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風待ちて、君は還らず
子どもを持たないと決めていた五年間。それがある日、夫の桐島 時臣(きりしま ときおみ)が突然、双子の赤ちゃんを養子に迎え入れた。 それだ...
Chương (1)
第1章
子どもを持たないと決めていた五年間。それがある日、夫の桐島 時臣(きりしま ときおみ)が突然、双子の赤ちゃんを養子に迎え入れた。
それだけではない。彼は葉山 綾乃(はやま あやの)に、その双子を「実の子ども」として育ててほしいと言い出し、将来、自分の莫大な遺産をすべて彼らに継がせるつもりだというのだ。
もしかして、時臣は気持ちを変えて子どもを望むようになったのかもしれない。そう思った綾乃は、避妊リングを外し、妊娠の準備をするため病院を訪れた。
ところが、医師から告げられたのは――あまりにも衝撃的な事実だった。綾乃の子宮は、五年前にすでに摘出されていたのである。
第1話
子どもを持たないと決めていた五年間。それがある日、夫の桐島 時臣(きりしま ときおみ)が突然、双子の赤ちゃんを養子に迎え入れた。
それだけではない。彼は葉山 綾乃(はやま あやの)に、その双子を「実の子ども」として育ててほしいと言い出し、将来、自分の莫大な遺産をすべて彼らに継がせるつもりだというのだ。
もしかして、時臣は気持ちを変えて子どもを望むようになったのかもしれない。そう思った綾乃は、避妊リングを外し、妊娠の準備をするため病院を訪れた。
ところが、医師から告げられたのは――あまりにも衝撃的な事実だった。綾乃の子宮は、五年前にすでに摘出されていたのである。
……
「生まれつき子宮がない女性もいますが、綾乃さん、あなたはそのケースではありません。あなたの子宮は手術で切除されたのです」
綾乃は完全に呆然とした。五年前、彼女が受けた手術は、たった一度きりだった。
それは避妊リングを装着するための手術で、夫の時臣が付き添ってくれたときのことだった。
それも、全身麻酔は不要のはずだったのに、時臣が痛がらせたくないと言って、病院に強く頼んで最高額の全身麻酔を受けさせた――
まさか。あの時に、子宮を……
いや、そんなはずない。時臣は手術中、ずっと手術室の外にいた。病院側だって勝手なことをするはずがない。
混乱と不安に押しつぶされそうになっていたその時、遠くから聞こえてきたのは、義姉・桐島 瑶奈(きりしま ような)の怒りに満ちた声だった。
「時臣、あんた本当に最低よ。あの私生児たちを家に連れて帰っただけでも酷いのに、今度は望月 美月(もちづき みづき)まで家に入れる気? 綾乃の目の前で不倫でもするつもりなの?」
「姉さん、誤解だ。俺と美月はそんな関係じゃない。彼女は……命の恩人なんだ。ただ、それに報いたいだけだ」時臣は顔をしかめて反論した。
「はあ!恩返しって言って、美月に男女の双子を産ませたのか?時臣、男ってのはやることにはちゃんと限度を持つものよ」
「それは俺の望みじゃなかったんだ」と時臣は怒りを込めて言った。「彼女の父親が重病になった時、死ぬ間際の唯一の願いが、娘が結婚して子どもを持つ姿を見たいってことだった」
「それを叶えたんだよ。彼女の恩に報いるため、俺は彼女に子どもを与えた。仕方なかったんだ」
「また恩返し?じゃあ、綾乃に内緒で美月と結婚式を挙げたのも、恩返しってやつ?式の後、綾乃を騙して避妊手術を受けさせて、その間に子宮を切除させたのも?」
その言葉は、まるで頭上に落ちてきた雷のようだった。
――切ったのは、時臣?
