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月夜に君と交わした最後の約束
佐藤奈緒(さとう なお)が胸いっぱいの期待を込めて受けたプロポーズは、実は恋人が「白川真理(しらかわ まり)」を嫉妬させるための茶番に過...
Chương (1)
第1章
佐藤奈緒(さとう なお)が胸いっぱいの期待を込めて受けたプロポーズは、実は恋人が「白川真理(しらかわ まり)」を嫉妬させるための茶番に過ぎなかった。
「はい、喜んで」と答えたその瞬間、真理が泣きながら駆け寄ってきて、「私、後悔してるの。他の人と結婚なんて絶対に嫌」と叫ぶ。
そして二人は幸せそうに抱き合い、ただ一人奈緒だけが、笑い者になってしまった。
第1話
「はい、喜んで!」
佐藤奈緒(さとう なお)は、胸を高鳴らせながら、恋人・高橋陸(たかはし りく)が自分の指に婚約指輪をはめてくれるのを待っていた。
周りで冷やかしながら見守る友人たちの表情は、笑顔であふれている。
陸は、片膝をつき、指輪をゆっくりと奈緒の手に近づけた。
そのとき、突然、背後から女性の泣き声が響いた。
「もういい、私の負けよ!陸、他の女と結婚するなんて許さない!」
奈緒は、状況が飲み込めず呆然とした。
次の瞬間、陸は勢いよく立ち上がると、何のためらいもなく奈緒の元を離れ、その女性――白川真理(しらかわ まり)を強く抱きしめた。
真理は泣きながら訴えた。
「無理......あなたが他の人にプロポーズするのを見るなんて、私には耐えられない......」
「安心してくれ。これはただの芝居だったんだ。君が自分の気持ちに向き合えるように仕向けただけなんだよ。さあ、今度こそ僕の気持ちを受け入れてくれるだろ?」
陸は、そう言いながら優しく真理の肩を抱き寄せた。
その行動はあまりにも自然で、迷いなど微塵もなかった。
さっきまで自分に愛を誓っていた男と同じ人間だとは思えなかった。
奈緒は身体を硬直させたまま、その光景を見つめるしかできなかった。
真理がそっと頷くと、陸が歓喜の声を上げて彼女を抱き上げ、想いを爆発させながら喜んだ。
周囲の人々が次々と駆け寄り、結ばれた二人を祝福した。
誰も奈緒には目を向けなかった。
その場の雰囲気に押され、弾き飛ばされそうになってよろけた彼女に気づく者さえいなかった。
しばらくして人々が落ち着きを取り戻すと、陸は真理の手を引いて奈緒の前に立った。
「ごめん、奈緒。実はこれは真理との賭けだったんだ。彼女に自分の気持ちに素直に向き合ってほしくて、君とカップルのふりをしてたんだ。もし本気にしてたなら、悪かったと思ってる」
謝罪の言葉を口にしながらも、陸の視線は終始真理に向けられたままだった。
奈緒はただ笑うしかできなかった。
今までのぬくもりも、キスも、共に過ごした日々も、全部がこの女を嫉妬させるための芝居だったのだ。
私は、ただの笑いものだった。
「そりゃそうだよな。陸があんな庶民の女と結婚するわけない」
「陸と真理は長年の知り合いだし、他の誰が入る余地なんて最初からなかったんだよ」
「まぁでもこの女も顔とスタイルは悪くないし、遊び相手としてはアリだったんじゃないか?」
奈緒は背中でぎゅっと手を握りしめた。
爪が掌に食い込み、皮膚を突き破って血がにじんだ。
その痛みで、ようやく頭が冷えた。
奈緒は微笑んで言った。
「そっか、遊びだったんならよかったわ。私もちょうど陸と別れる理由を探してたとこだったし。むしろ助かったわ、おめでとう」
