愛は流星のように、銀河へと消えていく

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愛は流星のように、銀河へと消えていく

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父の親友の弟、名目上は「叔父」と呼ばれる荻原宗太(おぎわら しゅうた)と、六年間も秘密の関係を続けていた。 彼と最も激しく求め合ってい...

Chương (1)

第1章

父の親友の弟、名目上は「叔父」と呼ばれる荻原宗太(おぎわらしゅうた)と、六年間も秘密の関係を続けていた。 彼と最も激しく求め合っている最中、電話が鳴った。 海外にいる父からだった。 「お前、いつになったら海外に行って柴崎家と結婚するつもりだ?今のお前の評判じゃ、もらってくれるだけでありがたいと思え」 その言葉を耳にした宗太は、動きをいっそう荒くした。 和沙の身体は打ちつけられ、声を抑えるのがやっとだった。 彼女は唇を噛みしめ、必死に声を漏らさないようにして、電話の向こうに慌てて言った。 「お父さん、それ全部デマよ。柴崎家の息子なんて知らないし、その結婚、私はしない」 電話を切った瞬間、息をつく暇もなく、彼女は体ごと裏返され、再び彼の下に押し倒された。 宗太は耳元に噛みつくように囁いた。「和沙、他の男と結婚してみろ、許さない」 そう言いながら、彼は躊躇なく彼女の中にすべてを解き放った。まるで罰のように、痕跡を残した。 第1話 父の親友の弟、名目上は「叔父」と呼ばれる荻原宗太(おぎわら しゅうた)と六年間も秘密の関係を続けていた。それは、芳賀和沙(はが かずさ)にとって密やかな悦びだった。 彼と最も激しく求め合っている最中、電話が鳴った。 海外にいる父からだった。和沙は仕方なく電話に出る。 「お前、いつになったら海外に行って柴崎家と結婚するつもりだ?今のお前の評判じゃ、もらってくれるだけでありがたいと思え」 その言葉を耳にした宗太は、動きをいっそう荒くした。 和沙の身体は打ちつけられ、声を抑えるのがやっとだった。 彼女は唇を噛みしめ、必死に声を漏らさないようにして、電話の向こうに慌てて言った。 「お父さん、それ全部デマよ。柴崎家の息子なんて知らないし、その結婚、私はしない」 電話を切った瞬間、息をつく暇もなく、彼女は体ごと裏返され、再び彼の下に押し倒された。 宗太は耳元に噛みつくように囁いた。「和沙、他の男と結婚してみろ、許さない」 そう言いながら、彼は躊躇なく彼女の中にすべてを解き放った。まるで罰のように、痕跡を残した。 和沙は戸惑い、震える声で尋ねた。 「……もし、妊娠したらどうするの?」 彼は満足げに耳元でくすりと笑った。 「そのまま産めばいい」 激しく愛し合ったあと、宗太は彼女にキスをして、「夜は戻らない」と告げた。 不安を拭えず、和沙はピルを買うために外に出ることにした。 マンションを降りたところで、彼の車が近くに停まっているのが見えた。ドアが半開きになっている。 和沙が彼のもとへ行こうとしたが、彼の腕の中にしっかりと抱かれている女性がいた。顔を寄せ、深くキスを交わしていた。 それは昨日帰国したばかりの、彼の婚約者、浜崎心美(たちばな ここみ)だった。 「彼女とは遊びだよ。 俺が愛してるのは君だけだよ、和沙。 関係を公にできないのは、君のためだ」 宗太の優しい言葉が今も耳に残っている。彼女はそれを信じていた。本気で、彼の仕方ない事情に胸を痛めていたのに。 長いキスが終わり、心美が彼の胸元に寄り添った。 「もうすぐ婚約するのよ。いつになったら和沙ときっぱり切れるの?」 「もう少し待ってくれ」宗太の声には、感情がなかった。 「まさか、本当にあの女を好きになったわけじゃない?」 心美は疑いがかった声で問いかけた。 宗太は薄笑いを浮かべ、冷たい口調で答えた。 「俺が彼女を愛してる?忘れたのか?兄が死んだのは、あの女の父親、翔真のせいだ。 近づいたのは、すべては復讐のため。彼女を徹底的に壊して、翔真への報いを果たすためだ」 心美は笑いながら、彼の首に手を回す。 「知ってるわよ。学生の頃、あなたの言う通りに、あの女を何度もいじめたじゃない。まるで犬みたいに。 あなたの指示通り、彼女の男関係が乱れてるってデマを流して、今や街中みんなが知ってる、和沙は生まれつきの尻軽女って。それでも足りないっていうの?」 和沙は頭が真っ白になった。全身の血が凍りつき、まるで魂ごと抜け落ちたようだった。 かつて彼女を地獄に叩き落としたいじめ、評判を傷つけられる汚い噂、すべて、宗太が仕組んだものだった。 バカみたいに、彼の言う「時期が来たら」なんて信じて、いつか未来をくれると待ち続けていたんだ。 しばらくして、彼の冷たい声が再び響いた。 「もちろん足りない。 俺のために婚約を断らせて、将来誰にも嫁げなくしてやる。父親とも絶縁させて、一生孤独にさせてやる」 心美は妖艶に笑いながら彼に絡みついた。 「はは、そのジジイもぶちギレるわね。でも、本当の話?私を騙してない?」 宗太は心美の顔を両手で包み、優しく言った。 「騙すわけないだろう?証明してやる。君が一番大事だよ」 そう言って、彼は車のドアを勢いよく閉めた。 そしてすぐに、車は激しく揺れ始めた。 車内から聞こえる微かな音。七月の暑さの中で、和沙の歯は寒さに震えていた。 ぼんやりと薬局に入り、避妊薬を買い、無表情で飲み下した。 そのあと、彼女は街角にしゃがみこんで、身体を丸めて、声を上げて泣いた。 あんなにも彼を愛していたのに。心から、純粋な気持ちを差し出していたのに。どうして、こんなに踏みにじられなければならなかったの? 彼女が十歳のとき、父の親友が事故で亡くなり、遺されたのが十六歳の弟、宗太だった。 