視界が真っ暗になり、身体の力が抜けていく。
「姉さん、綾乃は痛みに弱い。出産なんて無理だ。俺には、あいつにそんな思いをさせることができなかった」と時臣は続けた。「それに当時、病院の検査で子宮筋腫が見つかったんだ。放っておくと命に関わるって医者が…」
「今はもういいだろ?美月が双子を産んでくれた。俺たち桐島家には後継ぎができたんだ。綾乃は出産の苦しみからも命の危険からも解放されたんだ」
「それに、美月は不治の病にかかってる。余命、あとわずかなんだ……」
「彼女は何よりも、俺に男の子と女の子を産んでくれた。だから、一人ぼっちで死なせるわけにはいかない。最後の時間を一緒に過ごせるように、家に連れて帰ろうと思ったんだ」
時臣はどこまでも冷静に、計算されたような口調で続けた。「俺も自分のやってきたことが無茶だってのはわかってる。でも、これはみんなにとって一番いい方法なんだ」
「お願いだから、姉さん、誰にも言わないでくれ。美月にはもう一週間しかない。その一週間さえ終われば、すべて終わるんだから」
どうやって家に戻ってきたのか、綾乃には記憶がなかった。
ただ、ひたすら寒かった。いつもなら温もりに満ちているはずの家が、今はまるで氷のように冷え切っていた。
壁には、時臣との思い出の写真がずらりと並んでいた。――彼は、世界でいちばん自分を愛してくれている男だと思っていた。
彼らは、オーロラの下でそっと唇を重ね、何千メートルもの空から手をつないで飛び降りたこともあった。そしてある日は、深い海の底へと潜り、星空のように瞬く光を見上げながら、静かに抱き合っていた――
彼は名家の跡取りで、本来ならそんな危険なことなど許されない立場だった。でも、私のためなら何だってしてくれた。
「お前のためなら、たとえ命を落とすことになっても構わない」かつて時臣は、綾乃を優しく抱きしめながら、深く真剣なまなざしでそう言った。「お前さえそばにいてくれれば、死ぬことになったって、俺は迷わず受け入れる。この人生で愛したのは、お前ひとりだけだ」
その言葉は、今となってはただの虚しい記憶だった。
涙が止まらなかった。息もできないほどの痛みが胸を締めつけた。綾乃は、ストーブに火を入れ、思い出の品をひとつずつ、そこに投げ込んでいった。――すべて、終わらせたい。
まさにその時――玄関が開く音がした。帰ってきたのは時臣だった。彼の後ろには、患者服姿で顔色の悪い美月がいた。
「綾乃、彼女は覚えてるよな。俺の大学時代の恩師の娘、美月だ」時臣は、綾乃が何を燃やしていたかなど気に留める様子もなく、優しい笑みを浮かべながら、軽々しく嘘をついた。
「先生も奥さんももう亡くなって、美月はひとりきりなんだ。しかもリンパ癌の末期で……余命はそう長くない」
「どうしても、彼女を病院にひとり置いておけなくてさ。だから、家に連れてきた。看護師も雇ってる。お前は何もしなくていい。彼女の存在も、気にしなくていい」
そう言って、時臣はすでにすべてが決まっているかのような口ぶりだった。綾乃は、黙って最後の写真を火にくべた。
ぱちっ、と音を立てて燃え上がった写真は、すぐに灰になった。
まるで、時臣との結婚生活そのもののように――完全に、跡形もなく、燃え尽きていった。
第2話
美月はこうしてこの家に引っ越してきた。
ようやく四人家族として、一つ屋根の下での生活が始まったのだ。
双子の子どもたちは、美月を見て驚きと喜びが入り混じった表情を浮かべた。
小さいほうの子は感情を抑えきれず、声を上げた。「ママ!」
時臣がとっさに反応し、綾乃を抱き寄せて軽くキスをしながら笑って言った。「娘が呼んでるよ」
しかし現実は違う。
彼が養子にしたその双子の兄妹は、もうすでに三ヶ月もの間、桐島家で暮らしているのに、綾乃を「ママ」と呼んだことは一度もなかった。
真実を知らされる前は、綾乃も彼らを我が子のように愛していた。
だが今は、そんなふりすらできない。娘と呼ばれる安奈は、鋭い目で綾乃を睨みつけ、不機嫌そうに言い放った。「ママ、くるみが食べたい。剥いて」
くるみは硬くて剥くと手が痛くなる。
この悪い女、痛い目に遭えばいいんだ。ママからパパを奪おうとするなんて!
