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聞こえない恋の復讐
「兄さん、一週間後、私も一緒に海外行くから」 電話口の田村明人(たむら あきと)は思わず声を詰まらせた。 「お前、聴力を失ったとき何度も...
Chương (1)
第1章
「兄さん、一週間後、私も一緒に海外行くから」
電話口の田村明人(たむら あきと)は思わず声を詰まらせた。
「お前、聴力を失ったとき何度も海外での治療をすすめたのに、あれだけ嫌がってただろ。今になって聞こえるようになったってのに、なんで急に旦那を捨てるって話になるんだ?」
「翔平と離婚するって決めたの」
「あんなに仲良かった夫婦だったのに……なんでだよ?」
高橋彩音(たかはし あやね)はわずかに笑った。どこか、寂しげな雰囲気が漂っていた。
第1話
「兄さん、一週間後、私も一緒に海外行くから」
電話口の田村明人(たむら あきと)は思わず声を詰まらせた。
「お前、聴力を失ったとき何度も海外での治療をすすめたのに、あれだけ嫌がってただろ。今になって聞こえるようになったってのに、なんで急に旦那を捨てるって話になるんだ?」
「翔平と離婚するって決めたの」
「あんなに仲良かった夫婦だったのに……なんでだよ?」
高橋彩音(たかはし あやね)はわずかに笑った。どこか、寂しげな雰囲気が漂っていた。
彼女と高橋翔平(たかはし しょうへい)の結婚は、そもそも最初から間違いだった。
ひとりは貧しい山村から出てきた、冷たく見える音楽の天才。もうひとりは名家に生まれ、何の苦労も知らず育った御曹司。二人は、元々まったく違う世界の人間だった。
でも五年前のコンサートで、翔平は彼女に一目惚れして、猛烈にアプローチしてきた。
水仕事ひとつしたことのないような彼が、キッチンに立って、彩音のために工夫をこらした弁当を作ってきた。
毎朝と毎晩、決まった時間に【おはよう】と【おやすみ】のメッセージが届いた。
彼女は病気になれば、風邪をひいただけでも、ずっとそばにいて看病してくれた。
告白を何度断っても、翔平は二年間変わらず彼女を想い続けた。
冷静で理知的だった彼女も、ついに心を動かされて、恋に落ちた。
交通事故に遭ったとき、翔平を守るようにして彼女は重傷を負い、その代償として、いちばん大切な聴覚を失った。
そのときの彩音は、心が壊れかけていた。
将来がどうなるかは怖くなかった。ただ、翔平の負担になるのが怖かった。
翔平は周囲の反対を押し切って、病院で彼女との結婚式を挙げた。
結婚式当日、翔平は涙を流しながら、彩音の手のひらにひと文字ずつ、誓いの言葉を書いた。
[彩音、俺が君の一生の耳になる]
最初は冷ややかな目で見る人もいて、「罪悪感で結婚しても長続きしない」なんて言われたこともあった。
けれど結婚後の三年間、翔平はすべてを行動で証明した。
彼女ときちんと向き合うために手話を学び、その上達ぶりは彩音が恥ずかしくなるほどだった。
彼の家族が彼女を見下したときには、継承権を放棄して独立し、家族が認めるまで折れなかった。
誰が見ても、翔平は本気で彩音を愛していた。
彩音自身も、それを信じていた。
だから、翔平の初恋相手である佐藤由美(さとう ゆみ)が帰国して彼の会社に入っても、不安に思うことはなかった。
でも、それは間違いだった。
今朝のリハビリが終わったあと、彩音は突然、音が聞こえるようになった。
嬉しくなって、すぐに翔平に伝えたくて、急いで家に帰った。
けれど、玄関に入った瞬間、翔平の電話の声が聞こえてきた。
「正気か?お前、昔は由美のことで死のうとまでしてたのに、あいつは振り向きもしなかっただろ。今は彩音と三年も一緒にいるのに、なんでまた関係持ったりするんだよ?」
翔平は、玄関に彩音がいることに気づいていながら、ためらうことなく口を開いた。
「三年経ったけど、彩音と一緒にいると、つい由美の名前が出てきてしまうんだ」
彩音は、その場から動けなかった。
頭の中で、過去の親しみの記憶が勝手に再生されていく。そういうことをするとき彼がいつも誰かの名前を囁いていた。
