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愛は風に消えてゆく
「神田さん、当施設にてご予約いただいていた偽装死サービスにつきまして、すべて手配が完了しております。 こちらが契約書になりますので、ご...
Chương (1)
第1章
「神田さん、当施設にてご予約いただいていた偽装死サービスにつきまして、すべて手配が完了しております。
こちらが契約書になりますので、ご署名をお願いいたします」
神田星奈(かんだ せな)は、自分の目の前に差し出された契約書に目を通した。
【委託者:神田星奈
死亡方法:山頂からの転落、野獣による食害、遺体は完全に消失
死亡予定日:一週間後】
一週間後――それは、彼女と神田雅臣(かんだ まさおみ)の結婚五周年の記念日。
そして、彼女が綿密に計画した、偽装死で彼のもとを去る日でもあった。
始まりがこの日なら、終わりもこの日でいい。
第1話
「神田さん、当施設にてご予約いただいていた偽装死サービスにつきまして、すべて手配が完了しております。
こちらが契約書になりますので、ご署名をお願いいたします」
神田星奈(かんだ せな)は、自分の目の前に差し出された契約書に目を通した。
【委託者:神田星奈
死亡方法:山頂からの転落、野獣による食害、遺体は完全に消失
死亡予定日:一週間後】
一週間後――それは、彼女と神田雅臣(かんだ まさおみ)の結婚五周年の記念日。
そして、彼女が綿密に計画した、偽装死で彼のもとを去る日でもあった。
始まりがこの日なら、終わりもこの日でいい。
契約書に署名を終えて外に出ると、ちょうどニュースで雅臣のインタビュー映像が流れていた。
キャスターが尋ねた。
「神田社長はこんなに若くしてご活躍されていますが、成功の秘訣は何でしょうか?」
雅臣は自分の左手を上げ、薬指の指輪を指差しながら答えた。
「秘訣は、いい妻を持っていることです」
キャスターは少し驚いた様子だった。
「え?てっきり業界の展望や戦略について話してくださるのかと……」
「そんなことは重要じゃありません。今の俺が持っている全ての財産を合わせても、妻の髪の毛一本の価値にも及びません」
「本当に奥さまが羨ましいですね……」
カメラの前で雅臣は腕時計を確認すると、笑顔でこう言った。
「すみません、ちょっとインタビューを中断させてください。時間になったので、生放送のカメラを借りて妻にひと言伝えたいんです」
「どうぞ、神田社長」
雅臣の声はさらに優しくなった。
「星奈、さっき君のために牛乳を買わせたから、もうすぐ届くよ。飲んだらゆっくり休んで。俺が帰ったら、お腹をマッサージしてあげる」
大型スクリーンの前には、何人かの女性たちが集まってこの生放送を見ていた。
ここまで見たところで、みな口々に羨望の声を上げた。
「神田社長の奥さんって、一体どれほどすごい人なんだろう。あんな男を一途にさせるなんて……」
「甘すぎるし大切にされすぎ……羨ましすぎて泣けてくる……」
星奈の耳にも、そんな羨望の声が次々と入ってきた。
しかし当の本人である彼女は、ただ皮肉に口元を引き上げただけだった。
みんな、彼女は前世で世界を救ったから雅臣のような「百年に一度の良い男」と結婚できたのだと思っていた。
彼女自身も、かつてはそう信じていた。
けれど、雅臣には外にもう一人女がいることを、誰も知らない。
結婚して五年の間、雅臣はそのうちの四年半、その女を養っていた。
出張だと言いながら、実際はその女のもとへ行き、快楽に溺れていたのだ。
星奈は、その関係を示す動画を初めて見たときのことを、今でも鮮明に覚えている。
心臓が一万本の針に刺されて、抜かれて、また刺されたようだった。
何度も何度も繰り返され、ついには穴だらけで、ボロボロになった。
しかし、彼女は覚えている。子どものころ、学校でいじめを受けていたとき、雅臣が自分の前に立ちふさがり、いじめっ子たちを懲らしめてくれたことを。
そのとき彼は言った。
「怖がらなくていい。これからは守ってやる」
またあるとき、二人でドライブ中に対向車線からトラックが暴走して突っ込んできたとき、雅臣は何のためらいもなく彼女をかばって飛び込んだ。
そのあと、彼は病院に半年以上も寝たきりとなり、あと少しで植物人間になるところだった。
彼が目を覚ましたとき、最初に看護師に尋ねたのはこうだった。
「星奈は無事ですか?」
看護師の肯定に、ようやく安心してこう言った。
「星奈が無事なら、それでいい。俺なんかどうでもいい」
その瞬間から、星奈は彼に心の底から恋をした。
命を懸けて自分を守ってくれるこの人を。
だけど今となっては、なぜ彼がそんなに愛していると口にしながら、平気で他の女とベッドを共にできるのか、理解できない。
やっぱり、男にとって「性」と「愛」は別物なのだろうか?