以前も安奈はよく綾乃にくるみを剥かせていた。綾乃はただ子どもがくるみが好物なのだと思い、何も疑わず毎回剥いてあげていた。
だが今、その瞳に宿る鋭い悪意を見て、綾乃の心は一気に冷たく凍りついた。
「くるみが食べたいなら、使用人に剥いてもらいなさい」時臣が前に出て、綾乃を守るように優しく手を添えた。「綾乃の手はこんなに柔らかいんだ。そんな大切な手にくるみなんて剥かせられないよ」
隣で見ていた美月の顔はみるみる曇った。
彼女は恨めしげに綾乃を一瞥し、突然、不意を突くように言った。「時臣、あなたの数珠は?」
時臣の左手には、いつも数珠が巻かれていた。
その数珠は、綾乃が自ら志名野の蓮祥院まで足を運び、時臣のために祈願して買ってきたものだった。
彼女は標高三千メートルを超える紅岳の山を一歩一歩ひざまずきながら登り、寺の長老に特別なお祈りをしてもらった数珠。ただの飾りではなく、彼女の真心と願いが込められた、大切な証だった。
時臣はその気持ちに深く心を打たれ、それ以来左手から数珠を外すことはなかった。
だが今、彼の左手首には何もなく、数珠は見当たらなかった。
「俺の数珠は?確か今朝はつけていたはずなのに……」
時臣は慌てて探そうとしたが、顔を上げた瞬間、美月の情欲をたたえた瞳にじっと見つめられた。
美月の頬は異様に赤く染まり、唇を舐めると、彼の目を離さずにそっと両腿の間に手を伸ばした。
そのとき体をゆらゆらと揺らしながら、甘い息を漏らした。「ああ……時臣、急に胃の調子が悪くなったの。上まで運んで少し横にさせてくれない?」
その暗示は明白だった。
時臣の呼吸は一気に荒くなり、掠れた声で言った。「綾乃、俺が美月を上に連れて行く。君は子どもたちの面倒を見てくれ」
そう言い残し、彼は待ちきれないように美月を支えて階段を上った。
綾乃の心は冷え切った。彼女は使用人に子どもたちを連れて行くよう指示し、自分は黙って二階へと上がった。
寝室のドアは少し開いたままだった。時臣は急ぎすぎて鍵をかけるのを忘れていたのだ。
「お前、マジで小悪魔かよ!頭おかしいんじゃないか?俺の数珠をそんなところに置くなんて!」
時臣は口では叱っていたが、その声に責める色はなく、むしろ興奮が滲んでいた。
「んっ……時臣……深すぎて取れないよ。助けて」
美月は時臣の手を掴み、自分の身体の下に誘導した。
やがて綾乃の耳に、珠が床に転がる音が届いた。
濡れた何かが付着した数珠の珠が、ゆっくりと彼女の足元に転がり止まった。
綾乃は絶望的に目を閉じた。
かつて一歩一歩祈願し手に入れた数珠が、今や不倫の道具に成り果てている。
彼らは堂々と、綾乃の目の前で、彼女の愛情を踏みにじり、信仰を侮辱しているのだ。
こんな結婚生活も、こんな男も、もういらない。
第3話
綾乃は完全に心が折れ、その夜すぐに弁護士に連絡を取り、離婚協議書の作成を依頼した。
同時に、彼女は専門のチームを雇い、自分の存在すべての痕跡を消すための作業を依頼した。
「私の存在したすべての痕跡を完全に消して、完全に消えたいのですが、どれくらい時間がかかりますか?」綾乃は電話で尋ねた。
「早くて一週間はかかります」と相手は答えた。
その言葉に、綾乃は少し呆然とした。
時臣は確か、美月にはもう一週間の命しかないと言っていた。
一週間後、すべてが終わり、彼は家に戻り、全力で綾乃を愛するはずだった。
そう思うと、綾乃は思わず笑みをこぼした。時臣、そんなうまい話がこの世にあると思う?
遊び尽くしてから家庭に戻るなんて、私がずっと同じ場所で待っているとでも思っているの?
待ったりしないわ。
時臣ももう家には帰れない。だって、彼が家庭に戻りたいと思ったときには、すでに家は消えているから。
「わかった。一週間でお願いします」綾乃は迷わず答えた。「お金は送金しました。必ず私が完全に消えるようにしてください。痕跡は一切残さずに」
翌朝、あの穢された数珠が、再び時臣の手首に巻かれていた。
綾乃は胸の奥から嫌悪感が湧き、朝食さえ喉を通らなかった。
