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星は私のために輝かなかった
「慶真、離婚しよう。 財産の分与については、全部この契約書に書いてあるから、目を通して……」 言い終わる前に、御堂慶真(みどうけいま)...
Chương (1)
第1章
「慶真、離婚しよう。
財産の分与については、全部この契約書に書いてあるから、目を通して……」
言い終わる前に、御堂慶真(みどうけいま)が小さく舌打ちした。
視線を上げると、綾瀬菫花(あやせすみか)が契約書を差し出していた。
彼は薄く目を開けたが、内容など見ることもなく、無造作にペンを取りサインを走らせた。
「今度から仕事の契約書は、わざわざ持ってこなくていい。書斎の机に置いといて。
静かにしてくれ。まだ電話が残ってる」
そう言って、ペンを元の引き出しに戻すと、うるさそうに眉をしかめながらバルコニーへ向かった。
白川研香(しらかわけんか)の声を、また聞き逃したくなかったのだ。
菫花は、離婚届に乱れた筆跡で書かれた彼の名前を見つめた。
そして、そのまま彼の背中を見送りながら、目尻が少しだけ熱を帯びる。
けれど同時に、滑稽さすら感じていた。
八年も続いた関係の終わりに、慶真はただ、元恋人との通話に夢中で、彼女の声すらまともに耳に入っていなかった。
菫花はスマートフォンを取り上げ、淡々と告げる。
「由井さん、賀川グループの訴訟案件、うちで引き継ぐわ。資料を私のメールに送って。それから先方と契約内容を詰めておいて」
賀川グループとの手続きがすべて完了すれば——
彼女はようやく、本当にこの場所から離れられるのだった。
第1話
綾瀬菫花(あやせすみか)は苦笑いを浮かべながら口元を引き締め、引き出しから一枚の書類を取り出し、御堂慶真(みどうけいま)の前に差し出した。
「慶真、離婚しよう。
財産の分与については、全部この契約書に書いてあるから、目を通して……」
言い終わる前に、御堂慶真(みどうけいま)が小さく舌打ちした。
視線を上げると、菫花が契約書を差し出していた。
彼は薄く目を開けたが、内容など見ることもなく、無造作にペンを取りサインを走らせた。
「今度から仕事の契約書は、わざわざ持ってこなくていい。書斎の机に置いといて。
静かにしてくれ。まだ電話が残ってる」
そう言って、ペンを元の引き出しに戻すと、うるさそうに眉をしかめながらバルコニーへ向かった。
白川研香(しらかわけんか)の声を、また聞き逃したくなかったのだ。
菫花は、離婚届に乱れた筆跡で書かれた彼の名前を見つめた。
そして、そのまま彼の背中を見送りながら、目尻が少しだけ熱を帯びる。
けれど同時に、滑稽さすら感じていた。
八年も続いた関係の終わりに、慶真はただ、元恋人との通話に夢中で、彼女の声すらまともに耳に入っていなかった。
菫花はスマートフォンを取り上げ、淡々と告げる。
「由井さん、賀川グループの訴訟案件、うちで引き継ぐわ。資料を私のメールに送って。それから先方と契約内容を詰めておいて」
賀川グループとの手続きがすべて完了すれば——
彼女はようやく、本当にこの場所から離れられるのだった。
……
由井嵐(ゆいらん)は思わず眉をひそめた。
菫花といえば家庭を何よりも大切にするタイプで、つい最近までは妊娠を理由にすべての案件を降りたばかりだった。
そんな彼女が、いきなり大型の案件を引き受けるなんて——
「綾瀬さん、本当に大丈夫なの?この訴訟、少なくとも四〜五年はかかるし、賀川グループの海外拠点にも同行する必要があるって聞いたけど。それに、まだ妊娠中じゃなかった?
御堂さんが、そんな無理させていいって言うわけ——」
菫花の声は、静かで冷ややかだった。
「子どもはいなくなった。離婚もした」
その一言に、嵐は椅子から転げ落ちそうになった。
「は、はぁっ!?ちょ、ちょっと待って!だって御堂さん、数日前に私に『女の子が喜ぶサプライズって何?』って真剣に聞いてきたのよ?ブルーの花火だの、深夜のドライブだの……あれ全部——」
菫花は口角をゆるめたが、それは笑みというより、どこか皮肉めいた表情だった。
喉の奥にこみ上げるものを必死に飲み込み、声色だけは淡々と保った。
「白川研香……彼女が帰ってきたのよ。
そのサプライズは、彼女の帰国祝いだったの」
慶真が電話を終えて戻る頃には、菫花はすでに電話を切り、離婚届を投函して帰ってきていた。
ちらりと彼女に視線をやりながら、慶真は水を一口飲んで喉の乾きを癒やした。
疲れの色を浮かべながらも、その目にはどこか浮き足立ったような興奮が見えた。
スマホでメッセージを送りながら、片手で彼女の髪を何気なく撫でた。
めずらしく、彼の注意が少しだけ菫花に向けられていた。
「こんな時間まで、何してたんだ?」
強い香水の匂いが菫花の鼻腔を突いたが、彼女は表情ひとつ変えず、そっと眉をひそめただけだった。
「仕事よ」
しばらくして、慶真は何かを思い出したように顔を上げ、テーブルの方を指さした。
「ああ、そうだ。夜食買ってきたよ。お前の好きな餃子、あったかいうちに食べな」
菫花はようやくテーブルの上の餃子を認識した。
それは大学の通学路にあった、彼女が一番好きだった餃子屋のものだった。
もしこれが昔だったなら——
夜中の三時まで働いて、それでも彼女のために好きなものを買って帰る慶真の姿に、彼女はきっと涙しただろう。
だが今はただ、吐き気がこみ上げるだけだった。
昔はわからなかった。でも今ならわかる。
これは、研香のために盛大な帰国パーティーをした後の、罪滅ぼしのつもりなのだ。
彼にとって最も安上がりな愛のつもりで。
菫花は皮肉げに口元をゆがめた。
ちょうどその時、慶真のスマホが鳴った。
彼はすぐさま反応し、数回返事をしたあと、急に立ち上がって菫花の腕を掴み、強引にバルコニーへと押し出した。
「研香が友達を連れて来るんだけど、ちょっと面倒な連中でさ。誤解されたくないし、しばらく隠れててくれる?」
その言葉が終わるとほぼ同時に、インターホンが鳴った。
慶真はすぐに踵を返し、バルコニーのドアに鍵をかけた。
毛糸の薄手のセーター一枚、流産からまだ一週間も経っていない彼女を、十二月の冷たい風が吹き込むバルコニーに、閉じ込めたまま——
慶真は笑顔で扉を開き、研香と大学時代の仲間たちを家の中へ迎え入れた。
「見学していい?」という友人の言葉に、彼が返事をするより早く、研香が「私が案内する」と言って部屋中を歩き回った。
トイレすら、見逃さずに。
「うわ〜、これはもう復縁コース入ってるでしょ?」
「帰国して即、同棲か〜。慶真って意外とマメじゃん。空港降りた瞬間に連れ込んだんじゃね?」
「寝室どこ?見せてよ〜」と、軽口を叩く友人たち。
研香は頬を赤らめ、慶真は照れくさそうに笑いながら口を開こうとした——そのとき。
ガタンッ!
