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遠い昔の夢は海の底へ
沙羅の母は「誰もが憎む不倫女」と呼ばれ、彼女が悠人の父を誘惑し、母を植物状態に追いやった――そんな噂が町中に広がっていた。 復讐に燃...
Chương (1)
第1章
沙羅の母は「誰もが憎む不倫女」と呼ばれ、彼女が悠人の父を誘惑し、母を植物状態に追いやった――そんな噂が町中に広がっていた。
復讐に燃える悠人は、七年もの間、沙羅に憎しみをぶつけ続ける。幼い子どもを人質にして、彼女を家で最も卑しい使用人として使い、さらに沙羅の目の前で他の女性と愛し合うことさえ平然とやってのけた。
「沙羅、お前が俺の家族を壊したんだ。一生許さない」
絶望の中で、沙羅はすべてを諦めるしかなかった。どんな屈辱も、悠人の命じるままに従い、凶暴な犬に咬まれても、じっと耐えた。
だが――すべてが終わったとき、悠人は思い知る。あの壮絶な憎しみの日々が、本当は沙羅には何の罪もなかったことを。血の海に崩れ落ちた瞬間、彼の心は――狂気と絶望の淵へと沈んでいく。
第1話
「あなたなんか、ママじゃない!触らないで!パパが言ってた、あなたは頭のおかしい、悪い女だって!」
峻(しゅん)は、三浦沙羅(みうら さら)の腕を振り、噛みついたり叩いたりして激しく抵抗した。細い腕には、すぐに噛み跡から血がにじんでいる。
沙羅はどうしても手を離せなかった。息子に会えるのは、一年に一度だけ。この日だけが、沙羅にとって唯一の救いだった。
この七年間、沙羅は一日たりとも峻のことを思わなかった日はない。
沙羅は峻を責めることはできなかった。峻にとって自分は、ただの楠本家の家政婦であり、楠本家にとっての「罪人」でしかなかったからだ。
世間では、「三浦親子は、最初から楠本家の親子を誘惑するためにやって来た」と噂されていた。
親は親を、子は子を――すべては楠本家の財産を狙った策略だと。
「どうしてあなたのお母さんは、うちのお父さんを誘惑したの!?みんな死んだり、傷ついたりして、それで満足なの?」かつての友人、楠本紗希(くすもと さき)は、声を荒げて沙羅に詰め寄った。
一方、楠本悠人(くすもと ゆうと)は、母親の病室で膝をつき、目を真っ赤にして泣いていた。沙羅がどんなに弁解しても、悠人の瞳にあるのは憎しみだけだった。
この母娘をこの世から消してしまいたい――そんな怒りが悠人を支配していたが、そのとき沙羅の妊娠が明らかになった。
沙羅は涙ながらに悠人にお願いした。「どうか、この子だけは……この子には何の罪もない」
悠人は冷たく言い放った。「二階から飛び降りろ。子どもさえ生きていれば、産ませてやる」
沙羅は子どもを守るために、二階から身を投げ、足を骨折した。
そして出産の日――大量出血に苦しみながらも、沙羅は命がけで男の子を産み落とした。
その日、手術台の上で力なく横たわる沙羅に、悠人は赤ん坊を抱いたまま冷ややかに言い放った。
「お前の母親のせいで父さんは死んだ。母さんはずっと植物状態だ。どうしてもこの子を産みたいなら、この子でお前の罪を償わせろ。楠本家の跡取りにしてやる。だが、お前のことは絶対に母親として認めさせない。お前も、大切な人を失う痛みを思い知れ」
それから沙羅は、息子のために、そして植物状態になった母のために、楠本家で最もつらい仕事を続けることになった。
終わりのない苦しみの日々。それでも悠人が自分への憎しみを峻にぶつけることがなかったのは、唯一の救いだった。
峻が元気でいる姿を見ることが、沙羅にとって何よりの慰めだった。たとえ母親に罪があったとしても、悠人が沙羅に与えた罰はもう十分に償われたはずだ。
この数年、沙羅は人知れずお金を貯めてきた。あと一か月でビザが下りる。そうすれば母を連れて、この家を出ることができる――
「パパ!」
背後でドアが開き、スーツ姿の悠人が入ってきた。七年の時が流れても、その気品は昔と変わらない。
沙羅の姿を見た瞬間、悠人の目には抑えきれない怒りが浮かんだ。
「どうしてここにいる?誰が入っていいと言った?」
沙羅はうつむき、小さな声で答えた。「今日は、峻に会える日だから……」
「峻?お前みたいな女に、息子を持つ資格なんてあるものか!」
悠人は酒が入っていたのか、まだ身体に酒の匂いが残っている。彼は乱暴に沙羅の首根っこを掴み、二階へと引きずり上げた。ドアが開いた瞬間、沙羅はベッドの足元に激しく投げ出され、額を強く打った。
おそるおそる見上げると、ベッドには悠人の母親が横たわっていた。全身に医療機器が繋がれ、心拍モニターが静かに音を立てている。
「見ろ。お前とお前の母親のせいで、母さんは七年間もここで眠ってる。それでも息子と会いたいなんて、よく言えるな!
