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枯れた愛が、ふたたび春に咲く
夫・佐久間義彦(さくま よしひこ)が別の女と結婚したその夜、日向茜(ひなた あかね)は二人で八年間暮らした家をめちゃくちゃに壊した。
Chương (1)
第1章
夫・佐久間義彦(さくま よしひこ)が別の女と結婚したその夜、日向茜(ひなた あかね)は二人で八年間暮らした家をめちゃくちゃに壊した。
第1話
午前二時、日向茜(ひなた あかね)は腹部の痛みで目を覚ました。
隣の寝床に手を伸ばすと、そこは冷たく、夫・佐久間義彦(さくま よしひこ)はまだ帰宅していないことに気づいた。
下腹部の痛みは徐々に強まり、茜は震える手で義彦に電話をかけた。
長い呼び出し音の末、ようやくつながったが、茜が声を発するより先に、聞こえてきたのは女の子の甘えたような声だった。
「茜さん?義彦はもう寝ちゃったの。用があるなら、明日にして。じゃあ、切るね」
「待って......お願い......」
激痛に耐えながら、茜は絞り出すように言葉を発した。だが、相手は聞く耳も持たずに電話を切った。
再びかけても、すでに電源は切られていた。
茜は大きく息を吸い、痛みと恐怖に全身を震わせた。
死にたくない。まだ二十六歳。両親もいる、義彦もいる。
懸命に119番へ電話をかけ、這うようにしてリビングまで進み、玄関の鍵を開けると、そのまま意識を手放した。
意識が薄れる中、団地の夜を突き破る救急車のサイレンが耳に届いた。
医師の初見は子宮外妊娠。すぐに手術が必要だった。
だが、義彦の電話は何度かけてもつながらない。
「他にご家族やご友人に連絡は取れますか?」
看護師は青ざめた茜を気遣いながら、そっと尋ねた。
茜は苦笑して、首を横に振った。
両親はこの町にはおらず、早くても明日の午後にならないと来られない。
しかも、母の日向早苗(ひなた さなえ)は心臓が弱く、この状況を知らせれば命に関わるかもしれない。
市内に住む親友・桜井結衣(さくらい ゆい)も、今は臨月を迎えており、いつ出産になってもおかしくない時期だった。彼女に心配をかけるわけにはいかなかった。
「......同意書は、自分で書きます」
手術は夜通し行われた。
茜が目を覚ましたのは翌朝だった。
目を開けると、介護士が駆け寄り、湯飲みを差し出した。
「日向さん、ようやく目が覚めましたね。どれほど危険だったか、お分かりですか?
お医者様によると、子宮外妊娠の位置がかなり悪かったらしく......あと少し遅れていたら、助からなかったかもしれないそうです」
茜は無意識に下腹部に手を当てた。
そして、込み上げる悔しさと哀しみに、胸が締め付けられた。
義彦との子を二年間待ち続け、ようやく授かった命だった。
それなのに――まさかの、子宮外妊娠。
茜は震える手でスマホを握りしめた。一晩経っても、義彦からは一通のメッセージも、電話もない。
この事実を知らせなければ。子どもを失ったのだ。父親である彼には、伝えるべきだった。
茜は再び義彦に電話をかけた。
今度は、本人が出た。
「義彦、私......」
「茜、最近無視してたのは悪かったよ。でも、本当に疲れてるんだ。英里さんが昨日拒絶反応を起こして、状態がひどく悪くて......