突然、バルコニーから物音がした。
ひとりの友人が顔を向け、小声で言った。
「今の音、なに?」
第2話
慶真はようやく、菫花がまだバルコニーにいることを思い出した。
顔の笑みをさっと消し、首を横に振って言った。
「風が強いから、きっと植木鉢が倒れたんだろ。
そんなことより、話を戻そう」
冷たい風が菫花のセーターの隙間から肌を刺すように吹き込み、十二月の夜気は骨の芯まで冷えた。
彼女は黙って、外から聞こえる楽しげな笑い声をただ聞いていた。
苦味が胸の奥からじわじわと広がっていく。
足元には、サイズが合わずに落ちた御堂家特注のブレスレットが転がっている。
その光景が、なぜか「これが結末だったんだ」と言われている気がした。
幼なじみは、運命の再会には勝てない。
それがきっと、彼らの関係を最も的確に表す言葉だった。
菫花と慶真は、物心ついた頃からずっと一緒に育ってきた。
幼稚園の頃から、いつも彼の後ろを歩き、彼の優しさに守られてきた。
季節を何度も越え、同じ学校を通って、大学まで同じ道を歩んできた。
慶真は、彼女にとって特別な存在だった。
火災が起きたとき、彼はためらうことなく菫花を背負って逃げ出し、自らは背中に大火傷を負って一生消えない傷を残した。
不良に絡まれた時には、ひとりでレンガを持って駆けつけ、彼女を庇って前に立ちふさがり、自分は骨折して三か月も松葉杖生活を送った。
彼女が喘息を持っていることを知ってからは、常に薬を持ち歩き、授業の合間ごとに彼女の教室の前を通り、水をくんで机に置いてくれた。
そんな彼の優しさに、菫花が恋をしたのは当然の流れだった。
慶真は彼女に本当に優しくて、周囲の友人からは「もう嫁さん扱いだな」とからかわれるほどだったが、彼はそれを否定せず、菫花の頭を撫でて「面倒見させてくれるなら、いくらでも」と微笑んでいた。
誰かが「菫花さんの連絡先を教えて」と言おうものなら、即座に怒ってその友人と絶交し、帰って菫花のスマホを取り上げ、怪しい連絡がないか確認するような人だった。
その目に映る独占欲と甘やかしに、彼女は「彼も少しは私を想ってくれているのかも」と信じてしまった。
だから、十八歳の誕生日——
毎年ふたりだけで祝うその時間に、菫花は願い事を口実に想いを告白した。
だが返ってきたのは、「ごめん、好きな人がいるんだ」という一言と、逃げるように去る彼の後ろ姿だった。
それがただの断り文句だと信じていたが、大学に入ってすぐ——
慶真は本当に恋をしていた。
相手は学園のマドンナ、白川研香。
イケメンと美女の恋はたちまち話題になり、まるでドラマのようにキャンパス中の憧れとなった。
ふたりは順調に交際を重ね、大学三年のとき、慶真は持ち金すべてを使って、研香にサプライズの公開プロポーズを行った。
彼女は感動して涙ながらに彼に抱きつき、周囲には拍手と祝福の嵐。
ただひとり、菫花だけが、誰にも気づかれないようにそっと涙を流していた。
そして彼女は、ようやく気持ちに区切りをつけてただの幼なじみへ戻ろうとしていた。
その矢先、研香が突然、理由も告げずに留学してしまった。
何の連絡も残さず消えた彼女に、当時まだ御堂家の私生児だった慶真には、探す手立ても権限もなかった。
彼がどれほど沈んでいたか、菫花はそばで見ていた。
彼が沈むだけ、彼女は寄り添い続けた。
そしてある日、慶真はこう聞いてきた。
「まだ、俺のこと、好きか?
もしよかったら、試してみないか?」
三年の交際、五年の結婚生活——
彼女はすべてを捧げてきた。
彼が少しずつ研香を忘れ、彼女との時間を増やし、やっと自分を見てくれるようになってきた、そう思っていた。
だが、そのとき。
研香が、帰ってきたのだ。
菫花はちょうど妊娠が確定し、彼に伝えるために温かい料理を持って、慶真の会社へ向かっていた。
だが、信号無視の車に跳ね飛ばされ、冷たいアスファルトに叩きつけられた。
ぼやけた視界の中、必死に目を開けた彼女が見たのは——
車から降りた慶真の姿だった。
彼は血だまりの中にいる彼女を一瞥したあと、不機嫌そうに顔をしかめ、運転手に処理を任せてそのまま車に戻った。
彼女は必死に名前を呼んだ。自分がここにいると気づいてほしかった。
でも声は届かず、排気ガスの中に、彼の車は去っていった。
目が覚めたとき、彼女は病院のベッドにいた。
そして、赤ん坊はもういなかった。
彼女は震える指で、何度も彼に電話をかけた。
だが、どれも出ることはなかった。
きっと忙しいだけ……
悪気があったわけじゃない……
そう自分を励ましていた時、ふとテレビがついた。
ニュース映像には、会議を中断して空港まで爆走し、十数キロ先の国際ターミナルで初恋の彼女を出迎える慶真の姿が映し出されていた。
その瞬間、菫花はもう、自分に嘘をつけなくなった。
慶真は、最初から彼女を愛してなどいなかった。
彼にとって菫花は、ただの代わりだったのだ。
慶真が帰宅したのは、それから一週間後。
菫花は退院したばかりで、顔色も悪く、唇は白んでいた。
けれど彼の目には、ただ「研香を取り戻せた」という高揚だけがあって、彼女の姿を見るなりその光はすっと消え、代わりにかすかな罪悪感だけが残った。
そして、その日。
慶真は研香を家に連れてきた。
あちこちに持ち家があるくせに、「帰国したばかりで、家探しが大変なんだって」なんて——誰がどう見ても見え透いた言い訳だった。そのとき菫花はようやくすべてを悟った。
最初から、自分の居場所などなかったのだと。
彼女は腕を抱きしめ、冷たい風に晒されながら、体が熱を持つほど寒さに耐えていた。
外の部屋からは、笑い声が続いている。
流産直後の体に、二時間も冷風を浴びせられた彼女の体は、ついに限界を超えた。
そして菫花は、ゆっくりと意識を失っていった。
第3話
再び意識を取り戻したとき、慶真はベッドの傍に座っていた。
彼女が目を開けた瞬間、彼は慌てて電子体温計を額にかざした。
「まだ熱があるな……つらくないか?