彼女には聞こえなかったけれど、肌に響く感覚だけはあった。
翔平はいつも手話でこう言っていた。[君がもう一度、俺の呼ぶ君の名前を聞けるといいのに]と。
だけどその願いが叶った瞬間、彩音は底なしの闇に突き落とされた。
「じゃあ、彩音はどうするんだ?あれだけアプローチしてたのに、今さら離婚するのか?」
翔平は迷わずに答えた。「歌声が由美に似ていたから惹かれたが、俺の命は彼女が救ってくれたんだ。彼女を見捨てるわけにはいかない」
暖房が効いた室内なのに、彩音は骨の奥から冷えていくのを感じた。
彼女は無言で部屋に戻り、机の上に置いてあった結婚アルバムを手に取った。
表紙には、翔平が手書きで書いた一文があった。
【歳月を共に振り返り、深い愛で白髪まで一緒に】
この嘘つき。
彩音の目から、ぽたりと涙が落ちた。文字が滲んで、ぼやけていく。
翔平に本当に深い愛なんてあったのだろうか。彼が共に振り返りたい歳月って、誰とのことだったのか。
夢のようだった記憶はすべて壊れ、現実だけが残った。翔平の義務感に満ちた冷たい言葉が、彩音を内側から叩きのめした。
もう、翔平が悩む必要なんてない。
だって、彼女のほうがもう彼を必要としないんだから。
第2話
兄との電話が終わったちょうどその時、翔平が玄関のドアを開けて入ってきた。
彩音の目が赤いのに気づくと、翔平は慌てて駆け寄ってきた。
[どうしたの?]
彩音は何も答えず黙っていた。翔平は不安そうに、テーブルの上に置かれたアルバムに目を向けた。
[このアルバム、やっぱ片付けようか。見るたびに悲しい顔するから、俺まで辛くなる]
優しい表情のまま、その瞳は彼女だけを見つめていた。
二人の結婚式は急に決まったものだったから、特に豪華な式ではなかった。
でも、静かで特別な式だった。翔平が二人の知人たちに声をかけてくれて、ゲスト一人ひとりの祝福の言葉をカードに書いた。
そのメッセージは翔平の誓いの言葉と一緒に、すべてこのアルバムに納められている。
こんなに優しい翔平が、実は一度も自分を愛していなかったなんて――誰が信じられる?
胸の奥がえぐられるような痛みに、彩音の顔色が一気に青ざめた。
[また低血糖か?]
翔平はすぐにポケットから飴を取り出して彩音に渡し、自らキッチンへ向かって麺を茹で始めた。
[とりあえず何か食べて。心配させないでくれよ]
彩音が箸を受け取った瞬間、翔平のスマホにビデオ通話がかかってきた。
彼は彩音の聴力が戻っているとは思いもせず、スマホをそのままテーブルの上に置いた。
そこから聞こえたのは、由美の甘ったるい声だった。
「あなたと離れてると、こんなに寂しいなんて思わなかった。まだ一時間も経ってないのに、もう会いたくなっちゃった」
翔平が、あの優しい笑顔のままで返す。
「俺も会いたいよ」
「じゃあ、今夜会える?」
「今日は無理だ。彩音の体調が悪いから、明日にしよう」
彩音は言葉を失った。信じられなかった。
「何の話?」
知らないふりをして翔平を見つめ、ほんの少しの動揺も見逃さないように表情を探った。
だが、翔平は微塵も変わらない笑顔で、手話を返した。
[仕事の話]
心が落ちていくようだった。彩音の指先が、わずかに震えた。
そのままぼんやりと翔平を見つめながら、耳に届くやり取りをただ聞いていた。気づけば、昔のことがふと思い出された。
結婚して二年目、チャリティーパーティーに出たときのこと。
翔平が席を外している間に、名門の子息たちが彩音を囲み、薄ら笑いを浮かべていた。
彼女には言葉の内容は聞こえなかったが、悪意があることくらいはわかった。
揉め事は避けたかった。だが、その光景を目にした翔平は激怒し、損をしてでも彼らの家族を破産まで追い込んだ。
翔平ははっきりと、周囲に見せつけた。
彩音は聞こえない。でも、俺には聞こえる。誰も彼女を傷つけるな。
彼は、本当にそれを行動で示した。
彩音を一番深く傷つけたのも、翔平だった。
不倫を知ってしまった今でも、まさかここまで平然と、裏切りの瞬間を見せつけられるとは思っていなかった。
翔平もまた、彼女が聞こえないのを都合よく使っていただけだ。
あの時、彩音をバカにしていた人たちと、何が違うというのか。