それから、優香とは何もないよ。妹みたいな存在だし、君の立場を脅かす気なんてない。もう、いい加減騒がないでくれないか?」
苛立ちを隠しきれない声だった。
茜は言葉を失い、スマホを握る手に力がこもった。
数秒の沈黙の後、義彦が口を開いた。
「茜?どうした?」
「私......子宮外......」
言い終える前に、電話の向こうから別の女の声が飛び込んできた。
「義彦、早く来て!お母さんの様子がおかしいの!」
小林優香(こばやし ゆうか)だった。
「じゃあ、あとで」
義彦は一方的に電話を切った。
天井を見つめたまま、茜の目から涙がぽろぽろとこぼれた。
義彦と結婚して、もう八年になる。
高校三年の受験期を乗り越え、大学の四年間は遠距離恋愛。それでも支え合い、ようやく結婚したのが二年前だった。
「一緒に赤ちゃんを迎えよう」
そう約束したはずだったのに。
たった三ヶ月。
幼馴染の隣人が戻ってきただけで、彼の目には自分がただの嫉妬深い女に映るらしい。
「......はっ」
茜は笑った。
目を覆い、笑いながら泣いた。
第2話
小林優香とその母・小林英里(こばやし えいり)が義彦にとってどんな存在か、茜はよく知っていた。
義彦の両親は共働きで多忙を極めており、子どもだった彼は、しばしば隣家の英里に夕食を世話してもらっていた。
英里はシングルマザーで、女手一つで優香を育てていた。
そんな二人の家庭に、幼い義彦は自然と馴染んでいった。
幼少期からずっと一緒に過ごしていた義彦と優香は、周囲から見れば絵に描いたようなお似合いの幼なじみ。誰もが、やがて二人は恋人になり、結婚するのだろうと信じていた。
だが、高校三年の夏。優香は母と共に突然海外へと旅立ち、そのまま八年もの歳月が流れた。
そして三ヶ月前。
膵臓がんを患った英里の看病のため、優香は母を連れて帰国した。
その日から、義彦は家に帰らなくなった。
「病院にいる」とだけ告げられた。
もちろん茜は、二人の関係を知っていた。だが、一言の不満も口にはしなかった。
信じていた。義彦と自分の絆は、たとえ幼なじみが戻ってきても揺るがないと。
最初の頃は、むしろ自ら専門医を調べて紹介しようともした。
けれど、いつからか、茜が病院を訪ねるたびに、優香はすぐ涙を浮かべるようになった。
まるで、自分が余計な存在かのように。
そしてある日、義彦から冷たく告げられた。
「もう、病院に来ないでくれ」
何がいけなかったのか、茜には分からなかった。騒ぎ立てることもなく、義彦を責めることもせず、ただ静かに状況が落ち着くのを待っていた。
いつか、元の二人に戻れると信じて。
だが、子宮外妊娠の緊急手術、そして、あの夜の義彦の態度は、茜の心を深くえぐった。
涙を拭き、思いを整え、茜は診断書の写真とともに、義彦にメッセージを送った。
その頃、同じ病院の待合室で、義彦はスマホを開いていた。画面を覗き込んだ優香の表情が、みるみるうちに曇っていく。
メッセージを読み終えると、目にはすぐに涙が浮かび、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、義彦。私、やっぱりここにいるべきじゃなかった。茜さんがあなたを取るのが怖くて、きっと......こんな無理な理由まで作って......
私とお母さんのせいで、あなたたち夫婦の仲が壊れたのなら、本当に、本当にごめんなさい......」
震える声と涙に、義彦は一瞬言葉を失った。
だが、冷静になって思い返せば、この三ヶ月間、自分はほとんど家に帰っていない。茜との夫婦生活も、もう長らく途絶えていた。
それでも、茜の性格は誰よりも理解している。浮気などするはずがない。
となれば、これはただの演技だ――彼の関心を引きたくて仕掛けた、甘えとわがままの混ざった幼稚な嘘。
「構わないよ。お前のせいじゃない」
義彦は優香の頭を優しくなで、柔らかく声をかけた。
「茜を甘やかしすぎた、俺の責任だよ。まさか、こんな嘘までつくとはな」
「ありがとう、義彦。あなたがいなかったら、私、本当にどうしていいか分からなかった......」
優香は泣きながら、義彦の胸に顔を埋めた。彼はその背中を軽く叩き、静かに慰めた。
ようやく優香が落ち着いたのを見計らい、義彦はスマホに視線を戻し、茜に返信した。
【茜、英里さんはもう長くない。子どもの頃、どれだけあの人に世話になったか、お前も知ってるだろ?頼むから、静かにしていてくれ。