じゃあ、俺たち親子はどうすればいいんだ!」
第2話
悠人は拳を強く握りしめ、手の甲の血管が浮き上がっていた。今にもその拳が飛んできそうなほど、怒りを露わにしている。
沙羅は顔を真っ青にして、必死に頼んだ。「悠人、一度だけ私を信じて。お願い、お母さんはそんな人じゃないの。絶対に、そんなことするはずない。もう一度だけ、ちゃんと調べてくれない?お願い!」
母は何十年も真面目に生きてきた。沙羅には、どうしても母が人の家庭を壊すようなことをするとは思えなかった。
そんな沙羅の訴えを、悠人はまるで冗談でも聞いたかのように冷たい笑みで受け流す。
「この期に及んで、まだそんなことが言えるのか!あの事故のとき、お前の母親は俺の父さんと車の中で、みっともない格好で一緒にいたんだぞ!それでもまだ、無実だなんて言い張るつもりか?ふざけるな!」
「私……」沙羅には何の証拠もなく、唇を固く噛みしめることしかできなかった。
その時、外から紗希の叫び声が響いた。「どうしてあんたがお母さんのそばにいるのよ!」
紗希は部屋に飛び込んでくると、沙羅を力いっぱい突き飛ばした。「出てって!出て行きなさい、お母さんはあんたなんか見たくないの!」
そして、今度は悠人をにらみつける。
「お兄ちゃん、どうしてこんな女をまだ家に置いてるの!?それに、なんであの女の母親の治療費まで払ってやってるのよ!どうしてよ!なんでまだ生かしておくの!?本当に信じられない!」
楠本家であんな事件が起きて以来、紗希は沙羅を心底憎んでいた。
あんなに姉妹のように仲が良かったのに、沙羅は家族を壊した張本人だと思っている。
「死ねって?死ぬなんて生ぬるい。俺は沙羅と彼女の母親も生かして、一生かけて自分の犯した罪を償わせるつもりだ」悠人は冷たく言い放った。
「沙羅、お前は贅沢な暮らしがしたかったんだろ?その願い、叶えてやるよ」
沙羅はハッとして顔を上げた。胸の奥から嫌な予感が込み上げてくる。
悠人は一切の反論を許さず、沙羅を車に押し込めて、あるスタジオへと連れて行った。
「女優が足りないんだろ?こいつを使え」
そう言って、悠人は沙羅を監督の前に突き出した。
監督は沙羅をじろじろと値踏みするように見つめ、その目にはいやらしさがありありと浮かんでいる。
「さすが楠本さん、見る目がありますね。じゃあ、脱いでください」
沙羅は部屋いっぱいにいる男たちを見回し、恐怖におびえて服の襟をぎゅっと握りしめた。「私にはできません、演技なんてしたこともないんです。悠人、お願い、こんなことしないで……」
悠人は表情一つ変えず、片手で沙羅の顎を掴み、冷たい目で見下ろす。
「そうか。じゃあ、お前の母親に同じことをしてやる。今すぐ連絡して、酸素を止めさせるぞ」
「やめて!」
沙羅は必死で悠人の腕にしがみついた。
悠人は鼻で笑って言い放つ。「うちでお前たち親娘を引き取ってなかったら、お前なんて、とっくに伯父に売り飛ばされて、今ごろどこでどうなってたかも分からないんだぞ。今さらきれいごと並べやがって」
沙羅の唇は真っ青になり、過去の苦しい記憶がフラッシュバックしてきた。
楠本家の本家で召使いとして働かされていた時、他の使用人たちは沙羅の噂話をしていた。
「彼女のお母さんが旦那様を誘惑したせいで事件が起きたのよ。今度は彼女が坊ちゃんを誘惑しようとしてるなんて、みっともないわね」
「結局、顔と体だけが取り柄なんだから。ほんと、男を手玉に取るしか能がない女ね」
昼間は陰口を叩かれ、夜になると、電気が消えた隙に沙羅の服は無理やり剥ぎ取られ、身体はあちこち傷だらけにされた。何度も何度も物で叩かれ、その痣が消えることはなかった。
ここで死んでも、誰も自分の味方になってくれない――そんな絶望がいつも頭をよぎる。
「自分で脱がないなら、俺が手伝ってやろうか?」
悠人の声はもう完全に容赦がなかった。そう言って彼は沙羅の服を乱暴に引っ張り始める。沙羅は反射的に全身を震わせてしまう。
今では、誰かが少しでも近づくだけで身体が勝手に震えてしまうのだ。
「いい!自分で脱ぐ」沙羅は奥歯を噛みしめ、恥ずかしさに耐えながら言った。
――あと少し、もう少し我慢すれば、きっとここから逃げ出せる。
一つ、また一つとボタンを外し、上着が床に落ちる。痩せ細った身体を必死に両腕で隠し、沙羅は震えながら自分を抱きしめた。
監督が遠慮なく促す。
「それじゃダメだ、まだまだだよ」
こみ上げてくる涙を必死に堪えながら、沙羅は震える声で悠人に訴えた。「そこまでして私を辱めたいの?いつかお母さんの無実が証明されたら、きっとあなたは後悔することになる!」
悠人は何の迷いもなく言い返す。
「後悔?沙羅、俺がこの人生で一番後悔してることは、お前と出会ったことだ。お前たち親娘は、金のためなら何だってやるんだろ?