父は彼を引き取り、「おじさん」と呼ぶように言った。 そのとき、和沙は一目で涼しげな目元の少年を好きになった。 けれど彼は、ずっとそっけなかった。 一年後、彼女はいじめられるようになった。 高校に入ってからも、父は海外勤務が多く、面倒を見てくれるのは宗太だったが、いじめはひどくなった。 服を脱がされ、水をぶっかけられ、写真を貼られた。 「尻軽女」、「恥知らず」と周囲はそう言った。 屋上から飛び降りようとした絶望の瞬間、彼が駆け上がってきて、強く抱きしめてくれた。 「和沙、俺は信じてる」 あの日から、彼女は彼に恋をした。「叔父」だからこそ、気持ちは胸の奥に隠したまま。 大学入試後、和沙が薬を盛られ、ホテルに連れて行かれたとき、彼が助けてくれた。 そしてその夜、二人は一線を越えた。 大学では、彼女の噂はさらに過激になった。ついにはあのデマが事実であるかのように定着してしまった。 だが彼は言ってくれた。「和沙、俺は信じてる。潔白な者は、必ず分かってもらえる」 その言葉を信じ、彼女は恐れなくなった。昼は「叔父と姪」、夜は恋人。そんな秘密の関係に溺れていた。 卒業するまで、下劣な噂は止むことなく、和沙は宗太がそばにいてくれるから大丈夫だと思っていた。 まさか全ての根源が彼自身だったなんて。 その夜、彼女は街角で一晩中座っていた。 朝になり、涙はすっかり乾いていた。 和沙は父の芳賀翔真(はが しょうま)に電話をかけた。穏やかな声で、静かに告げた。 「柴崎家との結婚、受けるわ。 七日後、海外で式を挙げる」 第2話 電話の向こうで、翔真は驚いたようだった。 「昨日はあんなに拒んでたのに、今日はどうして急に同意したんだ?」 和沙は淡々と答えた。「考えが変わったの。 お父さん、私が海外で結婚する件、まだ……宗太さんには言わないで」 もし宗太が復讐のために近づいてきたのだとしたら、彼は簡単に手放してくれないだろう。だから、今はまだ、彼に自分が海外で政略結婚することを知られてはいけない。 翔真は少し怪訝に思ったが、すぐに納得した。和沙は宗太と幼い頃から親しく、長年一緒に生活してきた。ただの未練だろうか。 「わかった。少し時間が経ってから伝えるとしよう」 「そうだ、お父さん、この前言ってた探偵の知り合い、連絡先を教えてくれない?」 離れる前に、確かめておきたいことがある。 電話を切ってしばらくすると、和沙のスマホに連絡先が送られてきた。 彼女はふらつきながら立ち上がると、朝の風が吹き抜けて、思わず身震いした。 あと七日で出国だ。宗太の家にはまだ荷物が残っている。 まあ、せめて今のうちは、これまで通りのふりをしておこう。余計な波風を立てずに、静かに出ていけばいい。 重い身体を引きずって家へ戻ると、どうにかシャワーを浴びたが、目の前がぼやけて意識が飛びそうだった。 一晩中眠れなかったせいだ。浴室を出ると、彼女がベッドに倒れ込むようにして布団をかぶった。 耳の奥に、昨夜の宗太の言葉が何度も反響する。和沙は震えが止まらない。寒くてたまらなかった。 玄関の鍵が回る音がした。宗太が帰ってきた。 彼は和沙がベッドに横になっているのを見て、まだ眠っているのだと思ったのか、キッチンに向かった。 どれくらい経っただろうか。彼は朝食を乗せたトレーを持って寝室に入ってきた。 「和沙、ちょっとでも食べなよ」 返事がない彼女に近づき、そっとスプーンを差し出す。 「いらない」 和沙は顔を背け、かすれた声でそう言った。 その声の様子がおかしいと感じた宗太は、少し眉をひそめてやさしく尋ねた。 「どうした?どこか具合が悪いのか?」 彼は器を置いて、彼女の額に手を伸ばした。 「うん、調子悪いの」再び彼の手を避けながら、和沙は淡々と答える。 宗太は軽く眉をひそめた。昨夜帰宅しなかったことで機嫌を損ねたのだろうと思い込んでいた。 「昨夜戻らなかったから、怒ってるのか?」 低い声で宥めながら、ようやく彼の手のひらが彼女の額に触れた。すると、熱い体温に彼の表情が一変した。 「熱があるじゃないか!」 彼女の反応を待たず、宗太は強引に身体を抱き上げた。 「病院へ連れて行く」 病院まであと少しというところで、彼のスマホが鳴った。 「宗太、うちのワンちゃんが病気なの!早く動物病院に連れてって」 心美の慌てた声が電話の向こうから聞こえた。 「心美、落ち着いて。すぐ向かうよ」 急ブレーキをかけ、車は反対方向へUターンした。和沙の頭が前のシートにぶつかりそうになる。 彼女は身体を支え直し、唇をかみしめて言った。 「止めて。病院は自分で行けるから」 「わがまま言うな」宗太は運転を続ける。「こんな熱じゃ、一人で行かせるなんてできるわけないだろ」 ルームミラー越しに彼女の顔色を見て、彼はため息をつき、声のトーンを優しく落とした。 「また焼きもちか?まったく、子どもみたいだな。 いい子にしてな。芝居は最後までやり通さなきゃな。先に心美を動物病院に連れて行ってから、すぐに君を病院に連れていくから」 和沙は目を閉じ、口元にかすかな苦笑を浮かべた。 そう、芝居だ。 だけど、彼の芝居の相手役は、いつだって彼女だけだった。 間もなく、ペットキャリーを手にした心美が乗り込んできた。 ペットキャリーを和沙の隣の席に置き、彼女の顔を見ると、冷ややかな目つきでにやりと笑い、助手席に座る。 「和沙もいたの?久しぶり。顔色、ひどいわね」 心配するふりをしながらも、声には露骨な嘲りが滲んでいた。 和沙は目を閉じたまま、返事もする気になれなかった。 心美は気にも留めず、センターコンソールに置かれたチタン製の置物に目をやり、ふっと笑った。 「宗太、こんなもの、いつから車に置いてたの?」 それは一週間前、和沙が贈ったものだった。 特注で彫ってもらった、二つの人形が抱き合っている置物。