しかし時臣は得意げに言った。「綾乃、君がくれたあの数珠が見つかったよ。これは俺たちの愛の証だ。一生大切にする。もう二度と失くしたりしない。」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、隣にいた美月が突然苦痛に顔をゆがめ、大量の血を吐き出して地面に倒れ込み、痙攣を始めた。
「美月、大丈夫か?」時臣は慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こした。
その時、双子の子どもたちが「わあ!」と泣き出した。
安奈は綾乃を指さして大声で叫んだ。「パパ、ママが美月おばさんのご飯にマンゴージュースをこっそり入れた!」
「美月おばさんはマンゴーアレルギーなのに、ママは美月おばさんを殺そうとしてるんだ!」
時臣は眉をひそめて否定しようとした。「安奈、そんなこと言うな。綾乃はそんな人間じゃない」
だが次の瞬間、双子の兄、桐島 悠人(きりしま ゆうと)が飛んできて妹の口を押さえ、必死に言った。「安奈、黙って。ママに叩かれたら僕ら死ぬよ!」
そう言いながら、袖をまくりあげた腕には無数の傷があった。
まるでトゲのある鞭で何度も打たれたかのような、鮮血に染まった傷跡が無数に走っている。
時臣の瞳が揺れ、信じられないという表情で綾乃を見た。「……これ全部、お前がつけた傷か?」
綾乃は平然と答えた。「もし違うと言ったら、信じますか?」
結婚した時、彼は無条件に彼女を信じると約束した。
だが今、血まみれの美月と傷だらけの双子を見て、時臣の胸には怒りしか残っていなかった。
「彼らはまだ五歳だ。嘘をつくと思うか?」
「それに、この家で彼らに手を挙げられるのはお前以外に誰がいる?」
「綾乃、五歳の子どもにそんな酷いことをするなんて」
痙攣する美月を抱き上げ、時臣は言葉を続ける気力を失い、彼女を病院へ連れて行こうとした。
しかしその時、綾乃は呼吸が苦しくなってきたのを感じた。
喉が何かで詰まったようで、体中に赤い発疹が急速に広がり始めていた。これは典型的なアレルギー反応だった。
「……豆乳……私は大豆アレルギー……」綾乃は首を押さえ、辛そうに言った。
彼女は朝、豆乳を一杯飲んだだけだった。
家で作る豆乳はいつも緑豆やアーモンドなどを使っていて、大豆は絶対に使わない。彼女が大豆アレルギーだということを、家の誰もが知っているからだ。
安奈は得意げに綾乃を睨みつけた。豆乳に大豆を入れたのは彼女だ。
「……時……時臣」綾乃は呼吸が苦しく、必死に時臣を呼ぼうとした。
だが時臣は冷たく綾乃を睨みつけ、言った。「綾乃、もう演技はやめろ。家の誰もが、お前が大豆アレルギーなのを知ってる。豆乳に大豆を入れるなんて、誰もしないに決まってるだろ」
「お前はやったことを認めず、アレルギーを装って同情を引くお前には失望したよ」
そう言い放ち、時臣は美月を抱えて背を向けた。
綾乃はひとり、地面に倒れ込み、誰にも助けを求められず、絶望の中で叫び続けた。
第4話
再び目を覚ましたとき、綾乃は病院のベッドの上にいた。
彼女のそばにいたのは時臣ではなく、家で長年仕えてくれている使用人の女性だった。
「奥さま……ようやく目が覚めましたね」使用人は胸を撫で下ろすように言った。「病院には私がお連れしました。豆乳も、私が作ったんです。神に誓って、大豆なんて、絶対に入れていません」
綾乃は目を閉じ、目尻から一筋の涙をこぼした。「分かってるわ……」
豆乳は使用人が作ったものだった。
使用人は当然知っている──そこに大豆は入っていなかった。
それでも彼女は綾乃の異変を信じ、救急車を待たず、自ら車を運転して病院へと連れていった。
でも、時臣は?あの生涯愛すると誓った男は?彼は、苦しむ綾乃を家に置き去りにした。死にかけていた彼女を、見捨てたのだ。
隣の病室には、美月も入院していた。
綾乃が夜中にトイレへ起きたとき、ふと目にしたのは、美月の病床の横に付き添う時臣の姿だった。
かつて綾乃が病気になったときも、時臣は一晩中彼女のそばにいてくれた。
社会的に極めて重要な地位にあって、山のような仕事を抱えていたはずなのに、彼女が倒れるとすべてを投げ出し、薬を飲ませ、食事を作り、水を運んでくれた。
それを思い出し、綾乃の目に涙が浮かぶ。
かつては確かに愛し合っていたはずなのに、なぜこんなにも変わってしまったのか?