星奈は、自分の薬指に嵌まった結婚指輪に目を落とし、それをそっと外した。
ちょうど道端でストリートパフォーマーに出会った。彼の楽器ケースの中には、わずか数枚のコインしか入っていない。
星奈は歩み寄ると、自分の指輪をその中に入れた。
「これを売れば、新しいアルバムが作れますわ。どうか……大ヒットしますように」
ストリートパフォーマーは深々と頭を下げて感謝した。
実際、星奈の言い方はまだ控えめだった。
この指輪は、雅臣が海外のデザイナーにオーダーメイドで作らせたもので、ダイヤモンドだけで何億もの価値がある。
けれど今の彼女には、そんなものはいらなかった。
もし結婚指輪が「愛」と「忠誠心」の象徴であるならば、彼女の指輪は、今や何の価値もなかった。
電話が鳴った。雅臣からだった。
「星奈、今どこにいるんだ?牛乳を届けに行った人が、家に君がいなかったって……」
彼の声は切羽詰まっていて、本当に彼女のことを心配しているように聞こえた。
星奈は淡々と答えた。
「ちょっと外を歩いてるだけ」
「今どこ?すぐ迎えに行くよ」
「いいわ、もう帰るところだから」
「ダメだ、今日は君、生理中だろ?心配だよ」
雅臣はすぐにやって来た。到着まで五分もかからなかった。
彼は車から飛び降り、自分の上着を脱いで星奈の肩にかけ、彼女を抱き寄せた。
「こんなに薄着で……生理中に冷えたらダメだろ」
星奈はその腕の中で顔を上げた。彼の喉元には、真新しいキスマークがいくつもあった。
赤く腫れていて、噛み跡も残っていた。
そして彼の体からは、女物の香水の匂いが漂っていた。
なるほど。今日はインタビューの前に、林水緒(はやし みお)のベッドから出てきたばかりだったのか。
雅臣は彼女の指を撫でながら、ふと驚いたように尋ねた。
「星奈、結婚指輪は?」
第2話
星奈はそっと手を雅臣の掌から引き抜いた。
「たぶん、今日出かけるときにうっかり落としたのかも」
雅臣はすぐにスマホを取り出して、誰かに連絡を取ろうとした。
「今すぐ人を手配して探させる」
星奈は首を横に振った。
「いいの。失くしたことにしておいて」
「そんな簡単に済ませられることじゃないだろ?あの指輪は俺たちの結婚指輪で、愛の証なんだぞ」
愛の証?
彼の裏切りの数々の中で、その愛はすでに形を失っていた。
星奈は笑みを浮かべた。
「ただのアクセサリーよ。愛を守れるものじゃない」
雅臣は真剣な顔で言った。
「ダイヤモンドは地上で最も硬い物質だ。俺の変わらぬ気持ちの象徴なんだ」
「もし、あなたが私を裏切ったら?」
「そんなこと、ありえない」
「仮に、の話よ」
雅臣は彼女を見つめ、真剣な眼差しで、誓いを立てた。
「もし俺が君を裏切ったら、この身、無残な死を遂げよう」
星奈は顔を背け、その誠実さを装った顔をもう見たくなかった。
かつて、彼を愛していた頃。
もしこんなふうに彼が誓いを立てたら、彼女はきっと彼の口を塞いで、「そんなこと言わないで」と泣きながら抱きついていただろう。
彼をそこまで追い込んでしまった自分を責めすらしたかもしれない。
でも今は、もう愛していない。だから、その言葉がただの滑稽な冗談のように聞こえた。
「星奈……」
雅臣は彼女を後ろから抱きしめ、少し拗ねたように言った。
「なんだか最近、君の様子が変なんだ。俺に冷たくなった気がする」
「そんなことないわ」
「あるよ」
雅臣は言い切った。
「星奈、もしかして俺が最近忙しくて、あまり一緒に過ごせなかったから怒ってる?」
「怒ってない。とにかく、離して……」
「いやだ」
雅臣はさらに力を込めて彼女を抱きしめた。
「来週は俺たちの結婚五周年記念日だろ?星奈のためにサプライズを用意してあるんだ……」
そう言いかけたとき、彼のスマホが鳴った。
雅臣はすぐに彼女を離し、スマホを取り出して画面を確認した。
星奈の視点から見えたのは、雅臣が口元に挑発的な笑みを浮かべ、画面に視線を落とすその目が、途端に艶やかに変わったことだった。
