一寸の恋、一寸の災い

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一寸の恋、一寸の災い

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神に誓って、桜庭加豆子(さくらば かずこ)は本当にいい子だった。 一条家に引き取られて十八年、彼女は養育の恩に報いたくてたまらなかった...

Chương (1)

第1章

神に誓って、桜庭加豆子(さくらば かずこ)は本当にいい子だった。 一条家に引き取られて十八年、彼女は養育の恩に報いたくてたまらなかった。 だが、一条おじさんが提案した政略結婚には応じられなかった。 なぜなら、加豆子の心は、すでに一条佑翔(いちじょう ゆうと)に全部奪われていたからだ。 そして彼女の十八歳の誕生日の夜、酔っ払った佑翔にベッドに誘われて…… あの夜以降、体だけでなく、心までも彼に捧げてしまったのだった。 第1話 「んっ……」 首筋に走る微かな痛みが、桜庭加豆子(さくらば かずこ)の思考をかき乱した。 霞む視界の先に見えたのは、頬を紅潮させる一条佑翔(いちじょう ゆうと)の顔だった。そしてその瞳には、濃厚な欲望が宿っていた。 「姉ちゃん、ちゃんと集中してくれない?」 佑翔の声は低くかすれ、甘く耳元をくすぐった。 彼は罰を与えるように加豆子のくびれをつかみ、動きを速めた…… 深く息を吐くと、満ち足りたように加豆子の胸に顔を埋め、いつものように事後の告白を始めた。 「姉ちゃん、俺がどれだけ姉ちゃんを愛してるか、分かってる? 姉ちゃんがいなきゃ、俺……死ぬよ」 体に残った快感が波紋のように広がっていた。 その上に重ねられた告白が、加豆子にわずかに残っていた理性を、容赦なく砕いた。 佑翔には母乳への異常な執着があり、加豆子は生まれつき豊満で、思春期からブラは毎日替えなければならないほど早く成長していた。 ふたりは、あまりにも相性が良すぎた。 加豆子は震える声で、けれどどこか期待を込めて口を開いた。 「佑翔……結婚しようよ。私、もうすぐ二十八歳になるの。そろそろ……」 だが、その続きを言う前に…… 胸元に甘えていた佑翔は、突然体を引き離した。 立ち上がると、肩幅の広い逆三角形のシルエットがあらわになった。 背を向けたまま服を着ていく彼の声は、いつもの冷たく無機質なものに戻っていた。 「そんな話、まだ早すぎる、会社も忙しい。結婚式なんて無理だ」 加豆子は下に敷いていた服をぎゅっと握りしめ、唇を噛んで、遠慮がちに言った。 「式は構わない、籍だけ入れたいの」 佑翔の体が微かに硬直した。 気まずさの漂う空気の中、彼の携帯が鳴った。 佑翔は車を降り、電話に出た。 その間に加豆子は着替えを始めたが、足がもつれて近くの草むらに倒れ込んでしまった。 そのとき、一筋の赤い光が視界をかすめた。 草むらには、小型カメラがあった。 加豆子は震える手でそれを拾い上げ、ボタンの掛け違いにも構わず、佑翔のもとへ駆け出した。 ようやく彼の姿を見つけ、盗撮されたことを伝えようとしたそのとき……佑翔は冷たい声で、電話の向こうに言った。 「映像、届いたか?ちゃんと高画質で撮れてるな?加豆子の顔がはっきり映らないと」 その言葉は雷鳴のように耳元で炸裂した。 加豆子の足が無意識に止まり、頭の中が真っ白になった。 佑翔はスピーカーモードのままだった。 電話の向こうから、男のいやらしい笑い声が聞こえてきた。 「さすが一条社長、あんな極上の女の体を俺たちに見せてくれるとは、太っ腹だね」 佑翔はあざけるように軽く笑い、皮肉すら隠さなかった。 「ただのおもちゃだ。欲しいなら今度貸してやるよ。 清凪のためじゃなきゃ、あんな女に関わる気もなかった。 あと二日でコンクールだ。加豆子に何も起きなければ、清凪は優勝できない。