文音は、もう涼風を待たない

Đang tải thông tin quảng bá...

文音は、もう涼風を待たない

GoodNovel Hoàn thành

「考え直した。もし私をここから出してくれるなら、西園寺家との政略結婚……引き受ける」 月島文音(つきしま あやね)は面会室のガラス越し...

Chương (1)

第1章

「考え直した。もし私をここから出してくれるなら、西園寺家との政略結婚……引き受ける」 月島文音(つきしま あやね)は面会室のガラス越しに端座し、蒼白な唇をきつく結んでいた。 文音の父親・月島隆道(つきしま あやみち)は勢いよく立ち上がった。グレーのオーダースーツは体にぴったり合っていたが、その動きの激しさに、小さな裂け目が入ってしまった。 喜びを押し殺すように、無理に心配そうな表情を作った。 「文音……本当にそれでいいのか?お前を助け出すのは簡単なことじゃない。父さんだって三年も手を尽くしたが、何の成果もなかった…… でも、お前が嫁ぐ覚悟を決めたのなら、安心しなさい。全財産を投げ打ってでも、半月以内に必ず救い出す!ウェディングドレスはどんなデザインがいい?すぐに準備する!」 「そんなことはどうでもいい」 文音は唇を皮肉に歪めた。 「でもね、西園寺家が求めてるのは『月島家の嫡長女』との縁組でしょ?だったら、私の身分、変える必要があるんじゃない?」 隆道の表情が一気に冷えた。 「お前は二十年も時奈を『姉さん』と呼んできたんだぞ。今さら変えられるものか」 「でも私が母に生まれたとき、あの子はまだ生まれてもいなかったわ」 彼女は冷笑を浮かべた。「あの子は愛人の娘でしょ?どこが『お姉さん』なの?」 隆道は無言で文音を見つめた。その眼差しは、氷のように冷たかった。 「その条件は認められない。別のにしろ」 「じゃあ、二千億の持参金」彼女は淡々と口を開いた。「それと……どうせ替え玉婚をするなら、とことんやりましょ。冷泉には、月島時奈(つきしま ときな)を嫁がせて」 第1話 「考え直した。もし私をここから出してくれるなら、西園寺家との政略結婚……引き受ける」 月島文音(つきしま あやね)は面会室のガラス越しに端座し、蒼白な唇をきつく結んでいた。 文音の父親・月島隆道(つきしま あやみち)は勢いよく立ち上がった。グレーのオーダースーツは体にぴったり合っていたが、その動きの激しさに、小さな裂け目が入ってしまった。 喜びを押し殺すように、無理に心配そうな表情を作った。 「文音……本当にそれでいいのか?お前を助け出すのは簡単なことじゃない。父さんだって三年も手を尽くしたが、何の成果もなかった…… でも、お前が嫁ぐ覚悟を決めたのなら、安心しなさい。全財産を投げ打ってでも、半月以内に必ず救い出す!ウェディングドレスはどんなデザインがいい?すぐに準備する!」 「そんなことはどうでもいい」 文音は唇を皮肉に歪めた。 「でもね、西園寺家が求めてるのは『月島家の嫡長女』との縁組でしょ?だったら、私の身分、変える必要があるんじゃない?」 隆道の表情が一気に冷えた。 「お前は二十年も時奈を『姉さん』と呼んできたんだぞ。今さら変えられるものか」 「でも私が母に生まれたとき、あの子はまだ生まれてもいなかったわ」 彼女は冷笑を浮かべた。「あの子は愛人の娘でしょ?どこが『お姉さん』なの?」 隆道は無言で文音を見つめた。その眼差しは、氷のように冷たかった。 「その条件は認められない。別のにしろ」 「じゃあ、二千億の持参金」彼女は淡々と口を開いた。「それと……どうせ替え玉婚をするなら、とことんやりましょ。冷泉には、月島時奈(つきしま ときな)を嫁がせて」 隆道は目を見開いた。目の前の娘が、まるで見知らぬ他人のように感じられた。 文音は昔から時奈とそりが合わず、冷泉涼生(れいぜい りょうい)のことは骨の髄まで愛していたはずなのに。まさか、こんなことを言い出すなんて…… 隆道の目が細まり、すでに腹を決めていた。 西園寺家のあの男は、極めて残酷な人間だった。 この三年で、九人の女性が彼のもとで虐げられ、命を落とした。 「……わかった。約束しよう」短い沈黙の後、隆道は奥歯を噛みしめ、うなずいた。本当の愛娘に苦しんでほしくはなかった。 その言葉を聞いた文音は、ふっと笑った。 目には涙がにじみ、胸の奥には痛みと苦しみがじわじわと広がっていた。 どうしても、あの夜の記憶が頭から離れない。 涼生と過ごした最後の夜。 その日、彼はいつにも増して激しかった。 痛みで文音の体は裂けるかと思うほどだった。 けれど彼の瞳には、優しさなど一片もなかった。ただ血走った目で、欲望をぶつけていただけ。 終わりが近づいたその時…… 彼は突然動きを止め、体を引いた。「疲れた」とだけ呟いて。 そしてあの夜の前に、二人が交わった時も、同じ理由で最後までやり遂げらなかった。 「結婚前に妊娠させたくないから」と。 だがあの夜、深夜になって彼女は妙な音に目を覚ました。 浴室から、水音と共に聞き覚えのある声が聞こえてきた。 