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沈黙の愛
生まれつき声が出せず、誰からも必要とされてこなかった、立花綾羽(たちばなあやは)。しかし、ある出来事をきっかけに、名家・伊丹家の夫人...
Chương (1)
第1章
生まれつき声が出せず、誰からも必要とされてこなかった、立花綾羽(たちばなあやは)。しかし、ある出来事をきっかけに、名家・伊丹家の夫人となった。
ところが、夫の伊丹汐恩(いたみしおん)が、自分を愛していないことは、綾羽自身が一番よくわかっていた。
そして、彼が長年思いを寄せていた、初恋・森永美玲(もりながみれい)が海外から帰国すると、予想通り二人の関係は再び動き出す。
綾羽は、自分の妊娠検査の結果をそっと隠し、静かに決意する。自分から身を引こうと。
第1話
立花綾羽(たちばなあやは)が妊娠検査の報告書を握りしめ、レストランの個室に入ると、ちょうど森永美玲(もりながみれい)が前菜を彼女の箸で、伊丹汐恩(いたみしおん)の口元へと差し出すところだった。
汐恩は微笑みながら、何の躊躇いもなく口にした。
妻の綾羽はよく知っている。
彼は他人の箸が触れた料理など、決して口にしないということを。
ただし、その「他人」が美玲であれば話は別だった。
「綾羽、来てたのね。どうして連絡してくれなかったの?言ってくれたら、迎えに行ったのに。ああ、ごめん、そうだった。あなた、話せないんだった」
美玲は穏やかに微笑みながら、まるで何気ない一言のようにそう言った。
綾羽はわずかに口元を引きつらせたが、何も言わずに席に着いた。
そのとき、美玲がふと思い出したように言った。
「そういえば、昨日汐恩のおじさまに会ったの。いつ子供ができるのかなって、とても楽しみにしてたわよ」
空気がピリッと凍りついた。
汐恩は鼻で笑い、冷ややかに言い放った。
「俺、口もきけない女に、自分の子どもを産ませるつもりなんてないよ。万が一、生まれた子どもまでそうだったらどうする?」
綾羽は、生まれつき話せなかった。
人生の中で、数えきれないほどの差別の言葉を浴びてきた。
だが、汐恩のように無関心を装った皮肉こそが、いちばん心をえぐられる。
彼女はそっと自分の腹に手を当てた。
ついさっき病院で医師から聞いた、あの結果が脳裏をよぎる。
——妊娠一ヶ月目。
子どもができたことで、ぎこちない夫婦関係が少しでも変わればと、淡い希望を抱いていた。
でも今の汐恩を見て、もう伝える意味すらないと感じた。
綾羽は、そっと報告書をバッグの奥にしまい込んだ。
一ヶ月前、酔いつぶれた汐恩に、無理やり関係を強いられた。
たった一度で命は宿ってしまった。
医者は伝えた。彼女の体では、今回を逃せば次はないかもしれない、と。
中絶すれば、二度と子どもを望めなくなる。
汐恩がこの子の存在を、認めるはずがないとわかっていた。
しかし、それでも綾羽はこの命を手放したくなかった。
......もう、出て行こう。
そんな思いが、胸の奥で芽生えた。
そのとき、美玲がまたにっこりと笑い、含みを込めて言った。
「でもさ、そうはいかないよね?ご家族も、早く孫の顔を見たいって言ってるのに。そんなこと言ったら、他の女の人に産んでもらうしかないんじゃないの?」
媚びるような目つきで汐恩を見つめる。
言葉では否定しつつも、その目は明らかに誘っていた。
案の定、汐恩も彼女に視線を向ける。
目に宿る熱に、遠慮などなかった。
「......じゃあ、お前が産んでくれるか?」
汐恩は、妻の目の前で、別の女に子どもを求めた。
それは、言葉にできないほどの侮辱であった。
美玲は、笑いをこらえながらも、頬をほんのり赤らめた。
「もう、冗談はやめて。奥さんの前よ?」
そう言いながら、また彼の皿にそっと料理を盛った。
それ以上は話を広げず、あくまで‘物分かりのいい女’を演じていた。
距離を詰めるでもなく、突き放すわけでもない。
その絶妙な間合いが、男の心を揺らすのだった。
「奥さん」という言葉を聞いた瞬間、汐恩は無表情のまま、綾羽へ視線をやった。
彼女は相変わらず、怯えたようにうつむいたまま、何も言わない。
その姿を見て、汐恩は鼻で笑った。
「やっぱり、何も言えないんだな」とでも言いたげに。
そう。綾羽と汐恩の結婚は、偶然が重なった結果にしかすぎなかったから。
半年前、汐恩は本来、美玲と結婚するつもりだった。
しかし、美玲の家柄が、伊丹家にふさわしくないと反対された。
プライドの高い美玲は、繰り返される侮辱に耐えきれず、ついには海外へ姿を消した。
ちょうどそのころ、汐恩の伯父が街中で倒れ、誰もが見てみぬふりをする中で、ただ一人、綾羽が彼に手を差し伸べた。
そのことに心を動かされた伯父が彼女を汐恩に紹介した。
汐恩は家族への反抗心からその「口のきけない女」を妻に選んだのだった。
綾羽自身も、まるで他人の幸せを奪ったような、罪悪感に苛まれていた。
本来、彼女は気が弱く臆病な性格だ。
この結婚を受け入れたのは、妹の高額な医療費のためだった。
でも今、脳裏にふとよぎった――
自分が身を引けば、すべてが丸く収まるのではないか?