ピアノは清凪の夢だ。 清凪が悲しむ顔なんて、見たくないからな」 ……彼が加豆子と一緒にいたのは、幼なじみの清凪のためだった。 加豆子は、ただの「おもちゃ」にすぎなかった。 加豆子の全身から血の気が引いていった。 まるで氷の底に突き落とされたように、心の奥底まで凍りついた。 顔は瞬く間に青ざめ、身体は崩れ落ちそうにふらついた。 そのとき、加豆子の携帯が震えた。 佑翔の父親、加豆子の養父の一条徹(いちじょう てつ)からのメッセージだった。 【加豆子、政略結婚の話、本当に断るつもりか?お相手は本当にいい家柄なんだ】 加豆子は目を閉じ、全身の力が抜け、涙がぱたぱたと足元の泥へと落ちていった。 彼女は佑翔に背を向けたまま歩き出し、指先で返信を打ち込んだ。 【おじさん、考えはまとまりました。私は、政略結婚を受けます】 徹からの返信はすぐに届いた。 画面越しにでも、彼の喜びが伝わってきた。 【それはよかった。お相手の方も、君の返事を待っていたところだ。二週間後に、海外で結婚式を挙げよう】 第2話 加豆子は、自分がどうやって車に戻ってきたのかすら覚えていなかった。 車内は快適な温度にエアコンが設定されていたはずなのに、徹と政略結婚の細部まで決まった時まで、彼女の手の震えは止まらなかった。 徹は、加豆子の素直な態度に満足した様子で、最後のメッセージを送ってきた。 【一条家が君を育てたのは、全くの無私というわけには言えない。だが今回の結婚の相手は、真剣に選んだ優秀な人物だ。安心して嫁げばいい。 佑翔に、私たちから話しておこうか?君と彼は特に仲がいい。突然の結婚話に、きっと寂しがるだろう】 このメッセージを読んだ瞬間、加豆子の脳裏に、佑翔の彼女を傷つけた冷たい言葉が、再び蘇った。 ぽたり、と涙が不意に携帯の画面に落ちた。 ……カチッ。 そのとき、突然車のドアが開いて、佑翔が乗り込んできた。 彼の黒い瞳には、目を赤く腫らした加豆子の悲しく惨めな姿が映り、わずかに眉が寄った。 そして、彼女をそっと抱きしめた。声には隠しきれない優しさと気遣いが滲んでいた。 「姉ちゃん、どうして泣いてるの?体の具合でも悪いのか?」 加豆子はさりげなく携帯を背中に隠した。 かつては胸を高鳴らせた彼の体温に触れながらも、もはや以前のような甘い感情は湧いてこなかった。 彼女は首を横に振り、できるだけいつも通りの落ち着いた声で答えた。 「何でもないよ。ただ……さっき蒼海ピアノコンクールの決勝に招待されて、すごく嬉しくて……」 その瞬間、佑翔の身体がぴくりと硬直した。 ついさっき、電話で話していたコンクールも、「蒼海ピアノコンクール」だったからだ。 京華市最大級にして、もっとも権威のあるピアノコンクール。 それは、彼の幼なじみであり、家柄もつり合いの取れた家の令嬢白川清凪(しらかわ せいか)が、何があっても手にしたいと願っている賞だ。 だが、これまで四年連続で勝ち取ってきたのは加豆子だった。 清凪は、いつも二位止まりだった。 「姉ちゃん……」 佑翔は加豆子の首筋に細やかなキスを落としながら、まるで甘えるようにささやいた。 「蒼海コンなんて、もういいじゃないか。何度も優勝してるんだし、今年くらいは休んでもいいだろ? 家にいて……俺のそばにいてよ」 そう言いながら、佑翔のしなやかで美しい指が、加豆子の胸元をなぞり、ボタンをひとつずつ外していった。 これまで二人が激情に溺れていたとき、加豆子は情熱に流され、佑翔のどんな無茶な願いも、合理的なものも不合理なものも、すべて受け入れてきた。 佑翔は、彼女の理性が欲に弱いだけだと思っていた。 だが実際は…… 加豆子が執着していたのは、絡み合う最中に彼の瞳にほんの一瞬だけ浮かぶ、あの「愛しさ」のような光だけだった。 しかし今、彼女ははっきりと気づいてしまった。 