時奈の声…… 合成なのか、本物なのかはわからない。だが確かに、あの甘い声でこう呼びかけていた。 「涼生、涼生……」 それに応えるように、涼生の苦しげな吐息が洩れた。 息を荒らげ、抑えた呻きが聞こえた。 「時奈……俺は、お前のものだ……」 頭に冷水をかけられたように。文音の体は震えた。 何が起きたのか理解する間もなく、翌日……裁判が始まった。 強姦事件の原告側の最大の証拠、依頼人のプライベート動画がネットに流出した。 文音の依頼人は『売春婦』と断じられ、世間から激しい非難を浴びた。 裁判は敗訴。原告側の弁護士である文音も、収監された。 その一方で、被告側の弁護士・時奈は、一気に名声を高めた。 もう疑う余地はなかった。 彼女のパソコンのパスワードを知っているのはただ一人……涼生。 …… 隆道と会った一週間後。 涼生が迎えに来た。文音は釈放された。 彼は背が高く、冷たい表情をしていた。 その口から出たのは、たった一言。 「行こう。時奈がずっと待ってる。 雨が降ってるから、彼女が風邪を引いたら困るんだな」 大門の前、マイバッハの傍らにいる時奈が笑顔で近づいてきた。手には豆腐の皿を持っていた。 「文音、これは『白いお豆腐』。これからは潔白な人生を歩めるように、という意味を込めて」 けれど、その皿が文音の手に渡る前に…… 時奈の手から、皿が滑り落ちた。 皿は地面で粉々に砕け、白い豆腐は泥にまみれた。 まるで文音の未来が、もう清らかさを取り戻せないことを暗示しているかのように。 時奈はぱちぱちと無垢な瞳を瞬かせ、潤んだ目で言った。 「ごめんなさい……わざとじゃないの。文音、怒ってないよね?」 文音は何も言わず、ただ涼生に目を向けた。眉をわずかに上げて、こう言った。 「ねえ、あなたが決めて。私、怒ってもいいかしら?」 第2話 その言葉が終わるや否や、時奈はバタンという音を立てて膝をついた。 嗚咽混じりの声は、今にも崩れそうな感情をなんとか支えようとしているようだった。 「全部、私が悪いの……私なんか、来なければよかったのよ……」 「文音、怒らないで。私、土下座してでも謝るから、ね?」 そばに立つ涼生は、喉仏を上下させ、黒い瞳には複雑な切なさが渦巻いていた。 彼は時奈を抱き起こし、自ら屈んで……豆腐を拾い始めた。 立ち上がったあとも、高級なスーツの袖で、豆腐についた泥を丁寧に拭き取った。 「……これで、少しは気が済んだか?」 その瞳に浮かんだ抑えきれない嫌悪と、苛立ちを目にした瞬間、文音の脳裏には五年前、二人で想いを確かめ合った日の記憶がよみがえった。 いつも冷静だった涼生が、彼女の承諾を得た瞬間、まるで少年のように無邪気な笑顔を浮かべていた。 あの時の彼の瞳には、まばゆい光が宿り、惜しみない愛情が溢れていた。 結局、最後にその愛は消えたのだ。 文音は涼生の手から豆腐をつまみ上げ、あからさまな嫌悪を隠すことなく、それをポイっと遠くへ投げた。 「ごめんなさい、私って潔癖症なの。汚れたものには、もう触れたくないの」 その言葉には、明らかな含みが込められていた。 涼生と時奈に一瞥もくれず、文音は背筋を伸ばし、足を引きずるようにして車へと向かった。 助手席に乗ろうとするが、先に車のドアが開かれた。 またしても耳障りな甘ったるい声が飛んできた……時奈だった。笑顔で声をかけてきた。 「文音、後ろに座ってくれない?ちょっと車酔いしやすくて…… それに、この車の助手席は、私もう慣れてるの」 そう言ってぱちぱちと瞬きをしながら、まるで天使のような笑顔を浮かべていたが、その目の奥には、挑発と勝ち誇った色がはっきりと見えた。 文音は唇をゆるめ、冷たい笑みを浮かべた。 そして時奈の目の前で、そのまま助手席に堂々と腰を下ろした。 時奈が涙を浮かべそうになった瞬間、文音は鼻で笑い、冷たく言った。 「ねえ、毎日『義弟』の助手席に乗ってるとき、彼に聞いたことある?この車、誰が買ったのかって」 ちょうど歩み寄ってきた涼生は、その皮肉に満ちた一言を聞き、端正な顔に瞬時に氷のような冷気を漂わせた。 何も言わず、彼は時奈のために後部座席のドアを開け、優しく慈しむような口調で言った。 「大丈夫だ。車酔いの薬はちゃんと用意してある。気分が悪くなったら、すぐ言って」 時奈は涙ぐんだ目で涼生を見つめ、甘えるように言った。 「涼生……やっぱり、あなたが一番優しいわ」 まるで、二人が本物の婚約者であるかのような空気だった。 涼生がふと前を向くと、目を閉じて静かに休んでいる文音の姿が視界に入った。 その瞬間、胸の奥に激しい怒りがこみ上げた。 拳を握りしめ、腕に浮かぶ血管が怒張した。 耐えきれず、苦悩に満ちた声で言った。 「そうだよ、この車はお前が長年貯めたお金で買ってくれたものだ。 でもさ、俺たちの間で、そんな細かいことまで気にする必要があるのか?」 文音はゆっくりと顔を上げ、その美しい瞳には皮肉しか浮かんでいなかった。 「ちゃんと覚えてたんだね。 なら、月島時奈を乗せるたびに、どうして思い出せなかったの?」 涼生は深く息を吐き、失望に満ちた声で言った。 