最近、体弱くなったよな。ちょっと風に当たっただけで高熱か……今度、ちゃんと検査しに行こう」
そう言いながら、慎重に薬を口に運び終えると、慶真はタオルを手に浴室へ向かった。
戻ってきたとき、彼の手には使用済みの妊娠検査薬が握られていた。
声にはかすかな緊張が滲んでいた。
「菫花、これ……妊娠してるのか?」
菫花は、ぼんやりと視線をその薄く色づいた検査薬に向けた。
それは本来、彼に伝える嬉しいサプライズになるはずだったもの。
まさか一週間後、こういう形で見つかるとは思いもよらなかった。
肝心の子どもは、もうこの世にいないというのに。
彼女は視線を落とし、苦味を胸の奥に押し込めながら、淡々と答えた。
「違う」
この子のことは、もう口に出すつもりはなかった。
すでに離婚も決まり、ここから出ていくのだから、波風を立てる必要もない。
菫花の疲れた様子を見て、それ以上追及することなく、慶真は黙って検査薬をゴミ箱へ捨てた。
そしてもう一度タオルを取ろうとしたその瞬間——ポケットのスマホが鳴った。
「慶真さん〜、やっと仕事終わった〜。タクシー捕まらなくて〜、迎えに来てくれない?」
研香の、どこか甘えた声が受話口から聞こえる。
慶真は無意識に口元を緩めた。
「場所送って。すぐ行く」
通話を終えると、彼はソファの上のコートを手に取り、すぐに出かけようとした。
そのとき、ふと視界の端に菫花が映る。
じっとこちらを見つめている彼女の視線に気づき、「嫉妬か」と勝手に思い込んだ彼は、優しく言い訳をするように声をかけた。
「研香は帰国したばかりで、土地勘もないし、夜遅くて危ないだろ?すぐ戻るから。
まだ熱があるんだし、ちゃんと休めよ。もしまた熱出たら、すぐ家庭医を呼んで」
そう言い残し、菫花の反応も見ずにコートを羽織り、急ぎ足で部屋を出て行った。
慶真の行動は早かった。
わずか三十分後には、研香を連れて戻ってきた。
両手には紙袋、彼女の肩には自分のコート。
その後も、慶真はすぐに外出した。
そして戻ってきたとき、研香はキッチンからエプロン姿でスープを運んできていた。
「慶真さん、ご飯にしよ?菫花も呼んであげて。彼女がオーダーしてた料理、今日は全部そろってるよ〜」
彼女がスープをテーブルに置いた瞬間、慶真はすぐに駆け寄って、彼女の手首を取った。
手の甲には、熱湯で火傷した真っ赤な水ぶくれができていた。
「大丈夫だよ、こんなの全然……」
研香の言葉をさえぎるように、慶真は無言で彼女を連れてキッチンへ行き、冷水で患部を冷やす。
そのままリビングのソファへ座らせ、寝室から救急箱を取り出し、慎重に軟膏を塗り始めた。
ちょうどその頃。
菫花がふらふらと寝室から出てきた。
慶真は彼女を一瞥もしなかった。
研香の手当てが終わった頃、ようやく彼女の方へ視線を向けた。
「菫花、研香はあんたの家政婦じゃないんだぞ。
料理なんか頼む立場じゃないって、わかってるよな?
火傷したんだよ。彼女は医者なんだ、手を怪我するなんて致命的だってわかってるのか?」
慶真の目はまっすぐに彼女を見つめていた。
言い訳を待っているのだ。
だが、菫花は高熱で意識もぼんやりしており、本来は腹痛で何か食べようとしただけだった。
そのうえ、身に覚えのない非難を浴びせられ、彼女の顔にも怒気がにじむ。
「二日も熱があって、昨日から意識も曖昧……私に誰かに何か頼む余裕があったと思う?