この男が、彼女を本当に愛したことなど、一度もなかったということに。 加豆子は、ただの道具、おもちゃにすぎなかったのだ。 だから、佑翔に抱かれているその瞬間でさえ、彼女の瞳は澄みきっていた。 可憐な顔には、凍てつくような冷たい表情が浮かんでいた。 真っ赤な唇が皮肉げに弧を描き、彼女はわざとらしくこう言った。 「うん、じゃあ行かない。 賞なんていらない」 ……あなたなんて、もう要らない。 ただ、その最後の一言だけは、口には出さなかった。 佑翔の顔には、明らかに安堵と喜びの色が広がった。 瞳には熱を帯びた欲望が浮かび、彼は加豆子のくびれに腕をまわし、そのまま押し倒そうとした。 加豆子は、気づかれないようにそっと眉を寄せた。 「体調が悪い」と言い訳するつもりだったその瞬間…… 車の窓越しに、整ったノックの音が響いた。 それに続いて、透き通った冷たい女の声が聞こえてきた。 「佑翔、中にいるの?今何してるの?彼女と一緒?」 第3話 佑翔は、ほとんど反射的に加豆子を強く突き飛ばした。 彼女の後頭部がドアに激しくぶつかり、その痛みに顔がさっと青ざめ、息が詰まった。 佑翔は乱れた服を慌てて整え、すぐさま窓を下ろして、車の外にいる清凪を緊張した面持ちで見つめた。 いつもは冷静沈着な彼の声が、清凪を前にすると、声の調子さえかすかに震えていた。 「彼女なんていないよ。ただ、加豆子姉さんがさっき怪我して、ちょっと手当てしてただけだ」 加豆子が顔を上げると、ちょうど清凪の冷たく意味深な美しい瞳と視線が合った。 その清らかな瞳には、加豆子の惨めさも、みっともなさも、すべてが映っていた。 二人は、まったく正反対の存在だった。 加豆子は、豊かな体つきと純粋さと色気を併せ持ち、男たちの欲望をかき立てる女で、清凪は細身で冷ややか、まるで天から舞い降りた女神のような存在だった。 加豆子もわかっていた。佑翔と清凪は幼い頃からの付き合いで、小学校から同じ学校に通い、留学までも一緒だったことを。 周囲の大人たちも、18歳までの加豆子自身も、佑翔と清凪は「理想のカップル」だと信じて疑わなかった。 でも……18歳のあの夜、佑翔が選んだのは加豆子だった。 加豆子はてっきり、彼が清凪のようなタイプは好きじゃないのだと思っていた。 しかし今になってようやく分かった。 彼はただ、自分の中で神聖視している彼女を、汚したくなかっただけだ。 清凪はしばらく加豆子を見つめたあと、ふっと微笑み、口を開いた。 「佑翔、この人が、あなたの家が援助してる、たしか……桜庭さんだよね? あなたが彼女と仲がいいのは知ってるけど、もう少し気をつけた方がいいわよ。 仲が良すぎると、もし噂になったらご両親の顔にも泥を塗ることになるし、私だって……佑翔を見下ろすかもしれないわ」 「見下ろす」という言葉が落ちた瞬間、佑翔の表情がはっきりと動揺に変わった。 「違うよ!彼女とは何もない!彼女と付き合うなんて、ありえないよ」 その言葉が、ナイフのように加豆子の胸をえぐった。 彼女は両手を強く握りしめ、指が掌に食い込んで、皮膚が破けそうなほどだった。 それでも、清凪の表情は冷ややかで、皮肉めいた笑みを浮かべていた。 佑翔は焦りを隠せず、振り返って加豆子に目で合図を送った。 その目には、懇願の色がにじんでいた。 加豆子は、込み上げる悲しみを必死に飲み込み、ぎこちなく口元を引き上げて微笑んだ。 「白川さん、誤解です。 佑翔とは恋人なんかじゃありません。仮に感情があったとしても、せいぜい姉弟のような関係です。 それに、私もうすぐ政略結婚なんです。佑翔とどうこうなるなんて、あり得ませんよ」 その言葉を聞いた清凪の氷のような表情が、ようやくわずかに和らいだ。 佑翔を見るその瞳も、さっきとは打って変わって柔らかさを取り戻していた。 「佑翔、しばらくおじさんたちと話してないから、今夜あなたの家に伺うわね」 そう言い残し、清凪は背を向けて立ち去っていった。 