その顔には、いつにもなく冷静な笑みが浮かんでいた。
その言葉を聞いて、陸は一瞬きょとんとした。
奈緒のあっけないほどの潔さを信じられないようだった。
奈緒はそれ以上二人に目をくれることなく、背を向けて静かに歩き出した。
「山本先生、この前の海外のバレエ団からのオファー、受けることにしました」
薄雪が街に舞う中、奈緒は電話をかけた。
「そうか。君が迷っているなどというから、まさかあんなことでチャンスを逃すんじゃないかと心配していたよ」
電話の向こうから山本先生の喜びの声が聞こえる。
奈緒は、瞳の奥にほんのわずかに自嘲の色を浮かべた。
「私、ほんとバカでした。ご心配おかけしました。先生がせっかくつかんでくれたこの機会、絶対無駄にしません。一週間後、予定通り向かいます」
電話を切った奈緒の口元には、ほろ苦い笑みがこぼれた。
本当に、自分はなんて愚かだったんだろう。
たかが恋愛のために、こんな貴重なチャンスを捨てようとしていたなんて。
第2話
奈緒が家に戻ると、深夜をとうに過ぎていた。
スマホを手に取り、何気なく画面を開いた瞬間、陸の投稿が目に飛び込んできた。
映っていたのは、ぎゅっと指を絡ませた二人の手。
薬指には、あの指輪が光っていて、大きなダイヤモンドが眩しく輝きを放っていた。
その写真には一行、こう添えられていた。
【忘れられない一日。運命の人をこの手に】
奈緒は、心の底から呆れた。
付き合っていた頃、陸は一度も奈緒の存在を公にしようとはしなかった。
そのときは、それがただ彼のスタイルなのだと思っていた。
けれど本当は、彼にとってその価値すらない存在だったのだ。
奈緒は迷わず、陸の連絡先をブロックした。
あの日の夜は雨が降っていた。
家庭教師先で生徒の父親にしつこく迫られ、必死で逃げ出したものの、道に迷い、雨に打たれたまま立ち尽くしていた。
そのとき、そっと傘を差し出してくれたのが陸だった。
それからだった。
奈緒は初めて誰かに心を奪われた。
どうすれば彼に想いが届くのか、何をすれば彼の心を動かせるのか、何もわからず手探りだった。
彼が病気のときはそばで看病し、気分が沈んでいるときは静かに寄り添った。
できる限りのことをして、ようやく彼の隣にいられるようになった。
本気で尽くせば想いは届く、そう思い込んでいた。
でも結局、それはただの幻想に過ぎなかった。
翌朝、奈緒は丁寧に化粧をし、平静を装った顔で家を出た。
山本教授のもとへ行き、留学の話をまとめるためだった。
話がまとまり帰ろうとすると、階段にて、高価そうなプレゼントを手にした真理と鉢合わせした。
胸の奥が、鋭い針で突き刺されたように痛んだ。
奈緒は何も言わず、視線も合わせず、そのまま階段を下りようとした。
しかし、真理の表情からは笑顔が消え、驚いた表情で奈緒を見た。
山本教授の唯一の大学院生の座を狙っていた彼女にとって、奈緒が教授の部屋から出てくる姿はあまりに意外だったのだ。
そのとき、遠くに陸の姿が見えた。
真理はとっさに奈緒に近づき、爪をぎゅっと奈緒の腕に立てた。
鋭い痛みに、奈緒は思わず手を振りほどこうとした。
だが、その拍子に、真理は奈緒を巻き込みながら階段を踏み外した。
奈緒は彼女に引っ張られ、バランスを失って階段を転げ落ちた。
陸は真理のもとに駆け寄り、その体を抱きとめた。
奈緒には目もくれなかった。
奈緒はそのまま階段を転がり、後頭部を強く打ちつけ、床にじわりと血が広がっていくのが見えた。
「真理、大丈夫か?」
陸の目には真理しか映っておらず、奈緒の存在など全く気に求めていないようであった。