「お前って、本当にいつまでも細かいんだな」 文音はまぶたを伏せ、その奥に潜む憎しみをそっと隠した。 「……ごめんなさいね、私ってこういう性格なの。 今回出てきたのも、きっちりケリをつけなきゃならないことがあるんだよ」 涼生は、それをただの嫉妬だと思い込んだ。 そして彼が車に乗ろうとしたそのとき……怒りに満ちた顔の数人が、大勢の記者を引き連れて突然突進してきた。 車を取り囲み、窓を激しく叩きながら、先頭にいた中年の女性が怒声を上げた。 「このクズ女!お前がうちの娘を殺したんだ!命で償え!」 時奈は慌てて、相手を間違っているふりをして、助手席にいる文音にしがみついた。 「文音を傷つけないでください!この子は関係ないの!」 しかしその手で、巧妙に助手席側のドアロックを外していた。 次の瞬間、文音は髪をつかまれ、車から無理やり引きずり出された。 涼生がようやく動こうとしたそのとき……耳に届いたのは、時奈の怯えたすすり泣きだった。 「涼生、助けて……怖いの……!」 たった一言で、彼は迷いなく時奈の元へ駆け寄った。 地面に押さえつけられている文音を、一度も振り返ることなく。 文音は必死に抵抗しながら、鼻をつくような硫酸のような異臭を嗅ぎ取った。 恐怖と生存本能に突き動かされ、大声で助けを求めた。 だが返ってきたのは……車のエンジン音だけだった。 第3話 刑務所の前の騒ぎは、すぐに警備員たちの注意を引いた。 警備員が駆けつけたとき、中年の女性はまさに硫酸を振りかけようとしていた。文音はとっさに腕を差し出し、それを防いだ。 「ジュッ」という音とともに、血と肉が焼ける匂いが立ちのぼり、瞬く間に骨が露わになるほどの深い傷ができた。 文音は痛みに顔を歪めながらも、責任を追及しようとする警備員を手で制した。 「三年前、確かに私にも非があった。だから、彼らを責めないでください。 でも……もう一度だけ、私にチャンスをください。 必ずあなたの娘さんの潔白を証明してみせます」 その言葉が終わると同時に、騒がしかった群衆はしんと静まり返った。 人々は自然と道を空けた。 文音は負傷した腕を引きずるようにしながらも、背筋をすっと伸ばし、一歩一歩、家の方へと歩み始めた。 ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは…… 涼生が時奈の足元に跪き、両手で彼女の足を丁寧に支えながら、薬を塗っている姿だった。 その手つきはまるで壊れ物を扱うように優しかった。 それでも時奈は目を潤ませ、甘えるように囁いた。 「涼生……痛いの……」 たった一言で、涼生はすぐに態度を変え、傷口にそっと息を吹きかけながら低く囁いた。 「大丈夫、怖くないよ。もっと優しくするから」 だがその傷は、ほんのかすり傷に過ぎなかった。 一方で、文音の腕は血と肉がぐちゃぐちゃにただれ、指先にかけて乾く間もなく血が滲んでいた。 冷たい風が吹き抜け、まるで刃物のように傷口を撫でている。 その鋭い痛みは腕を通り、胸の奥まで突き抜け、心臓が痺れるようだった。 文音は無表情のまま足を引きずって近づき、涼生の手から無言で薬を奪い取った。 涼生が振り返り、文音の凄惨な姿に思わず息を呑んだ。 顔色は青ざめ、目には動揺と戸惑いが浮かんでいた。 「どうしたんだ?記者が数人いたくらいだろ?お前は百戦錬磨の弁護士じゃないか。どうしてこんなにボロボロなんだ?」 文音はその言葉に、思わず笑ってしまった。 「つまり、私が傷つくことになるって、最初からわかってたのね?今さらそんなこと言って、何の意味があるの?」 涼生は言葉に詰まり、眉間に怒気を浮かべた。 「……何だよ。たかがこんなことで、うまく解決できないのか? もういい。誰か呼んで手当てさせる」 時奈が立ち上がり、心配そうに、どこか哀れむような口調で優しく言った。 「文音、私が手伝ってあげる」 「どいて」文音の声は冷たく、きっぱりと彼女を拒絶した。 だが時奈はちょうど消毒用のアルコールを持っていて、避けきれずにそのまま文音の傷口に触れてしまった。 激痛が走り、文音は思わず息が詰まり、反射的に時奈を突き飛ばした。 時奈は体勢を崩し、頭をテーブルの角にぶつけてしまい、すぐに血が滴り落ちた。 彼女は目の奥に一瞬浮かんだ憎悪を必死に隠しながら、血を押さえてかすかに笑った。 「文音……痛くさせちゃったのね?全部私が悪いの。怒らないで……お願い」 涼生の瞳が震え、唇をきつく結び、思わず時奈を抱きしめようとした。 しかし……文音の冷たく、嘲るような視線とぶつかったその瞬間、彼はその手を止めた。 「文音、お前は姉をいじめることしかできないのか? 文句があるなら、俺に言えよ」 文音はその言葉に顔を上げ、涼生をじっと見つめた。瞳には怒りが宿り、みるみる赤く染まっていった。 時奈はよろめきながら立ち上がり、涼生の前で小さくすすり泣いた。 「涼生、そんなに怒らないで……文音は三年も刑務所にいたんだもの。少しくらい恨みを持ってても、仕方ないよ。だって……」 言葉を切って、挑発するように文音を一瞥してから続けた。 