日差しが、白鳥のように気高く優雅な彼女の背に注がれていた。 その姿を見つめながら、加豆子の胸には、ふとした劣等感が芽生えた。 そのとき、手首に鋭い痛みが走った。 佑翔が強く掴んでいたのだった。 眉をひそめて、どこか不満げな表情を浮かべながら言った。 「姉ちゃん……さっき政略結婚って、それどういう意味?」 加豆子の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。 ほんの少しだけ力を込めて、彼の手から自分の腕を引き抜いた。 「ただの言い訳よ。気にしないで」 その答えに、佑翔はようやく安堵の息をついた。 だが、車内には奇妙な沈黙が流れた。 佑翔は軽く咳払いをして、自らの行動に言い訳を重ねた。 「別に怒らないでくれよ。清凪が父さんたちに余計なことを言いやしないか心配で、そう言っただけだ」 第4話 加豆子は何も言わず、ただ目を閉じて、まるで疲れたかのように眠ったふりをした。 佑翔はその様子を見て、彼女が怒っていないのだと勝手に思い込み、ようやく安心した。 そして気を利かせたつもりで、自分のジャケットを脱ぎ、そっと彼女の体にかけてやった。 彼は気づいていなかった。 加豆子の目尻から、静かに一筋の涙が滑り落ちていたことに…… 二人が一条家に戻ったときには、清凪はすでに先に到着していた。 彼女は徹と佑翔の母親一条陽子(いちじょう ようこ)に温かく迎えられ、客間で楽しそうに歓談していた。 加豆子が部屋に入ると、陽子が冗談めかした調子で声をかけた。 「加豆子、見てよ。佑翔と清凪って、本当にお似合いじゃない?」 清凪はゆっくりと加豆子に視線を向け、涼しげで、どこか含みのある笑みを浮かべた。 「加豆子さん、顔色が悪いわね……もしかして、私のことが嫌い? それとも、私と佑翔が一緒にいるのが気に入らないのかしら?」 その一言で、場の空気が一変し、視線が一斉に加豆子に集まった。 加豆子の顔色もわずかに青ざめた。 陽子は慌てて場を取り繕うように笑いながら口を挟んだ。 「何言ってるの、加豆子はとても思いやりのある子よ。佑翔なんかよりよっぽどしっかりしてるわ。 それに、もうすぐY国の……」 「おばさん!」 加豆子は思わず遮った。 「わ、私ちょっと体調が悪くて……先に部屋で休ませてもらいますね」 陽子はそれ以上は言わず、優しく頷いた。 「分かったわ。じゃあゆっくり休んでちょうだい」 加豆子が階段を上がっていく途中で、陽子が清凪に「もう少し泊まっていって」と声をかけるのが聞こえた。 清凪はあっさりと断ったが、佑翔は焦った様子で、何とか引き止めようと必死に説得をしていた。 そのやり取りを聞きながら、加豆子の唇には、冷ややかな皮肉が浮かんだ。 清凪がいる限り、佑翔は他のことが目に入らなくなった。 そうして、一週間があっという間に過ぎた。 佑翔はそのほとんどの時間を清凪と一緒に過ごしていた。 だが、加豆子のことを完全に忘れていたわけではなかった。 夜になると、彼女にメッセージを送ってきた。 【姉ちゃん、怒らないで。父さんと母さんがさ、清凪がまだうちに慣れてないから、案内してあげろって】 【彼女が帰ったら、ちゃんと姉ちゃんに付き合うよ。前に君が行きたいって言ってた海外の観光地、一緒に行こう】 【姉ちゃん、好きなのは君だけ。清凪とはただの芝居だよ。父さんたちに見せるための。 それから、前に約束してくれたよね?蒼海コンには出ないって。あの日は家で俺と過ごしてほしい】 【姉ちゃん、愛してるよ】 もし、加豆子がその時ちょうどベランダにいなかったら。 佑翔が、清凪の髪の先に落ちた一枚の花びらを、まるで宝物のようにそっと拾って胸元にしまう姿を見ていなければ。 彼女はきっと、まだ自分を騙し続けていただろう。 