慶真、ちゃんと確認してから責めてよ」
空腹で痛んでいた胃も、もはや食欲など吹き飛んでいた。
怒鳴る気力もなく、彼女は無表情のまま、言葉を失った研香を一瞥し、胃を押さえながらゆっくりと寝室へ戻っていった。
ベッドに横たわった瞬間、スマホが鳴った。
着信相手は、賀川グループだった。
「綾瀬様、契約書一式が締結されましたので、賀川社長のご意向で、来週中に入社・ビザ手続きを完了のうえ、今月末には弊社の法務チームと一緒に出国という流れになります。ご都合はいかがでしょうか?」
冷静なオペレーターの声に、菫花は端正な口調で応じた。
「問題ありません。こちらはいつでも出発できます」
一通りやり取りを済ませ、電話を切ろうとしたとき——
いつからそこにいたのか、慶真が寝室のドア口に立っていた。
じっと彼女を見つめ、低く問いかけた。
「どこに出発するつもりだ?また案件受けたのか?」
第4話
菫花は、興味なさそうに「うん」と返事をし、電話を切ったあと、そのままベッドに体を横たえた。
さっき、彼に言おうとしていた謝罪の言葉は、もう胸の奥でしこりとなって固まってしまっていた。
彼女の冷淡な態度に、慶真は言葉を詰まらせた。
翌朝。
菫花は、鼻をつく焦げ臭さに目を覚ました。
火事かと思って飛び起き、煙の出どころを辿って裏庭へ向かうと、目に飛び込んできたのは——
彼女が丹精込めて育ててきた花畑が、無残にも掘り返され、次々と焼かれていく光景だった。
「何をしているの?」
怒りを抑えきれず、彼女の声は冷たく響いた。
「誰が、私の花畑を触っていいって言ったの?」
作業していた使用人たちは、一斉に手を止め、怯えた表情で固まった。
だが、花々はもうすでに燃え尽きかけていた。止めても意味がない。
そのとき、傍らで椅子に腰かけていた研香が、微笑みを浮かべながら口を開いた。
「ごめんね菫花、この花畑は慶真さんが私のために焼いたの。
私、お医者さんだから、朝うっかりバラの棘で指を切っちゃって……慶真さん、職業的に手の怪我はまずいってすごく気にしてくれて。
だから、全部掘り返して、ラベンダーに植え替えるって。香りは同じように楽しめるから、安心してね。
ねえ、菫花、怒ってないよね?」
菫花はようやく、彼女の笑顔に気づいた。
まるで、それが彼女の目的だったような顔だった。
心の奥に嫌悪がじわじわと広がっていくのを感じながらも、菫花は口角を上げ、笑みを作った。
「怒るわけないわ。あなたたちが楽しければ、それでいいの」
この花畑は、かつて慶真が彼女に贈ったものだった。
でも、今や花も家も、彼の心すらも、すでに彼女のものではない。
ならば、もうどうでもよかった。
菫花は踵を返し、部屋へ戻ると、淡々と荷造りを始めた。
結婚して五年、家の隅々まで彼女の物が浸透していた。
荷造りは簡単ではなかった。
彼女は潔く、捨てるという選択をした。
婚約写真、ウェディング写真、ペアグッズ——彼女にまつわるすべてを、大きな箱に詰め込んでいった。
高熱がようやく引いたばかりの体に無理をさせ、休憩を挟みながら、五時間かけてようやく半分を終えた。
休もうとベッドに腰を下ろしたとき、ふと、サイドテーブルの上に置かれた木彫りが目に入った。
それは、慶真が特別に手に入れてくれたものだった。
結婚して間もない頃、町で流感が大流行し、体の弱い菫花は最初に感染。
重症化して肺炎になり、ICUに搬送され、生死をさまよった。
その夜、現実主義者だった慶真は、なりふり構わず寺院へと向かい——
ご利益があると言われるその木彫りをもらい受けてきたのだった。
彼女はその後、奇跡的に回復した。
慶真は約束通り、三年間、肉も魚も断って感謝を捧げ続けた。
あのとき、彼の愛は本物だったと、そう信じていた。
木彫りは、彼の愛の証のように思えて、毎晩寝る前に拭き上げ、視界に入る位置に置かなければ安心できなかった。
菫花は、その木彫りをじっと見つめたあと、ふっと笑い、箱の中へと放り込んだ。
思い出も過去も、もういらない。
彼女は、庭に二つの大きな箱を引きずり出し、燃え残った花の焚き火から一本の燃える枝を拾い上げた。
迷いもなく、箱に放り込む。
乾いた紙や布が炎に包まれるまで、ほんの数秒だった。
菫花はその傍に立ち尽くし、ただ黙って、燃え上がる炎の中に、自分と慶真の五年間すべてを見送っていた。
すべてが、跡形もなく、燃えていった。
帰宅した慶真は、玄関先の煙にむせた。
そのとき、研香が階段を降りてきて、申し訳なさそうな表情を浮かべながら言った。
「ごめんね、慶真さん……たぶん、朝あなたが私のために花畑を燃やしたせいで、菫花が怒って……いろんなものを燃やしちゃったみたい。
私、やっぱり出て行ったほうがいいかな?」
慶真は眉を寄せ、すぐに裏庭へ視線を向けた。
炎の前に立ち、じっとそれを見つめる菫花の横顔を見て、胸騒ぎがした。
研香に声をかける暇もなく、彼は火のそばに駆け寄り、まだ焼け残っていた箱の中を覗き込んだ。
そこには、あの木彫りが、黒く焦げて転がっていた。
慶真の目が見開かれた。
「菫花!お前、なんで木彫りなんか燃やすんだよ!
そんな大事にしてたのに、どうして!」
火傷するのも構わず手を伸ばし、木彫りを拾い上げた。
指先は真っ赤に腫れたが、それでもかまわず、彼はそれを必死に払っていた。
表面に焦げ跡がついた程度と分かると、ようやく安堵の息を吐いた。
菫花は、彼のその取り乱しようを理解できず、冷ややかな笑みを浮かべた。
「そんなに大事だったんだ?
でも、ただの古い飾り物でしょ?もう必要ないし、捨てただけ。何がそんなに悪いの?」
「……!」
慶真は絶句した。
あの木彫りを五年間、大事にしていた彼女が、どうしてこんな言い方を——
言葉を飲み込んだその隙に、菫花はすっと背を向け、彼の反応すら残さず部屋へと戻っていった。
部屋に戻ると、スマホに新着メッセージが届いていた。
賀川グループから、ビザ申請の準備完了の連絡だった。
彼女はすぐにサイドボードの下から必要な書類を引っ張り出し、ベッドの上に並べた。
スマホを高く持ち上げ、正面と裏面の写真を撮って、会社宛に送信した——
そのとき、部屋のドア口から声がした。
「何してる?その写真、どこに行くつもりなんだ?」
第5話
まだ証明書の整理も終わっていないうちに、いつの間にか慶真がドア口に立っていた。