なら、もっと脱げよ。続けろ!」
第3話
沙羅は唇をかみしめ、必死に涙を堪えていた。震える指先でズボンの裾をぎゅっと握りしめ、指が真っ白になるほど力が入っていた。
悠人は沙羅の姿にうんざりしたような顔をし、黙って目をそらした。その直後、携帯電話が不意に鳴り響いた。沙羅の視界の端に、着信画面がちらりと映る。相手は悠人の幼なじみ、橘玲奈(たちばな れいな)だった。
それまでの冷たさが嘘のように、悠人の声が柔らかく変わる。「もしもし、玲奈?……分かった、すぐに行く」
電話を切ると、悠人はあっさりと沙羅の前から去っていった。
撮影スタジオを出ると、沙羅の手には監督から渡された五千円札が残っていた。屈辱と悔しさで顔が熱くなり、まるで殴られた後のようにじんじんと痛みが広がっていた。
監督は下品に言い放つ。「楠本さんからの指示だ。君みたいな女は、五千円の価値しかないってさ。これ以上は一円も出せないんだと」
容赦なく降り注ぐ陽射しが、沙羅の心までじりじりと焼き尽くしていくようだった。もう耐えきれず、沙羅はその場にしゃがみ込み、声を殺して泣いた。
――あの優しくて明るかった悠人は、もう自分の中で完全に死んでしまったのだ。
やがてお月見の季節が近づき、楠本家では盛大な家族パーティーが開かれることになった。
毎年こんな日、沙羅は峻の姿を遠くから眺めることすら許されなかったが、今年は悠人の許しがあって、パーティーの手伝いとして屋敷に入ることになった。
楠本家は大きな家系で、お月見ともなれば何十人もの親族が集まる。
悠人が玲奈の腕を取り、家族の前に現れたとき、誰も驚かなかった。
あちこちでグラスが上がり、まるで二人が婚約でもしたかのような空気になる。
「家族パーティーにまで玲奈さんを連れてくるなんて、悠人と本当に結婚間近なんでしょうね」
「そりゃそうよ。玲奈さんはお嬢様だし、悠人とはお似合いだし、何より峻も玲奈さんが大好きらしいわよ。もうすぐ正式に家族になるんじゃない?」
そんな囁きがあちこちから聞こえてくる。沙羅の胸は苦しくなった。
思えば、悠人と玲奈は昔から家族のように仲が良かった。自分が悠人と付き合っていた頃でさえ、玲奈はいつも割り込んできて、沙羅を責めたものだ。そんな二人が結ばれるのも、今となっては当然なのかもしれない。
――でも、それはもう自分には何の関係もない。
沙羅はうつむき、手早く酒を運ぼうとしたが、そのとき向こうから峻が元気よく駆けてきて、思わず彼にぶつかりそうになった。
沙羅は反射的に手を伸ばし、「大丈夫?怪我してない?」と声をかけた。
だが峻は、沙羅の手を振り払った。「そんな汚い手で触らないでよ!こっちに来ないで!どうしてまたあなたがいるの?本当に大っ嫌いだ!僕、玲奈お姉ちゃんのところに行く!」
峻は沙羅を一瞥もせず、すぐに立ち上がると、全速力で玲奈の元へと駆けていった。
みんなで満月に手を合わせ、静かに願いごとをするのが、楠本家のお月見の恒例だった。玲奈と悠人も、峻の小さな手を取り、一緒に月に祈った。
「峻、お願いごとがあるなら、お月さまに向かってそっと心の中で唱えてごらん。きっとお月さまが叶えてくれるよ」
「本当に!?」峻の目が一瞬で輝く。「僕ね、ママが欲しい。玲奈お姉ちゃんにママになってほしい。みんなで、ずっと一緒に暮らしたいんだ」
悠人は優しく峻の頭を撫でて言った。「子どもがずっと一緒なんて、分かるのか?」
「分かるよ、もちろん分かるよ。だって結婚したら、ずっと一緒にいられるんでしょ?パパ、早く玲奈お姉ちゃんと結婚してよ!」
麗奈は顔を赤らめ、悠人の答えをじっと待つ。
そのとき悠人の視線がふと屋敷の中を横切り、沙羅の姿が目に入る。沙羅は心臓をぎゅっと握られるような思いで、彼の答えを待っていた。
悠人は口元に冷たい笑みを浮かべた。「そうだな――じゃあ、玲奈お姉ちゃんにママになってもらおうか」
「やったー!やったー!」峻は無邪気に飛び跳ねる。
沙羅の顔は真っ青になり、首を絞められたみたいに苦しくて、呼吸するのもつらかった。
悠人に深く憎まれ、峻にも激しく拒まれている――そんな現実を、沙羅は痛いほど分かっていた。もう、自分には何も期待できるものなど残っていなかった。
沙羅がその場を離れようとした瞬間、ふと視界の先に紗希の姿があった。
彼女は、以前とは違い、穏やかとも取れる冷静な顔で沙羅を見つめていた。
「見たでしょ?お兄ちゃんと玲奈さんこそ、本当の家族なのよ。あんたなんか、最初から峻の母親になる資格なんてなかったんだから。
分かってる?もう峻やお兄ちゃんに近づかないでよ。これ以上あんたが関わったら、『あの子の母方のおばあちゃんが、昔、父方のおじいちゃんを誘惑して家を壊したんだって』って、絶対に陰で言われるから。あんたは平気でも、峻はずっと笑われるのよ」