意味は離れないように。 心美はそれを手に取った。 「結構重いわね。抱き合ってるの?これは……」 心美がちらりと後部座席の和沙を見た。 「もしかして、和沙がくれたの?」 和沙がわずかに眉をひそめる前に、宗太が先に口を開いた。 「違う。見かけて面白そうだったから買っただけ」 心美は笑いながら、その置物を和沙の足元に投げた。 「なんかダサいね。宗太っぽくない」 心美は振り返り、和沙に向け、わざとらしく言った。 「和沙、それ捨ててくれない?あまりに醜いから、私がもっといいやつ買ってあげるから」 宗太は何も言わなかった。つまり、彼女の提案を了承した。 和沙の指先が震え、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。 「わかった」 彼の視線がルームミラー越しに彼女を見つめ、その目の奥には複雑な色が浮かんでいた。 車は間もなく、街で最も有名なペット病院に到着した。 心美はそわそわしながら、宗太に声をかける。 「宗太、一緒に中に入ってくれない?」 宗太は後部座席で目を閉じたままの和沙をちらりと見た。 「和沙、ここで待ってて。心美を中まで送ったらすぐ戻る」 そう言い残し、彼はペットキャリーを手に心美と一緒に病院の中へ消えた。 和沙はゆっくりと目を開けた。寒気が全身を包み、震えが止まらなかった。 熱はさらに上がっている。呼吸も苦しくなって、意識もぼんやりとしてきた。 彼女は車を降りようとして、ドアに手をかけた。 「カチッ」という音とともに、ロックがかかった。 無力感に包まれたまま、彼女は座席に身を戻すしかなかった。 電話をかけようと思ったが、宗太が彼女を抱えて出たとき、スマホは家に置きっぱなしだった。 時間だけが無情に過ぎていく。彼は戻ってこなかった。 高熱に加え、日差しで熱せられた車内の空気は、さらに彼女の身体を追い詰めていった。 胸の奥がどんどん締めつけられ、呼吸は限界に近づいていた。 第3話 車内の空気は灼けるように熱く、和沙の一呼吸ごとに、まるで焼けた砂利を喉に流し込んでいるようだった。 「助けて……」 彼女は必死に窓を叩く。 閉ざされた車内は蒸し風呂のように、温度がどんどん上がっていく。 高熱で意識はぐらぐらと揺れ、息苦しさは限界を越えようとしていた。目の前の景色がぼやけていく。 彼女は窓を割るために、手探りで何か硬いものを探した。 指先に触れたのは、心美が後部座席に投げ捨てた「永遠に離れない」置物だった。 一瞬、手が止まる。次の瞬間、震える腕でそれを振り上げ、全力で窓に叩きつけた。 ガン、ガン、と鈍い音が車内に響く。 ようやく、窓に小さなヒビが入った。 その衝撃で、置物もひび割れ始めた。 鋭利な破片が手のひらに突き刺さり、血が滲み出した。 彼女はもう痛みなど感じなかった。歯を食いしばり、ひたすら叩き続ける。 そして澄んだ破裂音とともに、人形は完全に壊れ、車の窓ガラスも蜘蛛の巣のようにひび割れた。 残された力を振り絞り、彼女は肘で窓に体当たりした。 ガシャッ ガラスが割れ、外の空気が一気に流れ込んでくる。一瞬、意識がはっきりした。 和沙は手足を使い、惨めな姿で狭い窓の破れ口から這い出し、地面に転がり落ちた。 全身はすでに冷や汗でびしょ濡れ。彼女は激しい息遣いで、よろめきながら立ち上がる。 高熱と窒息感で全身の力が抜け、足元は綿のようにふらついていた。 焼けるように熱い車体に手をついて、彼女はふらつきながら歩き始めた。 だが数歩進んだところで、視界が大きく揺らぎ、真っ暗になった。 意識の最後、遠くで救急車のサイレンが聞こえたような気がした。 意識が光と闇のあわいを漂う。 耳元で、誰かの焦った声がかすかに聞こえる。 「……体温が異常に高い。熱中症による高熱性けいれん、呼吸と循環に異常あり。緊急です。 ご家族の方は?署名が必要です。 お嬢さん、聞こえますか?ご家族の連絡先を教えてください」 朦朧とした中、乾いた唇がかすかに動いた。つい、ひとつの電話番号を無意識に呟いた。 「宗太……」 再び目を開けたとき、見えたのは真っ白な天井だった。そしてその視界の中に、うっすらと無精髭が浮かんだ、憔悴した宗太の顔が現れた。 彼は和沙が目を覚ましたのを見るや否や、安堵と喜びが入り混じった目で、彼女を抱きしめようと手を伸ばした。 「和沙、目が覚めたか?」 反射的に、彼女は顔をそむけ、彼の手を避けた。 宗太の手が空中で硬直し、心配そうな表情も一瞬で凍りついた。 慌てて、謝罪の言葉が飛び出した。 「ごめん、和沙、本当にごめん…… 一日中眠ってて、もう二度とこんな怖い思いさせないでくれ」 宗太は潤んだ目で彼女を見つめ、声もわずかに震えていた。 「全部、俺のせいだ……心美の犬が動物病院で驚いて、裏口から逃げちゃって…… パニックになって探しに行って……いつドアがロックされたのか、本当に気づかなかったんだ……」 彼女は無表情のまま、その言い訳を聞いていた。 「そう、心美の犬を探している間に、私はあなたの車の中で死にかけてた」 彼女の白くなった顔と、包帯で厚く覆われた手のひらを見て、宗太の胸が締めつけられる。 「本当にごめん、全部俺が悪い」 彼は彼女のもう片方の手をしっかり握りしめた。 「もう二度とこんなことしない。絶対に君を傷つけたりしない」 だが和沙は黙ってその手を引きはがした。 その冷たい拒絶に、宗太の表情には痛みと罪悪感が浮かぶ。 何かを思い出したように、彼はポケットからジュエリーボックスを取り出した。 中には、二つの人形が寄り添うデザインのネックレスが入っていた。 「君がくれた置物、壊れちゃったから」 彼は少し気まずそうに、でもどこか期待を込めて言った。 「新しいのを用意したんだ。俺たち、また永遠に一緒でいよう?」 彼女の首にかけようとしたその時、彼のスマホの着信音が鳴った。 