彼は素早く何かを返信し、それから少し申し訳なさそうな表情で言った。
「星奈、急に会社でトラブルがあって……今すぐ行かなくちゃいけない」
星奈は心のどこかで、まだ少しだけ期待していた。
「いつ帰ってくるの?」
雅臣は彼女の腰を抱き、額にキスを落とした。
「今夜は帰れないかも。明日の朝、君の好きなスイーツを買って帰るよ。いいかな?」
雅臣はそのまま家を出た。
彼のタブレットはまだリビングのソファの上に置かれていた。
星奈はそれを手に取り、画面を見ると、雅臣のSNSがまだ同期されていてログイン状態だった。
2分前、「みおちゃん」という名前の女から、1枚の写真が送られてきていた。
写真の中で、女は露出の多いバニーガールの格好をしていた。
黒い網タイツに、真紅のハイヒール。
潤んだ瞳、頬は赤らみ、指を舐めるような挑発的なポーズ。
【雅臣:また欲しくなったの?】
【みおちゃん:ご主人様がいない夜は、寂しくてたまらないの~】
【雅臣:昼間、7回も愛してやったのに、まだ足りない?】
【みおちゃん:来ないの?今日は全部ご主人様に委ねる~好きにして~】
雅臣の返事は極めて簡潔だった。
【雅臣:待ってろ】
星奈はタブレットの電源を落とし、目を閉じた。
もう何も感じないと思っていた。
だけど、現実にこのやりとりを見せつけられると、まるで後頭部を鈍器で殴られたような衝撃があった。
涙が熱く、頬を伝った。
いつ寝落ちたのか覚えていない。ただ夢の中、男女が激しく絡み合う映像ばかりが繰り返されていた。
男の顔は、雅臣だった。
ブーン――
スマホが震えた。
開いてみると、一本の動画が届いていた。
画面の中の場面は、夢の中とまったく同じだった。
男女が激しく交わる姿。夢以上に、いやらしく、生々しく。
欲望に歪む雅臣の顔が、吐き気を催すほど醜悪だった。
【林水緒:こんな顔の彼を見たことある?彼、言ってたよ。私の上でしかこんなふうに興奮できないんだって】
たった1分の動画だった。
けれど再生が終わると、また最初から自動的に再生が始まった。
繰り返し、繰り返し。
星奈は、自虐のように何度もその動画を見た。
今の雅臣の姿を、目に焼き付けるため。彼に残っていた最後の情も、完全に消し去るため。
彼女はすでに離婚協議書の作成を弁護士に依頼済みだった。
涙を拭い、離婚協議書を一つの上品なギフトボックスに入れて、リボンを結んだ。
翌日の昼になって、ようやく雅臣が帰ってきた。手には彼女の好きなスイーツを提げて。
「星奈、俺は約束守ったよ。ほら、君の好きなスイーツ。嬉しい?」
星奈は「うん」とだけ返した。
雅臣は、彼女の赤くなった目元に気づいて、顔を両手で包みながらキスをした。
「どうしたの?泣いたの?誰がうちの星奈をいじめたの?教えて、俺が仕返ししてあげる」
彼の身体からは、昨夜の情事の残り香が漂っていた。甘ったるく、女の化粧品のような匂いが混じっていて、吐き気を誘う。
星奈は彼の手を払いのけ、少し距離を取った。
「違うわ。昨夜、感動的な映画を見ただけ」
雅臣は彼女を抱きしめた。
「今度からは一人で見ちゃダメだよ。俺と一緒に見よう」
一緒に?
彼は昼も夜も、水緒に捧げていたのに。
星奈はふと、尋ねたくなった――私に割く時間なんて、あなたに残っているの?
そのとき、雅臣はテーブルの上にあるギフトボックスを見つけて、声を上げた。
「星奈、これ俺へのプレゼント?」
星奈は頷いた。
「五周年の記念日にサプライズがあるって言ってたでしょ?私もあなたにサプライズを用意したの」
雅臣はとても嬉しそうに、そのボックスを抱えて手放そうとしなかった。
「開けてもいい?」
「一週間後、記念日の当日に開けて」
第3話
雅臣は少し考えてから、穏やかに頷いた。
「うん、その日にお互いのサプライズを一緒に開けよう。その方が、もっと意味がある」
星奈はふと、想像してしまった。
雅臣が彼女の「死」を知り、その後に離婚協議書を目にしたとき、その顔は驚愕か、困惑か、それとも……歓喜か?