沙羅は無表情で答えた。「心配しなくてもいいわ。これからはもう、誰にも自分が峻の母親だなんて言わない」
――峻にはすぐ、新しいお母さんができる。すべては、もう過去になるのだ。
第4話
紗希がじっと沙羅を見つめる。その視線に、どこか引っかかるものを感じるが、言葉にはできなかった。
「いい?お兄ちゃん、さっきだいぶ飲んでたの。この酔い覚ましのお茶、届けてあげてくれる?」そう言って、紗希は沙羅の手にお茶を押しつけた。
沙羅がそれを運んだとき、悠人は親戚たちと談笑していた。
彼女が近づくと、悠人の目が一瞬だけ冷たく光ったが、声もかけず沙羅から視線を外す。沙羅は何も言わず、そっとお茶を卓上に置き、そのまま静かに退いた。
家族パーティーは夜更けまで続き、沙羅は午前三時になってようやく、屋敷の床をすべて磨き終えた。体力も気力も尽き果て、その場に倒れ込むようにして眠りに落ちる。
翌朝、けたたましいスマートフォンの通知音で目を覚ます。画面を開くと、ネットのニュースは騒然としていた。
【#楠本グループ社長、お月見の車中で密会――いよいよ結婚間近か?】
そのスキャンダルの主役は、他でもない玲奈だった。
たちまちネット中が大騒ぎとなり、楠本グループは即座に【二人は長年交際しており、現在結婚準備中】と声明を発表。
家柄も釣り合い、ネットは祝福ムード一色に。
沙羅は無表情でスマホを伏せた。そんなことより、いまは母の容態のほうが気がかりだった。
この数年、母は悠人によって私立病院に預けられ、命を支える装置に繋がれて、ひたすら眠り続けている。
沙羅は手を震わせながら、母の老いた頬をそっとなぞった。悠人が自分を憎むのも当然だと思う。でも、どうしても母だけは――母だけは、そんなことをする人じゃないって信じたかった。
「お母さん……いつになったら目を覚ましてくれるの?まさか、このままずっと『人の家庭を壊した女』なんて呼ばれたまま、眠り続けるつもりじゃないよね……?」
ぽつりと涙が、母の手の甲に落ちた。
――そのとき、不意に母の指がかすかに動いた気がした。
見間違いかと瞬きをしたが、数秒後、また指がぴくりと動いた。
沙羅は慌ててナースコールを押し、医師を呼んだ。
医師は入念に診察し、マスクを外して微笑む。「いいお知らせです。お母様の数値は回復傾向にあります。このまま前向きに治療すれば、目を覚ます可能性も高いですよ」
「本当ですか?本当に……?」
沙羅は嬉しさのあまり、泣きながら何度も医師に頭を下げた。
胸の中に、消えそうだった小さな希望がまた灯った。沙羅は母のそばで、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
夜の病室。澄みきった月明かりが窓から差し込んでいた。
その静寂のなか、沙羅は不意に首を締められるような苦しさを感じて、はっと目を覚ました。
壁に押し付けられ、息ができない。
目の前にいたのは、悠人だった。
その目は、獣のように鋭く、今にも噛みつきそうな憎しみに満ちている。
「昨日の計画が台無しになって、そんなに悔しいか!?」
「……っ、何の話をしてるの?」
「とぼけるな。昨日、俺に何を飲ませたか、覚えてるよな!」
昨夜、悠人は沙羅が差し出した酔い覚ましのお茶を飲んだあたりから、身体がやけに熱くなり、そのまま玲奈を家まで送った帰り、気がつけば……ネットで騒がれているような出来事に巻き込まれていた。
玲奈は静かに言った。「悠人、大丈夫よ。私は、自分でそうしたくて……あなたと一緒にいたの」
――けれど、こんなことが公になれば、楠本家も橘家も世間の笑いものだ。
悠人はその晩、煙草を一箱空にした。朝方、部屋いっぱいに煙草の吸殻が散らばった床を見て、ぽつりと言った。
「俺がやったことは俺が責任を取る。結婚しよう」
だが、昨夜のあの異変は、どう考えても誰かに仕組まれた罠だった。自分が口にしたのは、自分で用意した酒と、沙羅が運んできたお茶だけ――
「お前の計算は外れたな。まさか昨夜、俺と一緒にいたのが玲奈だとは、思いもしなかっただろ?」悠人の言葉には、皮肉と嫌悪が滲んでいた。
沙羅はじっと睨み返し、静かに言い返す。「……そのお茶は、紗希が持たせたの。信じてもらえないかもしれないけど、私はあなたを陥れたりしたことはない」
悠人は、沙羅の言葉など一切信じようとしなかった。その瞳には、今にも吹き出しそうな激しい怒りが燃えている。そして、堪えきれず壁を拳で激しく叩きつけた。
「ふざけるな!まだ俺を騙そうってのか!?いつまで俺をバカにするつもりなんだよ、お前は!どこまで人をコケにすれば気が済むんだ、ああ?お前、本当に人間の心があるのか!
