その夜、智也は帰ってこなかった。 翌朝五時、キッチンから聞こえる音で綾音は目を覚ました。 眠そうにキッチンに現れた彼女を見て、智也の目に一瞬だけ罪悪感の色が走った。 「起こしちゃった?澪、昨夜あまり食べてなかったから、海鮮のお粥を作って持っていこうと思って。君も温かいうちに一杯どう?」 綾音は、土鍋の中でぐつぐつ煮えているお粥を黙って見つめていた。 澪が何年もいなくなっていても、智也は彼女の好みやアレルギーを今でも鮮明に覚えている。 それに対して、六年間も毎日一緒に過ごした自分のことはどうか。 彼女は昨日、自分が甲殻類アレルギーだと明言したばかりだった。だが彼は、まるで聞いていなかったかのような態度だった。それどころか、彼は料理ができるという事実すら、綾音は昨夜まで知らなかった。 ――愛する人と、愛されない人。その違いは、ときに一目で分かるほど明確だ。 「食欲ないから、私の分は要らないわ」淡々と言い残し、彼女は寝室へ戻ろうとした。 だがその背に、智也の声が追いかけてきた。「綾音、昨夜は澪が怪我して、俺もちょっと取り乱して……口を滑らせてしまったんだ。本気で気にしないでくれよ……」 綾音は穏やかな表情で小さく頷いた。 「うん、あのときは緊急だったから、理解してるよ」 彼女のあまりにあっさりとした態度に、智也は少し驚いた。眉を伏せた彼女の顔を見て、胸の奥にちくりとした痛みが走った。 「最近、ちゃんとデートもしてなかったし……澪のことが落ち着いたら、旅行でも行こう。気分転換に」 綾音は軽く返事をした。 どうせ、数日後にはこの家を出ていく身なんだから。肯定しても、否定しても、もう関係のない話だ。 …… 三日後。友人とショッピングを終えて帰宅すると、思いがけず智也と澪が先に帰っていた。 リビングのソファで寄り添うようにして、二人で一冊のアルバムを眺めていた。 綾音の姿に気づくと、澪の目がぱっと輝いた。 「篠原さん、お帰り。今、ちょうど智也さんと昔の写真を見てたの。昔から友達によく『二人は夫婦顔だね』って言われてて、冗談だと思ってたんだけど……この前、ウェディングフォトを撮りに行った時のカメラマンにも同じこと言われたのよ。ねえ、見てみて。私たちって本当に夫婦顔だと思わない?」 その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついたかのように静まり返った。 澪の言葉には、隠そうともしない挑発の色があった。だが綾音は、まるで気にしていないかのように頷いた。 「そうね。言われてみれば本当に……」 言いかけたその時、智也が突然割り込んだ。 「今夜、同窓会があるんだ。綾音も一緒に行こう」 綾音は内心で彼を嘲笑した。 智也は彼女が怒っていると思い、埋め合わせをしようとしてるだろう。 車の中は、終始静かだった。三人それぞれが、自分の思いに沈んでいた。 ホテルに到着すると、澪は智也の隣を歩きながら、自然に学生時代の思い出話を始めた。話が弾むうちに、彼女はさらりと彼の腕を取って寄り添った。 綾音は何も言わず、ずっと黙って二人の後ろを歩いていた。 部屋に入るなり、同級生たちがどっと二人に群がった。 「何その感じ!まさかまた付き合ってるの?」 「色々あったけど、結局また戻ったってわけね?いやあ、すごい!」 澪は特に否定もせず、頬を染めてはにかんで見せた。 そのとき、ようやく誰かが、入口近くに立つ綾音に気づいた。 「あの……そちらの方は……?」 第6話 智也の体がぴたりと固まった。まるでこのとき初めて、綾音の存在を思い出したかのようだった。何かを言おうと口を開きかけたそのとき―― 「私は彼らの友人です」 綾音は落ち着いた声で先に言った。 その言葉に、智也は複雑な表情で彼女を見つめた。しかし、隣にいる澪に気を遣ったのか、結局それ以上は何も言わなかった。 他の同級生たちは違和感を覚えつつも、深く詮索することはせず、綾音を席に招き入れた。 久しぶりに顔を合わせた旧友たちは、時間を忘れてあらゆる話題に花を咲かせながら盛り上がっていた。 智也は談笑しながら、自然な仕草で澪に料理を取り分け、彼女の嫌いなパクチーをそっと取り除く気遣いまで見せていた。 