そんな悪質な嘘で、自分や未来の子どもを呪うような真似はやめろ。しばらくしたら、ちゃんと償う。だから今は、黙っててくれ】
第3話
失望が幾重にも重なるとき、最後の失望こそが、すべての終わりを告げる。
涙を拭いながら、茜は義彦にたった一言だけ返信した。
【うん】
そして、心の奥で静かに決意を固めた。
三日後、茜は退院した。その間、義彦からの連絡は一度もなかった。茜もまた、自分から会いに行こうとはしなかった。
「日向さん、子宮外妊娠とはいえ、一応産後にあたりますからね。冷たい水は避けて、栄養を摂って、しっかり休むんですよ」
看護師が気遣うように声をかけると、茜は微笑みながら、ほんの少し寂しさを滲ませて頭を下げた。
「ありがとうございます。気をつけます」
病院のロビーをひとりで歩き出したそのとき、背後から懐かしい声が飛んできた。
「茜?」
振り返ると、そこには大きなお腹を抱えた親友・結衣が立っていた。
「えっ......なんで病院に?顔色、すごく悪いよ......」
茜は淡々とした表情で口を開いた。
「妊娠してたの」
おめでとう、と結衣が言いかけた瞬間、茜は静かに続けた。
「でも......子宮外妊娠だった。手術して、今日退院なの」
「なんで、なんで教えてくれなかったの!」
思わず声を荒げた結衣は、すぐにその手を茜の手に添え、不安そうに彼女を見つめた。
「義彦さんは?迎えに来てるんじゃ......」
友人たちの間では、義彦は「完璧な愛妻家」として知られていた。妻を何よりも大切にし、どんなときも茜を優先してきたはずだった。
「あの人はね、幼なじみの母親の付き添いで入院してるの。私のことなんて、構ってる暇ないのよ」
「はあ?」
義彦とその幼なじみの関係については、結衣も噂程度には聞いていた。
だが、妻が子宮外妊娠で緊急手術を受けたというのに、彼が一度も顔を見せない?
「大丈夫。もう終わったことだから」
茜はそれ以上語らず、話題を変えた。
「結衣もひとりで来たの?」
「うん、今日が最後の検診で、夫が支払いに行ってるところ」
結衣は、まだ茜の話を聞きたそうにしていたが、彼女の青白い顔を見て、それ以上は口を閉ざした。
まもなくタクシーが到着するという通知が来た。
結衣は「送っていく」と言って譲らなかった。
二人でエレベーターを降りたその瞬間、ロビーの向こう側に、義彦が立っていた。腕には、優香がしっかりとしがみついていた。
その場にいた全員の動きが、一瞬止まった。
次の瞬間、義彦は慌てて優香の手を振り払った。だが、その顔から険しさは消えなかった。
「茜......前にメッセージでちゃんと説明したよな?こんなふうに尾行して監視して、何がしたいんだ?いつからそんな非常識になったんだ?」
「茜さん、お願いです」
優香は周囲の視線も構わず、突然その場に膝をついた。
人通りの多い病院ロビー。優香は人目もはばからず、涙を流しながら懇願した。
「優香、やめろ。彼女に頭を下げる必要なんてない」
義彦は焦ったように優香の腕を取ろうとした。だが優香は、義彦を制してなおも言葉を重ねた。
「義彦、止めないで。茜さんに......謝らなきゃ。私と母さんが、茜さんを傷つけてしまったのは事実なんです。でも、でも――母さんはもう長くありません。お願いです......せめてその最後の時間だけ、義彦を......私にください......」
言葉を詰まらせながら、優香は地面に額を擦りつけようとした。その姿に義彦は完全に動揺し、だが優香を止めることもできず、代わりに、怒りを茜へと向けた。
「茜、優香も英里さんも、お前に何か悪いことをしたか?陰で何か言ったか?全部、お前が勝手に決めつけてるだけだろ?お前のその態度、もう本当にうんざりなんだよ」
第4話
見物人の数はどんどん増えていき、誰もが茜を指さしては囁き合っていた。
次の瞬間、結衣が迷うことなく駆け出し、義彦の頬を平手で打った。
「あんた、頭おかしくなったの?」
義彦は生まれてこの方、誰かに手を上げられたことなど一度もなかった。呆然としたあと、怒りに満ちた目で茜を睨みつけた。
「よくもやったな。妊婦を連れて来て見世物とはな。さすがは『ご立派なデザイナー様』、その教養はどこへ消えたんだ?」
結衣が再び手を振り上げようとしたとき、茜がその腕をそっと止めた。