お前が月だろうが何だろうが欲しいって言うなら、いくらでもくれてやるさ。金が欲しいなら、いくらでもくれてやる。だけどな、どうしてお前とお前の母親は、俺の家をめちゃくちゃにした?なんで俺の父さんをたぶらかして、母さんを不幸のどん底に突き落としたんだよ!」
沙羅はもう何度も説明してきた。今さら何を言っても信じてもらえないと、心が折れそうになる。
だが悠人は、決して沙羅を許そうとしなかった。
「全部お前のせいだ。お前とお前の母親が、俺の家を壊したんだ!男を誘惑して、その気にさせて……そんなことしかできない女なんだろ?いいか、俺がたっぷり思い知らせてやる」
次の瞬間、悠人は沙羅に乱暴なキスを押しつけた。息ができなくなるほどの、激しくて憎しみに満ちたキスだった。
第5話
「悠人、やめて……」沙羅の訴えは、悠人の激しいキスに呑み込まれてしまった。
屈辱の涙が頬を伝い、沙羅は必死に手足を使って逃れようとする。けれど、悠人の腕に簡単に押さえつけられてしまう。
沙羅は身体を震わせながら、声を振り絞る。「やめて……誰か助けて!悠人、やめて……!」
悠人の目は血走り、逆に楽しげな笑みを浮かべていた。「もっと叫べよ。できるだけ大きな声でな。お前の母親にもしっかり聞かせてやれよ。お前がとうとう俺のベッドに上がったってな。さあ、どう思うかな?きっと嬉しくて飛び起きるんじゃないか?」
すぐそばには、母の病床があった。沙羅は必死に母を見つめ、唇を噛みすぎて血がにじむ。
涙がとめどなく頬を流れ落ちる。沙羅は涙に濡れた瞳で、ただ何度も首を振る。
――違う。
お母さんは、そんなふうに人を唆すようなこと、一度だって言ったことがない。どんなに貧しくても、どんなにつらくても、悪いことだけは絶対にするなと教えてくれた。
そんなお母さんが、人の家庭を壊すなんて、絶対にありえない。
怖くて、声すら出せない。もし母にこの声が届いたら……そう思うと、何も言えなかった。
悠人は沙羅の耳元で、満足げに低くささやいた。「……おとなしくしてろよ」
悠人のキスは次々に沙羅を襲い、その手は彼女の細い身体を容赦なくまさぐる。沙羅は無力に目を閉じ、ただ耐えるしかなかった。
悠人は嵐のように現れ、そして嵐のように去っていった。
沙羅は二日間も高熱を出し、病院で点滴を受けることになった。
退院の日、廊下で佐伯明(さえき あきら)に出くわした。学生時代から女好きで有名だった彼は、今も軽い調子で沙羅に声をかけてくる。
「おやおや、これはこれは……うちの学校のマドンナ、沙羅じゃないか。どうしたの?まさか一人で病院まで来るなんて、ずいぶん可哀想だな」
明はからかうように沙羅の前に立ちはだかる。
沙羅は淡々と、「どいて」とだけ言った。
「まだそんなに強気なのか?自分が楠本グループのお坊ちゃんのお気に入りだとでも思ってるのか?でもさ、悠人はもうすぐ結婚するんだぞ。どうせなら、俺と付き合ったほうがいいんじゃないか?少なくとも食うには困らせないぜ?」
そう言いながら、明は手を伸ばし沙羅の頬に触れようとする。
ちょうどそのとき、病院の廊下の向こうから悠人と玲奈が並んで歩いてきた。
玲奈は作り笑いを浮かべて、わざとらしく言った。「あら、ごめんなさいね。お邪魔しちゃった?二人とも、ずいぶん仲良さそうで」
明は悪びれもせず、「なんでもないさ。ちょっと沙羅と世間話をしてただけ」
悠人の視線が冷たく沙羅を射抜く。
「世間話か。なるほどな。どうやら、お前はどんな男とも仲良くできるようだな」
沙羅の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
玲奈はわざとらしく言葉を重ねた。「だって沙羅は昔から学園のマドンナだもの。男の人が放っておくはずないわよね」
その言葉に悠人の顔はますます険しくなっていく。
沙羅はもう耐えきれず、逃げるようにその場を立ち去った。
病院の出口で、玲奈が沙羅を待ち伏せしていた。
ついさっきまでの柔らかい笑顔はどこにもなく、玲奈の瞳は鋭く光っている。
「いい?私と悠人はもうすぐ結婚するの。これ以上あの人に近づいたら、本気で許さないから」
これが本当の玲奈。強くて、わがままで、誰にも負けない女。
沙羅は玲奈をまっすぐ見返して答えた。「あなたと悠人が結婚するなら、私がここにいたって何の関係もないはずでしょう?」
玲奈は苛立ちを隠さず、沙羅のすぐ目の前まで詰め寄った。「とぼけないで!あんたが現れるだけで、悠人はおかしくなるのよ……好きでも憎くても、あの人にとってあんたは特別なの」
そう言いながら、玲奈はふっと笑みを浮かべた。