真理は陸に守られ、傷ひとつなかった。
それでも顔を青ざめさせ、震える声で言った。
「私、奈緒さんを怒らせちゃったのかも.....そんなつもりじゃなかったのに.....」
ようやく陸の視線が奈緒に向いたものの、すぐに逸らされた。
「平気だって言ってたくせに、関係ない人にまで手を出すなんて。お前のことがますます嫌になる」
第3話
奈緒は、転落のせいで頭がふらついていたが、彼のその一言によって、まるで氷水を頭から浴びたように、骨の髄まで冷たくなった。
なるほど。
気にも留めていない相手なら、目の前で頭を打って血を流そうがどうでもいいということか。
奈緒は、そんな陸を無視しふと真理の方を見た。
「そういうことなら、警察を呼びましょう。ちゃんと誰が悪いのかはっきりさせた方がいいわ」
陸は、奈緒にこんな冷淡な態度を取られたのは初めてだったため、心の奥に言いようのない苛立ちが湧き上がり、顔色をさらに険しくした。
「警察を呼ぶなら呼べばいい。俺が......」
陸の言葉は途中で途切れた。
真理が青ざめた顔で彼の腕を掴んだからだ。
ここに監視カメラはないものの、警察が来て万が一指紋なんかを調べられたら、自分が手を出したのがバレるかもしれない。
「もういいわ。私だって無事だし、山本先生の部屋の前でこんな騒ぎを起こしたら、きっと先生にも迷惑よ。これで終わりにしましょう。奈緒さんだってわざとじゃなかったはずよ」
陸は眉をひそめながら、奈緒をじっと睨みつけ警告の眼差しを送ったものの、それ以上は追及しなかった。
奈緒は視線をそらし、めまいと吐き気をこらえながら階段を下りていった。
階下に着くと、奈緒はティッシュで血のにじむ傷を押さえながら、車を待った。
すると、間もなくして陸と真理が険しい顔で階段を下りてくるのが見えた。
手には先ほどのプレゼントがそのままの形であった。
どうやら、山本先生はあまり顔を立ててくれなかったらしい。
奈緒はその様子を興味深そうに見つめた。
正直なところ、彼らが困っている姿を見て、心の痛みが少し和らいだ。
真理は奈緒の視線に気づくと、プライドが傷つけられたのか顔を赤くした。
そして、悲しげに顔を伏せると、そっと陸の袖を引いた。
「もしかして奈緒さん、先に山本先生に何か言ったんじゃないかしら?じゃなきゃ先生が一言もなく追い返すなんて......せめて作品を見てから判断すべきなのに」
陸はその言葉に、ふっと納得したような表情を見せた。
奈緒はきっと、以前のことが心残りで、真理を蹴落とすことで自分を振り向かせようとしているんだろう。
だが、そんな手は彼には通じない。
陸は真理を優しく抱き寄せ、まっすぐ奈緒の前へと歩み寄った。
「お前が山本先生に何を言ったか知らないが、裏で汚い手を使ったのがわかったら、俺が黙っちゃいないぞ。そのときは自分で責任を取れ」
奈緒は冷たい目で見返した。
「自分たちが無能だからって、そのツケを私に押し付けないで」
陸の表情を暗くし、今にも怒鳴りそうになったが、ふと奈緒の整った顔に飛び散った血の跡が目に入り、動きを止めた。
そういえば、彼女は階段から落ちたんだった。
まさか、こんなにひどい怪我をしていたとは。
真理はその視線に気づくと薄暗い表情を見せ、あわてて陸の腕を強く引っ張ると言った。
「陸、なんだか頭がクラクラするわ......低血糖かも」
その声に、陸はすぐに視線を戻した。
「どうした?急にか?すぐ病院に行こう」
そういうと、陸は真理を抱き上げ、振り返ることもなく病院へと向かった。