表示された名前は、心美だった。 宗太の手が止まり、一瞬目をそらす。動揺した視線が和沙へと向けられた。 結局、彼はネックレスを彼女の手にそっと渡し、立ち上がって電話を取りに行こうとした。 病室のドアまで来たところで、彼は振り返った。まるで弁解するように、慌てて口を開いた。 「和沙、分かってるだろ?俺たちの関係、まだ公にできないんだ。だから、あいつとは……もう少しだけ、芝居を続けないといけない。 ちゃんと戻ってくるから、いい子で待っててくれ」 そう言って、足早に病室を後にした。 閉まったドアを見つめながら、和沙は口元に、どこか虚ろな笑みを浮かべた。 そう、芝居。 彼女、和沙は、宗太が世界に見せるための芝居に使っている、ただの道具にすぎなかった。 第4話 宗太が出て行った直後、看護師が部屋に入ってきて、手際よく和沙の点滴を交換し始めた。 「彼氏さん、本当に優しいね。ずっとそばに付き添ってたのよ。 検査結果が出たら、彼氏さんに取りに行ってもらってね」 彼氏? 和沙の目が一瞬空虚に揺れ、すぐに泣き顔よりもつらい笑みを浮かべて、首を横に振った。 「彼氏じゃない。私には、彼氏なんていない」 看護師は一瞬驚いたような顔をしたが、それ以上は何も言わず、静かに部屋を後にした。 和沙はベッドから起き上がると、自分で点滴の針を抜き、布団を跳ね上げて立ち上がった。検査結果を取りに行こうと、自力で歩き出す。 廊下の角を曲がろうとしたところで、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。宗太の声だった。 「いいって、心美、そんなに怒らないで。 ただの芝居だよ。あいつに見せるための。 ちゃんと君の言うとおりにしたじゃないか。車に閉じ込めたのも、俺の心が君にしかないって、証明するためだろ? ちょっと優しくしてやらなきゃ、俺に夢中になって、翔真とまで絶縁するようなこと、してくれないだろ?」 その場に、和沙は足が凍りついたように動かなくなる。全身の血が一気に冷たくなった。 一言一言が、鋭い氷の針のように、彼女の心臓を突き刺していく。 わざと、だったんだ。 心美の機嫌を取るためだけに、宗太は冷たい目で、和沙が車中で死にかけていたのを見ていた。 涙が一気にあふれ出し、和沙は口をぎゅっと押さえた。声が漏れないように、必死に堪えながら。 ポケットの中、さっき宗太が渡してきたあのネックレスに指が触れた。 なんて、バカげてる。 彼女はふらつきながら、廊下の端にあるゴミ箱まで歩き、ネックレスを放り込んだ。 その後、彼女はさらに三日間入院し、宗太はまるで何もなかったかのように、献身的に彼女の世話を焼いた。 退院後、和沙は宗太からもらったものを一つひとつ集め始めた。 彼女が転んだときに、心配で買ってきた膝や肘のサポーターが、小学生みたいに子どもっぽい。 彼自身の字で書かれた「和沙のための注意リスト」、一日何杯水を飲むかまで細かく記されていた。 出張のたびに「ひとりで退屈しないように」と言って買ってきた、そのお土産たち。 限定版のぬいぐるみ、高価なアクセサリー、最新のガジェット…… すべて、かつては彼の愛の証だと信じて、大切にしていたもの。 甘かった記憶が、今はただ、ひどく滑稽で、残酷だった。 和沙はそれらを、無造作に黒いゴミ袋に詰めていった。 彼女が最後の袋を引きずって玄関に向かおうとしたとき、扉が開いた。 宗太が立っていた。彼女の手元のゴミ袋を見て、聞いた。 「何を捨てるつもり?」 和沙は平然とした口調で答えた。「いらない物よ」 宗太は、彼女の様子がどこかおかしいと感じたが、顔色の悪さを見て「まだ機嫌が悪いだけだ」と思い込んだ。 そして、いつものように後ろから彼女を抱きしめた。 「今夜、心美の家でパーティーがあるんだ。君も一緒に来てほしいって」 その瞬間、和沙の身体がビクッと硬直する。拒むように身をよじった。 「行かない」 宗太は彼女の耳元に顔を寄せ、吐息混じりに囁いた。 「まだ嫉妬してるの?」 彼は彼女の身体をくるりと向けさせて、甘い声で続けた。 「なぁ、機嫌直せよ。愛してるのは君だけなんだ。 じゃあさ、今ここで証明してあげようか?」 彼は顔を近づけ、キスをしようとした。和沙はわずかに顔をそらした。 その視線の奥に宿った情欲を見た瞬間、彼女は深く息を吸い込んで言った。 「分かった。行くよ」 第5話 パーティー会場の片隅で、和沙は静かに佇んでいた。視線は宴の中心に向けられている。 心美が宗太の腕に寄り添い、手にした赤ワインを高々と掲げた。 「今夜はお忙しい中お越しいただき、ありがとうございます。この機会に、皆さまに嬉しいご報告があります」 そう言って、彼女は宗太を見上げる。その瞳は愛情に満ちていた。 「私と宗太は、婚約することになりました」 その言葉が落ちると、会場は拍手と歓声に包まれた。 宗太は穏やかな笑みを浮かべ、心美に優しく耳打ちする。 そして周囲の歓声に後押しされるように、彼は彼女に唇を重ねた。だが、その視線は、人混みを抜け、片隅に佇む和沙へと向けられていた。 和沙の胸がきゅっと締めつけられ、思わず目を伏せる。グラスの赤ワインを一気に飲み干した。 長いキスが終わったあと、心美はワイングラスを持ったまま、宗太の腕を取って、さりげなく和沙の近くへと歩み寄ってきた。 「和沙、こんなところでひとりでお酒?私と宗太の婚約、そんなに気に入らなかった?」 和沙は作り笑いを浮かべる。 「そんなことないわ。ご婚約、おめでとうございます、叔父さん、浜崎さんも」 宗太の眉がほんのわずかに動いた。不満げな表情が一瞬浮かぶ。 「顔色が悪い。あまりお酒は飲まないほうがいい」 心美は宗太の胸元に頬を寄せる。 「和沙の顔色が悪いって?何か嫌なことでもあったの?」 