目の前の麺に、彩音は一口も手をつけなかった。翔平は最後までそれに気づかなかった。
夕方に彩音が出国のチケットを買ったころ、翔平の友人たちが数人、家を訪れた。
その中には、由美の姿もあった。
翔平が嬉しそうにしているのを見て、彩音はわずかに笑った。ほんとに、一瞬も離れていられないのね。
胸のむかつきを抑えながら、何も知らないふりを続けた。
酒がまわり始めた頃、誰かが飲み会のゲームを提案した。
最初のゲームで、由美が負けた。
「罰ゲーム」か「質問コーナー」か、彼女は迷わず「質問コーナー」を選んだ。
司会役の男がにやにやとした顔で質問を投げかけた。「今の彼と初めてしたとき、どれぐらい刺激的だ?」
笑い声が弾ける中、由美はわざとらしく翔平を見てから、にっこりと笑った。
「再会した初日ね。
彼のオフィスで。
その時、奥さんがドアの外にいたの」
ガシャン。
彩音の手からコップが落ちた。
翔平が振り向いた。その目と、彩音の視線が、真っ直ぐにぶつかった。
そして、翔平の笑顔が、凍りついた。
第3話
翔平の目に、一瞬いろんな感情が走った。
驚き、戸惑い、そして罪悪感……でも、焦った様子はなかった。
彩音には聞こえてないと思っているからだ。
心臓がドクンドクンと鳴って、彩音の顔から血の気が引いていく。
由美が帰国したあの日、彩音は翔平の会社まで足を運んでいた。
彼のオフィスのドアをノックしても返事はなく、メッセージを送った。
【今、お客さんと外で打ち合わせ中。先に帰ってて】そう返ってきた。
実際は、すぐ向こうの部屋で、由美と抱き合っていた。
[彩音、疲れてない?ちょっと休もうか?]
少し間を置いて、彩音はようやく口を開いた。「大丈夫。続けて」
翔平は床に散らばったガラスの破片を片付け、彼女の隣に座った。
二回目のゲームで負けたのは、翔平だった。
彼が選んだのは「罰ゲーム」で、ゲーム内容はキス。
そして相手に選ばれたのは、由美だ。
空気が一瞬でピリつく。誰も声を出せないまま、視線だけが三人に集中する。
由美は笑ってスマホを取り出して、メッセージを彩音に見せた。
【罰ゲーム断るなら、お酒三杯ってルールなの。翔平は胃が弱いから飲めないよ。キスって言ってもほっぺに軽くするだけ。彩音さんも、それなら大丈夫だよね?】
そう言って、翔平の目の前に立ち、頬を差し出した。
翔平は一度、彩音の方を見た。彩音は無表情で視線を落としていた。でも、それが逆に胸に引っかかった。
「翔平?」
由美が身体を近づけた。
その瞬間、翔平は彼女をぱっと突き放し、酒瓶を手に取った。
一杯、二杯。
そして三杯。
顔を赤くしながら、全部飲み干した。そして彩音を見て笑った。
[彩音が気にしなくても、俺は気にする。彩音以外の女には、キスなんてしない]
そう手話で伝え、周りにも聞こえるようにはっきり言った。
彩音は心の中で、静かに冷笑した。
あれだけ抱いておいて、よく言うわ。
お芝居、お疲れさま。
そのとき、由美は暗い顔でその場を立ち去った。
翔平は何も言わなかった。けれど、どこか空っぽな顔をしていた。彼の心はもう、ここにないんだと彩香が気づいた。
ゲームは続いたけど、場の空気は完全に崩れていた。以降の罰ゲームは、ゆるい質問ばかりで、ただの場つなぎのようだった。
しばらくして、翔平のスマホに電話がかかってきた。
[ごめん、会社から緊急の連絡入った。みんなともう少し遊んでから休んでて]
彼が出て行ったあと、他の人たちも席を立ち始めた。
「じゃ、そろそろ帰ろうか」
「そうだね、お役目終了って感じだし」
誰一人として彩音に声をかけずに、皆は帰っていった。
みんな、最初から知ってたんだ。
彩音は苦笑した。でも、もうどうでもよかった。
部屋に戻り、プリントアウトしてあった離婚届をファイルに整理した。そして翔平に電話をかけた。
もう待つのはやめた。今すぐ終わらせたい。さっさと片付けよう。
「彩音?君は……由美、だめだ……」
濡れた音が、電話越しに聞こえてきた。彩音は息を呑んだ。声が喉に詰まった。
「聞こえない人がどうやって電話するのよ……きっと間違えてボタン押しちゃっただけ」