佑翔の心の片隅に、少しは彼女への想いがあると、信じていられたかもしれない。 この一週間、加豆子もじっとしていたわけではなかった。 一条夫婦と何度も出かけ、加豆子の出国に必要な手続きをすべて終えていた。 婚姻届さえ、すでに提出してあった。 徹と陽子は、加豆子の素直で協力的な姿勢に大いに満足し、まるで実の娘を嫁がせるかのように、家中を祝いの飾りで包んでいた。 だが佑翔は清凪のことばかり気にしているから、それらすべてを見なかったかのように、まったくの無反応だった。 ある日、佑翔は陽子と一緒に清凪との登山計画を立てていたとき、ちょうど加豆子がその場に現れた。 陽子は自然な流れで提案した。 「じゃあ、加豆子も連れていきましょうよ。ちょうど気分転換にもなるし、時間ももうあまりないしね」 そう言われては、佑翔も断ることができず、しぶしぶ頷いた。 その後、加豆子は何事もなかったかのように振る舞い、何か理由をつけてその場を離れようとした。 だがその瞬間、佑翔が突然彼女の手首を掴み、人目につかない隅へと無理やり引き込んだ。 「姉ちゃん……」 佑翔は焦りを滲ませた声で加豆子を呼び、熱を帯びた体を近づけてきた。 その表情には、まるで何かに怯えているかのような切迫感があった。 「本当に怒ってるのか? 清凪とは何もないんだ。全部、父さんたちに見せるための演技なんだよ。お願いだから信じてくれよ、ね?」 第5話 加豆子は佑翔の嘘をわざわざ暴こうとは思わなかった。 ただ黙って彼を突き放そうとしていた。 しかし佑翔は、かえって彼女をより強く抱きしめてきた。 まるで自分の愛を示そうとするかのように。 彼は片手で加豆子の後頭部を押さえつけ、強引に唇を塞いだ。 もう一方の手も休むことなく、服の裾から中へ滑り込み、彼女の身体を撫で回し始めた。 慣れた手つきで、加豆子のブラのホックを外していった。 佑翔の黒い瞳には欲望が揺らぎ、喉仏がごくりと動いた。 彼は加豆子の目に浮かぶ拒絶の色に気づかず、顔を近づけて耳元で囁いた。 「姉ちゃん……欲しいんだ」 加豆子は吐き気がし、こんなにも佑翔との接触を拒んでいることに気づき、驚きを覚えた。 彼女は思い切り彼の手を止め、深く息を吸い込み、平手打ちをしそうになる衝動を必死にこらえた。 「やめて……今日は生理なの」 その言葉を聞き、佑翔はようやく大人しくなった。 彼は加豆子から手を離し、一瞬ほっとしたような表情を浮かべた。 その表情がまるで針のように、呼吸すら苦しくなるほどの痛みを伴って、加豆子の胸を突き刺した。 その瞬間、加豆子ははっきりと悟った。 彼は本心から彼女と付き合うわけではなく、ただ機嫌をとり、怒らせないための手段に過ぎなかったのだと。 彼女は何も言わなかった。 そんな彼女の様子に佑翔は少し不安そうだったが、 ちょうどその時、携帯が鳴り、彼は電話を取りに行き、そのまま戻ってこなかった。 加豆子は無表情のまま視線を戻し、黙って部屋へ戻ると、自分の荷物を整理し始めた。 最後の段ボール箱に封をしたそのとき、佑翔が突然、勢いよく彼女の部屋のドアを開けた。 彼は何も言わず、いきなり加豆子の手を掴み、外へ引っ張り出した。 「ちょっと来て」 彼がほんの少しでも注意深ければ、加豆子の部屋の異変に気づけたはずだった。 ベッドを除いて、部屋はほとんど何も残っていなかった、床には大きな段ボール箱が何個も積まれていた。 だが加豆子はすぐに彼がなぜ取り乱しているのか理解した。 一条夫婦が烈火のごとく怒っていたのだ。 書斎の中から未開封のコンドームが見つかったという。 一条家は家風を何よりも重んじている。 ましてやそんなものが発見された場所は書斎だからこそ、なおさら許しがたかった。 佑翔と加豆子がどれほど羽目を外そうと、決して書斎という場所は選ばなかった。 陽子が手にしたその物を見て、加豆子の胸に鋭い痛みが走った。 