雅臣は彼女を宥めるように言った。
「最近話題の映画があるらしいよ。一緒に観に行こうか?」
本当は行きたくなかった。
けれど、彼が指定したその映画館は、ちょうど二人の母校の中学校のすぐそばにあった。
雅臣が初めて彼女に告白した場所だ。
学生時代、校舎の裏通りで、数え切れないほどの甘くて幸せな時間を共に過ごし、愛を深めた思い出の場所。
始まりがあそこなら、終わりもあそこがいい――そう思った。
映画館に着くと、館内はやや混雑していた。
雅臣は彼女を片腕で抱き寄せ、人混みから守るように歩いた。
そのとき、周囲の人々の中から何人かの女性が二人に気づいた。
「ちょっと!あれって神田社長じゃない?隣にいるの、あの奥さんでしょ?めちゃくちゃ綺麗……」
「うわぁ……世の中にあんな完璧な男がいるなんて……かっこよくて、一途……」
「二人お似合いすぎる。まるでドラマみたい……」
雅臣は彼女を守るように席まで案内し、優しく上着を脱がせて自分の腕にかけた。
そのとき、映画館のマネージャーが慇懃な笑みを浮かべながら現れた。手にはカイロと牛乳を持っていた。
「神田社長、奥さまがこの二日ほどご体調が優れないと伺いまして、ご指示通りこちらを用意いたしました。他にご要望はございますか?」
雅臣はそれを受け取り、カイロを彼女の下腹部に当てて温めながら、牛乳を手渡した。
「温度ちょうどいいよ、星奈、少し飲もう?」
星奈は機械的に頷き、黙って従った。
雅臣は眉をひそめてマネージャーに言った。
「おやつも用意して。脂っこくなくて、辛くなくて、甘すぎないやつ。星奈の好みだから」
「かしこまりました!すぐに!」
マネージャーは小走りで去っていった。
スクリーンでは、すでに映画のオープニングが始まっていた。
そのとき、ある女性が星奈の隣に立ち、声をかけた。
「すみません、私の席が中にあるので、通していただけますか?」
照明が落ちていたため、星奈はすぐには反応できなかったが、道を開けた。
その女性は彼女の前を通り、さらに雅臣の前をも通り過ぎて、彼の隣に座った。
その声に、遅れて気づく。
それは、あの動画の中で雅臣と絡み合っていた女――水緒だった。
次の瞬間、水緒の手に持っていたコーラのコップが傾き、雅臣の下腹部にドバッとこぼれた。
「きゃっ……ごめんなさい!本当にごめんなさい……!」
彼女は慌てるふりをしながら、バッグからティッシュを取り出して拭き始めた。
だが、拭く位置が明らかにおかしい。
濡れたのは腹部なのに、彼女の手はどんどん下へ、さらに下へと……悪戯のように押し当てる。
その瞬間、星奈の肩に回されていた雅臣の腕が突然きつくなった。
彼の全身が強張っていくのを感じた。
星奈は視線を動かし、雅臣の下腹部に目を向けた。
水緒の手の上に、彼の手が重なっていた。
彼はその手を押さえつけながら、水緒に向かって「やめろ」と言うような目を向けていた。
だが、水緒は悪びれもせず、茶化したような笑みを浮かべていた。
「ねえ、ズボン弁償しよっか?」
「いらない」
雅臣の声はすでにかすれていた。
映画が始まった。
可愛い動物たちが活躍するアニメ映画だった。内容は面白くて笑えるはずだった。
けれど、星奈には何も頭に入ってこなかった。
映画開始から10分ほど経った頃、雅臣が突然立ち上がった。
「星奈、マネージャーが君の好きなスナック分からなかったって言ってたから、ちょっと見てくる」
彼の腕には、星奈の上着がかけられていた。下半身の異変を隠すように。
その直後、水緒も立ち上がり、後を追った。
彼女が星奈のそばを通り過ぎるとき、挑発するように口角を上げ、冷たい視線を投げてきた。
まるで言っているようだった――「ほら、彼が選んだのは私の方よ」。
五分後、星奈のスマホに一通のメッセージが届いた。
【女子トイレ】
彼女は急いで上映室を出て、廊下の突き当たりにある女子トイレへと向かった。
その中の最初の個室から、男の抑えた呻き声と、女の切なげな声が漏れ聞こえてきた。
間違いなく、水緒だった。
そしてその男の声は、星奈が誰よりもよく知る声――雅臣。
星奈はその場に釘付けになったように立ち尽くした。
中の音はどんどん激しくなっていき、やがて女が甲高い声をあげた。
雅臣の嗤うような声が続いた。
「もう限界?映画館まで追ってきて、これだけか?」
水緒はすすり泣きながら、笑っているのか泣いているのか分からない声で言った。
「会いたかったんだもん……あの女と一緒にいるの、見たくなかった」
雅臣の声が少し冷たくなった。
「他のことは何でもしてやる。でも俺とお前の関係は、星奈の前に持ち込むな。今日のは一線を越えた」
「わかったわよ。でも……映画館って暗くて……ちょっと興奮しない?」
雅臣は笑った。
「まあな」
水緒は言った。
「じゃあ、今夜も……続ける?」
雅臣の声はすっかりかすれていた。
「後でチケット買ってくる。深夜上映」