その目はじっと菫花を見つめ、どこか焦りを含んでいた。
菫花は平然とした表情で彼を一瞥し、話題をすり替えるように言った。
「いくつか期限切れだったから、更新の準備してるだけ。何か用?」
いつからだろう。彼が話しかけてくる時は、必ず何か用事があるときになったのは。
慶真は眉をひそめ、彼女のその淡々とした態度に不満をにじませながら告げた。
「明日、母さんの誕生日なんだ。六十の節目で、ちょっと盛大にやるから、予定あけて、一緒に来てくれ。
ちゃんとドレスアップしてくれよ」
菫花は軽く頷いて、了解の意を示した。
だが、慶真はその場を離れなかった。
ポケットから、小さな四角い箱を取り出して言った。
「それから——あのブレスレット、修理してもらったんだ。待ちきれないだろうと思って、今つけてやろうと思って」
そう言って彼女の手を取ろうとしたが、指先が手首に触れた瞬間、菫花は自然な動きでその手を引いた。
「いいわ。私のものじゃないし、もうつけなくていい」
「何言ってんだよ。これは結婚したときに、俺が特注したやつだぞ?お前以外の誰がつけるっていうんだ?」
慶真の腕は空中で止まり、声もどこか冷たくなった。
「一体、どういうつもりなんだ?」
彼女の冷めた態度が、ここ数日ずっと胸に引っかかっている。
何が起きているのか、彼にはまったく見当がつかない。
「サイズも合わないし……高価すぎるしね。私が壊したらもったいないでしょ。
あなたの代わりに預かっておくね」
菫花は終始冷静だった。
ブレスレットを受け取り、証明書と一緒に引き出しへ仕舞った。
「他には?」
「……代わりにってなんだよ」と慶真は一瞬、眉を寄せかけたが、そのときリビングから研香の声が響いた。
「慶真さーん!」
慶真は何か言いかけたが、声に反応してそのまま出て行った。
数分後——
リビングから、再び彼女の名を呼ぶ声が何度も聞こえてきた。
やがて、使用人がドアをノックしてきて、菫花は渋々階下へ向かった。
階段を降りると、研香が二着のドレスを自分の体にあてがいながら、慶真の前でくるくると回っていた。
慶真はソファに腰を下ろし、優しい声で言う。
「似合ってるよ。どっちもいいな。
気に入ったほう、好きに選んで。全部、君たちのために用意したんだ。気に入ったなら、また取り寄せるよ」
菫花が姿を現すと、研香は嬉しそうに手を振った。
「菫花、どっちが似合うと思う?私、普段はずっと白衣か地味な格好ばかりで……こういうの慣れてなくて、明日の誕生日会、緊張してて」
「緊張しなくていい。君は母さんのかかりつけ医なんだから、君が行けばきっと喜ぶよ」
慶真はそう言ってうなずき、隣の菫花にも目を向けた。
「女性の方がこういうのに詳しいからな。菫花、ちょっと来て見てやってくれ。君のほうが詳しいだろ?一緒に選んでやってくれよ」
ふたりの視線が菫花に集中する。
だが——彼女の目には、わずかな揺れすらなかった。
「私、あまり詳しくないから。慶真に選んでもらえば?」
彼女は、夫とその初恋の女の曖昧な空気をわざわざ見届けるつもりはなかった。
ちょうど気分転換に外の空気を吸いに行こうとしたその時——
研香が、どこか弱々しく、そして無垢な声色でおずおずと口を開いた。
「菫花、私、もしかして邪魔してる?ドレス選んだこと、気に障ったかな?
もし、私が選ぶことであなたのものを奪ってるって感じたなら、ごめんなさい。よかったら、先に選んで……私、あとでもいいから。
もしかして、昨日のこと怒ってる?私、あなたが誤解された時、ちゃんと説明できなくて……あの時は、本当に言葉が出てこなかったの」
研香の理解ある配慮とおびえた態度に、慶真は瞬時に顔を曇らせた。
彼は足早に菫花に近づき、彼女の手首を強く掴んだ。
「菫花、君さ……一体何がしたいんだよ?!昨日の件は、俺が悪かったって言ってるだろ。だからって、研香に当たるなよ。空気を壊してまで、何を証明したいんだ?」
場の空気が一気に凍りついた。
菫花は、五年連れ添った夫が、自分ではなく他人の言葉を盲信し、無条件でかばう姿を見て笑った。
その顔には、怒りではなく、皮肉と呆れが浮かんでいた。
「私は、何か言ったかしら?
私、ドレスに詳しくないって言っただけ。事実でしょう?
忘れたの?私たちが結婚してから五年間、私のドレスはずっとあなたが選んでくれてたことを」
慶真は手を放さず、彼女が引こうとしても力を緩めなかった。
菫花がようやく手を引き抜いた時、手首にはくっきりと紅い痕が残っていた。
彼女は手を少しさすりながら、すぐにその感情を押し込め、表情を整えた。
「これでいい?もう行っても?」
誰の返事も待たず、彼女は背を向け、階段を上がった。
バタン。
扉の閉まる音が、居間に静かに響き渡った。
慶真は、その場に呆然と立ち尽くした。
空中に浮いたままの手が、行き場を失い、胸の奥がずしんと重く塞がっていく。
呼吸すら、苦しいと思った。
第6話
その夜——
慶真が寝室に戻ってきたとき、ベッドの端で眠っていた菫花をそっと腕に抱き寄せようとした。
だが、指先が触れた瞬間、彼女はぴくりと反応して目を覚ました。
「まだ熱があるから、あまり近づかないで。うつったら困るでしょ」
彼女は彼の手を半ば押し返し、毛布で顔の半分を隠した。
「お前がインフルにかかったとき、いつも看病してきたのは俺だぞ?今さらうつるって……今まで、どれだけお前の傍にいたと思ってるんだ?」
そう言いながらも、慶真は彼女を優しく抱き寄せ、額にそっと手を当てて熱を確認した。
「まだ少しあるな……横になってろ。アルコールで拭いてやるから」
毛布を整えた後、静かに部屋を出て、リビングから医療箱を取り出して戻ってきた。
彼は昔と同じように、冷たいアルコールで彼女の額や手首を何度も優しく拭った。
夜が更けていく中、何度も体温を確認し、ようやく熱が下がってきたのを見て、ようやく安堵の息をついた。
そして自分もベッドに横になり、彼女の冷たい手をそっと自分の掌に包み込んだ。
彼の呼吸が静かに落ち着いていくその横で、菫花のまつげが小さく震えた。
翌晩、慶真は彼女に外出の準備を促した。
菫花はいつも通りのゆったりとしたペースで車に向かい、助手席のドアに手を伸ばそうとしたその時——
背後から手が伸び、先にドアノブを押さえられた。
「菫花、ごめんね。私、ちょっと車酔いしちゃって。前に座ってもいい?