奈緒はその後ろ姿を見送ると力なく笑い、車に乗り込んでその場を後にした。
第4話
翌日、見知らぬ番号から電話がかかってきた。
奈緒は最近、宅配業者や引っ越し業者に連絡することが多かったため、地元の番号だと思いそのまま出た。
まさか陸が番号を変えてかけてきたとは思いもしなかった。
「俺の家に置いてる荷物、早く片付けに来い。いらないなら処分させる。それと......」
陸は一瞬、言葉を飲み込んだ。
本当は、なぜブロックしたのか聞きたかったのだ。
だが、ぐっとこらえた。
どうせあいつのことだ。
わざと気を引こうって魂胆だろ。
もしここで問い詰めたりしたら、あいつはまた何か期待して追いかけてくるかもしれない。
だが、予想外だった。
奈緒は自分の電話に出ても、声は冷たく冷静だった。
「分かったわ」
そのひと言だけで、電話はすぐに切れた。
まるで陸が厄介な疫病神かのように、避けるような態度だった。
陸は、複雑な表情でしばらくスマホを握り締めたまま固まった。
真理はその様子に気づき、不安げに声をかけた。
「陸......明日は面接よ。すごく不安なの。奈緒さん、まだ私のことを恨んでるんじゃないかって......もし面接を台無しにされたら......」
陸は我に返り、彼女を見た。
「心配しないで。今回の面接は誰にも邪魔させない。君はただ自分の実力を見せればいいよ」
真理はコクリとうなずき、彼の胸元に身を寄せた。
その瞳には、陰のある冷たい光が宿っていた。
奈緒はすぐに陸のマンションに荷物を片付けに向かった。
エレベーターに乗り、時計を確認しながら何を持ち帰るべきか考えていたときだった。
突然、エレベーターの灯りが数回チカチカと点滅し、上下に揺れ始めた。
ゾクっと悪寒が走り、奈緒は必死になって体勢を整えた。
「お願い......どうか故障だけはしないで......」
だが、祈りも虚しく、最後に「パチン」という音がして灯りが完全に消え、真っ暗になった。
瞬く間にあたりは闇に閉ざされ、手探りもままならず、目の前すら見えない漆黒の中で奈緒の体は小さく震え始めた。
幼稚園の頃、閉ざされた部屋の中に置き去りにされた。
それ以来、閉ざされた空間に強い恐怖を覚え、奈緒はひどい閉所恐怖症だった。
呼吸は乱れ、鼓動が速くなってきた。
発作が起きるのは時間の問題だった。
それでも、奈緒は必死に理性を保ち、エレベーターの緊急通報ボタンを押した。
「どなたかいますか?エレベーターが故障しました!すぐに修理をお願いします!」
だが、返ってきたのは修理業者の声ではなく、陸の冷たい声だった。
「真理の面接が終わるまで、そこで大人しくしてろ。余計なことはするな。面接が終わったら出してやる」
馬鹿でも分かる。
これは陸が仕組んだことだった。
真理と山本教授の面接の機会を奪われるのを恐れて、自分を閉じ込めたのだ。
陸は奈緒がこんな場所に閉じ込められたら危険なことを、誰より分かっているはずなのに。
「私は今回の面接に参加する気なんてない!お願いだから出して!」
奈緒は苦しさを堪えながら、必死にエレベーターの扉を叩いた。
けれど、びくともしなかった。
「騙されるもんか!最近のお前の動きを見てれば分かる。少し痛い目を見ろ」
陸は冷たく言い捨て、その場を後にした。
第5話
奈緒は必死にエレベーターの扉を叩き続けた。
だが、外からは、陸の足音がだんだん遠ざかっていく音しか聞こえなかった。
やがて、その足音も完全に消え、暗闇に包まれたエレベーターの中に死んだような静けさだけが残った。