彼女はわざとらしく首にかかったダイヤのネックレスに指を滑らせた。 「これ、宗太がわざわざオークションで落としてくれたの。1千万円くらいしたかしら。どう?綺麗でしょ」 和沙は視線を落とし、淡々と答えた。 「ええ、綺麗だね」 「でしょ?」心美は得意げに笑った。「このネックレスにはもう一つおまけがついててね。宗太の車に飾ってた、あの変な置物と似たデザインのネックレス。気持ち悪くて、捨てちゃったわ。 安っぽいし、ダサいし、私たちには似合わないもん」 その言葉を聞いた瞬間、和沙の胸にチクリと痛みが走った。 なるほど。あのとき病院で宗太がくれたネックレスは、心美がいらないと突き返したゴミだったのか。 彼女は顔を上げ、宗太を見つめた。 だが宗太はその視線から逃れるように、グラスを手に取り、静かに口をつけるだけだった。何も言わず、何も答えない。 和沙は笑い、自分がただの道化にすぎないことを、あらためて痛感する。 そのとき、心美が急にバランスを崩し、手に持っていたワインが勢いよく傾いた。 真っ赤な液体が、和沙の薄いドレスに容赦なくこぼれ落ちる。 「きゃっ!」 心美がわざとらしく驚いた声を上げる。 「ごめんなさい、和沙。わざとじゃないのよ」 周囲の視線が一気に和沙に集中した。 和沙は拳を固く握りしめたまま、黙っていた。 心美はさらに演技じみた口調で言う。 「上の階にゲストルームがあるの。使用人に替えのドレスを持ってこさせるから、着替えてきて」 宗太がようやく口を開く。声はあくまで穏やかだ。 「行ってきなよ。風邪ひく前に」 和沙は何も言わず、踵を返して階段へと向かった。 二階のゲストルーム。使用人が予備のドレスを置いて部屋を出る。 和沙はドアを閉め、濡れたドレスを脱ぎ、替えの服に袖を通そうとした、そのときだった。 突然、ドアが外から鍵で開けられた。 見知らぬ男たちが部屋に押し入り、彼女の身体にいやらしい視線を投げかける。 「これが噂の和沙か。こりゃタマらんな」 「なんでもアリなんだろ?俺たちで試してみようぜ?」男が下品な笑みを浮かべながら口を挟んだ。 男たちの口から次々と飛び出す下品な言葉は、街中に広まっていた噂をそのままなぞっていた。 和沙の顔がみるみる青ざめる。咄嗟にドレスを抱きかかえ、身体を隠す。 「なにする気?出て行って」 男たちは笑いながら、じりじりと距離を詰めてくる。 「なに気取ってんだ?」 「この町でお前が何人と寝たか、知らねぇ奴いねーぞ?」 「今日はたっぷり可愛がってやるよ!」 一人の男が彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。 和沙は悲鳴を上げ、必死でテーブルの上のランプを掴んで投げつけた。 「やめて!触らないで」 「へぇ、なかなかやるじゃん!」男の一人が和沙の手首を掴み、力任せに引き寄せた。 和沙は痛みによろめき、手に持っていたドレスが床に落ちる。 男たちはさらに興奮し、シャツを脱ぎ捨てる。 和沙は必死でもがいた。恐怖で全身が震えていた。 「やめて!放して」 しかし彼らの手は止まらない。 彼女のインナーを乱暴に引き裂き、白い肌が無防備にさらけ出される。 そして、最後の衣服までもが引きちぎられそうになったそのとき、「ドンッ!」ドアが勢いよく蹴り開けられた。 その先に立っていたのは、血相を変えた宗太だった。 「やめろ!」 第6話 鋭い怒声と共に、宗太が和沙の前に立ちはだかった。 彼は即座に自分のジャケットを脱ぎ、震え上がり服も乱れている和沙の身体をそっと包み込んだ。 「和沙、心配するな、俺が来た」 その手が彼女の冷たい腕に触れた瞬間、和沙は火傷でも負ったかのように、びくりと身体を震わせた。 宗太の瞳が一瞬揺らぐ。ほんの一瞬、胸の奥に痛みが走る。 後に続いて部屋に入ってきたのは、作り物の心配顔を浮かべた心美、そして騒ぎを聞きつけて集まってきた招待客たちだった。 「これは……どういうこと?」 宗太は和沙を支えながら、冷たい視線を男たちに向ける。 「警察を呼べ」 しかし男たちは怯えるどころか、ニヤリと笑った。 「警察?何の罪で?俺たちは呼ばれて来ただけだし」 「そうだよ、芳賀さんが自分で誘ってくれたんだよ。人数が多いほうが楽しいって言ってさ」 和沙は全身を震わせながら、反論しようと口を開いたが、その前に心美がわざとらしく口元を手で覆い、信じられないという顔を作る。 「うそ……まさか、まさか本当だったの?和沙、どうしてそんなことするの?」 その声はちょうど良く周囲の人間全員に届くようなトーンだった。 すると瞬く間に、招待客たちのあいだでざわめきが起こる。 「ほらな、前から怪しいと思ってたんだよ。いくらなんでも品がなさすぎるだろ」 「昔から聞いてたわよ、芳賀家の令嬢って結構派手だって。高校時代の噂もあったし」 「顔は清楚っぽいのに、中身は真逆ってことか」 「それにしても叔父とその婚約者のパーティーでこんなことするなんて……恥知らずもいいとこだな」 「一晩に何人も相手するって噂、まさかとは思ってたけど……どうやら本当だったのね」 毒のような言葉、軽蔑に満ちた視線。その一つ一つが、鋭利な刃物のように和沙の心を深くえぐっていく。 「やめろ!」 宗太が突然立ち上がり、人々の噂話を遮った。 彼は和沙を自分の背後にかばいながら、顔に怒りの色を滲ませて言う。 「和沙はそんな子じゃない!絶対に何かの間違いだ! まだ若いし、純粋すぎるだけだ。きっと誰かに騙されたんだよ」 彼は深いため息をつきながら、少しばかりの苦悩をにじませる。 「皆さん、根も葉もない噂を信じるのはやめて。確かにちょっと遊び好きなところはあるけど、根は悪い子じゃない」 その言葉は、一見すると彼女を庇っているように聞こえる。だが聞いていた人々の耳には、あの噂はやっぱり真実だったという裏付けにしかならなかった。 