汐恩は美玲と結ばれ、妊娠したことも知られずに済む。
それが一番いいのかもしれない。
彼女は汐恩に少なからず好意を抱いていた。
けれど同時に、彼が自分のことを心の底から嫌っていることも、痛いほど分かっていた。
綾羽はそっと視線を落とした。
もう、ここを去るしかない。
けれど......妹のことは、どうすればいいのだろう......
第2話
昼食後、美玲と綾羽は、汐恩が車を取りに行くのを、レストランの入り口で待っていた。
綾羽が静かに足元を見つめていると、突然美玲が口を開いた。
「汐恩があなたと結婚したのは、腹いせだったって知ってた?」
綾羽は顔を上げると、少し迷った後に頷いた。
美玲は、さっきまで汐恩の前で見せていた穏やかな雰囲気とは打って変わって、傲慢な態度で言った、「それに、以前彼が私とじゃなきゃ結婚しないって言って、家族と喧嘩したことも知ってる?」
綾羽は再び頷いたが、その様子があまりにも冷静だったため、美玲を更に苛立たせてしまった。
当時、美玲は自分が海外に行けば、汐恩が追いかけてくるのではないかという、浅はかな考えを持っていた。
しかし予想外にも、汐恩はすぐに他の女性と結婚した。
その上、その女性は口のきけない人だった。
美玲はその悔しさをどうしても飲み込むことができなかった。
彼女は心の中で歯ぎしりした。あの女は声も出せず、どこかぼんやりとしていて、どう考えても汐恩の興味を引くような相手ではなかった。
汐恩をどうにかして、奪い返そうと考えていたその時、突然、腹部に激しい痛みが走った。
顔色が一瞬で青ざめ、膝から崩れ落ちた。
綾羽は驚き、慌てて彼女を支えながら必死に「大丈夫ですか?」と身振り手振り伝えた。
「どけ!お前、美玲に何をしたんだ!」
その瞬間、綾羽は強い力で引き離され、地面に投げ出された。
綾羽は頭を、地面で強打し、額から血が流れた。
痛みで顔を歪めながら見上げると、美玲の肩を抱き、彼女を心配そうに見つめる汐恩が目に入った。
美玲は痛みに思わず涙をこぼしながら、「お腹が痛い......」と呟いた。
汐恩は何も言わずに、彼女をお姫様抱っこして車に乗せ、すぐに発進させた。
綾羽は止まらない血を手で抑えながら、車が遠くに消えていくのを茫然と見つめていた。
自分がゴミのように放置されている現実が、受け入れられなかった。
汐恩の焦った表情が目に浮かんだ。
彼女は初めて知った。
あのいつも冷徹で無表情な汐恩が、あんなふうに誰かを心配することがあるのだと。
彼女は無言で苦笑し、立ち上がり、自らタクシーに乗り病院へ向かった。
幸い、大した怪我ではなく、数日間休養すれば回復すると、お医者さん言ってくれたので、綾羽は少し安心した。
緊急治療室を出ると、ちょうど美玲の薬を取りに行っている汐恩とすれ違った。
汐恩は綾羽の包帯で巻かれた額を見て、少し眉をひそめた。
「医者は美玲の症状は急性胃腸炎で、君とは関係ないと言っていた」
綾羽は、もちろん自分には関係ないことを、理解していた。
汐恩は自分が美玲に嫉妬して、何か嫌がらせをしたとでも思ったのだろうか?
綾羽は手で「嫉妬なんてしていないよ」と伝えようとした。
もし、彼女が嫉妬したとしても、何か危害を加えるなんてありえない。
しかし汐恩はその手の仕草に気づくこともなく、そっけなく言った。
「帰ったらお前がほしいもの何でも買ってあげるから、この件はこれで終わりにしよう」
そう言い終えると、薬を持って美玲のもとに向かい、綾羽にはこれ以上関心を示さなかった。
綾羽は言い訳しようと、病室の前まで追いかけると、扉がわずかに開いていて中の様子が見えた。
汐恩はベッドの端に座り、美玲を愛おしそうに見つめていた。
そうすると、突然美玲が汐恩にキスをした。
汐恩はそれを拒むことなく受け入れていた。
しばらくすると、美玲は身を起こし、ちらりとドアの外を見た。
綾羽は慌てて身を引き、見つからないように息を殺した。
胸の前に手を当て、胸の内で湧き上がる痛みと寂しさを抑え込もうとした。
そして、彼女は自分で自分を慰めた、「大丈夫、もう決めた。私はここを離れる。汐恩と美玲が再びくっついても、私には関係ない」
第3話
綾羽は、一人で自宅へ戻ってきた。
家に着いてすぐ、荷物をまとめ始めた。
もともと持ってきたものが少ない上に、汐恩の家に嫁いで日が浅かったため、荷物はさほど多くなかった。
二十インチのスーツケースひとつに、すべてが収まった。
誰もいない広々としたリビングに立ち尽くすと、綾羽はそっと自分のお腹に手を当てた。
理由もない寂しさが、胸の奥に染みこんでいく。
ここは、自分の居場所じゃない。
もとから分かっていた。
結婚したとはいえ、結局は赤の他人。
やがて、この家から離れる時が来るだろうと。
唯一心残りなのは、今も病院にいる妹のことだった。
伊丹家からのお金の支援がなければ、一日たりとも持ちこたえられないだろう。
そのとき、玄関の扉が突然開かれた。
綾羽は驚き、咄嗟にスマホをしまい込んだ。
汐恩が慌ただしくリビングへと入って来た。
スーツケースを持つ綾羽を見て、彼は無言でその手首を掴んだ。
「何やってんだよ。悪いことして逃げる気か?」
その言葉に綾羽は、戸惑いを隠せなかった。
自分がまた彼を怒らせたというのか?心当たりは、まるでなかった。
しかし、黙って出て行こうとしていたことに、少しばかり後ろめたさを感じていたのも事実だ。
彼女はスマホを取り出し、文字を打った。
「暇だったから、古着を整理して、寄付しようとしただけ」
汐恩はそれに目を通した。疑いはしなかったが、それが返って彼の怒りを煽った。
「美玲は、お前が取り分けた料理のせいで、急性胃腸炎になって、今も病院で寝てるんだぞ?そんなときにお前は、呑気に服を整理してたのか」
冷たく言い放ったあと、彼は決定的な命令を下した。
「お前のせいでこうなったんだ。退院するまで、美玲の世話をしろ」
綾羽は言葉を失った。
自分が、美玲を病院送りにした?