一方、綾音は隣に座りながら、静かに「友人」という役を演じ続けていた。 宴もたけなわの頃、彼女は一度トイレに立った。 戻ってくると、個室の扉の前で中から聞こえる声に足を止めた。 「智也、お前正直に言えよ。澪が留学してたあの数年……他の女を好きになったこと、あるだろ?」 室内が一瞬で静まり返った。 全員が彼の答えを待っていた。 沈黙の中、彼の隣に座っていた澪が、先に口を開いた。 「もう、みんなやめて……私が何年も海外にいたんだもの。智也さんが他の人を好きになったって、不思議じゃないよ……」 そう言いながらも、彼女の目はうるみ、笑顔にもどこか痛々しい陰があった。 その姿を見た智也の胸に、チクリとした痛みが走った。 小さくため息をつくと、優しく彼女の背をなでながら囁いた。「ないよ。俺は……他の誰かを好きになったことなんて、一度もないよ」 その瞬間、澪の表情はぱっと明るくなり、恥ずかしそうに彼の胸元に顔を埋めた。 それを見た周囲から、歓声と冷やかしの声が飛び交った。 個室の扉の外に立っていた綾音は、彼らの盛り上がりを邪魔する気になれず、そのまま一人でタクシーを拾って帰宅した。 数時間後、智也は酒に酔った澪を抱きかかえて帰ってきた。 そっと彼女をベッドに横たえると、彼女の白く細い腕が、ふわりと彼の首に巻きついた。 「智也さん、行かないで……もしあのとき私が勝手に留学なんかしてなかったら、篠原なんて現れなかったんだよね…… 今結婚届を出したのは私なんだから、私たちこそ本当の夫婦でしょ?私を置いていかないで……」 その言葉を聞いた智也の動きが、一瞬止まった。次の瞬間、澪の唇が彼に触れた。 ちょうどそのとき、寝室のドアをカチャリと開けた綾音の目に飛び込んだのは、その濃密な光景だった。 彼女は呆然と立ち尽くし、一瞬だけ息を詰まらせたあと、何も言わずにドアを閉めて出て行った。 自分の恋人が他の女とキスしているところを見て、平気でいられる人間なんて、いるはずがない。 だが、心の準備はできていたのか、意外にも苦痛は感じなかった。 背を向けて部屋を出ていく綾音の姿を見て、智也の胸にこれまで感じたことのない動揺と焦りが押し寄せた。彼は思わず澪を振り払って追いかけた。 「綾音、待ってくれ!説明させてくれ……彼女は……」 「大丈夫、全部分かってるよ。彼女は酔ってたんでしょ?早く戻って面倒を見てあげて。私、別に怒ってないから」 そう言って振り返った彼女の目は、なんともいえない優しさに満ちていた。その目を見た智也の心に、言葉では表せない不安が渦を巻いた。 まるで、何か大切なものが、音もなく崩れ落ちていくような感覚だった。 彼は絞り出すように尋ねた。「……なんで、全然怒らないんだ?」 第7話 「同窓会で、君が自分はただの友達って言ったことも。俺が澪にキスされても何の反応もなかったことも。それに、俺に彼女の面倒を見てあげてって言ったことも……綾音、俺は君の彼氏だよ?どうして俺を、他の人に押し付けるの?」 智也の問いに、綾音は数秒間沈黙した。 すべてを打ち明けようと口を開きかけた、その時だった。 寝室から突然、澪の悲鳴が響いた。 智也の表情が一変し、何のためらいもなく寝室のドアを開けて駆け込んだ。 ベッドの上で震える澪は、裸足のまま駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。 「あの変態が……私を捕まえにきたの!智也さん、怖いよ……一人にしないで、お願い、どこにも行かないで……」 その言葉が終わる前に、智也は彼女を抱き上げ、優しい声で囁いた。 「大丈夫、俺がいるよ。誰にも君を傷つけさせない。二度と君を離したりしない……」 澪は彼の肩に顔を埋め、綾音に向けた視線には、さっきまでの酔った様子など微塵もなく――明らかな挑発が込められていた。 だから、智也。これが、答えなんだよ。 私があなたを「押し付けた」んじゃない。あなたが、自ら彼女を「選んだ」んだ。 何度も何度も、朝倉澪を。 この夜、智也は澪のそばに一晩中付き添っていた。 綾音は、もう何も気にしなかった。 