「一番後ろの席にしてね。そしたらトイレに隠れる必要もないし、そのまま座席で……」
そのとき、少し離れた場所から映画館のマネージャーが駆け寄ってきた。
手にしていたのはスナックではなく、小さなボックスだった。
彼は女子トイレの前で、声をひそめて呼びかけた。
「神田社長、コンドームをお持ちしました」
中の物音が一瞬止まり、雅臣が姿を現した。
星奈はすぐに柱の陰に身を隠した。心臓が激しく脈打つ。
雅臣は軽く笑った。
「速いな」
「もちろんです。上映時間は限られてますから、神田社長の営みを邪魔するわけにはいきません」
雅臣は満足そうに言った。
「星奈のこと、ちゃんと頼んだぞ。気づかれないようにな」
「ご安心ください、奥さまは見るからに純粋なお方ですし、ちょっと言えばすぐ信じますよ」
星奈は、逃げるようにその場を後にした。
席に戻ると、数分だけ、許されるかのように泣いた。
これが最後。
彼のために涙を流すのは、これが最後。
いや、本当は、雅臣のためではなかった。
ただ、記憶の中にいる、彼女だけを愛してくれた純粋な少年のために。
今の雅臣は、もうあの少年ではない。
だったら、もういらない。
第4話
映画が終わりかけた頃、雅臣がようやく戻ってきた。
彼の体には、相変わらずあの不快な匂いが残っていた。
それに加えて、彼はポップコーンを1つ持ち帰ってきた。
「星奈、ごめん、戻るのが遅くなって。映画館のポップコーン機が壊れてて、直すのにすごく時間がかかっちゃったんだ。
これ、さっきできたばかりの分だから、温かいうちに食べて?」
星奈は手を振った。
「いらない。もう食べたくない」
「牛乳も飲んでないみたいだけど?」
「飲みたくないの」
「そう……じゃあ食べるのも飲むのもやめて、映画見ようか」
星奈は冷たく笑った。
「映画、もうすぐ終わるわよ」
「全部あの修理の人のせいだよ。あいつ、なかなか直せなくてさ」
「じゃあこの三時間ずっと、機械が直るのを待ってたってわけ?」
雅臣は大きく頷いた。
「そうだよ。マネージャーが証人になってくれる。信じられないなら、聞いてみてもいいよ」
「……聞く必要ないわ」
星奈はバッグを持ち上げて席を立った。
雅臣は、彼女のコートとポップコーンを手に追いかけてきた。
「星奈、俺が何を間違えたのか、ちゃんと言ってくれよ。直すから。無視しないでくれよ、お願いだ。そうされると……すごく怖いんだ」
「何が怖いの?」
「君に……愛されなくなるのが」
星奈は振り返り、彼の目をじっと見つめた。
裏切ったのは彼だった。
言うこととやることが全く違うのも彼だった。
愛を大切にしなかったのも、他でもない彼だった。
だったら、彼のために差し出していた心も身体も、全て引き上げよう。
星奈は偽装死サービス会社に、自分の服を一枚渡していた。それを破り裂いて、自分の指を噛み切り、血を布に滲ませていた。
一週間後、彼の元にその血の付いた服が届く予定だ。
その時、彼女はもう、彼の世界から永遠に姿を消している。
「星奈……なんで何も言ってくれないの?」
星奈は深く息を吐いて、静かに言った。
「生理中だから、ちょっと眠くて」
「じゃあ、帰って休もうよ」
「うん」
家に帰る道すがら、雅臣は終始、彼女に話しかけようとし、冗談を言って笑わせようとした。
しかし星奈はただ、「ちょっと疲れたから、休みたい」とだけ答えた。
ようやく雅臣は黙った。
家に戻ると、雅臣は彼女を寝室まで送り届けた。
星奈は尋ねた。
「今夜も会社に行って、仕事しなきゃいけないの?」
雅臣は「うん」と返事をした。
「昨日終わらなかったことがあって、今夜もう一度……」
「じゃあ、早く行きなよ」
星奈は背中を向けてベッドに横になり、暗に退出を促した。
雅臣はその場から動かなかった。
彼も、何かがおかしいと感じ始めていたのかもしれない。でも、何が違うのかまでは分かっていなかった。
そこで、星奈はちょっとした悪戯心を起こした。
彼女は振り返って、こう言った。
「今夜、行かないでくれる?」
雅臣は明らかに安堵した。
星奈がまだ自分に甘え、駄々をこね、引き留めようとしている。それなら、まだ何も知られていないに違いない。
雅臣は優しく答えた。
「星奈、今日はもう予定があってさ。幹部たちがみんな俺を待ってるんだ。来週、来週こそは絶対に君と一緒に過ごすって約束する」
「来週?」
「うん、来週末は俺たちの五周年記念日だろ?俺、盛大なパーティーを準備してるんだ。H市中に知らせるんだよ。君が俺の一生で一番愛する人だって」
盛大なパーティー?
星奈は静かに笑った。
なら、もっと面白くなるじゃない。
「分かった。行ってらっしゃい」
「星奈は優しいね。じゃ、行ってくる。もう時間がないし、あの人たちを待たせるわけにはいかないからね」
「あの人たち」を待たせられない?それとも「彼女」を待たせられないのか?