後ろだと気分悪くなるかも……皆でお祝いするのに、ぐったりしてたら台無しでしょ?」
研香の声は、柔らかくも遠慮がちに響いた。
菫花は黙って運転席の慶真を見た。
彼は無言のままだった。
彼女はわずかに口元を上げ、象徴的に頷いて後部座席に向かった。
車が走り出すと、彼女はすぐに目を閉じた。
昨夜の寝不足に加え、今朝からの書類整理で四時間もぶっ通しだった彼女のまぶたは、もう限界だった。
後部ミラーを何度も覗く慶真は、彼女の蒼白な顔色に胸がチクリと痛んだ。
彼女が体勢を変えて目を開けた瞬間、彼はすぐに問いかけた。
「大丈夫か?」
菫花は一瞬きょとんとし、すぐに首を横に振ってまた眠りについた。
助手席の研香は、何気ない表情でふたりの様子を見ていたが、ふと細い指をぎゅっと握りしめた。
それでも口元には、完璧な笑顔を浮かべたまま、大学時代の話題をふわりと持ち出した。
案の定、慶真の関心はそちらに向いた。
後ろを気にすることなく、彼は研香との会話に意識を預けた。
車で二時間——三人は目的の会場に到着した。
今年の誕生会は例年以上に盛大で、客数も多く、大学時代の顔見知りの何人かも親とともに姿を見せていた。
菫花がロビーの椅子で休んでいると、研香は「御母様に直接ご挨拶したい」と言い出し、慶真が付き添う形で人混みの中へ向かっていった。
彼は当然、研香の頼みを断ることはなかった。
ふたりがいなくなると、数人の知った顔の女性が彼女の近くを通り過ぎた。
興奮気味に話すその声が耳に飛び込んでくる。
「うそ、まだ繋がってたの?初恋ってやっぱり特別なんだね!」
「え、やば……今のピアノの音、めっちゃよくない?あれ、夢の結婚式じゃん?」
菫花が顔を上げると、ちょうど慶真と研香が並んでピアノを弾いている姿が目に入った。
優雅な姿勢、息の合った演奏、二人の間にある空気が、会場の空気すら変えていた。
「はぁ〜やっぱ慶真くんと研香さんってお似合いだよね〜」
「大学の時、研香さんが留学して、急に慶真くんがあの付き人の子と結婚したじゃん?あれ絶対、勢いだけだと思ってたのよね」
「でもほら、研香さんが戻ってきたら、もう慶真くんの目、ずっと彼女しか見てない。愛してるかどうかなんて、見ればわかるよね」
「時間の問題よ。あの奥さん、そろそろ終わりでしょ」
隣の女の子がこっそり指差した先には、菫花の姿があった。
だが、菫花は表情一つ動かさなかった。
むしろ、心の中でこう思った。
その通りよ。愛してないって、こんなにも分かりやすいものなのね。
そして、私たちはもう、離婚してるわ。
会場の視線が痛かった。
菫花は御母様に挨拶だけ済ませると、宴が始まる前にその場を離れた。
出口を出た瞬間、スマホで賀川グループに連絡を入れた。
「今から出社します。入社手続き、可能ですか?」
ちょうど18時。スケジュールは、ぴったりだった。
宴会場では——
ピアノの演奏を終えた慶真がふと振り返ると、菫花の姿がない。
「トイレかな?」
しかし十分、二十分、三十分経っても彼女は戻ってこなかった。
ようやく異変に気づいた慶真が周囲に尋ねると——
「え?菫花さん?さっき、もうお帰りになったはずですけど」
慶真はスマホを取り出し、LINEを開いた。
そこには既読のつかないメッセージだけが並んでいた。
何通も送ったが、返事はなかった。
「一体、何なんだよ」
苛立ちが頂点に達したその時、研香が近づいてきて、彼の腕にそっと手を添えた。
「慶真さん、ちょっと困ってて、助けてくれない?」
彼女の指が、慶真のスマホをさりげなく指し示す。
「何か急ぎ?」
慶真は一瞬、立ち止まった。だが次の瞬間、ふっと微笑んでスマホをポケットにしまった。
「大丈夫。今は君のほうが先だ」
その頃——
賀川グループに到着すると、すぐに入社手続きを済ませ、今後のスケジュールについての打ち合わせに入った。
時間が限られていたため、弁護士チームが揃っているうちに、事前に整理しておいた資料を印刷して渡した。
打ち合わせは思いのほか長引き、賀川グループを出たときには、すでに夜の10時を回っていた。
時間はすでに夜の十時を過ぎていた。
ようやくタクシーを拾い、自宅に戻ると——
ドアを開けた瞬間、そこには暗い顔をした慶真が立っていた。
「遅かったな。どこ行ってたんだ?」
彼は黙ってスマホを取り出し、一枚の写真をテーブルの上に滑らせた。
それは、彼女が賀川グループから出てきた瞬間を撮ったものだった。
「見たぞ。賀川グループにいたって、どういうことだ?」
彼の目は、真っ直ぐに彼女を射抜いていた。
第7話
空気が一瞬、凍りついたように静まり返る。
「友達と……仕事の話よ」
菫花は、まるで何も感じていないかのような口調で答えた。
「夜遅くまで待っててくれたの?何か用事?」
彼女はちらりとテーブル上の写真を見て、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「あなたって、昔はこんなに詮索するタイプじゃなかったわよね。もう寝たほうがいいわ。明日も仕事なんでしょ?」
そのあまりにも素っ気ない態度に、慶真は不満げに眉をひそめ、口を開きかけた。
だが菫花は、それすら無視するようにそのまま部屋へ戻り、ベッドに倒れ込むように横になった。
彼が言葉を紡ぐ暇も与えないまま、部屋の扉は音もなく閉ざされた。
慶真はしばらくその背中を見つめ、動けなかった。
何かがおかしい。
そう確かに思うのに、それが「何」なのかがわからない。
ただ一つ言えるのは、この変化が彼にとって異様に苦しく、胸を締めつけるということだった。
その夜——
午前3時、菫花は突然、激しい下腹部の痛みに目を覚ました。
体中が冷や汗で濡れていて、手足は痙攣し、呼吸が乱れている。
「菫花?どうした?!」
隣で眠っていた慶真が異変に気づき、慌てて起き上がった。
彼女が腹を押さえて「痛い」とうめくのを見て、彼は毛布をめくり——
「血?!」
顔色がみるみるうちに青ざめた。
どんな場面でも冷静だった男が、このときばかりは完全に取り乱していた。
「すぐ医者を呼ぶ!少しだけ待ってろ!