「行こう、タクシーが来たわ」
茜は床に跪いたままの優香にも、怒鳴り声を上げる義彦にも一瞥もくれず、結衣の手を引いてその場を去ろうとした。
その無関心こそが、義彦にとっては最大の侮辱だった。今まで、茜が自分を無視するなんて一度だってなかった。プライドを傷つけられた義彦は、衝動的に茜の腕を掴み、声を荒げた。
「待て、優香に謝れ」
茜が無言で立ち去ろうとすると、義彦はさらに力を込めた。
「優香に謝れって言ってるんだ!」
手首に食い込む痛みよりも、心の奥に広がる鈍い痛みのほうが何倍も苦しかった。茜は深く息を吸い、静かに振り返った。
「なぜ私が謝らなきゃいけないの?私、何か言った?何かした?それに、この病院はあなたの所有物なの?あなたは来てよくて、私は来てはいけないの?佐久間教授、あなたの教養は、どこに置いてきたの?」
義彦はその言葉を浴び、思わず手の力を緩めた。
目の前の茜は、もはや自分の妻ではない。他人に向けるような、冷ややかな視線だった。
茜はもう、これ以上この男と関わる必要などないと悟っていた。彼女は結衣の手を再び握り、無言で病院の出口へと向かった。
残された義彦は、困惑したような表情で茜の背を見つめ、そんな彼の袖を、優香が恐る恐る引いた。
「義彦......私、また迷惑かけちゃったかな......」
我に返った義彦は、優香の手を軽く叩いて宥めるように言った。
「お前のせいじゃない。最近、俺が茜に構ってやれなかっただけだ」
そう、自分が忙しすぎて、彼女の気持ちをちゃんと見てあげなかっただけ。機嫌を取れば、また元に戻れるはずだ。茜は話のわかる、理性的な人間なのだから。
自分にそう言い聞かせ、義彦は胸の奥に渦巻いた一抹の不安を無理やり押し込み、優香の手を引いてエレベーターへと乗り込んだ。
夜、義彦は帰宅の準備を整えた。途中の花屋で、茜の好きなピンクのチューリップを買う。
ドアを開けた瞬間、茜の落ち着いた声が聞こえてきた。
「はい、協議書が完成したらすぐ送ってください......ええ、できるだけ早く」
電話を切る茜の声は冷静で、乾いていた。
「何の協議書?」
義彦はできるだけ何もなかったような表情で問いかけた。あたかも今日の出来事など、なかったかのように。
「仕事の話よ」
茜は義彦の顔すら見ず、淡々と告げ、そのまま通り過ぎようとした。
慌てた義彦は二歩前に出て、後ろから彼女を抱きしめた。
「茜......ただいま」
以前なら、茜はそっと振り返り、優しく笑って彼の頬に触れたはずだった。
しかし今、茜は一切、反応を見せなかった。義彦の腕を強く押しのけ、無言で寝室へ向かう。
そして、ドアを閉めた。
呆然とその場に立ち尽くす義彦。
なぜ?どうして?
自分はもう帰ってきたというのに。何もかも、元に戻せるはずなのに。
この三日間、茜はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、義彦が英里親子をかばう光景がフラッシュバックのように脳裏に蘇る。
しばらくして、シャワーを終えた義彦が寝室に入ってきた。何事もなかったかのように布団に潜り込み、茜の背中に腕を回した。
「茜......この数ヶ月、君をほったらかしにしてた。寂しかったよな」
そう囁きながら、唇を茜の首筋に寄せ、手はゆっくりと布団の中を這い始めた。
その瞬間、茜の中に冷たい嫌悪感が走った。彼のキスを避け、その手を、はっきりと拒絶するように払いのけた。
「私に、触らないで」
第5話
義彦は、自分なりに最大限譲歩しているつもりだった。だが茜は何に怒っているのか、さっぱり理解できなかった。
「茜......俺にどうしてほしいんだ?優香に送ったメッセージ、全部見たぞ」
言いながら、義彦の声は徐々に荒くなっていく。
「確かに優香は幼なじみだ。でも、俺にとっては妹同然だ。なんでそんな下劣な憶測ばかりするんだ?英里さんにしたって、俺にとっては......母親みたいな存在なんだ。
子宮外妊娠だと嘘をつかれても怒らなかった。今日、病院に張り込んできたことも、もう許す。だから......もう拗ねるのはやめてくれ!」
しばしの沈黙のあと、茜は静かに言った。
「疲れたから、出て行って」
「出て行け......だと?」
義彦は一瞬、自分の耳を疑った。
ここは二人で築いた家だ。どこに行けというのか?どうして、自分が追い出されなければならない?