奈緒は両手で自分の体をぎゅっと抱きしめた。
しかし、それでも本能的な恐怖と震えを抑えることはできなかった。
暗闇の中、冷たさが心の奥まで染み込み、まるでゆっくりと海の底へ沈んでいくような感覚に襲われた。
そこにあるのは、痛みと果てしない絶望だけだった。
一方その頃陸は、エレベーターに誰も勝手に手をつけられないことを確認し、真理の面接結果を待っていた。
だが、待っている間も、奈緒が去り際に必死に懇願してきた声が耳にこびりついて離れなかった。
彼女のあんな必死な声を耳にしたのは初めてだった。
そのことを思い出すたびに、心の奥がざわついて落ち着かない。
ようやく真理が面接を終えて出てきたが、彼女の顔は真っ青だった。
「陸......私、選ばれなかった......落ちちゃった......どうしよう私。もうどうしようもないのかな。ダメ人間なのかな......」
真理の目からは涙がぽろぽろと溢れ、体も小刻みに震えていた。
その姿があまりにも弱々しく、壊れそうで、陸の胸は締めつけられた。
その瞬間、奈緒のことなど頭からすっかり消え去った。
彼は急いで真理を抱きしめ、優しく慰めた。
彼女がこれ以上傷つかないよう、大切に家まで送り届け、その後も彼女の好物を買ってきては機嫌を取ろうと必死になった。
真理が落ち着くまでそばで付き添おうと、そのまま彼女の家で彼女が落ち着くのを見守った。
落ち着いた頃には、すでに深夜だった。
そのときになって、ようやく、陸は奈緒をエレベーターに閉じ込めたままだったことを思い出した。
青ざめた顔で立ち上がろうとした瞬間、真理がその動きを察して、あわてて彼の服の裾を掴んだ。
「陸どこ行くの......?私を置いて行っちゃうの......?お願い。そばにいて。怖いの......」
陸は彼女のいう通りにするしかなく、結局、奈緒のことは頭の片隅に追いやってしまった。
奈緒が、どれほどの時間エレベーターに閉じ込められていたのかは分からなかった。
ようやく誰かが故障に気づいて救助に来たとき、彼女は酸欠で半ば意識を失っていた。
病院に運ばれた奈緒は、診断の結果、命に別状はなかったものの、しばらく入院が必要と告げられた。
医師は大丈夫だと言ってくれたものの、奈緒の耳には自分の心臓の鼓動が太鼓のように鳴り響き、それが思考を邪魔していた。
そんなとき、彼女のスマホに見知らぬ番号からメッセージが届いた。
そこには、陸が真理を抱いて、優しく寝かしつけている動画が添付されていた。
画面の中はあまりに穏やかで、幸せそうな光景だった。
しかし、その時間、自分はまるで檻に閉じ込められた尊厳のない家畜のように恐怖におびえて死にかけていたのだ。
それを思い出した途端、奈緒の呼吸は再び乱れ始めた。
酸欠で頭はぼんやりしていたが、顔は怒りで真っ赤に染まった。
彼女は震える指でメッセージを返した。
【それで、私を軟禁までしたのに選ばれなかったわけ?本当に無能ね】
そう送ると、返信を見ることもなく番号をブロックした。
だが、激しい鼓動は少しもおさまらなかった。
大きく何度も深呼吸をし落ち着こうとしたが、効果はなかった。
最終的には、異変に気づいた看護師に鎮静剤を打たれてようやく深い眠りに落ちた。
けれどその眠りは安らかなものではなかった。
夢の中でも息苦しさはますますひどくなり、今にも窒息しそうだった。
これが夢だとは思えず、奈緒はもがきながら目を開けた。
その視線の先では、冷たく凶暴な瞳が彼女を見下ろしていた。
第6話
陸の顎には青い無精髭が浮かんでおり、赤く血走った目で奈緒を睨みつけたまま、奈緒の首を絞めるその手の力はどんどん強くなっていった。