「だって三年前の裁判、彼女は負けて、勝ったのは私だったんだもの。 彼女が私を恨むのも無理ないけど……でも、私の依頼人は無実だった。妹だからって、不正を見逃すわけにはいかなかったの」 文音は思わず涼生を見た。 だが彼の視線は、最初から最後まで時奈に注がれたままだった。 「いいんだよ、君は間違ってない。俺は『正義』しか信じない。 真実を歪め、法の正義を踏みにじる者は、裁かれても当然だ」 そう言って、意味ありげに文音の方へ視線を向けた。 文音は呆れ果てて言葉も出なかった。 そんな正義ヅラを平気でできるなんて……拍手でもしてやりたいくらいだ。 婚約者に冤罪を着せておいて、聖人ぶるなんて、厚顔無恥にも甚だしい! 「『正義』?涼生、三年じゃ足りないってこと? 真実を一番知ってるのは、他でもないあんたでしょ!」 その言葉が終わらぬうちに、携帯の着信音が響いた。 涼生の携帯だった。 相手は怒りを抑えきれない声の隆道だった。 「電話を文音に代われ!」 文音は釈放されたばかりで、まだ携帯すら持っていなかった。 電話を受け取ると、隆道の声は明らかに苛立っていた。 「聞いたぞ。時奈が迎えに行ったのに、お前は冷たくあしらったそうじゃないか? どうせあと十三日でお前は行くんだ。くだらない我を張らずに、おとなしくしてろ。嫁資の準備はちゃんとしてやる」 文音は何も答えなかった。胃がぎゅるぎゅると音を立て、吐き気を催した。 そのとき、涼生が驚いたような声で口を開いた。 「行く?文音、どこに行くつもりだ?」 第4話 文音が答えるよりも早く、彼女の身体はとうとう限界を迎え、そのまま意識を失って倒れ込んだ。 釈放されて以来、水一滴さえ口にしていなかった彼女の体は、すでに極限まで衰弱していた。腕の傷口も直視できないほどひどかった。 再び目を覚ましたとき。 彼女はベッドの上に横たえられていた。 身体には丁寧に処置が施され、鼻先には、かすかに温かい食事の香りが漂っていた。 「目が覚めたか?」 柔らかく、低く落ち着いた声、珍しく穏やかな涼生の口調だった。 「お粥を作った。少しでいい、口にしてくれ」 ふっと、芽生えかけた食欲はその言葉で一気に冷えきった。 文音は顔をそむけ、唇をきつく結び、不機嫌に言い放った。 「どいて。いらない」 涼生は苦笑を浮かべ、困ったように小さくため息をついた。 そして文音の額に手を伸ばそうとしたその瞬間、彼女は、痛みに耐えながらも体を引いて、それを避けた。 その瞳に浮かんでいたのは、ただ嘲りと、冷たい拒絶だった。 「涼生、今度はどんな芝居を見せるつもり?」 涼生の眉が寄り、目に浮かんだのはあきらめと、苦さをにじませた失望だった。 「俺たちは婚約者だ。君の世話を焼くのは、当然のことだろう?」 そのとき、部屋の外からやわらかな声が聞こえてきた。 「文音、少しは楽になった? ちょっと相談したいことがあるんだけど……いいかな?」 文音は一瞬、目を見開き、次いで涼生に皮肉げな笑みを向けた。 彼の顔に、一瞬ぎこちない表情が浮かび、やがて無理に優しげな声で口を開いた。 「……聞いてくれ。お前の傷は、全部、時奈が手当てしてくれたんだ。 本当に、お前のことを思ってるんだよ」 「どけ」――そう言いかけた文音の前に、時奈がすっと姿を現し、音もなく膝をついて跪いた。 「文音、お母さんがあなたに遺してくれた、あの法律事務所…… 本来は私なんかに関係のないものだってこと、ちゃんとわかってるの。 でも、今のあなたはもう弁護士として復帰できない。だから…… その事務所を、私に譲ってくれないかな? このこと、父さんにも話したの。ちゃんと納得してくれてる。 もしあなたがまた法律の仕事に戻りたいって言うなら、私は事務所で、文書整理とか軽い仕事を用意してあげる。……どう?」 時奈は眉を少し寄せ、いかにも『気遣いのできる姉』を装った表情で見上げた。 まるで本当に、文音を心配しているかのように。 その姿を見て、文音はひんやりと冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。 怒りからではない。 ここまで図々しい人間が、この世に存在するのかと、心底驚いたのだ。 文音の母は、誰もが認めるほど優秀な女性だった。 妊娠中から、娘の将来を一つ一つ計画し、準備してきた。 どんな道を選ぼうと、いつでも力になれるように。 その法律事務所は、彼女の心血を注いで築き上げたものだった。 優秀な人材が揃い、業界でもトップクラスの評価を得ていた。 文音がどれほど中傷され、刑務所に落とされようとも、その事務所だけは、彼女の誇りとして、一度も崩れなかった。 文音は唇の端を歪め、冷ややかな笑みを浮かべながら問い返した。 「月島時奈、あんた……どの面下げて、母の遺産を欲しがるわけ?」 時奈はすぐさま目を潤ませ、ぽろぽろと涙をこぼしながら肩を震わせた。 「文音、私のことが嫌いでも……そんな酷い言い方、ないよ…… ほんとに、どうしても今、必要なの。お願い、たった一度だけでいい。