でも、電話の向こうからは、由美の甘い声と衣擦れの音が混ざって聞こえてきた。
「……電話を……切ってから」
翔平の息遣いは荒く、明らかに興奮していた。
「何を怖がってるの?どうせ聞こえないでしょ?機嫌を取るって言ったじゃない。だったら、ちゃんと私の言うこと聞いてよ」
電話は切れないまま、二人の息がそのまま筒抜けになっていた。
そのひとつひとつの音が、彩音の胸を血まみれの傷で刻んでいく。
翔平は、こんな彼女を侮辱するやり方で由美の機嫌を取っていたのか。
気がつくと電話は切れていた。でも耳の奥では耳鳴りが止まらない。
水を一気に飲み干して、こみ上げる吐き気を無理やり飲み込んだ。
自分が甘かった。
翔平と「まともに別れる」なんて、最初から無理だった。
あと、六日。
彼が絶対に見つけられない場所に、消えてやる。
第4話
次の夜は、高橋グループ創立100周年の記念パーティーだった。
車の中で、翔平はずっとスマホを見ながら、ときどき嬉しそうに笑っていた。
彩音は、離婚届の最後のページを開いて、彼の前に差し出す。
「サインして」
翔平は一瞥もせず、さらっと名前を書いた。
「中身、見なくていいの?」
[聴力の治療方針の変更でしょ?君がいいと思うなら、それでいいよ]
翔平の視線は、スマホから一度も離れなかった。
彩音は力なく笑った。
リハビリを始めた頃は、どんなに忙しくても時間を作って付き添ってくれていたのに。
でも、由美が帰国してから、翔平はぱったり来なくなった。
気づくべきだった。彼のスマホには、自分の診察記録が全部送られている。一度でも見てくれていたら、聴力が戻っているのに気づけたはず。
つまり彼は、最初から興味すら持っていなかったのだ。
パーティー会場。
大勢の有名人や資産家が集まり、どのテーブルも華やかで賑やかだった。
彩音は最初から最後まで、会場の隅にじっと座っていた。代わりに、由美が翔平と一緒に挨拶まわりをしていた。
やがて、由美がステージに上がってデビュー曲を披露し始めた。会場の熱気は一気に高まった。
誰もが静かにその歌に耳を傾けた。しかし彩音の顔がこわばる。
その曲は、彩音が三年間誰にも聴かせず、大切にしてきたものだった。翔平と付き合い始めた日、彼に歌った告白の歌だった。
歌詞の細部まで、すべて翔平への想いが込められていた。
彩音は思わず立ち上がる。会場の視線が一斉に彼女に向けられた。
「その曲は、私の作品です」
演奏が止まり、ざわめきが広がる。
翔平がすぐに駆け寄ってきて、なだめるように手話で伝えた。
[落ち着いて、俺が何とかするから]
そう言って、ステージに上がった翔平は、深々と頭を下げた。
「皆さまにご迷惑をおかけして申し訳ありません。どちらの曲も『明月』というタイトルで、妻が勘違いしてしまったようです」
途端に、軽蔑の視線とひそひそ話があちこちから彩音に向けられた。
「聞こえないのに作曲?ありえないでしょ」
「なにそれ……当たり屋みたい」
ステージの大スクリーンには別の曲名が表示されたが、彩音ははっきり聞こえた。明らかに同じ曲だった。
その瞬間、彩音の血の気がサッと引いた。
由美が高橋グループの歌手としてデビューするのは知っていたが、自分の最高傑作までも由美の踏み台にされるなんて知らなかった。
翔平のいう「何とかする」とは、彼女が聞こえないのを利用して、すべての過ちを彼女に押し付けることだった。
馬鹿げてる。
彩音はもういられなくなった。家に帰って楽譜を見つけて証明して見せると思った。
でも家に着くと、最後の手書き楽譜が使用人によってシュレッダーにかけられているところだった。
使用人は彼女を見る勇気もなく、慌てて逃げ去った。
彩音は固まった。しばらくして、魂が抜けたように翔平に関するものすべてを整理し始めた。
写真、お互いに贈ったプレゼント、一緒に作ったペアカップ……
一つ一つを庭に積み上げて、火をつけて燃やし尽くした。
最後は、結婚アルバムだった。
炎を見つめながら、彩音の顔には何の感情もなかった。
でもアルバムを火に投げ込もうとした瞬間、駆けつけた翔平が素手で火の中から取り出した。
[彩音、これは俺たちの大切な思い出だ。どうして燃やすなんてできるんだ?