ちょうどその頃、先輩が予定より早く出張を切り上げ、明後日には帰国して彼女を迎えに来てくれることになった。 その知らせに、彼女の心は少し軽くなった。 翌朝、綾音が朝食をとっていると、智也のスマホがダイニングテーブルに置き忘れられているのに気づいた。 画面いっぱいに仕事のメッセージが並んでいるのを見て、彼女は少し考え、スマホを持って主寝室の前へ向かった。 だが、ノックしようとしたそのとき、扉が開いた。 「篠原さん、昨夜智也さんはずっと私の面倒を見てくれて、まだ休んでるの。だから今は起こさないでね」 そう言って澪はわざと襟を引っ張り、首筋に浮かぶ赤い痕を綾音に見せつけた。 綾音は冷静な表情のまま、スマホを彼女の手に押し渡した。 「じゃあ、彼に渡しておいて」 背を向けて立ち去ろうとしたその瞬間、澪が彼女の腕を強く引いた。 「ほんと、図々しいにも程があるわ。智也は最初からあなたなんか愛してないの。本当のこと、教えてあげるわ。私たちは、ただウェディングフォトを撮っただけじゃなく、婚姻届も出してあるの。今、彼の本当の妻は私よ。いい加減に、私たちの家から出ていきなさいよ」 その言葉が落ちると同時に、室内で「ガタンッ」という物音が響いた。 すると澪の表情が一変し、怯えたように懇願の声を上げた。 「篠原さん……お願い、怒らないで……すぐに出ていくから……」 そして次の瞬間――彼女の背中はドアに激しくぶつかり、そのまま崩れ落ちていった。 その音を聞きつけ、智也が慌てて飛び出してきた。苦しげな澪の表情を見て、彼の目に怒りの炎が燃え上がった。 「綾音、何やってんだよ!?君が彼女の面倒を見てあげてって言ったから、俺は君が本当に器の大きい人だと思ったのに……裏ではこんな卑怯な真似をするのか!」 綾音は冷ややかな表情で口を開いた。「私は彼女に手を出していないし、出て行けなんて一言も言ってない。信じられないなら、監視カメラでも見れば?」 その言葉を聞いた澪の瞳が一瞬揺れたが、すぐに焦ったように取り繕うように言った。 「智也さん、篠原さんを責めないで……私が……勝手に転んじゃっただけだから……」 だがその言葉と、今にも泣きそうな表情が相まって、逆に「我慢している」ように見えた。 智也はその姿を見て、ますます澪を不憫に思った。彼女をそっと抱き上げながら、綾音に冷たい言葉を投げつけた。 「もう彼女のために、そんなことを言わなくていいよ……綾音、君は俺の彼女かもしれないけど、もう一度でも澪を傷つけたら、容赦しないぞ」 そう言い捨てて、彼は澪を抱えたまま部屋を出て行った。 綾音は、深く息を吸い込んで怒りを抑えた。 何を言っても、智也は信じてくれない。なら、もう言い訳する必要もない。 彼女は気持ちを切り替え、親友と外に出て遊び、日が暮れる頃にようやくタクシーで帰宅した。 家の玄関前に立ち、バッグから鍵を取り出そうとしたそのとき、視界の端に黒い影がよぎった。 背筋に寒気が走り、彼女はとっさに逃げようとした。 だが、次の瞬間――髪をつかまれ、力強く後ろへ引き戻された。 首筋に冷たい刃物が触れるのを感じ、綾音は動くのをやめ、恐怖を必死に押し殺した。 「……カバンの中にお金が入ってるわ。欲しいなら全部あげる。だから、お願い、傷つけないで……」 だがその男は、ただ彼女のスマホを取り出すと、無言でビデオ通話を発信した―― 第8話 電話のコール音が何度も響き、切断される寸前、ようやく繋がった。 「一ノ瀬智也、今すぐ朝倉澪を連れてこい。15分以内に彼女を連れて来なければ、お前の彼女にはもう二度と会えないと思え!」 綾音の首元に突きつけられたナイフを見て、智也の顔色が一瞬で青ざめた。 「彼女に手を出すな!お前は今どこにいる、すぐに行く!澪、佐藤明人(さとう あきと)が綾音を拉致した、彼に彼女を傷つけないよう頼んでくれ!」 カメラが揺れ、画面の中に現れたのは澪の顔だった。 「……明人?」 ナイフを持つ男は彼女を貪るように見つめた。 「そうだ、俺だよ、澪。お前は結婚してくれるって言ったじゃないか……俺はお前のために全てを捨てたんだ。