怒りが込み上げ、茜に詰め寄ろうとした瞬間、隣に置かれていたスマホが鳴った。反射的に画面を確認し、通話ボタンを押した。
「義彦......お母さんが吐血しちゃったの!怖いよ、早く来て......!」
優香のかすれた声が震えていた。
「落ち着け。すぐ行く」
一気に現実へ引き戻され、義彦は慌てて服を身にまとい、部屋を飛び出していった。
その足音とドアの閉まる音を聞きながら、茜はゆっくりと目を閉じた。
病院のベッドの上、英里は蒼白な顔で横たわっていた。義彦はその手を握り、眉間に深いしわを刻みながら、彼女の顔を見つめた。
やがて英里がゆっくりと濁った瞳を開け、義彦を見た。
「義彦......私の......たった一つの心残りは......優香のことよ......」
苦しげな息の合間に、英里はか細く語った。
「無理なお願いだと分かってる......でも......優香と......結婚して......ずっと面倒を見てやってくれないか......?」
その言葉に、義彦の全身が強ばった。
優香の面倒を見ることはできる。だが、結婚なんて......
しかも、自分は茜を絶対に裏切らないと誓ったはずだった。
しかし、義彦の躊躇いに気づいた英里は、激しく咳き込み、差し出されたティッシュが血で染まった。
優香は泣きながら母をなだめた。
「お母さん、義彦は......もう結婚してるの。そんな無茶なこと、言わないで......」
「でも......あなたたちこそ......本当の運命だったのに......私が......優香を海外に連れていかなければ......」
英里の息遣いが乱れ、興奮が抑えきれない。その様子に、義彦は覚悟を決めたように立ち上がり、優香の手を握った。
「英里さん......約束します。優香と結婚して、一生面倒を見ます」
「誓って......誓ってくれ......」
英里は、どこから湧いた力なのか、義彦のシャツをぎゅっと掴んだ。
義彦は観念したように三本の指を立てた。
「誓います。小林優香と結婚します。この誓いを破ったら、天罰を受けます」
英里の顔に、ほんの一瞬だけ安堵の笑みが浮かんだ。
「死ぬ前に......結婚式......見せてくれ......」
その直後、英里は糸が切れたように再び意識を失った。
病院の外のベンチ。義彦は珍しくタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。優香が自販機から戻り、コーヒーを二つ持って隣に腰を下ろした。
「義彦......お母さんの願いが無茶なのは、私も分かってる。でも......もう、長くないの。後悔だけはさせたくない。安心して、偽装結婚だから。私から茜さんに説明する」
「いや......俺が話す。茜は優しい子だ。きっと分かってくれる」
「本当に?怒らないでしょうか?茜さんって......」
優香はわざとらしく言葉を濁した。
「茜がどうした?またメッセージでも送ってきたのか?」
優香が口ごもるのを見て、義彦は彼女のスマホを奪い、LINEを開いた。
そこには、あまりにも信じがたい文面が表示されていた。
【小林優香、このビッチ。お前の母親はいつ死ぬんだ?】
義彦の指がスマホを握り潰さんばかりに震えた。
茜がここまで卑劣な女だったなんて。昔の彼女は、こんなじゃなかった!