譲ってくれない? あなたまで私を見捨てたら……私、もう生きてる意味なんてない!」 言葉の終わりとともに、彼女は感情を爆発させ、 傍にあったナイフを掴んで、その白く細い手首へと振り下ろそうとした。 だが、刃が肌に触れるその直前、涼生が素手でナイフを受け止めた。 その掌からは、じわじわと鮮血がにじみ出した。 それでも彼は痛みを見せず、ただ文音をまっすぐ見つめた。 その瞳には、冷たく澱んだ嫌悪の色が宿っていた。 「文音、お前は……どうして、そこまで時奈を追い詰めなきゃ気が済まないんだ?」 涼生はそう言いながら、血の滴る手で文音の前に立ちはだかった。 真っ赤に染まった瞳と、全身から溢れる怒気が、文音の胸の奥に、小さな震えを走らせた。 第5話 文音はシーツを握りしめながら、カーペットに広がっていく鮮やかな血痕を見つめ、わずかに眉をひそめた。 だが、それは心配ではなかった。 ただ、純然たる嫌悪だけだった。 口元に浮かんだのも、冷酷で嘲るような笑みだった。 「ごめんなさいね。たとえ今日、あなたたち二人がここで仲良く首でも切って死んだとしても、 私は絶対に、同意なんてしないわ」 時奈の顔は真っ青で、立っているのもやっとの様子だった。 その姿は、一見すれば胸が締めつけられるように映るかもしれない。 けれど彼女はその場に耐えきれず、涙をぽろぽろ流しながら部屋を飛び出していった。 涼生はすぐに追うこともせず、重い足取りで文音の前に立った。 その目は沈みきっており、美しい顔には失望と嫌悪の色しか浮かんでいなかった。 「……文音、本当にこれでいいのか?」 文音は薄く冷笑を浮かべた。 「涼生、人の言葉が通じないか?」 「……そうか。……わかったよ」 涼生は奥歯をぎりっと噛みしめ、しばらく彼女を見つめた後、踵を返して足早に部屋を出ていった。 二人が去ってから、まだ一時間も経っていないが、文音のもとに、法律事務所から慌ただしい電話がかかってきた。 「お嬢様、大変です!事務所の資金の流れに不正があると通報されて、賄賂の容疑で警察が来て、何人も連行されました! どうか助けてください!みんな無実なんです!このまま三日も経てば、士気が下がってしまいます!」 その電話に、文音の心臓は瞬間的に凍りついた。 全身の血が引き、まるで深い闇の底に落ちていくような感覚に襲われた。 彼女は奥歯を噛みしめ、震える声で問うた。 「冷泉の仕業か?」 電話の向こうで、相手は一瞬、言葉を詰まらせ、やがて低く答えた。 「いえ……財前家です」 その一言に、文音の目に怒りの光が灯った。拳をぎゅっと握りしめ、冷たく言い放った。 「財前家の人の居場所を調べて。私が会いに行く」 文音が馬術場に現れたとき、その姿にすべての視線が集中した。 かつての彼女は若くして、京栄市でも名を馳せた名弁護士になった。 だが今は、車椅子に座り、満身創痍の姿でここに現れた。 周囲の嘲笑や好奇の視線が、無数の針のように彼女を突き刺した。 だが文音は、それらを一切気に留めなかった。 そのとき、遠くから甲高い笑い声と、弾むような歓声が聞こえてきた。 無視しようと思った。 ……なのに、どうしても耳が捉えてしまった。 顔を上げると、視界の先に映ったのは、時奈と涼生が、ひとつの馬に同乗している姿だった。 時奈は怖がりながらも甘えるように身を預け、涼生は優しげに笑みを浮かべ、まるで宝物でも見るような目で彼女を見つめていた。 文音は、その光景をほんの一瞬だけ見つめ、すぐに目をそらした。 無表情のまま、車椅子の車輪を勢いよく漕いだ。 縁起が悪い。 そのとき、涼生の視界の端に、文音の姿が映った。 心が、不意にぎゅっと締めつけられた。 彼は馬から飛び降り、急いで文音の前に立ちはだかった。 「時奈は馬に乗れないから、ちょっと手を貸しただけだ。ほかに意味はない。 それに……お前が来るなんて、知らなかった」 文音は怒りを通り越して笑った。 「なに?私が来たことで、邪魔されたって言いたいの?じゃあ、今度から来るときは、あなたに報告する義務でもあるの?」 涼生は眉をひそめ、苛立ちを浮かべながら言葉を吐き捨てた。 「言っただろう?俺と時奈は何もないって。……なのに、なんでいつも、そんな汚れた目で見るんだ」 文音は、淡々とした口調で返した。 「あなたたちがどうであろうと、私には関係ない」 その一言に、涼生は言葉を詰まらせた。彼は歯を食いしばり、わざと言った。 「そうか……お前がそう言うなら……」 だが、その言葉が最後まで続く前に、文音は無言で車椅子を漕ぎ、その場を後にした。 何の迷いも、躊躇も見せぬ背中に、涼生はどうしようもない苛立ちと、もどかしさを覚えた。 押さえきれない感情が、胸の奥でざわついていた。 文音は、苦労の末にようやく財前家の人を見つけた。 交渉に入ろうとしたそのとき、彼らの会話が耳に飛び込んできた。 「女を大事にするっていうなら、冷泉さんが一番だよな。月島時奈がちょっと涙を見せただけで、財前家に数億の契約を渡して、あの月島文音の事務所を潰せって命じてきたんだからな」 第6話 文音の頭に、ズキリと鋭い痛みが走った。 