奈緒は、心臓が一瞬止まったように感じた。
このまま陸にこの場で絞め殺されるんじゃないか。
そんな恐怖が一気に押し寄せ、必死に体をよじって抵抗した。
その音は決して小さなものではなかった。
最終的には陸は手を引っ込めたが、その目に宿る憎しみは少しも薄れることはなかった。
奈緒は新鮮な空気を必死に吸い込み、助かったと首元を押さえた。
震える手は自分でもどうにもできなかった。
「まだそんなふうに哀れなフリをするのか?」
陸の声は冷たく、しかし何となく哀しさも感じた。
「お前、真理に何を言った。彼女はひどいショックを受けて、手首を切ったんだ。今も病院で必死に命を繋いでるんだぞ!」
その言葉を聞いた奈緒は、ただただ呆れた。
「私が何を言ったっていうの?私はただ真実を言っただけ。真理の言う通りに私を閉じ込めて、それで思い通りになると思ったんでしょう?結局何も得られなかった。それの何が間違ってるの?」
奈緒の言葉は容赦なく、陸の表情は怒りと戸惑いが入り混じっていた。
自分の所業を思い出したようだった。
だが、血の気ないようすでベッドに横たわる真理の姿と彼女の手首の傷口が頭に浮かぶと、表情は暗くなった。
「お前が先に山本教授の前で真理の悪口を言ったから、あんなことになったんだ。だから俺もああするしかなかった。それに、あれは真理の指示じゃない、俺が決めたことだ。今すぐ真理に謝れ。山本教授にもちゃんと説明しろ。それで俺は今回のことを水に流す」
奈緒は、もはや笑うしかなかった。
せめて少しはあのときのことを恥じるかと思ったのに、こんな言葉を聞くことになるなんて。
思わず吹き出し、笑った。
涙まで浮かぶほどだった。
「何がおかしい!」
陸は不快そうに眉をひそめた。
「あなたの頭は飾りなの?私が今更あんたの機嫌なんか気にすると思ってる?真理に謝れ?そんなの来世でね」
奈緒は目元の涙をぬぐい、冷たい視線を陸に向けてから携帯を手に取った。
「さっさとこの病室から出て行って。今すぐよ。さもないと警察を呼ぶから」
陸は歯を食いしばり再び何か言おうとしたが、その瞬間甲高い着信音が鳴り響いた。
電話に出ると、真理がまた自傷しようとしたことを告げられ、陸は顔色を変えそのまま走り去った。
彼の背中が遠ざかっていくのを見届けると、緊張でこわばっていた体はようやく力が抜け、ベッドに倒れ込んだ。
首筋の痛みが、ついさっきまでの出来事を思い出させ、恐怖が再び襲ってきた。
ふと、予約していた航空券の情報を確認し、考え込んだ末に海外の舞団に連絡を入れ、予定より早く渡航できないかを尋ねた。
そのやり取りの最中、見知らぬ番号からメッセージが届いた。
【すぐに山本教授のところへ行き、真理のことを弁明しろ。そうでなければ後悔することになるぞ】
奈緒は眉をひそめたが、その瞬間、先方から渡航を早めていいと返事が来たため安堵の息を漏らした。
すぐにその番号をブロックし、削除した。
もうすぐこの国を離れるのだ。
あの二人に何を仕掛けられようと、もう関係ない。
目を閉じ、眠くもないのに無理やり休もうとした。
しかし、安眠にはほど遠かった。
あの悪夢がずっと頭に浮かび、やっとのことで眠れたかと思えば、スマホのバイブ音が執拗に響いて目を覚ました。
画面には遠く離れた土地からのメッセージが表示されていた。
【恥知らずの不倫女、男をとっかえひっかえして楽しいか?そんなに男に飢えてるのか?】
奈緒は、意味が分からず一瞬動きを止めた。