「でも、あんたがどんなに頑張ったって無駄よ。あんたがここにいるのは、母親と息子がいるからでしょ?でももうすぐ私は悠人と結婚して、峻も私の息子になるの。あんたの母親だって……もうすぐ、楽になれるんじゃない?」
沙羅は眉をひそめて問い返す。「それ、どういう意味?」
第6話
玲奈は勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。「そのうち分かるわよ」
そう言い残し、高いヒールを鳴らして去っていく。
沙羅には、まだその言葉の意味が分からなかった。
――だが、それはすぐに明らかになった。
再び母の見舞いに病院を訪れたとき、病室では看護師たちが次々と出入りし、母に全身検査をしていた。けれど、母の病状は安定していて、こんな大がかりな検査は必要ないはずだった。
沙羅は看護師の一人を呼び止めた。「何があったんですか?お母さんの身体に異変でも?」
「いえ、これは移植手術の前の通常検査ですよ」
「移植?何の移植ですか?」
「もちろん、臓器移植です」
そのとき、悠人と紗希がいつの間にか背後に立っていた。
悠人はぞっとするような笑みを浮かべて告げる。「医者が言うには、俺の母さんの腎臓がもう使えないんだと。でも偶然、お前の母親と腎臓の型が合うらしい」
沙羅はその場に凍りつき、必死で悠人に詰め寄った。「たとえ型が合っても、どうしてお母さんの腎臓を勝手に移植するなんて決められるの?私は娘よ。私が反対すれば絶対にできないはず!」
悠人はゆっくりとスーツの内ポケットから一枚の書類を取り出し、沙羅の前に突きつけた。
「よく見ろよ。これはお前の母親が何年も前に自分で書いた臓器提供の同意書だ。サインもちゃんとある。お前の母親が自分で決めたことなんだよ」
沙羅は震える手でその書類を手に取り、下に書かれた署名を見つめた。
たしかに、それは母の筆跡だった。
日付はあの事故の数ヶ月前。
母は昔から恩を受けた人には必ず報いる人だった。きっとあの時、悠人の母の体調が悪くなったことへの感謝から、同意書を書いたのだろう。
――でも、今は駄目。
沙羅は必死で悠人の袖を掴み、涙ながらに頼んだ。「お願い、先生がお母さんの容態も回復に向かってるって。こんな無理なことをしたらお母さんは耐えられない。どうしても腎臓が必要なら、私が提供する。私の腎臓にして!だからお願い」
だが悠人はますます怒りをあらわにし、容赦なく沙羅を突き飛ばした。
「なんでだよ!なんでこんな不公平なんだ!お前の母親みたいな女が回復してきて、俺の母さんの腎臓はもう使えない。お前が身代わりになろうなんて、おこがましいんだよ。これはお前の母親が俺の母さんに借りた恩を返すだけだ!」
「悠人、お願い、お願いだからやめて!私、何だってするから!」
悠人は、床に崩れ落ちて必死に頼み込む沙羅を見下ろしていた。一瞬、彼女に手を差し伸べそうになった――だが、その手は宙で固まり、すぐに引っ込められた。
――そんなはずがない。自分がこの女を、まだ哀れんだりするわけがない。あいつとその母親が現れたせいで、自分の家族はこんなにめちゃくちゃになったんだ。
「夢でも見てろ。俺は一生、お前たち母娘を許すつもりはない」
希望が絶たれた沙羅は、今度は紗希に縋った。
「紗希……お願い、昔のよしみで助けて。私の腎臓でも同じはずでしょ?」
紗希は一瞬だけ心が揺らいだものの、顔を背けて答える。
「誰に頼んだって無駄よ。うちの家族があんたたちを信じたから、こうなったの。もう、二度と信じたりしない」
そう言うと、悠人は部下を呼び、沙羅の母を手術室へと運ばせた。
沙羅が止めようと駆け寄った瞬間、複数の警備員に取り押さえられ、床に押し倒される。
いくら叫んでも、どれだけ泣き叫んでも、母は無情にも手術室へと運ばれていった。
手術室の明かりが灯る。沙羅にとって、その一分一秒が永遠にも思えた。彼女は空に向かって、何度も祈った。どうか、母が無事でいてくれますように――と。
数時間後、悠人の母が最初に手術室から運び出された。手術は成功だと医師が告げる。
それを聞いた悠人と紗希は喜びを隠せなかった。
「でも……もう一人の患者さんは……」
沙羅は食い入るように医師の腕を掴んだ。「お母さんは?お母さんはどうなったんですか?」
医師は深くため息をつき、静かに首を振った。「手術中に大量出血してしまい、残念ですが……お母様は助かりませんでした」
その瞬間、沙羅の世界が音を立てて崩れていった。全身の力が抜けて、その場に崩れ落ちる。
母と一緒に、ここまでどんなに頑張ってきたか。あとたった半月で、新しい人生を始められるはずだったのに――どうして、こんな結末になるの?