雅臣は慌ただしく家を出て行った。
リビングに置かれたタブレットが再び震えた。
彼らは、また繋がったのだ。
【雅臣:準備できたか?】
水緒が一枚の写真を送ってきた。
今度はナースの格好。もちろん、まともな看護師服ではない。見せてはいけないところまで露出している。
【雅臣:今夜、お前を壊すぞ】
星奈はタブレットを閉じ、そのまま荷物の整理を始めた。
洋服、バッグ、靴……そして、これまで彼がくれたものすべて。
最後に、クローゼットからブリキボックスを取り出した。
その手が、少し止まった。
箱の中には、雅臣が彼女に書いたラブレターが詰まっていた。
分厚い一束。
付き合い始めたばかりの頃、「今日から星奈は俺の一生の愛だ」と書かれていた。
彼の誕生日には、「俺の誕生日の願いは、星奈と一生愛し合って、幸せに年を重ねること」と。
星奈が十八歳になった日には、「星奈が結婚できる年齢になった!すぐに君をお嫁さんにする」と。
結婚式の日には、「世界で一番可愛くて綺麗な星奈お姫様、ようこそ俺の世界へ」と。
残りの手紙はもう見たくなかった。
星奈は全ての手紙を庭に持ち出し、火をつけて燃やした。
翌朝、雅臣が帰宅する音で目を覚ました。
彼はどうやら怒っているようだった。
「星奈、俺たちの結婚指輪、なんと泥棒に盗まれて、宝石店で売られたんだぞ!」
星奈は少し落胆した。
なんで見つけてしまうのよ。
「しかもたったの二十万円で売られてたんだ。俺たちの指輪がそんな安値で汚されるなんて」
彼は歩み寄り、星奈の手を取り、再び指輪をはめようとした。
「これで、元通り……」
だが星奈は手を引き、指輪を拒んだ。
雅臣は困惑した様子で聞いた。
「星奈、どうしたの?」
「別に……最近ちょっと太って、サイズが合わなくなったの。入らないわ」
雅臣は笑った。
「大丈夫、店に持って行ってサイズ直してもらえばいいから」
「ご自由に」
星奈は尋ねた。
「その指輪を売った泥棒、何もしなかったわよね?」
雅臣はまた彼女を抱きしめた。
「安心して。星奈は優しいから、俺もその人を責めなかった」
「もう少しお金をあげて。かわいそうだもの」
「分かった、あと二十万円渡してくるよ」
その時、星奈のスマホが鳴った。
彼女は電話に出た。
「もしもし、神田星奈さんですね。こちらは偽装死サービス会社です。ご依頼いただいた新しい身分証明書、すでに用意ができております。ご都合の良い時に取りに来てください」
「はい、住所を送ってください」
「後ほど、位置情報をメッセージでお送りします」
「新しい身分証明書で、飛行機のチケットは買えますか?」
「はい、ご安心ください。まったく問題ありません」
「ありがとうございます」
通話を終えると、雅臣がやや焦った様子で尋ねた。
「星奈、新しい身分証明書って……?それにチケットって……君、どこかへ行くつもりなの?」
第5話
かつては彼に抱きしめられることが幸福だった。
だが今の星奈は、全身が不快感に満たされていた。
彼女は力いっぱい彼の腕から逃れ、少し距離を取って離れた場所へ移動した。
雅臣は焦りながら彼女を追いかけてきた。
「星奈、旅行に行きたいの?だったら来週、来週は全部の仕事をキャンセルして、君と二人きりで過ごすよ。怒らないで、俺のそばから離れないでくれ、お願いだから」
星奈の心は、完全に冷え切っていた。
今こうして下手に出て引き留めようとする彼と、あの動画で水緒と交わっていた彼、一体どちらが本当の雅臣なのか?