そのメッセージを消す間もなく、次々と大量の罵詈雑言のメッセージが流れ込んできた。
そのせいでスマホはフリーズしてしまった。
第7話
そのメッセージは、どれも例外なく奈緒を「人の恋人を奪った女」「不倫女」と罵るものばかりだった。
中には、売春婦だという者もあり、さらに下劣な者は「一晩いくらで売ってるんだ?」と下品な言葉を投げつけてきた。
奈緒の顔はみるみる赤くなり、一気に頭に血が上ったように感じた。
体は小刻みに震え、自分でもそれを抑えることができなかった。
なんとか冷静になろうと深呼吸し、スマホで検索をかけると、すぐに関連ワードが表示された。
急上昇のトップには、真理が書いた長文の投稿があった。
その中には、このような内容が書かれていた。
【真理と陸は幼い頃からの幼なじみで恋人同士。しかし、ある時から、陸が好意で助けた奈緒が、彼に感謝するどころか手を出そうとするようになった。奈緒は陸に恋人がいると知っていながらも諦めずにしつこく迫り、玉の輿を狙った。だが陸は全く相手にせず、奈緒は何度誘惑を試みても失敗。それだけでは収まらず、奈緒は真理への敵意を募らせ、彼女に嫌がらせを繰り返した。さらには山本教授の前で彼女の陰口を叩き、そのせいで真理は憧れだった教授に失望され、そのショックで手首を切り自殺未遂をした】
投稿には、真理が手首を切った時のものと見られる痛々しい写真も添えられていた。
白い肌に鮮血が生々しく浮かんでおり、見る者の怒りをさらに激しくし、コメント欄は奈緒を罵る言葉であふれていた。
真理が投稿に詳細を書いていたため、すぐに誰かが奈緒のSNSアカウントを突き止めた。
以前舞台公演に出演したときの写真も拡散され、顔写真が意図的に拡大されてネットにさらされていた。
奈緒のアカウントはあっという間に炎上し、わずかな日常の投稿のコメント欄も、罵詈雑言で埋め尽くされた。
ついには学校の公式アカウントまで拡散され、「こんな品行の悪い学生は退学させろ」と要求する声まで上がり始めた。
さらに、どこから漏れたのか、奈緒の電話番号や身分証番号まで晒され、ネットは狂乱状態となっていた。
彼女の個人情報はあらゆる場所にばら撒かれ、根拠のない悪意の憶測が飛び交い、写真は卑猥な画像に加工され、アダルトサイトに晒された。
その下劣な内容を見つめ、奈緒の手は震えが止まらなかった。
彼女はすぐにSNSで拡散されている情報の内容を否定する投稿をした。
「すべてデマです、証拠も出します」と。
だが、返ってきたのはさらに激しい罵声だった。
その中には「佐藤奈緒が病院で治療を受けている」とわざわざ書き込む者もいて、「脳や性病の治療か?」と嘲るコメントまでついていた。
奈緒は背筋がゾッとした。
病院も、もはや安全じゃない。
そう悟ると、すぐに病室を飛び出し、退院手続きを取ろうとした。
だが、病室のドアを開けた瞬間、突然誰かに強く突き飛ばされた。
「お前だろ、このクソ女......あんたが俺を誘惑しなければ、俺の家庭は壊れなかったんだ!」
男の怒号に周囲の視線が一気に集まった。
そして、パシンッという乾いた音と共に頬に重たい平手打ちを受けた。
その男の顔を見た瞬間、奈緒の体は凍りついた。
――あの男だ。
かつて自分を襲おうとした、あの家庭教師先の父親。
彼女の心に刻まれた、逃れられない悪夢そのものだった。
第8話
男は、奈緒の髪を乱暴に掴むと無理やり人々の前に顔を向けさせた。