いったいどうしたんだ?急に家に帰ってきて、本当に心配だった]
彼は目を真っ赤にして焦っていたが、彩音は笑った。
「私は聞こえないが、でも翔平、私をなめないで」
第5話
彩音の言葉を聞いたら、翔平の顔が真っ青になった。
[由美はちょっと迷っただけなんだ。わざとじゃない。デビューを焦るあまり、やっちゃいけないことをしてしまっただけなんだ。
盗作のことが広まったら、あいつの将来は終わりだ。
でも君は違う。君には俺がいるし、それに……]
翔平の手話が止まった。でも彩音には、彼が何を言おうとしているのかが分かった。
それに彼女はもう聞こえないから、音楽なんてできないのだと。
たとえ名誉を失っても、俺が生活を支えてやるから、だから由美に譲ってやれと。
でも彼は忘れているようだった。彼女は本来なら凄い音楽家になれたはずで、彼女の将来は彼のせいで台無しになったということを。
あんなにプライドの高い彼女が、三年間聞こえなくなっても、彼のお金を一円も使わなかったということも忘れていただろう。
彼に養ってもらうなんて、彼女にとっては恩恵じゃない。屈辱でしかなかった。
彩音の心が凍りついた。
三年間、彼を救ったことを後悔なんてしたことがなかった。
でも今、初めて思った。こんな男、救う価値なんてなかったって。
[彩音……]
彼女の赤くなった目を見て、翔平は慌てた。でも近づこうとした時、スマホが鳴った。
「由美さんがお酒を飲みすぎて、すごく調子悪そうなんです」
彼はもう一歩も動けなくなった。
[パーティーがまだ終わってないんだ。後始末しなきゃいけないから、変なこと考えないで。戻ったらちゃんと説明するから]
ここまで来て、まだ彼女を騙そうとしている。
彩音はもう疲れ果てていた。本当に疲れた。「勝手にして」
翔平はほっとした様子で、慌てて出て行った。
彩音は鼻で笑うと、地面に落ちたアルバムを火の中に蹴り込んで、燃やし尽くした。
そしてスマホの電源を切り、ギターを持って、都心から離れたリゾートホテルを予約した。
彼女は三年間触れることのなかった音楽に没頭して、かつての才能を少しずつ取り戻していった。
出発の最後の日まで、彩音はようやくスマホの電源を入れた。
無数の未読メッセージでスマホが一時的に固まった。全部翔平からだった。
【彩音、どこに行ったんだ?】
【どこを探しても見つからない。心配でたまらないんだ。返事をくれないか?】
【俺が悪かった。殴ってもいいから、見つからないところにいるのはやめてくれ。本当に怖いんだ】
……
【由美に君に謝らせるから、帰ってきてくれないか?】
最後のメッセージをじっと見つめて、しばらくしてから、彩音は数文字打った。
【分かった。帰る】
午後2時、彩音はタクシーで家に帰った。
玄関に入ると、翔平が駆け寄ってきて彼女をきつく抱きしめ、目を真っ赤にしていた。
[君がいなくなって本当に怖かった。何かあったら俺はおかしくなってしまう]
彩音は黙ったまま、数歩離れたところにいる由美に視線を向けた。
[彼女はわざわざ君に謝りに来たんだ]
「由美」翔平の声に警告が込められていた。
「分かってるわよ、謝ればいいんでしょ?どうせこの歌はもう私の名前で発表されちゃったし」由美の顔に得意げな表情が隠せなかった。「私たちのまだ生まれてない子供のための徳積みだと思えばいいわ」
彩音は唇をきつく結んだ。やっぱり翔平にもう期待なんてするべきじゃなかった。
でも彼女の表情は、近づいてきた由美にははっきりと見えていた。