美玲に料理を取り分けた覚えなんて、ない。
反論したかったが、汐恩は彼女の説明など一切聞く気がなかった。
そのまま綾羽を車に押し込み、問答無用で病院へと向かった。
車内でも、綾羽は必死にスマホを使って弁明しようとしたが、汐恩は一度も画面を見ようとしなかった。
そのとき、彼女は悟った。
真実なんて、どうでもいいのだ。
汐恩にとって自分は、「家政婦」同様なのだ。
この一件は、彼の不満や怒りをぶつけるための材料にすぎなかった。
彼女はやるせなさそうに、苦い笑みを浮かべていた。
自分の妻に、元カノの世話をさせるなんて、伊丹汐恩という男は、どこまでも冷酷だった。
病院に着くと、汐恩は駐車をするため、綾羽を先に一人で病室へ向かわせた。
病室の扉を開けると、ベッドに横たわっている美玲が目に入った。
彼女はわざとらしく優しい笑顔を浮かべ、言った。
「わざわざ来てくれてありがとう。ごめんなさいね、私のせいで......でも汐恩ったら、どうしてもって聞かなくて。私のことが心配で仕方ないんだって」
その言葉は、笑顔に包まれていながらも、鋭利な刃のように綾羽の心をえぐった。
綾羽は無言で、微かに口元を引きつらせたが、「看病に来たんだから」と自分に言い聞かせ、美玲に水を注いであげることにした。
ポットの中の水は、まだ沸きたてのように熱かった。
綾羽はグラスに注ぎ、美玲に手渡した。
「熱いから気をつけて」そう伝えたかったが、彼女は声が出せない。
身振りで伝えようとした、その瞬間だった。
美玲の手が、わざとらしく震えた。
グラスの中の熱湯が、彼女の手の甲にこぼれた。
「きゃあっ!」
美玲が叫び悲鳴を上げた。
綾羽が驚き、美玲を洗面所に連れて行こうとしたその瞬間、病室の扉が開き、怒気をまとった汐恩が飛び込んできた。
「何してるんだ!」
彼は、美玲の赤く腫れ上がった手を見て、声を荒げた。
綾羽が慌てて手話で説明しようとしたが、美玲が泣きながら訴えた。
「私......ただお水をお願いしただけなのに、彼女が急に怒りだして、熱湯をかけられたの。汐恩、すごく痛いよ......」
綾羽の目が大きく見開かれた。
違う、そうじゃない――!
「あ、あ......」必死に声を出そうとするも、うまく言葉にならない。
汐恩の視線は、氷のように冷たかった。
彼は無言で立ち上がると、綾羽の頬に強烈な平手打ちを放った。
打たれた衝撃で、綾羽は床に倒れ込んだ。
白い頬が、みるみる紅く腫れ上がった。
「謝れ」
冷たい声で命じながら、彼女の首の後ろを掴み、美玲の前へ無理やり跪かせた。
綾羽は痛みと悔しさに震えながら、目に涙を浮かべてうめき声を漏らした。
それでも彼は許さなかった。
「喋れなくても、土下座くらいできるだろ」
綾羽は顔を上げようとしたが、彼の腕の力に負けてしまった。
無意識に噛み締めていた唇から、血が滲んでいた。
彼女は人生で、天に、地に、そして両親に跪いたことがある。
だが、夫に元カノへの土下座を強いられる日が来るとは、思ってもみなかった。
第4話
綾羽の額が床にぶつかる鈍い音が、部屋中に響き渡った。
美玲はその音を聞くと、「もういいじゃない、そんなに責めないであげて。かわいそうよ、彼女を離してあげなよ」と言った。
美玲だけがいい人に見えてしまった。
汐恩は無言のまま綾羽を乱暴に手放すと、美玲を抱きかかえ、診察室へと向かった。
美玲の手は思った以上に、ひどく腫れていた。
だが、医師に手当てをされている間も、彼女は決して涙を流さなかった。
歯を食いしばり、こぼれそうな涙をかろうじて目の端でとどめていた。
その姿はどこまでも傷ましく、儚かった。
診察室へ向かって歩く綾羽の耳に、汐恩の低く冷たい声が届いた。
「心配しないで。必ずあの女に償わせるから」
「でも......あの人、あなたの奥さんでしょ?私のせいで、夫婦の関係が壊れたら......私、責任感じちゃうよ」
美玲はそう言いながら、そっと涙を拭った。
その可憐な姿が、汐恩の心をさらに締めつけた。
彼の中で、すでに結論は出ていた。
綾羽が嫉妬し、わざと美玲に熱湯をかけたのだろう。
そうとしか思えなかった。
汐恩は立ち上がり、綾羽を追い詰めようとドアへと向かうと、彼女がずっとドアの外に立っていたことに気づいた。
綾羽はスマホを取り出し、彼に差し出した。
メモアプリに、今回の出来事の経緯をすべて書き留めていた。
「どうか、読んでほしい」
そう願うような目で彼を見つめたが、汐恩は一ミリたりとも、画面に目をやらなかった。
怒りに満ちたまま、無言でそのスマホを奪い、勢いよく地面に叩きつけた。
スマホは派手な音を立てて割れ、部品がそこら中に散らばった。
綾羽は一瞬動きを止めると、その場で凍りついた。
拾おうとした瞬間、汐恩が彼女の襟元を掴み、壁に押しつけた。