「こいつだ!こいつが俺に、家で虐げられている貧乏学生で、ずっとあなたを慕っていたなんて泣きついてきたんだ!かわいそうだと思って金を渡したのに、結局は恩知らずの裏切り者だった!もっと若くて金持ちで権力のある高橋の坊ちゃんが現れた途端、俺を裏切って、俺に襲われそうになったなんて被害者ヅラしやがったんだ!そのせいで俺は家庭を失い、会社まで潰れたんだぞ!」
「違う、私はそんなことしてない!」
奈緒は必死に抵抗し、声を大にして叫んだ。
だが、その声は男の泣きながらの訴えにかき消され、周囲の耳には届かなかった。
男の話が終わった頃には、その場にいた何人かが信じ込んでしまっていた。
「見ろよ。あの女、いかにも男を誘惑してそうな顔してる」
「ダンスの学校に通ってるんだろ?男の落とし方くらい知ってるに決まってる。賞も取ったって?どうせ男に媚びて取ったんだろ」
「病院に来てるのって、まさか本当に変な病気でもあるんじゃ?」
口々にそう呟くと、周囲の人たちは表情を変え、一斉に後ずさりした。
そして、誰かが見かねたように奈緒を突き飛ばし、また別の誰かはその混乱に乗じて彼女の服を引っ張った。
さらに、野次馬の中にはスマホを取り出し、奈緒の無様な姿を撮り始める者までいた。
最終的に、この騒ぎに気づいた病院側が、事態が大ごとになるのを恐れて人々を追い払った。
あれだけ大口を叩いていた男も、さっとその場を逃げ去った。
「佐藤さん、申し訳ありませんが、これ以上うちの病院でリスクを負うわけにはいきません。すぐに退院手続きをお願いします」
奈緒は状況が飲み込めないまま病院を追い出された
道を歩けば、耳に入ってくる自分のゴシップ。
まるで街を歩くネズミのように、誰もが忌み嫌う存在だった。
ようやく家に戻り、崩れ落ちるように床に座り込んだ。
長い時間が過ぎ、ようやく体を起こした。
こんな汚名を背負ったまま、この場所を離れるわけにはいかない。
あの男に襲われかけたことはほとんど知られていない。
あの事実を逆手にとって罠を仕掛けたのは、間違いなく陸しかいない。
全身に寒気が走った。
かつて自分が彼に見せた弱さは、今や彼にとって最も鋭い刃となり、容赦なく彼女の胸を突いてきていた。
視界がぼやけてくると、奈緒は慌てて涙を拭い、使い物にならなくなったスマホを手に取ると、通信会社に連絡して見知らぬ番号からの着信をすべてブロックした。
そこまでしてようやく、静寂が訪れた。
彼女は急いで、以前削除していた動画アプリをインストールし直し、操作を進めた。
すぐに、陸がプロポーズしてきたときの映像を見つけた。
それは、真理が語る虚言を打ち砕く決定的な証拠だった。
あのとき、これが一生に一度のプロポーズだと信じていたため、こっそり隠しカメラで撮影していたのだ。
だが、その映像は幸せの思い出ではなく、今や自分の潔白を証明する切り札となった。
さらに奈緒は警察に連絡し、陸が彼女をエレベーターに閉じ込めたときの防犯カメラ映像を入手した。
証拠がそろうと、それらを学校の広報アカウントに送った。
「私のことで学校にご迷惑をおかけして申し訳ありません。この証拠を公表していただければ、きっと騒ぎも収まると思います」
学校側は炎上対応に疲弊しており、証拠を確認した上で公式アカウントでの公表を承諾した。
すべてを終えた奈緒は、感傷に浸ることなく手早く荷物をまとめた。
翌日、空港の搭乗口で手続きをしていると、陸からメッセージが届いた。
【後悔しただろ?今すぐ来て真理に謝れ。そしたら俺が助けてやる】
奈緒は冷たい笑みを浮かべ、迷わずSIMカードを引き抜いてゴミ箱に放り込み、そのまま振り返ることもなく、海外行きの飛行機に乗り込んだ。