しばらくして、白い布で覆われた母の遺体が廊下に運び出される。沙羅はついにこらえきれず、母の冷たい体を抱きしめて、声をあげて泣き続けた。
涙が止まらず、母の服は濡れていく。
その泣き声は、廊下に響くほど、悲しく、絶望的だった。
そんな中、玲奈が場違いなほど冷ややかに現れ、薄く笑いながら言った。「かわいそうに。でも、誰のせいか分かる?もしあんたがもっと早くいなくなっていれば、あんたのお母さんだって死なずに済んだかもしれないのにね」
第7話
沙羅は顔を上げ、泣き腫らした瞳に憎しみを滲ませた。
彼女は世界を、すべての人を心の底から憎んでいた。
「玲奈お姉ちゃん、この人こわい。化け物みたい」峻は震え上がって玲奈の背中に隠れる。
沙羅はここでようやく峻の存在に気づき、息子を見るとその目はやさしさで満ちる。「峻、あのね……外にいるのはおばあちゃん……」
手を差し伸べて抱きしめようとするが、峻は素早く身を引いた。
「こっち来ないで、この悪い女!」そう言うと、手にしたおもちゃの車を沙羅に投げつけた。
玲奈が峻をかばいながら、勝ち誇ったように言う。「聞こえなかったの?峻はあんたが大嫌いなんだって。近づかないでって」
沙羅は息子が自分をここまで拒絶していることが信じられなかった。
「峻、私は君のママよ。そこに寝ているのは君のおばあちゃんだよ。今、君は――私にとって、たったひとりの家族なの」
峻は全身で拒絶し、泣き出した。
「僕、あなたの子じゃない!玲奈お姉ちゃんがいい!おばあちゃんなんて知らない、もう死んじゃった人なんでしょ?怖いから、離してよ……」
その泣き声は病院中に響き、周囲の視線が集まる。
沙羅の心は、鋭い刃で何度も切り裂かれるような痛みに襲われた。
最後はただ、玲奈に連れられて峻が廊下の向こうへと消えていくのを、立ち尽くして見送るしかなかった。
母を失い、息子にも拒絶された沙羅には、もうこの場所に未練はなかった。
彼女は母の葬儀を終え、ひっそりと荷物をまとめて身の振り方を考えはじめる。そんなある日、楠本家の他の家政婦がこんな噂をしているのを耳にする。「奥様は、手術の後すっかり体調が良くなって、もうすぐ目を覚ますかもしれないんですって」
沙羅の胸に、最後の希望の灯がともる。もし悠人の母が目を覚ませば、きっと自分の母の無実を証明できるはずだ。
彼女は期待を胸に病院へ駆け込む。しかし、ベッドに横たわる悠人の母は、いつも通り静かに眠り続けていた。
そのとき、突然ドアがロックされ、玲奈が部屋に現れる。
「なんでここに?」
「あんたを待ってたのよ。お母さんも死んだのに、まだ楠本家にしがみつくつもり?」
「あなたに関係ない」
「いいえ、邪魔なの。あんたがいると困るのよ」
玲奈の不穏な笑みに、沙羅は直感的に危険を感じる。
すぐに逃げようとするが遅かった。玲奈は悠人の母の酸素マスクを外し、次の瞬間、悠人がドアを蹴破って飛び込んできた。
玲奈は表情を一転させ、可哀想なふりをして叫ぶ。「悠人、やっと来てくれたのね!早くお医者さん呼んで!私がしっかり見てなかったせいで、沙羅が……おばさんの酸素マスクを外したの……!」
沙羅は必死で首を振り、声を震わせて叫ぶ。「違う!私じゃない!本当に私じゃない…」
だが悠人は、沙羅に弁明する隙も与えず、すぐに医者を呼ぶ。
血走った目で沙羅を睨み、その瞳には憎しみと、どこか深い失望の色が混ざっていた。
「お前ってやつは……!本当に、母さんを殺す気なのか!」悠人は怒りに震え、思わず沙羅の首を強く掴む。
「どうして玲奈が母さんを害そうとするんだ!母さんと彼女には何の恨みもないはずだろう!」
沙羅は必死に首を振りながら涙声で訴える。「違うの、私じゃない!玲奈が、彼女がやったのよ!」
悠人は感情を抑えきれず、思わず叫び声をあげた。「昨日、俺は願ったんだ。もし母さんが目を覚ましてくれたら……」
その声は次第にかすれ、言葉は途中で詰まる。
痛恨の表情のまま、悠人は力いっぱい沙羅を突き飛ばす。
息もできずに沙羅は床にうずくまる。
――もう、昔の優しかった悠人はいない。何をどう説明しても、彼はもう自分の言葉を一切信じてはくれない。
沙羅の頬に、絶望の涙が一粒、静かに流れる。
悠人は歯を食いしばり、声を荒げて怒鳴った。「母さんが危機を乗り越えるまで、地下室に閉じ込めておけ!それまで誰も沙羅に食事も水も与えるな!放っておけ!」