小柄な綾羽の体は、まるで小鳥のように軽く、抵抗すらできなかった。
恐怖に震えながら、彼女は嗚咽混じりにうめいた。
だが汐恩は一切容赦しない。
顔を近づけ、低く、冷たくささやく。
「お前も、熱湯をかけられる感覚、試してみるか?」
その瞬間、綾羽の鳥肌が一気に立ち、全身が凍りついたかのように固まった。
必死に首を振り、懇願のジェスチャーを繰り返したが、彼の目に情けはなかった。
汐恩は綾羽の腕を掴み、無理やり洗面所へ引きずっていくと、シャワーヘッドを手に取り、熱湯を出し始めた。
シャワーから出る温度には限りがあるが、それでも十分に熱かった。
肌を刺すような痛みに、綾羽は息を呑み、狭い空間で必死に逃げようと試みた。
汐恩はその様子を無感情のまま見つめたあと、苛立ったように舌打ちをし、蛇口を閉めた。
「こっちに来い」
冷たい声が飛ぶ。
綾羽の体がピクリと震えた。だが恐ろしくて、動けない。
その様子に、汐恩は眉をひそめ、さらに言い放つ。
「甘やかした俺が悪かった。調子に乗るなよ。妹の治療費を止めたら、やっと少しは自分の立場がわかるようになるか?」
「......っ!」
妹という単語を聞いた瞬間、綾羽の目が見開かれた。
涙に濡れた瞳は、恐怖と絶望で支配されていた。
彼女は四つん這いのまま、必死に汐恩の足元へにじり寄り、ズボンの裾を握りしめ「やめて」そう懇願するように、頭を下げた。
だが汐恩は、無表情のまま口元に、冷酷な笑みを浮かべていた。
彼が何も言わないことで、綾羽の不安はさらに膨れ上がった。
彼女は勢いよく床に額を打ちつけ、何度も何度も頭を下げた。
ゴツン、ゴツンと乾いた痛々しい音が響き、やがて床に赤い染みが滲んできた。
その様子に、流石の汐恩の瞳も微かに揺れた。
彼は無造作に綾羽の顎を掴み、顔を無理やり上げさせ「最後に一度だけ警告する。二度と美玲にちょっかい出すな。お前なんか、美玲の足元にも及ばない」と言い放った。
綾羽は黙って頷いた。
涙と血で顔がぐしゃぐしゃになっていたが、それでも彼に逆らうことはしなかった。
ただ、怖かった。
もし、自分がここで反抗すれば、妹が危険な目に遭うかもしれない。
汐恩はそれ以上言葉を発さず、静かに背を向けて去っていった。
綾羽はその場に崩れ落ち、背中を丸め、体を小さく縮こまらせた。
もう、涙を流す気力さえなかった。
心の中に渦巻く痛みと苦しみは、すべて飲み込むしかない。
そして、彼女の中にひとつの強い想いが芽生えた。
もう、ここを出ていこう。
もう、ここにはいられない。
何があっても、必ずこの場所から逃げ出す。
第5話
綾羽は、ふらふらとした足取りで、洗面所を後にした。
壊れたスマホの状況を確認しに向かった。
なぜなら彼女には新しい携帯を買う余裕などないからだ。
額から流れた血が目元を覆い、視界がぼやけ、足元がふらつき、倒れかけたその瞬間――
背後から、優しくも力強い腕が彼女を支えた。
振り返ると、そこには汐恩の伯父が立っていた。
彼はちょうど、病院へ定期検査に来ていたところだった。
「綾羽......なんて姿だ。一体どうしたんだ?」
その表情は、あまりに痛ましかった。
彼の目に映る綾羽は、全身ずぶ濡れで、顔に傷まで負い、悲惨な状態だった。
綾羽は驚き、恥ずかしさで思わず目を伏せた。
だがその行動が、かえって伯父の胸を締めつけた。
彼女の身に起きたすべては、説明なくとも全て理解できた。
そう、こんな傷を負わせたのは他ならぬ、自分の甥なのだと。
「あのバカが......!」
これほど誠実な娘を、火の中へ突き落とすようなことをしてしまった。
縁を取り持ったつもりが、地獄へ導いていたとは。
伯父は、すぐさま綾羽を救急治療室へ連れて行き、医者に治療をお願いした後、別れ際に一言だけ残した。
「......心配するな。あとは、俺がなんとかする」
唐突で意味深な言葉に、綾羽は戸惑いを隠せなかった。
ぼんやりと壊れたスマホを見つめていた。
スクリーンは粉々に砕け、画面は光さえしなかった。
そのとき――
「ここにいたのね。探すの大変だったんだから」
声が聞こえ、振り返ると、そこには美玲が立っていた。
ずぶ濡れの綾羽を眺めながら、口元に薄い笑みを浮かべている。
その目は勝ち誇りに満ちていた。
「さっきの汐恩、見たでしょ?私にどれだけ優しかったか。あなた少しぐらい空気読んだら?自分から身を引きなよ。そうじゃないと、捨てられるのは時間の問題よ」
その言葉に、綾羽は唇を引き結んだ。
彼女は元から出ていくつもりだった。
なのに、それを美玲の口から聞くと、なぜこんなにも屈辱的なのか。
綾羽は無視するようにスマホをそっとしまい、その場を離れようとしたが、苛立った美玲が彼女の腕を掴み、引き留めた。