ざわめきは少し収まったが、視線に宿る侮蔑の色はむしろ深まったように見える。 和沙はふいに顔を上げ、失望の眼差しで宗太を見つめた。 もう、わかってる。 これは全部、彼と心美が仕組んだ罠だった。 これまでも何度もそうだった。まず彼女を奈落の底に突き落とし、それから救いの手を差し伸べるふりをする。 そうやって和沙を辱め、壊し、もがく姿を見ることが、彼らにとって何より楽しい遊びなのだ。 第7話 和沙は、長年愛してきた、人生で唯一の光だと思っていた宗太を見つめた。 もう麻痺していると思っていたその心が今、まるで皮を剥がれるように、痛みによって引き裂かれていく。 愛した年月も、夢も、信頼も、すべてが音を立てて崩れていく。 「私がどんな女かって、おじさんなら、一番よく知ってるでしょ?」 和沙の声は静かだった。けれど、そこには凍てつくような冷たさが宿っていた。 「この何年かで、私が誰と寝たか……」 一拍置き、彼女は唇の端にかすかな自嘲の笑みを浮かべた。 「何回寝たのか、おじさんが知らないはずないよね?」 宗太は彼女の瞳を見つめ、わずかに硬直し、胸の奥で何かが締めつけられるのを感じた。 目の中に、複雑で捉えどころのない感情が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。 何か言おうとした宗太に先んじて、心美が一歩前に出る。彼の腕にしっかりと自分の腕を絡めながら、鋭く言い放った。 「和沙、どういう意味?自分のやったことを棚に上げて、恥知らずにも宗太を責めるなんて」 彼女は上から下まで和沙を値踏みするように見て、嘲るように言った。 「もしかして……自分の叔父さんにまで手を出すほど欲求不満だったとか?」 その瞬間、会場にはまた新たな囁きと嘲笑が広がった。和沙を見る目は、ますます侮蔑に満ちたものに変わっていく。 だが和沙は、まるで何も聞こえないかのように、ふっと鼻で笑った。 「ふふ、あり得ないわ」 彼女は一語一語、はっきりと言った。その視線はずっと宗太を真っ直ぐに見つめたままだった。 「自分の叔父を好きになるなんて、そんな愚かで気持ち悪いこと。 私がするわけないじゃない」 そして首を少し傾け、まるで無邪気な子供のような口調で宗太に尋ねた。 「そうでしょ?」 宗太の眉間が深く寄る。その表情には、明らかな苛立ちが浮かんでいた。 心美はさらに嘲るように言った。「へぇ、本当に宗太のことなんて何とも思ってないってわけ?でもさ、あなたのその姿見てみなさいよ。これでも純粋とか言ってるんだから笑えるわ。お父さん、どうやってそんな娘を育てたのかしら?」 すると和沙は彼女を見て、冷えきった笑みを浮かべた。 「私の父? 彼はずっと海外にいたの。私がこうなったのは、全部おじさんが育てた結果じゃない? 知らなかった?心美さん」 心美の笑みは一瞬で凍りつき、何も言い返せなくなった。 宗太の表情は完全に曇った。 「和沙、いい加減にしろ!」 和沙は再び低く笑った。 「そうね、もう十分でしょ」 彼女はすっと表情を整え、静かにまわりを見渡す。 「みんな、私のことをふしだらな女だと思ってるのよね? じゃあ、そういうことにしておけばいい」 これ以上言葉を費やす意味はない。彼女は本当に疲れていた。どうせすぐに海外で結婚するのだから、彼らがどう思おうと構わない。 彼女の視線が、寄り添う宗太と心美の姿を一瞬だけかすめた。口元には丁寧な微笑みが浮かぶ。だがその目は、まったく笑っていなかった。 「ご迷惑おかけしました。お二人の婚約、心よりお祝い申し上げます。 末永くお幸せに。お子さんにも恵まれますように」 宗太は眉をひそめ、何か言いかけた。 和沙は、そっと彼のジャケットを脱ぎ、手に持っていた自分のドレスに着替え直した。 「こんなふしだらな女には、ここは相応しくないわ。 これ以上、目障りな存在になるつもりはないから」 そう言って、彼女はもう宗太を見ることなく、心美にも、他の誰にも目を向けず、その場を後にした。 第8話 和沙が家に戻ると、すぐにスマホが鳴った。 翔真からの電話だった。 「和沙、こっちはもう全部手配済みだ。まさか今さら迷ったりしてないよな?」 「心配いらないよ、お父さん。明後日のフライト、ちゃんと準備してあるから」 通話を切ったそのすぐあと、玄関の扉が開き、宗太が入ってきた。 彼は先ほどの会話を聞いた。 「誰のフライトだ?どこへ行くつもりなんだ?」 声には焦りが混じっていた。 和沙は適当にごまかした。「父さんが旅行に行くから、そのチケットの確認頼まれただけ」 翔真の名を聞いた瞬間、宗太の表情が僅かに変わる。それ以上は追及してこなかった。 だが次の瞬間、彼は数歩で距離を詰め、和沙を冷たい壁に押しつけた。 「さっきのパーティーでの態度、どういうつもりだ?」 宗太は彼女に詰め寄り、瞳には抑えきれない怒炎が燃えていた。 「おじさんだの、おばさんだの、あんなふうに呼ぶなんて」 彼は彼女の顎を無理やり掴み、顔を引き寄せた。「わざとだろ、和沙?」 和沙は顔を上げさせられながら、死んだような瞳で彼を見つめ返した。 「だって、事実でしょ」 「事実だと?」 その無表情で突き放すような口ぶりに、宗太の怒りがさらに膨れ上がった。 「俺たちは一体何なんだ?はっきり言え! それとも、俺が教えてやるか」 そう言うなり、彼は片手で彼女の両腕をねじ上げ、頭上の壁に押しつけた。 そして唇が容赦なく彼女に重なった。罰のようなキスだった。 もう片方の手は、迷いなく彼女の体に触れてくる。 和沙の全身は硬直し、吐き気がこみ上げる。 彼のキスは抗いようのない強さで、彼女の唇をこじ開け、奪い取っていった。 屈辱と怒りが彼女の心を押し潰していく。 その瞬間、彼女は力の限り、宗太の舌を思い切り噛んだ。 