「義彦、怒らないで。茜さん......あなたを愛しすぎてるの」
優香は泣きながら、しおらしく身を寄せた。義彦はタバコをもみ消し、そのまま彼女を抱き寄せた。
「やりすぎだ。絶対に謝らせる」
優香は小さく頷いたが、その涙の奥に隠された瞳は、まるで獲物を仕留めた捕食者のように、ひっそりと笑っていた。
第6話
弁護士の動きは驚くほど早かった。翌日には、離婚協議書がきっちりと作成され、茜の元に届いた。
茜はその内容にざっと目を通し、静かに頷いた。
財産トラブルは一切なく、唯一の共有物――現在の住居は義彦が結婚前に購入したマンションだったが、内装に関してはすべて茜が手がけたものだった。
設計、インテリア、家具選びに至るまで、茜はこの「愛の巣」に情熱のすべてを注いだ。かけた費用は、もはや家本体の価格に匹敵するほどだった。
そして、将来の子どものために用意した一室。その柔らかな光の入る空間は、茜にとってまさに夢の象徴だった。
けれど今、そのどれもが茜の目には空虚に映っていた。笑っちゃうほど馬鹿馬鹿しい――そう感じた。
思い出に囚われるのは性に合わない。茜は休暇を切り上げ、出勤の準備を始めた。
そして職場での引き継ぎ作業を進めながら、心の中で静かに決意した。
仕事を辞める。すべてを終わらせて、両親の元へ戻ろう。あの遠くへ嫁いだ生活に、終止符を打つのだ。
会社ビルの前に車を停めたその瞬間、視界に最も会いたくなかった二人の姿が飛び込んできた。
義彦と、その背後に涙ぐんだ優香。
「茜、優香に心から謝ってほしい。あのメッセージは、君の本心じゃないって信じたい」
義彦の声には、怒りと哀しみ、そして戸惑いが混じっていた。
彼がここまで来たのは、謝罪を求めるためだけではない。英里の遺志――つまり優香との偽装結婚について、茜に理解を得たかったのだ。
だが、その目に宿る非難を見た瞬間、茜は思わず口角を上げた。
「で?私が何を言ったっていうの?まさかその程度で、佐久間教授がわざわざご登場?」
「まだ認めないのか?優香、スマホを見せて」
優香はしおらしく首を振り、それから茜の腕を握った。
「茜さん、私のことをどう思っていても構いません。ただ......母がもう長くないんです。せめて最期に、私と義彦さんの結婚を見届けさせてあげたくて......」
「ちょっと待って」
茜はその手を振り払い、優香の台詞を遮った。
「私が、何て言ったって?はっきり言いなさいよ」
茜の鋭い問いかけに、優香はビクリと体を震わせ、まるで驚いたウサギのように義彦の背後に逃げ込んだ。
その様子を見て、義彦は前に出て声を荒げた。
「茜、いい加減にしろ。優香はな、君の顔を立てようとして黙ってるんだ。それ以上何を求める?
優香をビッチ呼ばわりして、彼女の母親に早く死ねと呪って......
お前、十数年何を学んできたんだ?お前の両親は、そんな風に人を傷つけるように育てたのか?」
パンッ――
乾いた音が空気を切り裂いた。義彦の頬に、全力の平手打ちを食らわした。
その瞬間、義彦は言葉を失い、目を見開いた。
「殴ったのか?」
「そうよ、痛い?」茜は冷たく笑った。
「ええ、私が彼女をビッチだと言ったわ。彼女の母親が早く死ねばいいと思ってる。だって私の母親じゃないし、関係ないわ。
結婚を見届けてほしい?いいわよ。役所に行く時間くらい、私にもあるから」
それだけ言い残し、茜は義彦を一瞥もせずに背を向け、スタスタと歩き去っていった。
その後ろ姿を、義彦は言葉を失ったまま見送った。
彼女はなぜ、あんなにも淡々としている?
なぜ、優香との結婚をあっさり受け入れた?
あの、毎日のように笑いかけ、甘えてきた茜はどこへ行ったのか?