「ちょっと......何その態度?私のこと見下してるの?」
一瞬、苛立ちを見せた美玲だったが、すぐに表情を戻し、見下ろすように言った。
「まあいいわ。口のきけない人とはケンカも成り立たないし。てかさ、あなたみたいな口のきけない人って、仕事見つけるの大変でしょ?はい、これ受け取って。私って優しいでしょ?」
そう言って、美玲は一枚の小切手を綾羽の手に押しつけた。
金額は、数百万程度。
彼女にとっては些細な額だったが、綾羽にとっては大金だった。
戸惑う綾羽を見て、美玲は嘲るように笑い、「なに?少ないって言いたいの?この半年で伊丹家から十分なほど、お金貰ってきたでしょ?欲張らないで、身を引きなよ」と言った。
綾羽は口を開きかけ、手を振った。
自分が汐恩からほとんど何も受け取っていないこと、そして妹の医療費の援助してもらえるだけでありがたく思っていたことを、どうしても伝えたかった。
けれど、説明する手段がなかった。
言葉を発せない自分は、誤解されても反論すらできない。
小切手を突き返そうとしたそのとき――
綾羽の中に、ある現実的な考えがよぎった。
家を出れば、すぐに生活費が必要になる。
その上、彼女のお腹には、新しい命が宿っている。
どうしても、出費は避けられない。
もし、美玲が自分のことを「金で追い払う」つもりなら――
利用できるうちに、利用してしまえばいい。
彼女は幼い頃から、「他人の物に手を出してはいけない」と教えられて育ったので、この選択は少し心苦しい選択だった。
だが今は状況が違う、お腹の子の命がかかっている。
迷いながらも、綾羽は小切手をそっと受け取り、丁寧に折りたたんで衣服のポケットへしまった。
心の中で、誓った
「いつか、必ずこのお金は返す」
まだしばらく美玲は入院が必要なはず。
そうすると、汐恩も病院で彼女に付き添うことになるだろう。
その隙に、小切手を換金しに行くのが得策だった。
まずは、風邪を引く前に家に戻って、びしょ濡れの服を着替える必要がある。
自分が病気になるのは構わないが、腹の子には影響させたくない。
伊丹家の屋敷は広く、主寝室の他に複数のゲストルームがある。
表向きには「伊丹夫人」という肩書きを持つ綾羽だったが、彼女に与えられたのは客間だった。
汐恩が欲望をぶつけたいときだけ、主寝室に呼ばれる。
そして、それが終わればすぐに追い出される。
濡れた服を脱ぎ、タオルで体を拭いた綾羽は、無意識にお腹に手を当てた。
お腹はまだそれほど膨らんでいないが、そこには確かに命がある。
そう思うと、不思議な感覚が胸に湧いた。
......この子が、私の世界を変えてくれるのだろうか。
喜びと不安が、同時に押し寄せる。
自分は母親になれるのか――
その問いは、心の奥深くで揺れ続けていた。
新しい服を手に取り、着替えようとしたその時、突然客間のドアが開いた。
振り向いた綾羽の目に飛び込んできたのは、帰宅したばかりの汐恩だった。
彼の目に、裸の綾羽が映った。
一瞬、目を細め確認した後、綾羽は慌てて、ベッドの上の布団を体に巻きつけた。
白い肌、華奢な骨格、そして驚きと羞恥に染まった頬――
その姿は、まるで怯える小動物のようだった。
汐恩の喉が、かすかに鳴った。
だが、彼はその欲望を巧妙に隠し、何事もなかったかのように声を発した。
「美玲の手、かなりひどい状態だった。お前にも責任がある」
「お前がまともに看病できるとは思えないから、今日から家で飯を作れ。それを俺が病院に届ける。わかったか?」
綾羽は何度も頷き、体を縮こませながら布団をぎゅっと抱えた。
その顔は真っ赤に染まり、言葉にならない羞恥と恐怖を胸に秘めていた。
汐恩は彼女の露わになった肌を数秒間見つめ、指を折って襟元を緩め、立ち去ろうとしたその時。
ふと床に落ちた濡れた衣服の中から、ちらりと覗く小切手の端に目が留まった。
不審に思って拾い上げると、たちまち顔色が曇った。
「おい、お前美玲に金をせびったのか?」
第6話
綾羽は、自分の胸の奥で警鐘が鳴るのを感じた。
まずい。
彼女は「ああ」と、か細い声を漏らしながら、両手を振って否定の仕草をした。
けれど、汐恩は彼女の方見向きもしなかった。
その手に握られていたのは......あの小切手だった。
汐恩はそれをじっと見つめた後、薄ら笑いを浮かべ、冷たく言い放った。
「美玲に金をたかったのか?よくも、そんな真似ができたな。綾羽、お前彼女と出会ってどれだけ経った?少なくとも金をたかれる関係ではないだろ?」
汐恩は小さく息を吸うと、小切手を床に放り投げた。
「どうやら俺は、お前の欲深さを甘く見ていたようだな」
一歩ずつ近づいてくる彼の影が、綾羽の小さな体を飲み込んでいく。
その鋭く細められた瞳には、冷気が宿っていた。
嵐の前触れだった。