鉄のような血の味が、二人の間に広がる。 宗太は痛みに顔を歪め、彼女を離した。口を手で覆い、数歩後ろへ下がる。その瞳の奥には、暗く読めない感情が揺れていた。 和沙はその場に崩れ落ち、壁にもたれながらゆっくりと座り込んだ。 次の瞬間、張りつめていた涙が一気にあふれ出した。彼女は縮こまり、声を上げて泣きじゃくった。 「宗太……私、何をしたの?何がいけなかったの? どうして、あなたはこんな仕打ちを…… どうして……」 彼女の泣き声を聞き、宗太は理由もなく慌てふためいた。 しゃがみ込み、あたふたと彼女の涙を拭おうとしながら、自分でも気づかないほど焦った口調で言った。 「和沙、ごめん、泣かないで。俺が悪かった…… 心美のことだって、本気じゃない。ただの遊びなんだ。誤解しないで」 彼は必死に弁解しながら、彼女をなだめようとする。 「信じてほしい。少しだけ、時間をくれ。会社のことが片付いたら、俺たちのこと、公にするから。 今公表したら、会社に大きな影響が出る。将来……将来、お前を幸せにできなくなるかもしれないだろ? 今日のことだって、本当に俺が悪かった。和沙を守りきれなかった。ごめん…… もう二度と、同じことはしない。絶対に……」 それでも和沙の涙は止まらなかった。宗太は彼女をそっと抱き上げ、寝室のベッドに静かに横たえた。 今度は彼女に触れようとはせず、ただ複雑な眼差しを向けるだけだった。 和沙はベッドの上で身を丸めた。感情の揺れに胃がきしみ、鈍い痛みを繰り返す。 宗太はその顔を見つめ、眉をひそめ、静かに寝室を出た。 間もなく、台所から鍋を扱う音が聞こえてきた。 まるで、何度も繰り返された日のように、彼女が体調を崩すたび、宗太は必ず台所に立ち、彼女のためにおかゆを作っていた。 第9話 翌日、和沙は荷物をまとめ始めていた。 昼頃、スマホが振動した。送信者は宗太だった。 【和沙、急ぎの資料を家に忘れてきた。悪いけど、届けてもらえる?】 そのメッセージには、位置情報が添えられていた。 和沙は一瞬手を止め、画面を見つめたまま考え込む。そして、返信した。 【わかった】 宗太は翔真の親友の弟。明日にはもうこの街を離れる予定だった。彼女は、これ以上揉め事を起こすつもりはなかった。 彼女は資料を見つけ、家を出る。 タクシーで宗太が送ってきた位置情報の場所とあるカラオケへと向かった。案内された個室の番号を辿っていくと、わずかに開いたドアの隙間から、聞き慣れた声が漏れ聞こえてきた。 宗太と心美だった。 「宗太、明日私の誕生日でしょ?この前、和沙に思いっきり恥かかされたの、まだムカついてんの! 明日はね、あの女を皆の前でズタボロにしてやるの。何人か雇って、本妻のフリして乗り込ませてさ、あの女が不倫相手で何度も中絶してるってぶちまけてやる! これでさすがに、あの父親も黙ってないでしょ?」 室内の薄暗い照明で、宗太の表情はよく見えなかった。 だが数秒後、彼はぼそっと一言だけ答えた。 「いいよ、君の好きにしな」 和沙はその場に立ち尽くし、手に持った資料袋を見つめた。小さく鼻で笑う。 何度騙されれば気が済むの?本当に世界一のバカね。 そのとき、部屋の中から再び心美の声が響いた。 「宗太、ちょっとお手洗い行ってくるね」 心美が出てくる気配に気づいた和沙は、慌てて手の中の資料を近くのゴミ箱に放り込み、踵を返してその場を離れた。 しかし、階段の踊り場に差しかかったところで、数人の黒い影が突然現れ、彼女を暗い個室へと無理やり引きずり込んだ。 バンッ! ドアが閉まる音が鳴り響く。 目の前には、冷ややかな笑みを浮かべた心美が立っていた。 「何よ?ドアの外で私と宗太の様子を見て、帰るつもりだった?」 和沙はぎょっとして、思わず彼女を見つめた。 心美は得意げに笑った。 「そう、あのメッセージね、私が勝手に送ったの。 自分がただの復讐の道具だって、やっと気づいた?私と宗太が仲良くしてるのを見て、心がズタズタでしょ? この前、あの車の中で宗太とヤってたときあなた、外で見えてたんじゃない?どんな気分だった?」 彼女はさらに顔を近づけ、目に殺意を宿した。 「宗太は情に流されて、あなたをジワジワ痛めつけようとしてたけど、私はもう我慢できないの。 私が帰国したのもね、宗太があなたに変な感情を持たないか心配だったからよ。 車の外で聞かせられなかったとしても、別の方法で教えてあげる。あなたなんか、宗太にとってはただの復讐の道具にすぎないってことをね」 和沙は深く息を吸い、静かに彼女を見据えた。 「いいわ。あなたの望み通りにする。宗太はもう、私のものじゃない。放して」 「今なんて言った?」 心美は、何かとんでもない冗談を聞かされたかのように、突然手を伸ばして和沙の髪をガシリと掴み、無理やり顔を上げさせた。 「宗太の復讐は、まだ終わってないのよ。あんたには地獄を見せてやるわ!」 頭皮を引き裂かれるような激痛に耐えながら、和沙は唇を噛みしめた。 「宗太の兄が死んだのって、うちの父のせいじゃない!」 言い切る前に、パァンッという鋭い音が響いた。心美の平手が、容赦なく和沙の頬を打ちつけた。 「彼のせいかどうかなんて、あんたが決めることじゃないのよ!」 心美の目には、狂気じみた怒りが宿っていた。 彼女はスマホを取り出し、とある動画を再生する。 画面には、高校時代の和沙が、いじめに遭って服を脱がされ、水をかけられている映像が映っていた。 「あらあら、哀れねぇ」 心美がスマホを和沙の目の前に突きつけ、その恐怖に引きつった表情を楽しむようににやける。 「当時、私もその場にいられたらよかったのに。でも今日は、もっともっと深く教えてあげる」 そう言って、背後に立つ男たちに目配せをした。 「さっさと服を脱がせて。しっかり写真も動画も撮ってね。