「義彦、大丈夫?」
優香がそっと義彦の頬を撫で、心配そうに覗き込む。
「茜さん、あなたのこと......本当に愛してるの。だから、あんな風に殴ったんじゃないかしら。あの言葉も......きっと怒りのせいよ。時間を置いて、私から直接謝るわ。きっと元通りになれる......私たち、三人とも」
その優しい声に、義彦のこわばっていた神経は徐々にほぐれていった。
彼はゆっくりと頷き、優香の提案を受け入れた。
どうせ、茜が本気で離婚するはずがない。それが、義彦の中にある確信だった。
第7話
「本当に......決めたの?」
三浦理奈(みうら りな)は茜の退職願いを手に取り、しばし黙った。
惜しい――その思いが、言葉の端々に滲んでいた。
茜は穏やかに微笑んで、うなずいた。
「うん。両親には私しかいないし、二人とも体があまり丈夫じゃないから。実家に戻って働こうと思ってるの」
「じゃあ、佐久間教授は?彼の仕事は?」
茜の私生活について、理奈は知っていた。
大学時代の四年間を遠距離恋愛で乗り越え、卒業後は帝都に遠嫁――まさに愛を貫いた夫婦だった。
特に、義彦。帝大の最年少教授として注目を浴び、将来を嘱望されていた。そんな彼が、地方に移るはずがない。
「離婚するつもり」
「離婚?」
理奈の目が見開かれた。けれど茜は、変わらず穏やかな笑みを浮かべたままだった。
「もう、手続きは進めてるの」
理奈は深く息をついた。
茜の芯の強さを、彼女はよく知っていた。一度決めたら、決して揺らがない人間なのだ。
「わかった。あなたの新しい人生に、幸あれ」
理奈はそれ以上、何も言わなかった。退職願にすっとサインを入れ、静かに手渡した。
茜の一日は、慌ただしい引き継ぎ作業で過ぎていった。夜には離婚協議書が会社に届き、茜は全条項を確認した上で、迷いなくサインした。
その夜、社長が送別の食事会を開いてくれた。部署の仲間たちが集まり、笑顔と涙が入り混じった時間が流れた。
誰かが言った。「カラオケ、行こうよ」
茜は断らずにうなずいた。以前なら、こういう場にはほとんど参加しなかった。
義彦が嫌がったからだ。彼の好みに合わせ、彼の生活を尊重し、彼の影の中で控えめに生きてきた。
にもかかわらず、待っていたのはこんな惨めな終わりだった。
皮肉にも、その夜の最後に流れたのは、別れを歌ったラブバラードだった。
帰宅したのは、夜中の十二時を過ぎていた。
茜が玄関のドアを開けると、リビングからタバコの匂いが漂ってきた。ソファには義彦が座り、手に持ったタバコを慌てて灰皿に押し付けた。
「ごめん。つい、家で吸っちゃった」
「いいよ」
もはや、どうでもよかった。この家を出て行くのだから、彼がどこで何をしようと構わない。
茜は靴を脱ぎ、静かに浴室へ向かおうとした。だが、義彦がその行く手を遮った。
「茜、ちょっと......話がある」
彼女は立ち止まり、振り返った。その瞳は、驚くほど澄んでいて、静かだった。
「何の話?」
義彦は、もっと怒鳴られると思っていた。今朝の態度で、無視されると思っていた。
けれど茜は、まるで波風一つ立てず、ただ終わりを受け入れた者のように冷静だった。
このままではいけない、そう思った義彦は、ゆっくりと切り出した。
「英里さんが危篤なんだ。医者からも、もう長くないって言われてる。で、その......彼女の最後の願いがあって......」
言いかけて、口が止まった。
「優香と結婚する姿を見たい。その後は、優香のことを頼むって?」
茜の口調に、皮肉も怒気もなかった。ただ、事実を確認するような平坦な声だった。
義彦は驚き、苦笑した。
「もう、聞いてたのか......」
逃げ場はないと悟り、彼は静かに語り始めた。
「子どもの頃、両親が忙しくて......俺、ひどい熱を出して倒れた時があったんだ。夜中の大雨の中、英里さんが俺を背負って病院まで連れて行ってくれて......三日間、寝ずに看病してくれた。俺、彼女に返さなければいけない恩がある。彼女が悔しい思いを抱いたまま死ぬのを......見たくない」
茜は、その言葉が終わる前に微笑んだ。
「別に、いいんじゃない?」
その一言に、義彦の胸の霧が少しだけ晴れた。
「やっぱり、君なら分かってくれると思ってた。本当に、君は優しいよ......」
彼は安堵の息をつき、茜を抱きしめた。