「時臣、私もうすぐ死ぬんだって……」美月のか細い声が病室から聞こえてきた。「死ぬ前に……たった一つだけ、答えが欲しいの。こんなにも長い間……あなたは私を、愛したことが、一度でもあった?」
時臣は黙り込んだ。しばらく何も言えなかった。
「ほんの少しでもいいの」美月は泣きながら続ける。「全てを求めてるんじゃない。ただ……あなたの心に、私への本当の気持ちが、ほんのひとかけらでもあったなら……それだけで、私はもう……十分なの……」
その姿を見て、時臣は堪えきれなくなった。
彼は感情を押し殺したまま、美月を抱きしめた。
「美月……俺だって、君への気持ちがあるに決まってる」時臣はそう言って続けた。「でも……許してくれ。俺には綾乃がいる。だから『愛してる』とは……言えない。彼女を裏切ることになるから」
「……けどもし、綾乃がいなかったら……君こそが、俺がこの世で一番愛した女性だった。そう言える自信がある」
その言葉を聞いた瞬間、綾乃の胸にぽっかりと穴が開いた。冷たい風がそこから吹き抜けていくようで、あまりの寒さに震えが止まらなかった。
気づけば、頬を伝う涙が指先を濡らしていた。いつから泣いていたのか、自分でもわからなかった。
綾乃はずっと信じていた。時臣が美月に惹かれたのは、ただの「刺激」や「気まぐれ」だと。
身体だけの関係で、本物の愛など存在しないと。
でも……本当に愛がなかったら?彼女が倒れた瞬間、あんなにも狼狽えた彼の目に浮かんでいたのは、紛れもない心配だった。
しかも、美月が自分が時臣のために一歩一歩祈りを捧げて得た数珠を、あんな穢れたところに入れたというのに、時臣は一言も咎めなかった。
彼の心の天秤は、もうずっと前から傾いていたのだ。
涙をこぼしながら綾乃はその場を去った。数歩歩いたところで、スマホが震えた。
美月からだった。そこには動画と一言メッセージが添えられていた。
【彼がかつてあなたにくれたもの、全部、私にもくれたわ】
綾乃は震える指で動画を再生した。目に映ったのは、賑やかな結婚式の映像だった。
それは、かつて彼女と時臣が結婚式を挙げた、あの会場だった。
会場だけではない、装飾、花の色、ケーキの形まで――すべてが、あのときとまったく同じだった。
動画を再生した途端、綾乃はそれが自分の結婚式の映像かと思った。
だが、ウエディングドレスを着て現れたのは美月だった。その瞬間、綾乃は息を飲んだ。
「美月、時臣から聞いたわよ。あなた、赤ちゃんができたんですって?しかも双子だなんて!」
動画の中で、時臣の母が美月の手を嬉しそうに握っていた。
「本当に嬉しいのよ!あなたは桐島家にとって、かけがえのない存在なの」
「たとえ籍を入れられなくても、心配いらないわ。綾乃が持っているものは全部、あなたにも与える。それに――綾乃が持っていないものだって、あなたにはちゃんとあるんだから」
そう言いながら、時臣の母は自分の腕から翡翠のバングルを外した。
「これは桐島家に代々伝わるバングルよ。昔は皇后さまも身に着けていたくらいの代物なの」時臣の母が笑いながら言った。
「このバングル、本来なら息子の嫁にしか渡さないものなの……美月、あなたこそ本当の嫁だわ、私はそう思ってる」そう言って、彼女はバングルを美月の手首にはめた。
第5話
綾乃は長いあいだ、時臣の母親から疎まれていた。
彼女はずっと、綾乃には子どもを望む気持ちがないと思い込んでいたのだ。
だが、実際は違った。
綾乃は子どもが大好きで、いつか自分の血を引く子どもを持ちたいと強く願っていた。
孤児として育ち、家族と呼べる者はいなかった。だからこそ、血の繋がった子どもが唯一の家族となるはずだったのだ。
そんな彼女が、子どもを望まないはずがないだろう。
問題は時臣だった。結婚した当初から、彼は子どもを持つことに固執して拒んでいた。そのきっかけは、たまたま二人で見た出産ドキュメンタリーだった。
あまりにもリアルで、生々しい映像に、時臣はショックを受け、絶対に綾乃に子どもを産ませないと決意した。