菫花、寝るなよ!意識を保って!」
電話をかけても出ない。2件目も、留守電。
慶真は舌打ちをし、怒りと焦燥で顔を歪めた。
「使えねぇ!こんな時に!」
彼はすぐに菫花を毛布ごと抱きかかえ、車へと走った。
慶真は静けさを愛し、郊外の別荘を住まいにしていた。
だがこのときばかりは、それが呪いに思えた。
都心の病院まで、通常なら2時間。
彼は道中ずっと顎を引き締め、バックミラー越しに菫花の容態を何度も確認した。
意識はどんどん薄れ、呼吸もかすかになっていくのを見て、歯を食いしばりながらアクセルを踏み込む。
本来なら二時間かかる道のりを、無理やり三十分以上も短縮した。
病院に着くや否や、彼は医師に向かって一気にまくし立てた。
「彼女、サルファ剤とメトロニダゾールにアレルギーがあります。感染症歴なし。既往症は軽度の喘息と蕁麻疹、再生不良性貧血。
さっきの3時頃から腹痛を訴えて、出血も確認されています!」
すべてを伝え終え、菫花がストレッチャーで運ばれていくのを見送ると、彼の膝から力が抜けた。
壁際のベンチに腰を下ろし、額に手を当てる。
服の襟元は汗でびっしょりと濡れ、両手は小刻みに震えていた。
30分後——
菫花が処置室から運び出された。
「命に別状はありません」と告げられ、彼の胸に張りついていた重石が、ようやく少しだけ落ちた。
「原因は?なぜ急にこんなことに?」
彼が問いかけると、担当の看護師が、どこか苛立ったような口調で言った。
「子宮内膜炎です。流産後の過労による免疫低下が原因です。感染からの急性発症です。
流産自体、女性の心身に大きな負担をかけます。それをさらに無理させて……ご家族、もっときちんと支えてあげてください」
しばらく返事がないことに気づき、看護師がふと顔を上げた。
そこには、ぼう然と手術室のドアを見つめる慶真の姿があった。
言葉が耳に入っていないようだった。
「えっ?」
「あなた、聞いてますか?!」
初めて見るタイプだった。
さっきまで顔を青ざめさせて震えていた男が、今はまるで別世界にいるように、ただ視線を空中に漂わせている。
怒鳴ろうとした瞬間——
しかしそのとき、看護師はふいに袖口が引かれるのを感じた。
視線を落とすと、菫花が青ざめた顔で、かすかに首を横に振っていた。
ムリよ。
たしかに、自分は慶真の中で、多少なりとも特別な存在かもしれない。
でもその「特別」は、研香と比べれば、取るに足らないものだ。
病室のベッドに横たわる菫花は、慶真の視線の先をたどった。
ちょうどその先に、手術室から出てきた研香の姿が見える。
彼女は眉間を押さえながら、ふらつく足取りで数歩進んだ後、壁にもたれてしゃがみ込んだ。
慶真は急いで駆け寄りながら、短く指示を飛ばした。
「看護師について病室に戻れ。どこか具合が悪ければ、すぐに伝えて。俺は後で戻る」
言い終えるよりも早く、一歩踏み出して彼女のもとへと向かった。
菫花は、慶真が研香を抱き上げ、その耳元で優しく声をかける姿を、ただ黙って見つめていた。
その瞳に浮かぶ心配の色は、先ほど車の中で自分を見つめていたときと、何ひとつ変わらない。
彼女は皮肉げに口元を引き上げ、そして視線をそっと看護師に移した。
その看護師は、何か言いたげな顔をしながらも言葉に詰まっていた。
「いろいろ、ありがとうございました」
その言葉には、確かに感謝がこもっていた。
けれど同時に、強くて静かな覚悟も滲んでいた。
第8話
空がうっすらと明るみ始めた頃、慶真はようやく病室に戻ってきた。
菫花の容態を確認しながら、穏やかな声で語りかける。
「夜勤明けは無理して運転するなよ。玄関に運転手を待たせてるから。
さっき渡した朝食、戻ったらちゃんと食べて、少し休んでくれ。今日は俺、帰らない。菫花はしばらく入院して様子を見ることになったから。
何かあったらすぐ連絡してくれ。無理は絶対するなよ」
その会話が思いのほか大きな声だったのか、菫花は微かに眉を動かし、目を開いた。視線が重なり合う。
慶真は彼女が目を覚ましたことに気づき、電話を切る。
「起こしちゃったか。ごめん、ゆっくり休んで」
ベッドの脇に腰を下ろし、彼女の手をそっと握る。
「どう?少しは楽になったか?痛みは?
最近、病院ばっかりだな。体、ほんとに弱くなった。ちゃんと全身検査しよう。俺がいない時に倒れたら、俺……心配でたまらない」
菫花は一言も返さなかった。ただ、じっと彼を見つめていた。
慶真は、それを「まだ寝ぼけている」と勘違いし、彼女の眉間を指で優しく撫でる。
「お腹、空いてないか?何か——」
その言葉は途中で止まった。
一瞬、慶真の表情が凍りついた。
そうだ、彼女の分の朝食を持ってきていなかった。
さっき渡したのは、夜勤明けの研香のためのものだった。
慶真は気づいたが、菫花は気づかないふりをした。
そのまま目を閉じ、何も言わず眠りへと戻った。
入院してから一週間。
慶真は仕事をすべてキャンセルし、ほとんど病室に詰めていた。
研香が夜勤の時だけは姿を消したが、それ以外は誰が見ても「理想の夫」だった。
「素敵な旦那様ですね」と声をかける人もいた。
菫花はただ微笑み返すだけで、何も言わなかった。
退院前夜——
長くベッドに寝ていたため、少しでも体を動かしたほうがいいと言って、慶真は彼女を支えながら廊下を歩かせていた。
だが、ほんの数歩進んだところで、慶真の足が止まった。
その目が、遠くの一点に吸い寄せられた。
菫花の体に怪我があることさえ忘れ、彼は彼女の手を引いて研香のもとへと早足で向かった。
「研香……手術、終わったばかりか?」慶真は眉をひそめて言った。
「顔色が真っ青じゃないか。また朝ごはん、抜いたんだろ?すぐ何か頼む。休憩室で待っててくれ」
彼はスマホを取り出し、すぐに連絡を入れようとした。
そのとき、菫花は痛みで息を詰まらせていたが、彼はすっかり彼女の存在を忘れていた。
その瞬間——
突然、人混みの中から一人の男が現れた。
右手にはステンレス製の保温ボトル。
「お前なんか、死ね!」
凶暴な声とともに、男は研香に向かって突進した。
「お前のせいで、お前が勝手に薬の量を変えたせいで、妻は脳出血で死んだんだ!殺人医者!命で償え!」
周囲は一気にパニックに陥った。
「違う!違う……私じゃない!」
研香は混乱し、後ずさる。
保温ボトルが振り下ろされようとした、その瞬間——
慶真は咄嗟に研香を庇い、抱きしめるようにして背を向けた。
そして——
菫花の手を振り払う形で、彼女の身体は勢いよく前へ投げ出された。
「——っ!」
逃げる間もなく。
ドンッ!