だから、俺を捨てないで……」 感情が高ぶった男の手元が揺れ、ナイフが綾音の首をかすめ、血がにじんだ。彼女は思わず痛みに声を上げた。 その光景に、智也の心臓が一瞬止まりそうになった。 「彼女に触れるな!綾音、怖がらないで、今すぐ助けに行く!」 画面越しに必死な彼の表情を見て、綾音の目に涙が滲んだ。唇を噛みしめ、泣かないよう必死にこらえていた。 しかし――その次の瞬間、澪の冷ややかな言葉が彼女の心を凍らせた。 「智也さん、そんなに焦らないで。あの男は佐藤明人なんかじゃないよ。篠原さん、私と智也さんの間本当何もないのよ……本気でこんな茶番までして、彼の気持ちを試す必要は本当にある?」 その言葉に、智也の眉間に皺が寄り、迷いが浮かんだ。 綾音の心は、あっという間に深い奈落へと落ちていった。 「……私、演技なんかしてないよ。智也、お願い、一度でいいから、私を信じて……一度だけでいいから……」 命の危険すら感じるその状況で、綾音は首のナイフを気にすることも忘れ、ただ必死に彼に懇願していた。 だが澪は、あきれたようにため息をついた。 「ねえ、もう智也さんを責めるのをやめてよ。私が出ていけば、篠原さんもこんなことしないんでしょ?」 ――その瞬間、智也の表情が完全に冷え切った。 「綾音、くだらない芝居に付き合ってる暇なんてない。仮に君が本当に拉致されたとしても、俺は澪を手放さないよ!」 その言葉を残し、彼は電話を一方的に切った。 スマホの画面を見つめながら、綾音は呆然としたまま動けなくなった。 まるで氷の海に突き落とされたように、全身が冷たく凍りついた。 背後からは、男の怒声が響いた。 「……全部、あんたが一ノ瀬智也の女なんかだから悪いんだ!来世ではもっと目を覚ませ、あいつなんかに関わるな!」 …… 再び目を開けた時、綾音は病院のベッドの上にいた。 智也がベッドのそばに座り、彼女の顔を心配そうに覗き込んでいた。 「綾音、目が覚めたんだね。どこか痛いところはない?」 頭が混乱し、意識がまだはっきりしない。 でも――彼が自分を信じなかったこと。そして、彼女をあの危険な状況に置き去りにしたことだけは、綾音の心にしっかりと刻まれていた。 もしもあのとき、近所の人が通報してくれなければ、彼女は今、ここにはいなかった。 「ごめん……俺が悪かった。君を信じるべきだった。怒らないでくれる?……あんな男が本当に佐藤明人だったなんて、夢にも思わなかったんだ……」 綾音は彼の手をそっと振り払った。 そして、感情を押し殺した声で問うた。 「……朝倉澪も、佐藤明人の顔を知らなかったのか?」 智也の全身が一瞬こわばり、言い訳を探すように口を開いた。 「……光が暗かったんだ。澪は、顔がよく見えなかっただけさ。あの人が佐藤だったってわかったとき、自分を責めて、ずっと泣いてたよ。とにかく、もう彼は逮捕されたんだし、澪を責めるのをやめよう、な?綾音は誰よりも心が広い子だとわかってるよ……」 彼女は命の危機に瀕していた。 それなのに、澪が数滴涙をこぼしただけで、智也は彼女を庇った。 ちょうどそのとき、看護師が病室に飛び込んできた。 「一ノ瀬さん、朝倉さんが目を覚まして、泣きながら一ノ瀬さんを呼んでいます!」 今回は、智也はすぐには席を立たず、しばらく綾音を見つめ続けた。 綾音は口元をゆるく引き、淡々と言った。「……行って。私は疲れてるから、少し休むわ」 そう言って彼女は背を向け、目を閉じた。 彼女が許したのだと勘違いした智也は、優しく毛布をかけてから言った。「……ちょっと様子を見てくる。すぐ戻るよ」 そう言い残して、足早に看護師の後を追って病室を出ていった。 数分後、綾音は一人で退院手続きを済ませ、タクシーで病院を後にした。 車内で、澪から一枚の写真が送られてきた。 智也が片膝をついて、彼女の足に靴を履かせている写真だった。 画面の上部に入力中の表示を見ると、綾音は無言で彼女をブロックした。 帰宅後、彼女はまっすぐ書斎に向かい、保管していた偽物の結婚証明書を取り出して、迷いなく破り捨てた。 それをゴミ箱に投げ込むと、すぐにスーツケースを持って空港に向かった。 ――これからの彼女の未来に、智也の姿は、もう二度とない。