心臓がまるで誰かに強く殴られたかのように、激しく鼓動を打った。 その内側では、まだあの会話が続いていた。 「で、なんで冷泉さんは自分で動かなかったんだ?」 「お前、分かってないな。最初から冷泉さんが好きだったのは月島時奈だ。どうせ月島家の婿になるんだから、正面から月島家の事業を潰すなんてできるわけないだろ?」 その言葉が胸にのしかかり、文音はまるで胸の上に重い石をのせられたように息苦しくなった。 思わず口に手をあて、込み上げる吐き気を必死に抑えた。 気持ち悪い。 しばらくして、怒りを飲み込みながら目を伏せた。 瞳の奥に潜んでいた氷のような光を隠し、震える手で車椅子を漕ぎ、無言でその場を離れた。 だが数メートルも進まないうちに、馬の蹄の音がざわざわと近づいてきた。 時奈が馬に乗って、文音の前に立ちはだかった。 白い乗馬服を着ながら、自信に満ちた笑みを浮かべている。 「文音、せっかく馬場に来たんだし、ちょっと乗ってみたら? 私が乗せてあげるよ。 昔、文音は馬術が一番上手だったもんね」 文音は鼻で嘲るように笑った。 「月島時奈、人を挑発するなら、もう少し品のあるやり方にしてくれない?」 時奈はまばたきをして唇をかみしめ、あの哀れみを帯びた表情を浮かべた。 「私、本当に文音のために思ってるんだよ。 文音が弁護士できないなら、私が一流弁護士になればいい。 文音が馬に乗れないなら、馬場で輝くのは私でいい。 文音が私に恨みがあるのは分かってる」 文音は奥歯をぎゅっと噛みしめて車椅子を漕ぎ、その場から離れようとした。 「どっか行け。顔も見たくない」 時奈の顔を見続けていたら、全部奪っておきながらまだ『善人』ぶるその顔を引き裂きたくなりそうだった。 だが時奈は馬でしつこく追いかけてきた。 するとその馬が突然暴れ出した。 不意を突かれた時奈は馬から転げ落ちた。 白い乗馬服は血に染まり、見る者すべてに強烈な衝撃を与えた。 すぐに時奈の仲間である上流階級の子息や令嬢たちが駆け寄り、彼女を囲んだ。 その中の一人が乱暴に文音を押しのけ、彼女は車椅子から落ちそうになった。 時奈は痛みに全身を震わせ、途切れ途切れに泣いた。 「文音、私が事務所のことを考えたのが悪かった。 文音を誘って馬に乗ろうとしたのも、私が悪かった。 でも……今、脚が動かなくなるかもしれない。文音……これで満足?」 その言葉で場の空気が一変した。 集まった者たちの視線は、まるで敵を見るかのように文音を射抜いた。 中には怒りを抑えきれず、文音に平手打ちを食らわせようとする者まで現れた。 しかし、振り下ろされる寸前、その手をがっしりと掴む手があった。 涼生だった。 彼は文音の前に立ち、庇った。 けれど彼の目に映る赤い潤みは、時奈のためだった。 怒りに震える者が叫んだ。 「涼生、お前、時奈を一番大事にしてたんだろ!?なんであんな悪女を庇うんだよ!?」 涼生は視線を落とし、手を微かに震わせながらも答えなかった。 かすれた声でボディガードたちに指示を出した。 「俺は時奈を病院に連れて行く。お前たちは文音を家まで送れ」 文音は不快そうに眉をひそめ、「送らなくていい」と言おうとしたが、その隙に涼生は既に時奈を抱き上げ、足早に立ち去った。 すぐに複数のボディガードが文音を囲み、外部からの干渉を完全に遮った。 彼女はそのまま裏門へ連れて行かれ、冷泉家の車に乗せられた。 だが車に乗った瞬間、刺すような異臭が鼻を突いた。 次の瞬間、視界がぐるりと回り、意識が遠のいていった。 再び目を覚ました時、そこは泥まみれで悪臭漂う馬小屋だった。 耳元には、馬の荒々しい鼻息と嘶きが響いている。 そして目覚めてほんの一秒後、暴れ馬が前脚を高く振り上げ、文音に向かって突進してきた。 足の不自由な彼女は避ける間もなく、衝撃を受けた瞬間、視界が真っ白になり、耳元でブンブンという音が鳴った。 第7話 暴れ馬は止まる気配もなく、振り返って長く一声鳴き、文音の体の上を踏みつけた。 激しい痛みが全身を襲い、骨が砕けるようだった。 馬は狂ったように彼女の身体を踏み続け、文音の両足はほとんど変形していた。 残った力を振り絞り、痛みに呻きながら、彼女は扉を叩いた。 「誰かいますか、お願いです、開けてください!」 意識を失う直前に、扉がゆっくりと開いた。 汗でぼやけた視界の中、ゆっくり入ってきたのは見覚えのある人影……涼生だった。 文音が意識を取り戻したのは七日後だった。 最初に目に入ったのは、また涼生だった。 混沌とした頭はまだ覚醒せず、身体は本能的に後ずさった。 身体に繋がれた器具や試験管が激しく揺れた。 涼生はそれを見て、深い黒い瞳にわずかな感情の動きを見せた。 すぐに近づき、文音の手を握り、優しい声で言った。 「怖がらないで、もう全部終わったんだよ、文音」 文音は痛みに麻痺しながらも顔を上げ、振り上げた手で涼生の頬を強く叩いた。 涼生は顔を背け、舌先で左頬を押さえた。 わずかに湧き上がった怒りは、文音の涙で震える目と恐怖の色を見て、すっと消えた。 彼は胸がまるで不意に強く打たれたように、少し狼狽えた。 