無意識に佑翔と、隣で薄く涙を浮かべる清凪を見やった。 陽子の声が冷たく響いた。 「若い者の気持ちはわかるが、これはあまりにもひどい。 厳しく罰しないけど、せめて自分のやったことは認めなさい」 そう言いながら、彼女の視線は清凪に釘付けだった。 清凪はいつものように高慢な白鳥のように顔をしかめて言った。 「私のじゃない。そんなことするはずがない」 その言葉のあと、彼女は佑翔を見た。 「佑翔でもない。この数日はずっと一緒だったから。彼がそんなことをチャンスがない」 名前を挙げてなくても、彼女は誰を指しているかは明白だった。 その場には噂を聞きつけた使用人たちも集まっていた。 嘲るような、軽蔑するような視線が、無数の針のように加豆子の全身を突き刺した。 加豆子はまるで氷水に落ちたかのような寒さに包まれ、陽子の探るような視線を前に、思わず首を横に振ろうとした。 その時、佑翔が彼女の耳元でそっと囁いた。 「清凪のために、お願い、認めて……今回だけ。 もし断ったら、君が18歳の時のこと、母さんに全部話す」 加豆子の身体が震えた。 信じられないという表情で佑翔を見上げた。 彼の顔に一瞬だけ罪悪感がよぎったが、すぐに目を逸らし、視線を合わせようとはしなかった。 わずかに引き結んだ唇が、彼の本気の決意を物語っていた。 加豆子の胸は、痛みと悲しみで押し潰されそうになった。 涙をこらえ、震える声で口を開いた。 「……おばさん、それは、私のです」 第6話 陽子はため息をつき、失望したような目をした。 「もういいわ。理由が何であれ、次からはもうふざけないでね」 清凪は突然嗤い声をあげ、陽子の腕に絡みついた。 「おばさん、言ったでしょ、佑翔がそんなことをするはずがないって。 幸い、加豆子さんは一条家の養女だけだわ。今後は佑翔と距離を置かせましょう」 加豆子を見るその目には、あからさまな挑発と嘲笑が込められていた。 加豆子は涙をこらえつつ背を向けて歩き出したが、こぼれ落ちた涙は止められなかった。 後ろ姿を見つめる佑翔の胸はますます乱れ、慌てて彼女を追いかけ、人気のない隅で引き寄せた。 「姉ちゃん」 佑翔は焦りを滲ませながら、小心ながらも媚びるような調子だった。 「頼む、怒らないでくれよ。 清凪はプライドが高いから、こんなことが広まったらきっと死ぬほど傷つくんだ。 それに、俺と彼女の間に本当に何もないんだ。清凪は純粋で、ただ好奇心でそれを買っただけで、それ以上の意味はない」 加豆子は力強く彼の手を振りほどき、涙がさらに激しく溢れた。 「そうね、清凪はプライドが高くて純粋で気高くて、私は下品で放蕩で、尊厳を踏みにじられても当然ってこと?」 佑翔はそんなに激しく泣く加豆子を見て、胸が張り裂けそうになった。 彼女を抱きしめて「違う」と言いたかった。 しかし背後から清凪が彼の名前を呼ぶ声が聞こえ、伸ばした手はそのまま止まった。 加豆子は涙をぬぐいながら突然微笑んだ。 「大丈夫、もう怒ってない」 そう言うと、振り返らずに歩き去った。 もう愛していないのに、怒る必要はもうないのだ。 登山の日、佑翔と清凪の共通の友人も多く来ていた。 その中で、加豆子だけが明らかに余計な存在のように浮いていた。 実は山に登る準備をしていた時点で、加豆子は後悔していた。 下腹部に激しい痛みが走り、額に汗が滲んでいた。 生理が来ていたのだ。 だが今さら登山をやめると言えば、周囲には別の意味で誤解されてしまう。 彼女と佑翔との関係を知る者は誰もいなかった。 みんなは佑翔と清凪が「理想のカップル」だと認めていた。 陰で二人の間に障害があるとすれば、それは厚かましく佑翔のそばに居座る桜庭加豆子のせいだと噂されていた。 しかし加豆子は焦ってはいなかった。 生理周期はいつも正確で、佑翔もこの時期を覚えていた。 きっと彼は後で言い訳を用意し、彼女を帰らせるだろうと信じていた。 