「ああ、そうそう。優香との結婚は『仮』なんだ。形式だけの式にする。呼ぶ人も最小限に抑える。でも、万が一、誰かが余計なことを言ったら、君からも事情を説明してほしい」
第8話
その後、義彦は三日間一度も家に帰らなかった。茜は静かに荷物をまとめ、すべて実家へ送った。
段ボールの封を閉じながら、胸にぽっかりと空いた空虚だけが、そっと横たわっていた。
そんなある晩、茜は思い切って母に電話をかけた。
「お母さん......数日したら、帰るね」
「え?休み取れたの?義彦さんも一緒に?」
電話口の向こうで、早苗の声がはずんでいた。
「茜、妊活の調子はどう?栄養あるものたくさん食べてる?身体を整えなきゃダメよ。義彦さんにも言っといてね、タバコもお酒も夜更かしも厳禁だからね。
もう......隣の幸子さんったら、毎日孫娘の自慢ばかり。『うちの孫はねー』って。ふん、うちの茜は美人だし、婿さんだってイケメンなんだから、孫ができたらもっと可愛いに決まってるのに!」
いつものように、母は言葉の洪水だった。
だが今日は、それすらも胸に染みる。
茜はじっと耳を傾けながら、静かに涙をこぼした。
すすり泣きが受話器越しに伝わったのだろうか。
母の声がふと優しくなった。
「茜......どうしたの?泣いてるの?何かあったの?」
茜は、涙を指でぬぐいながら小さく答えた。
「......お母さん、私、義彦と......離婚するつもりなの」
一瞬、沈黙が落ちる。
そして――
「......そっか。じゃあ、帰っておいで。新しい布団セット買ったの。茜の好きそうな色だったから......ちょうどよかった」
「......うん」
声が震えた。茜は堪えきれず、用事があるとだけ言って電話を切った。
ソファに腰を下ろし、茜はふと壁に目をやった。そこには、和やかに笑う自分と義彦の結婚写真が掛けられていた。
八年の歳月を封じ込めた一枚。
でも、ねえ義彦、あなたがいなくなっても、この世界には私を無条件で愛してくれる人がちゃんといる。
母も、父も。
......私自身も、きっとそうなれる。
その時、スマホに通知が届いた。
送信者は優香。写真が一枚、添付されていた。
そこに映っていたのは、白無垢姿の優香と、紋付き袴に身を包んだ義彦だった。優香は慎ましやかに微笑み、義彦はどこか誇らしげな顔をしている。
茜は、自分たちの結婚写真を見上げた。
あの時、和装の写真を撮りたいと提案したのは自分だった。けれど義彦は「和装は面倒で似合わない」と言って、聞く耳を持たなかった。
なのに今は、進んで羽織袴を纏い、別の女と写真に納まっている。
......そうか。これが「大切な人」と「どうでもいい人」の違いなのだ。
さらにメッセージが届いた。
【茜さん、明日、私たち結婚式を挙げます。招待したかったけど......お母さんが怒ってて。あなたに会いたくないって。だから来ないでね。式が終わったら、義彦と三人で食事しましょう】
なんと稚拙な勝ち誇り方だろう。茜は冷笑しながら、一言だけ返した。
【おめでとう】
そして送信後、迷わず優香の連絡先をブロックリストに入れた。その指は止まらず、以前契約した解体業者の番号をタップしていた。
この家は、茜の愛と努力の結晶だった。だが去る者に未練など必要ない。彼女の記憶も、想いも、ここにはもう置いていかない。
翌日、結婚式。
出席者は優香の親戚と友人たちばかり。
義彦は始まりから終わりまで、ずっと落ち着かない様子で周囲を見回していた。
茜の姿を探していたのだ。
だが彼女は、現れなかった。
式が終わり、英里を病院に送り届けたあと、義彦は自宅に戻ることにした。
優香が「茜さんに直接お礼が言いたい」と言い出し、彼も断らなかった。自分たちには、やましいことなど何もないと思っていたから。
しかし、玄関のドアを開けた瞬間、義彦の全身が凍りついた。
そこには、もう「家」と呼べるものはなかった。
壁紙はすべて剥がされ、フローリングも消え、むき出しのコンクリートが広がっていた。
家具も照明も、すべて姿を消していた。
ただ、リビングの中央に義彦の私物だけが入った段ボールが無造作に置かれている。
優香が小さく息を呑む中、義彦は震える手で段ボールの上にある封筒を取った。
中には――
一枚の離婚届と、茜の手術記録。
子宮外妊娠と、緊急手術の診断書だった。