第8話
地下室は四方を分厚い壁で囲まれ、古い電球がチカチカと頼りなく光っている。窓すら一つもない。
沙羅は恐怖に怯えながら、膝を抱えて隅にうずくまっていた。
自然と、幼い頃の記憶がよみがえる。あのとき、父が亡くなった直後、伯父が土地を奪うために、母と自分を檻に閉じ込め、四方には狂暴な番犬を放った。
犬たちの吠え声が三日三晩も続き、それ以来、暗闇や閉じ込められる場所にはどうしても強い恐怖を感じるようになった。
どれだけ時間が経ったのか、沙羅にはわからなかった。水も食事も与えられず、もう身体を動かす力さえ残っていない。
ようやく扉が開き、沙羅は力を振り絞って立ち上がる。入ってきたのは、またしても玲奈だった。
「まだ立てるなんて、たいした根性ね。前にも言ったでしょ、さっさと出ていけばよかったのに。どうしてあんたは人の言うこと聞けないの?こうなったのは全部自業自得よ」
沙羅は、血の気を失った唇をわずかに歪めて言った。「……私、いずれ出ていく。でも、私がいなくなったって、悠人はあなたと結婚するかしら?彼はあなたを愛していない!」
「彼が私を愛してない?じゃあ、あんたを愛してるって言うの?」玲奈は陰湿な微笑みを浮かべた。
「少なくとも悠人は、私の言うことだけはちゃんと聞いてくれる。知らなかった?
あんたの母親の腎臓を移植するって最初に言ったの、私なのよ。
ほら、悠人はあんたの母親がどうなろうが全然気にしなかったでしょ?むしろよかったじゃない、あんな女、もっと早く死ねばよかったのよ」
鋭い嘲笑が沙羅の耳を突き刺す。
「あなたの仕業だったのね!お母さんを殺したのは……!」
沙羅の腕は怒りで血管が浮き上がり、最後の力を振り絞って玲奈に飛びかかろうとした。
だがその瞬間、悠人が現れ、沙羅を乱暴に突き飛ばして玲奈の前に立ちはだかる。
「沙羅、お前は最後まで反省する気がないのか!」
玲奈は、すぐに泣き落としの芝居に切り替える。「悠人、私が悪いの。もっと沙羅を説得できればよかったのに。彼女、ここから出たら、またおばさんに復讐するって……どうしたらいいの?」
悠人は冷たく答える。「だったら、出さなければいい」
沙羅が何か言おうとした瞬間、悠人は無言で背後のドアを開け、三頭の大型犬を引き連れてきた。
どの犬も体高が人の腰ほどあり、牙をむき出しにして唸っている。
沙羅は恐怖でその場に崩れ落ち、血の気が一気に引いていく。
「最後まで反省する気がないなら、こいつらと一緒に反省してろ」
悠人は、沙羅がなにより大型犬を恐れていることを知っていながら、こうして罰を与えたのだった。
沙羅は犬たちの目を見つめながら、全身を震わせて泣き叫ぶ。
「悠人、お願い、本当に私はやってないの。お願いだから、許して……こんなところに閉じ込めないで!このままだと、私、死んじゃう……!」
悠人の顔に一瞬だけためらいが浮かぶ――しかしすぐに氷のような表情に戻る。
「これくらいで弱音をあげるのか?だったら、どうして俺の母さんを傷つけたんだよ?悪いことをしたら、その分罰を受けるのが当たり前だろ。ここでじっくり反省してろ」
そう言い捨てて、悠人は玲奈を連れて出ていく。
犬たちは沙羅の周囲を囲み、鋭い牙で何度も襲いかかる。
腕も、脚も、何度も何度も噛みつかれ、肌をえぐられるような激痛に何度も気を失いかける。
涙と血で視界がぼやけるなか、沙羅は心の底で思った。
――悠人、あなたは本当に、私に死んでほしいの?私が死ねば、そんなに嬉しいの……?
絶望の叫びは一時間近くも続いた。
やがて、どうしても見過ごせなくなった執事が扉の前にやってきた。
目に飛び込んできたのは、血にまみれた床と、その真ん中でぐったりと横たわる沙羅の小さな体だった。
執事は慌てて犬を追い払い、顔色を変えてリビングまで駆けていく。
「坊っちゃん、大変です!沙羅さんが……」
言いかけたところで、悠人の携帯が鳴った。病院からの電話だった。
悠人は受話器を取るなり、立ち上がる。
「なに……!?母さんが目を覚ました?……わかった、すぐに行く!」
慌てて玄関へ向かう悠人に、執事は必死で声をかける。
「沙羅が……」
悠人は眉をひそめ、不機嫌そうに答える。
「彼女がどうしたっていうんだ?まさか死んでるわけじゃないだろう?しばらく地下室に閉じ込めておけ!帰ってからしてくれ」