途中で清凪が喉が渇いたと言うと、佑翔はすぐに皆に休憩を促した。 わざわざ清凪の好物のレモンジュースを買いに行った。 しかし清凪はふくれっ面をして佑翔を見た。 「忘れたの?冷たいのは苦手なのよ。 でも捨てるのはもったいないからね」 佑翔は甘やかすして微笑み、頷いた。 振り返らずに、冷えたレモンジュースを加豆子に渡した。 加豆子は手にした冷たいレモンジュースを見て、しばらく呆然とした。 そして佑翔を少し信じられないように見つめた。 周囲から嘲笑が漏れた。 「佑翔、ひどいよ。加豆子おばさんが清凪のこと嫌いなの知ってて、彼女がいらないものを渡すなんて。加豆子おばさんがまた悲しむよ」 加豆子は彼らより少し年上だった。彼女を見下す者たちはそう呼んでいた。 しかし加豆子は彼らの呼び方に腹を立てるより、佑翔の態度に憤りを覚えた。 佑翔は不機嫌そうに眉をひそめて言った。 「ただの飲み物だ。レモンジュースは君も好きだろ。深い意味はない。みんなの前で騒ぐな」 加豆子はレモンジュースを握りしめ、その冷たさが手のひらから心の奥まで染み渡るのを感じた。 彼女は少し力なく言った。 「佑翔、忘れたの?今日は私の……」 「加豆子さんが私のこと好きじゃないなら、もう無理させないで」 第7話 清凪は立ち上がり、いつもの冷たく高慢な表情は崩さなかったが、目の奥にはわずかに意地っ張りな涙が光っていた。 彼女は加豆子の手からレモンジュースを奪い取り、そのまま一気に飲もうとした。 佑翔は慌てて彼女を制止し、必死に言った。 「ダメだ、君は体が弱いから飲めない」 振り返って加豆子に鋭い目を向けた。 初めて、彼があんなにも苛立ちと嫌悪を込めて彼女を見た。 加豆子は悔しさで理性が崩れそうになり、堪えきれず涙目のまま、周囲の嘲笑を浴びながらその場を去った。 遠ざかっても、冷たい嘲りの声は耳に入ってきた。 「あの養女、何様のつもり?もう28歳だってのに、清凪と張り合おうなんて」 「一条家に育てられたって言うけど、あの体つきを見ればわかるわ。多分一条家に特別に育てられて、男に差し出されたんでしょうね。そうしたら28歳で未婚ってのも納得したわ」 「こんな女、まともな家なら誰も相手にしないわ」 「実は18歳の時に誰かにやられてたの、私は見たのよ。髪は乱れ、服もめちゃくちゃのまま部屋から走り出してきたのを」 そんな酷い言葉が飛び交う間も、佑翔はそこにいた。 彼は中傷を一言も否定せず、ただ清凪の不機嫌をなだめていた。 加豆子は少し離れたところからその様子を見つめ、涙を拭ってはまた落とした。 どれほど時間が経ったのかわからなかった。 ようやく気持ちを落ち着かせたところへ、背後から足音が近づいてきた。 「桜庭、まさかまだ佑翔があなたを慰める義務があるって思ってないでしょうね?」 驚いて振り返ると、清凪が腕を組み、嘲るような目でじっと彼女を見つめていた。 清凪は加豆子の隣に座り、親しげな様子を装った。 「正直、あなたの厚かましさには感心するわ。こんな歳になっても佑翔にべったりくっついて、ぷっ。彼があなたと結婚するなんて、本気で思ってるの?」 清凪の瞳に光る嘲笑は、加豆子の胸を鋭く刺した。 加豆子は黙って耐えるつもりはなく、わずかに目を細め、清凪の真似をして嘲笑の表情を作った。 「本当に、私が無理に彼にしがみついてると思ってるの? 彼が言ってないの?私たちはとっくに付き合ってるって」 「なに!」と清凪は腹を立てたが、何かを思い出したかのように不気味に笑い出した。 「知ってるわよ。ずっと前から知ってた」 清凪の笑みを見て、加豆子は背筋がぞっとした。 眉をひそめ問い返した。 「どういう意味?」 清凪の嘲りはますます露骨になった。 「まさかあなた、本気で18歳の時に佑翔があなたのことが好きで寝たと思ってるの? 笑えるわ。 私が彼に薬を盛ったのよ。