後で好きにするとき、忘れず録っといてよ」 そして彼女は、和沙の顎をつかんで無理やりカメラの方向に顔を向けさせた。 「笑いなさいよ。男を誘惑するのが得意なんでしょ?ほら、どうしたの?今は笑えないの?」 そう言いながら、ナイフを取り出し、その冷たい刃を和沙の頬にあて、残酷な笑みを浮かべた。 「ちゃんといい子にしてないと、このナイフ、あなたの顔に跡を残すかもね」 第10話 冷たい刃先が頬に触れた瞬間、過去に受けた苛めの恐怖が和沙を一気に飲み込んだ。 「どいて!」 彼女は突然力を振り絞り、目の前の人物を突き飛ばして、必死に外へと走り出した。 ふらつきながら階段の方へと向かっていく。 ちょうど階段に足をかけようとした瞬間、後ろから追ってきた心美が彼女の腕をがっしりと掴んだ。 そのとき、近くの個室のドアが開き、宗太が姿を現した。 心美は素早くナイフを和沙の手に押し付け、その手を握ったまま、自分の腕を鋭く切りつけた。 「きゃっ!」 心美が苦痛に満ちた声を上げた。 和沙が反応する間もなく、心美は彼女を思いきり階段から突き落とした。 油断していた彼女は受け身も取れず、階段を転がり落ち、額を激しく打ちつけて、すぐに血が流れ出した。 「宗太!」 一方、心美は宗太の胸に飛び込み、泣きながらしがみついた。 「和沙がおかしくなっちゃって、私があなたと結婚するのが羨ましくて、殺そうとしたの!」 彼女は階段下で血まみれになっている和沙を指差した。 「あなたが出てきたのを見て、逃げようとして自分で転んだのよ」 階段下で、必死に起き上がろうとする和沙を見て、宗太の瞳が一瞬だけ揺れた。 彼女を助けに行こうとしたその時、そばにいた心美が弱々しく傷口を見せながら彼にしなだれかかった。 「宗太、痛いの……」 宗太は心美を支え、一瞬だけ虚ろな表情を浮かべた。そして彼女を抱き上げ、階段を下りていった。 和沙の傍を通るとき、その目には冷たい光が宿っていた。 「和沙、君はまだ若いのに、どうしてそんなに残酷なんだ?」 「残酷?」 和沙は顔を上げ、額から流れる血をぬぐいもせずに言った。 「じゃあ、どうして彼女が何をしたか聞こうともしないの?彼女が……」 「もういい!」 宗太は彼女の言葉を遮った。 「俺は自分の目で見たことしか信じない。どうであれ、人を刃物で傷つけるなんて許されない」 そう言い捨てると、彼は彼女に一瞥もくれず、心美を抱いてその場を去った。 和沙は顔を上げ、遠ざかる彼の背中を見つめながら、涙で視界が滲んだ。 そして突然、ふっと笑みを浮かべた。自分は何を期待していたのだろう? もともと、自分なんて宗太にとっては復讐の道具に過ぎなかった。今回の件だって、きっと彼女と一緒に仕組んだ芝居に違いない。 和沙はふらつきながら立ち上がり、ひとりで近くの病院へ向かった。額の傷はすぐに縫合された。ちょうどその頃、彼女のスマホにメールが届いた。 それは、彼女が雇った私立探偵から、父親と宗太の兄の死に関係する証拠についての報告だった。 たとえ自分と宗太との関係がどうなろうとも、父は彼を心から大切にしていた。父が冤罪で傷つけられることだけは、どうしても避けたかった。 帰宅後、和沙は証拠を整理して宗太の書斎に置いた。 そして昼間片付けきれなかった荷物を再び詰め直した。 夜、和沙はうとうととした中で、誰かが自分の頬を撫でるのを感じた。 はっと目を覚ますと、目の前に宗太の顔があった。彼女は跳ねるように身を縮めた。 宗太の手が宙で止まった。 「和沙、怖がらないで。俺だよ。傷、大丈夫?痛くない? 今日のこと、ごめん。でもあのときは、ああするしかなかった。君が心美を傷つけたから」 和沙は無表情のままうなずいた。 「うん。他には?」 その冷たい態度に、彼の胸がきゅっと締めつけられた。 「もう怒るなよ。心美が戻ってきたことで、君に不安を与えたのは俺の責任だ。彼女との関係をきちんと処理できていなかった。 明日、一緒に心美の誕生日パーティーに行こう。そこで彼女との婚約を解消すると宣言する。そして君のお父さんにも正直に話して、俺たちの関係をはっきりさせよう」 和沙は血の滲んだ額の包帯に指先で触れたが、顔には何の感情も浮かばなかった。 つまり、自分を明日連れて行って、本妻が浮気相手を暴くという茶番を演じさせるつもりなんだ。 「もう芝居に付き合うつもりはない。あんたの兄の死は、父とは関係ない」と言おうとした時、宗太のスマホが鳴った。心美からだった。 電話が終わると、彼は少し困ったように彼女を見た。 「和沙、心美の傷が……」 「行けばいいじゃない」 彼女は目を伏せて、淡々と答えた。 一瞬、宗太は動揺した。彼女が怒ると思っていたのだ。実際、もう言い訳まで考えていた。 部屋を出ようとした時、彼はふと不安に駆られ、振り返った。和沙はすでにベッドに横たわっていた。 「和沙、明日の朝、朝ごはん作りに戻ってくるからね」 和沙は何も返さなかった。 もう彼女は泣かなかった。胸も痛まなかった。これが完全に心が死ぬということなのか。 彼女は彼との関係を、終わらせたのだった。 翌朝早く、和沙は荷物の入ったスーツケースを引いて空港へ向かった。 搭乗前、宗太からメッセージが届いた。 【和沙、起きた?今日何が食べたい?】 彼女は静かに長文のメッセージを返した。 【今までの数年間、あなたから受けた傷はもう十分。 今日の浮気現場の芝居は、もう結構だ。 あなたの兄の死は、父とは無関係。事故当時の資料は書斎に置いてある。 父は、あなたを弟のように大切にしてきた。罪悪感じゃなく、心からだった。 どうか彼を傷つけないで。 宗太、別れよう。今後はお互い、幸せに】 メッセージを送信すると、宗太の電話が狂ったように鳴り続けた。 彼女はすべての連絡手段をブロックし、スマホの電源を切って、スーツケースを引きながら搭乗ゲートへと向かった。