感情を整えた涼生は、柔らかな声で続けた。 「お前が俺を恨んでるのは分かってる。あの時、俺は時奈の病院にいて、お前が連れ去られるのに気づけなかった。俺の過ちだ。 時奈の周りの連中がやったことだ。俺も叱った。彼らはただ、時奈を心配しすぎていただけだ。 もしお前が時奈に手を出さなければ、彼らもあんなことはしなかっただろう……」 その偽善じみた言葉に、文音は吐き気を催し、怒りを抑えられなくなった。 制御不能となった彼女は枕元の果物ナイフを手に取り、涼生に投げつけた。 「出ていけ!」 彼女は人生で初めて、これほどまでに誰かを憎んだ。 自分を地獄に突き落としたのは彼なのに、まるで自分のためを思っているかのような顔をしている。 最低! 涼生は避けずにいたが、ナイフは顔のそばをかすめただけだった。 その完璧に整った冷たい顔に、一条の血の跡が刻まれた。 だが彼は軽く手を上げてさっと血を拭い、ただ目つきがさらに冷たくなった。 文音の手を離し、涼生は言った。 「落ち着いたら、また来る」 彼の背を見つめながら、文音は渦巻く怒りを必死に抑えた。 そして突然、叫んだ。 「冷泉、私は決めた。 あなたの言う通り、私は時奈に申し訳ない。だから事務所は彼女に譲る」 その言葉に、涼生は喜びと信じられない様子で文音を見つめた。 「ただし、五日以内に私の三つの要求を満たしてください」 言い終えた文音の目は氷のように冷たく、凍った湖のように静かだったが、口元にはぞっとするほど不気味な笑みが浮かんでいた。 涼生はただ嬉しそうで、文音の異変には気づかなかった。 「わかった。 結婚したいなら、結婚式の準備も早めに進めよう」 文音は内心で冷笑し、続けた。 「一つ目の要求は、あるものが欲しい。望月崖にしかない物で、写真は送る。 48時間以内にそれを持ってきて」 望月山は京栄市の有名な自然景勝地で、険しい崖が千メートル以上続き、崖の縁には柵など一切ない。 それでも涼生はためらわず、すぐに了承した。 涼生が去った後、文音はすぐに事務所に電話した。 「優秀な弁護士のほとんどは、母の顔を立てて来てくれたんだけど、今は一人ずつ二千万円を払う。五日後には全員に退職してもらって」 第8話 三日後、涼生が再び現れたとき、片手は粉砕骨折しており、全身には大小さまざまな恐ろしい傷が残っていた。 彼のそばにいた助手は文音に会うと、思わず憤りを口にした。 「ただの価値のないネックレスのために、社長が崖っぷちまで命を賭けたって知ってますか?社長はもう少しで落ちそうだったんですよ。 時奈さんは三日間泣き続けたのに、あなたは全く反応がないですね」 文音は遠慮なく言い返した。 「彼は自分の意思で行ったし、それも時奈のため。死んでも自業自得でしょう」 涼生は少し目を暗くし、何か言おうとした。 文音は手を差し出した。 涼生は迷いながらも、そのネックレスを彼女の手に置いた。 「これは価値のないネックレスだって?」 文音は細めた目で冷たく言った。 「つまり、あなたの社長の愛情も価値のないゴミだと言ってるのかしら」 涼生は眉をひそめ、言葉を探したが、突然ネックレスの裏に刻まれた文字を見て呆然とした。 望月山にはこういう伝説がある。 恋人たちが日の出の時にお互いの名前を何かに刻み、それを崖から落とすと神の祝福が得られるという。 当時、涼生はこのネックレスに刻むために三日三晩費やし、期待に胸を膨らませて投げ入れた。 五年前のあの朝、彼は朝日の光を浴びながら隣の文音を愛おしそうに見つめた。 「文音、神様はきっと俺の祈りを聞いてくれた。 俺たちはきっと生まれ変わってもずっと一緒だ」 だが今では、彼は身近な人間にこれをゴミ呼ばわりされている。 ガチャン。 文音はそのネックレスをゴミ箱に投げ入れ、涼生の顔がますます青ざめていくのを見て、少し気分が晴れた。 「私の一つ目の要求、よくできたわね。 じゃあ、二つ目の要求は……」 言いかけたところで病室の扉が開き、時奈が涙を浮かべ、悲しげで慌てた表情で走り込んできた。 彼女は文音に懇願した。 「文音、お願い、今の仕事をあなたに譲るわ。 でも、噂を広めるのはやめてほしいの。今ネットでは、私が勝つためにわざと動画を流したって騒いでる。 私を潰す気なの?」 涼生はその言葉を聞いて、すぐに文音の手を掴んだ。 「この数日、何をしてたんだ?」 文音は冷たい目で彼を見つめ、感情を込めずに言った。 「あの動画を誰が流したかは、あなたたちの方が私よりよく知ってるでしょ。 冷泉、私の二つ目の要求は、メディアにあの強姦事件の女性の動画を誰が流したのかを言うこと。 断ってもいいけど、拒否したら事務所は渡さないから」 そう言い終えると、悪意に満ちた笑みを浮かべた。 涼生は唇を引き結び、額の血管が浮き出た。 時奈は震えながら涙を流し、涼生を無力に見つめた。 「涼生、引き受けないで。文音は私に怒ってるだけよ。 私一人だけが傷つけばいい。 あるいは、私が死ねば文音も怒りが収まるかも」 そう言い終わると、時奈は壁に頭を打ちつけようとした。 涼生は急いで彼女の前に飛び出し、止めた。 