「子どもを産むのは怖すぎる。綾乃にそんな苦しみは味わわせたくない」
「出産は命の危険を伴うものだ。もしお前がそんな目に遭ったら、俺はどうしたらいいんだ?」
「綾乃、お前なしじゃ生きられない。お前がいなきゃ俺はきっと狂ってしまう。だから子どもは要らない、お前だけが欲しいんだ」
その言葉を聞いたとき、綾乃は感動した。
彼が自分を深く愛していると信じたのだ。子どもを産ませたくないほど、自分を大切に思ってくれているのだと。
だが、今になって思えば、あの子宮筋腫は命に関わる病気ではなかった。もしかすると、あの時点で時臣はすでに子宮を切除する計画を立てていたのかもしれない。
あの出産ドキュメンタリーも、わざと見せたのだろうか――
数日後、綾乃も美月も無事に退院した。
その間、時臣はずっと美月の看病にかかりきりで、隣の病室に綾乃が入院していたことにすら気づかなかった。
綾乃はもう、時臣に何も言う気力がなかった。結局、彼と一緒に暮らすつもりはなかったのだ。
しかし、なぜか時臣は寛大な態度を見せて綾乃の元にやってきた。「綾乃、お前を許すよ」
綾乃は笑ってしまった。彼にそんな資格があるのかと。
「俺たちは夫婦だ。たとえお前がどんな酷いことをしても、俺はお前を許す」時臣は静かに続けた。「でも…もう二度と、同じことは繰り返さないでほしい」
「罰として、俺はしばらく書斎で寝る。お前とは一緒に寝ない。お前もちゃんと反省しなさい」
そう言い残し、時臣は自分の荷物を持って書斎へ移った
その夜、綾乃のスマホに美月から挑発的な動画が届いた。
映像の中で美月は乱れた衣装のまま時臣の上に乗り、甘い喘ぎ声を漏らしていた。
「……ああ……時臣、もっと激しくして……痛みも苦しみも忘れさせて、あなただけを想って、あなただけを愛したいの」
美月の情熱的な言葉に、時臣の表情は明らかに興奮で染まり、動きも激しくなっていく。
その瞬間、時臣は美月を強く抱きしめ、叫んだ。
「美月!愛してる!」その瞬間、彼女は目を輝かせ――「時臣、もう一度言って?もっと聞きたいの!」
だが、時臣の顔は急に曇った。あの言葉は無意識のうちに出たものだった。
理性を取り戻すと、時臣は自分の言葉に後悔した。どんなに美月が懇願しても、二度と言わなかった。
すると、美月の目にみるみるうちに涙が溜まり、ついにぽろりと落ちた。「時臣、私もうすぐ死んじゃうかもしれないのに……それでもはっきりと言ってくれないの?」
時臣は苦痛の表情を浮かべた。「美月、頼むから無理しないでくれ」
「じゃあ、今すぐ死んでやる!」美月は窓を開け、飛び降りる素振りを見せた。「誰も私を愛してくれないんだから」
「美月、やめろ!戻ってこい!」時臣は必死に叫んだ。
「いやよ」美月は唇を噛み締め、涙で目を潤ませながら言った。「どうせあなたも私を愛してない。私に生きてる意味なんてないの……」
その言葉が終わると同時に、半身が窓の外に飛び出した。
時臣の胸は締め付けられ、彼は一歩で駆け寄って抱き止めた。
「愛してないなんて言ってない!俺は――お前を狂おしいほど愛してる!」時臣は怒りと混乱の入り混じった声で叫んだ。
「俺が、簡単に妻を裏切るようなクズに見えるのか!?」時臣は目を真っ赤にし、今にも崩れそうな声で美月に叫んだ。「俺は綾乃を愛してる!そんな俺が、綾乃を裏切ったなんて、自分でも吐き気がするほど嫌になる」
「でも、お前のせいで頭がおかしくなりそうだ。自分らしくいられなくなる」
美月は満足そうに微笑み、首に腕を回し甘えた声で言った。「時臣、その言葉はつまり、私の方が綾乃より愛されてるってこと?」
時臣の顔は険しくなった。「それ以上は言うな」
動画はそこで途切れていた。
綾乃は泣きながらも、やがて笑みを浮かべた。
時臣、あなたも自分がどれほど卑怯な男か自覚してるんだな。
裏切ったのはあなただ。私を傷つけたのも、あなた。そんなあなたに、苦しむ資格なんてあるの?