私が若すぎるからかわいそうで手を出せず、 あなたみたいな性欲処理道具を代わりにしただけ。 翌日には彼、私の前で跪いて許しを乞うてたわ。 信じない?見せてあげるわ」 清凪は携帯を取り出し、加豆子に動画を見せた。 画面にはまだ幼さの残る佑翔が膝をつき、少年の嗄れた声で泣いている様子が映っていた。 まるで見捨てられそうな子犬のように、尻尾を振って懇願していた。 「清凪、俺はちゃんと洗ったんだ。本当にきれいに洗った、汚くない。 そんな目で俺を見ないで。お願いだ」 彼は何度も頭を地面に打ちつけ、額は赤く腫れていた。 だが佑翔はその痛みに気づいていないかのようだった。 動画の中で清凪の声が響いた。 「もうあの子と寝たんだから、付き合いなさいよ。 佑翔、私が一番嫌いなのは、責任を取らない男だから」 佑翔の目は絶望に染まり、やがて無表情に頷いた。 「君に嫌われさえしなければ、俺は何でもする」 第8話 動画はそこで終わった。 その次の日、佑翔は怯えた加豆子の前に現れ、真剣に告白したのだった。 加豆子は出国前、ちゃんと別れの挨拶をしようと思っていたが、今や彼にはそんな資格はないのだ。 明日は、彼女が海外へ向かい、婚約を果たす日だ。 夜になって荷物を片付け終えたころ、突然何件もの知らない番号から電話がかかり、続けてさまざまな下品な罵倒のメッセージが届いた。 不審に思った加豆子の携帯に、突然ニュースが表示された。 「#著名女性ピアニスト全裸写真流出 関係者が『私生活は目も当てられない』と証言」 「#女性ピアニスト桜庭 驚くべき性癖」 震えながら開くと、彼女の写真が目に飛び込んできた。 それは更衣室で下着を替える動画だった。 薬の影響で彼女の母乳の溢れが年々増えていた。 登山の日も生理中だったため、途中でこっそり更衣室に寄って着替えていた。 それだけでなく、多数のAIで加工した写真も出回り、彼女の顔がポルノ女優の体に合成されていた。 加豆子は携帯を持つ手が震え、頭がくらくらした。 着替えの時、一緒にいたのは清凪だけだった。 彼女は急いで清凪のもとへ向かった。 清凪は嘲るような顔で言った。 「あら、体にもそんな問題があったの? ふふっ、認めなさいよ。佑翔だけじゃないんでしょ、男は」 加豆子は怒りで目を赤くし、手を振り上げて清凪の頬を強く打った。 清凪はよろめき倒れそうになり、額を机の角にぶつけて赤く腫れ上がった。 「清凪!」 背後から佑翔の怒鳴り声が響いた。 加豆子は佑翔に突き飛ばされた。 佑翔はすぐに涙ぐむ清凪を抱きかかえ、憎しみと警戒の混じったまなざしで加豆子を睨んだ。 「佑翔、彼女が何をしたか知ってるのか?」 騒ぎを聞きつけて一条家の両親も駆けつけた。 彼らは清凪を厳しく見つめ、清凪は佑翔の服をしっかり掴んでいた。 佑翔は深く息を吸い込み、決然とした口調で言った。 「言いたいことはわかってる。全部、俺がやったことだ」 その言葉は雷のように全員の耳に響いた。 加豆子は目を見開き、心の中の糸が完全に切れたのを感じた。 彼はそんなにも清凪を愛しているのか。清凪のためなら罪をかぶることさえできるのか。 徹はそれを受け入れられず、顔を真っ赤にして佑翔に蹴りを入れた。 佑翔は清凪を守るため、必死に避けず受け止めた。 加豆子は陽子の手をかわし、残った力で立ち上がり佑翔を見据えた。 「一条佑翔、もう一度だけ聞く。本当にあなたがやったのか?」 佑翔は加豆子の虚ろで痛みを帯びた目を逸らし、小さく頷いた。 「写真は俺が送った。お前が一条家の養女のくせに、なぜあんなに優秀なんだ。俺は受け入れないんだ」 加豆子は笑ったが、涙は止まらなかった。 「佑翔、私たち、もう終わりだ」 そう言って、彼女は部屋中の視線や反応を気にせず、無表情のまま背を向けて歩き去った。 心の中で加豆子は思った。 「急がないと、飛行機に間に合わなくなってしまう」