綾羽は彼が怒ると、誰にも手をつけられないことを知っている。
それは、彼女の体と心を破壊するほどのものだ。
綾羽はベッドの上で、必死に後退りながら、頭を振り、許しを乞おうとしたが、汐恩は怒りに支配されていた。
「......っ!」
彼は彼女をベッドから乱暴に引きずり下ろすと、床へと叩きつけた。
その瞬間、裸を露わにされた恥ずかしさが、綾羽を襲った。
せめてほんの少しでも尊厳を守れるように、彼女は震えながら身を丸めた。
汐恩は冷ややかに笑いながら言った。「何を隠してるんだ?誰がお前の裸に興味があるんだよ」
その声音は、刃よりも鋭かった。
「お前みたいな女が全裸で路上に立ってようが、誰も見向きしない」
綾羽は目を閉じたが、屈辱と哀しみが混ざり合い、涙が頬をつたった。
彼が自分に欲情しないことなど、痛いほどわかっていた。
毎回枕に顔を押しつけられ、まるで美玲の代役のように扱われるあの時間。
彼女はただの、性欲の捌け口に過ぎない。
苦しみを押し殺し、綾羽は床の小切手へと手を伸ばした。
このお金は、今の彼女にとってどうしても必要なものだった。
しかし――
その様子を見た汐恩は、ますます苛立ったようで、「そこまでして、この金が欲しいか?」と重たく、冷たい声で聞いた。
そうすると、彼は無言で足を上げ、綾羽の手の甲を思いきり踏みつけた。
「......っ!」
声にならない叫びが、喉の奥でむせ返る。
手のひらから伝わる激痛に、彼女の顔色がみるみる青ざめていく。
汐恩はその様子を冷ややかに見下ろし、足元の小切手を拾い上げて、躊躇なく破り捨てた。
その切れ端が、雪のように綾羽の体に降り積もった。
彼女は震えながら、破片を一つ一つ手に取り、そっと握りしめた。
その姿が、金に飢えた哀れな女に見えたのか、汐恩は忌々しげに眉を歪める。
「やっぱり、お前みたいな女は金にしか興味がねぇんだな」
「どうしても金が欲しいなら、俺に頭を下げて頼めよ。頭下げたら小遣いくらい、いくらでもくれてやるのに、他の女から貰うなんて、俺の顔を潰す気か?」
そう吐き捨てながら、汐恩は綾羽の顎を無理やり持ち上げた。
彼女の顔は血と涙に濡れ、憔悴しきっていた。
だが、その弱々しい彼女の姿を目にしたとき、なぜか汐恩は心の奥がふと揺さぶられるのを感じた。
粗い指先で、彼女の唇を乱暴になぞった。
「っ......」
綾羽は痛みに顔を背けたが、その避ける仕草がかえって汐恩の不満を招いた。
彼の目つきが暗くなり、綾羽を乱暴に抱え上げてベッドに放り投げると、そのまま彼女に覆いかぶさった。
綾羽には、彼が何をしようとしているのか分かっていた。
だからこそ、お腹の子を傷つけるのが怖くて、必死に抵抗した。
その拍子に、思わず手のひらが汐恩の頬を強くかすめてしまった。
「綾羽、お前、今俺に手をあげたのか?」
低く冷たい声に、彼女の体がびくりと震える。
――違う、違うのに......
汐恩は必死に、身振り手振りで謝罪を伝えようとする彼女の手を、頭上でがっちり押さえつけた。
「お前ふざけんなよ。死にたいのか?」
彼女は恐怖で、まるで子猫のような弱々しい声を漏らしていた。
そのか細い音すら、汐恩の怒りをさらに煽った。
彼は彼女を裏返し、顔を枕に押し付けると、容赦なくその上に覆いかぶさった。
何度も繰り返された夜が、また始まる。
――そのときだった。
彼のスマホから、着信音がしつこくなり続けた。
汐恩は苛立ちを滲ませながら電話に出た。
「......何だよ?」
しばしの沈黙の後、弱々しい声が聞こえてきた。
「汐恩......荷物取ったらすぐ帰ってくるって言ってたじゃん......まだ戻ってこないの?一人だと、ちょっと怖くて......」
美玲の声だった。
その名前を見て、汐恩の表情がわずかに変わる。
先ほどの怒鳴り声を思い出し、咳払いひとつしてから言葉を和らげた。
「ああ......ちょっと用事ができたんだ。ちょっと待ってて」
「うん......わかった」
電話口ではそう答えた美玲だが、通話が切れるとスマホを床に叩きつけた。
その目は怒りに燃えている目をしていた。
彼女は馬鹿じゃない。
通話越しに聞こえた、かすかな嗚咽と、男のやけに色っぽい声。
何が起きているのか、想像するのには十分だった。
「ふざけんな......!」
美玲は震える手でスマホを拾い上げ、ある番号にメッセージを打ち込んだ。
そして数秒後、返信を見てゆっくりと笑みを浮かべた。
それは、底知れぬ狂気を孕んだ笑みだった。
第7話
伊丹家
綾羽が涙を流し続けた為、行為が最後まで行われることはなかった。
更には、途中で吐いてしまい、彼はすっかりやる気をなくしてしまった。
洗面所から、度々聞こえる嘔吐の音に眉をひそめ、「お前、まさか変な病気にでもかかったんじゃないだろうな?俺に移ったらどうするんだよ、早く病院に行け」と言った。