もう分からなかった。
でも、もうどうでもよかった。彼女はすぐに彼のもとから永遠に消えるのだから。分からなくても、何の支障もない。
彼女は淡々と言った。
「考えすぎ。……結婚記念日に式典があるって言ってたでしょ?」
雅臣はなおも信用せず、しつこく問いかけてくる。
「でもさっき、新しい身分証明書って……何の手続きしてたの?飛行機のチケットのことも言ってたよね?」
「友達がね、パスポートを失くしてチケットが買えなくなったの。だから再発行の手続きをしてたの」
「どの友達?」
「……あなたは知らない人よ」
「君の友達は全員俺が知ってるけど?」
星奈は話をそらすように、逆に彼に聞いた。
「私のことはいいから、あなたは?昨日の仕事、終わったの?」
「まあ、大体は……」
その言葉が終わらないうちに、スマホが鳴り響いた。
またか、と星奈は思った。水緒が電話をかけて、彼を呼び出すパターンにはもう慣れていた。
結局、どんな状況でも、雅臣は必ず彼女の元へ行く。
星奈はもう立ち上がらず、離れたソファに腰掛け、待つことにした。
小声で雅臣が怒りを含んだ声を出し、電話に出た。
「今家にいるって言ったよね?電話してこないでくれって……!」
電話の向こうからは、女性のすすり泣く声が聞こえてきた。
雅臣はちらりと星奈を盗み見て、気まずそうに唇を舐めた。
「……わかった、今から向かう」
電話を切ると、彼は言い訳するように口を開いた。
「星奈、会社で……昨日の件がまだ少し残ってて」
星奈はすぐに頷いた。
「行って。最近忙しいんでしょ、分かってるから」
雅臣は再び慌てて出かけていった。
星奈はスマホを握っていた。今度はどんな下劣な動画が届くのか、彼女には想像がついていた。
案の定、水緒からのメッセージはすぐに届いた。
今度は画像だった。
病院の診断書だった。そこには、こう記されていた。
【患者:林水緒、妊娠四週、切迫流産】
【林水緒:昨晩は映画館でちょっと遊びすぎちゃって、切迫流産気味って言われた。病院からは赤ちゃんのパパの署名が必要って。
ごめんね奥さん、あなたのご主人、今日も私のものよ〜】
水緒が妊娠していた?
スマホを握りしめたまま、星奈は検査結果の画面から目を離せなかった。
【林水緒:言い忘れたけど、これからの一週間も彼は私のものよ。赤ちゃんができたお祝いに、ハワイ旅行にも一緒に行く約束なの】
【林水緒:彼、今ちょうどあなたに電話しに出てったところ。心の準備、しておいたほうがいいよ、奥さん~】
その「奥さん」という言葉には、あからさまな挑発が込められていた。
ちょうどそのとき、星奈のスマホが鳴った。
画面に表示されたのは――【旦那】。
彼女は深く息を吸い、電話を取った。
「星奈、ごめん、急な出張が入ってしまって……」
彼が言い終える前に、星奈は口を挟んだ。
「行っていいよ」
雅臣はなおも言い訳を続けた。
「星奈、安心して。五周年記念日には絶対帰るから。あの、俺たちの愛を象徴する指輪、あの日の式で、また君の指に俺がはめるから」
星奈は突然聞いた。
「雅臣、あなたは私を愛してる?」
「もちろんだよ。君は俺の人生で唯一愛した女性だ」
星奈は静かに告げた。
「もしも、いつかあなたが私たちの愛を裏切ったら……私はあなたのもとから消える。永遠に」
雅臣は、まるで冗談でも言われたかのように、ふっと笑った。
「そんなこと、絶対にさせないよ」
「私は本気で言ってる。ふざけてなんかいない。もし裏切りを知ったら……あなたはもう二度と、私を見つけられない」
「星奈である限り、どこに逃げようと必ず君を探し出すさ」
「そう……じゃあ、もし私がもう星奈じゃなかったら?」
雅臣はますます楽しそうに、まるで猫をあやすように甘えた声で笑った。
「君が星奈じゃないなんて、あるわけないだろ。ほら星奈、変なこと考えないで。俺はこの人生、君一人しか愛してない。来週、必ず帰るから」
それから10分後、偽装死サービス会社からある住所が送られてきた。
星奈がそこに到着すると、スタッフが一束の書類を差し出した。
「神田さん、今日からこれが新しい身分です」
星奈は書類に目を通した。
そこに記された新しい名前は――遠矢行子(とおや ゆきこ)。
遠行、という意味だ。
その名前は、彼女自身が決めたものだった。
これからは、神田星奈という人間はこの世に存在しない。あるのは、遠矢行子だけ。
「神田……あ、失礼、遠矢さん。飛行機のチケットも手配済みです。来週の土曜日、午前10時発、行き先はアイスランドです」
星奈はすべての証明書を受け取り、丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。報酬は後ほど、御社の口座に全額お振込みします」
「遠矢さん、まだ一週間あります。その間で気が変わった場合、キャンセル料などは一切発生しませんので……」
「いいえ」
星奈は立ち上がり、はっきりと答えた。
「後悔はしません」
第6話
それから数日間、雅臣と水緒からのメッセージは絶え間なく届き続けた。