涙を拭い、綾乃は冷静に動画を全てダウンロードし、弁護士に転送した。
「これが彼の不倫の証拠よ」綾乃は静かに言った「しかも私の同意なく、勝手に私の子宮を切除された」
「離婚の際、顔は出さない。二度と時臣に会いたくないから、あなたが代理で手続きを進めてほしい」
「条件は何でもいい。離婚だけでなく、勝手に切除された子宮の件でも力を貸してほしい」
第6話
綾乃は離婚の準備に真剣に取り組んでいたが、時臣はその間ずっと美月との情事に溺れていた。
時臣は、美月がもう長くないことを知り、だからこそ、少しでも多く抱こうと、焦っていたのだろう。機会があれば、すぐに彼女を押し倒し、激しく求めていた。
そして彼らの密会のたびに、美月はこっそりその様子を録画し、綾乃に送りつけていた。
書斎だけでなく、朝のジョギング中に近くの公園で逢引する場面もあった。さらには、時臣が仕事中に美月を会社に連れ込み、彼女がデスクの下で奉仕している動画まであった……
美月の様子は、とても病人とは思えなかった。
時臣がどれだけ激しく求めても、美月は平然と受け止め、むしろそれを楽しんでいるようにさえ見えた。
綾乃は密かに調査を始めた。そして、すぐに明らかになった。美月は、そもそもリンパ癌など患ってなどいなかったのだ。それは桐島家に堂々と入り込むために仕組まれた、彼女の嘘だった。
その嘘はあまりにも稚拙で、綾乃が軽く調べただけで簡単に見破れた。時臣が本気で調べたなら、見抜けないはずがない。
だが、彼は最初から真実を知ろうとさえしなかった。
そのほうが都合がよかったのだ。そうすれば、何の罪悪感もなく美月との関係を続けられるから。
「綾乃、よく我慢できるわね」
これだけ動画を送っても綾乃は微動にしないので、美月はついに我慢できなくなり、挑発的に近づいてきた。
「時臣、毎晩私の上に乗ってるのよ?もう脚が動かないくらい」
「ただ黙って見てるだけ?ほんと、情けないわね。時臣と真正面から向き合う勇気もないなんて」
「そんなに、彼に捨てられるのが怖いの?平気な顔してるけど、本当は怖くてたまらないんでしょ?」
「ねえ、もし私たちの間にあなたが割り込んだら、時臣はどっちを選ぶと思う?」
綾乃は薄く目を開き、冷ややかな視線で彼女を見つめながら言った。「本当に、時臣があなたを選ぶって、そう信じてるの?」
「もちろんよ」美月は得意げに笑った。「信じられないなら、見てなさいよ」
言い終わると、突然一台の車が綾乃と美月のいる方向へ猛スピードで突っ込んできた。
時臣はすぐ近くにいて、異変に気づくと、手にしていた物を放り出し、迷いなく美月に飛びかかった。
「美月、危ない!」彼は自らの体で美月をしっかりとかばった。
しかし綾乃は避けきれず、車に轢かれて吹き飛ばされた。
意識が薄れる中、彼女が最後に見た光景は、時臣が美月を強く抱きしめ、自分の身体で彼女を守っている姿だった……
血と涙が混じり合い、朦朧とした意識の中、綾乃はかつて二人でダブルスカイダイビングをした時のことを思い出した。あの時、一度パラシュートが故障し、どうやっても開かなかった。
二人とも絶望的に落下する寸前、時臣は突然綾乃を強く抱きしめ、自らの体で彼女を守った。
落下中にどんな衝撃を受けても、下にいる時臣の身体が先にそれを受け止める形となった。
あの時、彼は確かに、命をかけて彼女を守ってくれたのだ。
だが今、彼はまた彼女を置き去りにして、別の女を守っている……
どれほど時間が過ぎたのか分からない。ただ、闇の中で、かすかに時臣の声が聞こえた。
かろうじて目を開けると、彼が自分のスマホを手に取り、不機嫌そうに呟いていた。「離婚弁護士?……番号、間違えてんだろ」
「綾乃と俺はうまくいってる。離婚?するわけない。俺たちは死ぬまで一緒だ。絶対に――離婚なんて、しない」
第7話
その言葉を吐き捨て、険しい表情のまま、時臣は電話を乱暴に切った。
綾乃は疲れたように目を閉じた。「……勝手に、私の電話を取るべきじゃなかったわ」
その一言で、綾乃が目覚めていることに気づいた時臣は、慌ててベッドに駆け寄り、綾乃の手を握った。
「綾乃、目を覚ましたんだね!たくさん血を流してて、俺、すごく心配してたんだ。」
だが、綾乃は冷たい視線を向けるだけで、何も言わなかった。
その態度に、時臣は次第に焦りの色を見せながら訊いた。「……綾乃、怒ってるのか?」
「違うんだ。怒らないでくれ、お前を助けなかったわけじゃない。ただ、あのときの角度ではお前の姿が見えなかったんだ」
「美月を助けたあとで、やっとお前がいたことに気づいたんだ。本当だよ……あのときの俺の心は、ズタズタだった。お前がいるとわかってたら、真っ先にお前を助けてたさ!」