綾羽はバスローブを羽織って出てきて、ばつが悪そうに首を横に振った。
つわりだとは言えず、携帯で「食べ物が合わなかっただけ」と打って見せた。
汐恩は携帯の画面をちらりと見ただけで、特に気にも留めず、話題を切り替えた。
「俺が言ったこと、忘れてないだろうな?美玲はさっき、さっぱりしたものが食べたいって言ってた。今すぐ作ってこい。俺は風呂に入ったら病院に向かうから」
綾羽は汐恩から離れられる理由ができると、すぐさまキッチンへ走り出した。
その迷いのない姿に、汐恩はわずかに不快そうに眉をひそめた。
風呂を済ませ、着替えて階下に降りると、綾羽はすでに料理をまとめていた。
彼はざっと中身を見て、一人分しかないことに気づいた。
「一人分しか作らなかったのか?」
綾羽は、彼の質問の意味が分からず、手振りで「美玲の分だけじゃないの?」と伝えた。
どうせ汐恩は自分の作った料理なんて食べない。
新婚の頃、彼女は毎日彼にご飯を作っていたが、彼は一度も口にせず、全てゴミ箱に捨てられた。
汐恩は険しい表情をしたが、それ以上は何も言わず、綾羽に一枚のカードを投げ渡した。
「スーパーで買い出ししてこい。美玲のために、ちゃんと手間をかけて作れよ」と言い残し、熱々の料理を手に家を出た。
彼が出ていくのを見送ると、綾羽はやっとひとつため息をついた。
ふと手の甲に目をやると、先ほど跳ね返った油で火傷した部分が真っ赤になっていた。
彼女はそのことを、もちろん汐恩には言わなかった。
言ったところで、どうせ嘲笑されるだけだからだ。
火傷用の薬を取り出し、自分で丁寧に塗った。
彼女はもう、自分で自分を守ることに慣れていた。
長年、病に伏した妹を抱え、他に頼れる家族もいない。
ひどい言い方をすれば、もし自分がある日死んだとしても、誰も遺体を引き取りに来ないかもしれない。
そんなとき、突然、汐恩の伯父から一通のメッセージが届いた。
彼女が目を通すと、たちまち目に涙がにじんだ。
メッセージには、「彼女を汐恩に紹介したことを深く後悔している」と綴ってあり、綾羽がここを離れ、海外で暮らせるよう手助けすると言ってくれたのだ。
もちろん、彼女の妹も一緒にだ。
何より感動したのは、治療費は引き続き、伯父が負担してくれるという。
感謝の気持ちを込めて返信すると、綾羽は心の荷が一気に下りた気がした。
――これでようやく、この地獄のような場所から離れられる。
綾羽は涙を拭き、汐恩が放り投げたカードを手に取った。
「どうせもうすぐ出ていくんだから、買い出しに行って、冷蔵庫に食材でも詰めて出ていこう」と思った。
スーパーからの帰り道、綾羽はバスに乗り損ねてしまった。
家までそう遠くないと判断し、歩いて帰ることにしたが、歩くにつれ、なにか胸騒ぎを感じ始めた。
夜道は人通りが少なく、静まり返っており、風が時折吹き抜け、木の葉がざわざわと不気味に揺れていた。
その風の音の中に、微かに足音のようなものが混じっている気がした。
綾羽は怖くなり、歩調を速めたが、ほんの数歩早歩きしたところで、背後から数人の男たちが現れ、彼女を取り囲んだ。
綾羽はその場に立ちすくみ、数歩後退りした。
先頭の金髪の男が手を擦り合わせ、いやらしく笑い、「お嬢ちゃん、ちょっと俺たちと遊ぼうぜ?」と言ってきた。
綾羽の脳内に警報が鳴り響いた。
持っていた袋を投げ捨て、即座に逃げ出したが、次の瞬間、複数の男たちに押さえつけられ、濡れた布を口と鼻に当てられると、数秒もしないうちに意識を失った。
綾羽が目を覚ますと、頭が割れるように痛んだ。
しかしすぐに、気を失う前に起きたことを思い出した。
体を動かしてみると、縛られていないことに気づき、すぐに携帯を取り出して、連絡先に登録されたすべての人に助けを求めるメッセージを送った。
全てのメッセージが、送信済みになっているのを確認し終えると、不意に通知欄に未読メッセージがひとつ届いているのに気づいた。
差出人は、妹の主治医だった。
嫌な予感がし、震える指でそのメッセージを開くと、冷たく無機質な文字が並んでいた。
【妹さんの病状が悪化しました。至急病院までお越しください】
第8話
綾羽は冷や汗が止まらなかった。
このメッセージが届いたのは、ちょうど1時間前――彼女がまだ意識を失っていた頃だ。
もう「誰にここまで連れてこられたか」なんて考えていられなかった。
綾羽は身を起こし、玄関の方向に向かって駆け出した。
しかし、扉に触れる前に、向こうから開かれた。
あの連中がふらふらと入ってきて、なんとその中には美玲の姿があった。
綾羽は目を見開いた。
――どうして美玲が?なぜ、こんなことを?汐恩のため?
しかし、自分はもう出ていくと約束したのに。
なぜ、まだこんなことを?