翔平に背を向けて、彼女は声をできるだけ小さくし、悪意に満ちて言った。
「あら、聞こえるのね?」
第6話
彩音の目が冷たくなったが、由美は笑った。
「聞こえるのに、よくそんなに冷静でいられるわね。清楚ぶってるけど、実はお金のためなら何でも我慢するのね。
あなたがどうして聞こえなくなったか、知りたくない?」
彩音の胸が激しく上下し、嫌な予感に襲われた。
由美は振り返って、翔平に水を汲みに行かせた。
彼の姿が見えなくなってから、にやにやしながら言った。
「あなたって馬鹿みたいで笑えるわ。実は、あなたが聞こえなくなったのって、めちゃくちゃあほなことよ。
あの交通事故は翔平が仕組んだの。本当は『ヒーローが美女を救う』芝居であなたを感動させるつもりだったのに、あなたが勘違いして彼を助けちゃったのよ。
敵人に恋してるなんて、滑稽じゃない?」
真実が悪意と一緒に心に突き刺さり、彩音は全身の震えを止められなかった。
この三年間、彼女はずっと自分は翔平にふさわしくない、彼はもっといい人と一緒になるべきだと思っていた。
彼はいつも「大丈夫だ。気にしないで」と言ってくれていた。
でも今になって分かった。彼の理解と我慢は、彼女の悲劇が彼自身の手で作られたものだったからだ。
彼は彼女が何度も自己嫌悪で苦しむのをただ見ていて、最も汚い真実を隠していた。
由美の言う通りだった。彼女は馬鹿だった。隣にいる人の心すら分からないほど。
「彩音、本当にかわいそうね。今は私があなたを完全に潰してやる」
由美は笑いながらコーヒーテーブルに倒れ込んだ。
テーブルがバラバラに砕け、彼女の手が破片で切れて、すぐに血が出た。
「由美!」
駆けつけた翔平が彩音を突き飛ばし、彼女の膝がバラバラになったテーブルの角に激しく擦りつけられた。鋭い痛みが走る。
「彩音さんがわざとしたわけではないと思いますが」
由美は怪我をした手を押さえて、翔平にもたれかかった。
翔平は怒って彩音を睨みつけた。
[誤解だって言ったじゃないか。由美も謝ったのに、君は彼女を潰したいのか?
手は音楽家にとって命と同じだ。自分が聞こえないからって、他人の夢まで奪うのか?]
彩音の真っ青な顔を見て、翔平ははっとした。自分の言葉がどれほどひどいものだったか気づき、後悔した。
[俺は……]
「翔平、とても痛いの」由美が苦痛の声を上げた。「私、もう楽器を触れなくなっちゃうかな?」
他のことは全部頭から消えて、「大丈夫、すぐに病院に連れて行く」
[彩音、そういう意味じゃない。帰ってきたら話そう]
膝の傷から血がどんどん染み出て、ポタポタと床に落ちた。
彩音は目を閉じた。今までのことが頭の中でぐるぐる回った。
毎朝翔平が大事そうに運んでくれた朝食、彩音が病気の時の彼の慌てぶり、三年前の病院での涙ながらのプロポーズ……
かつて彼女が大切にしていた美しい思い出が次々と色褪せていき、最後には全く違うものに変わってしまった。
ここ数日間、彩音の胸で渦巻いていた複雑な感情も、この瞬間ついに静まった。
理由もなく終わる恋なんてない。ただ失望が積み重なって、諦める瞬間があるだけ。
自分のものではなかった約束と、大切にする価値のない人を、彼女は手放した。
この時、外は青空が広がり、太陽がキラキラと輝いていた。
彩音はスーツケースを引いて外に出た。もう二度と振り返らなかった。
過去の五年を置き去りにして、彼女の未来にはいくらでも可能性があった。
でももう二度と、翔平に関わることはないだろう。