けれど、綾乃はもう、彼のどの言葉が本心で、どれが嘘なのか、判別できなくなっていた。
どんなに哀しいことだろう。この五年間、同じベッドで眠り、同じ食卓を囲んできたこの男。最も近しく、最も信頼すべき存在だったはずなのに――
いまや彼の姿は、まるで他人のようにしか見えなかった。
かつて深く愛した男は、記憶のなかで腐り果て、もう戻ってはこないのだ。
「……もう疲れたの」
綾乃は静かに目を閉じた。もう、これ以上彼の顔を見るのも、声を聞くのも嫌だった。
時臣はまだ何か言いたげだったが、綾乃が目を閉じたままなのを見て、あきらめたようにため息をついた。「……じゃあ、少し仕事の整理をしてくるよ。すぐ戻るから、しっかり休んで」
彼が病室を出て間もなく、綾乃のスマホに、再び美月から挑発的な動画が届いた。
画面の中で美月は、時臣の腕に甘えるように絡みながら、嬉しそうに問いかけた。
「時臣、本当に桐島家の全財産を、悠人と安奈に残すつもりなの?」
「ああ」時臣は重々しく頷いた。「もう弁護士に正式な書類も作らせた。今夜の宴で、皆とメディアの前で署名して、二人が唯一の相続人だと公表するつもりだ」
「悠人には桐島グループの経営権を、安奈には桐島家の不動産の過半数、そして俺の母や綾乃が所有していた高級な宝石類を相続させる」
それらの宝飾品は、一つひとつが数千万円から数億円――すべて合わせれば、その価値は計り知れない。
美月は隠しきれない喜びを滲ませながらも、わざとらしく問いかけた。「でも……綾乃は、納得するのかな?二人は彼女の実子じゃないし、もし彼女が将来、自分の子どもを授かったら……」
「綾乃は、もう子どもを産めない」時臣は冷酷なほどきっぱりと言い放った。「悠人と安奈だけが、彼女の子どもになる。」
「彼女には選択肢なんてない。絶対に産ませない。俺とお前の子どもだけを、自分の子どもとして育てるしかないんだ」
「……美月、お前に結婚という形を与えることはできないし、完璧な愛を与えることも難しいかもしれない。けど、これだけは誓う。俺の財産は、すべて——俺たちの子どもに残すって」時臣は美月の手を握り、真剣な表情で誓った。
「綾乃には俺の心がある。けれど、お前と子どもたちには、俺の全ての財産を譲る。」
動画はそこで途切れた。綾乃はスマホを握りしめた手に、尋常ではない力を込めた。指の関節が白く浮き上がるほどに。
彼は私から産む力を奪っただけでなく、他の女との間にできた子どもを私に育てさせようとしている。
よくも、ここまで。よくも、時臣。これが、あなたの言う「愛」なのね。
深く呼吸を整えた綾乃は、すぐに離婚弁護士に電話をかけた。
「……離婚協議書、もうできてるわよね?今すぐ、時臣に渡して」
「今日、奴は宴を開いて、財産をあの私生児たちに譲るつもりらしい」
「会場の場所はすぐにわかるはず。いますぐ向かって。彼が発表する前に、必ず離婚協議書にサインさせて」
「彼の財産の半分?勝手にやればいい。私の分は、全部海に捨てても、あの二人には絶対に渡さない!」
通話が終わると、綾乃の身元消失を支援する専門チームからも連絡が入った。【綾乃様、準備完了しました。いつでも出発可能です】
そのメッセージを見て、綾乃の顔に、ほんのわずかな微笑みが浮かんだ。
彼女は現在地をチームに送信すると、わずか三十分で、迎えの車が到着した。
専門スタッフに護衛され、綾乃は異国へのフライトに乗り込んだ。
そして離陸直前――彼女はこれまで美月から送られてきた動画すべてを、時臣に転送した。
その最後には、ただ一文だけを添えた。【謝らなくていい。私はあなたを許さない】
そう送ると、スマホをゴミ箱に放り込み、一片の未練も残さず、搭乗口へと歩みを進めた。
――その頃、ちょうど桐島家では盛大な宴会が幕を開けていた。
きらびやかな会場には、上流階級の名士や令嬢、そして無数の報道陣が詰めかけ、カメラが一斉に回り始めていた。
時臣が壇上に立ち、厳かな声で口を開く。「本日は、お忙しい中、桐島グループの晩餐会にお越しいただき、誠にありがとうございます。本日皆さまをお招きしたのは、ある重大なご報告のためです」
「すでに一部のメディアが察知しているように、先日、私と妻・綾乃は、一組の双子を養子として迎え入れました」
「私は、養子も実子も、同じく家族であると信じております。よって本日、皆さまおよび全世界の前で、桐島グループ名義の全財産を、今後――」
彼の言葉が終わる前に、一人の男性が壇上へ飛び込み、会場がざわめく中、大声で叫んだ。「時臣社長、私は、綾乃様の離婚代理人です。ご本人の委託を受け、正式に離婚を申し入れます!」
「こちらが離婚協議書です。ご署名をお願いします!」