美玲の顔は冷えた怒気を帯びていた。
「やりなさい」
金髪の男が頷くと、他の連中が一斉に綾羽を椅子に押しつけた。
それから、金髪の男はビデオカメラを手に彼女の前に立ち、「悪く思うなよ。おとなしくしてれば痛い思いはしなくて済む。それにしても、なかなかいい顔してるな」と言い放った。
綾羽の背筋に悪寒が走った。
彼女は美玲の方を見て、声にならない叫び声を上げ、必死に身振りで懇願した。
お願い、妹のところへ行かせて......今すぐに......
だが美玲はその意思をくみ取ろうとせず、男たちに指示し続けた。
綾羽さえいなければ、自分がずっと汐恩の傍にいられる。
「伊丹夫人」の座を、手に入れられるのだ。
不良たちは興奮した様子で綾羽の体に手を伸ばし、好き勝手に触れ始めた。
恐怖と絶望に染まる綾羽の目から、次々と涙がこぼれた。
彼女は力いっぱい彼らの手を振り払おうとしたが、誰かに手首をつかまれ、そのまま無理やり捻られた。
「バキッ」という音とともに、肩が外れる感覚がした。
声を発することのできない綾羽は、声なき叫びを上げながら涙を流し続けた。
頭の中にふと、汐恩の顔が浮かんだ。
......でも、彼が来るはずなんてない。
このままなら、いっそ死んだほうがマシだ。
綾羽は力を振り絞って、床に落ちていたガラスの破片を手に取り、迷わず自らの腹を突き刺した。
一瞬、その場の空気が凍りついた。
粘ついた血が床にぽたぽたと落ち始めると、不良達の顔は一気に青ざめさせた。
「やべえ!マジかよ!死んだらどうすんだよ!」
美玲も予想外の展開に言葉を失った。
綾羽がここまで大胆な行動に出ると思ってなかったからだ。
そのとき、外から車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。
美玲が窓を開けて覗くと、顔色が一気に変わった。
「......どうして汐恩がここに?!」
「全員、荷物持って裏口から出て!報酬は後で振り込む!」
不良たちは大慌てで現場から逃げていった。
綾羽は血まみれのまま、片手でお腹の傷口を押さえ、倒れ込んだ。
美玲の顔は蒼白になり、引き攣っていた。
そのとき――ドアが勢いよく蹴り破られ、汐恩が数人の手下を連れて駆け込んできた。
部屋の光景を目にした瞬間、彼の瞳が見開かれたが、「汐恩......!やっと来てくれたのね!本当に怖かったの!」と、美玲は先手を打って、泣きながら彼の元へ駆け寄った。
「綾羽に呼ばれてここに来たの。でも部屋に入った途端、彼女が自分でお腹を刺して、それを私のせいにしようとしてきたのよ......何が目的なのか、全然わからないの!」
言外に「綾羽が自分を陥れようとした」と訴えていた。
汐恩は、床に倒れ血の気の失せた綾羽の顔を見つめ、眉をひそめた。
何かを言いかけたそのとき――綾羽がふらふらと立ち上がろうとした。
倒れては起き、また倒れ、それでもなお立ち上がろうとする姿に、さすがの汐恩も見かねて手を伸ばそうとした。
だが、綾羽は彼の顔を見た瞬間、床に膝をつき、彼の足にしがみついて必死に手振りで訴えた。「お願い、病院に連れてって、妹に会わせて」
汐恩は彼女の意図が全く理解できなかった。
綾羽は彼が拒んだと思い、何度も何度も地面に頭を打ちつけて懇願した。
声なき絶叫と、涙と血が床に混じり、汐恩の靴まで血で染めてしまった。
そのとき、不意に綾羽の携帯が鳴った。
彼女は凍りついたように動きを止め、目をそらすように携帯に視線を落とした。
手に取り、震える指でメッセージを開いた。
【立花様、妹さんがお亡くなりになりました。至急ご来院ください】
その瞬間、綾羽の瞳から、光がすべて消えた。
この十数年、病弱な妹と二人きりで生きてきた――
「自分が頑張れば、きっと妹を治せる」と信じ、頑張って生きてきた。
だが、最後の希望すら、今消えてしまったのだ。
汐恩は彼女の異変に気づかず、冷たい口調で問い詰めた。
「なぜ美玲をこんなところに呼び出した?」
綾羽は血と涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げ、彼を見つめた。
まるで魂が抜け落ちたようだった。
彼女は何も言わなかった。
妹に会いたかった、ただそれだけだった。
綾羽は、壁にすがりながら立ち上がり、体を引きずるように外へ出て行った。
汐恩が眉をひそめ、止めようとしたその瞬間――
綾羽は全力で彼を突き飛ばした。
彼は動けずに固まった。
――綾羽が、あの綾羽が、自分を突き飛ばしてきた?
いつも言うことを聞いていたあの女が?
綾羽はただ前だけを見て、妹のいる病院まで歩き続けた。
そして病院の霊安室で妹と再会した。
心はもう空っぽだったのに、不思議と涙は一滴も出なかった。
その後、病院で傷口の簡単な治療を済ませた綾羽は、伊丹家へ戻った。
荷造りはすでに済んでいた。
妹がもうこの世からいなくなったので、綾羽は伯父の申し出――国外での新生活も、治療費の支援も――すべて丁寧に断った。
そして、ただひとりでこの場所を去ることを選んだ。
彼女は半年以上過ごしたこの豪邸を、一度も振り返ることなく後にした。
ここに未練など、何ひとつなかった。
綾羽は無感情のまま、夜の闇に溶け込むように姿を消した。