手術で鋼線を入れたばかりの腕が強くぶつかり、すぐに血が滲んだ。 涼生は呻き声をあげつつも、泣き崩れそうな時奈をもう一方の手で支えた。 文音の嘲るような半笑いの視線を感じながら、涼生は抑えきれず低く叫んだ。 「わかった、約束する」 文音は満足そうに笑った。 「準備を急いだほうがいいわ。私が呼んだ記者たち、もう来てるみたい」 言い終わると同時に病室のドアが開き、たくさんの記者が押し寄せた。 彼らはすぐに時奈を囲み、鋭い質問を浴びせた。 「月島時奈さん、三年前、依頼人の裁判に勝つために動画を故意に流しましたか?」 時奈はカメラの前で顔を赤らめ、涙をこぼすばかりだった。 涼生は粉砕骨折した腕など気にせず、必死に時奈を守った。 大声で言った。 「三年前の動画は俺が賄賂を受け取り、故意に流した。すべて俺の責任だ。時奈とは関係ないんだ!」 その言葉に、人々は驚きの声をあげた。 無数のカメラが涼生を捉えた。 文音は群衆の外からその様子を見て、少し満足そうに笑みを漏らした。 第9話 だが、心の奥底はひどく冷え切っていた。 彼女が五年間愛し続けた男。 結局、こんな姿だった。 記者たちはすぐに駆けつけた月島家と冷泉家のボディーガードに追い出された。 涼生は激しい腕の痛みをこらえ、倒れそうになりながらも歯を食いしばって振り返り、文音を見た。 「文音、これで満足か?」 文音は首を振り、挑発的に笑みを浮かべた。 「当ててみたら?」 彼女はわかっていた。涼生が黙っているはずがないことを。 案の定、その夜、文音は突然押し寄せたボディーガードたちに口を塞がれ、手足を縛られ、病院から連れ出された。 携帯など身の回りの機器はすべて取り上げられた。 彼女は車に押し込まれ、隣に座る涼生を見た。 逃げられるはずもなく、エンジンの音を聞きながら、胸の中の不安が徐々に膨らんでいった。 「冷泉、何をするつもりだ?」 涼生は薄く唇を結び、穏やかな口調で言ったが、その瞳には冷徹な光が宿っていた。 「まずは京栄市を離れて、少し身を隠す。問題が片付いたら迎えに行く。いい子でいろ、文音」 文音は怒りに震え、悲しみと憤りの混じった声で叫んだ。 「また月島時奈のためでしょ?! 私があの時の被害者という汚名を晴らして、時奈の評判を傷つけるのが怖いだけでしょ?! 彼女のキャリアが、私のこれからの人生より大事なの?!」 文音の声は徐々に大きくなった。 涼生は答えず、ただ両手を握りしめ、終始冷淡な表情を崩さなかった。 文音は澄んだ瞳で彼を見据え、涙を浮かべながら歯ぎしりした。 「冷泉、最初からあなたとは会わなければよかった」 その言葉に、涼生の平静な顔に初めて感情の波紋が広がった。 彼は文音を真剣な眼差しで見て、一語一語慎重に言った。 「文音、俺はお前と結婚するから」 文音は呆れたように笑った。 その口調も態度も、まるで恩恵を与えているかのようだった。 車は止まり、文音は人里離れた郊外へ連れて行かれた。 荒涼とした風景を見て、文音は思わず嘲笑した。 「あいつのために、随分と手間をかけてるわね」 文音の大きく美しい瞳は感情を見せずに涼生を睨んだ。 「被害者の家族に渡す証拠を処分して、時奈の噂を消すために、私をここに何日も閉じ込めるつもり?」 涼生の目にわずかな後ろめたさが走り、彼は穏やかな口調で答えた。 「言っただろう、身を隠すためだけにここまで連れた。他意はない。 怖がるな、たくさんのボディーガードもつけてる。彼らがちゃんと世話をする」 文音は冷めた目で涼生の芝居を見ていた。 涼生は彼女の様子に何故か胸がざわつき、再び彼女の前に進み、何度も約束した。 「文音、三日だけだ。お前はもう弁護士にはなれないが、これからは俺の妻だ。ずっと一緒にいよう。 言うことを聞け。愛してるんだ」 涼生は文音の額にキスをしようとした。 だが文音は嫌悪して避けた。 「涼生、私の三つ目の要求は、私の部屋の戸棚に書類がある。それを月島時奈に渡せ。もし彼女が内容を公開したら、法律事務所は彼女のものだ。選択権は彼女にある」 心配そうな涼生を見て、文音は冷笑し付け加えた。 「安心して、あの強姦事件とは関係ないから」 涼生は口ごもり、何か言いかけたが、その時電話が鳴った。 時奈からの電話だと見ると、すぐに背を向けて立ち去った。 翌日、涼生が残したボディーガードたちも、正体不明の電話を受けて全員離れていた。 こうして文音は一人で郊外の部屋に置き去りにされ、二日間、食事も水も与えられずに過ごした。 その二日間、ここに連れて行かれる前にすべての通信機器を取り上げられていたため、外部との連絡は一切できなかった。 彼女は車椅子に座り、生き地獄のような日々を耐え抜いた。 支えとなったのは、涼生と時奈への憎しみだけだった。 もう耐えられなくなりそうな時、突然ヘリコプターの音が響いた。 西園寺家のマークが入ったヘリコプターが着陸した。 スーツを着た年配の男性がにこやかに文音の前に歩み寄った。 「奥様、やっと見つけました。 我々の旦那様の結婚の期日が近づいてます。旦那様の命で、迎えに来ました……」