結婚記念日まで、あと三日――
【林水緒:ハワイの海風は本当に心地いい〜。海鮮もすごく美味しいの。でも、彼が私の妊娠を気遣って、わざわざ栄養が豊富な料理を買いに遠くまで行ってくれたの〜】
添付された写真には、ハワイのビーチ、ヤシの木、そして遠くでテイクアウトの箱を開けている雅臣の姿が写っていた。
【雅臣:こっちは料理店が少なくて、結構遠くまで行ってようやく買えたんだ。今日星奈は何を食べたの?】
星奈は今日、仲の良い友人たちと集まっていた。
バーベキュー、水炊き、美味しくて楽しいひとときだった。
なにせ、もうすぐ新しい身分でここを離れる。今後もう二度と会えないかもしれない彼らに、最後にもう一度会っておきたかったのだ。
結婚記念日まで、あと二日――
【林水緒:妊娠はまだ一ヶ月ちょっとだけど、彼ったらもう育児の勉強を始めてるの。初めてのパパなのに、本当にしっかりしてるのよ〜】
添付された写真は、雅臣の机。上には何冊もの厚い本が積まれていた。
星奈はざっと目を通しただけだったが、タイトルはすべて、『胎教ガイド』『子育ての知恵』『母乳育児の利点と欠点』などだった。
【雅臣:星奈、今日は一日中本を読んでたよ。色々勉強になった。今日君は何をしてたの?】
星奈は今日、銀行に行った。
すべての口座残高をユーロに両替し、現金を引き出したあと、「神田星奈」名義のすべての口座を解約した。
結婚記念日まで、あと一日――
【水緒:赤ちゃんを妊娠している私のために、ホテルのスタッフにも私の服を触らせたくないんだって。それで彼が自分で洗ってくれたのよ〜】
添付されたのは、洗濯室で洗濯に勤しむ雅臣の写真。
【雅臣:洗濯ってこんなに大変なんだな……これからは家政婦に任せよう。うちの星奈にこんなに苦労させるなんて、もう耐えられないよ】
星奈は思わず笑った。
結婚して五年間、彼の肌着類はすべて、彼女が手洗いしてきた。
それなのに今、彼は別の女のために洗濯をしている。
どれほど皮肉な話だろう。
ちょうどその頃、慈善団体のスタッフが訪ねてきた。
星奈は自分の古い衣服をすべてきれいに洗って、丁寧に梱包し、その人たちに引き渡した。
戻ってきて、半分以上空になった家を見渡したとき、星奈はこれまでにないほど心が軽くなった。
愛が冷めるのは、一瞬のことだった。
もう愛していないなら、未練など何もない。
結婚記念日の前夜、星奈はひとりで山の頂に向かった。
強い風が吹いていたが、寒さは感じなかった。
ただ、満天の星と、細い三日月が、とても美しく感じられた。
雅臣から電話がかかってきたのは、その夜のことだった。
彼の声はとても嬉しそうだった。
「星奈、飛行機降りたばかりだよ!もうすぐ家に着くから、帰ったらお土産持っていくね!」
「私は家にいないわ」
「え?こんな時間に、どこに行ったの?」
「山の上よ」
「山?何しに?」
「星を見に」
「そこにいて、今すぐ迎えに行く……」
その時、電話の向こうからざわざわと雑音が聞こえた。
どうやら女性の声が混じっていた。
雅臣が小さく制止するように叱った。
しかしその女性は引き下がらなかったようで、その後しばらく沈黙が続いた。
やがて、明らかに男女のキス音が聞こえてきた。
唇が重なる音が、生々しく響いた。
星奈は冷たく笑った。
「雅臣、まだ来るつもり?」
雅臣の声はかすれ、息が荒い。
「星奈、明日からはずっと君と一緒にいる。今夜会社に顔出して、あとの仕事を全部引き継いでおくよ。そうすれば、その後は君のことだけに集中できるから……いいだろ?」
星奈は静かに笑った。
「いいわよ」
「うちの星奈は本当に大人しい。じゃあ明日の朝、式場で直接会おう。あ、そうだ!君がくれたあのプレゼント、持ってきてね。
何を用意してくれたのか、すごく楽しみにしてるんだ」
「雅臣」
星奈は彼の名を、最後にもう一度呼んだ。
「ん?どうした?」
「……別に、なんでもない」
もう、なんでもない。
これからこの世界に、神田星奈という人間は存在しないのだから。
下山したあと、彼女はタクシーを拾った。
「すみません、空港までお願いします」
運転手は彼女がひとりでいることに気づき、親切に声をかけた。
「お客さん、お荷物は?お持ちしましょうか?」
「荷物はありません。出発してください」
彼女が持っているものは、パスポートと航空券だけ。
それ以外は――寄付したり、燃やしたりして、すべて処分してきた。
神田星奈という名前に紐づく一切のものは、もう残っていない。
30分後、空港の入り口に到着した。
星奈はコードをスキャンし、電子マネーの残高すべてを運転手に送った。
運転手は驚き、慌てた様子で言った。
「お客さん、間違ってますよ!三千円のところ、三十万円も送っちゃってます!返金します!」
「大丈夫。送ってくれてありがとう」
車を降りた彼女は、スマホからSIMカードを取り出し、二つに折った。
そしてそのままスマホごと、ごみ箱に投げ捨てた。
もう一度も振り返らず、そのまま空港ターミナルの中へと歩いていった。