金属の容器が、菫花の額に直撃した。
鈍い音。ぱっくりと割れた額から血が溢れ出す。
ぽた、ぽたと床に落ちるその赤が、視界を染めていく。
目の奥が揺れた。音も色も、ぼやけていった。
「菫花!」
「なにしてる!すぐ通報しろ!警備呼べ!」
騒然とする現場に、警備員が駆けつけ、男を押さえつける。
「白川研香ァァァァ!お前のせいで……俺の女房は死んだんだよ!!人殺しが……命で償えよ!!
お前が殺したんだ!絶対に許さねぇ!殺してやる!」
病院の静けさを切り裂くように、男の怒声が響き渡った。
白く無機質な廊下にその叫びは炸裂し、空気を震わせる。
あまりにも狂気に満ちて、冷たく、鋭く、そして恐ろしかった。
第9話
慶真は顔を強ばらせたまま、研香を腕の中から押し離し、すぐさま菫花のもとへ駆け寄った。
ふらつく彼女の身体を支えた瞬間——
背後で研香の嗚咽が聞こえた。
「慶真さん、私、人なんて殺してない……
私は医者よ。ただ、彼の奥さんを助けられなかっただけ。なのに、どうして……」
研香の顔は真っ青で、瞳には涙。
その姿は今にも崩れ落ちそうなほど儚く脆くて——見ている方が不安になるほどだった。
「私のせいで……菫花まで……
私、医者なんて名乗る資格ない。親にも、もう顔向けできない……」
彼女の背中には冷たい視線が突き刺さっていた。
人々の視線に耐えられなくなった研香は、唇を噛みしめると、その場を飛び出した。
慶真が止めようとしたときには、もう遅かった。
彼は唇をきつく噛み締め、腕の中で血を流す菫花を見下ろしながら、なおも逃げていく研香の背中に視線を投げた。
そのこめかみが、怒りと混乱で脈打っていた。
やがて看護師がストレッチャーを押して現れる。
慶真は迷わず菫花をベッドに乗せ、ボディーガードに向かって冷静に命じた。
「奥さんを頼む。何かあったらすぐに連絡を」
そう言い残すと、すぐさま研香の後を追いかけて行った。
菫花は、額から血を滴らせながらその背中を見つめていた。
目の奥がじわりと熱くなる——
けれど、それは驚きでも怒りでもなかった。
もう、何も感じなかった。
そう。置いて行かれることに、彼女は慣れすぎていたのだ。
慶真の背中が見えなくなった瞬間、彼女は目を伏せた。
そのまま無言で、ストレッチャーに乗せられ、手当てを受けるため処置室へと運ばれていった。
応急処置を終え、再び病室へ戻された菫花は、落ちていたスマートフォンを拾い上げた。
画面には、賀川グループからの通知が届いていた。
【一審は来週、M国にて開廷予定です。ご準備をお願いします。二日後、迎えにあがります】
彼女は画面を見つめたまま、ゆっくりと返信を打った。
【了解しました】
頭はまだぼんやりしていた。
軽い脳震盪の影響で意識がはっきりしないまま、彼女はそのまま翌日の昼まで眠り続けた。
ようやく目が覚めたのは、病室に柔らかい日差しが差し込む頃だった。
手すりを掴んで起き上がり、震える手でスマートフォンを手に取る。
画面には、未読の通知が無数に並んでいた。
【菫花、医者から脳震盪って言われたって……大丈夫か?】
【朝はお粥を届けてもらったから、食べてゆっくり休んで】
【研香、昨日のことがトラウマになってて……少しドライブに連れてってる。君は病院で大人しくしてて。すぐ戻るから】
【今回の怪我は俺のせいだ。埋め合わせ、させてくれないか?】
【欲しいもの、リストにして送ってくれ。帰ったら、君が好きな画展も一緒に行こう】
【まだ寝てるの?メッセージ見たら、一言だけでも返して。無事かどうか教えてくれないと、心配になるから】
……
そのどれもが、菫花に向けた言葉でありながら、どこか虚ろだった。
彼女は指を止め、スクロールを途中でやめ、スマホを伏せてまた横になった。
ひと息つく間もなく、スマホがまた震えた。
無視しようと思ったが、メッセージはまるで止まる気配がなく、次から次へと届いてくる。
煩わしさに耐えきれず、菫花は再びスマホを手に取った。
開くと、今度は研香からだった。
【体調はどう?少しは良くなった?】
【慶真さんが、私の気分転換にって旅行に連れてってくれたの。昨日は大変だったし……あなたも無理しないでね】
メッセージの下には、二枚の写真が添えられていた。
一枚は、ふたりが寄り添い、頭をくっつけ合って微笑む写真。慶真の目には甘い愛情がにじみ、研香の瞳は幸せに輝いていた。まるで誰も入り込めない恋人同士のようだった。
もう一枚は、ふたりが薄着のまま温泉に浸かり、頬を火照らせて肩を見せ合っているもの。漂う空気はどこまでも艶めかしく、見る者の想像をかき立てた。
菫花は一瞬だけ目を通し、無表情のまま画面を閉じた。
そのまま、何も言わず再び目を閉じた。
二日後の夜。
菫花は医師の制止を押し切って、強引に退院手続きを済ませた。
病院の出口で、賀川グループに住所を伝え、手配されたタクシーで家へ向かう。
リビングに誰もいない家の中で、彼女は準備していたスーツケースを引き出す。
部屋の隅々を見渡す——
その一つひとつが、かつて自分の居場所だった。
最後に一度だけ振り返り、玄関を出た。
三十分後、静かな住宅街に黒の車が停車する。
「綾瀬様、準備が整いました」
彼女は無言でうなずき、車に乗り込んだ。
車は高速道路をひた走り、二時間後、空港に到着した。
道中、慶真からの着信が十数件。
だが、彼女は一度も取らなかった。
搭乗ゲートの表示が変わった頃——
彼女は、スマホの電源を落とし、SIMカードを取り出して折り、近くのゴミ箱に捨てた。
振り返らず、歩き出す。